Archive for 11月, 2013

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(9)

(四)神の実在

 

(A)「神」の意味

 

(1)「現象学的記述」

 

神とは何か。現象学の視座からみると、「『神』は人間の有限性に含まれている問題に対する答えである」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、268頁)という。

 

ティリッヒによると、「『究極的に関心する』という語句は、………実在の領域にせよ、想像の領域にせよ、具体的に出会わないものには関心がよせられ得ない。普遍的なものは、それが具体的経験を代表する力を通してのみ初めて究極的関心の事柄となり得るのである。ものはそれが具体的であればあるほど、ますますそれに対する多くの関心が可能になる」(同、268頁)というのである。

 

また、「究極的関心は予備的ないかなる有限的具体的関心も超越していなければならない。それは有限性に含まれた問いに対する答えとなるために有限性の全域を超越していなければならない。しかし有限なるものを超越する際、宗教的関心は一つの存在対存在の関係の具体性を失う。それは単に絶対的となるのみならず抽象的となり、具体的要素の反撥(はんぱつ)を誘発する傾向にある。これは神観念における不可避的な内的緊張である。宗教的関心の具体性と究極性との衝突は、神が経験されまたこの経験が表現される場合には、原始的祈祷から最も複雑な神学組織に至るまで常に現実である。これは、宗教史の原動力の理解への鍵であり、また最も初期の祭司的知恵から三一神論の最も精錬された論議に至るまでの、あらゆる神論の根本問題である」(同、268-269頁)というのである。

 

このように、神観念の不可避的な内的緊張関係、すなわち究極的関心に関する「具体性と究極性との衝突」が叙述されるのである。

 

また、神聖に関して次のように述べている。

 

「神々の領域は聖の領域である。」「神聖は経験される現象である。」「神聖は宗教の本質理解のために非常に大切な認識的『入口』である」「神聖の範疇(はんちゅう)を含まない神論は単に神聖でないのみならず真理でない。」(同、273頁)と。

 

(2)「類型学的考察」(神論の統合)

 

ティリッヒは、「神観念を理解するためには、神観念の歴史を観察しなければならない。」「神の意味を終極啓示の光に照らして明白にしまた解釈しなければならない」(同、277頁)という。

 

a 「多神教の諸類型」

 

ティリッヒは、神観の歴史として「多神教の諸類型」を述べる(同、281-285頁)。

彼は、宗教的関心の具体性と究極性は、それぞれ多神教と一神教を生み、両者の均衡は三一神(三位一体の神)を生むと述べている。下記の説明は、大島末男氏の要約に基づくものである。

 

多神教は、多数を超えて統一する究極的なものを欠くので、神的な諸力が、具体的状況において各自の究極性を主張するので対立し、統一に対する脅威となる。他方、ロマン主義と汎神論は、この多神教の普遍的類型の末裔であり、充分な具体性にもまた充分な究極性にも到達しえない。神話の神々は、人間の具体的関心に対する宗教的創造力によって神的な諸力の人格化を促す。神々の人格化は人間が自分より以下のものの、非人格的なものに対して究極的関心を抱けないことによる。二元論的類型の神話は善悪二元論的な歴史解釈を生むが、一神論は神観念の究極性の強調により神話を破壊する(『ティリッヒ』大島末男著、140頁を参照)。

 

大島末男氏は、いろいろな神観について、さらに次のごとく解説している。

 

「人格神は人間が抱く究極的関心の具体性に基づくが、神は人格以下でも超人格的でもありうる。動物神は、人間の究極的関心を、動物が所有する超人的なエネルギーによって表現する。反面、人間が平伏(ひれふ)し祈る神は究極的な神なので、君主的類型の一神教を生み、さらに神々も服従する宿命は抽象的類型の一神教を生む。二元論は、神の中の破壊性と建設性、善と悪を区別することにより、神の秘義的性格を克服するが、マニ教では究極的関心を表現する善神は悪神に勝るので、悪神の力は限定される。またゾロアスター教では究極的原理である善は、善と悪を包摂するので、二元論的一神教が成立し、キリスト教の三位一体論を予示する」(『ティリッヒ』大島末男著、140-141頁)と。

 

b 「一神教の諸類型」

 

「一神教と多神教の境界に立つ君主的一神教の天帝は、神々を支配するギリシアの神ゼウス、また天使達や諸霊を支配する万軍の主エホバによって例証される。さらにインドの神秘主義的一神教は、具体的な神々を超越する究極的な深淵によって例証されるが、具体性を抑圧できず、多神教に対して開かれている。他方、排他的一神教は、具体性と究極性を統合するイスラエルの預言者の宗教の系譜に属す。イスラエルの神は、アブラハム、イサク、ヤコブの神といわれるように具体的な神であるが、普遍的正義によって自己を批判し、利己的な有限的存在者の魔的要求を排除する。しかし究極の関心は具体的要素を必要とするので、キリスト教の神は三一神となる」(『ティリッヒ』大島末男著、141頁)

 

