ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(31)
c. 「歴史以前と歴史以後」
有機的領域から精神の次元への発展へ、さらに言語をもち、芸術や聖なるものを感ずる歴史的人間への発展について、ティリッヒは次のように述べている。
「予兆された歴史から実現された歴史への発展は、前歴史的人間の段階として記述することができる。彼はすでに或る意味で人間であるのだが、未だ歴史的人間ではない。なぜなら、もし結局は歴史を生産するであろう存在が『人間』と呼ばれるならば、彼は目的を設定する自由をもち、いかほど限定されていようとも、言語をもち、普遍的なものをもっていなければならない。彼はまた芸術的・認識的能力をもち、また聖なるものの感覚をもっていなければならない。もし彼がこれらすべてのものをもっているならば、彼はすでに、自然における他のすべての存在がそうではあり得ないような仕方で、歴史的なのである。」(『組織神学』第3巻、388頁)
歴史、それは『覚醒しつつある』人間である。
ティリッヒは、前歴史的人間は精神および歴史の次元を実現する措置をもった有機体であって、その発展において、それらの現実化へと前進する。動物的意識(前歴史的人間)から人間の精神が現われ、人間の精神が歴史的次元に入るというのである。彼は、前歴史的人間から歴史的人間への推移の瞬間を知ることはできないが、両者を区別することができるという。
ただし、「歴史的人間は新しい。しかし、それは前歴史的人間によって準備されたものであり、またそれによって予兆されたものである」(同、389頁)というのである。
ところで、ティリッヒが、次のような神学的問題をここで書いている点を無視して通り過ごすわけにはいかない。
「非現実的な理念は、前歴史的人間に対して、余りにも多くを帰したり、余りにも少なくを帰したりする。もし前歴史的人間に後の発展または完成の状態を先取りするあらゆる種類の完全性が与えられるならば、それは余りに多くを帰することになる。その例はアダムにキリストの完全性を帰する楽園神話の神学的解釈であり、『高貴な原始人』(noble savage)に人間の人道主義的理想の完全性を帰する人類の原始的状態についての世俗的解釈がそれである。」(同、388頁)
この見解は、神と心情交流していた〝堕落前〟のアダムと、神と心情が断絶した〝堕落後〟のアダムの区別がない。
また、「人類の原始的状態についての世俗的解釈」というのは、堕落したアダムの子孫である人間が、キリストによって堕落前のアダムの状態に復帰されて、キリストのごとく「完全な者」(マタイ5・48)になるという救済の目標が否定され、曖昧になるのではないかと反論しておきたい。
聖書は、キリストをアダム(コリントⅠ、15・45)と呼んでいる。アダムは人間始祖であるが、原始人ではない。
原理的見解では、堕落した人間ですら、ルネサンスと宗教改革から、わずか400年で、今日の科学が最高度に発達した文明社会を築き上げたのであるから、もし、アダムが堕落しなかったなら、アダム時代の人達は今日のような科学の発達した環境を短期間で築き上げたであろうというのである。
(2)「歴史の動態」について
a. 「歴史の運動・動向・構造・時代」
歴史の運動、歴史の動向について、ティリッヒは、歴史を歴史法則として確定すると経験主義的歴史家は強固に抵抗するという。普遍的法則として歴史に適用すると事実を歪曲することになると、次のように述べている。
「普遍的進歩の法則は神的摂理の宗教的シンボルの世俗化され(たものであり)、歪曲された形体である。」(同、414頁)
そして、彼は「歴史的出来事の弁証法的構造は特殊な考察を要求する。それは他のいかなる構造よりも深い影響を世界史に及ぼした。まず何よりもわれわれは、それは多くの歴史現象について真であるのみならず、生の過程一般について真であると強調しなければならない。それは生の分析および記述にとっての重要な科学的手段である」(同、415頁)といい、「生の自己同一から自己変革、更に自己同一へと帰る運動は基本的には弁証法の構造である。そして、われわれがすでに観察してきたことは、この弁証法は神的生の象徴的記述にとっても適切である」(同)と述べている。
ただし、弁証法と言っても、唯物弁証法に関しては、マルクスがそれを歴史に適用した「唯物史観」(歴史法則)を次のように批判している。
