Archive for 2月, 2014

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(22)

(4)「生の諸次元とその関係」

 

 a. 「無機的および有機的領域における諸次元」

 

ティリッヒは、無機的なものは物質として取り扱われてきたが、「無機的なものの神学」(theology of inorganic)は欠如しているという。

それで、ティリッヒは〝単純〟なものから〝複雑〟なものへと漸次的に発展してきたその各次元について、「現象学的」に記述する。彼の現象学的記述とは、理論的な説明や推論をする前に、与えられたままの実在をそのまま記述することをいうのである。

 

現象学的な記述を基盤とした理論的説明や推論、すなわち、原理的見解では、神は初めに〝ロゴス〟でアダムを構想されたと見る。しかし、創造は、素粒子から原子、分子、そして植物、動物、人間(最終目的)と、〝単純〟なものから〝複雑〟なものへと段階的に発展させながら創造されたというのである。これを、「創造論的進化論」という。

この創造の過程から、鉱物、植物、動物、人間の階層構造を分析すれば、人間は、すべての存在の〝性相〟と〝形状〟の総合実体相(小宇宙)であると知り得るのである。

 

ところで、ティリッヒは、すべての存在者の第一条件は無機物であると、次のように述べる。

 

「無機的次元は、それがすべての次元が現実化する第一条件である限りにおいて、諸次元の中では優先的位置を占めている」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、23頁)。なぜなら、「基礎的条件が消滅するならば、存在のすべての領域は解体する」(同)からである。聖書にも、「あなたは……ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから」(創世記3・19)とある。

 

確かに、無機的次元が第一条件である。この同じ認識を、統一原理では「人間を創造するにあたって、有形世界を感得し、それを主管せしめるようになさるために、それと同じ要素である水と土と空気で肉身を創造された」(『原理講論』83頁)と述べている。

 

次に、有機的次元、すなわち有機的生は植物的領域と動物的領域という二つの次元があり、さらに動物的領域にはもう一つの次元として生の自覚、すなわち精神的なもの(the psychic)が現われているという。

この「有機的次元は自己関係的・自己保存的・自己増殖的・自己継続的諸型体(「生ける総体」)によって特徴づけられている」(『組織神学』第3巻、23頁)というのである。

上述の事柄を言い換えると、植物や動物や人間は、孤立して存在するのではなく、他者との関係存在であり、自己保存的・自己増殖的・自己継続的諸型体であるというのである。

 

ところで、無機的なものから有機的なものが如何にして発生したかに関しては、議論が決着しないまま残っている。科学的で客観的であろうとするティリッヒは、「『最初の細胞』は或る特殊な神の干渉である」という主張に対して、「生物学は超自然的な原因性を拒否(する)」(『組織神学』第3巻、24頁)と述べている。

そして「有機的なものの次元は本質的に無機的なものの次元の中に現存し、それの実際的な発現は種々の条件に依存する。その諸条件を記述することが生物学や生化学の課題なのである」(同)と主張する。

 

しかし、現象学的記述を根拠とした理論的な推論の一つである唯物的進化論が主張するように、生命は、環境的な物資的諸条件が整えば〝自然発生〟するというのであろうか。また、AからBに進化する力は、いずこより来るのであろうか。進化する力は、生物自体の内にはない。したがって、われわれは、進化する力(入力)は、外から来たと考えざるを得ないのである。しかし、生物はどのようにして地球上に発生したのかという「生命の起源」の問題は、未だ決着していない。

 

次に、ティリッヒは「植物的次元から動物的次元への推移、特に個が自分自身を『内的に知覚する』(inner awareness)という現象への推移の問題に対して………潜在的には自意識はすべての次元に現存するが、現実的には、それは動物的存在の次元においてのみ発現する」(同)という。

そして、さらに次元の高い段階の記述に進み、ティリッヒは「内的知覚の想定を、………高等動物に限定することが賢明であるように思われる」と述べ、「内的知覚の次元、すなわち心理学的領域は、自分自身の中にもう一つの次元、すなわち人格的―社会的次元、または『精神』(spirit)の次元を実現する。現在人間の経験の及ぶ範囲内においては、それは人間においてのみ起こった」(『組織神学』第3巻、24頁)と述べている。

 

このように、ティリッヒの現象学的記述は、暗々裏に進化論を否定しているといえよう。

 

ちなみに、ティリッヒは、彼の著『信仰の本質と動態』の中で次のように述べている。

 

「進化論と神学との闘争は、科学と信仰との闘争ではなく、ある種の科学と、ある種の信仰とのあいだの闘争であった。それは人間から人間性を奪い去る信仰を内に秘めた科学と、聖書の直解主義によって神学的表現を(ゆが)められた信仰との、闘争であった。聖書の創造物語を昔あるときに起こった事件の科学的記述と解する神学が、方法的、科学的研究と衝突することは自明である。また先行の生命形態から人間の発生を解釈して、人間と動物との質的区別を認めないような進化論は、科学ではなくて信仰であることもまた自明である。」(ティリッヒ著『信仰の本質と動態』、谷口美智雄訳、新教出版社、104頁)

 

「科学と信仰との闘争ではなく、ある種の科学と、ある種の信仰とのあいだの闘争であった」という主張は傾聴に値する。

ただし、「聖書の創造物語」を文字通りに「6日」で創造したと信じ、それは科学的記述であると解する神学に対して、「聖書に記録された創造の過程が、今日、科学者たちの研究による宇宙の生成(せいせい)過程とほぼ一致するという事実を知ることができる」(『原理講論』75頁)と科学的に解釈し、「6日」を「創造過程の六段階の期間を表示したもの」であり、したがって「この記録が神の啓示である」(同、76頁)と主張する統一原理は、相違している。

一方は似非(えせ)科学であり、他方は真の科学的解釈である。

 

 b. 「生の一次元としての精神の意味」

 

ティリッヒは、精神の次元は人間のみに現われ、精神は「霊魂」(psyche)、「心」(nous)、「理性」(logos)などに関係づけることが望ましいという(『組織神学』第3巻、28頁)。しかし、「霊魂」(soul)という言葉は心理学の中から失われてしまった。現在の心理学は「霊魂」不在の心理学であるという(同)。

また、心という言葉は生物の意識を表現し、意識と知覚と志向性を含んでいる。自意識は、動物の次元に現われ、「それは知性と意志と方向づけられた行動とを含んでいる」(同、29頁)という。

また、理性の概念は、すでに「理性と啓示」において論述されているが、「ロゴス的構造をぬきにしては、精神は何事をも表現することができない」と述べ、「推理の意味における理性は、認識的領域における人間精神の一つである」(同)と述べている。

 

このように、進化を「生の過程」と表現し、人間の精神(心)までを現象学的に記述し、最後に精神の次元の段階で〝究極者〟への関心となると説いていくのである。

 

 c. 「それに先行する諸次元との関係における精神の次元」

 

ティリッヒは、人間が出現するまでの先行する諸次元について、次のように述べている。

 

「生の新しい次元の出現は………ある条件群が無機的領域における有機的領域の出現を可能にする。………それは神の志向的創造性の下における、すなわち、神的摂理の下における自由と運命との相互作用の問題である。むしろ問題は、いかにして潜在的なものの現実化がある条件群から起こるかということである。」(同、30頁)

