カテゴリー: ブルトマン「現代から見た信仰と実存論的解釈学」

ブルトマンの「非神話化」(現代から見た信仰と実存論的解釈学)(10)

次の聖書の記述も霊的現象である。復活には、イエスの復活と一般の人間の復活問題があるが、霊的復活に関して聖書は次のように記述している。

 

「また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた」(マタイ27・52)。

 

この聖書の記述に関して、「統一原理」(『原理講論』)は次のごとく解釈している。

 

「これは、土の中で既に腐ってなくなってしまった彼らの肉身が、再び原状どおりに肉身をとって生き返ったことをいうのではない。………もしも、聖書の文字どおりに、旧約時代の霊人たちが墓の中から肉身をとって、再び生き返ったとすれば、彼らは必ず、イエスがメシヤである事実を証したはずである。墓の中から生き返った信徒たちが証すイエスを、メシヤとして信じないユダヤ人がどこにいるだろうか。このような聖徒たちに関する行跡は、必ず聖書の記録に残ったであろうし、また今も地上に住んでいるはずである。しかし、彼らが墓の中から生き返ったという事実以外には、何の記録も残っていない」(『原理講論』226-227頁)。

 

このように、聖書には復活した人たちが、その後どうしたのか、また、いつ再び死んだのか(消えたのか)、何も記述されていない。

したがって、この事実は、「統一原理」が述べているごとく、霊眼が開けた聖徒にだけ、しばらくの間、見えた霊的な出来事なのである。つまり、霊の目で見た「霊のからだ」の復活であって、それを記述したものに他ならないというのである。

 

原理的に解釈するなら、旧約時代の霊人達が地上にいるイエスの弟子たちに協助するために霊的に現れた霊的現象なのである。そしてキリストが十字架の死によって三日の後に勝利して支配する霊的世界(パラダイス)に旧約の霊人達が移行する様を復活(墓が開け、再び生き返る)と記述したのである。

 

霊界においては、新約の世界から旧約の世界を見ると薄暗い死んだ世界のように見えるのである。「墓」とは死の世界、すなわち次元の低い霊界を意味し、その世界にいる霊たちは、いわば「生きた死体」のように見えるのである(霊的に生きているが、実は死人のように見えるのである)。だから、「墓から出てきて」とか、「死体が生き返る」と記述したのである。

 

〝生き返った〟とは、霊界において、死の体(霊形体)から生の体(霊、生命体)に復活し、死の世界(旧約の世界)から生の世界、すなわち、新約の世界、イエス・キリストが支配するパラダイス(楽園)へと、キリストに従って、その弟子たちが共に移行することをいう。

 

言い換えると、低い霊界から高い霊界への霊的移行を意味するのである。また、地上において、ブルトマンのいう実存論的な解釈をするならば、復活とは日々復活することを意味し、日常の信仰生活における霊的向上を復活する(生き返る)と解釈することもできる。

 

以上のように、「復活」とは、霊的復活であってバルトが肉体の復活と信じ「信仰告白」するような、驚くべき、奇跡のような出来事などではないのである。

 

ところで、イエスが「生きておられる」ことに対して、トマスは「釘あと」、「わき」腹に指を入れてみないと信じない(ヨハネ20・25)と言ったと述べられている。

 

これも肉体で復活したことを証明したものではない。後から追加したものかもしれないが、死んだイエスが霊的に「生きておられる」ことを強調せんがために、そのような、あえて実証的な記述をしたのである。

復活の事実を、聖書全体から矛盾なく論理的に整合的に解釈するなら、イエスは、現在も肉体ではなく霊的な体で生きておられると言うのである。

 

肉体による復活という信仰的理解(「先行的理解」)で本文に接すると、新約聖書の「使信」を現代人に理解不可能なことがらとしてしまうのである。そして信仰を強要して「知性の犠牲」を強いて躓かせるのである。

「統一原理」の復活論には、次のように論述されている。

 

「復活というのは、再び活きるという意味である。再び活きるというのは、死んだからである。そこで、我々が復活の意義を知るためには、まず、死と生に対する聖書的な概念をはっきり知なければならないのである」(『原理講論』208頁)。

 

バルトは、概念的に論じることを哲学的人間学として排除するが、巨大な量の著作を書いても、生と死について概念が明確ではない。

その結果、神学とは、すでにある神的事実(Sacheザッヘ)に対する追思考であると言うが、復活に関して、かくも盲目的な信仰的理解なのである。そして、その信仰をわれわれに強要するのである。

 

 

「原理的批評」

 

(1)「様式史的方法」――ブルトマンの『共観福音書伝承史』は、マルコ、マタイ、ルカの共観福音書を様式によって整理分類し、共観福音書は客観的に歴史的事実を記述したものではなく、初期キリスト教の信仰の所産であるという。

この『共観福音書伝承史』は、非神話化と実存論的解釈の準備作業をなすものであった。『イエス』において、ブルトマンは史的イエスを復元することはできないと断定する。

 

(2)聖書記者たちの時代の神話的な世界像と神話的な人間像は、その時代と共に、現代のわれわれの前から消え去った。それらは科学的な世界観を持つ現代人には容認できない世界観であり人間像である。

それゆえ、新約聖書の神話を「非神話化」しなければならないとブルトマンは説く。十字架の死と復活というキリストの出来事も、すなわち、救済の中心の出来事も、神話的に語られており、「非神話化」しなければならないという。

だが、それは危険であるとバルトはいう。それらの使信はバルトのいうごとく「信じる」こと以外にないのであろうか。

史的な出来事は肉体の復活なのであろうか、霊的な復活なのであろうか。復活信仰とは何であったのか。今まで信仰的義認(前理解)の下で、間違って解釈していたのではないだろうか。

 

(3)ブルトマンの実存論的解釈は、前期ハイデッガーの哲学であると指摘し、その「先行的理解」の下で、聖書の本文に接しているとバルトは批判するが、そのバルト自身も信仰義認論という「先行的理解」(鋳型にはまった心像)を前提として本文に接しているのではないか。

それでは「本文が語り始める前に口を封じてしまう」のではないか。

 

(4)「統一原理」の堕落論、復活論、終末論、再臨論は、ブルトマン流にいえば、みごとな新しい「非神話化論」であると言える。

果たして、救済の出来事の中心である〝復活〟に対して「信じること」を強要し、「知性ノ犠牲」を強いることが、正しい信仰であり、正しい神認識なのであろうか。ブルトマンは〝否〟と言う。

 

以上のように、ブルトマンの神学は、既存の福音主義神学の破壊と活性化の両面性がある。

そういう意味でブルトマンの非神話化は、「統一原理」を受容可能な神学的精神的環境圏を先に形成するという意味において、〝洗礼ヨハネ的〟な天的使命をもった神学(実存論的解釈学)であったと言えるのである。

 

ただし、『イエス』の中で論述されているように、自然神学を批判している。しかし、ブルンナーが指摘しているように、現在において新しい自然神学が求められているのである。

 

だが、「統一原理」の創造原理を既存の自然神学と同類のものと見なされ、排除されるのではないかと危惧される。

したがって、バルトやブルトマンの自然神学批判を知って、傾聴に値する部分と、躓きとなる部分を抽出して整理分析し、誤ったプロテスタント神学の古い固定化した教義を論破しなければならないのである。それは相手を救済するためであって、真の愛である。

 

「主要参考資料」

『共観福音書伝承史』Ⅰ、Ⅱ、ブルトマン著、加山宏路訳、新教出版社

『イエス』ブルトマン著、川端純四郎・八木誠一共訳、未来社刊

『聖書の伝承と様式』ブルトマン、クンズィン著、山形孝夫訳、未来社刊

『ブルトマン』笠井恵二著、清水書院

『新約聖書と神話論』ブルトマン著、山岡喜久男訳、新教出版社

『新約聖書神学』Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、ブルトマン著、川端純四郎訳、新教出版社

『原始キリスト教』ブルトマン著、米倉充訳、現代神学双書、新教出版社

『歴史と終末論』ブルトマン著、中川秀恭訳、岩波書店

『キリストと神話』ブルトマン著、山岡喜久男・小黒薫訳、新教出版社

『カール・バルト著作集3』教義学論文集「ルドルフ・ブルトマン――彼を理解するための、一つの試み」(1952年)、新教出版社

『近代プロテスタント思想史』ティリッヒ著、佐藤敏夫訳、新教出版社

『二十世紀神学の形成者たち』笠井恵二著、新教出版社

『イエス・キリスト』荒井献著、講談社

 

 

ブルトマンの「非神話化」(現代から見た信仰と実存論的解釈学)(9)

(2)「非神話化」の真意

 

使徒信条の「陰府にくだり」とか「天にのぼり」というようなことを礼拝で告白することにいかなる意義があるのかとブルトマンは問う。このような「神話論的な表象は取り去られるべきであり、今日においていかなる人も、神を天上にある存在として思い浮かべはしない」という。

われわれは、古い意味での「天」(空の上にある天国)とか「陰府」(地の下の世界)などを実際に存在すると信じることはできない。

 

したがって、キリストが陰府にくだり天にのぼったという物語もすでに終結しているのである。また「天の雲に乗ってくる」という再臨のキリストについての待望論や「信徒が空中に引き上げられてキリストのもとにゆく」という期待も現代人にとっては信じがたい事柄であるとブルトマンはいう。さらに、天変地異(宇宙の破壊)というような終末論も終結したと次のように述べている。

 

「パウロとヨハネによれば、終末論的なできごとは劇的な宇宙的破局として理解されるべきではなくて、………繰返し現存するものとして、説教を通してここでいまあなたやわたしに呼びかけるものとして終末論的現在なのである」(ブルトマン著『歴史と終末論』、中川秀恭訳、岩波書店、196-197頁)。

 

「新約によれば、イエス・キリストは終末論的なできごと、神がそれによって古き世界を終らしめるところの神の行為である。キリスト教会の説教において、この終末論的なできごとが常に繰返し現在となるであろうし、信仰において常に繰返し現在となるのである。信仰者にとって古き世界はその終りに達したのであって、彼は『キリストにある新しき被造物』である。何故なら、信仰者自身が『古き人間』としてその終りに達し、今や『新しき人間』、自由なる人間であるという事実と共に古き世界がその終りに達したからである」(同上、『歴史と終末論』196頁)

 

このように、客観的な出来事を否定し実存論的に解釈しているのである。

 

その他に「処女降誕についての伝承と、イエスの昇天についての伝承とは、ばらばらにしか見出されない。パウロとヨハネは、この伝承を知ない」(ブルトマン著『新約聖書と神話論』、山岡喜久男、新教出版社、26頁)とブルトマンは指摘する。