「『唯物弁証法』(materialistic dialectics)という言葉は曖昧であり、その曖昧性のゆえに危険である。『唯物的』(materialistic)という言葉は、形而上学的唯物論(それはマルクスによって強く否定されたものであるが)としても理解され得るし、道徳的唯物論(それをマルクスはブルジョワ社会の特徴として攻撃した)としても理解され得るが、両者ともに間違っている。弁証法と結びつけられた唯物論は、むしろ、ある社会の経済的-社会的諸条件は、他のすべての文化的形体を決定し、経済的-社会的基礎の運動は、弁証法的性格をもっていて、社会的状況に緊張と相剋とを生産し、それらを越えて、新しい経済的-社会的段階へと駆り立てるとの信念を表現している。この唯物論の弁証法的性格は、形而上学的唯物論を排除し、ヘーゲルが『綜合』(synthesis)と呼んだ新しいものの要素を包含していることは明らかであって、それはマルクス自身が自覚し実践したように、歴史的行動なしには到達され得ない。経済的相剋に根ざした社会的弁証法の相対的真理性は否定され得ない。しかし、もしこの種の弁証法がすべての歴史の法則性の地位にまで高められるならば、真理は誤謬となる。その時、それは擬似宗教的原理となり、経験主義的実証性を失う。」(同、416頁)
マルクス主義は、上部構造は土台の産物であるというが、実際の歴史はこの理論と一致していない。「勝共理論」は次のように批判している。
「奴隷制社会であったローマ時代の法律(見解)が資本主義時代にも保存されており、ギリシャ芸術は今日においても高く評価されている。……古代のキリスト教・仏教・儒教は、今日に至るまで少しも変わらずに存続して来ているのである。古い生産関係はすでに遠い昔に消滅したにもかかわらず、その観念や見解は今日に至るまで少しも消滅することなく、そのまま存続してきている。」(『新しい共産主義批判』、325頁)
「勝共理論」は、「土台と上部構造の関係は、精神が先か、物質が先か、という哲学における『物質と精神』、または『存在と意識』の関係と同様の関係である」(同、247頁参照)と指摘している。
マルクスは、「人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである」(マルクス著『経済学批判』岩波文庫、13頁)と述べている。
しかし、上述の「勝共理論」の批判のごとく、社会的存在が人間の意識を規定するのではなく、逆に、法律や芸術や宗教の例のように、意識が存在を規定しているのである。
原理的に言い換えると、主体(意識)と対象(歴史的社会的環境)との授受作用によって、主体が対象を規定するのである。
また、後に論述するティリッヒの歴史発展における「召命意識」も同様の見解である。
意識が存在(経済体制)を変革することに関する例証を「西欧の歴史」(神の摂理の中心史)の中に見てみよう。『原理講論』は次のように述べている。
「17世紀末葉における西欧の歴史について、その発展過程を考察してみることにしよう。
まず、宗教史の面から調べてみると、この時代において、既に、キリスト教民主主義社会が形成されていたのである。すなわち1517年の宗教改革により、法王が独裁していた霊的な王国が倒れることによって、中世人たちは、法王に隷属されていた信仰生活から解放され、だれもが聖書を中心として、自由に信仰生活をすることができるようになった。しかし、政治史の面から見るならば、この時代には、専制君主社会が台頭していたのであり、経済史の面においては、いまだ荘園制度による封建社会が、厳存していたのである。このように、同時代における同社会が、宗教面においては民主主義社会となり、政治面では君主主義社会、そして、経済面においては封建主義社会となっているのである」(『原理講論』495~496頁)
このように、1517年の宗教改革によって、意識の面で民主主義が実現したが、政治面では、いまだ君主主義社会であり、経済面では、さらに遅れて封建社会のままなのである。
この意識における民主主義は、やや遅れて政治面に現われ、「イギリス、アメリカおよびフランスで民主主義革命を起こし、君主社会を崩壊せしめて、民主主義社会の基礎を確立した」(『原理講論』504頁)のである。
そして、さらに遅れて経済面での民主主義は、カイン型社会主義とアベル型社会主義として現象化してくるのである。
これらのことに関して、『原理講論』は次のように述べている。
「カイン型の人生観を中心とする共産世界と、アベル型の人生観を中心とする民主世界を成し遂げていく復帰摂理の立場から、専制君主社会の帰趨を考察してみることにしよう。中世封建社会はヘブライズムとも、ヘレニズムとも、同時に相容れぬ社会であったので、この二つの思想は共同でそれを打ち破り、カイン、アベルの二つの型の人生観に立脚した二つの型の社会を樹立したのであった。そのように、専制君主社会も、やはり、宗教改革以後のキリスト教民主主義による信教の自由を束縛したので、それはアベル型人生観の目標達成に反する社会であるとともに、またこの社会は、その中に依然として残っていた封建制度が、無神論者と唯物論者たちが指導する市民階級の発展をさえぎるものであったので、カイン型人生観の目的達成に反する社会でもあった。ゆえにこの二つの型の人生観は共に、この社会を打破する方向に進み、ついには、カイン、アベル二つの型の民主主義に立脚した共産と民主の二つの型の社会を形成したのである。」(『原理講論』526-527頁)
