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ブルンナー「出会いの神学」(10)

(C)「ブルンナーとカルヴァン」に関するバルトの主張

 

次は、カルヴァンの〝自然神学〟についての、解釈の相違に関する問題である。

バルトは、まず例のごとく、バルト式にブルンナーのカルヴァンに対する理解をまとめ、それを批判するという形式をとる。

 

バルトは、「彼の自然神学は『すこぶる宗教改革的』であり(154頁)、『全くカルヴァンの思想に近い』(175頁)が、これとは逆にまたカルヴァンは少なくとも時折、神のかたちについての形式的側面に関するブルンナー自身の思想と『ほとんど全く』同じことを言っている(158頁)と、このように(彼自身は)考えている」(バルト著『ナイン!』213頁)と述べた後で、下記のごとく反論する。

 

(1)「天地万物からの神認識」 

 

カルヴァンの天地万物からの神認識について、バルトは次のような論陣を張る。

 

「カルヴァンが天地万物からする神認識とキリストの中での神認識との二つについて語ったということは真理である(例えば『綱要』1・2・1、ガリア信仰告白、1559年、第二項を比較せよ)。しかし彼は、彼が天地万物からする神認識について語った時、ブルンナーとは違って、ローマ書1・19以下、2・14以下、使徒行伝14・15以下、17・24以下においては、そのことについてそこで言われていることを、ただそれだけ語ったのである。カルヴァンは、天地万物からする神認識の中において、人間の中に残っていて、そして信仰の中で復興せしめられるような潜勢力を見出していない。すなわち、啓示に対する、またキリストの中での新生活に対する、結合点を見いだしていない。彼は、……聖書以外にさらに聖書を補う別な啓示の根源を、理性や歴史や自然の中に何とかして求め、そういうものに、少なくとも後から追加的に一つの独自の『何らかの仕方で』独立した法廷として発言せしめるという、そういうことであるが、カルヴァンはそういうことをしていない。」(『ナイン!』224-225頁)

 

上述のように、カルヴァンは天地万物からする〝神認識〟とキリストの中での〝神認識〟という二つの啓示を語ったことを、バルトは率直に認めた後で、それらの根拠としての聖書の聖句を上げて、ブルンナーとは違って「ただそれだけ語ったのである」と述べている。

 

これは、神学とは「自らにすでに与えられているもののあとを追う」追思考である(『バルト神学入門』エーバハルト・ブッシュ著、新教出版社、57頁)というバルト神学の追認である。

ちなみに、バルトが「そこで言われていることを、ただそれだけを語ったのである」と言って、取り挙げた「使徒行伝14・15以下」には、次のように記述されている。

 

「神は過ぎ去った時代には、すべての国々の人が、それぞれの道を行くままにしておかれたが、それでも、ご自分のことをあかししないでおられたわけではない。すなわち、あなたがたのために天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たすなど、いろいろのめぐみをお与えになっているのである。」(使徒行伝14・16-17)

 

バルトは、選民以外の諸宗教を偶像崇拝といって否定するが、神は「すべての国々の人」に「ご自分のことをあかし」し、「キリストの啓示」以外に、ブルンナーがいうように、「いろいろのめぐみ」をお与えになっているのである。バルトは、神学は追思考であるといい、「聖書」に聞くというが、上述の「使徒行伝14・16-17」を追思考すれば、バルトの誤りは一目瞭然である。

そして、バルトは「聖書以外にさらに聖書を補う別な啓示の根源を、理性や歴史や自然の中に何とかして求め、そういうものに、……発言せしめるという……カルヴァンはそういうことをしていない」と主張する。これは、カルヴァンの神学をバルト自身の神学に一致させんとする強弁である。カルヴァンが、諸学問を賜物と認めていることで、バルトの主張は崩壊する。

 

同じことであるが、また次のように述べている。

 

「彼(カルヴァン)は異教徒にもキリスト者にも聖書のほかに第二の啓示の根源を与えなかったこと、さらにまた、彼の神学は根本においては聖書注釈であって、そのほかにまた人間学とか歴史学とか自然哲学のようなものでもあったのではないこと、そういうことに対しては、異論をはさむことはできないであろう。」(『ナイン!』225頁)

 

このようにバルトは、カルヴァンは「聖書のほかに第二の啓示の根源を与えなかった」といい、「人間学とか歴史学とか自然哲学のようなもの」の中に啓示を認めていないというのである。

 

しかし、カルヴァンは、彼の主著『キリスト教綱要』で、次のように述べている。

 

「主が人間本性の中に、最高の善が失われたあともいくつかの恵みを残しておいたことを学ぶのである。」(『カルヴァン』久米あつみ著、講談社、45頁)

 

また、「『最高の善』すなわち神を知り、神との正しい関係に入る賜物は失われているが、この世の諸学に関する賜物は人間の中に残されている」(同、45頁)と。

 

このようにカルヴァンは、堕落後も、人間の中に「主は……いくつかの恵みを残しておいた」といい、諸学を賜物と考えている。

言い換えると、カルヴァンは諸学問、すなわち「人間学」や「歴史学」や「自然哲学」を賜物と言っているのである。

 

ちなみに、ティリッヒは「真の啓示の超自然主義的歪曲わいきょくに対する戦いにおいて、科学、心理学、歴史学は神学の味方である」(『組織神学』第1巻、147頁)と述べている。

 

カルヴァンは『キリスト教綱要』の中で〝自然神学〟を肯定して、次のように述べている。

 

「第一巻第五章 世界の構造と統治の中に明白な神の認識」の個所で、「人体がたくみに構成されているのであるから、それを造られた御方が当然、感嘆せられなければならないと判断することは、万人の告白である」。「人間のことを『ミクロコスモス』(小宇宙)と呼んだのは当を得たことである」(『カルヴァン』久米あつみ著、講談社、224-225頁)と。

 

このように、カルヴァンは、人間を〝ミクロコスモス(小宇宙)〟と呼んだのは当を得たことだと述べている。彼は、神は自然を通して〝啓示する〟ことを肯定しているのであって、バルトの言うように否定してはいない。

 

原理的に見れば、世界の構造の中に神を認識し、人間を〝小宇宙〟と捉えている点は、統一原理の見解と一致している。

 

また、バルトは、理性や歴史や自然の中に聖書を補う啓示の存在を否定するが、統一原理は、旧約聖書と新約聖書を対照し、キリスト教史がイエス以後の復帰摂理歴史(再創造史、救済史)であることを、次のように述べている。

 

「旧約と新約の聖書を対照してみれば、旧約聖書の律法書(創世記から申命記までの5巻)、歴史書(ヨシュア記からエステル記までの12巻)、詩文書(ヨブ記から雅歌までの5巻)、預言書(イザヤ書からマラキ書までの17巻)は、各々新約聖書の福音書、使徒行伝、使徒書簡、ヨハネ黙示録に該当する。しかし、旧約聖書の歴史書には、第一イスラエルの2000年の歴史が全部記録されているが、新約聖書の使徒行伝には、イエス当時の第二イスラエル(キリスト教信徒)の歴史だけしか記録されていない。それゆえに、新約聖書の使徒行伝が、旧約聖書の歴史書に該当する内容となるためには、イエス以後2000年のキリスト教史が、そこに添加されなければならないのである。したがって、キリスト教史は、イエス以後の復帰摂理歴史をつくる史料となるのである。」(『原理講論』467頁 注:ゴシック太字は筆者による)

 

バルトの「聖書のみ」とは、イエス以後の「使徒行伝」は認めるが、そこから続く「歴史」(キリスト教史)の中に〝神の摂理(聖書以外の啓示)〟を見ようとしない見解である。それは、ブルンナーもティリッヒも言っているように、バルトの偏った啓示概念によるのである。

 

われわれは、バルトの福音主義神学に固執して、ブルンナーのいう正しい自然神学を頑迷がんめいに否定するのは、大きな損害であると考える。バルトの福音主義は、神による上からの一方的な「恵み」のみを強調し、人間側からの一切の「努力や行い」(5%の責任分担―人間の努力)を否定する。その結果、どのような影響を教会と社会に与えることになるかを次のように考察している。

 

それは、①倫理道徳を救いと無関係として退廃させ、②人間の一切の努力を無意味にし、③諸学問を人間的要素としてはずかしめ、④あらゆる修行(「行い」)を否定して人間の霊性を枯渇こかつさせ、⑤人間の世俗化に無関心となり、⑥啓示を歴史の一回きりの出来事(キリストの啓示のみ)とし、⑦自分以外の教義(存在論からの神認識や歴史における啓示)を否定し、他宗教を偶像崇拝と言って排除する。⑧すべてにおいて非寛容となり、無関心となり、孤立化させ、反社会的となる。⑨環境破壊や汚染水は人類の危機であるが、自然神学を否定するバルトのキリスト論的集中の神学では、一言も発言することができないのである。

 

バルトらの福音主義には、以上のような問題点があるのである。

 

(2)バルトの「聖書の啓示のみ」について

 

バルトは、次のように聖書のみを強調する。

 

「人間の存在と全世界の存在とを神の知恵と天父の摂理が支配するということ、さらにまたこの世には神の諸秩序があること、そしてその諸秩序の中で人間が神の意志をあがめねばならないというような秩序はいかなるものであるかということ、そういうことをカルヴァンは聖書から聞く。カルヴァンが人間には本当に全く天地万物の中ではかくされているところの神を讃美することに心を奪われ酔わしめられるのは聖書を通してである。キリストの中で罪をあがなわれた人間に、能力が与えられ、義務が課せられるということは、そういうことであって、聖書と並んで、そしてまた聖書なくしてもなされるというか、あるいは聖書を度外視して、人間自身の独力でなされるような思弁――こういうようなことについての思弁――をすることではない。」(『ナイン!』226頁)

 

ブルンナーは、聖書と天地万物との「二種類の啓示」と言っているのであって、「聖書なくしても」などとは言っていない。バルトは、「聖書を度外視して、人間自身の独力でなされるような思弁」というが、聖書を度外視した自然科学は思弁ではない。バルトこそ思弁が多い。

バルトは「聖書のみ」と言って自然神学を否定し、自然神学に対して無関心であるように説くが、このような彼の神学思想では、自然をもっぱら無神論と唯物論の独壇場にしてしまうのである。また、バルトの主張は、正しい自然神学を探究し、完全な真理を求めようとする人の道を遮断しゃだんしているのである。

 

(3)「自然神学は偶像崇拝と迷信の根源」(?)

 

バルトは、「人間が事実上持っている可能性は、カルヴァンに従えば、人間自身が造り出すところの神々を認識し崇拝する可能性である。すなわち人間に今残っている神認識は、あらゆる偶像崇拝と迷信とが出て来る恐ろしき根源にほかならない」(『ナイン!』226頁)という。

 

確かに、ブルンナーも言っている正しくない自然神学(自然哲学)は偶像崇拝の根源であろう。バルトも彼の著『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』の中で、無神論を生み出した既存宗教の神観はすべて虚構であり、偶像崇拝であると言っている。またマルクス主義の唯物弁証法は「唯物論」であるが、「勝共理論」が暴露しているように、「唯物弁証法は存在と一致しない虚構の論理」である。したがって、唯物論を信奉することも偶像崇拝であるといえよう。

この自然と社会が闘争(憎悪)によって発展するという「虚構の理論」(偶像崇拝)に対して、神学者は無関心であることは許されない。「勝共理論」のように共産主義を批判・克服する思想(正しい自然哲学)を正しく評価しなければならない、というのである。

 

自然や歴史は、マルクス主義のいう対立物の闘争(憎悪)によって発展するのではなく、「宇宙の根本は愛」であり、自然は愛を動機とした相対物(ペア・システム)の授受作用によって存在し、発展するのである。

また、歴史は、歴史の担い手である歴史的グループの「召命意識」(ティリッヒ)や、国と国との授受作用によって発展するのである。相手を排斥する闘争(憎悪)は戦争思想であり、破壊をもたらすだけである。相手との授受作用による共存・共栄は、対話(愛)による平和思想である。

 

ところで、バルトは、「結合点」とカルヴァンとは何の関係もないと、次のように述べている。

 

「どうしてこの可能性がカルヴァンの神学の中で『結合点』の意味を持ちうるかは、全く察知できない。こういう可能性と神の啓示の可能性との間には、何の関係も何の一致も、したがってまた何の内的関連もない。『彼らの理性によって導かれることによって彼らは神に来ない、いな、彼らは一度も神に近づくことすらない』(ヨハネ福音書注釈、1・5、C、R、47、51)。『本当に神を崇拝する光がわれわれを照らすために、天からの啓示から(acoelestiaoctrina)事が始められねばならないのであって、聖書を学ばない人は誰も正しい、そして救う力ある啓示を少しでも味うことすらできない。神の意志がわれわれに聖書の中で神自身の方から証しをすることを、われわれが恐れおののきつつ捉える所、そこに本当の認識の起源がある。詳しく言うと、単に完全な、またあらゆる部分において正しい信仰のみでなく、あらゆる正しい神認識は、服従から生まれる』(『綱要』1・6・2)。……ただちょっとだけでも『結合点』と理解されるような取り扱い方は、全体にわたって全然見出されない。」(『ナイン!』226-227頁)

 

確かに、正しい神認識は、文鮮明師の御言みことばにあるごとく「絶対信仰、絶対愛、絶対服従」からである。

ところで、バルトは、一方において、「聖書の中で神自身の方から証しをする」と上よりの恵みを強調しておきながら、他方においては人間の努力や行いを強調して、「聖書を学ばない人は誰も正しい、そして救う力ある啓示を少しでも味うことすらできない」と矛盾したことをいうのである。一体、救いは、上よりの一方的な恩寵なのか、5%の人間の決断や聖書を学ぶ努力によるのか、どちらであると言うのであろうか。

 

上述のバルトの主張には、その論理に一貫性がないと言われても仕方がない。恵みの光の中にあっても人間の努力は努力であって、それは神の責任分担ではなく、人間の5%の責任分担である。

 

(4)「神学は聖書の言葉の追思考」(実はバルトの主観的解釈)

 

バルトによると、「カルヴァンは、『自然的な』神認識についての、前述の原則的な(すべての神の業の中に客観的に基礎づけられた)可能性を暗示するもののあることを、常にローマ書1・20の言葉の意味において、あるいはむしろローマ書1・18-3・20の文脈全体の意味において解釈した」(『ナイン!』227頁)という。

 

これは、すでに指摘したように、神学は追思考(実は主観的解釈)であると言うバルトの見解を、カルヴァンの聖書解釈に対して意図的に適用した強弁である。ローマ書1・20は「自然を通しての啓示」(『原理講論』42頁)である。

ブルンナーも、「世は神によって創造されたものである。あらゆる被造物の中でその創造主の霊が何らかの仕方で認識される。すべて名人の真価は作品に現われる」(『自然と恩寵』145頁)と述べている。

 

しかし、バルトはローマ書1・18-3・20の文脈全体の意味において、聖書の中の否定側面(不信心と不義)のみを探し出し、「自然の啓示」(ローマ1・20)を否定しているのである。

 

さらに、バルトのカルヴァンについての解説は、下記のごとく続く。

 

「カルヴァンは、むしろ道徳的善の認識は人間の能力を基礎としてなされるということを全く否定した。彼はこの認識を、生まれ変わった者の上においても、日々新しく起こってくる恩寵であると述べている(『綱要』2・2・25)。われわれは『綱要』2・18-25の文脈の中で、ブルンナーのイマゴー論におけるのとは全く別な世界に置かれているということを見出すためには、何の特別な解釈法をも全然必要としない。」(『ナイン!』227-228頁)

 

上述のバルトの主張は、「二つの啓示」の一つである「キリストの啓示」のみを『綱要』の中に見出して「恩寵」を強調するが、もう一つの「自然を通しての啓示」を見ようとしない見解である。

カルヴァンが『綱要』で、「ミクロコスモス」(小宇宙)と言った人間論は、ブルンナーの「二つの啓示」の一つである「自然を通しての啓示」である。

したがって、カルヴァンの自然を通しての「イマゴー論」(人間論)はブルンナーの見解と一致している。

 

周知のように、ブルンナーは、人間は「形式的には神の像(imago Dei)は少しも毀損きそんされていない。――人間は罪深くあろうとなかろうと、主体であり、責任を持つものである」(『自然と恩寵』144頁)と言い、「言語受容能力と責任応答性」があると述べている。

このように、人間には神から「話しかけられることができる」という「結合点」(言語受容能力と応答責任性)、すなわち「人間性」があるというのである。

したがって、「キリストの啓示」に応答することができ、また「自然を通しての啓示」からも神を認識するというのである。

 

(5)「天地万物の中における真の神認識」

 

バルトは、「キリストの中における神認識は、カルヴァンに従えば、天地万物の中における真の神の認識を本当に自分の中に含んでいるということは正しい。キリストの中における神認識そのものの中に、天地万物の中における神認識が含まれている!ということは、大切なことである」(『ナイン!』228頁)という。

 

これは、キリストは天地万物の中に、すなわち完成した人間(キリスト)は小宇宙であるとする見解であって、このバルトの主張は、天地万物の中における神認識、すなわち自然神学を「キリストの啓示」の中に包含していることを認めるかのような発言である。

 

しかし、他方においては、バルトは聖霊を受けて「理性が一度、もうひらかれる」人に対しても、自分の力で見ることを否定し、次のように述べている。

 

「われわれの理性が一度、蒙を啓かれると、今度はどうしてもまた自分の力で見ることができるようになるかのようになるのではない(『綱要』2・2・25)! あるいはまたこんなふうになるのでもない。すなわち後から、どうしてもキリスト教自然哲学や歴史哲学、あるいはまたキリスト教人間学やキリスト教心理学、さらにはまたキリスト教に熱心な時代解釈などが活動する余地を得て来る、というふうになるのでない! カルヴァンは言う、『キリストは、神がわれわれに単にその心のみでなく、またその手と足とを見うるようにするための像である』。しかし、カルヴァンにおいては、このキリストという主体が抽象し去られることはない――『われわれがキリストから離れるや否や、われわれは事の大小の区別なく、すべてのことの中で必然的に空想の中に落ち入らねばならなくなるであろう』。」(『ナイン!』228頁)

 

上述のように、聖霊を受けて蒙を啓かれた人でも、「キリストから離れるや否や……空想の中に落ち入らねばならなくなるであろう」という。それは、その通りである。しかし、キリスト教の自然哲学や歴史哲学、あるいはまたキリスト教人間学やキリスト教心理学などの諸学問は「キリストの啓示」の光の中で一層輝くと、なぜバルトは言えないのであろうか。

「キリストの啓示」によって、人間の主体性や理性が再創造されて本然性を復帰する。したがって、5%の人間の主体性と責任を認めるべきであるというのである。ブルンナーの「二種類の啓示」論は、そのことをわれわれに教えているのである。

 

上述の文言を見る限り、確かに、バルト神学は「聖書の啓示」以外の人間の理性による諸学問を神学の味方として見ずに排除している。

その結果、先に指摘したごとく、自然をもっぱら無神論と唯物論の独壇場にしていると言えるのである。ただし、救いにしろ、人間の問題の是正にしろ、キリストを抜きにして、人間の努力だけで成されるのではない、ということをわれわれに教えているという点だけは、傾聴に値する。

 

 

「補足」

 

「啓示と自然」

 

(1)「信仰と理性、人間の5%の努力や責任」について

 

バルトは、応答する能力は和解によるというが、ブルンナーは、人間の理性的本質(神の像)は罪によって実質的には歪められているとしても、神の啓示を受け容れる形式的な可能性をもつと、次のように述べている。