これらが後から付け加えられたとしても、いずれにしても救済の中心的な出来事は神話的であるというのである。

 

以上のように、このようなケーリュグマ(宣教の使信)はブルトマンによれば、その神話的形式のままでは新約聖書の表象は、すなわち、それによって意味され、語られた内容の表現としては、現代人にとって理解できない事柄であると言うのである。そのわけは、神話的世界と神話的人間像とは、その時代と共に、われわれの前から消え去ってしまったからである。

 

われわれは、聖書記者と異なった、新しい近代的な世界像や人間観を持ち、その諸前提の下で必然的に考えざるをえないからであるという。

したがって、新約聖書における救済の出来事の叙述に見られるような「その世界像を、真なるもの」と認めよと言っても、それは無意味であり、不可能である。それを信じるように自己に強いることは、それこそ、「知性ノ犠牲」ということになる。ブルトマンが「非神話化」を主張する真意がここにある。

 

(3)「復活」信仰について

 

バルトは新約聖書の使信を「非神話化」すれば、すべて危険にさらされると見ている。それゆえ次の聖書の復活に関する記述は、バルトによれば、「非神話化」できず、信ずる以外にないというのである。

 

「死人の中からの復活における栄光をも、空間と時間との中で注目し、目で見、耳で聞き、手でふれたという事実に、ケーリュグマがその起源をもつと告白することがケーリュグマには禁じられているという場合はどうであろうか?」(『カール・バルト著作集』3.「ルドルフ・ブルトマン」より、新教出版社、238頁)と。

 

イエス・キリストの十字架の死と復活において、キリストの出来事の全体において告白することが、禁じられる場合、救済の出来事の中心そのものが、キリスト者の信仰そのものが、危うくなってしまうのである。

バルトによれば、復活は「非神話化」すべきでなく、また出来ないが、「信仰告白」として受容すべき事柄であるというのである。それで、キリストの出来事に対する非神話化に反対するのである。

 

だが現代において、「死人の中からの復活」、「肉体による復活」などは信じられない非科学的な出来事である。

例えば、カトリックに入信した安岡章太郎氏は、「これはもう、はっきり言って、いったん死んだ肉体の復活というようなことは、あり得るべきものとは、僕は思わない」(『我等なぜキリスト教徒となりし乎』、安岡章太郎、井上洋治、光文社、89頁)と言っている。

果たしてイエスの復活は、バルトが言うごとく非神話化できない出来事なのであろうか。

 

(4)「統一原理」による復活理解

 

ブルトマンは、復活を客観的な歴史的出来事としてではなく実存論的に解釈している。統一原理はバルトと同様に、これを歴史的客観的な出来事として捉え、その「非神話化」の問題を「非宗教的」(ボンヘッファー的)に論じている。

 

統一原理は、イエスの復活を霊的な出来事として捉え、肉体の復活として捉えていない。このように復活を霊的な出来事として捉えるなら、現代人の理性に矛盾なく容認されるのだが、肉体の復活とバルトのごとく捉えれば、確かに、ただ信ずる以外にない。

だが、神は、われわれ現代人に、そのような「知性ノ犠牲」を強いる信仰を求めておられるのであろうか?

 

この「復活」の事実は、どのように解釈すべきなのか。霊的復活なのか、肉体の復活なのか。

言い換えると、バルトが言うように、「空間と時間との中で注目し、目で見、耳で聞き、手でふれたという事実」を、肉体の復活であると先行的理解をし、その前提の下で本文に接して解釈し、それを信ずべき事柄であると強要すべきことなのか、というのである。

 

このことを記している聖書の前の節には、肉体ではなくイエスの霊的復活体と受け取れる次のような記述がある。

 

「八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って『安かれ』と言われた。」(ヨハネ20・26)

 

これは、イエスの弟子たちがユダヤ人をおそれ、自分たちのおる所の戸をみなしめていた時に起った出来事である。

この聖書の記述は「戸はみな閉ざされていた」ことが強調されているが、それでも、イエスが家の中に入って来られたとある。これは、いったい、どのように理解すべきであろうか。物理的に中に入れない状態であるにもかかわらず、入ってこられたとは!

 

復活したイエスの体とは、聖書がきわめて簡潔・明瞭に記述しているごとく、霊的な体であったのではないか。その霊的な体が、時間と空間の中に現れたのではないかというのである。

したがって、バルトが信仰的理解をするような肉体のそれではないのではないか、ということである。

 

「先行的理解」(信仰的理解)を前提として、本文に接すると「本文が語り始める前にその口を封じてしまうこと」になり、バルトのごとく肉体の復活と解釈してしまうのではないか、というのである。

 

「復活」とは、決して人間の「知性ノ犠牲」を強いるような出来事ではない。聖書に次のごとく、からだには「霊的な体」と「肉的な体」があることについて語られている。

 

「死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、………肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである」(コリントⅠ、15・42~44)。

 

このように、人間には「肉のからだ」と「霊のからだ」があると述べられている。朽ちる肉体では、永遠に生きることはできない。したがって、復活は霊の体であるといえる。もし、肉体で永遠に生きるなら霊の体はいらないであろう。

したがって聖書が記述しているように、人間は死後朽ちる肉体を脱いで、朽ちない霊の体によみがえり、地上界から霊界に行き、そこで「霊のからだ」で永遠に生きるように創造されているのではないか、と言うのである。同様に、イエス・キリストもわれわれ人間と同じであって、「霊のからだ」と「肉のからだ」があったとわれわれは理解することができるのである。肉体の死は罪と無関係である。

 

イエスは、現在も霊界で霊の体で生きておられるというのである。マリヤから生まれたイエスと他の人間とのあいだに、外的に、何か違いがあるのであろうか。ただし、堕落人間と「本然の人間」(真の人間)の相違はあるが。

 

ブルトマンの「非神話化」(現代から見た信仰と実存論的解釈学)(8)

(四)「バルトのブルトマン批判」について

 

(1)「先行的理解」について

 

周知のごとく、バルトにとって、神学の大きな主題とは、それは啓蒙主義との対決であり、西欧文化の領域に確立された理性と経験に基づく新しい世界像や人間像、そして人間理性による聖書解釈に対して、それらと、いかに対決するか、ということにあった。

 

バルトはブルトマンの「非神話化」=「実存論的・人間学的解釈」に、鋭敏に、それと感じ、次のように問いを発し対決に挑む。

 

「新約聖書の理解についての私の問いは、次のようなものである。基準的なものとして確定された不動の表象という前提、つまり読者が、可能であり、正当であり、重要であると考えることが『でき』、したがって理解することが『できる』ことについての『鋳型にはめられた心像』という前提の下で、すなわち規準とされた『先行的理解』という前提の下で、新約聖書本文の真の理解というものがありうるのか?そこでは、新約聖書のケーリュグマの理解において、そこで証言されている神の言葉の信仰的理解が問題であるというのに!」(『カール・バルト著作集3』新教出版社、255頁、「ルドルフ・ブルトマン」より)。

 

ブルトマンの自己理解(前理解)に対してバルトの信仰的理解とは、人間の理性や力、人間側からの努力や行いの一切を否定する信仰義認のそれである。過去のそれではなく啓蒙主義以来の理性や経験や人間の主体性を批判し克服せんとする新しいそれである。すなわち、宗教改革者の伝統を受け継いだ新しい信仰的理解なのである。

 

さて、バルトはまた次のように「先行的理解」について述べ、ブルトマンを批判する。

 

「ある本文の自己開示を心を開いて期待し、忍耐づよく追求するかわりに――その理解可能性あるいは理解不可能性についての基準と限界に関する先行的決断をすでに行った上で、この本文に接近するという場合、はたしてわれわれはその本文を古い時代から、または新しい時代から理解するといったことができるのだろうか?………したがってそれを読んでしまう以前にすでに、その本文において、どこまでその本質的内容ではなくて、ただその歴史的表象内容とだけかかわるのかを知っていると考えるとき、われわれはその本文が語り始めるより前にその口を封じてしまうことにはならないのかどうか?」(同上、236頁)と。

 

バルトが指摘する「先行的理解」(不動の表象、鋳型にはめられた心像)とは「前期のマルティン・ハイデッガーの実存主義」の哲学のことである。これが、つまり、ブルトマンが新約聖書に向かわねばならなくなった時、すでに持っていなければならない「先行的理解」と基準であり、しかもそれは「最高の無謬性で支配する」原理の高さまで高められた基準なのだとバルトは鋭く批判する。

そして、それは「新約聖書の本文にとっては最高に異質的な基準ではないか?」と指摘する。さらにブルトマンの思考の本質はこれであると次のように暴露する。

 

「アウグスティヌスは新プラトン主義的に、トマスはアリストテレス的に、F・C・バウルとビーダーマンはヘーゲル主義的に語ったように、いまやブルトマンはハイデッガー的に語るのである」(『カール・バルト著作集3』252頁、「ルドルフ・ブルトマン」より)と。

 

「彼がそれを用いるのは、ただ道具としてのかぎりである」というが、「一つの哲学的道具に身をあずけてしまうといったことができるかどうかは、まったく別の問題である」(同上、252頁)。

 

それにしても、「偶然に、すべての(あるいは、ほとんどすべての)錠を開けうる一つの鍵となった道具というのは、まったく世にもめずらしい道具である」(同上、252頁)と。

 

以上のように、バルトは鋭くブルトマンの思考の本質を暴露し揶揄する。さらにバルトは彼の信仰姿勢を問題とし、キリストへの信仰的理解(キリスト論的集中)にブルトマンを覚醒させようと次のように述べている。

 

「ブルトマンの解釈を、最高の無謬性で支配している基準、つまり彼の『神話』の概念は、新約聖書の本文にとっては最高に異質的な基準ではないのか?その標準が、ブルトマンが述べた現代の教養の世界に周知のものであっても、あるいはそうでなくても――まさにそれを適用することによって、何が新約聖書の本文において表象にすぎず、主題でないものなのかを勝手にきめてよいのだろうか?だがそもそも、聖書注解者は、先ず何よりも先に、だれに対して誠実と真実をささげるべきなのか?だれに対して責任的応答(verantwortlich)をなすべきであるのか?彼と彼の同時代の人たちの思考の前提に対してか?」(『カール・バルト著作集3』、「ルドルフ・ブルトマン」――彼を理解するための、一つの試み、236~237頁)

 

このように、バルト神学の本質は、すぐれてその論争的言辞がキリスト論的集中として表れる。

 

ところで、バルトは「先行的理解」という実存論的解釈の文言の真相を暴露し、ブルトマンを批判するが、バルト自身もそうなのではないかと指摘できる。

 

バルトは、あらかじめ信仰的理解(不動の表象、心像)という人間の理性や人間学などを否定する「信仰義認論の絶対的原理」で武装し、それに身をゆだね、理解可能性、あるいは理解不可能性についての基準や限界に関して、すでに先行的決断を行った上で、その前提の下で、聖書の本文に接しているのではないか。

 

それでは「本文が語り始めるより前にその口を封じてしまうことにはならないのか?」と逆にバルトに反問したくなる。自己の内部の観念(信仰観)を絶対化し、他の神学者も指摘するように、バルトの異端審問官のような態度には賛成しかねる。

 

「先行的理解」や「前理解」という言葉でもって揶揄して批判し、人間の知性や理性による研究の努力を否定することは問題であると言うのである。

 

バルトの指摘はなるほどと思わせるが、だからといって彼の信仰義認論に賛同しかねる。

上述のように、われわれはブルトマンの側に立って既に反論しているが、バルトも信仰義認という『鋳型にはめられた心像』の下で、それを基準に「先行的理解」をなし、それを前提として、本文に接しているのではないか?

