ブルンナー「出会いの神学」(10)
(C)「ブルンナーとカルヴァン」に関するバルトの主張
次は、カルヴァンの〝自然神学〟についての、解釈の相違に関する問題である。
バルトは、まず例のごとく、バルト式にブルンナーのカルヴァンに対する理解をまとめ、それを批判するという形式をとる。
バルトは、「彼の自然神学は『すこぶる宗教改革的』であり(154頁)、『全くカルヴァンの思想に近い』(175頁)が、これとは逆にまたカルヴァンは少なくとも時折、神の像についての形式的側面に関するブルンナー自身の思想と『ほとんど全く』同じことを言っている(158頁)と、このように(彼自身は)考えている」(バルト著『ナイン!』213頁)と述べた後で、下記のごとく反論する。
(1)「天地万物からの神認識」
カルヴァンの天地万物からの神認識について、バルトは次のような論陣を張る。
「カルヴァンが天地万物からする神認識とキリストの中での神認識との二つについて語ったということは真理である(例えば『綱要』1・2・1、ガリア信仰告白、1559年、第二項を比較せよ)。しかし彼は、彼が天地万物からする神認識について語った時、ブルンナーとは違って、ローマ書1・19以下、2・14以下、使徒行伝14・15以下、17・24以下においては、そのことについてそこで言われていることを、ただそれだけ語ったのである。カルヴァンは、天地万物からする神認識の中において、人間の中に残っていて、そして信仰の中で復興せしめられるような潜勢力を見出していない。すなわち、啓示に対する、またキリストの中での新生活に対する、結合点を見いだしていない。彼は、……聖書以外にさらに聖書を補う別な啓示の根源を、理性や歴史や自然の中に何とかして求め、そういうものに、少なくとも後から追加的に一つの独自の『何らかの仕方で』独立した法廷として発言せしめるという、そういうことであるが、カルヴァンはそういうことをしていない。」(『ナイン!』224-225頁)
上述のように、カルヴァンは天地万物からする〝神認識〟とキリストの中での〝神認識〟という二つの啓示を語ったことを、バルトは率直に認めた後で、それらの根拠としての聖書の聖句を上げて、ブルンナーとは違って「ただそれだけ語ったのである」と述べている。
これは、神学とは「自らにすでに与えられているもののあとを追う」追思考である(『バルト神学入門』エーバハルト・ブッシュ著、新教出版社、57頁)というバルト神学の追認である。
ちなみに、バルトが「そこで言われていることを、ただそれだけを語ったのである」と言って、取り挙げた「使徒行伝14・15以下」には、次のように記述されている。
「神は過ぎ去った時代には、すべての国々の人が、それぞれの道を行くままにしておかれたが、それでも、ご自分のことをあかししないでおられたわけではない。すなわち、あなたがたのために天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たすなど、いろいろのめぐみをお与えになっているのである。」(使徒行伝14・16-17)
バルトは、選民以外の諸宗教を偶像崇拝といって否定するが、神は「すべての国々の人」に「ご自分のことをあかし」し、「キリストの啓示」以外に、ブルンナーがいうように、「いろいろのめぐみ」をお与えになっているのである。バルトは、神学は追思考であるといい、「聖書」に聞くというが、上述の「使徒行伝14・16-17」を追思考すれば、バルトの誤りは一目瞭然である。
そして、バルトは「聖書以外にさらに聖書を補う別な啓示の根源を、理性や歴史や自然の中に何とかして求め、そういうものに、……発言せしめるという……カルヴァンはそういうことをしていない」と主張する。これは、カルヴァンの神学をバルト自身の神学に一致させんとする強弁である。カルヴァンが、諸学問を賜物と認めていることで、バルトの主張は崩壊する。
同じことであるが、また次のように述べている。
「彼(カルヴァン)は異教徒にもキリスト者にも聖書のほかに第二の啓示の根源を与えなかったこと、さらにまた、彼の神学は根本においては聖書注釈であって、そのほかにまた人間学とか歴史学とか自然哲学のようなものでもあったのではないこと、そういうことに対しては、異論をはさむことはできないであろう。」(『ナイン!』225頁)
