ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(22)
(4)「生の諸次元とその関係」
a. 「無機的および有機的領域における諸次元」
ティリッヒは、無機的なものは物質として取り扱われてきたが、「無機的なものの神学」(theology of inorganic)は欠如しているという。
それで、ティリッヒは〝単純〟なものから〝複雑〟なものへと漸次的に発展してきたその各次元について、「現象学的」に記述する。彼の現象学的記述とは、理論的な説明や推論をする前に、与えられたままの実在をそのまま記述することをいうのである。
現象学的な記述を基盤とした理論的説明や推論、すなわち、原理的見解では、神は初めに〝ロゴス〟でアダムを構想されたと見る。しかし、創造は、素粒子から原子、分子、そして植物、動物、人間(最終目的)と、〝単純〟なものから〝複雑〟なものへと段階的に発展させながら創造されたというのである。これを、「創造論的進化論」という。
この創造の過程から、鉱物、植物、動物、人間の階層構造を分析すれば、人間は、すべての存在の〝性相〟と〝形状〟の総合実体相(小宇宙)であると知り得るのである。
ところで、ティリッヒは、すべての存在者の第一条件は無機物であると、次のように述べる。
「無機的次元は、それがすべての次元が現実化する第一条件である限りにおいて、諸次元の中では優先的位置を占めている」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、23頁)。なぜなら、「基礎的条件が消滅するならば、存在のすべての領域は解体する」(同)からである。聖書にも、「あなたは……ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから」(創世記3・19)とある。
確かに、無機的次元が第一条件である。この同じ認識を、統一原理では「人間を創造するにあたって、有形世界を感得し、それを主管せしめるようになさるために、それと同じ要素である水と土と空気で肉身を創造された」(『原理講論』83頁)と述べている。
次に、有機的次元、すなわち有機的生は植物的領域と動物的領域という二つの次元があり、さらに動物的領域にはもう一つの次元として生の自覚、すなわち精神的なもの(the psychic)が現われているという。
この「有機的次元は自己関係的・自己保存的・自己増殖的・自己継続的諸型体(「生ける総体」)によって特徴づけられている」(『組織神学』第3巻、23頁)というのである。
上述の事柄を言い換えると、植物や動物や人間は、孤立して存在するのではなく、他者との関係存在であり、自己保存的・自己増殖的・自己継続的諸型体であるというのである。
ところで、無機的なものから有機的なものが如何にして発生したかに関しては、議論が決着しないまま残っている。科学的で客観的であろうとするティリッヒは、「『最初の細胞』は或る特殊な神の干渉である」という主張に対して、「生物学は超自然的な原因性を拒否(する)」(『組織神学』第3巻、24頁)と述べている。
そして「有機的なものの次元は本質的に無機的なものの次元の中に現存し、それの実際的な発現は種々の条件に依存する。その諸条件を記述することが生物学や生化学の課題なのである」(同)と主張する。
しかし、現象学的記述を根拠とした理論的な推論の一つである唯物的進化論が主張するように、生命は、環境的な物資的諸条件が整えば〝自然発生〟するというのであろうか。また、AからBに進化する力は、いずこより来るのであろうか。進化する力は、生物自体の内にはない。したがって、われわれは、進化する力(入力)は、外から来たと考えざるを得ないのである。しかし、生物はどのようにして地球上に発生したのかという「生命の起源」の問題は、未だ決着していない。
次に、ティリッヒは「植物的次元から動物的次元への推移、特に個が自分自身を『内的に知覚する』(inner awareness)という現象への推移の問題に対して………潜在的には自意識はすべての次元に現存するが、現実的には、それは動物的存在の次元においてのみ発現する」(同)という。
そして、さらに次元の高い段階の記述に進み、ティリッヒは「内的知覚の想定を、………高等動物に限定することが賢明であるように思われる」と述べ、「内的知覚の次元、すなわち心理学的領域は、自分自身の中にもう一つの次元、すなわち人格的―社会的次元、または『精神』(spirit)の次元を実現する。現在人間の経験の及ぶ範囲内においては、それは人間においてのみ起こった」(『組織神学』第3巻、24頁)と述べている。
このように、ティリッヒの現象学的記述は、暗々裏に進化論を否定しているといえよう。
ちなみに、ティリッヒは、彼の著『信仰の本質と動態』の中で次のように述べている。
「進化論と神学との闘争は、科学と信仰との闘争ではなく、ある種の科学と、ある種の信仰とのあいだの闘争であった。それは人間から人間性を奪い去る信仰を内に秘めた科学と、聖書の直解主義によって神学的表現を歪められた信仰との、闘争であった。聖書の創造物語を昔あるときに起こった事件の科学的記述と解する神学が、方法的、科学的研究と衝突することは自明である。また先行の生命形態から人間の発生を解釈して、人間と動物との質的区別を認めないような進化論は、科学ではなくて信仰であることもまた自明である。」(ティリッヒ著『信仰の本質と動態』、谷口美智雄訳、新教出版社、104頁)
「科学と信仰との闘争ではなく、ある種の科学と、ある種の信仰とのあいだの闘争であった」という主張は傾聴に値する。
ただし、「聖書の創造物語」を文字通りに「6日」で創造したと信じ、それは科学的記述であると解する神学に対して、「聖書に記録された創造の過程が、今日、科学者たちの研究による宇宙の生成過程とほぼ一致するという事実を知ることができる」(『原理講論』75頁)と科学的に解釈し、「6日」を「創造過程の六段階の期間を表示したもの」であり、したがって「この記録が神の啓示である」(同、76頁)と主張する統一原理は、相違している。
