ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(26)
g. 「ティリッヒの聖霊論とヘーゲル」
大島末男氏は、「自己から出て自己へ戻る弁証法的運動によって性格づけられる神の生命を象徴するには、三位一体論は最適であり、ティリッヒの三一神論はヘーゲルやシェリングの哲学と構造的に呼応する。さらに古典神学の男性神(天の父なる神)に対し、現代の要請である女性原理を表現するにも三位一体論は適合する」(『ティリッヒ』大島末男著、清水書院、195頁)と述べている。
ちなみに、聖書には「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである」(ローマ人への手紙11・36)と記されている。
周知のように、ヘーゲルの哲学体系はキリスト教に立脚している。「精神は歴史の内部で矛盾対立を克服しつつ理念を実現する」という彼の弁証法は、すべてキリスト教からきているのである。
ヘーゲルの三位一体論について、パネンベルクは次のように述べている。
「ヘーゲルは、まず彼の『宗教哲学』における三一論の取り扱いにおいて、神の一体性は、神的位格の相互関係からまさしく理解されるという考えに立って『位格』の概念を形成した。………『……人格性の真理は、まさしく、没入することによって、つまり、他者の中に没入することによって、獲得するものなのである』。人格の本質が、他の人格への自己献身において存在するという、この深い思索を通して、ヘーゲルは相互的な自己献身の一致として、すなわち、相互的な献身の経過によってはじめて存在する一致として、三位一体を理解した。」(『キリスト論要綱』W・パネンベルク著、新教出版社、210頁)
原理的に言えば、他者との一体化は献身的な真の愛による。
真の愛による神の一体性と三位性について、統一原理は次のように述べている。
「神がアダムとエバを創造された目的は、彼らを人類の真の父母に立て、合性一体化させて、神を中心とした四位基台をつくり、三位一体をなさしめるところにあった。」(『原理講論』三位一体論、267頁)
「神はイエスと聖霊を、後のアダムと後のエバとして立て、人類の真の父母として立たしめることにより、堕落人間を新生(重生)させて、彼らもまた、神を中心とする三位一体をなすようにしなければならないのである。」(同)
西方教会が、父なる神と御子から聖霊が発出すると理解するのに対し、東方教会は、聖霊が父なる神から直接発出すると解釈して対立し、分裂している。
統一原理の三位一体論は、その西方教会と東方教会の三位一体論の〝対立〟を統一する内容があるだけでなく、聖霊を女性神と捉えない欠陥をも是正している。
パネンベルクは、「ヘーゲルの考えは、充分に肉づけされることもなく、やがて忘却されてしまった。けれども、ヘーゲルの考えは、神の一体性と三位性との関係を取り上げた三一論の思弁的な解明として、今日に至るまでの最高峰の一つと言えるのである」(同、210-211頁)と述べている。
統一原理の三位一体論は、充分に肉づけされている。
ところで、大島末男氏は、ティリッヒの聖霊論に対して、次のような危惧を述べている。
「キリスト教神学者としてのティリッヒにとって重大な問題は、キリストとの関係を離れて、新存在と聖霊が理解される危険性がある点である。もちろんティリッヒは、キリストとしてのイエスが新存在と聖霊の働きに関して終極的な規準となることを承認する。しかし西方教会が、父なる神『と御子から』(filioque)聖霊が発出すると理解するのに対し、ティリッヒは、東方教会の伝統に従って、聖霊が父なる神から直接発出すると解釈し、またキリストの出来事を離れて新存在を理解する。とすれば、ティリッヒとハイデガーの関係が再び浮上するが、ティリッヒは聖霊の働きも最終的にはキリストの出来事において透明になると語る。ここにも同一性と差異性の同一性の論理が支配するが、これが哲学(理性)と神学(信仰)という異なるものの同一性を主張する弁証学的神学の意図するところであろう。」(『ティリッヒ』大島末男著、清水書院、181頁)
このように、大島氏のティリッヒの聖霊論に対する危惧は、伝統的な西方教会から見た見解である。
三位一体論について、西方教会の〝キリスト中心主義〟に対する東方教会の〝神中心主義〟との対立がある。この対立する見解を、いかにして統一し、決着をつけるかは、伝統的な三位一体論の概念では不可能であるとティリッヒは指摘している。