 

このようにブルトマンに向けられた批判と同じ批判をバルトにも向けることができるのである。

問題なのは、現代に対応できない神話的な救済の中心的出来事に対する既成の古い観念や概念や先入観をどうするのかという問題なのである。

ブルトマンは「非神話化」(実存論的解釈)という概念で、それらを再解釈して現代人に聖書の使信を受容可能なものにしようとしたのである。

 

ブルトマン著『原始キリスト教』の訳者、米倉充氏は「非神話化」について、次のように述べている。

 

「非神話化論とは、本来キリスト教信仰そのもの、聖書自体の内的要求に由来するものであり、逆説的には、それがキリスト教信仰の本質に深く根ざしていればこそ、非神話化論が現代的重要性を持っているとも言うことができるのである」(ブルトマン著『原始キリスト教』、米倉充訳、現代神学双書、新教出版社、262頁)と。

 

「内的要求に由来するもの」とは、ブルトマンによると、「新約聖書の内部において、非神話化がここかしこに、すでに、行われているという事実が加わる」ということである(ブルトマン著『新約聖書と神話論』山岡喜久男訳、新教出版社、31頁)。統一原理が出現する必然性がここにあるといえよう。

 

すでに論述したように、ブルトマンはバルトと同様に「本来キリスト信仰そのもの」、すなわち信仰義認の観点で本文に接しているのである。ただし、一方は神の側(和解)から、他方は人間の側(実存)からである。

 

ブルトマンの「非神話化」(現代から見た信仰と実存論的解釈学)(7)

「理性と主体性(実存)」

 

ところで、理性に対するブルトマンの理解は福音主義のそれと異なるところがある。

ブルトマンは、プロテスタント的に人間の罪は道徳的なあやまちではなく自己主張にあるという。そして、神は人間に根源的な問いをつきつける。問いに対する決断(信仰)によって神に召されているという。

笠井恵二氏は、次のようにブルトマンの実存の理解について述べている。

 

「人間の認識能力に対する疑いでもなければ、理性の削減でもない。神を非合理的なものとすることは、神について正しく語ることではない。むしろ、理性をどれほど重視してもしすぎることはない。理性は、理性としての道を最後までつき進むとき、人間に自己の意味を深刻に問うことをさせるのである」(『ブルトマン』、笠井恵二著、清水書院、42頁)

 

このようにブルトマンは、神は神話的世界像のような「非合理なもの」ではないと言い、理性を肯定する。そして、「非神話化」を主張する彼であるが、理性を重視することは、ルター以来の〝信仰〟を根拠とする福音主義神学と矛盾しないであろうか。

 

ブルトマンの神学によると、信仰と理性の関係は相補的であり、「彼はルター派の信仰に立つ者として、聖書の伝える使信をなによりも重んずる。しかしその信仰を深めるということは、理性を犠牲にしてあたまからすべてを信じこむことにではなく、むしろ人間の知性の価値を重視し、主体的に『理解する』ということにある」(同上、『ブルトマン』72頁)と言う。

 

キルケゴールやハイデッガーの影響を受けた彼は、主体的に実存的に歴史とかかわり、イエスの言葉と主体的に対決することを迫るのである。これがブルトマンの実存論的な解釈なのである。

 

だが、「理性」や「人間の知性の価値」を少しでも認めることは、それ自体が、ルターの説く「信仰義認論」に対する痛烈な批判であり、プロテスタントにおける既存の信仰観を破壊するに十分なのである。

この点は、信仰と理性を対立的に捉える福音主義神学から見れば、無視し得ない〝ブルトマン問題〟なのである。

 

「ブルトマンの立場は、バルトと違って、啓蒙主義以来の体験の神学の線上に立っていると言うことができるであろう。ブルトマンの思想においては、イエスはわれわれの体験を顧慮しないで、向う側から与えられる存在ではない。イエスとわれわれとの関係は、われわれ生の体験から生まれてくるところの実存的な質問を軸として展開する」(『キリスト教概論』、浅野順一編、創文社、284-285頁)

 

一方的に、「向こう側から与えられる存在ではない」という点に、現代神学としてのブルトマンの実存論的解釈の意義を認め、われわれはそこに注目する。

 

ルターは、エラスムスの「自由意志論」を批判した彼の名著『奴隷的意志』の中で、「理性は神のあらゆる言やわざを取り扱うことには盲目的で、つんぼで、愚かで、不敬虔で、瀆神的である」(『世界の名著18 ルター』松田智雄編、中央公論社、215頁)と言っている。

 

このようにルターは、理性は神の言葉を扱うのに「盲目的」であると断言する。

 

ルターは、人間側の要素である理性を徹底的に否定し、神の一方的な「恵み」のみを強調する。この信仰義認論はこれで、宗教改革という歴史的状況下で、神の摂理と一致したのであるが、しかしそこにブルトマンの言う「神の言葉」を理解する「自己の実存的な在り方」(諸学の備え)や「関心」(神への問い)や「かかわり」(出会い)などの人間の主体性や理性をうんぬんする余地はない。

 

すなわち、救いにおける人間的な力をルターは一切認めないのである。だが、啓蒙主義を経験した以後の人間であるブルトマンは、理性を否定し、近代精神以前の神学思想に逆戻りすることはできないのである。

 

以上のように、現代の歴史的状況を勘案するとき、ブルトマンは聖書の使信(ケリュグマ――問いかけ、そして約束し、裁き、恵みを与える神の言葉)の理解において、主体的に実存的に「関わる」ことを強調し、理性や人間の側の知性の価値を認めざるを得なかったのである。そして、ルターの時代と歴史的状況が異なった時代に、キリスト教の信仰に基づく、新しい聖書解釈の必要性を説こうとしたのである。

 

ティリッヒは、近代精神の諸原理が「神学に対する批判として十分に確立されたのは、十八世紀になって初めてであった」(『近代プロテスタント思想史』ティリッヒ著、佐藤敏夫訳、新教出版社、5頁 参照)と述べている。

 

ブルトマンもこの神学批判として確立された自由主義神学の立場を勘案する時、過去の時代の迷信(神話)をそのまま容認することができなかったのである。

 

「非神話化に対する賛否両論」

 

ブルトマンの非神話化に対して、次のような批判がある。

 

「非神話化は、現代の世界観を聖書とキリスト教の使信に関する解釈の基準としている。」「現代の世界観と相いれない場合は、なに一つ語れないことになるのではないか」「非神話化は、キリスト教信仰を歴史性のない実存哲学に変化させてしまうものである。」と。

 

これに対して、ブルトマンは次のように反論する。

「非神話化が、現在の世界観を一つの基準としていることは、たしかである。非神話化を行うことは、聖書やキリスト教の使信を全体として、拒否することではなく、聖書の世界観を拒否することである」(ブルトマン著『キリストと神話』山岡喜久男・小黒薫訳、43頁)。

 

また、聖書自体が非神話化していると、次のように反論した。

 

いつまでたっても再臨しないので失望と疑いをひきおこすにいたったので、ヨハネは終末論を現在化したというのである。つまり「彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている」(ヨハネ3・18)と。

このように、終末は時間の終局という意味での未来に展開されるのではなく、現在的なものとして理解されるように非神話化されたとブルトマンはいうのである。

 

「一方パウロはこれと並んで依然として、キリストの再臨、死者の甦えり、最後の審判の古い黙示文学的希望像を固執しているが、ヨハネは、救拯を徹底的に、現在の過程として叙述している」(ブルトマン著『原始キリスト教』、米倉充訳、新教出版社、247頁)と。

 

「歴史的状況と信仰」

 

保守的な信仰者には、ブルトマンの「非神話化は教会の信仰と宣教の基礎と内容に対する壊滅的な攻撃である」(『ブルトマン』笠井恵二著、清水書院、140頁)と受けとめられた。

 

しかし、ゴーガルテンはブルトマンを擁護して、「(非神話化の)意図するところは、キリスト教信仰とその本来の本質を喚起することにある」(同上、141頁)と言った。

 

このように彼の神学は、「破壊」と「本質の喚起」の両面がある。ブルトマンは、彼の新約学の集大成である『新約聖書神学』(1948~53年)において、「キリスト教の規範的教義学というようなものは存在しない」(『新約聖書神学Ⅲ』、川端純四郎訳、新教出版社、64頁、191頁)とまで言い切る。

 

また、「諸時代を通じて神学の連続性は、かつて一度形成された命題を固守するところにあるのではなく、信仰が常に新しい歴史的状況を信仰の根源から理解しつつ克服していく、その絶えざる活動性にこそある」(同上、191~192頁)という。

 

このように、時代の変化と発展に照応した信仰による解釈と神学のあり方を説き、古い命題に固守すべきでないと力説しているのである。

 

以上のごとく、ブルトマンの福音書研究の「様式史的方法」や「非神話化」(実存論的解釈学)は、完全な真理(キリスト)に対して新しい角度から光が投げかけられており、そこに、現代社会に生きる洗礼ヨハネとしての天的使命を彼が持っていたことを、われわれは知るのである。

 

ブルトマンの「非神話化」(現代から見た信仰と実存論的解釈学)(6)

(三)「非神話化」(実存論的解釈)

 

ブルトマンの有名な非神話化は、新約聖書の使信に対する実存論的解釈から生まれてきた。この非神話化論は第二次世界大戦以降に、欧州の神学界において、最大の関心と論議を惹起した。

 

ブルトマンは彼の著『新約聖書と神話論』の中で、「新約聖書の世界像は、神話的世界像である。世界は三階層に編成されているものとみなされる」(ブルトマン著『新約聖書と神話論』、山岡喜久男訳、新教出版社、11頁)という。

 