 

「人間はまた罪人としても、他人の語り相手となることができ、また神の語り相手となることもできる」(ブルンナー著『自然と恩寵』144頁)。

「形式的には神のかたち(imago Dei)は少しも毀損きそんされていない」(同)。

 

このように、人間は主体であり、理性的存在であり、言語受容能力と応答責任性があるというのである。

 

和解以前のアブラハムやモーセや預言者らは、神に応答していた。これに対して、バルトは神の呼びかけに応答する能力でさえ、人間に生得のものではなく、神の啓示と聖霊の働きによって新しく創造されるものであるというのである。「聖霊のみによって――ただ恩寵のみによって」(『ナイン!』197頁)と。

 

バルト神学は、信仰には認識が対応している。そして、信仰が認識に先行する。これに対して、ブルンナーは次のように批判している。

 

「聖書が信仰を聖霊のわざ、聖霊の賜物と呼んでいることは確かであるが、しかし聖書は決して聖霊が私の中で信じるとは言っていない。聖霊が私のなかで信じるのではなく、私が聖霊を通して信じるのである」(『自然と恩寵』152頁)と。

 

上述の聖霊の賜物に関して、「統一原理」(『原理講論』)は次のように述べている。

 

「父母の愛がなくては、新たな命が生まれることはできない。それゆえ、我々が、コリントⅠ12章3節に記録されているみことばのように、聖霊の感動によって、イエスを救い主として信じるようになれば、霊的な真の父であるイエスと、霊的な真の母である聖霊との授受作用によって生ずる霊的な真の父母の愛を受けるようになる。そうすればここで、彼を信じる信徒たちは、その愛によって新たな命が注入され、新しい霊的自我に重生じゅうせい(新生)されるのである。これを霊的重生という。」(『原理講論』重生論と三位一体論、266頁)

 

このように、イエスと聖霊によって「新しい霊的自我」に重生(新生)されるとある。古い人間から「原理的な自我意識」(私が聖霊を通して信じる自我)を持つ、新しい人間に再創造されたのである。ただし、これは霊的重生であって、原罪清算による肉的重生(からだがあがなわれること)ではない。

 

(2)「正しい自然神学」

 

バルトは自然神学を否定するが、文鮮明師は「自然は愛の理想を教えてくれる教材だ」といわれ、「自然は第一の聖書……第二ではない」(八大教材・教本『天聖経』分冊「真の神様」より―(自然は愛の理想を教えてくれる教材)―、148頁)と力説しておられる。

 

マタイによる福音書には、イエス・キリストも自然を観察し、「栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(マタイ6・29)と記述されている。なんと豊かな感性で自然を見、そこから学んだ事柄を述べておられることか。

 

神の永遠の力と神性とは、パウロが「ローマ」1・20で記述しているように、統一原理は「被造世界を観察することによって、知ることができる」(『原理講論』42頁)と論述している。ただし、人間は神の形象的実体対象であるが、万物は象徴的実体対象である。

同様に、カルヴァンも「神の栄光のしるしは世界の構造自体の中に」と言っている。彼は〝自然神学〟を肯定している。

 

また、ブルンナーは「神の像」の残存と倫理の関係について次のように述べている。

 

「カルヴァンが、この神の像の残存ということと同一視したものは、人間性全体(das ganze humanum)、理性的性質、不死の魂、文化能力、良心、応答の責任性――それは、たとえ決して救いをもたらすものではないとしても、罪の中でもなお存在している――、神との関係、言語、文化生活全体であるからである。そしてこの神の像の残存ということの上に、カルヴァンは彼の倫理の本質的な部分を打ち立てている。」(『自然と恩寵』159頁)

 

このように、ブルンナーは「カルヴァンもルターも実は自然神学をめざしていた」(『自然と恩寵』159頁参照)というのである。そして、ブルンナーは、宗教改革者たちは、バルトのごとく自然神学の是非についてそんなにこだわってはいなかったと述べている。

 

しかし、バルトは激昂げっこうして次のように反論する。

 

「(改革者たちが重きをおいた)聖書の証人たちは自然と恩寵との間の弁証法的遊戯ゆうぎをすべて排除して、神が語るところでは、人は(ひたすら)聞かねばならない。」(『ナイン!』223頁)

しかるにブルンナーは、「カルヴァンが自然的な神認識について語った時の重大な括弧(前提)を……驚くべき自明性と徹底さをもって、捨ててしまった……(すなわち)アダムが完全になったならば、ということ」(同、228-229頁)を捨ててしまい、自分の都合のいいようにカルヴァンを用いているというのである。

 

また、バルトは、「もしわれわれが真の神を天地万物からして事実上キリストなくしても、そしてまた聖霊なくしても、認識しうるならば、神の像は内容的には『全くなくなっており』、教会の宣教の際には聖書のみが裁き主であり、そして人間は自分を救うためには何もなしえないと、どうして言いうるだろうか」(『ナイン!』199頁)と述べている。

 

以上のごとく、問題は先鋭せんえい化し複雑にみえるが、ブルンナーもバルトも神認識に関して問題の核心をついている。バルトの「キリストなくても」、「聖書のみ」という指摘は、カトリックを批判する宗教改革者の立場である。

しかし、「聖霊なくしても」とカトリック側は言っていないし、ブルンナーも言ってはいない。

 

ところで、カルヴァンがどのように言ったのか、その断片なりともここで取り上げておくことは、要を得ていることであろう。カルヴァンは、次のように述べている。

 

「神の栄光のしるしは世界の構造自体の中に、あまりに明らかに刻みつけられていて、どんな粗野そやな鈍い者であっても、それを知らなかったとはいえないほどだ」(『カルヴァン』久米あつみ著、講談社、24頁)

 

バルトは、ブルンナーに対して「アダムが完全になったならば」という「前提」を捨てていると言うが、上述のごとく、カルヴァンは完全でない人たち、すなわち「どんな粗野な鈍い者」にも、「世界の結構は……鏡の役」をしていると言い、完全であるなしにかかわらず、自然神学を肯定しているのであって、バルトのカルヴァン理解は、彼自身の神学に一致する点のみを強調する主観的解釈なのである。

 

人間性と神の像の残存について、カルヴァンは次のように述べている。

 

「主が人間本性の中に、最高の善が失われたあともいくつかの恵みを残しておいたことを学ぶのである」(『カルヴァン』久米あつみ著、講談社、45頁)と。

 

このように、神の像の残存が人間にあると言っている。

また、この世の諸学問について、次のように述べている。

 

「『最高の善』すなわち神を知り、神との正しい関係に入る賜物は失われているが、この世の諸学に関する賜物は人間の中に残されている」(同、45頁)と。

 

すなわち、カルヴァンは、諸学を「賜物」と言い、救いにとって、人間側の学問を無意味として辱めず、いずれ、その学問はキリストの啓示に出会い、「最高の善」に至る不可欠なものと見ているのである。

 

これらの恵みや賜物と神の像の関係について、カルヴァンは次のように述べている。

 

「神の像はアダムの罪によってわたしたちの内にいわば拭い去られている。しかし……主イエス・キリストにおいて私たちを子として受け入れ、神の像を私たちの内に再び刻みつける」(同、20-21頁)と。

 

「全き真理」はキリストの再臨による以外に、いかに人間がキリストの出来事を啓示として受容したとしても、明らかにされないのである。

その意味では、バルトが言うごとく〝キリスト抜き〟ではあり得ないのであるが、再臨が抜けてはならないことを、われわれは強調するのである。

換言すると、再臨のメシヤを抜きにして、十字架と復活も正しく理解できないであろうし、新約聖書と旧約聖書の中にある〝救援摂理〟に関する天の秘密も理解できないというのである。

 

文鮮明師は、次のように語っておられる。

 

「聖書を中心とする各教団の主要な経書は、人間始祖の堕落によって無知に陥った人間たちを、再び神様の前に帰す道が暗示されている秘密の啓示書です。

したがって、重大な内容が比喩と象徴で描写されているのです。比喩と象徴は、天から来るメシヤによってのみはっきりと明らかにされます。したがって……レバレント・ムーンの教えを通して、新旧約の聖書全体に貫き流れる神様の救援摂理に関する天の秘密が、明確に現されているのです。」(『平和神經』282-283頁)

 

ところで、バルトの神学は〝キリスト中心主義〟といわれるが、天地万物の中における神認識について、次のように述べている。

 

「キリストの中における神認識は、カルヴァンに従えば、天地万物の中における真の神の認識を本当に自分の中に含んでいるということは正しい。キリストの中における神認識そのものの中に、天地万物の中における神認識が含まれている!」(『ナイン!』228頁)。

 

このように、ブルンナーの「二種類の啓示」を認めるかのような発言をした後に、結論として次のごとく述べている。

 

「われわれがキリストから離れるや否や、われわれは事の大小の区別なく、すべてのことの中で必然的に空想の中に落ち入らねばならなくなるであろう」(同、228頁)と。

 

これが、バルトの神学が〝キリスト中心主義〟であるといわれる所以である。

 

ところで、ブルンナーは〝自然神学〟をただ単に肯定しているのではなく、「二つの啓示」を認めることによって肯定しているのである。

その点を理解せずに、バルトは一切の一般啓示を否定し、ただ一つの啓示、すなわち、イエス・キリストの啓示(特殊啓示)のみを説くのである。ただし、ブルンナーは、正しい自然神学は肯定しているが、偽りの自然神学は否定している。

 

バルトの反論(『ナイン!』)に対して、ブルンナーは直ちに『自然と恩寵』の第二版を発表した。しかしながら、バルトはこれ以上、このような議論をすることは無意味であるとして、無視したのである。

ところが、その後、『補足』で述べたように、次第にバルトはブルンナー的な方向に軌道を修正していくのである。

―了―

 

「主要参考資料」

 

『二十世紀神学の形成者たち』、笠井恵二著、新教出版社

『カール・バルト著作集2』新教出版社、ブルンナー著『自然と恩寵』

『カール・バルト著作集2』新教出版社、バルト著『ナイン!――エーミル・ブルンナーに対する答え』

世界の名著、『ルター』、中央公論社

『キリスト論論争』水垣渉・小高毅編、日本キリスト教団出版局

『カルヴァン』、久米あつみ著、講談社

『カトリックの信仰』、岩下壮一著、講談社学術文庫、

ティリッヒ『組織神学』第1巻、新教出版社

『聖霊は女性ではないのか』E・モルトマン=ヴェンデル編、内藤道雄訳、新教出版社

 

ブルンナー「出会いの神学」(9)

(B)「ブルンナーの『六つの命題』に対するバルトの反論」

 

バルトはブルンナーの「私の反対命題とその基礎づけ」(六つの命題)に対して下記のごとく反論している。

 

(1)ブルンナーの「神の像」の理解に対するバルトの批判について

 

バルトは、ブルンナーの「神のかたち」の解釈について、次のようにバルト式にまとめている。

 

「上述の人間の『啓示能力』という言葉は、ブルンナーに従えば(143頁以下 注:ブルンナー著『自然と恩寵』のページ数)、人間の持っている『神の像』を意味する。『人間の持っている神の像はその形式的側面からすると全然こわれていないということが、神の啓示に対する客観的可能性である』(172頁)。ブルンナーは力を入れてこう言う――被造物の中で人間を特に顕著なものとして区別するものは、人間における純粋に形式的なもの、すなわち『人間性』、主体性、理性的なもの、応答責任性のことであって、それが人間の信仰の可能性の前提であると共にまた罪を犯す可能性の前提でもある。こういう前提、すなわち人格的存在であるということは、罪によってなくならされてはいない。したがって、こういう形式的意味において人間の中にある本来の神の像はこわれていない。――事実上、こわれていないではないか。人間は罪人であっても、やはり人間であって、材木や丸太にはならない。しかし、それだからと言って人間の理性は神の本質を規定するのには、この世の中の何か外のものよりも、より適したものであるだろうか(170頁)。」(バルト著『ナイン!』196頁)

 

人間の理性に関して、バルトは上述のごとく、理性は「人間の信仰の可能性の前提である」と述べたブルンナーの見解を取り上げて批判している。しかしブルンナーは、そのようなバルトが批判する自然的理性だけでなく、啓示の光の中にある理性に関しても述べている。言い換えると、第一に、人間の理性に関して、神から離反している理性(人間の信仰の可能性の前提である)と、第二に、恩寵を受容した理性の二つを述べている。しかし、バルトは、前者のみを主張し、後者を否定する。

 

ところで、バルトは、ブルンナーの「神の像」の理解を「啓示能力」と言い換えている。それで、読者はバルトのいう「啓示能力」では、ブルンナーのいう「神の像」の意味がわからなくなる。したがって、バルトが「啓示能力」といって批判する時、ブルンナーのいう「神の像」、すなわち、人間は主体であり理性的存在であるということ、罪人であるとしても〝言語受容能力〟と〝応答責任性〟があり、人間は〝特殊な地位〟にあるということを想起しなければならない。

 

はじめに、恩寵について、バルトは「泳ぐ運動」の譬えをもって、次のようにブルンナーを批判する。

 

「水泳の達人によって瀕死ひんしから救われた人間が、自分は依然として人間であって鉛の塊でないという明白なことを、彼の『救われる能力』だと主張するなら、それはおかしくはないか、――と、全く偶然にもある人がブルンナーの書物のこの個所から受けた印象をはっきりと述べた。一人の人が自分も泳ぐ運動とでも言うようなことをすることによって、自分を救ってくれる人を助けたと言いうるのなら、それは救われうる能力だということができるだろうが、そう言えないなら、それはおかしい言葉である。ブルンナーはそういうことを考えることができるのだろうか。否、決してそうでないはずである。われわれは『自分自身で自分を救うために何もできない人間』ということを彼が語るのを聞いた。」(『ナイン!』196頁)

 

このように、バルトは、ブルンナーの「啓示能力」、すなわちブルンナーのいう「神の像」(人間は主体であり、理性的存在である。言語受容能力と応答責任性がある)を、自分も泳ぐ運動で、自分を救ってくれる人を助ける能力であると解釈する。それは、救われうる能力であるという譬えでもって表現し、「自分自身で自分を救うために何もできない人間である」という主張と矛盾するではないか、と批判するのである。

 

そして、バルトは、ブルンナーの「啓示能力」(応答責任性)を、さらに次のように批判する。

 

「あの『啓示能力』と言われているものは、啓示の中で人間に与えられる神の恩寵の働きに対して、人間がその仕事仲間として協力することであるかのように見えるような、そういう見方のことである。……ブルンナーは、宗教改革者たちの『聖霊のみによって――ただ恩寵のみによって』という主張を無条件的に認めることと少しも矛盾することなしに、しかもなおああいう自明なことについて一言だけでも言えるだろうか」(『ナイン!』197頁)と。

 

これは、従来からあるカトリックの協働きょうどう説に対する批判を、ブルンナーに適用したものである。すなわち、バルトの「恩寵のみ」という主張は、恩寵を受容する前提条件である「人間の決断や努力」(5%の責任分担)を否定する宗教改革者ルターの見解と同様のものである。

 

上述のバルトの「泳ぐ運動」の譬えに対抗して、ここで、カトリック側からの「嵐の中の船と船乗り」や「収穫の労働」の譬えを紹介しておこう。

 

「それでも、幇助ほうじょの恩恵によるのでなければ、得ようと努力している目的物を獲得することはできないのであるが、私たちの意志は何もなしていないのではない。……たとえば、激しい嵐の中から船を無傷で港へ導き入れた船乗りが、『私が船を救った』と言わず、『神が救いたもうた』と言うようなものだ。だが、彼の技術と努力が何ら働きをしなかったわけではない。同様に、豊かな収穫を畑から納屋へ運び入れている農夫は、『私がこんなに多量な年収穫高をあげた』と言わないで、『神がお与えになった』と語る。しかし、そうだからといって、農夫が穀物の収穫のために何の働きもしなかったと言う者があろうか。……しかし神の好意が近づかなければ、人間のわざは何の成果もあげえないから、全体が神の恵みに帰せられているのである。」(『世界の名著18・ルター』、中央公論社、229頁)

 

「嵐の中の船と船乗り」や「収穫の労働」の譬は、〝恩寵のみ〟を強調して「人間の努力」を否定するルターの見解を批判したもので、カトリックの「恩恵と自由意志の関係」についての「協働説」を説いたものである。

この譬えは、統一原理の説く「神の95%の責任分担」と「人間の5%の責任分担」の関係を表現している。

 

以上にように、「嵐の中の舟と船乗り」や「収穫の労働」の譬えと、バルトの「泳ぐ運動」の譬えとを対比すると、カトリックとプロテスタントの主張の相違点がよく分かる。

そして、バルトが、「聖霊のみによって――ただ恩寵のみによって」と述べる〝恩寵のみ〟の主張と、カトリックの「協働説」の対立を、統一原理によって矛盾することなく整理することができる。

 

協働説を原理的に解説すると、み旨の100%の成就において、「神の95%の責任分担」(恩寵)と「人間の5%の責任分担」(船乗りの努力)があるという意味である。その上で、み旨が成就すれば全体(100%)が神の恵みであると言って神に感謝するのである。そして、救われたのは〝自分の努力〟によるのではなく、〝神による〟と言って、神に感謝するのである。

 

ただし、統一原理は5%の「人間の努力」について、次のように述べている。

 

「人間の責任分担5%というのは、神の責任分担に比べて、ごく小さいものであるということを表示したものである。しかし、これが人間自身においては、100%に該当するということを知らなければならない」(『原理講論』243-244頁)と。

 

(2)「二種類の啓示」(「自然を通しての啓示」と「キリストの啓示」)について

 

バルトは、ブルンナーの「二つの啓示」について、次のようにまとめている。

 

「神は人間にとっては、神の創造した世界を通して『何らかの仕方で認識されうる』ということ(145頁)、『人間は何らかの仕方で神の意志を知る』(145頁)ということについて述べている。『神がこの世を創造することは、同時にまた神が啓示することであり、神が自己を伝達することである』(145頁)。そして、その神の啓示、自己伝達が認識されうるという可能性そのものは、罪によってももちろんゆがめられてはいるが、破壊されていない。この世を通しての神の啓示認識だけでは、救いをもたらす神の認識とはならない。天地万物の中での啓示も『それの完全な姿の中で』認識しうるのは、『キリストによってもうひらかれた人』のみである。しかし、天地万物の中での啓示は、キリストによって蒙を啓かれたとは言えない人にとっても、歪み、ぼかされてはいるが、とにかく何らかの仕方で認識されうる。」(バルト著『ナイン!』197頁)

 

上述のように述べた後に、次のように批判する。

 

「『自分自身によって自分を救うために何もなしえない』ならば、われわれが天地万物から事実上見出す神認識の対象として考察しうるものは、何としてもそういうものにほかならない。しかし、ブルンナーはそうは考えないし、またそうは言わない。」(同、『ナイン!』198頁)

 

ブルンナーは、「キリストの啓示」を受けていない人であっても、不完全であるが、自然を通して神を認識すると言っているのである。救われるか、救われないかという問題ではなく、真の神を認識できるか否かという認識論の問題なのである。しかし、バルトは、この〝認識論〟の問題を〝救済論〟の問題へと論点をずらして批判をしているのである。

 

このようにバルトは、救済論の観点から神認識の問題を取り上げ、キリストを抜きにして天地万物から神をいくら認識しても、その人は、キリストを知らないので不完全な神認識であって救われていないといい、そのような神認識ではないかと批判しているのである。