「無機的次元から有機的次元へ、植物的次元から動物的次元へ、生物学的次元から心理学的次元への推移に関して明白である。これはまた心理学的次元から精神の次元への推移についても真である。」(同、31頁)

 

このように、ティリッヒは「生の過程」の明白な事実を現象学的に記述するのである。

 

 d. 「精神の次元における規範と価値」

 

次に、ティリッヒは、精神の次元における規範と価値の顕現に関する記述へと進むのである。

 

「精神がそれの生物学的・心理学的運命の限界内で自由であるためには……規範があればこそである。……そこで起こってくる問題は、何がもろもろの規範の根源であるか、ということである。」(同、34頁)

 

このように、規範や価値の顕現からその根源が探求されていくのである。

 

彼は、「規範の実用主義的な抽出法によれば、生はそれ自身の規準である。………精神の規準は精神的生の中に内在する」(同)という。

 

さらに、ティリッヒは、実用主義ですら規範と価値論の妥当性を認識していると、次のように述べている。

 

「生活の規範は生の外側で発生するのではない」(同、34頁)。

「実用主義的方法が一貫して倫理的・政治的・審美(しんび)的判断に対して適用される場合には、いつでも、規準が選択されるわけであるが」、どうして規範となり得るかということを証明する仕方を知らない(同、34-35頁)。

しかし、彼らは「精神の次元における規範についての価値論によって明らかに認識されている」という。「価値論は現在の哲学思想において高い位置を占めており」、今日においては「価値論を産出した形而上(けいじじょう)学に逃避することなくして、規範の妥当性を確立した。」「彼らは、実用主義的相対主義や形而上学的絶対主義〔に陥ること〕なくして、妥当性(Geltung)を救おうと欲した」(同、35頁)と述べている。

 

このように、実用主義は規範と価値論の妥当性を認識しているという。

しかし、ティリッヒは、次の問いに対して彼らは答えることができないという。

 

「そのような価値が社会を統制すると主張する根拠は何か。……それらの価値の適切性は何か。いったい精神の担い手である生は、なぜそれらの価値を問題にしなければならないのか。存在に対する義務の関係はどういうものか。」「精神の次元における生に対する規準は生そのものの中に含蓄されている……そうでなければ、それらの規準は生に対して適切ではあり得ないであろう。……人間と人間の世界における本質的なもの、また可能的なものは、そこから精神の次元における生に対する規範が導き出される源泉である。存在の本性、実在のロゴスによって決定された構想は、ストア哲学やキリスト教がそう呼んだように『価値の天国』(heaven of values)であって、価値論はそれを指し示すものである」(同、35~36頁)という。

 

彼は、「生はそれ自身の規準である」「精神の規準は精神的生の中に内在する」「精神の次元における生に対する規準は生そのものの中に含蓄されている」ということから、規範の源泉を究明していくのである。

 

このように実用主義が価値論を認めるなら、結局のところ、その根源である究極者を認めざるを得なくなるというのである。究極者は自己を啓示する。

 

このようにして、究極的啓示であるキリストと「霊的現臨」(聖霊の現臨)によって〝新しき存在〟となるという。また、本質から実存へと分離した生の曖昧(あいまい)性を曖昧ならざる生に統一する力が愛であり、この神の愛によって自己超越し、生の多元的統一がなされていくと説いていくのである。

 

ティリッヒの「生の過程」における諸次元は、正統主義神学が天地創造の神話を文字通りに解釈し、「神が6日間で天地を創造した」、「成人した人間(アダムとエバ)を一瞬のうちに土から創造した」という非科学的見解に対する批判である。

また、生の過程の現象学的記述には、唯物論的進化論に対する批判も含蓄されている。さらに、精神の次元における規範や価値論の根源は、「究極者」(神)であるという。

ここに至って現象学的記述による存在者の各次元への進化は、科学を基盤とした新しい有神論になるのである。この存在論的観点は、統一原理の存在論的観点と一致する。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(21)

『組織神学』第3巻――(生と聖霊論)――

 

(一)「生、その曖昧(あいまい)性、そして曖昧ならざる生の探究」

 

この章において、ティリッヒはすべての存在を「生の過程」として捉え、この「生の過程」をティリッヒ式弁証法で論述する。

ただし、成長過程における堕落は人間のみであって、万物は完成し堕落していない。しかし、ティリッヒにはそのような区別はなく、「生」という存在概念(弁証法的構造)を人間にも万物にも適用する。

 

ティリッヒによると、「生」は無機物、有機物、そして人間精神と発展し、歴史として展開され、そして、その歴史の目標は「神の国」であり、「永遠の生命」であるという。このすべてを「生の過程」であるとし、彼は弁証法で論述するのである。

 

(A)「生の多次元的統一」

 

(1)「生――本質と実存」

 

ティリッヒによると、多くの哲学者は「生」という語を用いることを躊躇(ちゅうちょ)し、それを生物学の領域にのみ限定するが、ヨーロッパ大陸では20世紀初期に哲学の大きな学派が「生の哲学」に関心をもっていた。ニーチェ、ディルタイ、ベルグソン、ジンメル、シェラーなどである。その他、実存主義者に影響を及ぼしたというのである。

 

また、ティリッヒは「アメリカにおいては、『過程の哲学』(philosophy of process)が、ジェームスやデュイー(デューイ)の実用主義によって予兆され、ホワイトヘッドとその学派によって十分に展開された。『過程』(process)という言葉は『生』という言葉ほど曖昧ではないが、表現力においてはるかに劣っている」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、新教出版社、12頁)と述べている。

 

なぜなら、「生体と死体とは同様に『過程』に属しているけれども、しかし、死の事実においては『生』はその否定を含んでいる。『生』という語を強調して用いることは、『生まれかわった生命』(life reborn)とか『永遠の生命』(eternal life)とかいう場合のように、この否定の克服を示すのに役立つ。………生と死との両極性は常に『生』(life)という語を色づけてきた」(同、12-13頁)というのである。

 

このように、ティリッヒの「生の概念」は体系全体の基底をなしている。言い換えると、本質的なものと実存的なものの基盤である。

ティリッヒは「『生』(life)という語をこの本質的な要素と実存的な要素との『混合』(mixture)の意味に用いる」(同、13頁)と述べている。

 

以上のように、ティリッヒは「生の概念」によって、すべての存在の実存的曖昧性(疎外状況)を分析し、また、曖昧ならざる「永遠の生」を叙述しようとするのである。

 

(2)「層」という言葉について

 

事物の多様性の中の秩序に関して、ティリッヒは次のように述べている。

 

「人間は遭遇(そうぐう)する事物の多様性を、統一原理の助けをかりてのみ認識することができる………普遍的な原理の一つは、階層的秩序のそれであって、そこでは事物のあらゆる類と種とが、またそれらを通してあらゆる個物がその場所をもっている。一見して混沌(こんとん)としているように見える実在の中に秩序を発見するこの方法は、存在の等級と層とを見分ける。」(同、14頁)