この三階層の世界とは、神と天使のいる「天界」と、サタンと悪鬼の住む「下界」と、その中間に人間が生活している「大地」があるという神話的な世界像である。このような古い時代の神話的世界像を現代人は信じていない。それでブルトマンは使徒信条の信仰告白の意義はなくなったと次のように述べている。

 

「今日、信仰告白をするものが、この〔使徒信経の〕定式の根底になっている三階層の神話的世界像を、もし信じていないならば、『陰府にくだり』とか、あるいはまた『天にのぼり』ということを、今日告白するのはいかなる意義をもつであろうか」(『新約聖書と神話論』、16頁)と。

 

結論として、ブルトマンは空中にある「天」とか、地下にあるという「陰府」などは存在しない。したがって、文字通りに信じる信仰は終結したと述べている。

 

「いかなる成人も、神を天上にある存在として思い浮かべるものはないであろう。のみならず、もはやわれわれにとって、古い意味の『天』というものはまったく存在しないのである。おなじように、陰府、すなわちわれわれが立っている地表の下方なる神話的下界なるものも存在しない。これをもってキリストが天にのぼり、また陰府にくだったという物語は終結し、天の雲に乗って来るべき『人の子』の待望や、信者が空中に引き上げられて、キリストのもとにゆくという期待も終結した」(同上、17頁)。

 

これはキリスト教信仰から見れば、軽視できないブルトマン問題なのである。

 

歴史的批評的神学に関連して、ティリッヒは、彼の著『近代プロテスタント思想史』の中で、次のように述べている。

 

「特にアルバート・シュヴァイツァーの『イエス伝研究史』を読んで、私は、歴史的問題を真剣に取りあげない聖書主義の不適切さを納得した。この経験のゆえに、私はドイツ教会闘争の期間におけるバルトの影響にもかかわらず、歴史的批評的問題に沈黙したままという態度をとらなかった。バルトは、自己の学派の中でほとんど完全にこの問題を沈黙させた。私がアメリカにきた時、ここの神学者たちもこの問題について心を煩わしていなかった。

しかし真の問題は結局無視しえない。ブルトマンが生み出した爆発は………バルト派がおさえていた問題を表面にもたらしたという事実によるものであった。………爆発が起ったのは、ブルトマンが『新約聖書と神話論』という非神話化に関する論文を書いた時である。もしドイツの神学者たちが――他の神学者もそうであるが――新約聖書の解釈において歴史的研究を無視することができないということを初めから認識していたら、この衝撃はそんなにひどいものではなかったかもしれない」(『近代プロテスタント思想史』、P・ティリッヒ著、佐藤敏夫訳、新教出版社、306頁)。

 

ティリッヒは、1952年に「欧州の神学界の問題は、すでに、バルトからブルトマンに移行した」と講演した。そして、非神話化の議論は今日までより一層の進展と深化を見せ、神学界や哲学界に広汎で深刻な影響を与え続けているのである(ブルトマン著『原始キリスト教』、米倉 充訳、261頁、「解題」より)。

 

原理的に見れば、非神話化は統一原理の終末論、復活論、再臨論を受容可能にする洗礼ヨハネ的使命を担った神学思想であると言えるであろう。

 

この三つの階層とは天界、大地、下界という古代の世界観である。また、そこに住む人間は超自然的な諸力によって支配されていると笠井恵二氏は次のように要約している。

 

「新約聖書の世界は神と天使のいる天界とサタンと悪鬼の住む下界の中間に人間のいる大地がある、という神話的な世界像である。人間の思惟や行動は超自然的な諸力によって支配される。しかしこの神話的世界像に対応するものが救済の出来事の叙述なのであり、これこそが新約聖書の宣教の本来の内容をなすものである。神話的な世界像は現代人には過去のものであるから、彼らにはこのような神話論的な説話をそのまま信じることはできないし、すべきでもない。大切なことは、新約聖書の宣教は、神話的な世界像に依存しない真理をもっているか否かである」(『二十世紀神学の形成者たち』、笠井恵二著、新教出版社、103頁)。

 

現代人の人間観は内的統一を自己に帰し、自己を統一的存在と見ているのであって、人間の思惟や行動は、サタンや悪霊などの超自然的な諸力によって支配されているのではないと見るのである。

 

ちなみにティリッヒは彼の主著『組織神学』で自律と他律について論述し、堕落して神から分離した実存的制約下で、分裂している啓蒙主義の自律と正統神学の他律は、ともに「理性の深層」(神)に根差さないので、相互に争い、相互に破壊し合う。この両者を再統一するのは啓示(神律=キリスト)によるという。

 

ブルトマンによると、神話的な世界像は本来キリスト教独自のものではなく、単なる過ぎ去った科学以前の世界像に過ぎないのである。それで、彼は新約聖書の神話の「非神話化」を主張し、科学時代に生きる人間に、新約聖書の神話の受容を強要することは、「知性を犠牲」にし、「信仰を業(わざ)にまで低めることを意味するであろう」(『新約聖書と神話論』、16頁)と言うのである。

 

したがって、ブルトマンは科学以前の聖書の世界観を「非神話化」し、それを現代の言語で再解釈すべきだと次のように主張するのである。

「新約聖書の神話論を問題にする場合にも、また、その問は、その客観化する表象内容へと向けられるべきではなくて、この表象のうちに現れている実存理解へと向けられるべきである。この実存理解の真理性が問題であり、そして新約聖書の表象的世界に束縛される必要のない信仰こそ、その真理性を肯定するのである」(ブルトマン著『新約聖書と神話論』山岡喜久男訳、新教出版社、29頁)。

 

このように、新約聖書の世界観(三階層)までも信じることではなく、「神話は、宇宙論的でなく、人間学的に、むしろ実存論的に解釈されること」(同上、27頁)であると言うのである。そして新約聖書は「客観的な世界像を与えることには存しない」(同上、27頁)と指摘する。つまり神話的世界像の排除である。

 

われわれは聖書の世界観を古代の宇宙論としてではなく、聖書でいう「天」とは、「地」とは、とその意味を分析して、それらを概念的に明確化すべきだと主張し、「終末」や「復活」、そして「再臨」に関する統一原理の解釈を、見事な「非神話化」として、ここで想起するのである。

 

しかし、ブルトマンは「神話的世界像をば、全体として採用するか、あるいはまた、破棄する以外に方法はない」(同上、26頁)と二者択一を迫り、「非神話化」することを説く。

 

肯定的に評価すれば、ブルトマンの非神話化論は統一原理の終末論、復活論、再臨論は新しい見事な非神話化論であると欧州の神学界や哲学界において統一原理を受容可能にする洗礼ヨハネ的使命を担った神学思想であるということができるであろう。

 

否定面は神の本質や属性など普遍的真理をイエスは語らなかったという主張にある。ブルトマンが否定するのは既存の観念論の哲学体系や神学であるが、統一原理の創造原理も同類と見做される点は注視しなければならない。

 

 

「イエスの先在性」について

 

ヨハネ福音書にイエスの先在性について神話的に語られているが、ブルトマンは彼の名著『新約聖書神学』の中で次のように述べている。

 

「イエスについて、人となった先在の神の子として、神話的形式において語っているこのような記述は、どの程度まで実際に神話論的意味に理解されるべきなのであろうか。それはもっと詳細な解釈によって、初めて明らかにされるであろう。」(『新約聖書神学』Ⅱ、ブルトマン、川端純四郎訳、新教出版社、280-281頁)

 

 

統一原理の中にある非神話化

 

われわれはヨハネ福音書のイエスの先在性に対する非神話化をブルトマンに求めるのであるが、この問題は解かれていない。「詳細な解釈」は「明らかにされるであろう」という指摘にとどまる。

 

イエスの先在性とは、イエスが「アブラハムの生れる前からわたしはいた」(ヨハネ8・58)とか、「世が造られる前に、わたしが(神の)みそばで持っていた栄光」(ヨハネ17・5)とか、「初めに神と共にあった」、「世は彼によってできた」(ヨハネ1・9)と聖書に記述されているこの問題である。

 

この問題は、統一原理(『原理講論』)で次のように解明されている。

 

「世は彼によってできた」とは、ロゴスとしての完成人間、すなわち彼(アダムあるいは第二アダムであるイエス)を“標本”として、「人間は神の形象的な実体対象、万物は象徴的な実体対象」(『原理講論』、48頁)として創造されたという意味である。

 

上述のごとく、人間は無形なる神の形象的な実体対象である。すなわち「神の像」(神の似姿)として創造された。それに対して万物は無形なる神の「象徴的な実体対象」として創造されたのである。言い換えると、万物は人間をモデルとして形象的に創造された。したがって神から見れば万物は象徴的な存在である。しかし人間から見れば万物は形象的な存在であるという意味なのである。

 

「世が造られる前に、わたしが(神の)みそばで持っていた栄光」とあるごとく、イエスは世がつくられる前に存在していたというのである。伝統的神学はこの聖句を字義的に解釈するが、その原理的な意味は被造物を創造する前に、神は構想理想(設計図)を持ち、神はご自身の似姿としてアダム(第二アダムであるイエス)を「言」によってイメージされ、すなわちロゴスによって設計され、そのごとくに造られたという意味なのである。それで、イエス(アダム)は「世が造られる前に」存在していたと啓示されているのである。言い換えると、イエスは無形なる神の実体として顕現されたと解釈するのである。しかしイエスは神自身ではない。

 

「世は彼によってできた」という「 彼」とは第二アダムであるイエスのことである。第一アダムは成長過程で堕落したので神の構想理想は具現化しなかった。それで、言による構想理想を具現化させたのが第二アダムであるイエスである。すなわちロゴスの受肉、言による「理想の完成」(個性完成)である。先に解説したごとく、イエス(アダム)は天地を創造する前に、神の構想理想の中に言として初めからあったのである。それで「言は初めに神と共にあった」(ヨハネ1・1)と啓示されているのである。しかし先に指摘したように、イエスは神自身ではない。

 

ところで、聖書に次のように記述されている。

「どうして人々はキリストをダビデの子だというのか。………このように、ダビデはキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」(ルカ20・41-44)

 

この聖句に対して統一原理は次のように解明している。

「イエスは血統的に見れば、アブラハムの子孫であるが、彼は全人類を重生させる人間祖先として来られたので、復帰摂理の立場から見れば、アブラハムの先祖になる」(『原理講論』「キリスト論」、259頁)。

 

このように、伝統神学が解釈するように、イエスが神御自身であるという意味から言われたのではないのである。

 

同じプロテスタントの信仰義認論から見たバルトとブルトマンとの間に相違がある。バルトはイエスの啓示を神側から、ブルトマンは人間側から解釈しているのである。

統一原理は主体(神)と対象(人間)の授受法からすべての使信を解釈する。聖書の使信を正しく解釈できる人は、罪人(堕落人間)ではなく、第三アダムである再臨のメシヤである。