パネンベルクも、現代神学の聖霊論に対して「キリスト教の言明は、死せる伝統の断片にとどまる」、「聖書的な聖霊概念に一致することはできないであろう」(『キリスト論要綱』199頁)と批判しているのである。
「神の霊(聖霊)に対する補足論」
a. 「聖霊論に対する現代神学の欠陥」について
パネンベルクは、現代神学の聖霊論の理解と初代教会の聖霊に対する理解とを比較して、〝狭い理解である〟といい、さらに、原始キリスト教における聖霊の特質を理解するためには、旧約聖書における〝神の霊〟の意味にまで遡らねばならないと指摘する。
パネンベルクは、次のように述べている。
「旧約聖書にとって、神の霊は、まず超自然的な認識の源泉といったものではなく、最も包括的な意味における生命の基盤なのである。その際、霊・風・気息などの表象を用いることが、この関連から注目される。おそらく詩篇第104篇は、神の霊の生きた働きについて最も印象的に歌っている。」(『キリスト論要綱』W・パネンベルク著、新教出版社、198頁)
また、神の霊の力ある業について、パネンベルクは次のように述べている。
「創造的な神の霊を特別に授与されることが、英雄の場合、また――少なくとも初期においては――預言者の場合、しかも歌手や画家の場合もまた、特に卓越した活動に必要なのである。神の霊の授与は、常にあらゆる生命の根源がその中にある神の力の特別な働きを含んでいるのである。」(同、198頁)
そして、彼は「聖書の聖霊理解の広さに相応する聖霊論を、現代神学は欠いてはいないだろうか」(同、199頁)と問題を提起している。
b. 「生物学的生命と聖霊との関係」
キリスト教の使信が、死せる伝統の断片にならないように、現代神学に対してパネンベルクは次のように問題点を述べている。
「私たちは今日、あらゆる生命について、その『霊的』根源についても語ることが出来るであろうか。このような語り方が、生物学によって探求されてきた生命現象と生命構造に関していかなる意味を持ちうるのだろうか。あらゆる生命の創造的な根源としての神の霊について、イスラエル人が語ったと同質の何らかの言明が、こうした生命現象の理解に必要であるということを示しうるであろうか。聖霊についてのキリスト教の言明は、こうした問いに答えることによってはじめて、その重要性をふたたび獲得できよう。そうでなければ、キリスト教の言明は、死せる伝統の断片にとどまるか、それとも、いずれにせよ――聖霊が超自然的な認識原理の働きだけに制限されるところでは特に――聖書的な聖霊概念に一致することはできないであろう。」(同、199頁)
このように、パネンベルクは「生命の創造的な根源としての神の霊」と「生物学によって探求されてきた生命現象と生命構造」との関連性について問題を提起し、現代において〝聖霊〟が生命現象の理解に必要であるということを示し得るであろうかというのである。
統一原理は、イエスと聖霊の関係と生命との関連性について、次のように述べている。
「父母の愛がなくては、新たな生命が生まれることはできない。それゆえ、我々が、コリントⅠ一二章3節に記録されているみ言のように、聖霊の感動によって、イエスを救い主として信じるようになれば、霊的な真の父であるイエスと、霊的な真の母である聖霊との授受作用によって生ずる霊的な真の父母の愛を受けるようになる。そうすればここで、彼を信じる信徒たちは、その愛によって新たな生命が注入され、新しい霊的自我に新生(重生)されるのである。これを霊的新生(霊的重生)という。」(『原理講論』キリスト論、266頁)
このように、「愛によって新たな生命が注入され、」と「注入」という言葉が述べられている。
また、文鮮明師は、同じことを次のように語っておられる。
「皆さんが父母から受け継いだ命は、父の精子と母の卵子を受け継いだところから出発したのです。その卵子と精子が一つとなったところに、愛によって根が生まれて発生したのが、皆さんの子女です」(『続・誤りを正す』、世界基督教統一神霊協会編、22頁。注:太字は筆者による)
また、イエスと聖霊によって、「霊的な真の父母の愛」を受け、その愛によって「新たな生命」が注入され、「新しい霊的自我」に新生(重生)されるとある。この新たな生命とは生物学的な生命ではなく、イエスと聖霊の愛による霊的生命である。
このように、新たな生命が生まれることに関して、生物学的次元の精子と卵子の結合のみでなく、「父母の愛」が説かれている点に注視しなげればならない。