 

このように、存在の等級と層によって、実在の中に階層的秩序を発見するというのである。

また、自然に階層的秩序があるように、人間社会にも単一者を頂点とする階層的秩序があるという。

 

このことに関して、ティリッヒは次のように述べている。

 

「高度の普遍性とか潜勢力(せんせいりょく)の豊かな発展とかいうような存在論的資質が特定の層に帰せられる場所を決定する。『僧職(そうしょく)職階制度』(hierarchy)――聖礼典的権力の位階(いかい)に従って配置された聖なる支配者団――という古い用語は、この種の思考をもっともよく表現している。それは地上的支配者と同様に、自然における存在の類や種、たとえば無機的なもの、有機的なもの、心理的なものにも適用され得る。この観点においては、実在はその存在の能力と価値の等級に従って垂直的に相重なる層のピラミッドとして見られている。『僧職職階制度』の意味における支配者たち(archoi)の映像はより高い層により高い資格を与えるが、その例示者の量は小さくなる。その頂点は、それが祭司であろうと、皇帝であろうと、神、すなわち一神教の神であろうと、単一者である。」(同、14-15頁)

 

「階層の原理」においては、一つの層から他の層への有機的運動は起こらない。しかし、プロテスタントの原理やデモクラシーの平等の原理は、この「階層の原理」を否定するという。

 

これらに関して、ティリッヒは次のように述べている。

 

「ニコラウス・クザーヌスが『相反するものの一致』(coincidence of opposites)――たとえば無限者と有限者との――原理を定式化し、ルタ-が(聖人を罪人と呼び、神によって受け容れられた罪人を聖徒と呼ぶことによって)『罪人の義認』(justification of the sinner)の原理を定式化するまでは階層の原理が力を失い〔他の原理によって〕置き換えられるということはなかった。それは〔後に〕、宗教的領域においては、万人祭司の教理によって取って代わられ、社会―政治的領域においては、各人における平等の人間性というデモクラシーの原理によって取って代わられた。プロテスタント原理もデモクラシーの原理もともに、互いに独立しながら、階層的に組織された存在の能力の層〔という考え方〕を否定する。」(同、15頁)

 

このような訳で、ティリッヒは誤解されないように、「層」という言葉に対して「次元」という言葉を用いるのである。

 

ところで、ティリッヒはデモクラシーの原理によって階層の原理を否定するが、自然界には大小様々な階層が存在する。しかも、自然界の「層」に属するすべての事物は平均化され平等である。したがって、その「階層の原理」とは何かを究明しなければならない。ティリッヒも事物の平均化を認めて、次のように述べている。

 

「『層』という言葉は、特定の層に属するすべての事物の平等性を強調する表現である。〔そこでは〕事物は平均化されている。すなわち、共通の平面に置かれ、そこに保たれている」(同、15頁)と。

 

したがって、問題なのは、自然界と人間社会の同一の「存在の原理」(「家庭の原理」)とは何かを究明し、「階層の原理」と「平等の原理」の対立を統一することである。

民主主義は自由を主張するが、貧富の格差が生じて平等でなくなる。共産主義は平等を主張するが、自由を否定する。人間社会における自由と平等の原理とは一体何なのか。

文鮮明師は〝神の愛〟において平等であるといわれる。〝神の愛〟によって統一された理想世界は「家庭の原理」を基盤として現れる。

 

(3)「次元、領域、階程」

 

ティリッヒの「生の過程」は、進化論と対比すると分かりやすい。

 

「有機的次元の現実化は無機的次元の現実化なしには不可能であるし、精神の次元は有機的次元の現実化がなければ潜在的にとどまるであろう。………無機的領域が有機的領域における事物の出現を許すまでには幾百万年を経過したことであろうし、有機的領域が言語をもった存在の出現を許すまでにはまた幾百万年を要したことであろう。更に言語の能力をもった存在が、今日われわれが自分自身として知っているような歴史的人間となる前には、幾万年かを経たことであろう。これらすべての場合を通じて、存在の潜在的次元が現実となったのは、すでに〔それ以前に〕常に潜在的に実在したものの実現化を可能ならしめるような諸条件が現存したからである。」(同、18頁)

 

聖書に、神は天地創造に関して6日、すなわち6段階の期間を要したとあるが、ティリッヒはその6日を文字通りに解釈していない。この解釈は、統一原理の創造原理と一致する。

 

また、彼は次のように述べている。

 

「神が自己自身のうちにアトムの可能性を創造したもうた時、人間の可能性を創造したもうた。また神が人間の可能性を創造したもうた時、アトムの可能性と、その両者の中間にあるすべての他の次元の可能性とを創造したもうた。それらすべての次元は、部分的には潜在的に、部分的には(或る場合には完全に)現実的に、すべての領域に現存する。現実化された諸次元のうちの一つがその領域を性格づける。というのは、そこに実現されている他の諸次元は、決定的な次元(それ自身は他の諸次元に対する一つの条件ではない)の現実化のための条件としてそこに存在するだけだからである。無機的なものは有機的なものの現実がなくても現実的であることができる。しかし、その逆ではあり得ない。」(同、19頁)

 

上述の本文に、「神が自己自身のうちにアトムの可能性を創造したもうた時、人間の可能性を創造したもうた」とあり、また「神が人間の可能性を創造したもうた時、アトムの可能性と、その両者の中間にあるすべての他の次元の可能性とを創造したもうた」とあるが、この見解は、統一思想の「存在者の性相・形状の階層的構造」(『新版・統一思想要綱(頭翼思想)』166頁)と同じ見解である。

創造原理的に見れば、神の創造目的の最終目標は、人間創造(アダムとエバ)である。したがって、神の創造論的進化は無機物から有機物へと進化し、さらに、有機物は最終目標(人間の創造)に向かって進化してきたのである。

 

つまり、進化に方向性(内的目的)があるというのである。単純なものから複雑なものへの進化、下等なものから高等なものへの進化は、個物が他の存在と無関係に、偶然に、無目的に、進化してきたのではない。進化は、最終目標に向かって進化してきたというのである。

このように、ティリッヒは、ビックバンから始まった神の宇宙創造、すなわち、無機物と有機物の創造過程を「生の過程」と表現し、階層を〝次元〟として現象学的に記述するのである。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(20)

(7)「キリストとしてのイエスの事件の普遍的意義」

 

 a. 「キリスト論と救済論の結合」

 

ティリッヒは、キリスト論は救済論の一機能であるという。言い換えると、(ふる)い存在、すなわち実存的疎外と自己破壊から人々を救済することが、キリスト論の職能(しょくのう)であるというのである。

 

「キリスト論は救済論の一機能である。救済論の問題がキリスト論的な問いを生じ、またその答えを方向づける。というのは新しき存在をもたらし、それによって旧い存在すなわち実存的疎外と自己破壊から人々を救済することがキリストの職能であるからである。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、192頁)

 

近代神学においては、シュライエルマッハー以来、キリスト論と救済論の緊密な結合が主張されるのが通例であった。しかし、キリスト論と救済とは分離できないことは明瞭であるが、パネンベルクはキリスト論と救済論のこのような結合に含まれている危惧もまた同時に現われると、次のように述べている。