このようにバルトは、カルヴァンは「聖書のほかに第二の啓示の根源を与えなかった」といい、「人間学とか歴史学とか自然哲学のようなもの」の中に啓示を認めていないというのである。
しかし、カルヴァンは、彼の主著『キリスト教綱要』で、次のように述べている。
「主が人間本性の中に、最高の善が失われたあともいくつかの恵みを残しておいたことを学ぶのである。」(『カルヴァン』久米あつみ著、講談社、45頁)
また、「『最高の善』すなわち神を知り、神との正しい関係に入る賜物は失われているが、この世の諸学に関する賜物は人間の中に残されている」(同、45頁)と。
このようにカルヴァンは、堕落後も、人間の中に「主は……いくつかの恵みを残しておいた」といい、諸学を賜物と考えている。
言い換えると、カルヴァンは諸学問、すなわち「人間学」や「歴史学」や「自然哲学」を賜物と言っているのである。
ちなみに、ティリッヒは「真の啓示の超自然主義的歪曲に対する戦いにおいて、科学、心理学、歴史学は神学の味方である」(『組織神学』第1巻、147頁)と述べている。
カルヴァンは『キリスト教綱要』の中で〝自然神学〟を肯定して、次のように述べている。
「第一巻第五章 世界の構造と統治の中に明白な神の認識」の個所で、「人体がたくみに構成されているのであるから、それを造られた御方が当然、感嘆せられなければならないと判断することは、万人の告白である」。「人間のことを『ミクロコスモス』(小宇宙)と呼んだのは当を得たことである」(『カルヴァン』久米あつみ著、講談社、224-225頁)と。
このように、カルヴァンは、人間を〝ミクロコスモス(小宇宙)〟と呼んだのは当を得たことだと述べている。彼は、神は自然を通して〝啓示する〟ことを肯定しているのであって、バルトの言うように否定してはいない。
原理的に見れば、世界の構造の中に神を認識し、人間を〝小宇宙〟と捉えている点は、統一原理の見解と一致している。
また、バルトは、理性や歴史や自然の中に聖書を補う啓示の存在を否定するが、統一原理は、旧約聖書と新約聖書を対照し、キリスト教史がイエス以後の復帰摂理歴史(再創造史、救済史)であることを、次のように述べている。
「旧約と新約の聖書を対照してみれば、旧約聖書の律法書(創世記から申命記までの5巻)、歴史書(ヨシュア記からエステル記までの12巻)、詩文書(ヨブ記から雅歌までの5巻)、預言書(イザヤ書からマラキ書までの17巻)は、各々新約聖書の福音書、使徒行伝、使徒書簡、ヨハネ黙示録に該当する。しかし、旧約聖書の歴史書には、第一イスラエルの2000年の歴史が全部記録されているが、新約聖書の使徒行伝には、イエス当時の第二イスラエル(キリスト教信徒)の歴史だけしか記録されていない。それゆえに、新約聖書の使徒行伝が、旧約聖書の歴史書に該当する内容となるためには、イエス以後2000年のキリスト教史が、そこに添加されなければならないのである。したがって、キリスト教史は、イエス以後の復帰摂理歴史をつくる史料となるのである。」(『原理講論』467頁 注:ゴシック太字は筆者による)
バルトの「聖書のみ」とは、イエス以後の「使徒行伝」は認めるが、そこから続く「歴史」(キリスト教史)の中に〝神の摂理(聖書以外の啓示)〟を見ようとしない見解である。それは、ブルンナーもティリッヒも言っているように、バルトの偏った啓示概念によるのである。
われわれは、バルトの福音主義神学に固執して、ブルンナーのいう正しい自然神学を頑迷に否定するのは、大きな損害であると考える。バルトの福音主義は、神による上からの一方的な「恵み」のみを強調し、人間側からの一切の「努力や行い」(5%の責任分担―人間の努力)を否定する。その結果、どのような影響を教会と社会に与えることになるかを次のように考察している。
それは、①倫理道徳を救いと無関係として退廃させ、②人間の一切の努力を無意味にし、③諸学問を人間的要素として辱め、④あらゆる修行(「行い」)を否定して人間の霊性を枯渇させ、⑤人間の世俗化に無関心となり、⑥啓示を歴史の一回きりの出来事(キリストの啓示のみ)とし、⑦自分以外の教義(存在論からの神認識や歴史における啓示)を否定し、他宗教を偶像崇拝と言って排除する。⑧すべてにおいて非寛容となり、無関心となり、孤立化させ、反社会的となる。⑨環境破壊や汚染水は人類の危機であるが、自然神学を否定するバルトのキリスト論的集中の神学では、一言も発言することができないのである。