しかし、「バルトの神認識も不完全で真理の一部分であるに過ぎないのであって、完全な救いではない。そのような神認識である(コリントⅠ、13・9-10)」と、バルトの批判をバルトにも投げ返しておきたい。

 

ところで、話をもとに戻すが、ブルンナーは「二種類の啓示」と言っているのであって、キリストの啓示を抜きにしているのではない。そして、自然神学は余計なものではないと言っているのである。しかし、バルトは余計なものとして、自然神学を徹底的に排斥するのである。ここが、神認識における両者の相違点なのである。

 

バルトは、ブルンナーの「自然を通しての啓示」(自然神学)について、次のように批判している。

 

天地万物の中で啓示される神は、人間には全然認識されえないで、完全にかくされているということである。そうであるなら、自然神学はどうなるか。そうであるなら、神学であると主張したり、神学的に価値があるというようなことは少しも言わないで、宗教史や文化史の上に立ってなされる理論であることしか自然神学のすることとしては残るものはない。否、残念ながらブルンナーは、天地万物から『何らかの仕方で』認識されうるしまた認識された神は、天地の創造者である唯一の神、三位一体の神であって、この神はキリストの中でわれわれを義としまた彼の聖霊によってきよめると考えている。この神は、たとえ罪によって歪められ、曇らされ、くらまされており、神々の姿に偽装されているとはいえ(146頁)、事実上すべての人間によって、キリストなくしても、また聖霊なくしても認識されうる神である。実際には『二種類の啓示』が『ある』――」(『ナイン!』198-199頁。注:太字ゴシックは筆者による)と。

 

上述のように、バルトは、キリストと聖霊なくしても天地の創造者である「唯一の神」、「三位一体の神」を認識することができるのか、と問うのである。

 

われわれは、次のようにバルトに反論することができるのである。キリスト以前の、神から召命された旧約時代の人たちは、キリストなくしても、また聖霊なくしても、アブラハムやモーセや預言者らは、創造神(唯一の神)を認識し、応答していたというのである。

 

ブルンナーは、神認識において、「事実上すべての人間」と言ってはいない。神が自然を通して啓示されても、無神論者や唯物論者は「自然は運動する物質のみである」と見て、神を認識しない。彼らは、彼らの哲学や思想によって事物の性相的側面(精神的要素)を見ることができず、形状的側面(物質的要素)のみを見るからである。また、このような無神論者や唯物論者を生み出したのは、今までの有神論的な神学や不完全な自然神学(自然哲学)によるのである。

 

次の問題は、バルトが「天地万物の中で啓示される神は、人間には全然認識されえないで、完全にかくされている……そうであるなら、自然神学はどうなるか。」という問題である。「神学であると主張したり、神学的に価値がある」とは言えないではないか、という問題である。

 

ブルンナーは、不完全な、一部分の神認識と言っているのであって、バルト式のブルンナー解説のように、「全然認識されない」とは言っていない。

 

ところで、バルトは〝偶像崇拝〟を取り上げて、次のようにブルンナーの主張を批判する。

 

「『何らかの仕方で』ゆがめられ、曇らされ、またくらまされて神を認識するのとは、もっと違った仕方で神を認識すると言っていると考えることができるようになるだろうか。一体、偶像崇拝はブルンナーに従えば、真の神の礼拝の言わば不完全な前段階にすぎないのだろうか。一体、キリストの中での神の啓示の機能は、神の啓示の広い働きの範囲内で、あの第一の段階から第二の段階にわれわれを導くことだけなのだろうか。」(『ナイン!』199頁)

 

周知のように、真の神の礼拝と偶像崇拝は同一方向ではない。全く反対方向である。それゆえ偶像礼拝は、バルトがいうように、真の神の礼拝の不完全な前段階ではない。

 

ちなみに、ティリッヒも「神の似像である人間のみが自己を神から離間りかんする力を持つ」(『組織神学』第2巻、41頁)と述べている。神は、そのような自由な人間を創造したからこそ、人間はロボットではなく「神の像」であると言えるのである。

 

(3)「保持の恩寵」に対する批判

 

バルトは、「保持の恩寵」に対して、次のように批判する。

 

「天地万物はそれが活動している姿においても、またそれが現在置かれてある姿においても、ひとりの真の神の本当に自由な、本当に値なくして与えられるところの恩寵のわざである。その通り!とわれわれはそれに対して言わねばならない。しかし、どういう意味で、またどういう権利をもって、ここでブルンナーは、イエス・キリストの恩寵に言わば先行する別な、特殊な(あるいはむしろ『一般的な』)恩寵について語るのであろうか。」(『ナイン!』200頁)

 

バルトは、「イエス・キリストの恩寵に言わば先行する別な、特殊な(あるいはむしろ『一般的な』)恩寵について語るのであろうか」という。この問いは、神とは三位一体の神であり、キリスト以外の啓示はないという意味である。これが、バルト神学が「キリスト中心主義」(キリスト一元論)、あるいは「キリスト論的集中」と言われるゆえんである。

 

そして、バルトは〝恩寵のみ〟を、次のように説明している。

 

「『だから、それと共に人間の行為そのものは、神の恩寵――救う恩寵ではなくて維持する恩寵――の見地の下に置かれる。創造者自身が自分の創造したものを、罪の堕落の中で保持するために用いる人間のそういう行動のすべては、保持の恩寵の中でなされる行動である』(148頁)。一体、創造者自身が自分の恩寵を与えるために用いる人間の行為というようなものがあるのだろうか。こういう考え方は、人間の行動と神の行動とが間接的に同一であるというアウグスティヌスの図式を前提とするか、あるいはまた神の質料因と人間の道具因とが協力するというトマスの図式を前提とすると、よく分かる。もしブルンナーが、人間の行動も確実にまた『神の恩寵の見地の下に』置かれるという仕方でイエス・キリストの義認と聖化の恩寵について語るであろうならば、こういう考え方は確かに好意をもって理解されうるであろう。しかし、ブルンナーはそういうことをしようとしない。――彼はどこまでも一つの特別な『保持の恩寵』があると言おうとする。」(『ナイン!』202-203頁)

 

統一原理は、「聖書には、神の救いの摂理に関する数多くの秘密が隠されている」(『原理講論』341頁)と述べ、ヤコブの家庭的路程やモーセの民族的路程は「将来、イエスが来られて、人類救済のために歩まねばならない摂理」(同、341頁)を表示していると述べている。

 

また、「一人の預言者の生涯に関する記録を取ってみても、その内実は、単純にその人の歴史というだけにとどまるものではなく、その預言者の生涯を通して、堕落人間が歩まなければならない道を表示して下さっているのである。」(同)と述べている。

ヨハネ福音書5章19-20節で、イエスは、「子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。……父は子を愛して、みずからなさることは、すべて子にお示しになるからである」と語っている。

 

一人の預言者の生涯が示しているように、バルトの批判に反して、このことは、人間の行動と神の行動とが間接的に同一であるということを示している。統一原理は、恩寵(キリストの啓示)以外に、旧約聖書の歴史の中に〝特別な啓示〟を見るのである。

 

しかし、現在まで、旧約聖書の中にあるモーセの生涯に関する物語などは、彼の歴史に関する単なる記録であると考えてきた。バルトのキリスト中心主義から見れば、恩寵以外の別な「先行する」「特別な」啓示は存在しないということになる。しかし、統一原理は、モーセの生涯を通して、イエスに先行する「復帰摂理に関するある秘密を教えて(いる)」(『原理講論』400頁)と説いている。単なる歴史の記録ではないというのである。

 

ところで、ブルンナーのいう「保持の恵み」とは、「創造の恵み」のことであって、太陽は善人にも悪人にも照り輝かせ、生命、健康、力等を与えている。このように、自然的な生活に必要なすべてのもの、そういうものすべては、「保持の恵み」の概念の下に置かれる。また、歴史の遺産も「保持の恵み」の概念の中に入れている。

 

このように、ブルンナーは、「救う恵みを学び知る前にすでに神の恵みによって生きていたということを、たとえその恵みが何であるかを正しく認識しなくても、認識する」(『自然と恩寵』148頁)と述べているのである。

 

そして、ブルンナーは、「保持の恵みに関して正しく語ることは、キリストの啓示の光の中で初めて可能である」(『自然と恩寵』148頁)と指摘することも忘れてはいない。それにもかかわらず、バルトは、ブルンナーのいう恵みとは、すべてイエス・キリストの恩寵の下にあり、その恩寵に先行する別な、特殊な恩寵など存在しないと断言する。

 

バルトは言う、「天地万物とそれの保持とを和解からより以外の仕方で理解しうるか。どうしてそういうことについては旧約聖書と新約聖書とにおけるキリストの啓示からしてより以外の仕方で語りうるか」(『ナイン!』201頁)と。

 

安酸やすかた敏眞氏は、バルトの神概念について、次のように述べている。

 

「バルトにおいてはキリスト論は三一論と完全に統合されて理解されており、キリスト論は全面的に三一論的文脈の内部で論じられるということである。したがって、バルトの教義学体系においては、『神についての教説』だけが三一論的視点から論述されるのではなく、『神の言葉についての教説』も、『創造論』も『和解論』もすべてが三一論的視点のもとで考察され、かつそれぞれがキリスト論的な含蓄を含んでいる。」(『キリスト論論争史』水垣渉・小高毅編、日本キリスト教団出版局、514頁)

 

以上のような、バルトの〝特殊な神概念〟(三位一体の神〈三一論〉)から、ブルンナーの主張する創造神の「保持の恵み」も、「創造の恵み」も、すべてそれらはイエスと聖霊の恵みとされてしまうのである。

 

太陽が輝くのもイエスによる(?) 雨が降る恵みもイエスによる(?) 豊かな農産物や海産物や地下資源が存在するのもイエスによる(?) このように、すべてがイエス・キリストの恵みであるというのであろうか。創造神の恵みと、イエス・キリストの恵みとの区別がない。

 

ちなみに、バルトのキリスト中心主義による聖書解釈は、旧約聖書の多様性をキリスト一元論に還元してしまうという批判がある。

 

(4)「結婚」について、

 

バルトは、「結婚が創造の秩序であるのか」といい、「神の啓示として見られねばならないような義務と束縛とをもった命令にまで高めるのか」と批判する。

そして、「結婚の原理的意義」も「家庭の原理」についても、聖書にそのような命令や原理などはない、として排除する。はたして、イエスは結婚について原理的に何も語っていないと断言できるのであろうか。

 

「補足」で、すでに論じているが、イエスは「『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』彼らはもはや、ふたりではなく一体である」(マタイ19・4-6)と家庭の原理について語られている。

そして、イエスは、「彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」(マタイ19・6)と戒めに関しても述べられている。

文鮮明師は、この夫婦の戒めについて、絶対「性」を守るようにと言われている。

 

(5)「結合点」についての批判

 

次の文章は、バルト式にブルンナーの「結合点」をまとめたものである。

 

「救いの恩寵に対して『結合点』がある(150頁)ということである。そこで言おうとしていることは、明らかにブルンナーの主張する、啓示に先立つ『啓示能力』のことである。もっとも、それは、たとえ啓示の中で初めて甦えって来るところのものであるにしても、啓示能力であることには変りがない。そういう啓示能力があって、その啓示能力を基礎として神の言葉が人間に達するのであるという見地の下で、この啓示能力をさらにこまかく説明する時に、ブルンナーは先ず第一に『結合点』の根源的規定にさかのぼる――すなわち『結合点』とは、罪人からも、なくなってしまっていない形式的な神の像のことであって、人間をして人間たらしめるもの、言葉を換えれば、人間性(humanitas)のことである。人間が責任を感じ決断しうるためには、人間は『形式的な意味において呼びかけられうる』ものでなければならない。」(『ナイン!』206頁)

 

上述のごとく述べた後に、次のごとく「結合点」を批判する。

 

「理性や応答責任性や決断能力は、人間の尺度からすると、あるとは言えないような人々にとっては、すなわち、生まれたての子供や白痴にとっては、最も深刻な悩みである。」(『ナイン!』207頁)

 

確かに、バルトの言うごとく深刻である。しかし、生まれたての子供や白痴にも「結合点」(神の像)がないのではなく、あるのである。

 

次に、バルトは、天使を持ち出してきて、次のように批判する。

 

「ただ人間のみが神の言葉を受けることのできる存在であるというような命題を用いる時には、用心して用いる必要性があるであろう。なぜなら、それは明らかに天使が忘れられているし、最後にはまたわれわれには知られていない『存在』がありうるし、そしてまた……」(『ナイン!』206頁)と批判する。

 

神は、啓示を天使に与えるのではない。人間に啓示を与えるのである。言語受容能力と応答責任性があるというのは、それがあるからこそ人間は神の啓示を受容することができるのである。

天使にも言語受容能力があるから啓示を天使に与えるという意味ではない。神の使いとしての天使は、処女マリヤに〝受胎告知〟をするが、神は天使を通して人間に啓示を与えるのである。天使に啓示を与えたのではない。

 

(6)人間の自意識について

 

この個所も、ブルンナーの主張の個所で詳細に論じているので、割愛する。

 

以上が、ブルンナーの「六つの反対命題」に対するバルトの反論であるが、われわれから見れば、上述のごとく、多くの問題点を指摘することができるのである。

 

ブルンナー「出会いの神学」(8)

補足

 

(1)「神のかたち

 

ブルンナーは、「神の像」という視点から、男と女の関係を次のように考察している。

 

「人間創造は、相手ができるまでは、完成されていない。……神は愛であり、神の本質自身に交わりが存在する故に、人間は愛することができる者として、一対の人間として、造られねばならない。彼は他者なしには自己の本質を実現することはできないのであり、その目ざす所は、愛における交わりである。」(『ブルンナー著作集』第3巻 教義学Ⅱ、教文館、1997年、79頁)

 

このように、ブルンナーは、「神は愛であり、神の本質自身に交わりが存在する」と述べ、「神の似姿」とは男と女に分かれていることではなく、「一対の人間」(二人は一体)であると原理的に捉えている。しかし、「一対の人間」から、愛なる神を二性性相の中和的主体と捉えるに至っていない。また、二人(アダムとエバ)の愛の成長過程についても述べていない。

 

これに対して、バルトは神を「三位一体の神」と捉え、その神(神論)から人間との縦的関係と、人間と人間との横的関係を基本形として捉え、男と女の区別と関係について述べている。

 

それで、ここから、バルトの「神の像」(男と女)の解釈を中心に論述していくことにする。

 

バルトは、人間の応答責任について次のように述べている。

 

「人間は、創造主なる神の前で応答の責任をとる・・・・・・・・間に、存在する・・・・。そのことは、あれらの線のうちの第一の線であり、それを念頭においてわれわれは神の誡めを前節で、この応答責任を遂行し、そのようにして神の前で、神のために、自由であるようにという誡めとして理解しようとこころみた。人間についてあの第一の命題から、今、次の第二の命題が区別されなければならない。それはすなわち、人間はその創造の中で、創造と共に、したがって彼が人間として存在することがゆるされる間に、神の契約相手・・・・・・であるよう定められており、この彼の定めが彼の存在をほかの・・・人間との出会い・・・の中での存在として特徴づけているという命題である。人間が、神との契約の中で存在するよう定められているということ、そのことはその対応を、彼の人間性(Menschlichkeit)、すなわち、彼の存在の特別な性質は、もともと、はじめからして、そのようなものとして〔隣人と〕共なる人間性・・・・・・(Mitmenschlichkeit)であるということの中に、その対応をもっている。」(カール・バルトの主著『教会教義学 創造論Ⅳ/2』吉永正義訳 新教出版社、1980年、3-4頁)

 

このように、バルトは「神の像」から、第一の命題として、人間は「神の契約相手」(縦的関係)であるように定められていると述べ、第二の命題として、「〔隣人と〕共なる人間性」(横的関係)として、他の人間との出会いの中での存在として定められているというのである。

 

同様のことであるが、またバルトは、「神は人間に対しその人間性に向かって語りかけ給う。そのことは具体的には、神は人間をその隣人に向かわせ給うということを意味している。……神は人間を、『交わりの中での自由』へと、すなわち、その隣人との交わりの中での自由へと、呼び入れることの中で、神との契約の中にあるべしという人間の定めにおいて、真剣に受けとり給うということを意味している」(同、4頁)と述べている。

 

このように、神と人間との縦的な関係は、孤立した関係ではなく、人間と人間との横的関係性として定められているというのである。これが人間の基本的形態で、それは男と女の関係で示されるというのである。

 

次に、バルトは「隣人と共なる人間性」を通じて「神を知る」と、下記のように述べている。

「神は人間を、彼がほかのもの・・・・・を肯定する間に、自分自身を・・・・・知り、ほかのものを・・・・・・慰め励ます間に、自ら・・を喜び、ほかのものを・・・・・・尊重する間に、自分自身が自分であることを実証するよう呼び出し給う。この自由・・への呼び声として――(われわれはまたこのように言うことができる)人間性・・・(Humanität)への呼び出しとして――われわれは今、神の誡めを理解しなければならない。人間性、人間的存在の特別な、自然的な性質は、その根において、まさに隣人と共なる人間性である。隣人と共なる人間性でない・・ような人間性は非人間性(Unmenschlichkeit、Inhumanität)であるであろう。そのような〔隣人と共なる人間性でないような〕人間性は、また神の契約相手であるべき人間の定めに対応することができず、ただ矛盾することができるだけである。その間の事情は、ちょうど孤独ナ神ではなく、三位一体ノ神、関係の中での神、であり給う神が、孤独ナ人間の中に、ご自身を再認識し給うことができないのと同じようである。神が人間に対して人間性を、したがって交わりの中での自由を、命じ給う間に、神は、人間に対して、自分自身を神の似像として――なぜならばそのようなものとして神は彼を創造されたのであるから――確証し、実証するよう呼び出し給う。そのことが、われわれが今考察しなければならない神の誡めの形態の最も深い、最後的な基礎づけである。」(カール・バルト著『教会教義学 創造論Ⅳ/2』吉永正義訳 新教出版社、1980年、4-5頁、注:太字ゴシックは筆者による)

 

そして、バルトは、「隣人と共なる人間性の最初の、同時にまた範例的な領域、人間と人間の間の最初の、同時にまた範例的な区別と関係が、男と女の・・・・間の区別と関係である」(同、5頁)と述べている。

 

このように、バルトは、「神の像」を「隣人と共なる人間性」(共同人間性)として理解するのである。つまり、バルトは「神の像」(男と女)を「三位一体の神」の似像として類比的に理解しているのである。

言い換えると、「神が、孤独ナ人間の中に、ご自身を再認識し給うことができない」といい、神は、「隣人と共なる人間性」(男と女)を通じて「確証し、実証するよう呼び出し給う」と述べ、神と人間との「類比の関係」から、神を知ることができるというのである。

 

このように、バルトは、神と人間との関係を類比的に捉えているが、この類比については、ブルンナーはバルトに対して次のように述べていた。

 

「バルトの教義学も、そのほかのすべての教義学と同じようにアナロギア(Analogie)の思想の上に基礎を持っている。ただ、バルトはそのことを認めようとしないだけである。」(『自然と恩寵』170頁)。

 

しかし、バルトは、反論文『ナイン!』では沈黙していたが、『教会教義学』においてブルンナーとの論争を省察し、上述のように〝神の像〟の解釈を展開しているのである。

ただし、バルトは、神と人との関係をトマス・アクィナスのように「存在の類比」と捉えるのではなく、信仰の義認によって新しく形成される神と人間との関係、すなわち「関係の類比」(信仰の類比)として捉えるのである。つまり、自然神学の立場から、人間は「神の像」であると「存在の類比」として捉えることを否定しているのである。