前者(カイン)は共産主義社会を目指し、後者(アベル)は「共生共栄共義主義社会」(神の国)を創建しようとしているのである。
以上のように、意識(思想や人生観)が存在(経済体制)を規定するのであって、存在(経済体制)が意識を規定するのではないのである。
言うまでもないことであるが、ロシアが社会主義社会になったのは先に共産主義思想があったからである。ソ連が崩壊したのも同じ理由による。
主体(意識)と対象(歴史的社会的環境)との授受作用によって、意識が存在を規定したのである。
ところで、歴史的区分について、マルクスの歴史発展段階論の時代区分と対比して、ティリッヒは王朝、政治的社会的構造、文化的状況、数世紀の特徴など、いろいろな歴史の動態があると述べ、この歴史運動のリズムによる時代区分について、次のように述べている。
「初期の時代史においては、王朝の連続が歴史的時代に対する名前を提供した。というのは、それぞれの王朝の性格は、そこでそれが支配した時代の歴史的に重要な性格を代表すると考えられていたからである。このような性格づけは、英国およびヨーロッパの大部分における19世紀の前半に対して『ビクトリア時代』(Victorian period)という言葉の使用が示しているように、見失われるということはなかった。他の名称は芸術、政治、社会構造などにおける支配的な型体から取られた。たとえば『バローク』(baroque)、『絶対主義』(absolutism)、『封建制』(feudalism)などがそれである。文化的状況全体から取られたものには、たとえば『ルネサンス』(Renaissance)がある。時には数世紀に対して質的特徴づけが与えられ、要約された形の一つの歴史時代として指名された。たとえば『18世紀』(eighteenth century)がそれである。最も普遍的な時代区分は宗教に基づくもので、キリスト教時代における、キリスト以前の時、キリスト以後の時という呼び方がそれである。そのことは、キリストとしてのイエスの出現によって、歴史的時間の資質に普遍的変化が起こったということを含蓄している。このキリスト教的見解においては、キリストは『歴史の中心』(center of history)となっている。」(『組織神学』第3巻、416~417頁)
歴史は、時代のリズムを画いて進む。出来事の順序には、絶えざる推移があり、重複があり、前進があり、遅滞がある。しかし、ティリッヒは「これらの出来事を重要性の原理にしたがって評価する人々には、歴史的時間の質的に違った区間の境界線を示す標識が見えてくる」(同、418頁)というのである。
「勝共理論」は、マルクスの時代区分について次のように述べている。
「唯物史観によれは、経済構造(生産関係)は原始共産制から奴隷制・封建制・資本主義制を経て今日に至り、これから社会主義社会を経て共産主義社会に移っていくという。これらはみな生産力の発達にしたがって、順次、現われた経済制度であって、一連の上昇的系列をなしている。それゆえに、一段階は必ず前段階よりいっそう発展した経済水準を見せているというのである。そして、マルクスによれば、いかなる生産関係でも十分に発達しなければ、決して次の段階に移行しない。したがって、資本主義も十分に発達しなければ革命が起こらないというのである。」(『新しい共産主義批判』、338頁)
そして「勝共理論」は、「マルクス式制度の純粋型は実際にはない」(同)と批判している。事実、アジア、アフリカ、ラテンアメリカでは、マルクスの言うような〝純粋型の経済発展〟はどこにも見られない。ヨーロッパにおいてある程度当てはまるだけである。
しかし、「それにもかかわらず、マルクスは経済制度の純粋型を基礎として彼の唯物史観理論を展開している」(同、339頁)と批判しているのである。
現在においては、ロシアにおいても、中国においても、社会主義から資本主義に逆戻りしているのである。
ところで、ティリッヒは「歴史的時間の質的に違った区間の境界線を示す標識が見えてくる」と言うが、神による摂理歴史(キリスト以前と以後の中心史)、すなわち旧約時代と新約時代の歴史的同時性を見ていない。人類歴史の「中心史」(救済史)に作用する「蕩減復帰」という原理を発見することができなかったからである。
したがって、統一原理のように、繰り返される歴史の同時性が解明されていない。それで、彼は、歴史の「終末」をシンボルとして説くが、いつ「終末」が来るかに関しては明瞭でないのである。