バルトらの福音主義には、以上のような問題点があるのである。
(2)バルトの「聖書の啓示のみ」について
バルトは、次のように聖書のみを強調する。
「人間の存在と全世界の存在とを神の知恵と天父の摂理が支配するということ、さらにまたこの世には神の諸秩序があること、そしてその諸秩序の中で人間が神の意志をあがめねばならないというような秩序はいかなるものであるかということ、そういうことをカルヴァンは聖書から聞く。カルヴァンが人間には本当に全く天地万物の中ではかくされているところの神を讃美することに心を奪われ酔わしめられるのは聖書を通してである。キリストの中で罪を贖われた人間に、能力が与えられ、義務が課せられるということは、そういうことであって、聖書と並んで、そしてまた聖書なくしてもなされるというか、あるいは聖書を度外視して、人間自身の独力でなされるような思弁――こういうようなことについての思弁――をすることではない。」(『ナイン!』226頁)
ブルンナーは、聖書と天地万物との「二種類の啓示」と言っているのであって、「聖書なくしても」などとは言っていない。バルトは、「聖書を度外視して、人間自身の独力でなされるような思弁」というが、聖書を度外視した自然科学は思弁ではない。バルトこそ思弁が多い。
バルトは「聖書のみ」と言って自然神学を否定し、自然神学に対して無関心であるように説くが、このような彼の神学思想では、自然をもっぱら無神論と唯物論の独壇場にしてしまうのである。また、バルトの主張は、正しい自然神学を探究し、完全な真理を求めようとする人の道を遮断しているのである。
(3)「自然神学は偶像崇拝と迷信の根源」(?)
バルトは、「人間が事実上持っている可能性は、カルヴァンに従えば、人間自身が造り出すところの神々を認識し崇拝する可能性である。すなわち人間に今残っている神認識は、あらゆる偶像崇拝と迷信とが出て来る恐ろしき根源にほかならない」(『ナイン!』226頁)という。
確かに、ブルンナーも言っている正しくない自然神学(自然哲学)は偶像崇拝の根源であろう。バルトも彼の著『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』の中で、無神論を生み出した既存宗教の神観はすべて虚構であり、偶像崇拝であると言っている。またマルクス主義の唯物弁証法は「唯物論」であるが、「勝共理論」が暴露しているように、「唯物弁証法は存在と一致しない虚構の論理」である。したがって、唯物論を信奉することも偶像崇拝であるといえよう。
この自然と社会が闘争(憎悪)によって発展するという「虚構の理論」(偶像崇拝)に対して、神学者は無関心であることは許されない。「勝共理論」のように共産主義を批判・克服する思想(正しい自然哲学)を正しく評価しなければならない、というのである。
自然や歴史は、マルクス主義のいう対立物の闘争(憎悪)によって発展するのではなく、「宇宙の根本は愛」であり、自然は愛を動機とした相対物(ペア・システム)の授受作用によって存在し、発展するのである。
また、歴史は、歴史の担い手である歴史的グループの「召命意識」(ティリッヒ)や、国と国との授受作用によって発展するのである。相手を排斥する闘争(憎悪)は戦争思想であり、破壊をもたらすだけである。相手との授受作用による共存・共栄は、対話(愛)による平和思想である。
ところで、バルトは、「結合点」とカルヴァンとは何の関係もないと、次のように述べている。
「どうしてこの可能性がカルヴァンの神学の中で『結合点』の意味を持ちうるかは、全く察知できない。こういう可能性と神の啓示の可能性との間には、何の関係も何の一致も、したがってまた何の内的関連もない。『彼らの理性によって導かれることによって彼らは神に来ない、いな、彼らは一度も神に近づくことすらない』(ヨハネ福音書注釈、1・5、C、R、47、51)。『本当に神を崇拝する光がわれわれを照らすために、天からの啓示から(acoelestiaoctrina)事が始められねばならないのであって、聖書を学ばない人は誰も正しい、そして救う力ある啓示を少しでも味うことすらできない。神の意志がわれわれに聖書の中で神自身の方から証しをすることを、われわれが恐れおののきつつ捉える所、そこに本当の認識の起源がある。詳しく言うと、単に完全な、またあらゆる部分において正しい信仰のみでなく、あらゆる正しい神認識は、服従から生まれる』(『綱要』1・6・2)。……ただちょっとだけでも『結合点』と理解されるような取り扱い方は、全体にわたって全然見出されない。」(『ナイン!』226-227頁)