しかし、カトリック側から、バルトの「関係の類比」(信仰の類比)は「存在の類比」が前提でそのように言えるのではないかと反論されている。

 

ところで、文鮮明師は、神と人間(アダムとエバ)との縦的な「真の愛」の関係と「男と女」(アダムとエバ)の横的な「真の愛」の関係において、二人の「真の愛」の成長過程を捉え、「四大心情圏」と「三大王権」として解明されている(図解がある)。

バルトの「神の像」の解釈は、この真理をキリスト教会が受容することを可能にする前提条件となるであろう。

 

以上のように、バルトは「三位一体の神」の内在的関係(父、子、聖霊がどのような相互関係にあるかということ)から出発して、共同人間性を理解し、共同人間性を前提として男と女の関係を理解し、隣人と共なる人間性の最初の範例的な区別と関係は、男と女の間の区別と関係であると述べているのである。

 

ただし、最初の範例的な区別と関係の成長過程に関しては、ブルンナーと同様に論じていない。バルトは「三位一体の神」というが、イエスに幼年―少年―成人という成長過程があったように、神に〝成長〟という概念があることを知らないのである。したがって、バルトは「成長過程」において、「真の家庭」の中で、神の愛を確証し、「四大心情圏」と「三大王権」として原理的に解明していない。バルトやブルンナーは再臨のメシヤでないので、それは致し方がないことである。

 

(2)「人間論の問題解決は神論にある」

 

人間論(男と女の関係)は、神論の捉え方によって決定する。男と女の関係は主体と対象の「相対的関係」であって、支配と被支配の「対立関係」(支配と隷属関係)ではない。

今日、フェミニズム神学が主張するように、「神の像」の解釈において、伝統的神学は堕落人間に対しても、「男は、神のかたち」(コリントⅠ、11・7)であると解釈し、反対に女性は「神の像」というより、アダムを誘惑して堕落させたエバの似姿であると解釈されてきたというのである。

 

このように、フェミニズム神学は、伝統的神学は聖書を男性中心主義的に解釈してきたと批判し、男性優位の家父長的体制の下で女性は虐げられ隷属させられてきたというのである。男はこうで、女はこうあるべきだという「男らしさ」、「女らしさ」という性差による社会的役割の差別は、生物学的な区別ではなく、文化的社会的な産物であると批判している。

 

このような人間論の解決は神論にある。「神の像」から、既存の神学のように人間論(男と女の関係)をあれこれと論じても、決して解決しない。「神の像」から神論を究明するところに、問題を解決する鍵があるのである。

 

ところで、バルトは、人と人との関係(男と女の関係)が基本形であるというが、われわれは〝家庭〟が基本形であると捉え、真の家庭が、神との類比の関係にあると見る。また「家庭が天国の基盤」(『真の神様』126頁)であるというのである。

 

「創造論」において、バルトは「神の像」を三位一体的に理解し、神論(三位一体論)から「人間論」(男と女の関係)を論述するが、その点は評価されるが、完全な神を完全には認識できていない(コリントⅠ、13・12a)。

 

「聖書の啓示」である「神の像」(男と女)と「自然の啓示」から、神概念を「真の愛を中心とした二性性相の中和的主体」と存在論的に捉え、文鮮明師は、神の「心情」(真の愛)を「真の家庭」の枠の中で「生活」(参照:ヨハネの黙示録21章3節)を通して「四大心情圏」と「三大王権」として誰もが経験し得ると説かれるのである。これは驚くべき御言みことばである。

 

バルトの神は、「神―イエス―聖霊」の「三位一体の神」である。しかし、彼の「天の父」の概念に女性性相がない。「神―アダム―エバ」と「神―イエス―聖霊」は類比関係である。したがって、イエスに対する聖霊はアダムに対する堕落前のエバに対応するので、聖霊は女性ではないかというのである。旧約聖書の「ルァハは女性形である」(『聖霊は女性ではないのか』E・モルトマン=ヴェンデル編、内藤道雄訳、新教出版社、44頁)。

 

ちなみに、今日までの歴史において、神は三人のアダムを送って来られた。しかし、三人の個体は相違する。イエスは洗礼ヨハネを指してエリヤである(マルコ9・13以下)と言われた。洗礼ヨハネとエリヤは、個体は異なるが〝天的使命〟が同じなので、そのように言われたのである。洗礼ヨハネは、エリヤの霊の「再臨者」なのである(『原理講論』復活論、231-232頁)。「最後のアダムは命を与える霊となった」(コリントⅠ、15・45)、その霊(イエス)の「再臨者」が文鮮明師なのである。

 

再臨主の御言に、「アダムは神様の男性的性稟を展開させたものであり、エバは神様の女性的性稟を展開させたものなのです」(八大教材・教本『天聖経』「成約人への道」1421頁)とある。

 

神(天の父)の概念の中に、男性性相と女性性相があるのである。すなわち、神は無形であり、その無形なる神の二性性相が有形の分立体として顕現したのが、「アダムとエバ」であり、「イエスと聖霊」である。言うまでもなく、神を無形なる存在と捉える神観は偶像ではない。

 

「神の像」である人間は、心と体の統一体である。神と人間の類比の関係から、統一原理は、神は男(陽性)と女(陰性)の二性性相であるが、心(性相)と体(形状)の二性性相の存在でもあると捉えている(『原理講論』47頁)。

現代神学の動向に、「神の像」の解釈で、男と女の関係から形状的な社会学的人間関係を見る見解が評価されるが、統一原理の神論から見て、彼らは、神の性相的な「真の愛の秩序」の原理が実体の人間関係の中で顕現することを見落としているのではないか、と指摘し得る。

 

堕落によって、自己中心的になった人間は、神との縦的な心情関係が断絶し、神の心情(愛)から疎外された存在となっている。その結果、横的な人間と人間の間の心情関係も断絶するようになった。言い換えると、人間関係の疎外の根本原因は、神と人間との縦的な心情(愛)の断絶にあるというのである。それゆえ、救いとは、メシヤによって人間が再創造され、断絶した神と人間の縦的関係と、人間と人間との横的関係を連結することにある。

 

ところで、なぜ神と人間との縦的な心情関係が断絶したのであろうか。

文鮮明師は、「これからこの世界問題を解決して、人類の道徳問題をすべて解消させるためには、堕落論がなくてはならないのです。堕落論なくしては、人間の問題が是正されないのです」(八大教材・教本『天聖経』「成約人への道」1480頁)と語っておられるのである。

 

(3)「男と女の区別」と「結婚」(一対の人間)について

 

バルトは男と女の関係について、次のように述べている。

 

「人間が神の似像をもっているということで、創世一・二七以下によれば、神は彼らを『男と女』とに創造されたこと、この関係の中で、まさに神ご自身こそが関係の中にあり、ご自身の中で孤独ではあり給わないということに対応しつつ〔神が彼らを男と女とに創造されたこと〕が理解されているのである。」(カール・バルト著『教会教義学 創造論Ⅳ/2』吉永正義訳、新教出版社、1980年、5-6頁)

 

神は「人間を男と女とに創造された」といい、バルトは「まさに神ご自身こそが関係の中にあり、ご自身の中で孤独ではあり給わない」と述べているが、堕落の出来事によって一瞬のうちにして息子(アダム)と娘(エバ)を失った親(神)が、お一人でいて寂しくないはずがない。ところで、神は孤独でないと感ずる人格があるのであろうか。

 

文鮮明師は、神と人間との「類比」から「人格神」について次のように述べておられる。

 

「神様がいらっしゃるのならば、神様も人格的神でなければなりません。人と同じでなければなりません。人格的神だということは、知情意を備え、感情とか、またはみ旨を中心として目標とか、そのようなすべてのものが具体的でなければならないのです。」(『真の神様』35頁)

「絶対的神様は、悲しむことができるでしょうか、できないでしょうか。……悲しみとかかわることができるでしょうか、できないでしょうか。これは深刻な問題です。わたしたちのような人間は、それをそのまま通り過ぎることはできません。絶対的である神様は絶対的に悲しみがあってはならないと言うならば、その神様は知情意をもった、喜怒哀楽の感情をもった人間の父となることはできないのです。論理的に矛盾します。ですから神様は、私たち人間よりももっと喜怒哀楽を感じることができる主体とならなければなりません。」(『真の神様』37頁)

 

このように、伝統的神学の悲しみも、苦しみもない、不変不動の超越的な神観は虚構であると批判し、神の像(創世記1・27)から〝人格的神〟を論じておられるのである。

 

人間は男と女に分立しているが、その区別に関して、バルトは次のように述べている。

 

「人間と人間の間のほかのどんな区別とも比較され得ないほどの徹底性全体――の中で、関係を指し示す唯一の指示であるからである。人は、両方のことを語らなければならない。

すなわち、人間は必然的に、完全に、男女かである。それと共に、それ故にこそ男女とである、と。人はこの区別・・から自分を解放することはできず、男か女かの規定の彼岸で『単なる人間』であろうとすることはできない。すなわち、人間は、人間としてのあらゆる共通のものを持ってはいるが、それでもなお事実、常に、どこででも、男の人間あるいは女の人間である。……そのようにして彼ら両方が彼らの出会いに、また彼らの共存に、指し向けられ、合わせて整えられているのである。これ以外のいかなる人間の間の区別・・も、人間である男と人間である女が全く別なものであるという区別ほどに深くはない。……女は男にとって、男は女にとって、他なる・・・人間である。しかしまさにそのようにしてこそ共に生くべき・・・・・・人間〔隣人〕(Mitmensch)である。」(カール・バルト著『教会教義学 創造論Ⅳ/2』吉永正義訳、新教出版社、1980年、6-7頁)

 

このように、バルトは「神の像」の理解において男と女の区別を強調し、「人はこの区別・・から自分を解放することはできず、男か女かの規定の彼岸で『単なる人間』であろうとすることはできない」と述べている。

 

「神の像」の解釈で、ブルンナーは「一対の人間」を強調していたが、バルトは男と女の区別を強調する。この両者の主張の統一は、イエスが「『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』彼らはもはや、ふたりではなく一体である」(マタイ19・4-6)と言われた御言の中にある。

 

原理的に解説するなら、「父母=神」((1))→「男と女」((2))→「二人は一体」((1))と発展運動をして四位基台を完成する。「正」とは「神の似姿」である父母(「一対の人間」)であって、そこから「分」として「男と女」に区別されて顕現する。そして、「分」は結婚して再び「神の似姿」の「合」(一体)となるのである。

バルトは「三位一体の神」から人間論を説いたが、統一原理は「夫婦として完成されるためには、神を中心として、男性と女性が三位一体となり、四位基台を造成しなければならない」(『原理講論』446頁)と述べている。

 

文鮮明師は、「結婚」について次のように述べておられる。

 

「神様自身が男性格と女性格をもっていらっしゃるお方なので、そこから分立された実体対象として創造された人間も、男性と女性として創造されたのであり、彼らが結婚すれば、実体として神様に代わる陽性と陰性になるのです。」(『宇宙の根本』17頁)

 

また、次のように「神の似姿」(中和体)について語られている。

 

「一男一女は無形であられる神様の実体対象として表れた息子、娘です。……一人の男性と一人の女性は、それぞれ神様の一性に似て出てきました。したがってこれらの一男一女の結合は神のプラス(+)性稟とマイナス(-)性稟が一つとなることです。すなわち神様に似た中和体となるのです。それゆえ人間二人、すなわち夫婦は神様の全体を表象する結合体なのです。」(『真の神様』125頁)

 

さらに、「人間の完成」について、次のように語られている。

 

「人間の完成はどこにあるのでしょうか。男性なら男性自体で完成する道はなく、女性なら女性自体で完成する道はありません。それは、すべて半製品だからです。したがって、男性と女性が完全に一つになった愛を中心としてのみ完成するというのです。アダムが完成するには誰が絶対に必要でしょうか。神様が絶対に必要なのですが、神様は縦的に絶対必要です。アダムが完成しようとするなら、縦横の因縁をもたなければなりません。縦横の愛の因縁をもたなければ回転運動、球形運動が不可能です。それゆえに、横的にアダムに絶対必要とするのはエバです。同じように、エバにも絶対必要なのがアダムです。」(『宇宙の根本』96頁)

 

上述の御言の中に、「神の像」の解釈における、ブルンナーとバルトの対立を〝克服〟する内容があるのである。

 

ところで、先に取り上げた「共同人間性」と性差による「男と女の区別」に関するバルトの「神の像」の解釈は、フェミニズム神学や社会学的視点を持つ神学者にいろいろと影響を与えている。

しかし、バルトの男と女の性差の区別は、同性愛や生の多様性を主張する見解を克服し得えない。統一原理の神論は、彼らの主張に対する批判と克服の根拠となる。

神はホモなのであろうか。同性愛こそ、偽りの「神の像」であって、それは偶像崇拝である。「神の像」である男と女の成長過程を分析し、「結婚」の意義と「家庭の愛の秩序」を解明し、二人は絶対「性」を守ることによって神人合一して「真の父母」として完成するのであると言われている。しかし、彼らはこの原理を知らないのである。

 

自然もペア・システムである。(+)と(+)は反発して作用しない。(+)と(-)が作用するのである。また、男と男、女と女から子供は生まれない。それは血統の断絶である。同性愛の形態は、自己欺瞞であって、「存在の原理」に反している。言うまでもなく、同性愛やフリーセックスは、神の真の愛の形態(神の像)に敵対し、神を冒涜している。彼らは、創造本然の男と女の関係と真の愛の喜びを知らず、自己破壊の道を歩んでいる。彼らに真の愛の完成はない。

 

「男と女の区別」と神の戒めが、隣人と共なる人間性の中で、何を語ろうとしているかをわれわれは問わねばならない。「取って食べるな」、「取って食べると死ぬ」といわれた「園の中央」にある「木の実」とは、一体何であるのか(創世記2・17、同3・5)を、伝統的神学の文字通りの〝神話的解釈〟を克服して、真理を明らかにしなければならない。

 

夫婦の愛の関係において、夫にとって妻は唯一・絶対であり、妻にとって夫は唯一・絶対である。イエスは、「彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」(マタイ19・6)と言われた。このことを、文鮮明師は神の誡めとして、絶対「性」を守るようにと言われている。

 

文鮮明師は、性殖器は愛と生命と血統の「本宮」であると、次のように述べておられる。

 

「女も男も愛の本宮をもっているのです。……夫婦が一体になるところの本宮です。男女の生命が一体になる本宮です。そこ(本宮)において血統がつながるのです。それ以外は血統がつながりません。……その本場(本宮)が、堕落のために悪魔の本場となり、本宮が地獄の悪魔の本宮になってしまいました。天国と神様の本宮になるべきものが、神様の愛の本宮、神様の生命の本宮、神様の血統の本宮になるべきものが、悪魔の三大基地になってしまったのです。」(『続・誤りを正す』68頁、世界基督教統一神霊協会編)

 

これは、人間始祖アダムとエバの関係において、真の愛ではなく、自己中心的な愛を動機とする堕落の出来事とその結果に対する分析である。

 

文鮮明師は、真の家庭での愛の経験内容を分析して、愛を概念的に「四大心情圏」として説かれたが、その「四大心情圏」の視点から見て、「神ご自身こそが関係の中にある」というバルトの主張に、われわれは注目せざるを得ない。

しかし、上述のごとく、バルトは形状的な男と女の区別のみを強調して、二人の性相的関係(愛の成長過程)を捉えることができず、「共に生くべき人間〔隣人〕である」と言うに止まっている。

 

(4)「バルト神学の限界」

 

男と女として存在する人間と同様に、自然はペア・システムとして存在する。それは、愛のためであり、自然は愛の博物館である。神の本質は心情(愛)であるから、正分合と発展運動が展開するのである(『宇宙の根本』63-81頁、参照)。

しかし、自然神学を排斥するバルト神学では、今日の自然環境の破壊による危機的状況に対して、何も発言できないのである。

また、神に成長(発展)という概念があることを知らない。発展運動は、ヘーゲルのいう「正―反―合」ではなく、「正―分―合」である。

 

言うまでもないことであるが、「神の像」である男と女の関係は「相対的関係」であって、弁証法的唯物論のいう「対立的関係」(支配と被支配の関係)ではない。全ての存在は、ペア・システムとして存在し、二つは闘争のためではなく、愛のために動き、存在するのである。

 

ブルンナーは、「結婚の意義はキリストによって説かれる」と洗礼ヨハネ的発言をしているが、バルトは、パウロ(コリント人への第一の手紙7章)を根拠として結婚、離婚、独身について述べている。「男は女に触れない方がよい」というパウロの言説は、再臨が迫っているという終末論的動機から出たものであるが、永遠に独身でいることではない。キリスト者にとって〝小羊の婚姻〟が最大の願いであるからである。

 

四大心情圏と三大王権の観点から見れば、パウロを根拠とするバルトの隣人(「共なる人間性」=友情)は、再臨を待望する兄弟姉妹の心情(愛)の次元である。さらに一段高い「結婚」の意義と「夫婦の愛」と「父母の愛」に関しては、原理的に解明し得ず、再臨の御言によらねばならないのである。

人間(罪人)は誰も、神の「真の愛」と一つとなった本然の「夫婦の愛」、本然の「父母の愛」を知らないのである。さらに、心情(愛)は発展し、孫が生まれ、その孫が結婚した時に、「祖父母(王と女王)の愛」(三大王権)が完成することを知らないのである。

 

(5)「バルトに対する原理的克服論」

 

バルトの「神の像」の解釈について、原理的視点から見て、次の諸点が指摘される。

 

第一に、神論について、神はご自身を啓示し、「神の像」(男と女)と定義している。

統一原理は、神は「二性性相の中和的主体である」(『原理講論』47頁)と述べ、「同時に愛の根本であるお方が神様」(『宇宙の根本』44頁)であると述べている。「真の愛の起源が神様だ」(同)というのである。

これに対して、バルトは「三位一体の神」であるという。神概念に関して、前者は女性性相があるが、後者は女性性相がない。この両者の神論の相違を明らかにし、バルトの神観は、無形(父)と有形(イエスと聖霊)の混在した神であると指摘しなければならない。また、哲学的な神概念を否定するバルトは、神の愛を概念的に述べていない。二性性相という概念は、神を哲学的に論ずることを可能にした。この功績は偉大である。

 

統一原理は、創世記1章27節の「神の像」から神を究明し、神の陽性と陰性の側面を次のように定義している。

 

「創世記1章27節に『神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された』と記録されているみ言を見ても、神は陽性と陰性の二性性相の中和的主体としてもいまし給うということが、明らかに分かるのである。」(『原理講論』創造原理46頁)

 

このように、「神の像」から、人間論ではなく、まず神論を究明しているのである。

「天の父」という概念の中に、男性性相(陽性)と女性性相(陰性)の二性性相があるのである。

 

また、文鮮明師は二性性相に関して次のように述べておられる。

 

「男性には女性の性相があります。女性も男性の二性性相の要素をもっているために、男性が暮らすことのできる場所があるのです。神様は二性性相なので、女性とも男性とも暮らすことができます。それと同じように、一つの相をもった夫も、女性が二性性相の要素をもっているために夫人の胸の中にとどまることができます。女性も男性の心の中にとどまることができます。一つです。離れることができないのです。」(『宇宙の根本』48-49頁)

 

神は無形である。人間は神の体であり、神が臨在する神の宮(コリントⅠ、3・16)である。「アダムとエバを創造したのは、無形の神が実体の神様として登場するためなのです」(『真の神様』119頁)と述べられている。

