ルターと福音主義(4)
(五)「恩恵と自由意志」(自由意志論争)
1517年10月31日、ヴィッテンベルク城教会の扉に、ルターによってラテン語で「贖宥の効力についての九十五ヵ条の堤題(テーゼ)」が貼りつけられた。学者たちが討論するためにテーゼをラテン語で公表するのは、中世以来の慣行であった。
このラテン語の「堤題」は、ただちにドイツ語に訳され、まるで天使が伝達者であるかのごとくに、わずか2週間でドイツ全土に、4週間で全ヨーロッパに広まり、学者間の討議を求めたルターの当初の意図を越えて、さらに大きな反響を呼ぶに至ったのである。そして、これを発端として〝宗教改革運動〟が勃発するのである。
宗教改革は、「エラスムスが卵を産み、ルターがそれを孵化した」と言われている。
しかし、エラスムスは、後にルターに対する最大の論敵となるのである。
人本主義は、人間の自由を束縛する形式的な宗教的儀式や規範に反抗し、人間の自主性を蹂躪する封建的階級制度や法王権にも反抗するようになった。すなわち、知性と理性を無視してなにごとにおいても法王に隷属しなければ解決しないというような固陋な信仰生活に反発して、自然と現実と科学を無視する遁世的・他界的・禁欲的な信仰態度を排撃するようになっていった。
しかし、〝神本主義〟は、人本主義のような本心の外的な追求だけでなく、本心の内的な欲望をも追及するようになっていくのである。このように人本主義(ルネッサンス)は、宗教改革に大きな影響を与えたのである(『原理講論』「宗教改革期」510-518頁を参照)。
デジデリウス・エラスムス(1466-1536)といえば、一般的に偉大なヒューマニストとして知られ、彼の著書『痴愚神礼讃』は、ヨーロッパ全土を爆笑の渦にまきこんだ不朽の名作である。また、ルターの宗教改革の前年の1516年には、ギリシャ語の新約聖書(新約聖書のラテン語・ギリシャ語対訳『校訂版・新約聖書』)を出版し、彼はその名声を不動のものとした。
エラスムスの神学思想は、一口に言って、教父たちがそうであったように、古典主義と聖書研究に基づくキリスト教との統一にある。当時の彼に対する人物評価は、彼ほどギリシャ語・ラテン語の古典の教養を身につけていた人はいないともいわれ、また彼は〝教父学〟の一大権威でもあった。
ところで、彼は、ルターの「九十五ヵ条の堤題」に対しては、全面的ではないが、賛意を表明していた。しかし、エラスムスは、教会の道徳や規律の改革運動には好意的であったが、その騒動には巻き込まれたくなかったのである。
ところが、当時の社会情勢は、彼に〝傍観者〟たることを許さず、反ルターを表明する何かを書くようにと、「高貴な人たち」(ヘンリー八世、ザクセンのゲオルク公、ローマ教皇など)からの圧力がかかった。それで避けることができず、エラスムスはルターと論戦する羽目になる。
1524年9月、エラスムスは『評論・自由意志』を出版し、「自由意志にはなんらかの力がある」とこれを肯定する。これに対して、ルターは『奴隷的意志』(1525年12月)を書いて反論し、「人間始祖アダムとエバの堕落以後は、人間における選択の自由とは名のみの存在にすぎない」と主張し、人間の意志決定の力は自由自在ではなく、奴隷的であるとして、これを否定した。
この両者の論争の中心点はどこにあるかと言えば、すでに論述してきたごとく「信仰」と「行い」、「恩恵」と「自由意志」の問題であり、その双方の対立か、協働か、にある。
(A)「ルターに対する反論」(エラスムス著『評論・自由意志』より)
第一に、エラスムスは、「一つの意見を固執するあまり、それと異なる意見はいっさいこれを許さないという性向は、正直のところ自分の好むところではない」(『エラスムス』、斎藤美洲著、清水書院、140-141頁)と言う。
第二に、「ルターは聖書のほかには権威ある根拠をいっさい認めない」と言って、「古来意志の自由を認める圧倒的多数の哲学者、教父たちの所説は不問に付す」が、「それではいったい聖書の述べるところを人が理解し解釈する場合、その正否の基準を何に求めるのか」(同、141-142頁)と問う。
第三に、ルター派の人たちが、正否の基準を「その人に宿る聖霊の有無である」(同、142頁)と言うのに対して、「それならば、数名の人びとが相異なる解釈を提出して、おのおのがわれに聖霊ありと主張したならば、どうすればよいのか」(同、142頁)と問題を提起する。