確かに、正しい神認識は、文鮮明師の御言にあるごとく「絶対信仰、絶対愛、絶対服従」からである。
ところで、バルトは、一方において、「聖書の中で神自身の方から証しをする」と上よりの恵みを強調しておきながら、他方においては人間の努力や行いを強調して、「聖書を学ばない人は誰も正しい、そして救う力ある啓示を少しでも味うことすらできない」と矛盾したことをいうのである。一体、救いは、上よりの一方的な恩寵なのか、5%の人間の決断や聖書を学ぶ努力によるのか、どちらであると言うのであろうか。
上述のバルトの主張には、その論理に一貫性がないと言われても仕方がない。恵みの光の中にあっても人間の努力は努力であって、それは神の責任分担ではなく、人間の5%の責任分担である。
(4)「神学は聖書の言葉の追思考」(実はバルトの主観的解釈)
バルトによると、「カルヴァンは、『自然的な』神認識についての、前述の原則的な(すべての神の業の中に客観的に基礎づけられた)可能性を暗示するもののあることを、常にローマ書1・20の言葉の意味において、あるいはむしろローマ書1・18-3・20の文脈全体の意味において解釈した」(『ナイン!』227頁)という。
これは、すでに指摘したように、神学は追思考(実は主観的解釈)であると言うバルトの見解を、カルヴァンの聖書解釈に対して意図的に適用した強弁である。ローマ書1・20は「自然を通しての啓示」(『原理講論』42頁)である。
ブルンナーも、「世は神によって創造されたものである。あらゆる被造物の中でその創造主の霊が何らかの仕方で認識される。すべて名人の真価は作品に現われる」(『自然と恩寵』145頁)と述べている。
しかし、バルトはローマ書1・18-3・20の文脈全体の意味において、聖書の中の否定側面(不信心と不義)のみを探し出し、「自然の啓示」(ローマ1・20)を否定しているのである。
さらに、バルトのカルヴァンについての解説は、下記のごとく続く。
「カルヴァンは、むしろ道徳的善の認識は人間の能力を基礎としてなされるということを全く否定した。彼はこの認識を、生まれ変わった者の上においても、日々新しく起こってくる恩寵であると述べている(『綱要』2・2・25)。われわれは『綱要』2・18-25の文脈の中で、ブルンナーのイマゴー論におけるのとは全く別な世界に置かれているということを見出すためには、何の特別な解釈法をも全然必要としない。」(『ナイン!』227-228頁)
上述のバルトの主張は、「二つの啓示」の一つである「キリストの啓示」のみを『綱要』の中に見出して「恩寵」を強調するが、もう一つの「自然を通しての啓示」を見ようとしない見解である。
カルヴァンが『綱要』で、「ミクロコスモス」(小宇宙)と言った人間論は、ブルンナーの「二つの啓示」の一つである「自然を通しての啓示」である。
したがって、カルヴァンの自然を通しての「イマゴー論」(人間論)はブルンナーの見解と一致している。
周知のように、ブルンナーは、人間は「形式的には神の像(imago Dei)は少しも毀損されていない。――人間は罪深くあろうとなかろうと、主体であり、責任を持つものである」(『自然と恩寵』144頁)と言い、「言語受容能力と責任応答性」があると述べている。
このように、人間には神から「話しかけられることができる」という「結合点」(言語受容能力と応答責任性)、すなわち「人間性」があるというのである。
したがって、「キリストの啓示」に応答することができ、また「自然を通しての啓示」からも神を認識するというのである。
(5)「天地万物の中における真の神認識」
バルトは、「キリストの中における神認識は、カルヴァンに従えば、天地万物の中における真の神の認識を本当に自分の中に含んでいるということは正しい。キリストの中における神認識そのものの中に、天地万物の中における神認識が含まれている!ということは、大切なことである」(『ナイン!』228頁)という。
これは、キリストは天地万物の中に、すなわち完成した人間(キリスト)は小宇宙であるとする見解であって、このバルトの主張は、天地万物の中における神認識、すなわち自然神学を「キリストの啓示」の中に包含していることを認めるかのような発言である。