究極の関心は、「具体的要素を必要とするので、キリスト教の神は三一神となる」と論述されている。

また、聖書には究極的関心(神)に関して父と子と聖霊に関する具体的記述があるので、バルトは神を「三位一体の神」というのである。もし、具体的存在の記述がなければ「三位一体の神」は存在しないという。ティリッヒは、すべての神論は「三位一体の神」に収斂(しゅうれん)されると述べている

 

大島末男氏は、「諸宗教の神論(啓示の答え)の現象学的考察を通して、キリスト教の三一神は具体性と究極性を統合するので、自己矛盾に悩む実存の問いに対する答えを形成する事実を示す。象徴論の視座からみれば、ティリッヒが諸宗教の神論を統合する最終的で最高の形式としてキリスト教の三位一体論を指示する方法論………を形成する」(同、141-142頁)と述べている。

 

多神教から一神教までいろいろな宗教のいろいろな神観があるが、ティリッヒは結局のところ、すべての神観は「三位一体の神」に統一されるというのである。

 

「新しい宗教のための本体論は、従来のすべての絶対者が各々別個の神様ではなく、同一の一つの神様であることを明かさなければなりません。それと同時に、この神様の属性の一部を把握したのが各宗教の神観であったことと、その神様の全貌を正しく把握して、すべての宗教は神様から立てられた兄弟的宗教であることを明らかにできなければなりません。

それだけではなく、その本体論は、神様の属性とともに創造の動機と創造の目的と法則を明らかにし、その目的と法則が宇宙万物の運動を支配しているということと、人間が守らなければならない規範も、結局、この宇宙の法則、すなわち天道と一致することを解明しなければならないのです。」(八大教材・教本『天聖経』「真の神様」、79頁)

 

c 「宗教紛争の根本原因は本体論の曖昧さにある」(文鮮明師)

 

原理的な見解では、ティリッヒの存在論的な神観から、さらに発展させて、すなわち「神とアダムとエバ」の三位一体論と「神とイエスと聖霊」の三位一体論の類比から、「アダムとエバ」、「イエスと聖霊」は〝人類の父母〟であるといえるのである。

アダムとエバは堕落して〝偽りの父母〟になったが、イエスと聖霊は神の顕現であるので、神は「天の父母」であるとえるのである。

 

また、聖書に「男は、神のかたちであり栄光である」(コリント1・7)とあるので、「神は性相的な男性格主体」(『原理講論』47頁)であるといえるのである。そして、その神をキリスト教は「天の父」と呼んで、その格位を表示しているというのである。

 

神論に関して、聖書に「わたしたちは、今は、鏡に映してみるようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう」(コリントⅠ、13・12)とある。

 

以上のように、すべての宗教の神観は、統一原理の神観(「天の父母」様)に収斂され統一される。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(8)

(2)「有限的なものと無限的なもの」

 

「非存在によって限界づけられた存在は有限性である。非存在は存在の『いまだ』と存在の『すでに』として現われる。それは存在するものを一定の終末(finis)をもって脅かす。このことは存在自体――これは『もの』ではない――以外のすべてのものに妥当する。存在の力としての存在自体には始めと終りとがない。そうでないならばそれは非存在から生じたことになる。しかし非存在は、存在との関係を除いては文字通り無である。存在は語そのものが示しているように、存在論的妥当性において非存在に先行する。存在は始めのない始めであり、終わりのない終りである。それはそれ自身の始めであり終末であり、存在するあらゆるものの根源的力である。しかし、存在の力に関与するものはすべて非存在と『混合』している。それは非存在から出て非存在へと向かう過程にある存在である。それは有限的である」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、239頁)

 

ここで、有限性について原理的に反論しておきたい。

 

原理的見解では、神によって創造された被造物は有限ではない。天体や原子の円運動は永遠である。植物(種子)も生物も繁殖を通して神に似て永遠性を保持している。人間は子供を産むことによって継代(螺旋運動)を保ち、死によって人間の肉体は土にかえるが、霊人体は霊界で永生する(コリントⅠ、15・44)。人間は有限ではない。

 

生物も個体は死によって消滅するが、繁殖によって自己の種を保存し発展させ、代から代へと螺旋運動によって永遠性を保つのである。このように、愛による繁殖活動によって、人間も万物も神の永遠性に似ている。

 

ティリッヒは、「聖書記事はキリストと呼ばれた彼における死ななければならない深刻な不安を示している」(同、245頁)というが、イエスは霊界で霊の体となって生きておられるのである。

「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26・39)という祈りは死に対する人間的な弱さからそのように祈られたのではない。

 

イスラエル民族が、メシヤとしてのイエスを不信している状況下で、「この杯」すなわち第二摂理である十字架の死による救い(贖罪)ではなく、生きて第一摂理である「神のみ旨」(神の国)を成就せんがために、その願いから、もう一度、第一摂理にチャレンジさせてくださいと、そのように神(父)に祈られたのである、と解釈すべきなのである。

 

ティリッヒは、「有限性は人間の運命である」という。「死ななければならない不安がある。………非存在は『内部から』経験される」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、244頁)と。しかし「それは疎外性と罪性とから全く別個に存在の被造性に属している」(同)という。

 