第四に、自由意志の問題についてはローマ教会も古来の教父たちも誤りをおかしたことになるならば、「聖霊は1300年の長きにわたって、それをあえて見すごしてこられたのであろうか」(同、142頁)と問題を提起して、ルターの批判は短絡的であると指摘する。
第五に、「聖書の中には意志の自由を認める章句が数多くみられる反面、それを否定するかのように思われる章句も若干ある。しかし聖霊に鼓吹されて書かれている以上、自己矛盾をおかす筈もないのだから、その両者を慎重に読み合わせなくてはなるまい」(同、142頁)と述べて、ルターの一面性を指摘する。
第六に、エラスムスは、「自由意志は原罪のために傷つけられてはいるが、全く滅びたわけではない。それは一種の麻痺にかかり、神の恩寵を受けるまでは善よりは悪に傾きがちだが、全く働かなくなったわけではない」(同、143頁)と言う。
第七に、「もしも人の思い直しがその意志によらずに、すべてがある必然によって神の手で果たされるものならば、何故に人は悔い改めるための猶予を与えられたのであろうか」(同、143頁)と問題点を指摘する。
全知全能である神であるならば、なぜ罪悪歴史をこのように長く放置されるのか。すぐに人間を救済し、天国を実現することができるのではないか、という問題がある。
原理的に見れば、神の上よりの一方的な「恵み」だけでなく、人間の5%の責任分担(悔い改めるための猶予)があるのではないかという意味である。
第八に、「自由意志をまったく否定し、万事が必然性によって生ずるならば、あるいは人間は神の単なる道具にすぎないならば、聖書のなかの多くの勧告、命令、非難、要求はまったく意味のないものになってしまう」(『ルター』、小牧治・泉谷周三郎共著、清水書院、185頁)と述べて、ルターが聖書を用いて人間の自由意志による「応答責任性」を否定するその聖書解釈(信仰義認論)の誤りを指摘する。
エラスムスの「恩恵」と「自由意志」の関わり合いの統一的な理解は、次のたとえ話に明言されている。
「……恩恵によるのでなければ、得ようと努力している目的物を獲得することはできないのであるが、私たちの意志は何もなしていないのではない。……たとえば、激しい嵐の中から船を無傷で港へ導き入れた船乗りが、『私が船を救った』と言わず、『神が救いたもうた』と言うようなものだ。彼の技術と努力が何ら働きをしなかったわけではない。同様に、豊かな収穫を畑から納屋へ運び入れている農夫は、『私がこんなに多量な年収穫高をあげた』とは言わないで、『神がお与えになった』と語る。しかし、そうだからといって、農夫が穀物の収穫のために何の働きもしなかったと言う者があろうか。……しかし神の好意が近づかなければ、人間のわざは何の成果もあげえないから、全体が神の恵みに帰せられているのである」(『世界の名著18・ルター』、中央公論社、229頁、〈エラスムス著『評論』第三部後篇一節〉)。
以上がエラスムスによるルター批判であり、恩恵と自由意志との「協働説」である。エラスムスは、教父時代のアウグスティヌスとペラギウスの論争問題、すなわち救いは恩恵のみか、自由意志による功徳の積み重ねか、をここで持ち出してきたのである。
(B)「ルターの反論」(ルター著『奴隷的意志』より)
(1)「恩恵のみと自由意志の否定」
ルターは、自由意志を肯定するエラスムスに反論し、自由意志を否定するために、まず「人間の意志が何をなし得るか」、「神は何をなし給うか」、という問題を設定し、彼の著書『奴隷的意志』で必然論を擁護するために、次のごとく論を展開する。
「神は偶然的にあることを予知したもうのではなく、彼の不変で永遠で誤ることのない意志によっていっさいを予見し、約束し、なしたもうのである」(『世界の名著18・ルター』、松田智雄編、中央公論社、191頁、「奴隷的意志」より)
このように、神の予定の絶対性を強調した上で、必然性を次のように述べている。
「すなわち、私たちがなすいっさいは、また、生成するいっさいは、たとえ私たちには可変的、偶然的に生じるように見えても、それでも神の意志を注視するなら、逆に、必然的に生じている、ということである。なぜなら、神の意志は活動的で妨害されえない。というのは、それは神の本性の力そのものだからである。」(同、192頁)
さらに、「神は全能である。……私たちは自由意志の権利によって何ごとかをなすのではなく、むしろ神が予知したまい、かつ誤ることなく、変わることなき決意と力とによってかりたてたもうとおりに、なすのである。だから同時に、自由意志はないという事実が、すべての人の心に印されているのが知られるのである。」(同、225-226頁)
