Archive for 3月, 2014

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(26)

 g. 「ティリッヒの聖霊論とヘーゲル」

 

大島末男氏は、「自己から出て自己へ戻る弁証法的運動によって性格づけられる神の生命を象徴するには、三位一体論は最適であり、ティリッヒの三一神論はヘーゲルやシェリングの哲学と構造的に呼応する。さらに古典神学の男性神(天の父なる神)に対し、現代の要請である女性原理を表現するにも三位一体論は適合する」(『ティリッヒ』大島末男著、清水書院、195頁)と述べている。

 

ちなみに、聖書には「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである」(ローマ人への手紙11・36)と記されている。

 

周知のように、ヘーゲルの哲学体系はキリスト教に立脚している。「精神は歴史の内部で矛盾対立を克服しつつ理念を実現する」という彼の弁証法は、すべてキリスト教からきているのである。

 

ヘーゲルの三位一体論について、パネンベルクは次のように述べている。

 

「ヘーゲルは、まず彼の『宗教哲学』における三一論の取り扱いにおいて、神の一体性は、神的位格の相互関係からまさしく理解されるという考えに立って『位格』の概念を形成した。………『……人格性の真理は、まさしく、没入することによって、つまり、他者の中に没入することによって、獲得するものなのである』。人格の本質が、他の人格への自己献身において存在するという、この深い思索を通して、ヘーゲルは相互的な自己献身の一致として、すなわち、相互的な献身の経過によってはじめて存在する一致として、三位一体を理解した。」(『キリスト論要綱』W・パネンベルク著、新教出版社、210頁)

 

原理的に言えば、他者との一体化は献身的な真の愛による。

 

真の愛による神の一体性と三位性について、統一原理は次のように述べている。

 

「神がアダムとエバを創造された目的は、彼らを人類の真の父母に立て、合性一体化させて、神を中心とした四位基台をつくり、三位一体をなさしめるところにあった。」(『原理講論』三位一体論、267頁)

「神はイエスと聖霊を、(のち)のアダムと(のち)のエバとして立て、人類の真の父母として立たしめることにより、堕落人間を新生(重生(じゅうせい))させて、彼らもまた、神を中心とする三位一体をなすようにしなければならないのである。」(同)

 

西方教会が、父なる神と御子から聖霊が発出すると理解するのに対し、東方教会は、聖霊が父なる神から直接発出すると解釈して対立し、分裂している。

 

統一原理の三位一体論は、その西方教会と東方教会の三位一体論の〝対立〟を統一する内容があるだけでなく、聖霊を女性神と捉えない欠陥をも是正している。

 

パネンベルクは、「ヘーゲルの考えは、充分に肉づけされることもなく、やがて忘却されてしまった。けれども、ヘーゲルの考えは、神の一体性と三位性との関係を取り上げた三一論の思弁的な解明として、今日に至るまでの最高峰の一つと言えるのである」(同、210-211頁)と述べている。

 

統一原理の三位一体論は、充分に肉づけされている。

 

ところで、大島末男氏は、ティリッヒの聖霊論に対して、次のような危惧(きぐ)を述べている。

 

「キリスト教神学者としてのティリッヒにとって重大な問題は、キリストとの関係を離れて、新存在と聖霊が理解される危険性がある点である。もちろんティリッヒは、キリストとしてのイエスが新存在と聖霊の働きに関して終極的な規準となることを承認する。しかし西方教会が、父なる神『と御子から』(filioque)聖霊が発出すると理解するのに対し、ティリッヒは、東方教会の伝統に従って、聖霊が父なる神から直接発出すると解釈し、またキリストの出来事を離れて新存在を理解する。とすれば、ティリッヒとハイデガーの関係が再び浮上するが、ティリッヒは聖霊の働きも最終的にはキリストの出来事において透明になると語る。ここにも同一性と差異性の同一性の論理が支配するが、これが哲学(理性)と神学(信仰)という異なるものの同一性を主張する弁証学的神学の意図するところであろう。」(『ティリッヒ』大島末男著、清水書院、181頁)

 

このように、大島氏のティリッヒの聖霊論に対する危惧は、伝統的な西方教会から見た見解である。

三位一体論について、西方教会の〝キリスト中心主義〟に対する東方教会の〝神中心主義〟との対立がある。この対立する見解を、いかにして統一し、決着をつけるかは、伝統的な三位一体論の概念では不可能であるとティリッヒは指摘している。

パネンベルクも、現代神学の聖霊論に対して「キリスト教の言明は、死せる伝統の断片にとどまる」、「聖書的な聖霊概念に一致することはできないであろう」(『キリスト論要綱』199頁)と批判しているのである。

 

「神の霊(聖霊)に対する補足論」

 

 a. 「聖霊論に対する現代神学の欠陥」について

 

パネンベルクは、現代神学の聖霊論の理解と初代教会の聖霊に対する理解とを比較して、〝狭い理解である〟といい、さらに、原始キリスト教における聖霊の特質を理解するためには、旧約聖書における〝神の霊〟の意味にまで(さかのぼ)らねばならないと指摘する。

 

パネンベルクは、次のように述べている。

 