 

聖書にイエスは「最後のアダム」(コリントⅠ、15・45)とある。したがって文鮮明師を第三アダムであると言えないのではないかという疑念がある。しかしイエスはモーセとエリヤが霊界にいるのを知りながら(ルカ9・30)、個体の違う洗礼ヨハネをエリヤだと言われた(マタイ17・12)。それは洗礼ヨハネがエリヤの復活体であるという意味である。

 

同様に文鮮明師とイエスは、個体は違うが文鮮明師は「最後のアダム」であるイエスの復活体であると言えるのである。またイエスを「第二の人」(コリントⅠ、15・47)とあるので「第三の人」すなわち「第三アダム」とも言える。

 

ブルトマンの「非神話化」(現代から見た信仰と実存論的解釈学)(5)

「原理的批評」

 

「神が命じればすなわち成り、神が要求すればすなわち生じる」と言うが、創造の原理、すなわち科学を無視してなされるのではない。神が創造した宇宙は法則によって運行している。また人間は科学の粋を集めたものと言われている。

したがって天地万物を創造した神は科学者であると言える。「神が世界を無から創造した」「創造思想はユダヤ教においては決して宇宙論的な理論などではなく」というが、確かにユダヤ教は歴史の神であって宇宙論的な理論はない。しかし上述の見解は天地創造の創世記一章に対する非科学的な解釈に過ぎない。

上述のような科学や哲学的な神観に対立した主張を見ると、ブルトマンの神学によって宗教や思想の対立から生じる戦争の危機を解消することはできないといえよう。このような対立をなくして世界平和を実現するために、「今」はギリシャ的な「ヘレニズム」とユダヤ教の「ヘブライズム」の相違を、ブルトマンのように認識して対決することではなく、対立から和解へと一歩前進して、ヘブライズムがヘレニズムを完全に吸収融合して世界を一つにするような、新しい思想が求められているのである。それがすなわち再臨のメシヤ思想なのである。

「宗教紛争の根本原因は本体論の曖昧さにある」(文鮮明師)

「新しい宗教のための本体論は、従来のすべての絶対者が各々別個の神様ではなく、同一な一つの神様であることを明かさなければなりません。それと同時にこの神様の属性の一部を把握したのが各宗教の神観であったことと、その神様の全貌を正しく把握して、すべての宗教は神様から立てられた兄弟的宗教であることを明らかにすることができなければなりません。

それだけではなくその本体論は、神様の属性とともに創造の動機と創造の目的と法則を明らかにし、その目的と法則が宇宙万物の運動を支配しているということと人間が守らなければならない規範も、結局この宇宙の法則、すなわち天道と一致することを解明しなければならないのです」(『天聖経』「真の神様」、79頁)

 

「神性はヘレニズム的な思想」

「神性という思想」はヘレニズム的な思想であるとブルトマンは次のように述べている。

「かくて神自身も神性という思想のもとには観察され得ない。そして神性を獲得するための聖化の禁欲は一切、イエスには当然全く異質でなければならない。というのは神性のようなものはイエスにとっては全く存在しない。これは特にヘレニズム的な思想である。神はイエスにとっては人間を決断の状況におく力、善の要請の中で人に出会う力、人の将来を規定する力なのである」(『イエス』105頁)

神性はヘレニズム的な思想であるという見解に対しては傾聴に値する。キリスト論の考察の一史料となる。

 

「イエスの死と復活」について

また、ブルトマンはイエスの死と復活について次のように述べている。

「ところで、イエスは自分の死と復活、及びその持つ救いの意味について語ってはいない。たしかに福音書の中では、このような内容をもったいくつかの言葉がイエスの口にいれられてはいるが、それらは教団の信仰からはじめて生まれたものである。しかもそれは原始教団から生まれたものではまったく一つもなく、ヘレニズムキリスト教から生まれたものである。何よりも、これらの言葉の中でも最も重要な贖いと晩餐の二つの言葉がそうである。………イエスが自分の死と復活について救いの事実として語ってはいないことは、ほとんど何の疑いもないであろう。もちろんそれは、他人がイエスの死と復活を救いの事実として語ることもできない、というようなことを意味するわけではない」(『イエス』224-225頁)。

 

このように、「イエスは自分の死と復活について救いの事実として語ってはいない」とブルトマンが言う時、われわれはシュヴァイツァーの『イエス小伝』を想起する。原理的に見れば、十字架の死と復活は第二摂理であって、神の第一次摂理である天国創建による霊肉の救済ではない。イスラエル民族がイエスをメシヤであると信じないので第一次摂理が不可能となったので、第二摂理である「霊的救済への摂理の転換」(ゲツセマネの祈りによる決断)であったと見るのである。

イエスの公生涯のほとんど最後に十字架への道が語られる。そうすると、公生涯は一体何であったのかという問題が生じる。周知のように、このような疑念はシュヴァイツァーによるものであった。

 

原理的に見れば、公生涯は第一次摂理を実現するメシヤ運動であった。この第一次摂理(神の国の創建)はイスラエル民族がメシヤであるイエスに対して「絶対服従」していれば実現していた。しかし、イスラエル民族のイエスに対する不信により、イエスを十字架の刑に追いやることで、地上天国の創建は不可能になった。それで神の国の実現は再臨に延長されたと見るのである。したがって、イエスは第一次摂理から見て、自分の死を救いと語られなかったのである。また再臨を約束された所以は、神の第一摂理である天国を実現するためなのである。

 

「シュヴァイツァー」

「神の国を問題にする聖句と、イエスのメシヤ意識を表言する聖句とは、実際、ともに徹頭徹尾終末論的性格を帯びているのである」(『イエス伝研究史』(上)、白水社、10頁)。

シュヴァイツァーはこのように考察した後で、「イエスは、その死後はじめて、イエスのよみがえりを信ずる信奉者たちの信仰にもとづき、信奉者たちにとってのメシヤとなったのである」(同上、10頁)と述べている。

そして「人々は、イエスのメシヤ性をあくまでもイエスの秘密とし、イエスの死後はじめてこの秘密が知らされる、という仕方でしか、処理できなかったのである」(同上、11頁)という。

このように「イエスのメシヤ性は、じつにイエスの復活にもとづいていたのであって、地上の活動にもとづくものではなかった」(『イエス小伝』、102頁)と断定している。

このシュヴァイツァーの『イエス伝研究史』と『イエス小伝』が、R・ブルトマンに大きな影響を与えていると言えよう。

 

ブルトマンは「イエスが赦しをもたらすのは、言葉においてであってそれ以外ではない」(『イエス』230頁)と述べて、彼の著『イエス』の最後を締めくくっている。

十字架の死が贖罪であるならイエスは「おし」でよかったことになる。これはイエスの言葉が救いをもたらすという主張と矛盾する。ブルトマンは「イエスにではなくケリュグマに関心を集中する」が、現在のブルトマン学派は「イエスにすでにケリュグマと同じ実存理解が含まれている」(『イエス』237頁、あとがき)とする。

 

「結婚や家庭の原理」について

ブルトマンは結婚や家庭の価値について次のように述べている。

「イエスは結婚や家族が人格性や共同体に対して持つ価値を語らない。成程結婚した者に対しては結婚の聖なること、解消すべからざることを語る(マタイ5・31、32、ルカ16・18)」(『イエス』107頁)。

 

ブルトマンは、イエスは結婚や家庭の価値を語らないと言うが、それは彼の主観的解釈である。したがって、そのすぐ後に結婚が聖なること、解消すべきでないことを述べざるを得ないのである。

イエスは「結婚」や「家庭の原理」を次のように語っている。

「創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」(マタイ19・4~6)と。

 

ただし、イエスは独身男性であって、結婚して家庭をもたれなかったが、上述のように「家庭の原理」について語られ、その他に聖書には、新郎新婦の話や小羊の婚姻について記述されている。

 

ブルトマンの「非神話化」(現代から見た信仰と実存論的解釈学)(4)

ブルトマンと同様のことを、文鮮明師は次のように語られる。

「最近人々は神様の属性について、神様は絶対的であり、全知全能であり、遍在し、唯一無二であり、その次に永遠不変だと言うのです。しかし、絶対的で何をするのですか。唯一だとして何をするのですか。神様が唯一なのと、私たちとは何の関係がありますか。大きな問題です。全知全能ならば何をしますか。何の関係があるというのですか。永遠不変ならば何をしますか。神様自身にはいいですが、私たち人間には何ら関係がないならば、それは邪悪なことになるのです。必要ないのです。盲目的な信仰は、できないというのです」(『天聖経』「真の神様」66頁)。

 

ここで語られている「盲目的な信仰」とは、神様は全知全能であるから、自然法則を無視して何でもできると信じる信仰のことである。しかし、神は全知全能ではあるが、ご自分が立てた法則を、自分勝手に壊してなされることはない。神は愛で法を治められるのである。

ところで、神は人間にどのようにかかわるのか。ブルトマンは歴史の出会いで「服従の倫理」を説く。しかし文鮮明師は同様に服従を説かれるが、イエスと同様に神の愛による自然屈伏を説かれるのである。

 

「神様も愛の前には絶対服従である」

神様の属性について、神様は絶対的であり、全知全能であり、遍在し、永遠不変だ、というが、私達と何の関係があるのかと言うのです。

文鮮明師は、神様は全知全能であるが、一つだけ思いどおりにできないものがあるといわれます。それは何だと思いますか。

神様は、「お金がつくれないのでしょうか。ダイヤモンドがつくれないのでしょうか。力がないのでしょうか。全知全能なる方が一つだけ思い通りにできないものがあるというのです。それは何ですか。愛だというのです。愛です」(『天聖経』「真の神様」66頁)。

 

「世の中に存在するものの中で、神様と相対になる力はありません。神様は全知全能であり、絶対的だからです。または永遠不滅の自存の方が神様です。そのような神様が願われるものがあるとすれば、何だと思いますか。お金でもなく、知識でもなく、権力でもない、その何を願っていらっしゃるのかというのです。神様が絶対に必要とするものがただ一つあります。それは人間に絶対に必要なものであると同時に、神様にも絶対に必要なもの、真の愛です」(『天聖経』「真の神様」69頁)。

 

原理的に見れば、愛は一人で生じない。愛は相対を通じて来る。「神様も愛の前には絶対服従である」といわれる。全知全能なる神様お一人で、どうするのかと言うのである。神様は、愛の対象として人間を創造された。すべての存在者の中で、神様に完全に相対できる存在は人間だけである。しかし、人間が堕落することにより、「人間と関係を結ぶべき神様の愛は、人間と関係を結ぶことができずに、人間から離れるようになり、全被造世界から離れるようになりました」と語られている。