2000年前、イスラエルに、イエスは〝実体の神〟として登場したのである。

 

第二に、人間論について、神が人間(男と女)を創造された目的は何か。

神の創造理想(創造目的)は、アダムとエバが家庭を完成して人類の「真の父母」となり、天国を創建することであった。有形なる世界は体がなければ主管できない。それで無形なる神が実体の「真の父母」として顕現してこの世界を直接主管されるのである。

「神の創造理想(創造目的)とは、理想家庭を形成して、この地上に天国をつくることにあった」(『祝福家庭と理想天国(Ⅰ)』402-408頁)のである

人間と自然の関係において、「神の像」は人間の優位性の根拠となり、自己中心的な人間が自然を支配することを正当化してきたが、愛なる神が人間となって自然を直接主管することによって、人間と自然の関係の諸問題は解決する。

 

神のみ旨(創造理想)は、アダムとエバの堕落によってなされなかったが、イエス・キリストと再臨主によって必ず成就される。

 

第三に、神は無形であり、目に見えない。それでは如何にして神を認識するのであろうか。

文鮮明師は、「神様を見ることはできません。皆さん、力が見えますか。神様はエネルギーの本体であるので、霊界に行っても見ることができません」(『真の神様』13頁)と述べておられる。

この目に見えない無形なる神を、バルトが言うごとく、「他者との関係で知る」とは、一体どのようにして知るのであろうか。

われわれは、文鮮明師の御言(『宇宙の根本』と『真の家庭と家庭盟誓』)によって、神の真の愛を「四大心情圏」と「三大王権」として認識している。

 

神を知るとは、我々人間が再創造されてキリストのごとく〝神人一体〟となり、「完全な者」(マタイ5・48)となることである。そもそも神が「神の似姿」として男と女を創造したのはなぜかというのである。

バルトは、男と女の差異は「構造的、機能的な区別に基づいている」(同、『教会教義学』6頁)といい、「抽象的な人間」に解消することはできないという。そして、具体的な人間として、「むしろ常に、いたるところで人間的なとして、あるいは人間的なとして、存在する」(同、6頁)というのである。

しかし、この主張は、事実関係を述べたに過ぎない。なぜ人間はそのような男として、あるいは女として創造されたのかという問いに対する答えを究明しなければならない。

 

文鮮明師は「二性」(ペアとして男と女)として存在するのは愛のためであると、次のように述べておられる。

 

「この世の中のすべての存在がペア・システムになっているのです。それは愛のためであり、何の愛かというと、神様が喜ぶことのできる本然の愛、真の愛のゆえなのです。」(『ファミリー』1993年12月号、21頁)

「男と女を総合して、中心に立って動かすものが愛です。それでは、男性と女性が和合して愛を中心として動くことがどこから始まったのかといえば、神様の二性性相からなのです。男性性稟と女性性稟が和合したものを相対的に展開させたのです。」(『宇宙の根本』41頁)

 

このように、神は二性性相、自然も二性(ペア・システム)である(『宇宙の根本』135頁)。男一人、女一人では神を完全に認識することはできない。神は愛であるというが、愛は一人では知り得ない。それでは神の愛を如何にして知り得るのであろうか。「愛は、必ず相対を通して現れて成される」(『宇宙の根本』94頁)と述べられている。男にとって愛の相対は女であり、女にとって愛の相対は男である。神にとって、愛の相対は人間であって動物ではない。

 

このように、「真の愛」は神から、そして、男と女を創造されたのは「真の愛」のためであると述べておられるのである。

 

第四に、神と被造物の関係について、文鮮明師(真のお父様)は、原理的に次のように語っておられる。

 

「だから男女関係、オス・メスの観念というのは、宇宙の本源である。神様が存在して創造の前にちゃんとその観念があったので、その観念に合うように成し得たものが、プラス性格とマイナス性格、オスとメス、男女関係の世界だというのです。」(『ファミリー』1992年7月号、66頁)

 

それゆえに、「宇宙の根本は愛である」(『宇宙の根本』82頁)と言われ、「人間は万宇宙の愛の中心」(同、92頁)であり、「天地をペア・システムで造ったのは何のためですか。これは、愛の博物館です」(同、113頁)と語られている。

 

真の愛を動機として、この天地万物が生成しているというのである。

以上のように、「神と人間と万物の創造本然の関係」に関する諸見解は、自然神学を拒否するバルト神学にはない見解(克服論)である。

 

(注:「像と似姿の区別」について)

一方で「神の像」と「神の似姿」とは、ヘブライ語旧約聖書では同義語であって、両者は厳密に区別されていない。そして、教父たちが両者を区別するようになったのは、七十人訳がeikon とhomoiosis とに訳し分けたことに起因すると考えられている。

 

他方でヘブライ語聖書では、創世記1章26 節の「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」における「かたどり」と「似せて」はそれぞれzelem とdemut という別の単語が用いられている。つまり「神の像」と「神の似姿」はヘブライ語において最初から区別されているという。

 

「像と似姿の区別」について

人間が「神の像」にしたがって造られたとしても、必ずしもそれが現実態として実現されているわけではない。それはいわば萌芽として、あるいは可能的な傾向性として与えられているにすぎない。これに対して「神の似姿」とは、可能態としての「神の像」がまさに実現されるべき現実態を指している。したがって、それはすべての人間の向かうべき究極的な最高目的を意味することになる。この「神の似姿」はキリストにおいては完全に実現されているが、一般的には神との交わりを通して漸次実現されていくものと考えられる。

 

この「注:『像と似姿の区別』について」は、濱崎雅孝(京都大学非常勤講師)著『キリスト教思想研究の現在発表レジュメ(2004/05/10)― 神の像として造られ、神の似姿へと向かう人間(仮題)』からの抜粋である。

 

ブルンナー「出会いの神学」(7)

(三)「バルトの主張」(『ナイン! エーミル・ブルンナーに対する答え』)

 

新正統主義のチャンピオン、カール・バルトは、ブルンナーが〝正しい自然神学に帰ることが現代神学の課題である〟と言っていることに対して、次のように反論する。

 

「一般的には実証的・自由主義的な戦前の神学の影響から脱却し始めた時以来、常に次のようなものであった。それは、われわれが啓示を恩寵おんちょうとして、また恩寵を啓示として理解し、したがってまたあらゆる『正しい』あるいは『正しくない』自然神学を不断に新しく決断と悔い改めとをもって決然と見捨てるべきである」(『カール・バルト著作集2』、「ナイン!――エーミル・ブルンナーに対する答え」、新教出版社、187頁。以後『ナイン!』という)と。

 

このように、自然と恩寵との間の調停を拒否し、ブルンナーの書物は警戒警報であると断言する。

また、バルトは「調停神学はドイツの福音主義教会の今日の不幸の原因であることは明らかであり、そしてもしそういう事情が更に続くなら、また他の国の福音主義教会をも不幸に導くであろう」(『ナイン!』188頁)と予見するのである。

 

そして、キリスト中心主義の立場から自然神学に対して次のように批判する。

 

「私は『自然神学』という言葉でもって、イエス・キリストにあっての神の啓示を対象としないあらゆる(積極的にまたは消極的に)神学的とみなされている体系的思想、言葉を換えれば、神の啓示の解釈であると自称する体系的思想のことを理解する。したがって、そういう体系的思想のとる方法は、聖書の解釈とは根本的に違ったものである」(『ナイン!』191頁)と。

 

このように述べた後で、バルトは「私は全く出発点から彼と違った方向をとらざるをえないからである」(同、191頁)といい、「われわれは、自然神学を大きい誘惑と間違いのもととして、ただ恐れと怒りとをもってこれに背を向け、そして自然神学には関わり合わないで、自分自身に対してもまた他人に対しても、自分は自然神学に関わり合わないということと、そしてまた、なぜ関わり合わないかということを、その都度明らかにしうるのみである」(同、192頁)と宣言するのである。

 

バルトの批判は、近代主義の自然神学に対する先入観によるものであって、ブルンナーの正しい自然神学を誤解している。

ブルンナーは、「キリストの啓示」と「自然を通しての啓示」という二つの啓示の相関論を述べているのである。それなのに、バルトは、それを理解せず、「キリストの啓示のみである」といい、自然神学は「誘惑と間違いのもと」と従来からの主張を繰り返えすのである。

 

「原理的批評」

 

ブルンナーが主張する〝キリストの啓示〟と〝自然の啓示〟による「正しい自然神学」(「体系的思想」)に対して、バルトが、自然神学は「聖書の解釈とは根本的に違ったものである」と主張するのは、相手の言い分をよく聞かないバルトの誤解によるものである。

また、自然神学の排除は、彼の主観的な聖書解釈に起因するのである。

 

バルトは、出発点から、自己の神学的立場(キリスト中心主義)とブルンナーの神学とを区別し、感情的になって、「自然神学を大きい誘惑と間違いのもと」、「ただ恐れと怒りとをもってこれに背を向け」、「自然神学には関わり合わない」と述べている。

 

このバルトの聖書の解釈は、自己主張する分派主義であって、福音主義教会を偏狭にする。また、自然神学を否定する彼のキリスト中心主義は、現在、環境破壊によって危機的状況下にある自然を救済する視点がないと言えよう。

 

芦名定道氏は「環境論とキリスト論」について、次のように述べている。

 

「(近代神学においては)もはやキリストは人類の歴史との関係でのみ問題とされ、キリストの出来事と地球環境や宇宙全体との関わりで理解することはほとんど現実性を持ち得なくなった。一千億の銀河を包括した大宇宙の百五十億年の歴史の創造者にして救済者が惑星地球の一人間の生涯である三十年という一瞬においてのみ具体的な形をとって現れたというキリスト論の主張は、現代の科学的宇宙論を前にして激しい挑戦を受けている(McFague [1993],p.159)。キリストの出来事は古代のキリスト論が主張したような宇宙論的意味を再び回復することができるのか、あるいはキリストの出来事の意味はその歴史性(さらには世界史から区別された実存の歴史性)に限定されざるを得ないのか。これが環境論が提起する問いとキリスト論との関わりを論じるための思想史的な前提なのである。しかし、以上の歴史的事情より科学的宇宙論との積極的な関係構築を試みるだけの基礎作業が神学の側に欠けているため、本格的な『自然の神学』『コスモロジーの神学』は現在のところ存在しない――古い『自然神学』への逆戻りではなく――。これが環境危機に対する神学的取り組みを困難なものにしている。なぜなら、環境論から問われているのは『自然』や『環境』についての神学的理解であるにもかかわらず、現代神学はこれについて本格的な議論を展開する基盤(キリスト論的な)を失っているからである。」(『キリスト論論争史』水垣渉・小高毅編、日本基督教団出版局、556-557頁)

 

現代神学を牽引してきたバルトの福音主義神学の欠陥を、見事に指摘しているではないか。

ちなみに、統一原理は「創造原理」と「キリスト論」で、キリスト(真の人)は天地万物の中心存在であると次のように述べている。

 

「完成した人間は、神が常に宿ることができる宮(コリントⅠ、3・16)」(『原理講論』252頁)、「神と人間が合性一体化した位置が、まさしく天宙の中心となる位置なのである。」(同、60頁)、「創造目的を完成した人間は、天宙を総合した実体相となるのである。人間を小宇宙であるという理由はここにある。」(同、253頁)、「人間が存在して、被造物を形成しているすべての物質の根本とその性格を明らかにし、分類する……動植物や水陸万象や宇宙を形成しているすべての星座などの正体が区別でき、それが人間を中心として、合目的的な関係をもつことができるのである。……物質から形成された人間の生理的機能が、心の知情意に完全に共鳴するのは、物質もやはり、知情意に共鳴できる要素をもっているという事実を立証するものにほかならない。このような要素が、物質の性相を形成しているために、森羅万象は、各々その程度の差こそあれ、すべてが知情意の感応体となっている」(同、59-60頁)と。

 

この統一原理の宇宙論的「キリスト論」、すなわち、科学的宇宙論と「キリスト」(創造本然の人間)との関係論は、現代神学が求めている環境破壊に対処するキリスト論的な基礎を与えていると言えよう。統一原理のキリスト論は「自然の神学」「コスモロジーの神学」を包含している。

 

ところで、バルトは、自然神学の否定のために、次のような狂信論を語ることも躊躇ちゅうちょしない。

 

「自然神学を本当に拒否する時には、われわれは先ず初め蛇をにらみつけ、次に蛇によって自分がにらみつけられ、催眠術にかけられ、そして遂にまれるのでなくて、われわれは蛇を見たとたんに既に杖をもって打ちかかり、打ち殺してしまっている。」(『ナイン!』192頁)

「自然神学を本当に拒否することは、神を恐れることの中でのみ行なわれうる。したがってまた、自然神学に対して全く無関心の中でのみ行なわれうる」(『ナイン!』193頁)と。

 

以上のように、彼の論争術は、巧妙で感情論をあおり、自己の見解と相違する聖書解釈に対して敵対的になり、特に、自然神学を容赦しない。それはまるで中世の異端審問官のようでもある。

バルトのような〝絶対信仰〟の立場に立つ人たちに対しては、冷静に理性的に相手の主張をよく分析して反論し、対処しなければならない。しかし、誤りを指摘しても聞く耳を持たない人たちであることも心得ておくべきであろう。

 

(A)「バルトの自然神学批判の中身」

 

バルトは、ブルンナーの主張を、次のようにまとめて彼を批判する前提とする。

 

「ブルンナーの言う自然神学とは、次のようなものである。すなわち、人間には啓示なくしても人間自身が本来持っていて、そして啓示の中で言わば甦えって来る『啓示能力』(147頁)、または『言語能力』(150頁以下、172頁)、または『呼びかけられうる能力』(150頁以下)というものがあるということである。」(『ナイン!』195頁)

 

上述のまとめに続き、バルトは、次のように「言語受容能力」を批判する。

 

「『最高絶対にして自由に選ぶ神の恩寵』なくしても、人間に『啓示能力』があって、その能力はその神の恩寵によってただ助けられるにすぎないとすれば、そういう神の恩寵は一体いかなるものであろうか。もし人間が自分自身からしては自分の救いのためには何もなしえないなら、そしてもし人間に十字架の言葉を生ける認識としてくれるものが聖霊であるならば、『言語能力』とは何を意味するのであろうか――」(同、195-196頁)と。

 

周知のように、ブルンナーは、神の言葉を聞き理解するには「言語受容能力」と「応答責任性」が不可欠であると述べている。

この「言語受容能力」との関係で、誰しもプロテスタントの信仰義認論に対して素朴に疑問をいだく事柄がある。それは、信仰が全く真理の承認と無関係な事柄であるならば、教義的問題などはどうでもよいことになる。

 

しかし、はたしてそうであろうか。この問題に関する、下記のカトリックの批判は傾聴に値する。

 

「直接的救済は、必ず彼等の有する恩寵や神の前における義、又は予定説プレデスチネーションの観念によって説明される。これは体験的プロテスタンチズムに内在する矛盾に基づくのであって、いくら信仰は真理の承認ではなく神への人格的信頼だとか、愛の関係(智的要素を除外せる人格的関係もありうると見える)であると定義しても、少なくともその体験する神とは何ぞや、キリストはいかなる方か、神の前における我は何者か等の教義的背景なしに、上述の関係が成立するはずはない。」(『カトリックの信仰』、岩下壮一著、講談社学術文庫、642頁)

 

常々、われわれが信仰義認論に対していだく、一つの疑問(信仰義認と教義の関係)についての明確な解答が、上述の文章の中にある。

 

これに対して、バルトの主張は、ブルンナーが指摘しているように「恩寵のみ」、「聖書のみ」、というだけである。

 

ブルンナー「出会いの神学」(6)

(C)「自然神学が神学および教会に対して持っている意味」

 

(1)「キリスト教の社会倫理」について

 

ブルンナーは「キリスト教の社会倫理」という主題の基で、次のように述べている。

 

「自然神学に対してどういう立場をとるかが、倫理の性格に関して決定的であるということである。……キリスト教倫理にとって創造の秩序の概念は、最初から啓蒙主義の時代に到るまで、社会組織の問題と関係しているすべての事柄に対しての、したがって職業、召命、結婚、国家等々についての思想の中で標準的であった、と。昔から、全世紀を通して、キリスト教の社会倫理はイエス・キリストに基づいた愛――神が与え給うた構造のままの共同社会の諸形式の中で、生きて働いて来なければならない愛――についての思想であると定義することができる。それであるから社会倫理は、救済するキリストの恵みの概念を通して規定されているのと同様、また常に神の創造の恵みおよび保持ほじの恵みの概念を通して規定されている。」(ブルンナー著『自然と恩寵』168頁)

 

このように、社会倫理は「キリストの恵み」の概念を通して規定されているのと同様、また、常に「神の創造の恵み」および「保持の恵み」の概念を通して規定されているというのである。

 

さらに、彼は次のように述べている。

 

「諸秩序は神の律法の一部分である――例えば結婚の秩序、すなわち一夫一婦制の命令や、国家の秩序すなわち政府当局を認めてこれに服従することは、神の律法の一部分である。律法は――それが書かれた法であろうと自然法(lex naturae)であろうと、以上述べたいろいろの秩序の中の一つであろうと――神の意志の啓示されてあること(Offenbartheit)をあらわす形式である。……ただ聖霊だけが我々に、律法と秩序を正しく、現時点にふさわしい仕方で認識することを教える。それはちょうど聖霊だけが律法と秩序にわれわれが従う時に、単に外面にばかりでなく、内面的にも神の意志が行なわれるというふうに従うことの出来る力を与えてくれるのと同様である。」(同、169頁)

 

キリストと聖霊との関係で、ここで一言述べておかなければならない。

上述のごとく、ブルンナーは、聖霊のわざは「『現時点』にふさわしい仕方で認識することを教える」と述べているように、聖霊が教えるのは現時点までで、言い換えると、再臨主が顕現するまでである。

なぜなら、「結婚」や「国家の秩序」や「自然法」は、再臨主の御言みことばによって完全な真理の内容としてすべてが教えられるからである。

 

(2)「アナロギアの思想」について

 

ブルンナーは、「神のかたち」と関連する「アナロギアの思想」(存在の類比)について、次のように述べている。

 

「アナロギア(Analogie)の原理及びそれに対するバルトの論争に関してここで一言ふれなければならない。バルトはアナロギア(Analogie)の原理がどのように用いられるかということの中に、カトリックの思想とプロテスタントの思想との間の一つの、いな、唯一つの対立を、見てとった最初の神学者である。バルトはこう主張する、すなわち、それ自身の中に始めから神との類似性を持つ被造物は存在しない。ただキリストにあっての啓示を通して、そして聖書を通して初めて被造物は神との類似性を持つという資格を付与されるのである、と。これは前代未聞の神学的唯名論であって、それと比べるなら、オッカムの唯名論でさえ無害と思われる。なぜなら、そうだとすると、われわれが神を『父』、『子』、『聖霊』と呼ぶこと、われわれが神の『言葉』について語ること等々は、神がそのほかの何物かとよりも父と類似性を持つということに基づいているのではなく、単純に神が聖書の中でそのように語っているからという事実に基づくということになるであろうからである。つまり、神がそう語るのは、そういうことが――神の創造したものを通して、神の創造の時以来――始めからそうであるからではなく、それは神の語った聖書を通して、初めてそのようになるからである。」(同、169-170頁)

 

上述のごとく、バルトは、「それ自身の中に始めから神との類似性を持つ被造物は存在しない。ただキリストにあっての啓示を通して、そして聖書を通して初めて被造物は神との類似性を持つという資格を付与されるのである」という。