 

「ほんとうにイエス自身について語られているかどうかという点である。そこでは、人間の救いと神格化への願望の投影が、むしろ問題の中心になっていないであろうか。そこでは、神に似た者になりたいという人間の努力、犯した罪を償わねばならぬ人間の義務、自らの罪責をおぼえて、破滅にとらわれている体験の投影といったものがあるのではないのか。また、新プロテスタント主義において最も明瞭に表れているように、完全な宗教性・完全な道徳性・純粋な人格性・積極的な信頼といった理念をイエスの姿に投影しているのではないのか。ここで、単に人びとの憧憬のみが、イエスに具現されたり、投影されたりしているのではないのか。」(『キリスト論要綱』W・パネンベルク、新教出版社、40頁)

 

そして、次のように述べている。

 

「キリスト論は、私たちにとっての有意義性、つまりそれを直接には宣教が供する有意義性から出発するのではなく、ナザレのイエスから出発しなければならない。イエスの有意義性は、地上のイエスが実際にどのような方であったかということから展開されねばならない。」(『キリスト論要綱』W・パネンベルク、新教出版社、41頁)

 

さらに、次のように述べている。

 

「この意図は一般に、キリスト論の伝統の基礎となっていると言ってよい。カント、シュライエルマッハー、ブルトマン、ティリッヒのような例外を除けば、ナザレのイエスの事実に根ざした現実性を犠牲にして、意識的に救拯(きゅうじょう)論的な関心の視野から考えられるようなことはなかった。」(同、41頁)

 

しかし、反論として、「アタナシオスは常に救済論的観点に立って論じている。主は完全なる神であると同時に完全な人間である。そうでなければ救いは成就されない。」(『キリスト論論争史』水垣渉・小高毅編、日本キリスト教団出版局、119頁)と解説されていることを指摘しておかねばならない。

 

しかし、次の点は傾聴に値する。

 

「『そもそもキリスト論は救拯論の一機能である』といったティリッヒによるほど無遠慮に表現されたことはない。………ブルトマンと彼の弟子たちにおいても、〈イエス自身、つまり、史的イエスが問題ではなく、新しい実存の可能性の開発として、私たちにとっての彼の『有意義性』のみが重要である〉とはっきり言っているときに、危険は明らかとなる。」(『キリスト論要綱』W・パネンベルク、新教出版社、40頁)

 

結論として、パネンベルクは次のように述べている。

 

「彼の人格についての問いであるキリスト論は、イエスの有意義性についてのすべての問い、つまり、すべての救拯論に先行されねばならない。救拯論は、キリスト論の後に続かねばならないのであって、その逆であってはならない。」(同、41頁)

 

統一原理の「キリスト論」は、第一節「創造目的を完成した人間の価値」、第二節「創造目的を完成した人間とイエス」、第三節「堕落人間とイエス」を論じた後に、「救済論」として、第四節「新生(重生(じゅうせい))論と三位一体論」が論じられている。

「創造目的を完成した人間」とは、最初に、神との一体性の問題を論述しているのである。

 

創造原理は、人間の二性性相の実体的な展開として創造したのが被造物であり、人間は天宙を総合した実体相であると論じている(『原理講論』84頁)。創造目的を完成した人間とはキリストのことであり、これは宇宙論的キリスト論である。有形なる宇宙の中心がキリストであると述べているのである。

 

近代神学において、キリストは人類の歴史との関係でのみ問題とされ、キリストの出来事を地球環境や宇宙全体との関わりで理解することはほとんどなかった。それで、現在の環境破壊に対する神学的取り組みを困難なものにしているのである。

「科学的宇宙論との積極的な関係構築を試みるだけの基礎作業が神学の側に欠けているため、本格的な『自然の神学』『コスモロジーの神学』は現在のところ存在しない………現代神学はこれについて本格的な議論を展開する基礎(キリスト論的な)を失っているからである。」(『キリスト論論争史』水垣渉・小高毅編、557頁)

 

このような問題提起に対し、すでに答えているのが統一原理のキリスト論、すなわち「創造目的を完成した人間の価値」(宇宙論的キリスト論)なのである。

 

 b. 「イエスの普遍性」

 

ところで、ティリッヒは、イエスの「実在的」形象の持つ具体性と唯一性によって普遍性が論証されるという。なぜイエスがすべての宗教を統一する普遍的存在であるのかという問題である。

 

「キリストとしてのイエスはいかなる意味で、またいかなる仕方で救済者であるか。………キリストとしてのイエスの事件は、いかなる仕方で万人にとって、また間接的には宇宙にとって普遍的意味を有するか。これをわれわれは問わなければならない。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、192頁)

 

ティリッヒは次のように述べる。〝聖書におけるイエスの形象は、唯一的事件である。かれの性格、かれの置かれた歴史的状況において、かれは唯一的である。当時の(みつ)()宗教的儀礼(ぎれい)覚知(かくち)主義的洞察(どうさつ)に対する優位は、まさにこのイエスの「実在的」形象の持つ具体性とその比較を絶した唯一性のゆえであった。〟(同、192-193頁参照)

 

「かれのすべての発言と行動を通して一個の実在的個性的生が輝き出ている。これに比すると、密儀宗教的儀礼の神々の姿像は抽象的であり、現実に生きられた生涯の新鮮な色調を欠き、歴史的運命と有限的自由の諸緊張とを欠いている。キリストとしてのイエスの形象は、その具体的実在性の力によってかれらを征服した。」(同、193頁)

 

このように、事実によって普遍性が論証される。

ティリッヒは、実存への服従は「キリストの十字架」の象徴によって、実存への勝利は「キリストの復活」の象徴によって実現されたという。ただし、象徴や神話は字義通り解釈されるとその意義を失うことを、ここでも強調している。すなわち、「非直解化」(非神話化)しなければならないというのである。ただし、十字架の死と復活をどのように非直解化するのかに関しては明確ではない。

 

(8)「救済力としての、キリストとしてのイエスにおける新しき存在」

 

キリスとしてのイエスは新しき存在であり、新しき存在を創造する力である。

 

「キリスト教が出現した世界は、魔的世界に対する恐怖に満ちていた。………魔的諸力は霊魂と神との再結合を阻止(そし)する。それは、人間を束縛(そくばく)して実存的自己破壊の支配下に(つな)ぐ。キリスト教の使信(ししん)は、この魔的諸力の恐怖からの解放の使信であった。だから贖罪(しょくざい)の過程は解放の過程である」(同、218頁)と。

 

ちなみに、再臨主による〝聖酒式〟は原罪清算(サタンの血統を清算する式)である。「イエスの体」と「堕落人間の体」の相違は、原罪があるか、ないかである。「真の父母様」による祝福結婚は、原罪を清算して「新しき存在」に新生(重生(じゅうせい))することであり、「実存的疎外の下」(魔的諸力)からの解放・釈放である。

これがキリストの救済力である。キリストの使信が一切を解放する。

 

「サタンは元来、血統的な因縁をもって堕落した人間に対応している」(『原理講論』273頁)。したがって、「堕落人間がサタンを分立して、堕落以前の本然の人間として復帰するには、原罪を取り除かなければならない」(同、271頁)のである。

