Archive for 4月, 2015

ルターと福音主義(7)

(5)「ルターの歴史的使命」

 

それでは、ルターの歴史的使命と彼の思想のすぐれた点はどこにあるのであろうか。それは救いが「キリストを抜きにしてあり得ない」ことを鮮明にした点にある。この点はいくら褒めても褒めすぎることはない。

 

救いにおいてキリストを強調し、キリストを対象としないそれ以外の教義や諸々の儀式や規範や制度を否定したのは、神の摂理から見て、原始キリスト教を回復し、再臨のメシヤを迎える内外の環境復帰の準備であった。

 

ルターは聖書に根拠を持つ洗礼と聖餐式の二つだけを残した。これは「合同結婚式」における聖酒式として統一教会に継承されている。

 

また歴史的な宗教改革が起った原因は、なによりも、当時のローマが異教時代の帝政期に劣らず、贅沢ぜいたくな食道楽にふけり、「それはまったく退廃し、病毒に冒されており、考えられるかぎりの淫乱、食道楽、詐欺、権勢欲、神を誹謗する冒瀆の混沌である」(『ルター』、松田智雄編、中央公論社、21頁)と言われるほどの腐敗ぶりにあった。それ故に、法王を中心とする復帰摂理の目的が成就できなかった(『原理講論』「宗教改革」、参照、516-518頁)。それで歴史はルターの義認論を動機として宗教改革が勃発し、さらにルターの意図を超えて近代市民社会を形成し、神の国が顕現する前段階まで前進してきたのである。

 

ところで、ルターの義認論が近代市民社会の成立に寄与したことについて次のように述べられている。

 

「ルターの義認論には、のちの修道院制度の否定や職業観にみられるように厭世的性格はなく、現実的、世俗的性格がある。ルターの義認論はこのような独自性をもっていたからこそ、宗教改革運動に多大な影響を与え、間接的にではあるが近代市民社会の成立に寄与することになったのである。」(『ルター』小牧治・泉谷周三郎共著、131頁)

 

さらに、ルターの神学の特徴を述べるなら、ルターほどサタンを意識し、認識していた神学者は少ないといえる。また、霊肉の対立と葛藤を説き「ああ、私の罪、罪、罪」と絶叫し、彼は「原罪」を実在として説いた。しかし現代神学は、個々の罪ではなく、罪の根源である「原罪」を神話であると軽視する人が多いのである。

 

最後にエラスムスが異端者としてカトリックから断罪された点にふれておこう。

彼の死後(1536年)、1554年に、教皇ユリウス三世によりエラスムスの著書『痴愚神礼讃』、『格言集』、『新約聖書注解』が、宗教改革運動への荷担とカトリック体制への批判との関連で禁書とされ、1558年には、教皇パウルス四世により、エラスムス自身が第一級の異端者と断じられた。

宗教改革者の側からみても、人文主義のギリシア、ローマの古典にさかのぼる人間本性の善性の認識(エラスムス)と、聖書を起因とする深い罪認識(ルター)との間に相違があると指摘されている。

 

しかし、〝異端〟と断罪されても、再臨のキリストによって救済されるであろうし、ルターへの批判の諸点はカトリックに継承されているのである。

 

ルターはエラスムスに対して激しく批判したが、最後には次のように述べている。

「訴訟の核心をついたのはただきみだけであって……私は心からきみに感謝する。」(ルター著『奴隷的意志』、松田智雄編、中央公論社、259頁)。

この点が摂理的中心人物であるルターの偉いところであると言えよう。

 

また、ルターの宗教改革に対して、カトリック側も内的刷新と積極的防御(反宗教改革)をせざるを得なかったことは言うまでもないことである。

 

ちなみに、「宗教改革運動に対して、当然、カトリックにおいても対抗の動きが見られた。その先頭に立ったのがドミニコ会である。審問や討論を通じてルターと論戦をした。またカトリック内部にも改革の機運が高まり(→カトリック改革)、1540年にはイエスズ会が托鉢修道会として誕生した。イエスズ会は内部の信仰の革新に努めたばかりでなく、積極的に海外伝道を進めた。日本にもイエスズ会士フランシスコ・ザビエルが1549年に上陸し、キリスト教を伝えた。」(『ルターと宗教改革事典』教文館、143頁)のである。

 

 

「補足」

 

(1)「天国は二人で行く所」 

 

カトリック神学は、「救いの実現は神人の協力による」(『カトリックの信仰』、岩下壮一著、講談社学術文庫、628頁)と言明しており、「救いは人間が我儘勝手わがままかってに『自分は救われた』と思い込むMind Cureではなく……神の愛と人間の道徳的努力との交響楽」(同、629頁)なのであるとし、プロテスタント神学の信仰義認論を批判している。