 

ブルンナーは、バルトのこの見解に対して唯名論であると批判しているのである。被造物が神との類似性をもつのは聖書によって資格が付与されたからではないというのである。「キリストの啓示」とか「聖書の啓示」がなくても、人間の意識から独立して客観的に存在するすべての被造物には、神の印章(類似性)があるというのである。

 

上述の事柄を一言でいえば、バルトの思想とは客観的存在を認めない粗野そやな主観主義の哲学であると言っているのである。分かりやすく表現するなら、バルトの「聖書のみ」(聖書の解釈)とは、聖書に書かれていない〝ガリレオやコペルニクスの地動説は異端である〟と断罪するような立場なのである。

 

統一原理は「創造原理」で、「被造物はすべて、無形の主体としていまし給う神の二性性相に似た実体に分立された、神の実体対象である……人間は神の形象的な実体対象であるので形象的個性真理体といい、人間以外の被造物は、象徴的な実体対象であるために、それらを象徴的個性真理体という」(『原理講論』47~48頁)と述べている。

 

ブルンナーは「世は神によって創造されたものである。あらゆる被造物の中でその創造主の霊が何らかの仕方で認識される。すべての名人の真価は作品に現われる」(『自然と恩寵』より)と述べている。

彼は、「キリストの啓示」と「聖書の啓示」以外に、神は「自然を通しても啓示される」というのである。

 

ブルンナーは、「バルトの教義学も、そのほかのすべての教義学と同じようにアナロギア(Analogie)の思想の上に基礎を持っている。ただ、バルトはそのことを認めようとしないだけである」(同、170頁)と述べ、さらに、神と人間との「存在の類比」について、次のように述べている。

 

「われわれが神について語る時には人間の人格のたとえをもってするより以外の仕方では決して語りえない、ということが含まれている。そういう思想の上に、バルトの神学全体は基づいていることを意味する。父、子、聖霊、主、言葉――こういうキリスト教神学や聖書の宣教にとって決定的な諸概念は、人間の人格に関する概念である。そういう人格概念がすべての自然概念(そのことばの近代的意味における)よりぬきんでているのは、神がとにかく不可解な仕方でそのように欲し給うから、という理由によるのではなくして、神が人間の中に類似した本質、すなわち人間だけがもっている神に類似した本質、を創造したという理由による。神と類似した本質、すなわち主体的存在あるいは人格的存在は、また罪によっても〔ただ啓示を通してだけ認識されるという程度に〕破壊されてはいない。したがって、この類似性は、すべて自然との類似(Naturanalogie)とは違って、まさしく啓示を通してこそ初めて確認される、というようなことは言えない。」(同、171頁)

 

このようにブルンナーは、「神と類似した本質、すなわち主体的存在あるいは人格的存在は、また罪によっても〔ただ啓示を通してだけ認識されるという程度に〕破壊されてはいない」というのである。

 

ここでも一言、原理的に述べておかなければならない。

神と人間との「存在の類比」は、神と堕落人間との類比ではなく、神と堕落していない創造本然の人間であるキリストとの類比(父と子の関係)のことである。

 

ただし、本然の人間とは、神の似姿である堕落していないアダム(男)とエバ(女)のことであって、イエスは「第二アダム」(コリントⅠ、15・45以下)といわれるが、女性(エバ)を忘れてはならない。神には、男性的性相と女性的性相の二性性相があるのである。

したがって、神と人間との関係(父と子の関係)は、神(天の父母)と人間(アダムとエバ)の関係のことである。「天の父」という神概念に、男性性相だけでなく女性性相があるのである。

 

ブルンナーは、自説を次のようにまとめて述べている。

 

「人がそもそも神について語り、神の言葉を宣教しうることは、客観的には、神がわれわれを神のかたちに創造したということの中に、その基礎を持っている。しかし主観的には、そのことがわれわれに対してイエス・キリストの中で啓示されるということの中に基礎を持っている。神が人間となるということは、人間が神に似た姿であることを、それの真理と深さに従ってわれわれが認識する認識根拠である。そして、神に似た人間の姿が、形式的な側面から見ると、破壊されてないということが、神の『言葉』の中での神の啓示を人間が受ける客観的可能性である。

教会は、神の言葉と人間の言葉の間にある、神の創造によって造られた関係による以外の仕方では、決して宣教することはできない。教会が宣教するということ(Daβ)は、この神のかたち(imago Dei)の『残存』の上に基づいており、教会の宣教の内容(Was)は、この像の残存がキリストにあって回復されるということに基づいている。教会もまた、われわれは人間と『とにかく神について語り』うるということの上に立たされる。それが、『結合点』である――それはすなわち、言語能力と応答責任性ということである。」(『自然と恩寵』172頁)

 

そして彼は、「経験に従えば、自然神学を軽蔑することと共に、教育学的要素の蔑視べっしが起こってくる。そのことは、教会の中ではわざわいなる結果を招来しなければならぬ」(同、173頁)と警告する。

 

また、「あらゆる自然神学を軽視することは、教会の中では直ちに――そして今日は前よりももっとそうであるが――教会を完全に孤立化せしめることになるであろう」(同、174頁)と言うのである。

 

そして、このブルンナーの神学の確信は、偽りの自然神学が最近のプロテスタントの思想に大きな損害を与えたのであり、また、現在も教会をおびやかしつづけている。だから、正しい自然神学に立ち返ることこそが、現代の神学の課題であるというのである(『自然と恩寵』、174-175頁を参照)。

 

ブルンナー「出会いの神学」(5)

(B)ブルンナーによる「宗教改革の思想」について

 

ブルンナーは、バルトに反論して、「わたしの主張はトマス主義的でもなければ新プロテスタント主義的でもなく、すこぶる宗教改革的である」(ブルンナー著『自然と恩寵』、154頁)といい、「ブルンナーの自然神学がトマス的であるならば、カルヴァンの自然神学はもっとトマス的である」(同)と主張する。

 

(1)「カルヴァンの自然神学」(「自然の啓示」と「聖書の啓示」)

 

ブルンナーは、カルヴァンの自然という概念は近代的な言葉の用い方におけるのとは全く違った意味を持っている。自然は、精神あるいは文化と対立するものではないというのである。

 

彼は、宗教改革者カルヴァンの「自然観」について、次のように述べている。

 

「カルヴァンにおいては、自然は存在の規範という概念と同様のものである。そして数え切れないほど、頻繁に次のような表現が繰り返されている。『自然ハ教エル』(natura docet)。『自然ハ語ル』(natura dictat)。それは、カルヴァンにとっては『神が教える』というのとほとんど同じ意味である。詳しく言うならば、天地創造の時以来、世界に刻印せられた神の意志、すなわち神的な世界規則(Weltregel)が教えるということと同じである。それ故に、カルヴァンにとっては、自然法(lex naturae)という概念を、創造の秩序という概念と同様に用い、しかも両者をほとんど同じ価値、同じ意味のものとして用いるということは全く自明的なことである。自然法と創造の秩序というこれらの両方の概念は到るところで頻繁に用いられている。」(『自然と恩寵』155頁)

 

このように、ブルンナーは、カルヴァンの自然は存在の規範という概念と同様のものであると言うのである。

 

そして、彼は、キリスト者にとって自然的神認識は不可欠であると次のように述べている。

 

「聖書から得られる神認識に対する重要な補充である。確かに自然の中での神認識は、たとえて言うならば、われわれは自然の中で、神の手と足を認識するが、しかし神の心を認識しない。神の知恵と全能を認識するし、そしてまた神の正義、否、親切をさえも認識する。しかし罪を赦す神の憐れみを、無条件的に交わりを欲する神の意志を、認識しない。しかし、自然的神認識のこの不完全さは、少しもそれを過小に評価するための理由にはならない。神の言葉によって教えられた者も、そのような自然的神認識を欠くことはできない。神の言葉によって教えられた者は、自然的神認識を必要とするばかりでなく、自然的神認識によってまた特に促進せしめられるゆえに、自然的神認識に対して義務がある。」(『自然と恩寵』157頁)

 

ところで、バルトは「聖書のみ」と言って、「自然の啓示」を排斥する。この見解に対して、ブルンナーはどのように見ているのであろうか。

 

彼は次のように述べている。

 

「自然の啓示は、聖書を通じて明瞭化されると同時に、補充される。聖書は『レンズ』として役立つ。換言すれば、聖書は自然の啓示の拡大鏡として役立つ。別の譬(たと)えを用いて言うならば、聖書の啓示を通じて、自然の啓示の中での神の声は非常に大きくされるので、眠っている人間は、さもなければ聞き過ごしてしまう自然の啓示の中での神の声をきかざるをえなくなる。そして、二番目に、聖書はわれわれに神の心を示す。しかし自然の啓示の中では、少なくともその神の心の最も内面の奥義はわれわれに明らかにされない。いずれにしても、聖書の啓示によって自然の啓示は決して余計なものとなってしまわない。逆に聖書によって初めて、自然の啓示はまさしく効力を発揮する。そしてほかならぬ聖書の中においてこそ、われわれは自然の啓示に注意するよう教えられる。」(同、157頁)

 

このように、「聖書によって初めて、自然の啓示はまさしく効力を発揮する」というのである。

 

そして、ブルンナーは、「この関係はなおまた特別に、神的意志の認識について、すなわち律法と自然の秩序についても言える。われわれは、神の律法を理性の中で、あるいは良心の中で、知る」(同)と述べている。

 

「『殺すな、姦淫をするな、盗むな、偽証を立てるな。父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ』」(マタイ19・18-19)という戒めは、理性の中で、良心の中で、知るということである。

 

ブルンナーは、創造の秩序とカルヴァン的な倫理の関係について、次のように述べている。

 

「自然法は、まさしく神の創造の意志(Schöpfungswille)だからである。それと同じことが、もろもろの秩序についても言える。創造の秩序、あるいは自然の秩序は同様に、罪によって幾分暗くされており、キリストからして再び、新しく認識されなければならない。しかしまさしく、これらの自然の秩序は、キリストからして、創造の秩序として新しく認識されなければならないのである。創造の秩序の上に倫理を打ち建てようと欲し、しかもカトリック的とならない神学者は、素人であると、もし現代のある一人の神学者があえて主張するなら、この判決を受ける第一人者はカルヴァンである。カルヴァン的な倫理は、創造の秩序の概念なしには全く考えられない。しかしここで、倫理について語る前に、カルヴァンの自然神学に関するもう一つの概念が展開されなくてはならない。その概念は、彼の倫理にとって基本的なものなのである。それはすなわち、神のかたちの概念である。」(『自然と恩寵』157-158頁)

 

このように、カルヴァン的な倫理は、創造の秩序の概念なしには全く考えられないという。彼の倫理にとって、基本的なもの、自然神学に関するもう一つの概念、すなわち、それは「神の像」の概念であるというのである。

 

(2)「神の像」について

 

ブルンナーは、その「神の像」について、次のように述べている。

 

「神の像の概念は、カルヴァンの人間論の基本概念である。この神の像の概念の取扱いの中で、カルヴァンはまた、ほかのところではほとんど見られないほどはっきりと、彼の神学全体の関連を、なかんずく自然神学と、その言葉の狭い意味での啓示神学(theologia revelata)との間の関連を明らかにしている。神の像は、一方においてはキリスト論を指し示す、なぜならば、キリストはあの摸像もぞうである人間の像(imago)に対する原像であるから。しかし、神の像は、神の像の完全な内容がただキリストと聖霊を通しての『回復』(reparatio)、『再生』(regeneratio)からしてのみ、認識されるかぎり、さらにより明確に、救済論を指し示す。特に好んでカルヴァンは、イエス・キリストへの信仰を通して起こるところの『再生』の内容全体を、『像の回復』(reparatio imaginis)という概念といっしょに結びつけている。『再生』および『回復』というこれら二つの規定でもって言われていることは、『神の像』の概念は、キリスト教神学においては、ただまさしくこの像の喪失としての罪の概念と関連づける時にのみ理解されることができる、ということである。」(同、158頁)

 

以上のように、「神の像」は人間論の基本概念であり、また、キリスト論と救済論に関連する根本概念であると述べている。

 

ところで、「神の像」は男だけを指し示すのではない。神は「神の像」としてアダム(男)とエバ(女)を創造されたのである。したがって、統一原理は、神は男性性相と女性性相の「二性性相」であるというのである。

 

ちなみに、ティリッヒは、女性的要素の排除について次のように述べている。

 

「キリスト以後5世紀から今日に至るまで聖処女(Holy Virgin)の表象が象徴的能力をもってきたということは、神と人間との間におけるすべての人間的仲保者に反対して戦われた宗教改革の戦において、この象徴を徹底して排除したプロテスタント・キリスト教に対して一つの問題を提起する。この追放によって、究極的関心の象徴的表現における女性的要素はおおむね排除された。」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、369-370頁)

 

今後、神学的に神の女性的性相が、あるのか、ないのか、が問題となるであろう。神概念を存在論的に論述している統一原理は、「自然の啓示」と「聖書の啓示」を根拠とし、神は男性性相と女性性相の二性性相であると述べている。

 

ところで、「神の像」と救済論との関係で、ブルンナーは「キリストと聖霊を通しての『回復』あるいは『再生』」と述べている。この彼の「回復」「再生」という表現を、バルトから和解によって「新しい人間、新しい被造者となった」ということは「人間の回復能力を全然考慮に入れることのできないようなものである」(バルト著『ナイン!』212頁)と批判されるのである。

 

ティリッヒは、「回復」「再生」と言わずに「新しい存在」といい、統一原理は「重生じゅうせい(新生)」と表現している。「重生(新生)」とは、新たに生まれるという意味である。

 

イエスは、ニコデモと次のような対話をしている。

 

「『だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない』。ニコデモは言った、『人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか』。イエスは答えられた、『よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。…』」(ヨハネ3・3)

 

この対話の意味を原理的に解説すると、「水」とは洗礼のことであり、「霊」とは聖霊のことである。それで、下記のごとく『原理講論』では、聖書の「霊」という言葉を〝聖霊〟と言い換えて、「聖霊によって新たに生まれなければ、神の国に入ることができない」と述べているのである。

また、新たに生まれるためには父母がいなければならない。したがって、イエスが「真の父」であるなら、聖霊は「真の母」であると述べているのである。

 

また、ニコデモの問いである「もう一度、母の胎にはいって生れる」とは、いかにして原罪を清算するのかという問題に関するものであって、「生れる」とは、人間は罪人として生まれた堕落の経路と反対の経路を遡行そこうして、再び新しく生み直してもらうことを意味する(重生)。「霊から生まれる者は霊である」とは、十字架の死後、復活した霊的イエスと聖霊から霊的に重生(新生)したキリスト者のことである。

 

ところで、ブルンナーは、一方において、確かに「人間は聖書の中での、あるいはイエス・キリストの中での、啓示なくしても、自然の中で神を認識する能力を持っているのである」(『自然と恩寵』160頁)と述べている。この主張がバルトの目に留まり、「否!」と批判されたのである。

 

しかし、他方において、「主観的な自然という意味での自然神学は、われわれがキリストの中で持っているところのよりよい認識によって、全く余計なものとして、効力を失わしめられる。しかしキリストそは、この不完全であるばかりでなく、また常に不真理によってゆがめられた主観的・自然的神認識の代りに、われわれに真の自然神学、神の業の中での神のまことの認識を取り戻す方である」(『自然と恩寵』、160頁)と述べている。

 

ブルンナーの言う「正しい自然神学」とは、統一原理に他ならない。

 

神によって創造された自然は、ペア・システムとして存在する。したがって、統一原理による存在論からの神認識は、神は二性性相(男と女)であると捉えている。

しかし、バルトは「聖書のみ」と言って自然神学を排除し、存在論から創造神を見ようとしない。バルトは、聖書から「三位一体の神」というが、神の女性的性相を捉えることができないのである。聖書には「神の像」として、神はアダム(男)とエバ(女)を創造した(創世記1・27)と述べている。

したがって、神には男性的要素と女性的要素の二性性相があるのである。この神概念は、存在論(自然の啓示)と聖書の啓示の二つの啓示から捉えている。

 

文鮮明師は「宇宙の根本」の中で、次のように述べておられる。

 

「力よりも作用が先です。作用は、一人ではできないのです。必ず主体と対象がなければなりません。この宇宙は、ペア・システムの原則、公式に立っています。ペア・システムになっているというのです。結論がそうです。世界がどれほど簡単か見てください。鉱物世界も相対でできています。すべてそのようになっています。植物もペア・システム、動物もペア・システム、人間もペア・システムになっています。神様も二性性相です。それは、永遠の真理であり、公式です」(八大教材・教本『天聖経』「宇宙の根本」1578頁)

 

さらに、「宇宙の根本は愛である」(同、1583頁)、「人間は万宇宙の愛の中心」(同、1589頁)、「天地をペア・システムで、造ったのは何のためですか。これは、愛の博物館です」(同、1600頁)と述べておられる。

 

ブルンナーは、「自然の啓示と聖書の啓示との関連性は、最後にカルヴァンが、倫理に関して神の像をどう用いているかということの中で示される。……正しい自然倫理(ethica naturalis)は自然神学と同様、ただキリストにあってのみ完成される。」(『自然と恩寵』161頁)と述べている。

 

上述の言葉は、文鮮明師の御言みことばをキリスト教会に受容可能にする〝洗礼ヨハネ的な発言〟であるといえよう。

 

ブルンナーによると、「以上が、大ざっぱに言って、カルヴァンの自然神学である。それはまた、すべての本質的な点において、ルターの自然神学でもある」(ブルンナー『自然と恩寵』162頁)というのである。

 

ここに至って、争点がより明確になる。宗教改革的というのは、ブルンナーが主張するように、「二種類の啓示」(「自然の啓示」と「キリストの啓示」)から自然神学を肯定することなのであろうか。

あるいは反対に、バルトが「恩寵のみ」「聖書のみ」と主張するように、自然神学を否定することなのであろうか。

これは、統一教会の神学思想と、「統一原理」を批判する日本基督教団の一部の神学者や牧師らとの〝対立点〟でもある。

 

ブルンナー「出会いの神学」(4)

(5)「結合点」について

 

ブルンナーは『結合点』(言語能力と応答責任性)、すなわち「人間性」について次のように述べている。

 

「神の救済の恵み(Erlösungsgnade)に対して結合点が存在するということは、……その人とは、石や丸太でなく、ただ人間的主体だけが神の言葉と聖霊を受けることができるということを承認する人のことである。結合点とはどういうものであるかというと、罪人からも失われてない形式的な神のかたち、すなわち人間を人間たらしめるもの、人間性、前述の二つの要素でもって言えば、言語能力と応答責任性である。人間は言葉を受けることができる存在であるということ、そしてまた人間だけが神の言葉を受けることができる存在であるということ、そのことは罪によってもなくならせられない。……それは純粋に形式的な、話しかけられることができるということ(Anspruchbarkeit)である。そもそも、この話しかけられることができるということはまた、応答責任性の前提でもある。」(ブルンナー著『自然と恩寵』、150頁)

 

このように、ブルンナーは、真の神から「話しかけられることができる」という「結合点」(言語受容能力と応答責任性)、すなわち「人間性」は、罪によってもなくなっていないというのである。しかし、バルトは『結合点』(人間性)を否定し、神認識は上からの一方的な恵みによると言い、人間は自分で自分を救うことはできないと主張するのである。

 

ブルンナーは、「神の恵みはただすでに罪について知っている者のみが理解することができる」(同、151頁)と述べた後に、罪と結合点の関係について、次のように述べている。