「旧約聖書にとって、神の霊は、まず超自然的な認識の源泉といったものではなく、最も包括的な意味における生命の基盤なのである。その際、霊・風・気息などの表象を用いることが、この関連から注目される。おそらく詩篇第104篇は、神の霊の生きた働きについて最も印象的に歌っている。」(『キリスト論要綱』W・パネンベルク著、新教出版社、198頁)

 

また、神の霊の力ある(わざ)について、パネンベルクは次のように述べている。

 

「創造的な神の霊を特別に授与されることが、英雄の場合、また――少なくとも初期においては――預言者の場合、しかも歌手や画家の場合もまた、特に卓越した活動に必要なのである。神の霊の授与は、常にあらゆる生命の根源がその中にある神の力の特別な働きを含んでいるのである。」(同、198頁)

 

そして、彼は「聖書の聖霊理解の広さに相応する聖霊論を、現代神学は欠いてはいないだろうか」(同、199頁)と問題を提起している。

 

 b. 「生物学的生命と聖霊との関係」

 

キリスト教の使信(ししん)が、死せる伝統の断片にならないように、現代神学に対してパネンベルクは次のように問題点を述べている。

 

「私たちは今日、あらゆる生命について、その『霊的』根源についても語ることが出来るであろうか。このような語り方が、生物学によって探求されてきた生命現象と生命構造に関していかなる意味を持ちうるのだろうか。あらゆる生命の創造的な根源としての神の霊について、イスラエル人が語ったと同質の何らかの言明が、こうした生命現象の理解に必要であるということを示しうるであろうか。聖霊についてのキリスト教の言明は、こうした問いに答えることによってはじめて、その重要性をふたたび獲得できよう。そうでなければ、キリスト教の言明は、死せる伝統の断片にとどまるか、それとも、いずれにせよ――聖霊が超自然的な認識原理の働きだけに制限されるところでは特に――聖書的な聖霊概念に一致することはできないであろう。」(同、199頁)

 

このように、パネンベルクは「生命の創造的な根源としての神の霊」と「生物学によって探求されてきた生命現象と生命構造」との関連性について問題を提起し、現代において〝聖霊〟が生命現象の理解に必要であるということを示し得るであろうかというのである。

 

統一原理は、イエスと聖霊の関係と生命との関連性について、次のように述べている。

 

「父母の愛がなくては、新たな生命が生まれることはできない。それゆえ、我々が、コリントⅠ一二章3節に記録されているみ(ことば)のように、聖霊の感動によって、イエスを救い主として信じるようになれば、霊的な真の父であるイエスと、霊的な真の母である聖霊との授受作用によって生ずる霊的な真の父母の愛を受けるようになる。そうすればここで、彼を信じる信徒たちは、その愛によって新たな生命が注入され、新しい霊的自我に新生(重生(じゅうせい))されるのである。これを霊的新生(霊的重生)という。」(『原理講論』キリスト論、266頁)

 

このように、「愛によって新たな生命が注入され、」と「注入」という言葉が述べられている。

 

また、文鮮明師は、同じことを次のように語っておられる。

 

「皆さんが父母から受け継いだ命は、父の精子と母の卵子を受け継いだところから出発したのです。その卵子と精子が一つとなったところに、愛によって根が生まれて発生したのが、皆さんの子女です」(『続・誤りを正す』、世界基督教統一神霊協会編、22頁。注:太字は筆者による)

 

また、イエスと聖霊によって、「霊的な真の父母の愛」を受け、その愛によって「新たな生命」が注入され、「新しい霊的自我」に新生(重生)されるとある。この新たな生命とは生物学的な生命ではなく、イエスと聖霊の愛による霊的生命である。

 

このように、新たな生命が生まれることに関して、生物学的次元の精子と卵子の結合のみでなく、「父母の愛」が説かれている点に注視しなげればならない。

 

この「父母の愛」とは、生命の根源である「神の愛」のことである。文鮮明師は、「その卵子と精子が一つとなったところに、愛によって根が生まれて発生した」と語っておられる。これは、「生物学によって探求されてきた生命現象」と「神の愛」との関係に関する新たな学説となるであろう。

 

ちなみに、神の愛は「与える原理」であり、サタンの愛は「奪う原理」であるというみ(ことば)がある。「愛」(心情の動機)は、精子と卵子にどのような影響を与えるのかを考察しなければならない。生物学や分子生物学は、そこまで論じない。

 

生命の創造と霊(聖霊)の関係について、聖書には「あなた(神)が霊を送られると、彼らは造られる」(詩篇104・30)とあり、また、「人を生かすものは霊であって」(ヨハネ6・63)とある。

 

創世記に「神の霊が水のおもてをおおっていた」(1・2)とあるように、神の霊は創造に関与し、さらに「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた」(2・7)とあるように、人間創造にも関与している。

 

人間は〝小宇宙〟である。神の霊が天地創造に関与しているように、本来においては、女性が子供を生むことは、神の天地創造と人間創造に参与していることになるのである。

 

マリヤは聖霊によって身重になり(マタイ1・18)、洗礼ヨハネは母の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされていた(ルカ1・15)。