上述の文章にあるごとく、神の全能性から必然性が措定され、「必然性と自由」という二つの概念が、矛盾の弁証法的論理で捉えられている。
ルターの「可変的、偶然的に生じるように見えても、注視するなら、逆に、必然的に生じている……云々」という論理は、後のマルクス主義の〝唯物史観〟の公式に酷似している。これは驚きである。
以上のように、ルターは〝必然性〟を強調して、人間の自由意志を徹底的に否定しようとするのである。それは、救いは〝神の恩恵のみ〟によることを強調せんがためである。
最後に、ルターは次のごとく論述して、この問題を締めくくっている。
「神がいっさいを必然的かつ不変的に予知し行なうことを疑問視するならば、『どうして君は神の約束を信じ、それをたしかさをもって信頼したり、それに身をゆだねたりすることができるであろうか』」(『ルター』小牧治・泉谷周三郎共著、清水書院、188頁)と。
このルターの〝必然論〟は、対抗し難い論理だと言われているが、はたしてそうであろうか。
ルターは、彼の著書『キリスト者の自由』の中では、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも従属していない」(『世界の名著18・ルター』、松田智雄編、中央公論社、52頁)と自由意志を認めている。
これは、ルターにある〝自己矛盾〟の一つであると指摘されている。
ところで、ルターの必然性に関する論理と表現は哲学的である。カール・バルトは、ルターと同様に「恩恵のみ」を主張し、人間の理性による哲学・人間学を攻撃し、徹底的に排除する。
このようなバルト神学からルターを見れば、イエス・キリストは神の属性、その永遠性や不変性、神の本性の力などについて語ったことはない、とルターを批判することができる。
ちなみに、統一原理は、神は唯一、絶対、永遠、不変であると述べているが、何の根拠もなく思弁的に言っているのではない。聖書の啓示と存在論的視点から神の概念が導き出されているのである。神を認識可能な〝実体〟として顕現したのが、イエス・キリストである。
キリストは唯一、絶対である。キリストは真理であり、真理は永遠、不変である。このキリストを神の対象として認識し、存在論的に神の概念が導き出されているのである。
このように、統一原理で論述されているその他の性相と形状の二性性相、あるいは陽性と陰性の二性性相などの「聖書の啓示」と「存在論」(自然を通しての啓示)を根拠とする諸概念は、無形なる神を哲学的に論述することを可能にしたのである。したがって、統一原理が神学界に与えるこの功績は多大であると言えるであろう。
周知のように、バルトは哲学的な神概念を批判するが、ティリッヒは彼の主著『組織神学』の中で、「神学と哲学の相関論」を説き、キリスト教の信仰内容を説明する時には、「いつでも、哲学的なまた科学的な用語を用いなければならない」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、68頁)と述べている。
(2)「神を侮る知性(理性)」
ルターの次の反論は、「人間の意志は何をなし得るか」「神は何をなし給うか」ということに関する〝信仰義認論〟からの聖書解釈を根拠とする人間観、あるいは救済論に関するものである。
ルターは、エラスムスが「人間は神の恩恵の助けによるのでなければ何一つできないのであるが、私たちの意志は何もなしていないのではない」、「神の恩恵を受けるまでは善よりは悪に傾きがちだが、全く働かなくなったのではない」と述べたことを受けて、次のように反論する。
すなわち、「自由意志は悪の奴隷であって、人間のわざは一つとして善ではない」と言うのである。
つまり、自由意志を全面的に否定し、神の恩恵を強調するのである。そのための聖書的根拠として、まずパウロの次の言葉を取り上げる。
「義人はいない。一人もいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行うものはいない、一人もいない」(ロ-マ、3・10-12)。
この聖句を根拠として、ルターは、自由意志はことごとく無益であり、悪であるというのである。
さらに、次のごとく述べる。