 

「神について知ることなしには、いかなる罪も存在しない。罪は常に『神の前に』ある。……神の言葉が初めて人間の言語能力を造り出すのではない。言葉を聞きうる能力があるという性質を、人間は決して失ってしまっていないその性質は、神の言葉を聞くことができるということに対する前提である。……結合点についてのそのような教えによって、『恵みのみ』についての教えが少しも危険にさらされないことは明らかである。」(同、151頁)

 

このように、一方において、「恵みのみ」の教えが少しも危険にさらされないというが、他方では、対象に言語受容能力と応答責任性がなければ、上よりの「恵み」(和解)の働きかけに対し、対象は応答できないというのである。

 

バルトは、神の呼びかけに応答する能力でさえ、人間に生得せいとくのものではなく、神の啓示と聖霊の働きによって新しく創造されるものであるというのである。

しかし、和解以前のノアやアブラハムやモーセらは、神の呼びかけに応答していた。

 

バルト神学は、信仰には認識が対応している。信仰が認識に先行するのである。

これに対して、ブルンナーは、「聖書が信仰を聖霊のわざ、聖霊の賜物と呼んでいることは確かであるが、しかし聖書は決して聖霊が私の中で信じるとは言っていない。聖霊が私のなかで信じるのではなく、私が聖霊を通して信じるのである」(『自然と恩寵』、152頁)と批判している。

 

ちなみに、バルトの『教会教義学』の「和解論」について、大木英夫氏は次のごとく述べている。

 

「キリスト教的な神認識と人間認識が可能となる場所……和解だけが、そこから、罪とは何かが、キリスト教的に洞察され判断される場所である。……和解とは、神からまた自分自身から疎外された人間にとって何の出発点もないところの真空の中に、神ご自身が一切の認識の出発点を設定したもうたみ言葉だからである。」(『バルト』大木英夫著、講談社、260頁)

 

このように、バルトにとって「和解」こそが、真の神認識、真の人間認識、そして罪認識などの一切が洞察され判断される場所であり出発点なのである。

 

すでに論述してきたごとく、ブルンナーは「自然的な人間性」には、神の恵みとの必然的な、不可欠な「結合点」(言語受容能力と責任応答性)があるというのである。しかし、バルトの「和解論」にはこの前提がないのである。

 

また、ブルンナーは、この恩寵おんちょうと自然的な神認識の関係について、次のように述べている。

 

「この『話しかけられることができる性質』と関係のある領域は、より狭い意味での人間性(das Humanum)を包含しているばかりではない。それは、『自然的な』神認識と関連しているいっさいのことを包含している。もはや何の神認識も持たない人間に、神の言葉はもはや到達することができないであろう。良心のない人間は、『悔い改めて福音を信ぜよ』という呼びかけによって呼びかけられることができない。確かに自然的な人間が、神について、律法について、そして自分自身が神のものであること(Gottgehörigkeit)について知っているその知識は、非常に混乱したものであるかもしれない。しかし、それでいてなお、それは神の恵みとの必然的な、不可欠な結合点なのである。そしてそのことは、次の事実の中においても証明される。すなわち、福音はほとんど常に、新しい言葉を造り出したのではなく、異教の宗教意識によってすでに造り出されていた言葉を使用した、という事実である」(『自然と恩寵』、151-152頁)と。

 

他宗教には、キリストを受容する不可欠な「結合点」があるということである。しかし、バルトは、他宗教は真の神を認識できず、また、神ならざる神を礼拝するとして排除し、〝偶像崇拝〟は神を受け入れる準備段階であるのかと反論する。〝偶像崇拝〟に対する反論は後にする。

 

ところで、再臨主の御言みことばと原理から見れば、バルトの反論の基礎である三位一体の神も、おぼろげな神認識であって完全な神認識ではないのである。「全きものが来る時には、部分的なものはすたれる」(コリントⅠ、13・10)運命にある。

 

(6)自己意識について(「人間の5%の責任分担」)

 

ブルンナーは、人間は主体であり理性的存在であると言い、自己意識の維持について次のように述べている。

 

「人格的な神が人間と人格的に出会う。そのことの中に、自己意識の維持ということが含まれている。そのことの典型的な表現が、まさしく新約聖書の中で、神秘主義的表現に最も近づいているあのガラテヤ書2・20の表現である、『しかしわたしは生きている、それでいて私ではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである』……この『しかしわたしは生きている』という表現は、『わたしは律法によって……死んだ、私はキリストとともに十字架につけられた』というあの文章のあとに続いている。その表現は、また内容的な人格性(Personalität)が死んでもなお形式的な人格性が維持されているということを言い表わしている。」(同、152頁)

 

自己意識の維持とは、原理的に言えば、神の「95%の責任分担」(恵み)に対して、人間には「5%の責任分担」である自由意志があるということである。罪によっても、自由意志はなくなっていないということである。しかし、ルターは、人間は善を成し得ない、自由意志は罪の奴隷である。したがって自由意志はない、と言っている(奴隷意志論)。バルトも同じ見解である。

しかし、自由意志があるか、ないか、という問題と、自由意志は善を成し得るか、成し得ないかという価値問題は別の問題である。ルターの主張は論点がずれている。

 

ティリッヒは、彼の著『組織神学』(第一巻「啓示の現実」)の中で「啓示と理性の相関論」を説き、脱自だつじ恍惚こうこつ、霊的現臨)は精神がその通常の状態を超え出るという意味において異常な精神状態を指すが、それは自由な理性の否定ではないと述べている。

 

さらに、ブルンナーは、信仰命令(戒め)について次のように述べている。

 

「その信仰命令は――誰でもが知っているように――新約聖書にとって、ちょうど信仰は神の賜物であり、神の業であるという主張と同じように、特徴的なものである。新約聖書の用語法の統計的な結果によると、信仰は神の賜物であり、神の業であるという主張よりも、信仰命令の方を、いっそう強く力説していることを示しているとさえ、私は考える。」(『自然と恩寵』、153頁)

 

神からの信仰命令は、人間の5%の自由意志や責任性を認めるからこそ出されるのである。

 

以上、今まで論述してきたこと、ブルンナーは「こういうもろもろの主張から、私の自然神学(theologianaturalis)――カール・バルトにとっては、全く疑わしい――が成り立っている」(同)と述べている。

 

「原理的批評」(自由意志について)

 

「信仰の行為」とは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです」(マルコ5・34)とあるように、信仰は「人間の5%の責任分担」なのである。すなわち応答責任性であり、信仰する「決断」も5%の人間の自由意志である。

 

聖書にある多くの「信仰命令」(勧告や命令や約束)は、それらを人間は理解する能力(理性)があり、それを行う5%の責任性があり、決断する自由意志があることが前提で与えられるのである。

 

バルトは、この神の呼びかけに「応答する能力」ですら「神の恩恵」によって創造されたものであるといい、人間の主体的な自由意志や責任性を否定する。しかし、罪によって本質構造(神の像)を喪失した人間には、そのような応答能力(自由意志)すらないと否定されるなら、応答したものには「永遠の生命」が約束され、拒んだものには「永劫の罰」(永遠の死)が課せられるというこのような厳しい責任を負わされる「最後の審判」はないはずである。すべて神の責任となるからである。

 

また、救済の予定において、全てが必然で「恩寵のみ」であるなら、人間は自由のない神の意志通りに動くロボットに過ぎず、「聖書」の中にある多くの勧告、命令、非難、要求は、必要ではなく、このような「信仰命令」は全く無意味なものとなってしまうのである。悔い改める期間も不必要である。

 

また、神と人との契約が現実の歴史であるなら、神が人と〝契約を結ぶ〟のは、罪人であっても人間には良心があり、「人間性」があり、「言語受容能力」と「応答責任性」があるからなのであって、もし、人間に自由も責任も人間性もないなら、そのような人間と神は〝契約を結ぶ〟ことなどあるはずがないのである。

 

統一原理は、人間に「5%の責任分担」があるのは、創造への参加と万物の主管権の賦与ふよのためであると説いている。これは人間の特権なのである。

 

このように、み旨成就における「神の95%の責任分担」+「人間の5%の責任分担」=100%という神と人間の関係における責任分担論を説くと、プロテスタントの神学、特に福音主義神学と鋭く対立せざるを得ないのである。

なぜなら、神の恵みを95%というように、いかに大きく捉えようとも、5%という人間の「行い」がなければ100%にはならない。したがって、このように人間の行いに対して、ほんの少しでも価値を認めれば、救いが人間の行いを少しも必要とせず、神の一方的な「恵み」であるとする「福音」も、また否定されるからである。

 

もし、バルトが、統一原理のように「人間の5%の責任分担」(「行い」)を認めるとするならば、カトリック神学の「協働きょうどう説」や「功徳思想」を認めることになり、ルター以来の宗教改革的信仰を、自ら誤りであると認めることになってしまう。

したがって、信仰義認という立場から見て、救いにおける「信仰」と「行い」の対立を主張し、罪人である人間の「自由意志」や「業」(「行い」)を完全に否定することは、「福音主義」の何であるかを説かんがための生命線であり、彼らにとって重大な問題なのである。

 

バルトが、ブルンナーの自然神学を必死になって否定するのは、そのためである。したがって、われわれもバルトの自然神学批判を知って、原理的観点からブルンナーを補完し、バルトの誤りを指摘しなければならないのである。

 

ブルンナー「出会いの神学」(3)

(4)「保持の恵み」

 

ブルンナーは「保持の恵み」について、次のように述べている。

 

保持ほじの恵みとは、大部分は、人間が罪を犯すにもかかわらず、神の創造の恵み(Schöpfungsgnade)を罪深い人間から全く取り去ってはしまわないということである。」(ブルンナー著『自然と恩寵』、147頁)

 

ただし、ブルンナーは、「保持の恵みに関して正しく語ることは、キリストの啓示の光の中で初めて可能である。」(同、148頁)と言うのである。

 

彼は「保持の恵み」について次のように述べている。

 

「神は全く善意を持つ方であるので、太陽をよい者の上にも悪い者の上にも、照り輝かせるということ、神はわれわれに生命、健康、力等を与えるということ、……自然的な生活に必要なすべてのもの、そういうものすべては、保持の恵みの概念の下に置かれるが――、その保持の恵みは、それであるから一般的な恵みと呼ばれているが……われわれはこのこと、すなわち救う恵みを学び知る前にすでに神の恵みによって生きていたということを、たとえその恵みが何であるかを正しく認識しなくても、認識する。」(同、148頁)

 

確かに、キリスト者以外の人も、大地からの豊穣ほうじょうの恵みを受け、自然的な生活に必要な「保持の恵み」を受けている。

 

ブルンナーは「保持の恵み」(歴史の遺産)に関して、さらに次のように説明を加える。

 

「この保持の恵みの領域には、自然な生活全体と共に、また歴史的な生活全体も属している。……われわれが父および母から受けたものばかりでなく、また民族とその歴史から受けたもの、また全人類の歴史的な遺産であるもろもろのものも、信仰の中で神の維持する恵みの賜物とみなされる。」(同、148頁)

 

事実、現代人は歴史の遺産を相続して、時代的恩恵を受けている。

 

次は、「創造の秩序」(結婚、一夫一婦制)についてである。

 

「この保持の恵みの領域に属するものに、特に歴史的-社会的生活のいろいろの定数(Konstanten)として、すべての倫理的な問題提起の根本要素を形造っているある『秩序』がある。たとえば結婚や国家のような、それなくしてはいかなる人間的な共同生活も考えられないところのある秩序が存在する。……たとえば、一夫一婦制の結婚は、……国家よりもより高い権威を持つものである。……それ故に、一夫一婦制の結婚は昔から『創造の秩序』(Schöpfungsordnung)と呼ばれてきた。そうだからと言って、イエス・キリストの中で初めて真に創造神を認識するキリスト信者は、また結婚の秩序を、創造主が設立したものとして認識するということ以外のことが言われているのではない。」(同、149頁)

 

ブルンナーが指摘するごとく、国家は国民の命と暮らしを守り、安全を保障する。

ここで重要な事柄は、ブルンナーが結婚について語り、一夫一婦制の結婚は「創造の秩序」であり、「イエス・キリストの中で始めて真に創造神を認識する」というところにある。

 

この結婚に関するブルンナーの主張は、再臨主の思想(家庭の原理)を全世界に証しする〝洗礼ヨハネ的使命〟を持った主張であると言えるのである。

 

聖書に、「『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない。」(マタイ19・4-6、マルコ10・6-9、参照聖句:創世記2・24)とイエスが言われた、と記述されている。

 

後で、また論じるが、ブルンナーの上述の主張に対して、バルトは「誰が何を基準に結婚を創造の秩序である」とし、「公理として義務と束縛とをもった命令にまで高めるのか」と結婚に対して問題を提起する。

この誰が、に対して、キリストが答えているというのである。キリストの御言みことばは絶対的基準である。キリストの御言が結婚の意義や家庭の原理について答えているというのである。

 

「家庭の原理」は、再臨のメシヤによって発表される真理である。従来の神学や哲学では、愛を概念化することは不可能であると言われてきたが、真の愛は「再臨のメシヤ」(文鮮明師)によって、「四大心情圏」と「三大王権」として概念的に解明されている。

そして、驚嘆すべきことは、真の家庭の中において「真の神」の「真の愛」を誰もが経験できると説かれている点である。神が人と共に生活する(ヨハネの黙示録21・3)というのである。

 

真の愛と家庭の原理について、真の父母様(文鮮明師ご夫妻)は次のように語っておられる。

 

「エデンの園のアダム家庭は、神様が理想とされた真の家庭の典型でした。無形で存在された神様の存在を実体で現すための四位基台の創造でした。

創造主であられる神様は、主体の位置で人間を対象の位置に創造され、神様の心の中だけに存在していた無形の子女、無形の兄弟、無形の夫婦、無形の父母を、アダムとエバの創造を通して、実体として完成しようとされたのです。

アダム家庭を中心として、実体の子女としての真の愛の完成、実体の兄弟としての真の愛の完成、実体の夫婦としての真の愛の完成、そして実体の父母としての真の愛の理想完成を成し遂げ、無限の喜びを感じようとされたのです。

したがって、真の家庭主義の核心は、人間関係の最も根幹となり、真の家庭を成すにおいて、絶対必要条件となる『四大心情圏』の完成と『三大王権』の完成です。

四大心情圏とは、子女の心情圏、兄弟の心情圏、夫婦の心情圏、父母の心情圏を言います。

皆様、人間は、この地にだれかの子女として生まれ、兄弟姉妹の関係を結びながら成長し、結婚して夫婦となり、子女を生むことによって父母となる過程を経ていくようになっています。したがって四大心情圏と三大王権の完成は、家庭の枠の中で成し遂げることができるように創造されています。」(「ファミリー」2005年6月号、「摂理史的観点から見た自由と釈放」から、36-37頁)

 

また、真の家庭において、「父子間の愛は、上下の関係を捜し立てる縦的な関係であり、夫婦間の愛は、左右が一つとなって決定される横的な関係であり、兄弟間において与えて受ける愛は、前後の関係として代表される」と語っておられる。

 

このように、真の愛には前後、左右、上下の愛があり、愛には創造の秩序があり、規範があるのである。

 

上述の御言にあるように、人間は真の愛を家庭の中において経験して円満な人格を形成するのである。この真の愛の規範は、社会の倫理と国家の倫理の基礎である。

したがって、ブルンナーの言うごとく、「一夫一婦制の結婚は、……国家よりもより高い権威をもつ」と言えるのである。

 

ブルンナーは、「結婚は創造主の与えた『自然の』秩序の一つである」(『自然と恩寵』、149頁)と述べている。そして、「これらの秩序は、ただ信仰からしてのみ、すなわちキリストからしてのみ、その本来的な意味において神の愛の意志との関連において正しく理解される」(同、150頁)と述べている。

 

さらに、ブルンナーは、カルヴァンの結婚と国家の倫理を取り上げて、次のように述べている。

 

「神の秩序、あるいは創造の秩序の中で、カルヴァンにとっては特に結婚が重要である。罪と関連をもつ保持の秩序の中では、特に国家が重要である。カルヴァンが結婚および国家の倫理について語るすべてのことは、彼の自然神学から由来する」(同、161-162頁)と。

 

この家庭や国家の倫理の教説は、自然神学を拒否するバルト神学への批判が含蓄がんちくされている。

 

バルトは、ブルンナーのいう創造の秩序としての結婚を、次のように批判する。

 

「『人間の歴史的・社会的生活の常数(Konstanten)』とも言うべきあの諸秩序であって、『それなくしてはいかなる人間の共同生活も考えられない』が、しかしそういう諸秩序の下で、ブルンナーは今一つの本来的な『創造的秩序』としての結婚を、罪との関連において造られた『保持の秩序』としての国家に対比して、より高い威厳を持つものと考えようとする」(バルト著『ナイン!』203頁)と。

 

この反論に多くを語る必要はない。家庭の原理は、社会の倫理と国家の倫理の基礎であると答えておこう。

 

また、バルトは誰が、何を基準に、結婚を「創造の秩序」と宣言するのかと次のように述べている。

 

「公理は一体、本来いかなる内容のものだろうか。あるいは、何としても『徹底的に罪人である!』われわれの間で、誰が、そういう公理は一体、本来いかなる内容のものであるかをきめるのか。もしわれわれが衝動や理性に相談をかけるなら、たとえばすべての『結婚』とは何を意味し、また、何を意味しないだろうか。衝動や理性は、われわれに本当に『結婚』が――神の創造の秩序として認められまた宣言されるべきものであるような結婚が――何であるかを、われわれに語るだろうか。少なくとも、もし認識の明白さと確実さとが問題となるならば、物理学的、科学的、および生物学的な『自然の法則』や、あるいはさらにまた数学の特定の公理の方が、創造の秩序と称せられるものに対して、あの歴史的・社会的な常数と言われるものよりも、はるかにより多くの権利を要求しなければならぬのではないか。そして誰が、あるいはまた何が、これらの常数を一体今また戒めにまで、言いかえると、神の啓示として見られねばならないような義務と束縛とをもった命令にまで、高めるのであるか。衝動と理性がそれをするのだろうか。そしていかなる標準をもって測ることによって、われわれはさらにまた、こういう社会学的な『創造の諸秩序』の小さい階級制度を直ちに造り上げ、これには、より高い威厳を、あれには、より低い威厳を与えるようなことをするに到るのであろうか」(『ナイン!』204頁)と。

 

このように、バルトは「公理は一体、本来いかなる内容のものだろうか」といい、また「『結婚』とは何を意味し、「『結婚』が――神の創造の秩序として認められまた宣言されるべきものであるような結婚が――何であるかを、われわれに語るのだろうか」と疑義を抱き、「社会学的な『創造の諸秩序』の小さい階級制度」を造り上げると言って問題視するのである。

 

この疑義に対して、「誰が」とはキリストが、であり、「何を基準に」とは、キリストの御言が絶対的基準であると、すでに答えている。

 

バルトは、「結婚が創造の秩序であるのか」といい、「神の啓示として見られねばならないような義務と束縛とをもった命令にまで高めるのか」と批判するが、この主張こそ、病める人間の心を代弁しているといえよう。

家庭の秩序は愛の秩序であって、「義務と束縛とをもった命令」ではない。しかし、神の愛がなければ、バルトの言うごとく束縛となる。

 

「自然法則」と「創造の秩序」(一夫一婦制の結婚)は、本来においては、どちらも創造の秩序である。人間が堕落して万物より劣る存在になってしまったので、バルトが指摘するように〝自然法則〟の方が勝っているように見えるのである。