これは、創造本然の女性と聖霊の一体化した状態を示している。霊的な真の母である聖霊が、実体の「真の母」としてマリヤに顕現したのである。

 

本来、人間の堕落がなかったならば、すべての女性が「真の母」となったのである。ヨエル書は終わりの日に「すべての肉」に神の霊が注がれると約束している(ヨエル2・28-29)。

 

このように、現代の生物学においては排除されているが、聖書では、産むとか、生命の創造に、神の霊の関与があると記述されているのである。

 

インドのレーラマ・アティヤル(神学博士、ルター派)は、「聖霊教義理解にとって、霊が『生命を与えるもの』であるということは、生物学的意味においても、心霊的な意味においても、つまり創造に際しても、新たな生れかわりに際しても、強調する必要があるだろう」(『聖霊は女性ではないのか』E・モルトマン=ヴェンデル編、235頁)と述べている。

 

また、産むとか、生命の創造ということについて、微妙な表現であるが、ティリッヒは「母性的資質」を指し示すと、次のように述べている。

 

「象徴的な側面から言えば、それは産み、運び、抱擁し、同時に創られたものの独立を抑止して呼び戻し、それを呑み込むという母性的資質を指し示している。」(『組織神学』第3巻、370頁)

 

結論として言えることは、神の霊と生命現象との関係は〝如何に〟という問題と、同時に、現代神学の最大の問題は〝聖霊が女性であるかどうか〟という問題である。

ティリッヒは、神(究極的存在)から「女性的要素はおおむね排除された」(同、370頁)という現実を述べるにとどまっている。

 

 

そして、次のように、キリストは「男性-女性の二者択一を超越する」といい、自己犠牲における平等な参与を語るのである。

 

「キリストとしてのイエスに顕われたロゴスについて言えば、それは彼の有限な特殊性の自己犠牲のシンボルであって、男性-女性の二者択一を超越する。自己犠牲は男性としての男性の性格でも、女性としての女性の性格でもなく、それは自己犠牲の行為そのものにおいて、そのいずれかを排除することを、否定することである。自己犠牲は両性の対立を破るのであって、そのことは苦難のキリスト像に象徴的に顕われており、そこでは男女両性のクリスチャンたちが、平等の心理的・精神的強さをもって、それに参与しているのである。」(同、371頁)

 

このように、三位一体の神、すなわち〝父なる神〟というプロテスタントの立場からすれば、聖霊も父なる神であって、神概念に女性的要素があるかないか答えることができないのである。したがって、自己犠牲に参与することにおいて、両性は平等であると論点をずらして答えざるを得ないのである。

ティリッヒは、そのことを十分意識しているのである。

 

ちなみに、神の霊に関するヘブライ語の「ルァハ」について、ヘレン・シュンゲル=シュトラウマン(神学博士)は、「ルァハは生の息吹(オーデム)、生の力、霊の力、エネルギ-、精神を意味する聖書の言葉である」(『聖霊は女性ではないのか』E・モルトマン=ヴェンデル編、22頁)といい、ルァハが「女性形だ」(同、23頁)と述べている。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(25)

聖霊論

 

(二)「霊的現臨」 ――神の霊(聖霊論)――

 

(A)「人間の精神における霊的現臨の顕現」

 

ティリッヒは『組織神学』の第3巻で、「生」の問いと「聖霊」の答えの相関論を論述する。

聖霊は、曖昧(あいまい)な「生」の中から曖昧ならざる脱自の状態に人間を引き上げる。ティリッヒは「聖霊の臨在」を「神の霊」あるいは「霊的現臨」という。

 

(1)「人間精神における聖霊の顕現の性格」

 

 a. 「人間の精神と神の霊」

 

人間の精神における「神の霊」または「霊的現臨」について、ティリッヒは次のように述べている。

 

「生の一つの次元としての精神は、存在の力と存在の意味とを結合している。精神は力と意味との統一における現実と定義することができる。われわれの経験の範囲では、このことは人間においてのみ起こる。………自分のうちにある力と意味との統一としての精神の経験なしには、人間は『現臨する神』の啓示的経験を『霊』または『霊的現臨』の用語で表現することはできなかったであろう。」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、142-143頁)

 

人間の精神の経験は「神の霊」について語ることを可能にする。「神の霊」は人間の精神の中に宿り、また働くというのである。「霊的現臨」の下における人間の状態は脱自(ecstasy)の状態である。この脱自に関しては「理性と啓示」の項ですでに述べているが、ティリッヒは「啓示の経験」は「救いの経験」の一要素であると、次のように述べている。

 

「霊的現臨は啓示の経験と救いの経験とに脱自的状態を創り出し、人間の精神をして自己を越えさせるが、それの本質的な、すなわち、合理的な構造を破壊するということはしない。脱自性は統合された自己の中心性を破らない。もし破るならば、魔神的憑依(ひょうい)が霊の創造的現臨に取って替わるであろう。」(同、143-144頁)

 

このように、神の霊の現臨は恵みであり、脱的状態を創り出すというと言うのである。しかし、神から離反(疎外)している人間の精神は「神の霊」を自分の精神の中に入るように強いることはできない。生の一つの次元としての人間の精神は、曖昧である。しかし、「神の霊」は曖昧ならざる生を創造すると言うのである(同、144頁を参照)。