 

パウロは、「神の子たる身分」を授けられるために、「体のあがなわれること」(原罪清算)を待ち望んでいると、次のように述べている。

 

「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、体のあがなわれることを待ち望んでいる。」(ローマ8・23)

 

ティリッヒは聖化(せいか)に関して、対社会的に次のように述べている。

 

「聖化は、新しき存在の力が教会の内外の個人・団体を改変する過程である。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、227頁)

 

ティリッヒは、キリスト(仲保者、(あがな)い主)が「あらゆる治癒(ちゆ)過程・救済過程の究極的基準である」(同、213頁)という。

また、キリストの使信が一切を解放する。「人類のいかなるところにある救済力も、キリストとしてのイエスの救済力によって判定されなければならない」(同)という。

 

文鮮明師の御言と原理は、イエス・キリストの使信と一致することが判定されるであろう。

イエスは〝個人路程〟の霊的救済を歩み、再臨主はそのイエス様が残した〝家庭路程〟を歩んで、霊肉両面の救済(堕落性とサタン的血統の清算)を成し、成約聖徒と共に天上天国と地上天国を創建していく。

 

ティリッヒの『組織神学』第2巻(1957年刊)は、第1巻(1951年刊)の6年後に現われた。第3巻(1963年刊)は、それよりもさらに6年後に出版された。

 

 

「補足」(「神の本体」)

 

「三位一体」と「天の父母」という神概念の同一は、統一原理の「キリスト論」と「神の成長」という概念によって存在論的に論証される。

(1)「『神様の成長』という概念について」

 

文鮮明師は、「幼児が成長したのちに結婚をするということ、これは、夫婦の位置を尋ね求めていくことであり、父母の位置を尋ね求めていくことです。神様と一体になる位置を尋ね求めていく道です」(八大教材・教本『天聖経』「真の家庭と家庭盟誓」、2336頁)と語っておられる。

 

このように、「人間の成長と人生の目標」に関して、それは、幼児が成長して結婚し、父母となり、神様と一体になることであると簡潔・明瞭に語っておられるのである。

 

次に、「神様の成長と人間の成長の関係」について、それがいかなる関係にあるかを知らなければならない。

 

文鮮明師は、この点について、次のように語っておられる。

 

「神様も赤ん坊のような時があり、兄弟のような時があり、夫婦のような時があり、父母のような時があったので、そのように創造されたのです。」(八大教材・教本『天聖経』「宇宙の根本」、1591頁)

「人間創造とは、神様ご自身が成長してきたことを実際に再度展開させてきたものです。」(同、1590頁)

 

このように、文鮮明師は、「神様ご自身が成長してきた」といわれている。今までの神学は、神様は永遠・不変、唯一・絶対なるお方であると捉えてきたが、「神様の成長」「神様の発展」という概念を知らなかった。これは驚嘆すべき御言(みことば)である。

 

聖書を見れば分かるように、イエス様は、幼少期、青少年期、成人、と成長していかれた。したがって、「神様の成長」という概念が出てきていると言える。しかし、イエス様は、結婚されなかった。上述の文師の御言により、神様とイエス様の願いは、さらに結婚して、「真の父母」になることであったと理解することができる。

 

「神様の願いは『天の父母』になること」

 

アダムとエバは神様の真の相対であると、文鮮明師は次のように語っておられる。

 

「神様の心中にある無形の子女、兄弟、夫婦、父母として、真の愛の実体完成を望んでアダムとエバの二人を創造したのです。それは、神様が実体として子女の真の愛の完成を願い、実体家庭の兄弟として、実体の夫婦として、実体の父母として、神様の真の愛の相対として完成を願われたからです。」(同、「真の家庭と家庭盟誓」、2336頁)

 

このように、アダムとエバは神様の実体として成長し、完成していくというのである。

 

ところで、文師は「アダムとエバの結婚式は神様の結婚式である」と、次のように語っておられる。

 

「横的な父母であるアダム・エバは神様の体であり、縦的な父母であられる神様が心なのです。神様は、アダム・エバの心なのです。ここで心と体が一つになって愛するとき、アダム・エバの結婚式は『体』的な父母の結婚式であると同時に、『心』的な神様の結婚式になるのです。」(『ファミリー』1999年1月号、21~23頁、第39回「真の子女の日」記念礼拝の御言)

 

そして、真の父母になる意義について、文鮮明師は次のように語っておられる。

 

「アダムとエバが真の愛で完成することは、まさに神様が実体を身にまとう願いが成就するのです。………アダムとエバが善なる子女をもって真の父母になることは、まさに神様が永存の父母の位を実体的に確定」(『祝福家庭と理想天国(Ⅰ)』、29頁、「救援摂理史の原理観」)することなのです。

 

このように、アダムとエバが「真の父母」になることは、まさに神様が永存の父母の位を実体的に確定することであると言われているのである。

神様が「天の父母様」になられるという意義が、ここにあるのである。繰り返して言えば、アダムとエバが「真の父母」として完成すれば、無形なる神様も完成した「真の父母」になるということである。そして「真の父母」の体を用いて、有形なる天地万物を直接主管されるというのである。

 

このように、「真の父母」になることが神から見れば〝創造目的〟であり、人間から見れば〝人生の目的〟なのである。

 

ティリッヒが、次のように言っていたことを想起していただきたい。

 

「『ロゴスが肉となった』というヨハネ的発言に従うべきであろう。『ロゴス』は、神と宇宙における、また自然と歴史における神の自己顕現の原理である。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、118頁)

 

以上が、神に〝成長〟という概念があるのであり、その「神の成長」という概念から見た「神の自己顕現の原理」に関する解説である。

 

(2)「三位一体と天の父母という神概念の同一」について

 

聖書には、「神の定義」はないという神学者がいるが、聖書によると、神の()姿(すがた)として、無形なる神の有形なる分立実体対象としてアダムとエバが創造されたと定義されている(創世記1・27)。

同様に無形なる神の分立実体対象が、イエスと聖霊(霊的実体)である。したがって、「神―アダム―エバ」と「神―イエス―聖霊」の関係は〝類比関係〟にある。この類比から、三位一体論を再考察する必要性があるのである。

 

統一原理の三位一体論は、「神がアダムとエバを創造された目的は、彼らを人類の真の父母に立て、合性一体化させて、神を中心とした四位基台をつくり、三位一体をなさしめるところにあった」(『原理講論』、267頁)とあり、同様に、「イエスと聖霊は、神様を中心として一体となるのであるが、これがすなわち三位一体なのである」(同)と述べている。したがって、三位一体論のエバに対応する聖霊は、〝女性である〟と言えるのである。

 

無形なる「神の本体」は、統一原理によると、真の愛を中心とした「二性性相の中和的・統一体」なのである。神の二性性相とは、神の神的な男性的要素と神的な女性的要素をいう。その無形なる神の二性性相の分立実体対象が、アダムとエバであり、イエスと聖霊なのである。

 