しかし、他方においては、バルトは聖霊を受けて「理性が一度、蒙を啓かれる」人に対しても、自分の力で見ることを否定し、次のように述べている。
「われわれの理性が一度、蒙を啓かれると、今度はどうしてもまた自分の力で見ることができるようになるかのようになるのではない(『綱要』2・2・25)! あるいはまたこんなふうになるのでもない。すなわち後から、どうしてもキリスト教自然哲学や歴史哲学、あるいはまたキリスト教人間学やキリスト教心理学、さらにはまたキリスト教に熱心な時代解釈などが活動する余地を得て来る、というふうになるのでない! カルヴァンは言う、『キリストは、神がわれわれに単にその心のみでなく、またその手と足とを見うるようにするための像である』。しかし、カルヴァンにおいては、このキリストという主体が抽象し去られることはない――『われわれがキリストから離れるや否や、われわれは事の大小の区別なく、すべてのことの中で必然的に空想の中に落ち入らねばならなくなるであろう』。」(『ナイン!』228頁)
上述のように、聖霊を受けて蒙を啓かれた人でも、「キリストから離れるや否や……空想の中に落ち入らねばならなくなるであろう」という。それは、その通りである。しかし、キリスト教の自然哲学や歴史哲学、あるいはまたキリスト教人間学やキリスト教心理学などの諸学問は「キリストの啓示」の光の中で一層輝くと、なぜバルトは言えないのであろうか。
「キリストの啓示」によって、人間の主体性や理性が再創造されて本然性を復帰する。したがって、5%の人間の主体性と責任を認めるべきであるというのである。ブルンナーの「二種類の啓示」論は、そのことをわれわれに教えているのである。
上述の文言を見る限り、確かに、バルト神学は「聖書の啓示」以外の人間の理性による諸学問を神学の味方として見ずに排除している。
その結果、先に指摘したごとく、自然をもっぱら無神論と唯物論の独壇場にしていると言えるのである。ただし、救いにしろ、人間の問題の是正にしろ、キリストを抜きにして、人間の努力だけで成されるのではない、ということをわれわれに教えているという点だけは、傾聴に値する。
「補足」
「啓示と自然」
(1)「信仰と理性、人間の5%の努力や責任」について
バルトは、応答する能力は和解によるというが、ブルンナーは、人間の理性的本質(神の像)は罪によって実質的には歪められているとしても、神の啓示を受け容れる形式的な可能性をもつと、次のように述べている。
「人間はまた罪人としても、他人の語り相手となることができ、また神の語り相手となることもできる」(ブルンナー著『自然と恩寵』144頁)。
「形式的には神の像(imago Dei)は少しも毀損されていない」(同)。
このように、人間は主体であり、理性的存在であり、言語受容能力と応答責任性があるというのである。
和解以前のアブラハムやモーセや預言者らは、神に応答していた。これに対して、バルトは神の呼びかけに応答する能力でさえ、人間に生得のものではなく、神の啓示と聖霊の働きによって新しく創造されるものであるというのである。「聖霊のみによって――ただ恩寵のみによって」(『ナイン!』197頁)と。
バルト神学は、信仰には認識が対応している。そして、信仰が認識に先行する。これに対して、ブルンナーは次のように批判している。
「聖書が信仰を聖霊の業、聖霊の賜物と呼んでいることは確かであるが、しかし聖書は決して聖霊が私の中で信じるとは言っていない。聖霊が私のなかで信じるのではなく、私が聖霊を通して信じるのである」(『自然と恩寵』152頁)と。
上述の聖霊の賜物に関して、「統一原理」(『原理講論』)は次のように述べている。
「父母の愛がなくては、新たな命が生まれることはできない。それゆえ、我々が、コリントⅠ12章3節に記録されているみ言のように、聖霊の感動によって、イエスを救い主として信じるようになれば、霊的な真の父であるイエスと、霊的な真の母である聖霊との授受作用によって生ずる霊的な真の父母の愛を受けるようになる。そうすればここで、彼を信じる信徒たちは、その愛によって新たな命が注入され、新しい霊的自我に重生(新生)されるのである。これを霊的重生という。」(『原理講論』重生論と三位一体論、266頁)