 

しかし、上述のように、彼は、脱自は「(精神の)合理的な構造を破壊するということはしない」という。もし破るならば、魔神的憑依が霊の創造的現臨に取って替わると警告する。

統一原理は、霊的現臨と魔神的憑依の分立、すなわち「善神の(わざ)と悪神の(わざ)」の見分け方を説いている(『原理講論』堕落論、120頁)。

 

ちなみに、ガラテヤ人への手紙には「肉の働き」と「御霊(みたま)の実」を対比して、次のように述べている。

 

「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。しかし、御霊(みたま)の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈悲、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。」(ガラテヤ5・19-23)

 

 b. 「精神構造の破壊と脱自」

 

「霊的現臨」の顕示は、古代においても、聖書の記録においても、奇跡的性格を持っている。

ティリッヒは、神の霊の力ある業について、次のように述べている。

 

「霊は身体的効果をもつ。或る人を一つの場所から他の場所へ移動させたり、身体の内部に変化を起こさせたりする。たとえば、身体の中における新しい生命の発生がそれである。また霊は硬質の物体を浸透する。霊はまた通常な性格を越えた心理的効果をもち、知性や意志に対して、人間の自然的能力を超えた能力を与える。たとえば異言(いげん)についての知識、他人の心のもっとも深いところの思いを洞察する能力、一定の距離をおいてさえも病を(いや)す能力等である。」(『組織神学』第3巻、147頁)

 

 C. 「注入という言葉について」

 

「インスピレーションと『注入』(infusion)という二つの言葉は、人間の精神が霊的現臨の衝迫(しょうはく)を受ける仕方を表現している。」(同)

空間的隠喩(いんゆ)をもって霊的現臨の衝迫を記述する言葉が「注入」である。

 

ティリッヒは、「『信仰の注入』(infusio fidei)とか『愛の注入』(infusio amori)とかいう言葉は、『聖霊の注入』(infusio Spiritus Sancti)に由来する。プロテスタント・キリスト教は、この用語について懐疑的であったし、今もそうである。そのわけは、この観念が、後のローマ教会において魔術的-物質的意味に誤用されたからである。霊は実体となり、その実体性は必ずしも中心性をもった人格の自意識によって感知されなかった。それは一種の『物質』(matter)となり、それを受ける主体が阻止(そし)しない限り、秘蹟(ひせき)の執行において、司祭によって伝達された。この非人格的な霊的現臨の理解は宗教生活の客観化となり、免罪(めんざい)()の販売という商取引において頂点に達した。プロテスタント的()()にとっては、霊は常に人格的である。信仰と愛とは霊的現臨の自己の中に中心性をもつ自我への働きかけ、その働きかけの媒体は、サクラメントの執行においても『言葉』である。プロテスタント・キリスト教が霊的現臨の働きかけに対して『注入』(infusion)という言葉を使うことを好まないのは、このゆえである」(同、148頁)という。

 

しかし、プロテスタント・キリスト教は、「注入」について一貫してはいないとも言う。

 

ティリッヒは、「新約聖書、特に使徒行伝、書簡(特にパウロ)の或る節におけるペンテコステまたはそれに類似する物語を読みかつ解釈する時、プロテスタントもまた聖霊の『そそぎ』(outpouring)という隠喩(いんゆ)を用いるのである。………われわれがインスピレーションという言葉を好んで用いたとしても、われわれは実体的な隠喩をさけることはできないからである。息(breath)もまた霊を受ける者の中に入ってくる実体である」(同、148-149頁)と述べているのである。

 

このように「注入」という言葉を使用することに対して、一方でローマ教会を批判するが、他方で、プロテスタント教会に対して、「われわれは実体的な隠喩をさけることはできない」と指摘する。これでは、肯定しているのか否定しているのかわからないのである。

 

統一原理も1ヶ所ではあるが、新生論(重生(じゅうせい)論)において「注入」という言葉を用いている。

 

「聖霊の感動によって、イエスを救い主として信じるようになれば、……新たな生命が注入され、新しい霊的自我に新生(重生)されるのである。」(『原理講論』キリスト論、266頁)

 

 d. 霊的現象(脱自)と「共同体の分裂」について

 

ティリッヒは、主観―客観の構造を超越する脱自は、自意識の次元における偉大な解放の力であると言う。ただし、彼は「霊的現臨」によって創造される脱自の奇跡が、人間の精神構造の破壊をもたらすと理解された場合には、それを否定する。

 

聖書には、「すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい」(ヨハネの第一の手紙4・1)と述べられている。

 

また、ティリッヒは、具体的に次のように述べている。

 

「パウロは、霊の賜物について語り、もし脱自的に異言を語ることが、混乱を産み、共同体を分裂せしめるようなものであるならば、それを拒否している。また個人的な脱自的経験の強調が高慢(こうまん)(hubris)を生み出し、その他の霊の賜物(charismata)が愛(agape)に従わないならば、それをも拒否している。それから彼は霊的現臨の最大の創造物である愛(agape)について論じる。コリント人への第一の手紙13章の愛の讃歌(さんか)においては、道徳的命令の構造と霊的現臨の脱自とが完全に一致している。」(『組織神学』第3巻、150頁)