この伝統主義による聖書解釈は「統一原理」と一致している。ただし、救いについての客観的な定義はカトリックといえども依然として知らず、愛を重視し、至福を説いてはいるものの、それを「四大心情圏」や「三大王権」として概念的に説いていない。これは再臨のメシヤ以外に解けない問題なのである。

 

フランシスコ派の神学者は「至福における『愛』のモメントを重視する」。主知主義的といわれるトマスも「自然本性的な知性の能力の限界」を超えて、「神からの超自然的光を受けなければならない」とし、「神を見つつある至福者の知性は、神の愛によって浸透され、強められ、浄化され、生命化された知性である。」(『トマス・アクィナス』、中央公論社、山田晶編、526頁)と述べている。

 

このように、トマスも愛のモメントを無視していないと指摘されている。だがしかし、最高の至福である愛を「統一原理」を基盤とした文鮮明師の御言みことば(『真の家庭と家庭盟誓』)のように、概念的に、具体的・客観的・存在論的に究明できていない。これが西洋哲学、西洋的思考の限界である。

したがって、完全な神の愛の認識とは如何なることなのかをカトリック側も客観的に知らないといえるのである。

 

文鮮明師は、愛は自分一人(男性だけ、女性だけ)で感ずるものではない。愛する対象がなければならない。愛は対象を通じて、対象から来る。神御自身がそうなのであって、神も愛の対象がなければ愛を感ずることができない。神の愛の対象、それは人間以外ではありえないと語っておられる。

 

最高で唯一・絶対の愛は、相対する「二つの存在」(ペア・システム)がなければ生じないのである。これは驚くべき原理である。したがって、至福は一人ではなく、二人(アダムとエバ)でなければそれに至らないのである。しかも罪ある二人ではなく、「体があがなわれた」無原罪の二人でなければ体得できない。神の真の愛は罪と無関係であり、罪人には顕現しないからである。それゆえ、再臨主による〝祝福〟すなわち新しい人間に再創造された祝福家庭によらなければ、神の真の愛は経験できない。文鮮明師は、天国は一人で行くところではなく、二人で行くところであると語られている。

 

すべてのキリスト者はこの〝小羊の婚姻〟を待望しているのである。すなわち「子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」(ローマ、8・24)のである。

 

ただし、繰り返すが、至福、永遠の生命、すなわち神との関係とは、既存神学が説くような個人的な救いの関係ではない。「主にあっては、男なしには女はないし、女なしには男はない」(コリントへの第一の手紙、11・11)という二人の関係による真の愛のことである。

 

(2)「ヤコブの手紙」について

 

ギュンター・ボルンカムは、公同書簡の一つである「ヤコブの手紙」に対して、彼の著書『新約聖書』において、「ヤコブの手紙・・・・・・では、キリスト信仰はすっかり背後に退いており、この手紙はそもそも始めからキリスト教文書として記されたのであろうかと、質問を発することができるほどである」(『新約聖書』、ボルンカム著、佐竹明訳、新教出版社、197頁)と言い、さらに次のように批判している。

 

「信仰のみによる義認というパウロの教えを、通俗的に歪曲された形においてではあるが、前提している。……義認の問題に関し、ヤコブがパウロに対抗して、ユダヤ教的と言って差支えない立場を取っているという事実(信仰わざ)を、一切かえるものではない」(同、198頁)。

 

ボルンカムは、「信仰のみ」によって義とされるというパウロの言葉に対するヤコブの理解が「通俗的に歪曲された形」であると言うが、果たして、イエスがキリストであると信じる信仰に、「通俗的」であるか、ないか、などという教義学の入る余地があるのだろうか。

信仰義認に対する理解が、「ああでもない」、「こうでもない」ということ自体、すでに間違っている。

 

また、「行い」を説くヤコブがユダヤ教的立場であると言うが、イエス・キリストが「わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」(ルカ、6・46)と言われた言葉をルカは記述しているが、この「行い」を強調するイエスの言葉も、ボルンカムによれば批判すべき「ユダヤ教的なもの」なのであろうか。

 

「ヤコブの手紙」に対するボルンカムのような〝福音主義神学〟の立場からの批判の淵源は、言うまでもなくルターにある。

 

これに対して、代表的なカトリック側からの反論をここで取り上げておこう。

 

「信仰による善業の必要を力説せるこの新約聖書の一篇を、ルターは軽んじて『わらの書簡』と名づけ、使徒の書にあらずと主張せりと伝えられる。公平無私の心をもって主イエズス御自身の御生涯を仰ぎ奉れば、かかる偏見は雲散霧消うんさんむしょうしたであろうに、ヤコボ(ヤコブ)の書簡は、よく神を愛するがためには、人をも愛せざるべからずとせる主の福音の実践を慫慂しょうようしたに過ぎない。しこうしてその活ける模範を、我等は主の御生涯において見出すのである。」(『カトリックの信仰』、岩下壮一著、講談社学術文庫、546頁)