このように、イエスと聖霊によって「新しい霊的自我」に重生(新生)されるとある。古い人間から「原理的な自我意識」(私が聖霊を通して信じる自我)を持つ、新しい人間に再創造されたのである。ただし、これは霊的重生であって、原罪清算による肉的重生(からだがあがなわれること)ではない。
(2)「正しい自然神学」
バルトは自然神学を否定するが、文鮮明師は「自然は愛の理想を教えてくれる教材だ」といわれ、「自然は第一の聖書……第二ではない」(八大教材・教本『天聖経』分冊「真の神様」より―(自然は愛の理想を教えてくれる教材)―、148頁)と力説しておられる。
マタイによる福音書には、イエス・キリストも自然を観察し、「栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(マタイ6・29)と記述されている。なんと豊かな感性で自然を見、そこから学んだ事柄を述べておられることか。
神の永遠の力と神性とは、パウロが「ローマ」1・20で記述しているように、統一原理は「被造世界を観察することによって、知ることができる」(『原理講論』42頁)と論述している。ただし、人間は神の形象的実体対象であるが、万物は象徴的実体対象である。
同様に、カルヴァンも「神の栄光のしるしは世界の構造自体の中に」と言っている。彼は〝自然神学〟を肯定している。
また、ブルンナーは「神の像」の残存と倫理の関係について次のように述べている。
「カルヴァンが、この神の像の残存ということと同一視したものは、人間性全体(das ganze humanum)、理性的性質、不死の魂、文化能力、良心、応答の責任性――それは、たとえ決して救いをもたらすものではないとしても、罪の中でもなお存在している――、神との関係、言語、文化生活全体であるからである。そしてこの神の像の残存ということの上に、カルヴァンは彼の倫理の本質的な部分を打ち立てている。」(『自然と恩寵』159頁)
このように、ブルンナーは「カルヴァンもルターも実は自然神学をめざしていた」(『自然と恩寵』159頁参照)というのである。そして、ブルンナーは、宗教改革者たちは、バルトのごとく自然神学の是非についてそんなにこだわってはいなかったと述べている。
しかし、バルトは激昂して次のように反論する。
「(改革者たちが重きをおいた)聖書の証人たちは自然と恩寵との間の弁証法的遊戯をすべて排除して、神が語るところでは、人は(ひたすら)聞かねばならない。」(『ナイン!』223頁)
しかるにブルンナーは、「カルヴァンが自然的な神認識について語った時の重大な括弧(前提)を……驚くべき自明性と徹底さをもって、捨ててしまった……(すなわち)アダムが完全になったならば、ということ」(同、228-229頁)を捨ててしまい、自分の都合のいいようにカルヴァンを用いているというのである。
また、バルトは、「もしわれわれが真の神を天地万物からして事実上キリストなくしても、そしてまた聖霊なくしても、認識しうるならば、神の像は内容的には『全くなくなっており』、教会の宣教の際には聖書のみが裁き主であり、そして人間は自分を救うためには何もなしえないと、どうして言いうるだろうか」(『ナイン!』199頁)と述べている。
以上のごとく、問題は先鋭化し複雑にみえるが、ブルンナーもバルトも神認識に関して問題の核心をついている。バルトの「キリストなくても」、「聖書のみ」という指摘は、カトリックを批判する宗教改革者の立場である。
しかし、「聖霊なくしても」とカトリック側は言っていないし、ブルンナーも言ってはいない。
ところで、カルヴァンがどのように言ったのか、その断片なりともここで取り上げておくことは、要を得ていることであろう。カルヴァンは、次のように述べている。
「神の栄光のしるしは世界の構造自体の中に、あまりに明らかに刻みつけられていて、どんな粗野な鈍い者であっても、それを知らなかったとはいえないほどだ」(『カルヴァン』久米あつみ著、講談社、24頁)
バルトは、ブルンナーに対して「アダムが完全になったならば」という「前提」を捨てていると言うが、上述のごとく、カルヴァンは完全でない人たち、すなわち「どんな粗野な鈍い者」にも、「世界の結構は……鏡の役」をしていると言い、完全であるなしにかかわらず、自然神学を肯定しているのであって、バルトのカルヴァン理解は、彼自身の神学に一致する点のみを強調する主観的解釈なのである。