「三位一体」とは、無形なる神様を中心として、有形なるイエスと聖霊が一体となることである。神とイエスが一体であり、神と聖霊が一体なのである。

イエスと聖霊は、アダムに対するエバとの〝類比関係〟にあり、神から分かれた二つは、イエスの復活後、霊的に一つになったのである。これが、伝統的な三位一体論の諸概念の形式から自由な立場で実質を表現した「霊的な三位一体論」なのである。

 

アダムとエバは完成を目指して成長していた。しかし、未成年期でサタンの誘惑によって堕落して人類を繁殖し、「偽りの父母」となった。それで、サタンの支配下で人間は生まれながらにして神から離反(疎外)した存在となっているのである。つまり、人間の疎外は普遍的現実となったのである。

 

第二アダムであるイエス様も、幼少から成長して成人となられ、そして、結婚して「真の父母」となることを願われた。しかし、十字架の死によって肉体を奪われたので、神が実体として父母となることができなかったのである。それで、再臨して実体の父母となる天的使命を果たされることを約束されるのである。

 

アダムの相対がエバである。同様に、霊的イエスの相対が聖霊(女性)である。イエス様は「霊的な真の父母」(霊的な三位一体)になられ、信仰者を霊的に新生されるのである。

イエスの残された〝家庭路程〟を、結婚して歩まれた再臨のメシヤは、実体の神の体として、「実体の真の父母」(実体的な三位一体)として完成された。そして、人類を霊肉両面においてを重生(じゅうせい)(原罪清算)し、サタンの支配圏から人間を解放・釈放されているのである。

 

また、万物の主管者である人間(アダム)の完成は、万物の救いでもあるのである(ローマ8・19-21)。

 

以上のように、イエスの復活である再臨主は、実体の「真の父母」(実体的な三位一体)となられたので、神も「天の父母」になられたのである。

 

結論として、次のように言える。

神を中心とした真の父母は、実体的な三位一体である。無形なる神が有形なる「真の父母」の姿として顕現されているというのである。言い換えると、「真の父母」は神様の体である。

 

存在論から見て、「三位一体」と、神を中心とした「真の父母」は同一である。というのは、「神を中心としたイエスと聖霊」と「神を中心とした真の父母」は同じ様式による「三位一体」であるという意味である。

イエスと聖霊は「霊的な三位一体」となり、真の父母は「霊肉の三位一体」なのである。

 

「霊的な三位一体」と「霊肉の三位一体」の相違について、前者は霊的救いを与え、後者は霊肉両面の救いを与える。

パウロは「神の子たる身分」を授けられるために、「体のあがなわれること」(原罪清算)を待ち望んでいると、次のように述べている。

 

御霊(みたま)の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。」(ローマ8・23)

 

このように、イエスと御霊(聖霊)によって新生した「最初の実」であるキリスト者パウロが、なおも「からだのあがなわれること」を待ち望んでいるのである。

 

したがって、イエスはキリスト者の「からだをあがなわれる」ようにするために再臨されるのである。すなわち、再臨のキリストは実体の神の体として、「実体の真の父母」(霊肉の三位一体)として完成され、そして、人類を霊肉両面において重生(じゅうせい)(原罪清算)し、サタンの支配圏から人間を解放・釈放されるのである。

 

以上が、存在論から見た「三位一体と天の父母という神概念の同一」と「霊的な三位一体」と「霊肉の三位一体」の相違に関する霊的救いと霊肉両面の救いの説明である。

 

無形なる神の有形実体である「真の父母」による霊肉両面の救いは、地上天国(神の国)がそこに現われていることを示している。

 

文鮮明師の八大教材・教本に『天国を開く門 真の家庭』と『平和の主人、血統の主人』がある。この二つの本の表題の意味は深い。「真の家庭」とは、メシヤの家庭のことである。平和の主人、血統の主人とは誰のことなのであろうか。

  ―「補足」の項、以上―

 

 

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(19)

(5)「キリスト論的教理の発展における危険と決定」

 

a. 「神性と人性」

 

ティリッヒは「キリスト論」について、常にイエスの〝キリスト性〟の否定と、〝イエス性〟の否定という二つの危険性があることを、次のように指摘する。再臨主に関しても同様である。

 

「キリスト論的発言を脅かす二つの危険性が、イエスはキリストであるとの主張の直接的結果としてでてくる。この主張を概念的に解釈しようとする試みは、現実的には、キリストとしてのイエスのキリスト性の否定となったり、あるいはまた、キリストとしてのイエスのイエス性の否定となったりする。キリスト論は、常にこの二つの大きな谷間にはさまれた尾根の上を歩まねばならず、決して完全に成功しえないことを知らねばならない。というのは、それは神的神秘に触れる問題であり、神的神秘はその顕現のなかにおいてさえどこまでも神秘にとどまるからである。

伝統的用語では、この問題はイエスにおける神性と人性の関係として論ぜられた。人性の減少は、実存の諸制約へのキリストの全的関与性を奪い去るであろう。また、神性の減少は実存的疎外へのキリストの全的勝利を奪い去るであろう。いずれの場合も、かれは新しき存在の創造ではありえないであろう。かれの存在は新しき存在以下になるであろう。したがって問題は、完全な人性と完全な神性との一体性をいかに考えるべきかにあった。………

キリストにおける神人両性の教説は正しい問題を提出しているが、誤った概念的手段を使用している。その根本的な不適切性は、神または人の「性」(nature)の概念にある。この概念は、それが人間に適用されると両義的であり、神に適用されると誤りである。これが、ニケア会議やカルケドン会議などの諸会議の実質的真理と歴史的意義にもかかわらず、その不可避的最終的失敗の理由を説明する。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、181-182頁。注:太字は筆者による)

 

b. 「二種類の人間」(「真の人」と「堕落人間」)

 

原理的に考察すると、「完全な人性と完全な神性との一体性をいかに考えるべきか」に関して、神と人間の関係には「本然の人間」(真の人)と「堕落人間」という二種類の人間観があるという点が、解決の着眼点であるといえよう。父と子との間にいかなる相違があるというのであろうか。本来、神と人間は〝親子の関係〟であり、親子という以外に「神」と「真の人」(本然の人間)の間に相違はない。

 

人間の精神には原罪と堕落性がある。したがって、神性と人性は一つになりえない。しかし、「本然の人間」(真の人)である「イエス」(ティリッヒがいう「新しき存在」)には原罪も堕落性もない。

キリストは、本質的に神人一体化した「真の人」(完全な者)である。したがって、イエスにおいて神性と人性が一つになっているのである。

 

ただし、イエスにおける両性の一致は生れながらであり、また原罪がないので、イエスの人性は堕落人間の人性ではないのである。イエスは神の体である。神とイエスとの関係は、心と体との関係にたとえられる。ロゴスが実体として定着した完成人間である。神と人との仲保者である。

 

統一原理は、堕落人間がキリストによって新しき存在に再創造(重生)されれば、キリストの形象に似て「完全な者」(マタイ5・48)になり得ると説いている。

 

統一原理は、「キリスト論」で次のように述べている。

 