 

このように、「霊的現臨」による脱自の精神状態は、道徳的命令の構造と一致し、共同体を分裂させることはないのである。この精神構造は、愛として現れたものなのである。

 

 e. 「愛として現れた霊的現臨」

 

次は、愛と霊的現臨の関係についてであるが、ティリッヒは次のように述べている。

 

「信仰が霊的現臨によって(とら)えられた存在の状態であるのに対して、愛は霊的現臨によって曖昧ならざる生の超越的統一へと取りこまれた存在の状態である。」(同、171頁)

「愛は精神のあらゆる機能の中で働いており、生そのものの最深の核に根ざしているということである。愛は分離されているものの再結合への衝動である。このことは存在論的に、それゆえに普遍的に真理である。」(同、171頁)

 

このように、愛と聖霊の関係を存在論的に捉え、愛は分離を統一する力であるというのである。言い換えると、「神の霊」は曖昧ならざる生を創造し、愛は神の霊の現臨によって「生の曖昧な状態」を統一した状態に再結合するというのである。

 

 f. 「聖書的な聖霊概念と統一原理の一致」について

 

統一原理は「イエスは、男性であられるので、天(陽)において、また、聖霊は女性であられるので、地(陰)において、(わざ)役事(やくじ))をなさるのである」(『原理講論』重生論、265頁)と説いている。

 

統一原理は、地における聖霊の業はどのような「感動の働き」をするかに関して、聖書の「コリントⅠ、12章」(知恵、知識、信仰、いやしの賜物、力あるわざ、預言、霊を見わける力、異言、異言を解く力)を挙げ、また「罪の悔い改めの業」「とりなし」(ローマ8・26)に関しても述べている(『原理講論』265頁)。

 

このように、統一原理は、聖書的な聖霊概念と一致している。

 

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(24)

「補足」:「進化論に対する批判」

 

近代になって、正統派キリスト教を悩ました二つの科学の学説がある。それは、ニコラウス・コペルニクス(1473-1543)とチャールズ・ダーウィン(1809-1882)のそれである。

 

それまでの中世の世界観は、地球が宇宙の中心(天動説)であり、そこに人間が君臨しているということであった。ところが、コペルニクスは〝地動説〟を主張し、宇宙は広大で地球は浜辺の砂のように小さいと言った。この事実は人々の発想に大転換をもたらし、「もし神が実在したとしても、この地球と人間が、特に神にとって重要な意味を持っているとどうして言えるであろうか」と考え出させるまでに至ったのである。

 

また、ダーウィンの〝進化論〟は、人間と動物の間に引かれていた一線を取り去り、人間は単に高度に発達した動物にすぎないというのである。

 

〝進化論〟の影響を受けたハーバード・スペンサー(1820-1903)は、人はアメーバーから現代の発達した状態に進化したと言い、さらに、自然法則によって、より完全なものへと向って発展していくと説いた。

そして、正統神学の〝創造神話〟は、ばかげているという。人間は堕落しなかった、人間は単なる動物の一つにすぎないと言うのである。

また、宇宙の年齢に比べると、問題にならないほど短期間に、今日の文明を築き上げ、人間の前には無限の可能性が約束されていると力説した。

 

この進化論に関して反論しておかねばならない。

 

「ダーウィンの進化論は依然として仮説にすぎない」

 

〝進化論〟とは、チャールズ・ダーウィンの『種の起源』(1859年)の出版によって一躍有名になった学説で、その学説(自然淘汰、適者生存)によると、生物は大腸菌のような単純なものから、次々と枝分かれして出現し、最も複雑で高度な存在である人間まで次第に連続的に移行してきたというものである。

 

今日の進化論者はおおむね、生命が神の力を全く受けずに、無生の物質から発生したと考えている。

生物は、どのようにして地球上に発生したのか(生命の起源)、生物の中に多様な種類が存在するのはなぜか(種の起源)。この二つの問題は、そっくりそのまま哲学的な問題となる。

 

それでは、ここで「進化論」について、いくつかの疑問点(批判)を論述しておこう。

 

「生命の起源」について、――現代何も理論と呼べるものはない

 

進化論者は、最初の生命はよどんだ水、あるいは大洋の中で「自然発生」したという。つまり、水たまりに自然に虫がわいたという表現で代表されるように、〝無〟から〝有〟が生じたというのである。しかし、よく殺菌消毒すれば何も出てこない。したがって、自然発生ではない、というのが科学上の事実なのである。

 

米国のプリンストン大学の生物学教授エドウィン・コンクリンは「生命が偶然に発生する確率は、印刷工場の爆発によって大きな辞典ができる確率に等しい」と言っている。

 

「突然変異」について

 

多様な〝種〟は、如何に生じたかということであるが、現代の進化論では突然変異は、宇宙線その他イオン化を起こさせる放射線、細胞内での物質交代、あるいは遺伝子の複製上の誤りなど、環境的な要素によって起きたという。

