ブルトマンの「非神話化」(現代から見た信仰と実存論的解釈学)(2)
ブルトマンによると「福音書は拡大された祭儀聖伝である」と次のように述べている。
「宣教が告知するキリストとは史的イエスではなく、信仰と祭儀のキリストである。キリスト宣教の前面に立つのは、それゆえ、信仰において告白され、洗礼と聖餐において信仰者に働く、救済の事実としての、イエス・キリストの死と復活である。つまり、キリスト・ケリュグマとは祭儀聖伝であり、福音書は拡大された祭儀聖伝である」(『共観福音書伝承史Ⅱ』加山宏路訳、新教出版社、274~275頁)。
つまりブルトマンによると、「福音書記者は伝承を自由に駆使しながら、完全に信仰という一点からイエス像を構成している」(『聖書の伝承と様式』ブルトマン、クンズィン著、山形孝夫訳、未来社刊、79頁)というのである。
このように、共観福音書は史的な関心を持って書かれた伝記書ではないのである。そして宣教の対象であるキリストは、史的なイエスではなく、信仰と礼拝の対象としてのキリストであり、宣教と礼拝に役立てるための「初期キリスト教」(ヘレニズム的キリスト教)の神学の所産であるというのである。
以上のように、ブルトマンの「『共観福音伝承史』に使用せられた様式史的方法は、世界の学界に注目せられたが、この研究は、史的イエスの研究にも画期的な帰結を齎らし、明らかに非神話化と実存論的解釈の準備作業をなすもの」(ブルトマン著『キリストと神話』山岡喜久男・小黒薫訳、124頁)と言われている。
「福音書はキリスト祭儀とキリスト神話を前提しており、ヘレニズム・キリスト教が創造したものだからである」(『共観福音書伝承史Ⅱ』、加山宏路訳、新教出版社、277頁)。
ブルトマンの『共観福音書の研究』(1930年―共観福音書伝承史の縮刷版)より
「福音書記者たちが使用した伝承素材(Traditionsstoff)と彼らの編集上の加筆(redaktionelle Zusatze)との間に区別をつけるということである。このような課題は、主としてヴェルハウゼンによって認識され、K・L・シュミットによって組織的に究明された。……本来の伝承は小さな個々の独立した断片(言葉あるいは短い物語)から成っていること、またそれら個々の断片を大きな文脈へと連結する場所とか時間の指示は、すべて福音書記者の編集操作によるものであることが明瞭になった。彼らは、(こうした操作に必要な)類型的移換法を有し、個々の場面の背景とかイエスの全生涯の枠組みをつくりだすために、いわばかなり限定された演出資料(Regie‐Material)を自由に駆使する。すなわち、『家』、『山』、『海浜』とか、『舟の中』、『旅の途上』、『食事の客』、『シナゴグにおける礼拝』のイエスといった状況がそれである。群衆、敵対者、供の弟子たちの登場なども図式的である。こうした福音書記者たちの編集活動に関して、わたしは『共観伝承の歴史』(Die Geschichte der synoptischen Tradition, 1921, 19573)において総括的に論究したつもりである。」(『聖書の伝承と様式』、ブルトマン、クンズィン著、山形孝夫訳、未来社刊、23~24頁)。
カトリック教会でも1964年に、パウロ六世のもとで教皇庁聖書委員会が、「福音の歴史的真実性に関する指針」を発表し、編集史的方法と様式史的方法を福音書研究に適用することの必要性を公認した。
(二)ブルトマンの『イエス』(「イエス像は信仰の所産」)
ブルトマンは1936年に出版した『イエス』において、「私達はイエスの生涯と人となりに就いて殆ど何も知る事が出来ない」(R・ブルトマン著『イエス』、川端純四郎・八木誠一共訳、未来社刊、12頁)と断定し、福音書の記述から史的イエスを復元することはできず、福音書をとおして得られるのは「ヘレニズム的キリスト教」の中で成立した信仰の所産である「キリスト像」(教団の宣教した一つの像)であると主張し、人々に大きな衝撃を与えた。
ブルトマンは『共観福音書伝承史』の縮刷版といわれる『共観福音書の研究』(1930年)の中で、「イエス伝の全体的枠組が、編集上の操作とみなされること、従ってわれわれが詩や造形美術や、あるいは教会的慣習にもとづいて、イエスの生涯の一場面として信じてきた一連の代表的場面は、ことごとく福音書記者の創作として明らかにされる」(『聖書の伝承と様式』、ブルトマン、クンズィン著、山形孝夫訳、未来社刊、26頁)と断定している。
実際、ブルトマンが彼の著『イエス』の序論で、人間自身が歴史の一部であり、中立的観察者でありえないというように、福音書の記述がすべて客観的歴史的なものと言えるかどうか、疑問が持たれるのである。
ブルトマンは「ヨハネ福音書」(90年代後半)に関しては、「イエスの宣教の史料としては全然問題にならず……全く顧慮されなかった」(R・ブルトマン著『イエス』、未来社刊、16頁)と言い切る。
次の文章はブルトマンの共観福音書に対する批判的分析の結論である。
「共観福音書における種々の層の分解は先ず次の事実から出発する。すなわちイエスと最古の教団は、その場をパレスチナに持ちアラム語を語ったのに、これらの福音書はヘレニズム的キリスト教内部でギリシャ語で著されたということである。ゆえに共観福音書の中で、言語上または内容上の理由から、ヘレニズム的キリスト教の中で成立したとしか考えられないものは、イエスの宣教の史料にはならない。しかし批判的分析は、これら三つの福音書の本質的内容が、最古のパレスチナ教団のアラム語伝承からとられたことを示す。……この最古の層に属する言葉が、事実イエスによって語られたものだという保証は勿論ありはしない」(R・ブルトマン著『イエス』、未来社刊、16~17頁)と。
最古の層もイエスの言葉である保証がないなら、確かに憂鬱である。しかしブルトマンはヘレニズム的キリスト教の「信仰と神学の所産であるもの」から、一片の伝承に出会うという。そしてその断片の複合体の中に、真のイエスの思想を捉えるのである。そのことに関して次のごとく述べている。
「イエスの人となりに関心をもつ人にとっては、憂欝(ゆううつ)もしくは破壊的である。しかし私達の目的にとっては本質的な意味をもたない。なぜなら、伝承のあの最古の層の中にある思想の複合体が私達の叙述の対象だからである。それはさしあたり過去から私達に届いた一片の伝承として私たちに出会う。私達はこれに問いかけながら歴史との出会いを求めるのである。伝承はこの思想の所持者をイエスと名ざしている」(『イエス』17頁)。
このように、信仰によって神格化されたイエス像を一掃して、真のイエス・キリストを把握し、イエスの思想を叙述しようとするブルトマンの『イエス』は、福音書を実存論的に解釈したものであると言われている。