 

「統一原理」も同様に、人類救済のために、全ての人が「イエスの路程」に倣って実践するように説いている。イエスの公生涯は、一口に言えば愛の実践(仕えること)であった。

ところで、福音主義は救いに関して、聖書を義認論の視点から見て、「奇蹟によって生まれ、人々の罪のために贖いの死を遂げ、墓よりよみがえった神の子」にしか関心を払っていない。それは、シュバイツァーが『イエス小伝』で言っているようにイエスの全生涯ではない。

 

ボルンカムの「ヤコブの手紙」に対する解釈は、福音主義の信仰義認という先入観から見た解釈である。それは、カトリック教会が批判しているところの典型的なプロテスタント神学の主観主義的曲解に相当する。

 

ギュンター・ボルンカムは、ブルトマンに師事したドイツの新約聖書の神学者であり、ハイデルベルグ大学の教授(1971年夏、定年退職)である。彼の『新約聖書』は在職中の最後の労作(1971年出版)と言われている。

 

(3)「霊的救いと肉的救い」(ローマ人への手紙、7・7-27)の解釈について

 

ギュンター・ボルンカムは、彼の著書『新約聖書』の中で、ローマ人への手紙7章7節から25節について、次のごとく述べている

 

「この個所では自分自身の失敗に終わった生涯の歴史を語っているのではなく、罪、律法、死の下にある一般人間のほろびについて、それもキリストの出来事の光の下で過去をふりかえって見るという仕方で、語っているのである」(『新約聖書』、ボルンカム著、新教出版社、142頁)という。また、次のようにも述べている。

 

「ローマ七・七-二五は、滅びの勢力に引き渡された人間の矛盾した状況を描いている」(同、178頁)

 

このように、ボルンカムは、パウロの指摘する心と体の葛藤する人間の状態(矛盾した状況)は救われたキリスト者の状態ではないと言うのである。すなわち、「罪と死の下」(サタンの主管の下)にある一般人間のほろびについて語っているというのである。当然、彼にとって、信仰義認による救済観は、救われたキリスト者はそのような矛盾した状態であるはずがないと考えて、そのように解釈せざるを得なかったのであろう。

 

しかし、さらに続けてローマ人への手紙八章を見るなら、ボルンカムの意図した理解と異なることが書かれてある。「キリストがあなたの内におられるなら、体は罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。」(ローマ、8・10)

 

このように、死(罪)と生(義)の自己矛盾の状態にあるとパウロはいうのである。体は「罪のゆえ死んでいても」とあるように、キリスト者の体は死んだ状態であるというのである。つまり、その状態において救われているということ、すなわち「罪あるまま義とされている」状態なのである。

このように、罪と死から解放された恵みの下にあるキリスト者は、矛盾した状態にあり、聖書にはボルンカムの意図する解釈と相違する聖句が多くあるのである。

 

繰り返して言えば、上述の聖句にあるごとく、キリスト者は「体は罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きている」とあるごとく、信仰義認は罪あるまま義とされているのであって、体は「あがなわれていない」ということである。つまり、信仰によって霊は神にあって生きているが、体は死の状態にあるということである。そして御霊みたま(聖霊)によって弱いからだを助けられながら、矛盾のあるままで霊の思いと肉の思いが対立(分裂)しながら義とされ、神の内に生きているのである。自己矛盾のこの状態を率直に告白して、パウロはさらに次のごとく述べている。

 

「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」(ローマ、8・23)と。

 

この状態がイエスと御霊(聖霊)によって新生(重生じゅうせい)したキリスト者パウロ(最初の実)の姿なのである。ボルンカムは救いの完全な基準を知らないのである。信仰義認は、サタンの支配の下にある人間が、イエスをキリストと信じることによって霊的に解放されている状態なのである。

つまり、まだ完成して「完全な者」(マタイ5・48)になっていないので、完全に救われた状態ではないというのである。しかし、サタンの支配(罪と悪と死の恐怖)からの解放が、どれほどの恵みであることか、計り知れないのである。

 

ここまで聖書を見ると、つまりボルンカムのごとく七章で止まるのではなく八章まで読むならば、初臨時の救いと、再臨を待ち望む救いが何であるかが分ってくるのである。

すなわち、初臨時に信仰によって義とされた〝霊的救い〟が、再臨によって肉(体)があがなわれて〝霊肉両面の救い〟がなされ、神の子たる身分が授けられる完全な救いがなされるというのである。

 

ペテロ第一の手紙にも、次のごとく述べられている。

 

「この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。」(ペテロⅠ、3・21)

 