 

しかし、遺伝子に突然変異的な変化が起きるのはまれで、遺伝子は普通、正確な自己複製を行うのみである。また、突然変異によって新種が生じると言うが、遺伝子の突然変異の99パーセント以上は機能障害をはじめ、何らかの有害な作用を持つことが、今日科学的に明らかにされている。

 

新種を発見したとよく聞くが、「種」という概念が曖昧で、構造や形態に何の変化もないものを、ただ少し大きいか小さいかだけのものを、あるいは色が変わっただけのものを、新種と言っている場合が多い。

 

聖書では、種子を生ずる草とか、這うもの等、その「種類にしたがって」それぞれの生物を創造されたとある(創世記1章)。

その「類」の中に、いろいろな「種」があり、これらは同類のものから変化したと見られる。科学が証明できないのは、一つの類が他の類から進化したということである。

 

生物学はそのことに関して「突然変異」というが、それを裏付ける決定的な事実はない。したがって、人間は決して他の下等動物から進化したものではないと考えられる。聖書がいうように、人間はもともと種類の一つとして創造されているのではなかろうか、ということである。

だだし、神の新しい創造の力が加わることによってAからBに、すなわち、ある種類を基にして、そこから他の種類に突然変異していったと考えられる。しかし自然に、ではない。

 

熱力学の第二法則について

 

熱力学の第二法則によれば、孤立系の中ではエントロピーは増大し、この増大は、秩序が減少する方向へと不可逆的に進行する。つまり、すべての自然の過程は、無秩序が増大する方向へと進むというのである。

換言すると、この大自然の秩序は徐々に崩壊しながら混沌へと進んでいくというわけである。

 

この法則を進化に関連させて考えると、彼らが言うように偶然の作用のみならば、事物はむしろ、ばらばらの方向へ、無秩序、非組織化の方向へ進行するはずである。

このことは、無神論的進化論が自然に単純なものから複雑なものへ、秩序化の方向へと進化していったというのであるが、そのことを、自然法則自体が否定しているということを意味する。

 

したがって、この絶対的なエントロピーの法則に反して、「偶然」が生命を発生させ、それが、より組織化され秩序化されたものへと進化してきた、とは言えないのである。

だが彼らは、事実は進化してきたと言う。しかし、それは彼らの進化に対する理論的説明が虚偽であり、虚構であることを科学的に暴露されたことに対する反論ではなく、ただ進化してきたという事実確認にすぎないというのである。

 

〝なぜ〟という問いに対する答えではない。われわれは、エントロピーの法則に抗して何か他の創造的な力が常に働いて、秩序化の方向へと進んできたと見るのである。AからBに進化する新しい力は、いずこより来るのであろうか。新たな進化する力は、生物自体の内にはない。外から内に入ってきたと考えざるを得ないのである。

 

中間型の不在について

 

進化は、微妙な突然変異の連続的移行であり、生物の化石も類と類の間の変化を表わす連続的なものが発見されなければならない。

けれども、実際において、中間の化石はいまだに発見されていない。

 

キリンの首がだんだん長くなっていったというのは、人間の妄想によるイラストレーションであって、漸次的に進化していったという科学的根拠としての化石はない。

 

進化は、何万年という長い年月がかかって漸次的に進化するといわれるが、化石でなくても、現代の生物は何万年と生命を継代して現代に繋がっているのであるから、その中にAからBになりつつある生物が一つぐらいあってもよいはずである。

しかし、海でも陸でも空でも、世界にある現代の生物において、種類(類)に従いAからAが、BからBが生じ、AからBになりつつある中間の存在者は、一つも存在しないのである。

 

すべて完成した個性体である。つまり、AからAであって、AからBへの進化の連続性は、化石においても、現代の生物においても、見られない。

聖書に、神の創造は終わった(創世記2・2)とあるが、このことと関係があるのだろうか。それにしても、進化する力はいずこから来たのであろうか。

 

「目」について

 

文鮮明師は「目の先祖」と表現してユーモアたっぷりに語っておられたが、まだ物を見たことのない生物は、〝目〟があれば便利であると、どうして知ることができたのであろうか。

目は、角膜、瞳孔、虹彩、神経、筋肉、血管など、多くの複雑で繊細な部分が互いに連結してできているが、これらはすべて、同時に進化しなければならないのである。そして、部分的に発達した〝目〟はむしろ大きな障害となるのである。

 

文鮮明師は、〝目〟について、次のごとく述べておられる。

 

「動物世界では、生まれると時に、まず目が最初に生ずるようになっています。目自体は物質です。目は生まれる前から、太陽があることを知っていたでしょうか、知らなかったでしょうか。物自体である目は何も知らずに生まれてきましたが、太陽を見られるように生まれたということは、目が生まれる以前から、太陽のあることを知っている存在があったことになります。すなわち、目は太陽があることを知っていて生まれたのです。

目自体は、空気があることも,(ほこり)が飛び散っていることも、蒸発による乾燥があることも知らなかったとしても、既にそれを知っている存在があって、目を守るために、(まぶた)が準備されたり、涙腺をもって防備させたりするのです。