一方は似非科学であり、他方は真の科学的解釈である。
b. 「生の一次元としての精神の意味」
ティリッヒは、精神の次元は人間のみに現われ、精神は「霊魂」(psyche)、「心」(nous)、「理性」(logos)などに関係づけることが望ましいという(『組織神学』第3巻、28頁)。しかし、「霊魂」(soul)という言葉は心理学の中から失われてしまった。現在の心理学は「霊魂」不在の心理学であるという(同)。
また、心という言葉は生物の意識を表現し、意識と知覚と志向性を含んでいる。自意識は、動物の次元に現われ、「それは知性と意志と方向づけられた行動とを含んでいる」(同、29頁)という。
また、理性の概念は、すでに「理性と啓示」において論述されているが、「ロゴス的構造をぬきにしては、精神は何事をも表現することができない」と述べ、「推理の意味における理性は、認識的領域における人間精神の一つである」(同)と述べている。
このように、進化を「生の過程」と表現し、人間の精神(心)までを現象学的に記述し、最後に精神の次元の段階で〝究極者〟への関心となると説いていくのである。
c. 「それに先行する諸次元との関係における精神の次元」
ティリッヒは、人間が出現するまでの先行する諸次元について、次のように述べている。
「生の新しい次元の出現は………ある条件群が無機的領域における有機的領域の出現を可能にする。………それは神の志向的創造性の下における、すなわち、神的摂理の下における自由と運命との相互作用の問題である。むしろ問題は、いかにして潜在的なものの現実化がある条件群から起こるかということである。」(同、30頁)
「無機的次元から有機的次元へ、植物的次元から動物的次元へ、生物学的次元から心理学的次元への推移に関して明白である。これはまた心理学的次元から精神の次元への推移についても真である。」(同、31頁)
このように、ティリッヒは「生の過程」の明白な事実を現象学的に記述するのである。
d. 「精神の次元における規範と価値」
次に、ティリッヒは、精神の次元における規範と価値の顕現に関する記述へと進むのである。
「精神がそれの生物学的・心理学的運命の限界内で自由であるためには……規範があればこそである。……そこで起こってくる問題は、何がもろもろの規範の根源であるか、ということである。」(同、34頁)
このように、規範や価値の顕現からその根源が探求されていくのである。
彼は、「規範の実用主義的な抽出法によれば、生はそれ自身の規準である。………精神の規準は精神的生の中に内在する」(同)という。
さらに、ティリッヒは、実用主義ですら規範と価値論の妥当性を認識していると、次のように述べている。
「生活の規範は生の外側で発生するのではない」(同、34頁)。
「実用主義的方法が一貫して倫理的・政治的・審美的判断に対して適用される場合には、いつでも、規準が選択されるわけであるが」、どうして規範となり得るかということを証明する仕方を知らない(同、34-35頁)。
しかし、彼らは「精神の次元における規範についての価値論によって明らかに認識されている」という。「価値論は現在の哲学思想において高い位置を占めており」、今日においては「価値論を産出した形而上学に逃避することなくして、規範の妥当性を確立した。」「彼らは、実用主義的相対主義や形而上学的絶対主義〔に陥ること〕なくして、妥当性(Geltung)を救おうと欲した」(同、35頁)と述べている。
このように、実用主義は規範と価値論の妥当性を認識しているという。
しかし、ティリッヒは、次の問いに対して彼らは答えることができないという。
「そのような価値が社会を統制すると主張する根拠は何か。……それらの価値の適切性は何か。いったい精神の担い手である生は、なぜそれらの価値を問題にしなければならないのか。存在に対する義務の関係はどういうものか。」「精神の次元における生に対する規準は生そのものの中に含蓄されている……そうでなければ、それらの規準は生に対して適切ではあり得ないであろう。……人間と人間の世界における本質的なもの、また可能的なものは、そこから精神の次元における生に対する規範が導き出される源泉である。存在の本性、実在のロゴスによって決定された構想は、ストア哲学やキリスト教がそう呼んだように『価値の天国』(heaven of values)であって、価値論はそれを指し示すものである」(同、35~36頁)という。
彼は、「生はそれ自身の規準である」「精神の規準は精神的生の中に内在する」「精神の次元における生に対する規準は生そのものの中に含蓄されている」ということから、規範の源泉を究明していくのである。
このように実用主義が価値論を認めるなら、結局のところ、その根源である究極者を認めざるを得なくなるというのである。究極者は自己を啓示する。
このようにして、究極的啓示であるキリストと「霊的現臨」(聖霊の現臨)によって〝新しき存在〟となるという。また、本質から実存へと分離した生の曖昧性を曖昧ならざる生に統一する力が愛であり、この神の愛によって自己超越し、生の多元的統一がなされていくと説いていくのである。
ティリッヒの「生の過程」における諸次元は、正統主義神学が天地創造の神話を文字通りに解釈し、「神が6日間で天地を創造した」、「成人した人間(アダムとエバ)を一瞬のうちに土から創造した」という非科学的見解に対する批判である。
また、生の過程の現象学的記述には、唯物論的進化論に対する批判も含蓄されている。さらに、精神の次元における規範や価値論の根源は、「究極者」(神)であるという。
ここに至って現象学的記述による存在者の各次元への進化は、科学を基盤とした新しい有神論になるのである。この存在論的観点は、統一原理の存在論的観点と一致する。