罪に仕えていた人間が、信仰義認による恵みによって救われ、罪から解放されて、キリストの光の下で明らかな良心によって神に仕える者となるということである。しかし、「からだの汚れを除くことではなく」と明言している。「からだのあがなわれること」は、なお再臨を待たねばならないのである。

 

(4)「神の恵みと自由意志肯定論」について

 

自由意志論争は、AD411年ごろアウグスティヌスとペラギウスとの間に最初に展開された。アウグスティヌスは、自分の救いの体験より、「自分の力では罪の状態から抜け出られなかったし、自分が救われたのは<不可抗の恩恵>――抵抗できない神の全能の恵み――によると信じた」(『キリスト教組織神学事典』東京神学大学神学会編、教文館、178頁)。

 

このアウグスティヌスの神の恩恵による救いは、再び宗教改革者ルターによって取り上げられ、エラスムスとの間の自由意志論争となった。ルターは、自由意志を認めることは「キリストを空しくし、全聖書を全滅せしめるであろう」(『ルター』、松田智雄編、「奴隷的意志」より、中央公論社、249頁)と主張している。

 

カルヴァンも同じように自由意志を否定した。アウグスティヌス、ルター、カルヴァンたちが自由意志を否定したのは、「自由意志を肯定することにより、人間の救いが神の恵みと人間の自由意志による行為との協力となってしまい、神の恵み<のみ>によって救われるという救いの深い体験が看過されるのを、彼らが一様に恐れたからであった」(『キリスト教組織神学事典』179頁)というのである。

 

そして、その後、「アルミニウス、特にその弟子たちは、当時のカルヴァン主義者たちの二重予定論や不可抗の恩恵の主張に反対し、人間には神の恵みを受け入れたり退けたりする自由意志のあることを主張したが、彼らの意図は、救いが神の恵みのみによることを否定するところにはなかった。彼らは体験的に、神の恵みのみよって救われるということと、人間には神の恵みを受け入れたり退けたりする力があるということとが並存することを言った」(同、179頁)とし、カルヴァンの予定論における決定論は信者の体験に反すると主張したのである。

 

二重予定論とは、予定説とほとんど同じ意味であって、救われる者と救われない者が、神によってあらかじめ定められているという教説である。

 

アルミニウス主義の側に立つウエスレー兄弟について、野呂芳男氏は次のように述べている。

 

「カルヴァン主義者メソジストであったホイットフィールドに反対して、ウエスレー兄弟がアルミニウス主義に立ったのも、まったく同じ理由によったのである。当時のカルヴァン主義者たちにより、ウエスレーたちはローマ・カトリック主義に教会を売り渡すものであると非難されたが、カトリック主義的な自由意志の主張と異なる自由意志肯定が存在しうることに、カルヴァン主義者たちは気づいていなかった。

世界の教会の主張は19世紀以来、アルミニウス主義の人々やウエスレーの主張した仕方での自由意志を認めている。カトリック主義のように神の恵みと自由意志の行為との協力による救いでもなく、宗教改革者たちの奴隷的意志でもない道を教会はえらんできたし、今日の大勢もそうである。すなわち、神の恵みのみによる救いの体験が、それを受け入れたり退けたりする人間の自由と矛盾しないのである。」(『キリスト教組織神学事典』、野呂芳男、教文館、179頁)

 

バルトと自然神学論争をしたブルンナーは、「二つの啓示」(「キリストの啓示」と「自然を通しての啓示」)を主張し、「神のかたち」(言語受容能力と応答責任性)は形式的には罪によっても破壊されていないと言う。

応答責任性とは「人間の5%の責任分担」(自由意志の肯定)のことである。この主張は、上述の『事典』と同じ見解である。「キリストの啓示」、すなわち神の恵みのみによる救いの体験が、それを受け入れたり退けたりする「人間の自由」肯定論と矛盾しないというのである。

 

以上のごとく、神の恩寵と人間の自由意志は対立しないというのである。今日の大勢もそうであると言うのである。

このように、現在のキリスト教は、カトリックもプロテスタントも統一原理の予定論を受容する方向に進んでいるのである。

 

 

「主要な参考資料」

 

『ルター』松田智雄編、中央公論社

『エラスムス』斎藤美洲著、清水書院

『ルター』今井晋著、講談社

『宗教改革の精神』金子晴勇著、中公新書

『カトリックの信仰』岩下壮一著、講談社学術文庫

『ルター』小牧治・泉谷周三郎共著、清水書院

『ルターと宗教改革事典』日本ルーテル神学大学ルター研究所編、教文館

『キリスト教史』(5信仰分裂の時代)上智大学中世思想研究所編訳/監修、平凡社

『トマス・アクィナス』山田晶編、中央公論社

『キリスト教組織神学事典〈増補版〉』、東京神学大学神学会編、教文館