 

しかし、本来においては、家庭の原理は最高の原理なのである。

なぜなら、文鮮明師によると、真の家庭の中に真の神の真の愛が顕現するからである。したがって、自然の秩序よりも家庭の愛の秩序の方が勝るのは言うまでもないことである。

 

ブルンナー「出会いの神学」(2)

(2)「ブルンナーの『反対命題とその基礎づけ』」(「神の像」について)

 

はじめに、ブルンナーは、彼自身の「反対命題とその基礎づけ」として、人間が他の被造物から区別されるのは、人間の中にある「神の像」であると次のように述べている。

 

「人間の持っている神の()姿(すがた)については、実際は二つの意味で語られねばならない。一つは形式的な意味で、もう一つは内容的な意味でである。この神の(かたち)という概念の形式的な意味は、人間性(Humanum)ということである。換言すれば、罪人であろうとなかろうと、人間をほかのすべての被造物から区別するものが神の像という概念の形式的な意味である。……人間はまた罪人としても天地万物の中心点であり、頂点であることをやめてしまったのではない。……天地万物の中でのこの優位の立場は、人間が神に対して持っている特別な位置の上に基づいている。詳しく言えば、神が人間を特別なものに創造したということ、すなわち、神の像を担う者として創造したということの上に基づいている。この像を担うという機能、あるいは像を担うという性質は、罪を犯したために除去されていないばかりか、それは罪を犯しうることの前提であり、まさしく罪の中でこそ生きて活動してくるところのものである。」(ブルンナー著『自然と恩寵』、143-144頁)

 

このように、神は人間を特別なものとして、神の(かたち)を担う者として創造したというのである。そして、それは、罪によっても除去されていないというのである。

 

この「神の像」に関して、さらに次のように述べている。

 

「われわれは、像を担う機能と性質を、人間が主体であるということと責任応答性という二つの概念によって表現する。人間はそのほかのすべての被造物に対して、ある大事なものを長所として持っている。罪人としてもそうである。それは主体であり理性的存在であるということである。この主体であり、理性的存在であるということを、人間は神と共通に持っている。ただ神は原型(げんけい)的に主体であり、人間は模造(もぞう)的に主体である。人間は、罪人としてもなお主体であることをやめてしまわない。人間はまた罪人としても、他人の語り相手となることができ、また神の語り相手となることもできる。そしてまさしくそのことの中に、責任を持つ者であるという人間の根本的本質(Urwesen)が基づいている。罪人としても、人間はまた責任を持つものである。こういう二つの性質の上に、すなわち言語受容能力と責任応答性との上に(そしてそれらはまた、それら二つの間で互いに非常に密接に関連しているのであるが)、人間の特殊な地位が基づいているばかりでなく、人間のこの特殊な地位と、そして神が人間となるという救済の啓示の形態との間の関係も、その上に基づいているのである。」(ブルンナー『自然と恩寵』、144頁)

 

上述のように、「人間の根本的本質」(神の像)とは、人間は理性的存在であり、「言語受容能力」と「責任応答性」を持ち、文法的に言葉となって語りかけるものを理解することができるという点にある。

人と人とが人格的に交流するのも、この言葉による。また、神と人が人格的に交流するのもこの言葉を媒介とするというのである。

 

ブルンナーは、この二つの機能と性質は堕落によっても毀損(きそん)されていないというのである。

確かに、彼の言うごとく、もし完全に毀損されているなら、神は御言(みことば)を人間に与えて人間を教育し、人間を成長させ、「完全な者」(マタイ5・48)とすることはできないであろう。

 

同様のことであるが、ブルンナーは、一方では、「形式的には神の像(imago Dei)は少しも毀損されていない。――人間は罪深くあろうとなかろうと、主体であり、責任をもつものである」(同、144頁)と言い、「言語受容能力と責任応答性」があると言う。

他方では、堕落によって「内容的には、神の像は完全に失われており、人間は徹頭徹尾、罪人であり、人間には罪によって汚されていないところは一つもない」(同、144頁)と述べている。

 

この彼の主張は、一見すると矛盾しているように見える。事実、バルトはブルンナーの見解は矛盾していると批判しているが、彼によると、そもそも堕落人間(罪人)はそのような形式と内容を持つ矛盾した存在であると見ているのである。

 

(3)「ブルンナーの『二種類の啓示』」

 

ブルンナーは、啓示には「自然を通しての啓示」と「キリストの啓示」の「二種類の啓示」があるという。

 

自然的啓示について、彼は次のように述べている。

 

「世は神によって創造されたものである。あらゆる被造物の中でその創造主の霊が何らかの仕方で認識される。すべての名人の真価は作品に現われる。」(ブルンナー著『自然と恩寵』、145頁)

 

このように、ブルンナーは、神は自然を通しても啓示されるというのである。

 

そして、自然を通して啓示されることを認めない〝バルトの福音主義神学〟こそ、聖書の証言と矛盾していると次のように批判する。

 

「神が被造物によって讃美されているということはまた、最初の時代からその後の全世紀を通してキリスト教の典礼には欠くことのできない一構成要素である。しかも聖書自身がそのことを語り、そしてそのことを承認しない人間を責め、人間は信者として、被造物が神をこのように讃美することに参与するよう聖書が期待しているとするならば、聖書の啓示の意味が軽んじられないために、そのような天地万物を通しての啓示を承認しないことを望むということは、私には、奇妙な、聖書への忠実さとしか思われない。」(同、145頁)

 

このように、ブルンナーは、バルトが「聖書のみ」と言いながら、天地万物を通しての啓示を承認しないのは、「奇妙な、聖書への忠実さとしか思われない」と批判しているのである。

つまり、バルトのキリスト中心主義は「偏った啓示概念」(同、165頁)であり、「偏狭な聖書解釈」であるというのである。

 

そして、ブルンナーは、「神が何事かをなすところ、そこでは神のなす(わざ)の上に神の本質の印章(いんしょう)(Stempel)を押す。それ故に、世の創造は同時に、神の啓示、神の自己伝達である。こういう主張は異端的なものではない。そうではなく、キリスト教の根本的主張である」(同、145頁)と主張する。

言い換えると、世の創造に神の本質の印章があると見る自然神学は「聖書の解釈」と矛盾していないというのである。

 

問題点は、「天地万物からの啓示」と、「イエス・キリストからの啓示」は互いにどのように関連しているかという点にある。

 

ブルンナーは、「世界の構造全体も、それ自体で神を(あら)わさないのは、ちょうど、聖書がそれ自体で神を顕さないのと同様である。……またこの構造全体がなす啓示を見る眼がこの啓示のほかに、付け加わるということを通してのみ、神を啓示する」(同、166頁)という。

 

それでは、自然が神を啓示するために、「自然の啓示」のほかにどのような啓示が「付け加わる」というのであろうか。

ブルンナーは「キリストの啓示」の中に立つ人間だけが、自然の中に正しい神を認識し得ると、次のように述べている。

 

「自然とは、罪深い人間が、そこで認識していながら同時にまた認識していないものを意味しうる。それはちょうど、人間自身の本性に関して言えば、神がご自分に似た姿として人間の本質の中に入れ給うたものは破壊されえないが、しかしどうしても常に罪によってくらまされてしまうと言いうるのと、事情は全く同じである。それ故、正しい自然からの神認識は、これをキリスト者だけが、換言すれば同時にキリストの啓示の中に立つ人間だけが、持っていると結論的に言える。」(ブルンナー著『自然と恩寵』、147頁)

 

このように、正しい〝自然からの神認識〟は、「キリストの啓示」の中に立つキリスト者だけが持っているというのである。

 

原理的に見れば、「キリストの啓示」とは、イエスと聖霊のことである。ただし、キリスト者の神認識は、ブルンナーの言うごとく「二つの啓示」から真の神を認識しているのであるが、まだ不完全な神認識である。再臨のメシヤの御言によって、キリスト者は〝不完全な神認識〟から〝完全な神認識〟に至るのである。キリスト者以外のすべての人も同じである。

 

「二つの啓示」に関して、笠井恵二氏は次のように解説している。

 

「大切なことは、『天地万物からの啓示』と『イエス・キリストからの啓示』という二つの種類の啓示が、いかに関連するかということである。……イエス・キリストにある第二の啓示の光の中でこそ、天地万物のなかに示される第一の啓示を明白に見ることができる。」(『二十世紀神学の形成者たち』笠井恵二著、新教出版社、157-158頁)

 

このように、ブルンナーは「二つの啓示」によって「正しい自然神学に立ち返れ」(『自然と恩寵』、175頁)と言うのである。しかし、彼は、誰もが自然の中に真の神を認識できると言っているのではない。

自然が常に啓示していても、唯物論者は神を認識しない。「キリストの啓示」(イエスと聖霊)も彼らの哲学である唯物弁証法で否定し、天地万物から神を排除する。これが神の心の痛みである。

しかし、共産主義(「マルクス―レーニン主義」)を批判・克服した再臨主(文鮮明師)の思想(統一原理と勝共理論と統一思想)によって、彼らも神を認識するようになるというのである。

 

以上のように、ブルンナーは「二種類の啓示」から、正しい神認識が可能であると言っているのである。

バルトは、キリストを抜きにしても〝自然を通して神を認識し得る〟という自然神学を、怒りをもって否定するが、ブルンナーの「二種類の啓示」は、自然を通しておぼろげに神を認識するが、キリストを抜きにして〝完全な神〟を〝完全に認識できる〟と言っているのではない。

バルトは、ブルンナーの主張をよく理解しないで批判しているようである。

 

ただし、今までの神学はすべて、バルト神学もそうであるが、真理の一部分であって、完全な真理ではない(コリントⅠ、13・9)。

したがって、先に述べたごとく、誰も完全な神認識に到っていないと言えるのである。

 

また、バルトは認めないが、異教徒に対しても、神は自然を通してご自身を啓示しておられるのである。そのことに関して、聖書は次のように述べている。

 

「神は過ぎ去った時代には、すべての国々の人が、それぞれの道を行くままにしておかれたが、それでも、ご自分のことをあかししないでおられたわけではない。すなわち、あなたがたのために天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たすなど、いろいろのめぐみをお与えになっているのである。」(使徒行伝、14・16-17)

 

しかし、バルトは「聖書のみ」、「キリストの啓示のみ」を主張して、ブルンナーの言う自然を通しての「いろいろのめぐみ」を否定する。

だが、上述のごとく、聖書は自然を通して「いろいろのめぐみ」を人間に与え、またキリストを受け入れる準備として異邦人(キリスト教以外の他宗教)にも啓示されていると述べている。

 

それでは、次にブルンナーの言う「いろいろのめぐみ」について論述する。

 

ブルンナー「出会いの神学」(1)

エミール・ブルンナー(Emil Brunner,1889-1966)は、スイス出身のプロテスタント改革派の神学者で、カール・バルトらと共に弁証法神学運動の草創期を担った新正統主義の神学者である。彼は1942年にチューリヒ大学総長の重責を担った。

 

ブルンナーは、神が人間と直面するとき、危機が生ずると主張する。なぜなら、神が人間と対決する時、人間の将来は二者択一の緊張関係になるからである。すなわち、人間は神に対して「(いな)」と言うか、「(しか)り」と言うか、それ以外にない。前者は「死」を意味し、後者は「新しい人」となる。ここに彼の神学が「出会いの神学」あるいは「危機神学」と言われるゆえんがある。

 

 

「主観と客観の超克」

 

ブルンナーは、神との出会いを「われ―それ」(I-it)、「われ―なんじ」(I-thou)という関係概念を用いて説明する。「われ―それ」の認識は、自己の外にあるものとしての客体の客観的知識である。「われ―なんじ」は、他者はもはや「それ」とか「あるもの」ではなくなり、われわれにとって「なんじ」となる人格的な関係である。

この「われ―なんじ」という関係は客観的関係ではなく、二つの関係が相対的関係となり、この関係によって血の通った両者の交わりが回復される。その関係は、もはや単なる傍観(ぼうかん)者にとどまることはできない関係である。(『現代キリスト教神学入門』W・E・ホーダーン著、日本基督教団出版局、178-182頁を参照)

 

ブルンナーは、この「われ―なんじ」という人格的な関係を媒介とすることによって〝神との出会い〟が可能となると言うのである。

 

笠井恵二氏は、「神との出会い」について次のように説明している。

 

「神学者は、客観-主観の対立の彼方にあるもの、すなわち自己を啓示する神と、この啓示によって自己を開放された人間との出会いを叙述しなければならない。だから彼が対象とすべきものは、客観-主観の相関概念によって把握しうることの彼岸にある。さらに神学者は、その対象を単なる学問的な方法では認識しえない。彼は自ら信仰者となることなしには、つまり彼自身が客観-主観の対立から抜け出て、言葉における神に出会うことなしには、自己の対象を認識しえないのである」(『二十世紀神学の形成者たち』笠井恵二著、新教出版社、153-154頁)

 

以上のように、ブルンナーの「われ―なんじ」という「出会いの神学」は哲学的に神を説く方法を提供したといわれている。

 

従来から〝神認識〟に関して、カトリックの客観主義とプロテスタントの主観主義の対立があった。客観主義は、神についての無謬(むびゅう)の真理を把握できるというが、主観主義は、それは大きな間違いであるという。

主観主義は、神は客観的に把握できないといい、内的な経験や信仰を重要なものと考える。しかし、主観主義は自己の主観的な力を絶対化し、互いに相容れず教会を分裂させてしまう。

 

ブルンナーは、神認識はこのような客観主義か主観主義かという二者択一ではなく、「主観と客観の超克(ちょうこく)である」というのである。これがブルンナーの主観と客観を統一した「出会いの神学」の根本原理なのである。

 

ところで主観的とか客観的とは、神学的に双方にどのような思考の相違があるのかということに関して、少々述べておかねばならない。

 

ウィリアム・E・ホーダーンは、客観的な思考と主観的な思考の違いについて、次のように述べている。

 

「客観的な思考は、限界をもち、対象によってためされる。客観的な思考のできる人は、自分の好みとか願いとかにかかわりなく、むしろ事実をして事実を立証させることができる。神学や哲学はこの客観的思考というものを、非常に高く評価する。これに対して主観的な思考は、どうしても自己の感情というものが、思考の中にもはいりこみ、客観的な事実を無視してしまう。哲学の歴史をひもとくとき、客観的、主観的思考の相対的評価をめぐっての論議や、主観的要素が対象を知覚する際にどのような影像(えいぞう)を与えるかの論議を、数多く見いだす。」(『現代キリスト教神学入門』W・E・ホーダーン、日本基督教団出版局、179頁)

 

客観的な思考の限界とは、カントが指摘するように、自由な理性は感覚的、経験的に認識し得る対象を越えて、神や不死の問題をあれこれと推論する傾向性がある。それは往々にして既存の形而上学(けいじじょうがく)にみられるように、観念的な妄想(もうそう)となり、独断論となりがちになる。

それでカントは、理性は感覚的に感知しうる対象を越えないこと、すなわち理性の有限性(限界性)を主張したのである。

 

主観主義とは、人間の内的な体験や、信仰を重要なことと考えるのである。自分自身の内面をしっかりと見つめること、そこにおいて、客観的には観察することのできない「活ける真理」を発見することができると、人々に呼びかけているというのである。

しかし、主観主義が力を持つと、自己のみを絶対化し、互いにあいいれず、それゆえに分裂すると指摘されている。

 

ブルンナーによると、この客観的か主観的かという二者択一ではなく、主体(われ)と客体(それ)関係を超克することを説く。すなわち、超克とは「われ―なんじ」という「人格関係」のことであって、神はその人間との「人格関係」(言葉における神との出会い)の中にはいるということを強調するというのである(神認識、神の心情を体恤(たいじゅつ))。

 

この「われ―なんじ」という人格的関係の分析は、神学界におけるブルンナーの不滅の功績だといわれている。

 

しかし、ブルンナーの神と人との関係は、個人としての人格的関係に止まっている。さらに高い次元として、アダム(男性)とエバ(女性)が関係存在として、二人で一つとなって神と交流する愛の段階(家庭的四位基台)まで論じなければ、完全な神の愛を説くことにはならない。

そもそも伝統的神学には神概念(父なる神)に女性の性相がないのである。それは、再臨のメシヤによらなければ知り得ない「神の知」の段階であるので致し方ないと言えるが。

 

 

(二)「自然神学論争」

エミール・ブルンナーといえば、バルトと「自然神学論争」をしたことで有名であり、彼は『自然と恩寵』(1934年)の中で、バルトが自然神学を拒否するのは、「彼の偏った啓示概念にある」と指摘し、神は聖書を通して人間に語りかけるが、自然のはたらきを通しても語りかけるという面が否定されるべきでないと主張した。

 

これに対して、バルトは、すぐさま『ナイン!―― エーミル・ブルンナーに対する答え』を書いて応酬(おうしゅう)した。バルトは、神認識は「理性による哲学」などによるのではなく、旧約聖書と新約聖書における「キリストの啓示」以外にないと言い、「自然神学は、アンチ・クリスト」、「自然神学はただ病と死とを意味する」、「福音主義と自然神学とを結びつけることは決してできない」と痛烈に批判した。

 

 

(A)「ブルンナーの主張」

 

(1)「バルトの結論」

 

ブルンナーによると、バルトの結論とは「恩寵(おんちょう)のみ」、「聖書のみ」であって、キリストを対象としない一切のものを排斥(はいせき)するというのである。

 

ブルンナーは、バルトの主張を次のようにまとめている。

 

「人間は、恵みを通してのみ救われうる罪人であるがゆえに、神によって創造されて人間に賦与(ふよ)された神の似姿は、完全に、すなわちあとかたもなく消え去ってしまった。特に理性という性質や文化能力や人間性は、もちろん人間に対して否定することはできないが、そういうものはこの失われた神の似姿の痕跡(こんせき)、あるいは残存(ざんぞん)を全然含んでいない。」(『カール・バルト著作集2教義学論文集〔中〕』収録、ブルンナー著『自然と恩寵』、新教出版社、141頁)

 

また「聖書の啓示」を解釈するバルトの〝キリスト中心主義〟について、彼は次のように述べている。

 

「われわれは、聖書の啓示を、われわれの神認識の唯一の源泉として承認するがゆえに、自然の中に、良心の中に、歴史の中に、神の一般的啓示を認めようとするすべての試みは断乎(だんこ)として拒否されるべきである。二種類の啓示、すなわち一般的啓示と特殊的啓示とを承認することは意味がない。ただ一つの啓示だけ、詳しく言えば、完全なキリストの啓示しかない。」(『自然と恩寵』141頁)

 

このように、バルトはキリストの啓示以外の啓示を認めないというのである。

 

その他、ブルンナーによると、バルトは「ブルンナーの言うような『創造の恵み』、『保持(ほじ)の恵み』などは存在しない」といい、また、バルトは「天地万物の中から引き出してきた自然法などは異教の思想としてキリスト教神学の中に導入され得るものである」と主張しているというのである。

 

このように、バルト神学とは、一口に言えば、「恩寵のみ」、「聖書のみ」というキリスト中心主義(キリスト論的集中)なのである。

したがって、バルト著『ナイン!―― エーミル・ブルンナーに対する答え』とは、バルトの〝キリスト中心主義〟の立場、すなわち彼の聖書解釈の立場から見た〝自然神学に対する批判書〟なのである。

 

それでは、次に、ブルンナーの〝バルト批判〟をさらに詳細に検討してみることにしよう。