 

上述のブルトマンの実存論的解釈は、自然神学、自然哲学を否定し、神認識は信仰からという福音主義神学と一致する解釈である。「イエスにとって、神は思惟や思弁の対象ではない。」「イエスにとっては形而上学的実在でも、宇宙的な力でも、また世界法則でもなく」というが、これは先に指摘したごとく、ブルトマン式の「実存的に自己理解された見解」なのである。言い換えると、すでに自然神学を否定するという先行理解をしたうえで、信仰義認の視座から見た見解なのである。

 

イエス様の福音の中心は何であろうか。それは、文鮮明師が言われるごとく、真の愛なのである。神は愛であり、愛で天地を治められる。

 

ところで、ブルトマンは、いつまでも古い教義を固守すべきでない、時代の変化発展に照応した新しい信仰観をもつべきであるというのであるが、この点は傾聴に値する。

 

「神を存在論的に叙述することへの弁証」

ブルトマンによると、イエスは神の支配と神の意志の使信をもたらしただけであって、「今は決断の中にある」と終末論的に悔い改めと決断を促す。ブルトマンはイエスの使信を実存論的に解釈し、イエスの倫理は「服従の倫理」であると新しい信仰観を説く。

 

ここでわれわれは、ユダヤ・キリスト教の神は「歴史の神」(啓示する神)であってギリシャ哲学のような存在論的に神概念を説く見解と対立することを想起する。このブルトマンのような自然神学を否定する見解は新正統主義と見做される。

 

神に導かれて歴史を生きてきたイスラエル民族に対して、イエスは神の存在を証明する必要性はないのである。言い換えると、イスラエル民族に対して、神の本質、神の属性、宇宙的な力、神の永遠性や普遍性などについて、ギリシャ哲学のような哲学理論や新しい神観を説く必要性はないのである。しかしキリストの使信をギリシャやローマのような異邦人に宣教する時には、哲学的に新しい神観や普遍的真理を語る必要性が生じるのである。

 

ところで、上述のように、ブルトマンは神の本質や神の属性などに関する哲学理論についてイエスは語らなかったと述べ、それらを排除する。しかし、紛争や戦争を平和的に解決しようとする時、現代において新しい神観や哲学理論が求められるのである。したがって再臨のメシヤ思想は、全ての宗教と思想を統一する新しい神学思想の体裁を備えた理論体系として出現するに相違ないというのである。

 

繰り返えして言うならば、ブルトマンのように哲学的理論や新しい神観を排除して、「神は憐れみ深く、恵み深い」、「今、決断の中にある」と説くだけで、神を信じる現代人は少ないであろう。現在においては、神の存在を否定する唯物論や無神論を批判・克服する新しい有神論的な理論体系が要請されているのである。神の愛と慈悲を説き、キリスト者以外の宗教や思想を持つ人類を救済しようとするなら、この点は指摘するまでもないことであろう。

 

バルトと自然神学論争をしたブルンナーは、『自然と恩寵』(1934年)の中でバルトに対して次のように反論していた。

 

「偽りの自然神学はこの最近の世紀のプロテスタントの思想………に非常な損害を与えたし、そしてまた偽りの自然神学は、今日も教会を脅かして死に至らせようとしているということである。確かに、これらの点に関してわれわれの間には意見の違いはない。この偽りの自然神学に対しては、すべての情熱と力と慎重さを総動員して戦わなければならないということを、カール・バルトほど明瞭に教えた者はいない。しかし、教会は一方の極端から他方の極端に走ってはならない。………正しい自然神学へ立ち返ることこそ、われわれの時代の神学の課題である。そして、そこで私は絶対的にこう確信する。この課題は、バルトの否定から遠く離れて、全くカルヴァンの思想の側に立つことである。もしこのカルヴァンという大先生に、もっと以前に問い合わせていたなら、われわれ弟子たちの間でこのような争いは決して起こらなかったであろう。今は、われわれが怠っていたものを取り戻すべき大切な時である。」(『カール・バルト著作集2』174~175頁、「自然と恩寵」より)

 

確かに、カルヴァンは彼の著『キリスト教綱要』(第五章「世界の構造と統治の中に明白な神認識」)の中で自然神学を肯定している。「今」は、われわれが怠っていたものを取り戻すべき「大切な時」なのである。

 

「ブルトマンの主張」

「神は世界の成立のもとであるような原理とか、思惟によって見通されるような起源ではなく、また世界の出来事のありとある形体の中に内在してこれに形相を与える力とかあるいは世界法則などでもなく、まさに創造者的な意思なのである。神が命じればすなわち成り、神が要求すればすなわち生じる(詩33・9)。その栄光のために神は世界を創造した………神は創造者である。これは神が手もとにあった材料に形相を与えたということではなく、神がその意思によって世界を創造したということである。後期ユダヤ教では、神が世界を無から創造したとはっきり言われるほどにこの考えは純粋に展開された」(『イエス』137頁)。

 

「創造思想はユダヤ教においては決して宇宙論的な理論などではなく、人間がその全存在において神に依存しているという信仰の表現であり、神の前に被造物であるという自覚の表現なのである」(『イエス』142頁)。

 

「世界説明の思想という性格は、ユダヤ教の創造信仰にはまったくない。それは人間が世界におけるその現実のすべてにおいて神に依存しているという自覚の表現なのである」(『イエス』162頁)。

 

「神は世界の成立のもとであるような原理とか、思惟によって見通されるような起源ではなく、また世界法則などでもなく、まさに創造者的な意思なのである」というが、人間創造は創造の原理(成長過程)を無視してつくられたのではない。

 

既存神学は、アダムとエバは塵から一瞬のうちにへその緒のない成人として造られたという。しかし、イエス様は、マリヤの胎中から生まれ、幼少時代を経て成人となられた。

すべての存在は神の意思によって生じたのであるが、非科学的に一瞬に人間を成人として創造されたのではない。人間創造には成長期間があったことをイエス様の成長過程がわれわれに原理的に示している。

他の被造物も同じである。

イエス様の誕生と成長過程は宇宙論的な神の創造原理であり、全被造物の創造過程を原理的に示している。

ブルトマンは後期ユダヤ教では、神が世界を無から創造したというが、無からは何も出てこない。天地を創造した神は科学者である。ブルトマンの主張は因果法則を無視した非科学的な主張以外の何ものでもない。

 

ブルトマンの「非神話化」(現代から見た信仰と実存論的解釈学)(3)

「自身の実存の解釈」(イエスに対する「服従の倫理」) 

ブルトマンによると、これがイエスの教説であるとか、イエスの思想であるという時、それは福音書に対する「自身の実存の解釈」なのであるという。そのことに関して次のように述べている。

 

「従ってイエスの教説とかイエスの思想とか言うとき、それは誰にでも納得出来るような普遍妥当的理想的思想体系という意味ではない。そうではなく、思想というとき、それは時の中に生きている人間の具体的状況と切り離せないものとして理解されている。すなわちそれは、動きと不確実性と決断の中にある、自身の実存の解釈なのである・・・・歴史の中で私達にイエスの言葉が出会う時、私達は哲学的体系からしてその言葉の合理的妥当性を判定してはならない。その言葉は、私達は私達の実存をどのように把握しようとしているか、という問いとして私達に出会うのである」(ブルトマン著『イエス』、15頁)と。

 

このように「普遍妥当的理想的思想体系」でなく、教説や思想は「人間の具体的状況と切り離せない」、「動きと不確実性と決断の中にある」、「自身の実存の解釈」なのであるというのである。一言でいえば、プロテスタントの信仰義認論から見たブルトマン式の解釈であるといえよう。

 

山岡喜久男氏は、実存論的解釈について次のように解説する。

「われわれにとっては、自然を観察するように歴史を客観的に観察することではなく、歴史と自己との邂逅Begegnungが重要である」(ブルトマン著『キリストと神話』山岡喜久男・小黒薫訳、125頁)。「歴史の観察でなくて、イエスに邂逅し、実存的にそのイエスの語りかけを聞こうとする接近の仕方」(同上、126頁)である。

 

また、ブルトマンは『イエス』の「日本語版への序文」で次のように語っている。

「歴史の真の理解は、いつでも歴史との出会いにおいて実現されます。その出会いにおいて歴史の求めに耳を傾けるのです。その意味はこうです。つまり歴史を理解しようと願う者は、自分自身についての理解を、歴史の中で出会う自己理解の諸可能性に照らして疑ってみる覚悟がなければならないということです。それは、そうすることによって自分自身についての理解が解明され、豊かにされるためであります。こうしてその人は歴史との対話の中にはいりこみ、歴史の求めはその人に決断を要求するのであります。歴史の認識とともに自己の認識が形成され、成長していきます」(ブルトマン著『イエス』川端純四郎・八木誠一共訳、未来社刊)。

 

上述の「歴史との出会い」とは、イエスとの出会いであり、イエスはその人に悔い改めと決断を要求する。

「人は悔改めへの呼びかけによって決断を要請され、彼が選ばれた人々に属するか、滅びる人に属するかは、決断においてあらわになるのである」(『イエス』50頁)。「神の支配は全く将来でありながら現在を全面的に規定する力なのである。それは人間に決断を強制することによって現在を規定する」(同、54頁)。

 

「神の支配は全く将来でありながら現在を全面的に規定する」といい、決断へと呼びかける信仰とは、「服従の倫理」である。そのことに関してブルトマンは次のように述べている。

 

「イエスの倫理も一切のヒューマニズム的倫理や価値倫理と厳しく対立する。それは服従の倫理なのである」(『イエス』86頁)。「人間社会の理想が人間の行為にとって実現されるところにも見ない」(同、86頁)。「いわゆる個人的倫理あるいは社会的倫理はイエスにはない。理想や目的という概念はイエスには異質である」(同、86頁)。「すなわち性格の強さや人格的品位の思想にではなく、服従の思想、自己主張の断念という思想に基礎づけられている」(同、114頁)。

 

イエスに対する「服従の倫理」は信仰の本質であり、それは人格的品位などの人間の内面性を云々することではない。バルトも近代神学について「ただ人間の精神や心や良心や内面性だけを問題にする人は、本当に神を問題にしているのか、人間の神化を問題にしているのではないか」(カール・バルト著作集4、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』新教出版社、153頁)と批判し、神学はずっと以前から人間学になってしまっていると言っていたことを想起する。

自己主張を否定する文鮮明師も「真の父母様宣布文」で、統一家の伝統と信仰は服従であると説かれていた。この信仰(服従の倫理)は新しい信仰義認(「信義」)、あるいは12使徒らのイエスに対する「侍義」(絶対信仰、絶対愛、絶対服従)であると言えるであろう。