「イエスを神であると信じる信仰に対しては異議がない。なぜなら、完成した人間が神と一体であるということは事実だからである。また原理が、イエスに対して、彼は創造目的を完成した一人の人間(真の人)であると主張したとしても、彼の価値を決して少しも下げるものではない。ただ、創造原理は、完成された創造本然の人間の価値を、イエスの価値と同等の立場に引きあげるだけである」(『原理講論』257頁)

 

以上が、神性と人性の一体性についての問いに対する原理的な答えである。ただし、統一原理は、賢明にも誤解を招くような〝神性〟と〝人性〟という概念を用いていない。

 

ティリッヒは、これらの問題に関して次のように述べている。

 

「教会の死活問題としてアタナシウスによって守られたニケア会議の決定は、啓示と救済に関するキリストの神的力の否定を許し難いものにした。ニケア論争の用語では、キリストの力は神の自己顕現の原理としてのロゴスの神的力である。ここから、ロゴスはその神的力において父と同等であるか、それ以下であるかの問題が起こる。もし第一の答えが与えられると、サベリウス的異端におけるように父と子との区別が消滅してしまうようにみえる。もし第二の答えが与えられるならば、アリウス的異端におけるように、ロゴスはたとえそれが一切の被造物のうち最大のものと呼ばれてもなおやはり一個の被造物であり、したがって被造物を救うことができないことになる。真に神である神のみが新しき存在を創造することができるのであり、半神にそれはできない。この思想を表現すべきものが、“homo‐ousios”(同一本質の〔同じ存在の力の〕)の語であった。しかしその場合でもなお半アリウス派はさらに問いを発することができた――では、父と子との間にいかなる相違がありうるか、地上のイエスの形象は全く理解不可能とならないであろうか、と。この問いに対してアタナシウスや多くのかれの親しい追従者たち(例、マルケルス)は答えに(きゅう)した。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、182頁。注:太字は筆者による)

 

アタナシウスは神とイエスは同質(同一本質“homo‐ousios”)であると主張した。

しかし、イエスが神であるなら、ティリッヒは「地上のイエスの形象は全く理解不可能とならないであろうか」と述べている。一例をあげると、「荒野を40日のあいだ御霊(みたま)にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた」(ルカ4・2)と記述されているが、イエスが神御自身であるならば、神がサタンから試練を受けることなどは理解不可能である(『原理講論』260頁を参照)。したがって、「父と子との間にいかなる相違がありうるか」という問題が生じる。

 

それゆえに、「答えに窮した」とあるが、われわれは「なぜ窮したのか」と問わなければならない。このように、イエスの人性と神性に関してどのように捉えるかで論争が続いたのである。

 

「本然の人間」(新しき存在=無原罪のイエス)の人性は原罪のある「堕落人間」の人性(「人間精神」)と相違する。「本然の人間」(真の人)の神性と人性の一体化は半神的神ではない。イエスは神人一体化した完全な人間である。

 

イエスと人間の本質的相違は原罪があるか、ないかである。統一原理は、「創造目的を完成した人間とイエス」の間には差異がないと述べている。

 

c. 「キリスト論と三位一体論との関係」

 

次の本文は「三位一体論」に関するものである。

 

「ニケア会議の決定は、たとえそれが三位一体論的教理にも基本的貢献をしたにしても、やはりキリスト論に根ざすものである。同様に、コンスタンティノポリス会議(三八一年)におけるニケア信条の再主張と拡大は、たとえそれがロゴスの神性に聖霊の神聖を付加したとはいえ、やはりキリスト論的発言であった。もしキリストとしてのイエスの存在が新しき存在であるならば、かれをしてキリストたらしめるものは人間イエスの人間的精神ではなく、ロゴスと同様な神におとらぬ神的精神でなければならない。………ただここで言えることは、三位一体的象徴は、もしそれがそれの根ざす二つの経験――生ける神の経験と、キリストにおける新しき存在の経験――から切り離されるならば、所詮(しょせん)は空虚なものとなってしまうということである。アウグスティヌスもルターも、この事情を感じていた。アウグスティヌスは、三位一体における三つのペルソナ(現代語における人格の意味ではない)はいかなる内容をも持たず、『特定の何かを言うためではなく、沈黙のままでいないために』用いられたものであることを知っていた。事実、『生まれない』、『永遠に生まれ』『………より出て』などの用語は、たとえそれが象徴と解する――象徴にちがいないが――としても、何ら象徴的表象として有意味なものを示さない。ルターは、『三位一体』のような語を奇妙な笑うべき語と考えたが、しかし他の場合と同様にこの場合にも、より良い語がないことを知っていた。かれは三位一体的思想の二つの実存的な根を知っていたから、三位一体的弁証法を無意味な数の遊戯とみなす神学を(しりぞ)けた。三位一体論的教理はキリスト論的教理の補強的部分であり、ニケア信条の決定は〔空虚な三位一体論的思弁のためのものではなく〕キリスト教を半神的神の儀礼への逆転から救った。それはキリストとしてのイエスから新しき存在の創造力を奪う恐れある解釈を斥けた。」(同、183頁。注:太字は筆者による)

 

このように「初期教会の二大決定によって、キリストとしてのイエスの事件のキリスト的性格とイエス的性格との両方が保存された」のである。

ティリッヒは、「ルターは、『三位一体』のような語を奇妙な笑うべき語と考えた」と述べている。「人格」(ペルソナ)という語は、独立した個人の人格を意味する。そうすると、三位一体における三つのペルソナは〝三人の神〟がいることになり、「唯一の神」と矛盾することになる。それで、現代語の〝人格〟の意味ではないと解説しているのである。つまり、「数の遊戯(ゆうぎ)」ではないと言って誤魔化(ごまか)しているのである。

 

文鮮明師は、次のように語っておられる。

 

「神様が二性性相の主体であられるように、神様が自分の二性性相を展開し、神様の形状どおり万宇宙を造り、人間を造ったのです。アダムは神様の男性的性稟(せいひん)を展開させたものであり、エバは神様の女性的性稟を展開させたものなのです。このように見るとき、私たち一般人が普通『天のお父様!』と言うのは、お一人ですからそのように言うのでしょうが、そのお一人という概念の中に『天のお父様、お母様』という概念が入っているというのです。」(八大教材・教本『天聖經』「成約人への道」1421頁)

 

「神様が二性性相(男性的性稟と女性的性稟)の主体であられる」という存在論から見た神観と、「天のお父様!」と言うのは、「お一人という概念の中に『天のお父様、お母様』という概念が入っている」という説明によって、「唯一の神」と「三位一体の神」の矛盾の問題が存在論の観点から解決するのである。

 

すなわち、「唯一の神」(神様が二性性相<男性的性稟と女性的性稟>の主体であられる)と「三位一体の神」(「神-アダム-エバ」あるいは「神-イエス―聖霊」と「神を中心とした真の父母」)が存在論的に類比の関係にあるという観点から同一であると言えるのである。

ただし、「唯一の神」は無形であるが、「三位一体の神」は無形なる神が有形なる「アダムとエバ」あるいは「イエスと聖霊」、そして「真の父母」として顕現したという相違がある。

 

統一原理(文鮮明師の神学思想)は、三位一体論を信仰からではなく普遍的な存在論から論じているのである。

 

