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序2 プロテスタント(新教)とカトリック(旧教)を統一する統一原理

「百家争鳴」

ところで、今日のプロテスタント神学は、聖書に対する解釈の公式的基準がなく、個人主義、主観主義に立ち、百家争鳴の観がある。その流れを大観すれば、根本主義から自由主義、そして新自由主義から新正統主義へと流れ、あるいは一時の逆流、または並存を保ちながら、現代神学に至り、ある者は「神の死」を宣言し、過去の一切の神学思想はその全体が輝きを失って、セキュラリズム(secularism, 世俗主義)に飲み込まれつつあるというのが現状である。

周知のとおり、神認識に対して、大別して二つの観点がある。一つは「人間の側から」、理性による哲学的人間学などによって神を追求する立場であり、他方は「神の側から」、一方的な上からの啓示(恩恵)を主張し、人間的要素や努力(「行い」)などの一切を否定し、神認識は「キリストに対する信仰から」という立場である。

前者には自由主義神学などがあり、後者はルターの宗教改革的信仰の立場であり福音主義と呼ばれているのがそれである。また、前者は自然神学を肯定し、理性で合理的に聖書を解釈しようとする。後者は自然神学を否定し、理性よりも信仰を根拠とする。もちろん双方の折衷主義もある。

これに対して、これらプロテスタント神学の流れと異なるカトリックの正統主義は、人間の側と神の側(啓示)の双方を認める立場であり、その際、人間理性による哲学を否定せず、人間の努力や業を肯定する(功徳思想)。救いは「神の愛と人間の道徳的努力による」(共働説、神人協力説)という立場である。そしてプロテスタントのごとく、自分は救われたと勝手に「思い込むこと」ではないとプロテスタントの信仰を批判する。

もちろん福音主義の中のカール・バルトは反論し、トマス・アクィナスらの自然神学(理性を肯定し、被造物を通して神を知り得る―存在の類比)を否定する。何故なら、神と罪人との交わりがどうして可能であるかと問い、それは不可能であるといい、神と人との絶対的、質的断絶を主張するからである。

すなわち、人間も万物も罪の支配の下にあり、それ故に被造物を探求しても神を知りえないというのである。したがって、神がイエス・キリストを降臨させて自己を啓示し、そのイエス・キリストによってのみ人間は神を知り得るというのである。

その神学は、アリストテレスやプラトンらの哲学の影響による神認識など、キリストを抜きにした人間の側からの一切の探求を否定して、神を知り得るのは神の側、啓示以外にないというのである。

自然神学を肯定するか否定するかの問題は、いまだに決着を見ていない。だが、キリストの理性、完成したアダムの理性による自然神学は肯定せざるを得ない。

また、20世紀の初頭、根本主義と自由主義(近代主義)との間に神学論争がなされた。それは、処女降誕、キリストの体のよみがえり、血による贖い、聖書の無謬性などである。

それで、一般的に自由主義は非合理な「原罪」を否定し、科学的方法論できれいに処理できる信仰を求め、啓示性を否定し、聖書は無謬でないという。そして、人間の問題に対して楽観的で、教育ですべて解決できると見ていたのである。だが、それは間違いであることに気づき、新自由主義は自然神学を手放さないが、啓示神学に耳を傾けようとする姿勢をもつ。

なぜなら、教育や環境の改革だけでは現実を変えることができず、人間の苦悩を現実に則して分析するとき、正統主義の罪に対する考え方が、自由主義の楽観的な見方より現実的であると考えざるを得なかったからである。

しかし、カール・バルトに見られる福音主義、すなわち新正統主義(正統主義の再発見)は、新自由主義の自然神学を徹底的に打ちのめそうとする。福音主義神学とは、ルターに起原をもち、バルトによってよみがえった神学(バルト神学)のことである。