 

原理的に見れば、決断とか服従は人間の5%の自由意志に属する責任分担である。このブルトマンのイエスとの出会いによる「服従の倫理」は、神に対する信仰は人間の意志による決断ではなく「和解」によるというバルト神学と対立する。

 

ところで、彼は、イエスの「服従の倫理」(神中心主義のヘブライズム)と人間中心主義のヘレニズム(ヒューマニズム的倫理や価値倫理)を厳しく対立させている。

 

しかし、現在において神の願いである世界平和を実現するためには価値観の対立を明確にするだけでなく両者の統一が求められている。したがって再臨のメシヤ思想は「理想や目的という概念」を排除せず、ヘブライズムとヘレニズムの両者の価値観を統一するような新しい「理想や目的という概念」を原理的に体系化したものであるに相違ない。ただし再臨のメシヤの思想に出会うなら、決断を要請されるのは初臨と同じであろう。

 

「宇宙には愛がないところがない」「愛によって遍在される」(文鮮明師の御言、『真の神様』より)

しかし、ブルトマンは哲学的理論や形而上学的神観や神秘主義を次のように排除する。

「イエスにとって、神は思惟や思弁の対象ではない。イエスは世界を理解し、それを統一体として認識するために神観を求めたりはしない。したがって神は、イエスにとっては形而上学的実在でも、宇宙的な力でも、また世界法則でもなく、人格的な意志、聖なる恵み深い意志なのである。……イエスは神について普遍的な真理や教説によって語りはしない。むしろ神は人間に対してどのように在るのか、神は人間にどのようにかかわるのかということを述べる、そのようにのみ語る。従ってイエスは神の属性について、その永遠性や不変性等について対象的に語るのではない。ギリシャ的な思惟はこれらによって神の彼岸的本質を描こうと努めていた。神は憐れみ深く、恵み深いということをイエスはしばしば言っている(ルカ6・36、マルコ10・18)。しかしそれによってイエスは、ただ人間がその自分の現実においてどのように神を体験するかということを語っているだけであり、人間に対する神の行為を語っているだけなのである。しかもそれは、イエスが遠い、秘密に満ちた形而上学的な神の本質と、この本質の現れとしての我々に対する神の行為とを区別しているという意味ではない。……したがってイエスは、新しい神観についての知識や神の本質についての啓示をもたらしたのではない。イエスは来たらんとする神の支配と、神の意志の使信をもたらした」(『イエス』154~155頁)。

このようにブルトマンは「イエスは、新しい神観についての知識や神の本質についての啓示をもたらしたのではない」と断言し、イエスは「神は人間にどのようにかかわるのか」ということだけを語ったというのである。

 

しかし、イエスは「あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来るときには、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」(ヨハネ16・12)と語っておられる。

真理の御霊が「あらゆる真理に導いてくれる」とは、ブルトマンの解釈に反し、イエスが語り得なかった「新しい神観」や「神の本質」などについても語られると解釈することができる。

 

ブルトマンの「非神話化」(現代から見た信仰と実存論的解釈学)(2)

ブルトマンによると「福音書は拡大された祭儀聖伝である」と次のように述べている。

 

「宣教が告知するキリストとは史的イエスではなく、信仰と祭儀のキリストである。キリスト宣教の前面に立つのは、それゆえ、信仰において告白され、洗礼と聖餐において信仰者に働く、救済の事実としての、イエス・キリストの死と復活である。つまり、キリスト・ケリュグマとは祭儀聖伝であり、福音書は拡大された祭儀聖伝である」(『共観福音書伝承史Ⅱ』加山宏路訳、新教出版社、274~275頁)。

 

つまりブルトマンによると、「福音書記者は伝承を自由に駆使しながら、完全に信仰という一点からイエス像を構成している」(『聖書の伝承と様式』ブルトマン、クンズィン著、山形孝夫訳、未来社刊、79頁)というのである。

 

このように、共観福音書は史的な関心を持って書かれた伝記書ではないのである。そして宣教の対象であるキリストは、史的なイエスではなく、信仰と礼拝の対象としてのキリストであり、宣教と礼拝に役立てるための「初期キリスト教」(ヘレニズム的キリスト教)の神学の所産であるというのである。

 

以上のように、ブルトマンの「『共観福音伝承史』に使用せられた様式史的方法は、世界の学界に注目せられたが、この研究は、史的イエスの研究にも画期的な帰結を齎らし、明らかに非神話化と実存論的解釈の準備作業をなすもの」(ブルトマン著『キリストと神話』山岡喜久男・小黒薫訳、124頁)と言われている。

 

「福音書はキリスト祭儀とキリスト神話を前提しており、ヘレニズム・キリスト教が創造したものだからである」(『共観福音書伝承史Ⅱ』、加山宏路訳、新教出版社、277頁)。

 

ブルトマンの『共観福音書の研究』(1930年―共観福音書伝承史の縮刷版)より

「福音書記者たちが使用した伝承素材(Traditionsstoff)と彼らの編集上の加筆(redaktionelle Zusatze)との間に区別をつけるということである。このような課題は、主としてヴェルハウゼンによって認識され、K・L・シュミットによって組織的に究明された。……本来の伝承は小さな個々の独立した断片(言葉あるいは短い物語)から成っていること、またそれら個々の断片を大きな文脈へと連結する場所とか時間の指示は、すべて福音書記者の編集操作によるものであることが明瞭になった。彼らは、(こうした操作に必要な)類型的移換法を有し、個々の場面の背景とかイエスの全生涯の枠組みをつくりだすために、いわばかなり限定された演出資料(Regie‐Material)を自由に駆使する。すなわち、『家』、『山』、『海浜』とか、『舟の中』、『旅の途上』、『食事の客』、『シナゴグにおける礼拝』のイエスといった状況がそれである。群衆、敵対者、供の弟子たちの登場なども図式的である。こうした福音書記者たちの編集活動に関して、わたしは『共観伝承の歴史』(Die Geschichte der synoptischen Tradition, 1921, 1957)において総括的に論究したつもりである。」(『聖書の伝承と様式』、ブルトマン、クンズィン著、山形孝夫訳、未来社刊、23~24頁)。

カトリック教会でも1964年に、パウロ六世のもとで教皇庁聖書委員会が、「福音の歴史的真実性に関する指針」を発表し、編集史的方法と様式史的方法を福音書研究に適用することの必要性を公認した。

 

 

(二)ブルトマンの『イエス』(「イエス像は信仰の所産」)

 

ブルトマンは1936年に出版した『イエス』において、「私達はイエスの生涯と人となりに就いて殆ど何も知る事が出来ない」(R・ブルトマン著『イエス』、川端純四郎・八木誠一共訳、未来社刊、12頁)と断定し、福音書の記述から史的イエスを復元することはできず、福音書をとおして得られるのは「ヘレニズム的キリスト教」の中で成立した信仰の所産である「キリスト像」(教団の宣教した一つの像)であると主張し、人々に大きな衝撃を与えた。

 

ブルトマンは『共観福音書伝承史』の縮刷版といわれる『共観福音書の研究』(1930年)の中で、「イエス伝の全体的枠組が、編集上の操作とみなされること、従ってわれわれが詩や造形美術や、あるいは教会的慣習にもとづいて、イエスの生涯の一場面として信じてきた一連の代表的場面は、ことごとく福音書記者の創作として明らかにされる」(『聖書の伝承と様式』、ブルトマン、クンズィン著、山形孝夫訳、未来社刊、26頁)と断定している。

 

実際、ブルトマンが彼の著『イエス』の序論で、人間自身が歴史の一部であり、中立的観察者でありえないというように、福音書の記述がすべて客観的歴史的なものと言えるかどうか、疑問が持たれるのである。

ブルトマンは「ヨハネ福音書」(90年代後半)に関しては、「イエスの宣教の史料としては全然問題にならず……全く顧慮されなかった」(R・ブルトマン著『イエス』、未来社刊、16頁)と言い切る。

 

次の文章はブルトマンの共観福音書に対する批判的分析の結論である。

 

「共観福音書における種々の層の分解は先ず次の事実から出発する。すなわちイエスと最古の教団は、その場をパレスチナに持ちアラム語を語ったのに、これらの福音書はヘレニズム的キリスト教内部でギリシャ語で著されたということである。ゆえに共観福音書の中で、言語上または内容上の理由から、ヘレニズム的キリスト教の中で成立したとしか考えられないものは、イエスの宣教の史料にはならない。しかし批判的分析は、これら三つの福音書の本質的内容が、最古のパレスチナ教団のアラム語伝承からとられたことを示す。……この最古の層に属する言葉が、事実イエスによって語られたものだという保証は勿論ありはしない」(R・ブルトマン著『イエス』、未来社刊、16~17頁)と。

 

最古の層もイエスの言葉である保証がないなら、確かに憂鬱である。しかしブルトマンはヘレニズム的キリスト教の「信仰と神学の所産であるもの」から、一片の伝承に出会うという。そしてその断片の複合体の中に、真のイエスの思想を捉えるのである。そのことに関して次のごとく述べている。

 

「イエスの人となりに関心をもつ人にとっては、憂欝(ゆううつ)もしくは破壊的である。しかし私達の目的にとっては本質的な意味をもたない。なぜなら、伝承のあの最古の層の中にある思想の複合体が私達の叙述の対象だからである。それはさしあたり過去から私達に届いた一片の伝承として私たちに出会う。私達はこれに問いかけながら歴史との出会いを求めるのである。伝承はこの思想の所持者をイエスと名ざしている」(『イエス』17頁)。

 

このように、信仰によって神格化されたイエス像を一掃して、真のイエス・キリストを把握し、イエスの思想を叙述しようとするブルトマンの『イエス』は、福音書を実存論的に解釈したものであると言われている。

 

ブルトマンの「非神話化」( 現代から見た信仰と実存論的解釈学)(1)

ルドルフ・ブルトマン(Rudolf Bultmann, 1884-1976)はドイツのプロテスタントの神学者。文学様式による分類方法と原始キリスト教団の「生活の座」(ジッツ・イム・レーベン)から、新約聖書の資料を分析し、福音書を研究する方法(「様式史的方法」)を確立した創始者の一人。また新約聖書の非神話化を主張し、実存論的解釈を提唱する。

 

(一)ブルトマンの『共観福音書伝承史』(「様式史的方法」)

 

ルドルフ・ブルトマンは、歴史的・批評的神学から出発して『共観福音書伝承史』(1921年)を出版し、すでにヘルマン・グンケル(1862-1932)によって旧約聖書の文学的研究で用いられていた「様式史的方法」を福音書の研究に用い、新約学に画期的な業績を残した。