「(パウロの)これらの言葉はきわめて明瞭であって、すべての人が神を知らす、神を侮り、さらに悪へと迷い出て、善に対して無力な者となっている……ここでは食物を求めることの無知や、金銭をさげすむことについて語られているのではなく、宗教や敬虔に対する無知や蔑視が語られているのである。
そして、こういう無知や蔑視は、疑いもなく、肉や下等で粗野な性情に根ざすものではなく、むしろ人間のかの最高のもっとも卓越した力、義や敬虔や神の認識や神への畏敬がそこにこそ支配しているべき部分、すなわち、理性と意志とに、否、むしろ、自由意志の力そのものに、道徳的善の種子そのものに、あるいは人間のうちにあるもっとも卓越した部分に、根ざしているのである。」(『世界の名著18・ルター』、中央公論社、「奴隷的意志」236頁)
一般に、「最も卓越した部分」でこそ、神の栄光を現すものと思われているが、ルターは反対に、そこにこそ神を侮る無知や蔑視があるというのである。このような鋭い指摘は傾聴に値する。
結論として、「盲目にして無知なる理性が、どうして正しいことを教えられようか。また邪悪で無益な意志が、どうして善いことを選ぶことができようか」(同、237頁)と言って、ルターは理性と自由意志を全面的に否定するのである。
また、次のように述べている。
「『律法によっては罪の自覚が生じるのみである』(ローマ3・20)とパウロは言っている。この言葉で彼は、律法がどれほど、またどの程度まで役立つものかを示しているのである。すなわち、自由意志は自分だけでは罪を自覚しないばかりか、それを教えてくれる教師として律法を必要とするほど盲目なものである。そこで、罪を自覚しない者が罪をとりのぞくために、いかなる努力を払いうるというのであろうか。……人は罪でないものを罪と考え、罪を罪でないと考えている……実際には罪であり誤謬である自分たちのわざや決意を、義であり知恵であると誇り、売りひろめている…」(同、239-240頁)
このように、業や自由意志を批判し、自由意志は「恩恵」なしには何一つ善をなしえないと言い、したがって、多くの律法や命令や脅迫や約束が聖書で与えられ、悪い自由意志を否定しようと、〝恩恵〟はしているのであるとルターは言うのである。
つまり、人間は神から与えられた律法や命令を守もることができず、それで、神の前で罪が芽生えて苦悩する。ついに人間は、自らの意志による行いでは救われない、何も出来ないと自由意志を否定し、神の恵みにすがる以外にないことを知るに至ると言うのである。
このように、同じ聖句(勧告や命令や約束)の解釈において、エラスムスはこのような勧告の言葉が存在するのは、人間に〝自由意志がある証拠だ〟として捉えているが、ルターはこれらの聖句が存在するのは、〝自由意志を否定するためだ〟として反対に解釈しているのである。
つまり、恩恵を受けない人間の意志は、「邪悪で無益な意志」であり、それを勧告や命令が否定していると捉えるのである。これは、ルターの信仰義認論からの独特な聖書解釈である。
ところで、自由意志が「あるか、ないか」という問題と、自由意志が「善をなし得るか、否か」という問題は別である。ルターは善・悪という価値観の導入によって、前者の問題に対して後者の問題にすり替えて答弁しているのである。
つまり、自由意志が「あるか、ないか」という問題ではなく、自由意志は「善をなし得るか、なし得ないか」という問題に〝論点〟をすり替えているのである。すなわち、「恩恵」と「自由意志」を対立させ、「恩恵」を受けない自由意志は悪の奴隷であって、「人間のわざは一つとして善ではない」と述べ、人間の自由意志を〝価値判断の導入〟によって全面的に否定しているのである。
この「論点のすり替え」はともかくとして、ルターの主張には人文主義にみるギリシャ・ローマの人間観(人間の本性は善)とは異なった、深い罪(原罪)の認識がある。この〝罪認識〟によって、人間はあらゆる部分で、むしろ「最も卓越した部分で、神を侮るものである」と鋭く人間の本質をみつめ、人間を糾弾し、罪の自覚を促すのである。
ここに、ルターの天才的な鋭い洞察力があることをわれわれは認めざるを得ないのである。
それは、彼が修道院での壮絶な修行(「行い」)の体験から得たものに他ならない。
堕落人間は、如何なる自らの努力(「行い」)によってしても、〝原罪〟から解放(救済)されない(参照:『原理講論』95頁、255頁)。ルターは、ただ恩恵によってのみ、信仰によってのみ救われるというのである。
これは、カトリック教会の業(功徳思想)に対する全面的否定の教義に他ならないのである。