(6)「現代神学のキリスト論的課題」

 

以上のごとく、ティリッヒはキリスト論的実質を表現しうる「新しい形式」を見出す試みをしなければならないという。そして、新しき存在である一人間の形象、実存的疎外を克服しうる一人間の形象とは、神が独特の仕方でそこに顕現している一人間の形象であるという。

これは、統一原理のキリスト論の思想それ自体であるといえよう。

 

原理的に言えば、「神が独特の仕方でそこに顕現している一人間の形象」とは、生まれながらにして無原罪のイエスの形象のことである。

人間がメシヤに「接ぎ木」されて原罪を清算し、堕落性を脱ぐなら、個性完成したイエスと同じ価値をもつ存在になり、「神が独特の仕方でそこに顕現」するようになるというのである。

 

キリストの形象に似ること、これが救いの目標である。神から見た歴史の目標は、ただ一人のメシヤ(キリスト)をこの地上に送ることにあるのである。

 

ティリッヒは、「『ロゴスが肉となった』というヨハネ的発言に従うべきであろう。『ロゴス』は、神と宇宙における、また自然と歴史における神の自己権限の原理である」という。

神が、どのような原理によって歴史の中にキリストとしてのイエスとして顕現したのであろうか。それを具体的に解明したのが、統一原理の「復帰原理」である。

 

ところで、われわれと同じ人間マリヤから生まれたイエスが、なぜ無原罪であるのかという問題がある。これは誰にも解けないミステリーである。

聖なる処女マリヤから生まれたからというが、なぜ「聖なる処女」といわれるのか、その根拠を示していない。〝胎中聖別〟はタマルの腹中での双子(長子ゼラと次子ペレヅ)の闘いで、次子が長子として出てきたことと関係があるのであるが(創世記38・28-30)、このようなことが、なぜ旧約聖書に記述されているのか、これは「統一原理」の堕落論が分からなければ解けない問題である。

 

また、〝聖霊〟によって生まれたからというが、洗礼ヨハネもそうである。彼が胎内にいる時、母エリサベツも聖霊に満たされていた(ルカ1・15、同1・41)。洗礼ヨハネも無原罪のキリストになるのであろうか。そうではない。

 

文鮮明師は、これらの謎を八大教材・教本『天聖経』の「罪と蕩減復帰」と『祝福家庭と理想天国』(1)に掲載されている「救援摂理史の原理観」の中で、イエスの無原罪の問題を解明されている。

 

a. 「過去のキリスト論はすべて不適切」

 

過去のキリスト論は、プロテスタント教会が現代果たさなければならないキリスト論的課題に不適切であると、ティリッヒは次のように述べている。

 

「『カトリック的』な伝統が初期教会の二大決定(ニケア、およびカルケドン)の実質に基づいているかぎり、プロテスタント神学もそれを受容しなければならない。しかしプロテスタント神学はさらにそれを越えて、過去のキリスト論的実質を表現しうる新しい形式を見出す試みをしなければならない。………それは、過去数世紀のプロテスタント神学における正統主義的キリスト論に対しても、また自由主義的キリスト論に対しても批判的態度をとることを意味する。プロテスタント正統主義の発展は、その古典的時期においても、またその後の再定形化においても、キリスト論的問題の古典的用語による理解可能な解決が不可能であることを示した。神学的自由主義は、その歴史的批判的研究(例、ハルナックの『教理史』)によって、神人両性説によるキリスト論的問題解決の試みがすべて不可避的に矛盾と不条理に追いこまれることを示した点で功績がある。しかし、自由主義自体は体系的な面でキリスト論に大した貢献をしなかった。自由主義は『イエスはイエスによって伝えられた福音に属しない』ことを主張することによって、キリスト・イエスの事件のキリスト的性格を排除した。アルベルト・シュヴァイツェルのような、イエスの使信(ししん)の終末観的性格、またその終末観的図式の中心人物としてのイエスの自己理解、を力説する歴史家たちでさえ、その終末観的要素をかれら自身のキリスト論に使用しなかった。かれらはそれを黙示文学的脱自(だつじ)から生じた奇妙な空想的合成として削除した。事件のキリスト的性格がイエス的性格のなかに吸収された。しかし自由主義神学をアリウス主義と同一視することは公平ではない。そのイエス形象は半神的イエス形象ではない。むしろそれは神が独特の仕方でそこに顕現している一人間の形象である。しかしそれはその存在が新しき存在である一人間の形象、実存的疎外を克服しうる一人間の形象ではない。プロテスタント神学の正統主義的方法も自由主義的方法も共に、プロテスタント教会が現代果たさなければならないキリスト論的課題に不適切である。」(ティリッヒ著『組織神学』2巻、185-186頁。注:太字は筆者による)

 

このように、ティリッヒは既存神学のすべてのキリスト論を不適切と言い切る。そして「キリスト論的実質を表現しうる新しい形式を見出す試みをしなければならない」というのである。

 

しかし、ティリッヒのキリスト論に対して、次のように批評されている。

「ティリッヒのキリスト論は、人間疎外とその克服という点から展開されている点に大きな特徴がある。………ティリッヒのキリスト論は、ブルトマンのそれとは違った意味において、現代におけるキリスト論の最もすぐれた実存論的解釈と言えるであろう。しかしケーラーやブルトマンの場合と同様、彼の場合にもイエスの歴史性が正当に評価されているとは必ずしも言いがたいであろう。」(『キリスト論論争史』水垣渉・小高毅編、日本キリスト教団出版局、520頁)と批評されている。

 

このように、「イエスの歴史性が正当に評価されているとは必ずしも言いがたいであろう」と言われている。周知のように、パネンベルクは「キリスト論は………何よりも、地上におけるイエスの活動と運命にその基礎をもっている」(W・パネンベルク著『キリスト論要綱』、13ページ)といい、「歴史の復権」(史的イエスの研究)を強調する。

 

これに対して、統一原理(啓示=神の御言・天的宣言)は「創造目的を完成した人間」から見た「キリスト論」である。イエスの歴史性の正当な評価に関しては、統一原理(『原理講論』)の「メシヤの降臨とその再臨の目的」や「イエスを中心とする復帰摂理」等で説かれている。シュヴァイツアーの『イエス小伝』で叙述されている十字架以前のイエスの地上の公生涯は一体何であったのか、という問いに対しても正当に答えている。

 

b. 「霊的な三位一体論と実体的な三位一体論」

 

三位一体論について、統一原理は次のように理解している。

イエスと聖霊とは、神を中心とする霊的な三位一体をつくることによって、〝霊的真の父母〟の使命を果たし、霊的新生(霊的重生(じゅうせい))の使命を果たされた。それゆえに、未だ、信徒たちは〝霊的子女〟の立場に留まっているのである。

したがって、イエスと聖霊は、神を中心とする実体的な三位一体をつくり、霊肉ともに真の父母となり、堕落人間を霊肉ともに新生(重生)させるために再臨されるのである(『原理講論』「三位一体論」、268頁を参照)。

 

このように、既存の三位一体論の形式から自由な立場で三位一体論的実質を論述している。