福音書における様式史的研究方法は、先にM・ディベリウスとK・シュミットが確立していたが、ブルトマンはこれらをさらに深化させて、独自の研究の成果を上げた。

 

様式史的方法とは、記述の重なり合うマルコ、マタイ、ルカの共観福音書を様式によって整理分類し、そのもととなる資料(Q資料)を推定する作業のことである【註①】。現代の福音書研究のほとんどすべては、この様式史的方法を発展させたものである【註②】。

 

その研究の結果、「イエスに関する伝承は種々の異なった『様式』を伴って言い伝えられており、それらの伝承様式の背後に、それらを生み出した伝承の『生活の座』(Sitz im Leben)として原始教団の意図的業が確認される」(『イエス・キリスト』荒井献著、講談社、54頁)と言うのである。

 

すなわち、「はじめに教団(宣教、ケリュグマ)ありき」ということであり、共観福音書(AD68~85年頃成立)は、客観的に歴史的事実を記述したものではなく、初期キリスト教団の信仰の所産であるというのである【註③】。

 

ブルトマン著『共観福音書伝承史』より

「様式史研究が単なる美学的考察でなく、また単に記述と分類の手続きに留まらない、とのDibeliusの主張に、わたしは全面的に同意する。すなわち個々の伝承片を美学的ないしその他の特徴に従って記述したり、分類したりすることが、様式史研究の課題ではないのである。むしろその課題は、それらの伝承片の成立と歴史を再編成することによって、成文化以前の伝承の歴史を解明することにある。このような課題の理解は、ある共同体の――それゆえ、また、原始キリスト教会の――生活の凝縮したものとしての文学が、その共同体のきわめて特定的な生活の表現および必要の中から生まれたということ、そしてそれらは一定の文体(Stil)、様式(Form)、および文学類型(Gattung)を生み出した、という認識に基づいている。特質を異にする様々の祭儀であれ、また労働、狩猟、あるいは戦争であれ、すべての文学類型は固有の〈生活の座〉(Sitz im Leben) (Gunkel)を持つのである。この“生活の座”は個々の歴史的事件ではなく、共同体の生活における典型的な情況ないしその行動様式なのであるが、<類型>ないし<様式>――それによって個々の伝承片は一つの類型へと分類される――も美学的概念ではなく社会学的概念なのである」(『共観福音書伝承史Ⅰ』加山宏路訳、新教出版社、11頁)

 

 

【註①】

「様式史的方法」

 

「問題は、なぜマルコが『福音』を『福音書』の中に、すなわち信仰告白をイエスの生涯全体の中に取り戻そうとしたのか、なぜマタイとルカがマルコのイエス・キリスト像に――Qその他の資料を導入しながら――改変の手を加えたのか、ということである。その結果、当然のことながら、彼らのイエス・キリスト像には多様性が出てくる。にもかかわらず、彼らが伝統をただ形式的に墨守(ぼくしゅ)せず、新しいイエス・キリストを像型したのは、彼らの時代の状況の中でイエス・キリストの意味を主体的・歴史的に問い直そうとしたからにほかならない」(『イエス・キリスト』荒井献著、講談社、492頁)

 

Q資料とは、「現在文章の形で残っているものではなく、マタイ福音書とルカ福音書に共通するイエスの言葉から、その存在が仮定的に推定されているものである」(同上、53頁)。

1945年に発見された『トマスによる福音書』には、「Q資料」と重なるイエスの言葉が多く含まれている。「語録資料」とは、「資料」を意味するドイツ語Quelle(クヴェレ)の頭文字をとって「Q資料」と呼ばれている。

 

「福音書の中でマルコ福音書が最古の時代に著わされ、マタイとルカは……マルコ福音書を資料とし、イエスの言葉についてはマルコ福音書とは別の『語録資料』(Q資料)を資料として、これにマタイとルカにそれぞれ固有な『特殊資料』を加えて、それぞれ福音書を著作した」(同上、53頁)

 

したがって、イエスに関する最古の資料は「マルコ福音書」と「語録資料」(Q資料)の二つである。これを二資料仮説という。

 

「後世のキリスト教思想に影響を与えたのは……ヨハネ福音書と、とりわけパウロあるいはパウロ系の手紙とに表出されたイエス・キリストである」(『イエス・キリスト』荒井献著、講談社、492頁)

 

なぜそう言われるかといえば、イエスの死と復活以後、救いが十字架の死による贖い(十字架贖罪)にあるという教団側の主張を、ヨハネとパウロがより反映しているからである。その点は、例えば、最古のマルコ福音書からマタイ、ルカ、ヨハネと時代が進むに従って、十字架上のイエスの口に新しい言葉を付加し、教団側の主張が正しいという根拠を、それによって得ようとしていることから窺えるからである。

 

マルコ福音書では十字架上のイエスの言葉として、ただ一つだけ、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15・34)と記している。

だが、この言葉は神に見捨てられた絶望の叫びと受け取られ、十字架の予定説の否定として受け取られかねない。それで、ルカとヨハネは、漸次的に、もっとふさわしい言葉をイエスの最後の言葉として、その口に次のように付け加えたのである。

 

ルカは「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23・34)と、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(同23・46)をイエスの言葉として付加した。

 

また、ヨハネは「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」および「ごらんなさい。これはあなたの母です」(ヨハネ19・26)と、「わたしは、かわく」(同19・28)、そして「すべてが終った」(同19・30)と記し、十字架が予定であり、救いが勝利的に完結したと受け取れる言葉をイエスの口にのせたのである。

このように新しいものほど、より教団側の意図を反映していると見なされるのである。

 

【註②】

「編集史的方法」

 

「編集史的方法」とは、「福音書記者たちが個別伝承を編集していく作業に着眼し、そこから彼らに固有な思想(イエス・キリスト理解)を確定していかなければならない(のであるが)、その際……福音書記者たちが採用した伝承部分(伝承句)と、彼らがそれらに手を加え、それらを結合していった編集部分(編集句)とを区別しなければならない。そして、この編集部分を手掛かりとして福音書記者の思想を分析・再現する方法のことを、我々は『編集史』的方法と呼ぶ」(『イエス・キリスト』荒井献著、講談社、384頁)

 

【註③】

「福音書編纂の歴史的背景」

 

「福音書の著者たちは、わたしたちが歴史について考えるほど、歴史に関心をもっていなかったことを、福音書研究は明らかにする。過去をなんとかして保存しようとの意図はみられない」(『現代キリスト教入門』W・E・ホーダーン著、日本基督教団出版局、272頁)

聖書「正典」の編纂の意図は――「二、三世紀の正統教会がマルキオン派やグノーシス派の『異端』による教会分裂の危機から自らを守るためにとった手段」(『イエス・キリスト』荒井献著、講談社、488頁)に他ならない。

 

マルキオン(100-160年頃)は、「特定の福音書によりながら自己のイエス理解を排他的に主張する人々……その代表的な例がマルキオンとその党派であろう。彼は旧約聖書の『義なる』神を新約の『善なる』神によって止揚し、『律法』を排して『信仰のみ』の立場(いわゆる「パウロ主義」の一形態)を押し出した。そしてその手段として、10通のパウロの手紙(テモテ、テトス、ヘブル書を除く)とパウロ主義の立場から短縮・改竄したルカ福音書とだけを『正典』とし、神の子キリストの肉体性を否定、処女降誕、復活信仰を捨てたのである」(同上、484頁)

 

マルキオンと同様に、グノーシス主義の一派ではイエス・キリストは肉体を持つ存在として降臨したのではないという。初代教会は、これらマルキオンなどの異端と闘わねばならなかった。

 

以上のごとく、統一原理の立場は、キリストの肉体性を否定、処女降誕、復活信仰などに関して、キリスト仮現説を主張するマルキオンのごとく、それらを捨て去ろうとするのではない。また、正統派信仰のように、非科学的にそれらの出来事を盲信することでもない。

 

次に、グノーシス主義についてであるが、グノーシスとは、ギリシア語で「認識」「知識」を意味し、人間は本来的自己(魂)を「認識」することによって救済されると主張する。

また、「旧約聖書の律法を放棄し、マルキオンと同様に、イエスの処女降誕、肉体による復活を否認したのである。グノーシス派がよった聖書は、パウロの手紙とヨハネ福音書、とりわけトマス福音書であった」(同上、484頁)

 

初代教会の最大の危機はこのグノーシスの異端との闘いであった。

正典に関して、――カトリックとプロテスタントは、新約聖書は同数(27)で、配列も同じである。旧約聖書において、プロテスタントは39の書物、カトリックでは46の書物を有する。

カトリックに含まれ、プロテスタントに含まれない7つの書物はカトリックで第二正典といい、プロテスタントは外典と呼んでいる。その7つとは、トビト記、ユディト記、マカバイ記Ⅰ、マカバイ記Ⅱ、知恵の書(ソロモンの知恵)、シラ書(集会の書)、バルク書(エレミヤの手紙を含む)である。ただし、そのほかに、エステル記とダニエル書の補遺を付け加える。

 

ブルトマンの復活信仰の理解について、――ブルトマンにとって「復活節の出来事は、決して史的な出来事ではない」(『ブルトマン』笠井恵二著、清水書院、107頁)

彼にとって、復活説の信仰とは、「宣教の言葉こそが正当な神の言葉であるという信仰である」(同上、107頁)。つまり復活は客観的な出来事ではなく、イエスの語ったことばを信ずるところにあるというのである。換言すると、「この信仰が発生した史的な出来事が初代の弟子たちに対してそうであったように、よみがえった者の自己証言、十字架の救済の出来事をそこで完成せしめる神の行為を意味するのである」(同上、107頁)という。

 

これがブルトマンの復活信仰の理解であり、復活を歴史的出来事と理解しているのではない。これに対してバルトはイエスの肉体の復活を歴史的な客観的な出来事として捉え、それを信ずべき出来事だという。統一原理は復活を歴史的出来事と理解するが霊的な出来事、霊的からだの復活であると解釈する。

 

多様なキリスト像について――「現在、『イエス・キリスト』と言っても、それはきわめて多様である。このことは、同じキリスト教が、ローマ・カトリック教会、コプト(エジプト)・シリアなどの国民正教会、ギリシア(およびロシア)正教会、英国国教会、プロテスタント教会などの諸教派に分かれており、これらの教派においてイエス・キリスト理解(広義のキリスト論)が異なっている事実を見れば明らかである。さらに、諸教派のうちにプロテスタント教会に至っては、その中に無数の分派が存在し、各派がそれぞれ独自のキリスト論を主張する」(『イエス・キリスト』、荒井献著、講談社、483頁)