その教説の核心は、アダムの罪(原罪)を背負った本質構造を失った人間(神の像を喪失した人間)は、神を知り得ず、自分で自分を救うことができない存在であるというのである。もし神が何もしなければ、罪と死の支配の下で、人間は地獄において永遠の刑罰を受ける悲惨な運命のまま存在しつづける以外にないという。それゆえ、罪と死からの解放、すなわち救い(神認識)は、人間自身の側ではなく、神の側である上からの一方的な恵み(啓示)以外にないというのである。

人間の5%の責任分担による努力を一切認めない点は問題があるが、霊的救いという観点から見れば、それは一理あるといえよう。

以上のようなプロテスタント神学の信仰義認論に対する救いの教義に対して、カトリックは、福音主義の理論は「仮面を剥げば結局主観主義の粗野な哲学にすぎない」(岩下壮一著『カトリックの信仰』講談社学術文庫、645ページ)と鋭く批判する。

さらに恩寵と自然、信仰と理性、あるいは人間の努力について次のごとく反論する。

「世の聖書主義を高調する者の中に往々人間理智のあらゆる努力を冒瀆視して、カトリックの信条あるいは神学を異教的膠合(こうごう)説として排斥する者あるを見る。彼等にして徹底的に恩寵と自然とを隔離し、神の智と人間の智とを没交渉にし、天啓と理性とを分離せんと欲せば……」(同、105ページ)と、福音主義の一面性の偏向を指摘する。

以上のように、カトリックとプロテスタントの諸神学を統一することは不可能に近いように思われる。だが、神の力と能力は不可能を可能にする。なぜなら、真理は一つ、信仰も一つであるからである。

したがって、われわれは遠からず神の前に人類は一つになり、統一家族になるという希望を決して捨てないのである。

 

「8つの分野のチャンピオン」

文鮮明師は8つの分野のチャンピンである。

1番目、レバレンド・ムーンは、神様を最もよく知るチャンピオンである。

2番目、レバレンド・ムーンは、サタンを最もよく知るチャンピオンである。

3番目、レバレンド・ムーンは、人間を最もよく知るチャンピオンである。

4番目、レバレンド・ムーンは、霊界を最もよく知るチャンピオンである。

5番目、レバレンド・ムーンは、イエス様を最もよく知るチャンピオンである。

6番目、レバレンド・ムーンは、聖書および各宗教の経書の核心内容を最もよく知るチャンピオンである。

7番目、レバレンド・ムーンは、人類歴史を最もよく知るチャンピオンである。

8番目、レバレンド・ムーンは、真の家庭の価値のチャンピオンである。

―『平和神経』平和メッセージ13から

 

3.「再臨のメシヤの思想」による世界平和の実現に向かって

私は、「再臨のメシヤの思想」(統一原理=原理本体論、統一思想)によって、宗教統一、思想統一がなされ、民主主義諸国と共産主義諸国が和解し、世界平和が実現すると確信してやまない。

 

「統一」という言葉について

ここで、指摘しておくべき点は、宗教統一、思想統一という場合、「統一」という言葉に恐れをなす学識者(知識人)がいる点についてである。

統一教会が「統一」を掲げるのは、それを相対的な立場でなく、絶対的な真理による一元化を目指していると見るからである。それは、強制的、全体主義的になされるものではない。

文鮮明師は「統一」という言葉は「神の愛を中心」として、はじめて「統一」する、といえる言葉であると語っておられる。この言葉で、学識者の懸念は一掃されると信じる。

序1 「現代神学思想の概観」 ――再臨のメシヤの思想圏

「洗礼ヨハネ的使命をもった神学」

20世紀前半の激闘期にキリスト教を導いたプロテスタントの神学者として、アルベルト・シュヴァイツァー(1875年~1965年)「生命への畏敬」、エミール・ブルンナー(1889年~1966年)「出会いの神学」、パウル・ティリッヒ(1886年~1965年)「弁証神学」、ルドルフ・カール・ブルトマン(1884年~1976年)「非神話化」(実存論的解釈)、カール・バルト(1886年~1968年)「神の言葉の神学」(キリスト論的集中)、ディートリッヒ・ボンヘッファー(1906年~1945年)「成人した世界」(聖書の諸概念の非宗教的解釈)らの、まず6人を挙げることができる。