人間性と神の像の残存について、カルヴァンは次のように述べている。
「主が人間本性の中に、最高の善が失われたあともいくつかの恵みを残しておいたことを学ぶのである」(『カルヴァン』久米あつみ著、講談社、45頁)と。
このように、神の像の残存が人間にあると言っている。
また、この世の諸学問について、次のように述べている。
「『最高の善』すなわち神を知り、神との正しい関係に入る賜物は失われているが、この世の諸学に関する賜物は人間の中に残されている」(同、45頁)と。
すなわち、カルヴァンは、諸学を「賜物」と言い、救いにとって、人間側の学問を無意味として辱めず、いずれ、その学問はキリストの啓示に出会い、「最高の善」に至る不可欠なものと見ているのである。
これらの恵みや賜物と神の像の関係について、カルヴァンは次のように述べている。
「神の像はアダムの罪によってわたしたちの内にいわば拭い去られている。しかし……主イエス・キリストにおいて私たちを子として受け入れ、神の像を私たちの内に再び刻みつける」(同、20-21頁)と。
「全き真理」はキリストの再臨による以外に、いかに人間がキリストの出来事を啓示として受容したとしても、明らかにされないのである。
その意味では、バルトが言うごとく〝キリスト抜き〟ではあり得ないのであるが、再臨が抜けてはならないことを、われわれは強調するのである。
換言すると、再臨のメシヤを抜きにして、十字架と復活も正しく理解できないであろうし、新約聖書と旧約聖書の中にある〝救援摂理〟に関する天の秘密も理解できないというのである。
文鮮明師は、次のように語っておられる。
「聖書を中心とする各教団の主要な経書は、人間始祖の堕落によって無知に陥った人間たちを、再び神様の前に帰す道が暗示されている秘密の啓示書です。
したがって、重大な内容が比喩と象徴で描写されているのです。比喩と象徴は、天から来るメシヤによってのみはっきりと明らかにされます。したがって……レバレント・ムーンの教えを通して、新旧約の聖書全体に貫き流れる神様の救援摂理に関する天の秘密が、明確に現されているのです。」(『平和神經』282-283頁)
ところで、バルトの神学は〝キリスト中心主義〟といわれるが、天地万物の中における神認識について、次のように述べている。
「キリストの中における神認識は、カルヴァンに従えば、天地万物の中における真の神の認識を本当に自分の中に含んでいるということは正しい。キリストの中における神認識そのものの中に、天地万物の中における神認識が含まれている!」(『ナイン!』228頁)。
このように、ブルンナーの「二種類の啓示」を認めるかのような発言をした後に、結論として次のごとく述べている。
「われわれがキリストから離れるや否や、われわれは事の大小の区別なく、すべてのことの中で必然的に空想の中に落ち入らねばならなくなるであろう」(同、228頁)と。
これが、バルトの神学が〝キリスト中心主義〟であるといわれる所以である。
ところで、ブルンナーは〝自然神学〟をただ単に肯定しているのではなく、「二つの啓示」を認めることによって肯定しているのである。
その点を理解せずに、バルトは一切の一般啓示を否定し、ただ一つの啓示、すなわち、イエス・キリストの啓示(特殊啓示)のみを説くのである。ただし、ブルンナーは、正しい自然神学は肯定しているが、偽りの自然神学は否定している。
バルトの反論(『ナイン!』)に対して、ブルンナーは直ちに『自然と恩寵』の第二版を発表した。しかしながら、バルトはこれ以上、このような議論をすることは無意味であるとして、無視したのである。
ところが、その後、『補足』で述べたように、次第にバルトはブルンナー的な方向に軌道を修正していくのである。
―了―
「主要参考資料」
『二十世紀神学の形成者たち』、笠井恵二著、新教出版社
『カール・バルト著作集2』新教出版社、ブルンナー著『自然と恩寵』
『カール・バルト著作集2』新教出版社、バルト著『ナイン!――エーミル・ブルンナーに対する答え』
世界の名著、『ルター』、中央公論社
『キリスト論論争』水垣渉・小高毅編、日本キリスト教団出版局
『カルヴァン』、久米あつみ著、講談社
『カトリックの信仰』、岩下壮一著、講談社学術文庫、
ティリッヒ『組織神学』第1巻、新教出版社
『聖霊は女性ではないのか』E・モルトマン=ヴェンデル編、内藤道雄訳、新教出版社