この「父母の愛」とは、生命の根源である「神の愛」のことである。文鮮明師は、「その卵子と精子が一つとなったところに、愛によって根が生まれて発生した」と語っておられる。これは、「生物学によって探求されてきた生命現象」と「神の愛」との関係に関する新たな学説となるであろう。
ちなみに、神の愛は「与える原理」であり、サタンの愛は「奪う原理」であるというみ言がある。「愛」(心情の動機)は、精子と卵子にどのような影響を与えるのかを考察しなければならない。生物学や分子生物学は、そこまで論じない。
生命の創造と霊(聖霊)の関係について、聖書には「あなた(神)が霊を送られると、彼らは造られる」(詩篇104・30)とあり、また、「人を生かすものは霊であって」(ヨハネ6・63)とある。
創世記に「神の霊が水のおもてをおおっていた」(1・2)とあるように、神の霊は創造に関与し、さらに「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた」(2・7)とあるように、人間創造にも関与している。
人間は〝小宇宙〟である。神の霊が天地創造に関与しているように、本来においては、女性が子供を生むことは、神の天地創造と人間創造に参与していることになるのである。
マリヤは聖霊によって身重になり(マタイ1・18)、洗礼ヨハネは母の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされていた(ルカ1・15)。
これは、創造本然の女性と聖霊の一体化した状態を示している。霊的な真の母である聖霊が、実体の「真の母」としてマリヤに顕現したのである。
本来、人間の堕落がなかったならば、すべての女性が「真の母」となったのである。ヨエル書は終わりの日に「すべての肉」に神の霊が注がれると約束している(ヨエル2・28-29)。
このように、現代の生物学においては排除されているが、聖書では、産むとか、生命の創造に、神の霊の関与があると記述されているのである。
インドのレーラマ・アティヤル(神学博士、ルター派)は、「聖霊教義理解にとって、霊が『生命を与えるもの』であるということは、生物学的意味においても、心霊的な意味においても、つまり創造に際しても、新たな生れかわりに際しても、強調する必要があるだろう」(『聖霊は女性ではないのか』E・モルトマン=ヴェンデル編、235頁)と述べている。
また、産むとか、生命の創造ということについて、微妙な表現であるが、ティリッヒは「母性的資質」を指し示すと、次のように述べている。
「象徴的な側面から言えば、それは産み、運び、抱擁し、同時に創られたものの独立を抑止して呼び戻し、それを呑み込むという母性的資質を指し示している。」(『組織神学』第3巻、370頁)
結論として言えることは、神の霊と生命現象との関係は〝如何に〟という問題と、同時に、現代神学の最大の問題は〝聖霊が女性であるかどうか〟という問題である。
ティリッヒは、神(究極的存在)から「女性的要素はおおむね排除された」(同、370頁)という現実を述べるにとどまっている。
そして、次のように、キリストは「男性-女性の二者択一を超越する」といい、自己犠牲における平等な参与を語るのである。
「キリストとしてのイエスに顕われたロゴスについて言えば、それは彼の有限な特殊性の自己犠牲のシンボルであって、男性-女性の二者択一を超越する。自己犠牲は男性としての男性の性格でも、女性としての女性の性格でもなく、それは自己犠牲の行為そのものにおいて、そのいずれかを排除することを、否定することである。自己犠牲は両性の対立を破るのであって、そのことは苦難のキリスト像に象徴的に顕われており、そこでは男女両性のクリスチャンたちが、平等の心理的・精神的強さをもって、それに参与しているのである。」(同、371頁)
このように、三位一体の神、すなわち〝父なる神〟というプロテスタントの立場からすれば、聖霊も父なる神であって、神概念に女性的要素があるかないか答えることができないのである。したがって、自己犠牲に参与することにおいて、両性は平等であると論点をずらして答えざるを得ないのである。
ティリッヒは、そのことを十分意識しているのである。
ちなみに、神の霊に関するヘブライ語の「ルァハ」について、ヘレン・シュンゲル=シュトラウマン(神学博士)は、「ルァハは生の息吹(オーデム)、生の力、霊の力、エネルギ-、精神を意味する聖書の言葉である」(『聖霊は女性ではないのか』E・モルトマン=ヴェンデル編、22頁)といい、ルァハが「女性形だ」(同、23頁)と述べている。