その他、重要な組織神学者として、ニーバー兄弟(ラインホルド・ニーバー、リチャード・ニーバー)、ヴォルフハルト・パネンベルク、ユルゲン・モルトマンといった人たちがいる。

これらの神学者に導かれて、今日のプロテスタント・キリスト教が存在する。

彼らの言葉は、決して古いものではなく、現代に生きるわれわれに対しても、なお力を持つ。それらの神学は、メシヤが来る前に「民を主に備える」(ルカ1章17節)ために洗礼ヨハネがエリヤの使命を持って出現したごとく、躓きとなる既存の信仰観にもとづく聖書理解や、既成の観念や概念を打破するために出現したのである。

そして、聖書の使信(ケリュグマ、宣教の言葉)に対する統一的で全体的な新しい解釈(統一原理)を現代人に受容可能なものとするために、全き真理(Ⅰコリント13章10節)の一端に光を照らすためであった。

すなわち、死せるキリスト教を新しく活性化させ、人々の心を神に向けさせるために、それらの神学は現代人の理性の批判に耐えうるものであり、人間の理性を納得せしめるものであるというのである。現代の科学万能主義の時代に、いわば、歴史の転換点に転轍機(てんてつき)として必然的に出現する運命にある神学であったといえよう。

ただし、バルトは神認識において信仰を強調し、理性による神認識に批判的であるが、そのバルトを中心に、バルト対ブルンナー、バルト対ブルトマンといわれるがごとく、各々が鋭く対立し論駁しあったが、全体的、統一的に捉えるなら、それぞれの神学が、真理の実体であるメシヤ(キリスト)に集中し、真理の全体像に対して、いろいろな角度から、その部分を照らす役割分担を担っていたことが分かるのである。

もし、これらの神学者が現れなければ、全き真理がきても、既成の信仰観が妨げとなって、全きものと見なされず、真理の言葉が受容されないかもしれないのである。

しかし、信徒たちがこれらの神学を知ることによって、全きもの(再臨のメシヤ)が証しされ、その言葉が絶対的真理であることを、あらゆる角度から論証されるに至るのである。

 

「誤った偶像」

既存の教義や信仰観に対する考え方は、全き真理ではなく、部分的真理であって、それらを盲信するなら「誤った偶像」となるものである。したがって、それらは、過去のある時代において、必要不可欠な摂理的使命をもった、いわば、時代的に制約された神学思想であると言えるのである(Ⅰコリント13章9~10節)。

それゆえ、時代が移り変わり、再臨の時が満ちたならば、既存の教義や信仰観は、その時代的使命を終え、自然に消滅していくものである。

しかし、旧約の律法が、イエス(全き真理)に対してそうであったごとく、既存の教義は、再臨する「全き真理」に対して反対することも危惧される。メシヤは、律法の否定者(破壊者)ではなく完成者であったが、確かにキリストは状況に応じて、当時のユダヤ教指導者から排斥されたのも事実であった。

「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」(マタイ5章17~18節)とイエスが語られたごとく、同じ律法と福音の完成者として来られた再臨のメシヤの思想も同じである。

 

「結論」

以上のごとく、「民を主に備える」ために、先に上げた20世紀の神学者たちが洗礼ヨハネ的使命をもって歴史上に出現し、既存の考え方に対して新しい観点や方法で論戦を挑んだのである。否、神によって必然的に押し出され、挑まされたというべきか。全能なる神は、反対者をも摂理の中に包含されて、歴史の目的を成就されるというのである。

神の霊に導かれた彼らの言葉は、既存の古いキリスト教的信仰観を破壊するに十分で、衝撃的で、大胆である。たとえ、それが全き真理に対して「群盲象を評する」部分的なものであったとしても、そうである。

結論として、「全き真理」(再臨のメシヤの思想=統一原理)は、洗礼ヨハネ的使命をもった神学を包含し、古い教えを否定するのではなく、その意図する目的を成就する。