結論を言えば、このように、私たちは思惟と存在、精神と物質、観念と実在、有神論と無神論、創造論と進化論、等々の問題を解決することができるのです。したがって、すべては確実に、神によって創造されたということを否定することはできません。」(『祝福家庭と理想天国(1)』、86-87頁)

 

ダーウィンも「種の起源」の中で、こうした点に触れ、彼は、目は多くの「過渡的」な段階を経て進化したと説明している。

しかし、現実の〝目〟を有する動物を調べても、「過渡的」なものは一つも見いだせない。これと同じことは〝耳〟や、無性生殖の生物から有性生殖の生物の進化における〝生殖器〟の発生に関しても言えることなのである。

 

「種の起源」

 

海や陸に棲息する生物、また、空を飛ぶ生物等に〝多様な種類〟があるのはなぜか。

同じ環境の中にあるのに、なぜタコやエビや魚貝類など、無数の形態の相異ができたのであろうか。

馬と牛は、同じ環境のもとにあって草を食べるが、なぜ牛の爪は割れ、馬はそうでないのか。

獲得形質は遺伝しないといわれているが、これらの多様性は単に要不要説、適者生存説、種族保存の本能だけで説明できない。

ゆりやバラや蘭などの草花に、なぜ無数の形と色が存在するのであろうか。人間以外の動物が、それらを鑑賞し()でるであろうか。人間以外にないのである。

同じ環境のもとにある鳥の形と大きさ、色彩等の美しさ、その鳴き声等々の多様性についても、同じ問いが生じるのである。

 

『新創造論』による無神論的進化論に対する指摘

 

統一思想研究院から無神論的進化論に対して、次のような問題点あると指摘されている。

 

「①DNA、RNA、リボゾーム等からタンパク質合成のシステムがいかに発生したか?

②生物のエネルギー源としての光合成のメカニズムや酵素呼吸のメカニズムはいかにして発生したか?

③生物に必要な約2000種の主要な酵素いかにして発生したか?

④細胞分裂のメカニズムはいかにして発生したか?

⑤有性生殖はいかにして発生したか?

これらは、どれ一つをとってみても、自然に発生したとは、とても考えられないものばかりです。」(李相憲監修『進化論から新創造論へ』、統一思想研究院、光言社、61-62頁)

 

以上のごとく、進化は事実であるが、その客観的な事実に対する解釈において、ダーウィンの進化論は、科学的な「事実」と一致しない〝虚偽の解釈〟であるというのである。

 

このような憶測や曖昧な〝仮説〟である進化論を、多くの人々は学校で教育され、信じさせられているのである。

―「補足」の項、以上―

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(23)

(B)「生の自己実現とその曖昧(あいまい)性」

 

次は、「生の過程」は、いかに運動し、いかに発展するか、に関するティリッヒ式弁証法による解説である。

 

彼は、生の過程は「それは自己同一と自己変化と自己への帰還である」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、37頁)という。

すなわち、「生」は「自己同一」(正)――「自己変化」(反)――「自己帰還」(合)と弁証法的に運動し、発展していくというのである。

 

ティリッヒは「生の過程」を次の三つに分析している。

 

(1)「生の自己統一」とその曖昧性

 

「自己統一において、自己同一の中心が確立され、自己変化へと引き込まれ、それがその中へと変化せしめられたものの内容と結びついて再確立される。」(同、37頁)

 

ティリッヒ式弁証法の特徴の一つは、「すべての生には、実在としても、課題としても、中心性がある。」(同、37頁)という点である。この中心性が実現される運動は、生の自己統一という。

 

(2)「生の自己創造」とその曖昧性

 

しかし、現実化の過程は、単に「自己統一の機能」のみではない。「新しい中心を生産する機能」(自己創造の機能)を含蓄しているのである。すなわち、「生」は「自己同一と自己変化」という弁証法的な二つの存在による「内部矛盾」によって働き、生は新しいものへ向かって進むというのである。

 

彼は、この弁証法の運動を「成長の原理」であるという。

 

「自己創造の機能を決定するものは成長の原理である。その成長は自己中心性をもった存在の円環運動の中で行われるし、その円環を越えた新しい中心の創造においても行われる。」(同、38頁)

 

上述のティリッヒの「自己統一の機能」と「自己創造の機能」とは、統一思想的に表現すれば、「自己同一的四位基台」と繁殖の「発展的四位基台」の原理のことである。

 

(3)「生の自己超越」とその曖昧性

 

さて、「可能的なものの現実化する第三の方向は、円環的な方向と水平的な方向とは対照的な方向、すなわち、垂直的な方向である。この比喩は、われわれが自己超越的機能と呼ぶことによって示唆する生の機能を表わすものである。それ自身において、『自己超越』という言葉は他の二つの機能に対しても用いることができる。自己同一から出て、変化を経て、自己同一へと帰ってくる自己統一は、中心性をもった存在内における、一種の内的な自己超越であり、すべての成長の過程において、後の段階は、前の段階を、水平的な方向に超越する。」(同、38~39頁)

 

このように、「生は、その本性からして、それ自身の中にあると同時に、それを越えている」と自己超越を弁証法的に説く。

そして、この自己を超越する生の高揚に対して、ティリッヒは「崇高なるものへの突進」(driving toward the sublime)という語句を用いる。「崇高な」(sublime)、「昇華」(sublimation)、「崇高性」(sublimity)というような言葉は、偉大なもの、荘厳なものへと「限界を越えていく」ことを示すというのである(同、39頁)。

 

このように、ティリッヒは、「中心性の原理の下における自己統一、成長の原理の下における自己創造、昇華の原理の下における自己超越」(同、39頁)について論述するのである。

 

しかし、ティリッヒの「生の過程」の変化・発展に関する弁証法は、科学的にその論理と実在が一致しているかどうかに関して、疑念が表明されている。

したがって、鶏卵や種子などの具体的な例をあげて、彼の弁証法の「成長の原理」、すなわち、(1)「生の自己統一」、(2)「生の自己創造」、(3)「生の自己超越」を検証しなければならない。マルクスの唯物弁証法が検証されなければならないのと同じである。

 

「生の弁証法的記述」に対する問題点

 

マルクス主義は、事物だけでなく、生物や人間も「運動する物質である」と捉える。これに対して、ティリッヒは無機物も有機物もすべて「生の過程」であるというのである。

「星や岩の発生は、その成長や衰微と同様に、生の過程」(同、14頁)であるという。

 

また、次のように、同じ領域で互いに「闘争」するという。

 

「一つの次元の実現は宇宙史内における一つの歴史的出来事である。しかし、それは時間と空間の特定の一点に位置づけることのできない出来事である。永い時代の推移の中で、もろもろの次元が、比喩的な言い方をすれば、同じ領域で互いに闘争する。このことは、無機的次元から有機的次元へ、植物的次元から動物的次元へ、生物学的次元から心理学的次元への推移に関して明白である。これはまた心理学的次元から精神の次元への推移についても真である」(同、31頁)と。

 

ところで、〝闘争〟は明白であろうか。「勝共理論」は次のように述べている。

 

「種子の発芽はその内部の胚芽と種子の外皮がお互いに………相反して闘争しているとは見られない。かえって胚芽は一定期間外皮の保護のもとに成長して、自ら弱化していく外皮の助けをうけて発芽するのである。」(『新しい共産主義批判』、211頁)

 

このように、種子の発芽において相手を排斥する「闘争」という関係は見られない。相手を必要とする「統一」関係のみしか見られない。

ただし、自然界には弱肉強食という〝食物連鎖〟は存在する。しかし、これらの闘争は、マルクス主義が言う「事物は対立物の闘争によって発展する」という法則とは何の関係もないのである。

 

ティリッヒは、へーゲルの弁証法と同様に、すべての存在は内部に矛盾があり、その内部矛盾によって変化・発展し、神から出で、神に帰る過程であると捉え、この過程を「生の過程」として、ティリッヒ的弁証法で論述しているのである。

 

しかし、堕落しているのは人間だけであって、万物ではない。万物には矛盾構造はないと反論しておく。弁証法的構造ではなく、授受法的構造であると。

 

(C)「曖昧ならざる生の探求とそれの予兆としての象徴」

 

ティリッヒは、「生の曖昧性」について、次のように述べている。

 

「すべての生の過程において、本質的要素と実存的要素、創造された善とそれからの疎外とは、互いに合体していて、そのいずれか一方が排他的に働いているということはない。生は常に本質的要素と実存的要素とを含んでいる。これが曖昧性の根源である。」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、135頁)

 

ティリッヒによると、この「生の曖昧性」(矛盾構造)が「曖昧ならざる生の探求」へと発展していくというのである。

 

「精神の担い手としての人間においてのみ、生の曖昧性と曖昧ならざる生の探求が意識にのぼってくる。………自己の内面において、精神の諸機能、すなわち、道徳、文化、宗教の曖昧性として経験する。曖昧ならざる生の探求は、これらの経験から起こってくる。この探求は生がそれに向かって自己を超越する」(同、135頁)

 

この生の自己超越は宗教によってなされ、宗教が曖昧ならざる生を探求するというのである。

 

そして、「曖昧ならざる生の探求」の問いに対する答えについて、次のように述べている。

 

「宗教の象徴性は………三つの主要なシンボルを生産した。それは『神の霊』(Spirit of God)、『神の国』(Kingdom of God)、『永遠の生命』(Eternal Life)である」(同、136頁)

 

この三つのシンボルは、「曖昧ならざる生への探求に対して啓示が与える答えの象徴的表現である」(同、137頁)というのである。

 

第3巻の訳者である土居真俊氏は、訳者後記で、次のように書いている。

 

「ティリッヒの『組織神学』は三巻五部から成っている。第一巻には理性の問題が啓示との相関において、また存在一般の問題が神の問題との相関において取り扱われている。(但し、日本訳では、啓示の問題と神の問題とが上下二巻に分けて訳出されているので、全四巻五部となっている。)更に第二巻においては、実存の諸問題がキリスト論との相関において、第三巻においては生の諸次元の問題が霊との相関において、続いて歴史の諸問題が神の国のシンボルとの相関において取り扱われている。」(同、535頁)