正統主義は、人間が死ぬようになったのは罪を犯したからであると信じている。しかしティリッヒは、死は「罪性や堕落と全く別個」であると見ている。この見解は首肯できる。

 

不安は確かに有限性を根拠としている。有限性の主張は、「被造物は永遠ではない、人間は必ず死ぬ」という見解からくる。しかし人間の肉体は死ぬが、「霊のからだ」は霊界で永生するのである。このことを知っていれば、死からくる不安は解消する。

 

自分の死を無と考え、肉親や友人の死を永別と考えるのは死後の世界があることを知らない人間の悲劇性である。人間は堕落して神から分離し、霊界があること、霊の体があることが分からなくなっているのである。聖書には「肉の体があるのだから、霊のからだもあるわけである」(コリントⅠ、15・44)と記述されている。

 

偉大なる神学者に対してこのようなことも知らないのかといいたいのだが、ティリッヒは実存的制約下における生に関して「曖昧」であると率直に説いているので敬意を表し、人間の有限性についての彼の教説に耳を傾けたいと思うのである。

統一原理と出合うことがなかったならば、われわれは今でも霊界や霊のからだがあることを知らずにいたかもしれないのである。

 

(D)「人間の有限性と神問題」

 

ティリッヒは先の有限性の問題に続いて、下記の問題を論述している。

 

(1)「神問題の必然性といわゆる宇宙論的論証」について

 

ティリッヒによると「不安として経験される非存在の脅威」が「存在への問いとなる」と次のように述べている。

 

「神の問題が問われうるのは、問題を問う行為自体の中に無制約的要素があるからである。神の問題が問われざるをえないのは、不安として経験される非存在の脅威が、非存在を克服する存在への問いと、不安を克服する勇気への問いへと人を駆り立てるからである」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、264頁)

 

ところで、ティリッヒは神の宇宙論的証明に関して、カントの批判を取り上げて次のように不可能であると述べている。

 

「宇宙論的論証の第一形式は有限性の範疇的構造によって規定されている。それは因果の無限の連鎖から発して、第一原因があるという結論に達し、また、すべての実体の偶然性から発して、必然的な実体が存在すると結論する。しかし原因と実体は有限性の範疇である、『第一原因』は因果の連鎖の初めをなす一存在者についての叙述ではなくて、問題の実体化である。このような存在者はそれ自体因果連鎖の一部であり、再び因果の問題を提起するであろう」(同、264~265頁)

 

上述の見解は、カントが『純粋理性批判』で論述している問題で、第一原因の原因は何かと問うなら無限に因果が続くので、カントは因果律によって第一原因を論証することはできないというのである。このカントの主張に対する反論は後で論述する。

 

ティリッヒは目的論的論証に関しても、カントの批判に従い次のように述べる。

 

「宇宙論的論証が存在の根拠の問題を定形化するのと同じように、目的論的論証は、意味の根拠の問題を定形化する。………『論証』の無能性、神問題に答えることの不可能性を暴露することである。それらの論証は、神問題が有限的存在の構造の中に含まれていることを示すことによって、存在論的分析をある結論にまでもたらす。この機能を果たすことによって、それらの論証は伝統的自然神学をある面では受容すると共にある面では拒否し、そして理性を啓示へと向かわせる」(同、266頁)

 

このように目的論的証明(自然神学)についても、肯定と否定を弁証法的に論述して「理性を啓示へと向かわせる」と述べている。結局、人間を神問題へと駆り立てるというのである。

結論として、問いに対する答えは啓示(キリスト)であるというのである。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(7)

(C)「存在と有限性」

 

(1)「存在と非存在」

 

ティリッヒは「非存在の神秘は弁証法的な取り扱いを必要とする」という。ギリシア語は非存在の弁証法的概念を非弁証法的概念から区別する。前者をme on(メー・オン)、後者をouk on(ウーク・オン)と称した。ウーク・オンは存在と無関係な「無」であり、メー・オンは存在と弁証法的関係にある「無」のことである。

 

「無」に関して次のように述べている。

 

「キリスト教はcreatio ex nihilo(無よりの創造)の教理に基づいてメー・オン的質料の概念を斥けた。質料は神とは別の第二の原理ではない。神がそこから創造するnihil(無)は非弁証法的な存在の否定としてのウーク・オンである。しかしそれでもなおキリスト教神学者たちはいくつかの点において非存在の弁証法的問題に直面しなければならなかった。アウグスティヌスと彼以後の多くの神学者たちや神秘主義者たちが、罪を「非存在」と称した時に、………批評家たちがしばしば誤解したように、罪が実在ではないとか、罪は完全な現実化の欠如であるとかを意味したのではない。彼らは罪には積極的な存在論的立場がないと考え、また同時に非存在を存在に対する抵抗、また存在の歪曲と解したのである。人間の被造性についての教理は、人間論における非存在の弁証法的性格を示す今一つの点である。無から創造されたことは無に帰らなければならないことを意味する。無から創造された痕跡はすべての被造物の上に刻印されている。この理由でキリスト教はアリウスにおける最高の被造者としてのロゴスの教説を斥けねばならない。被造者としてのロゴス(キリスト)は永遠の生命をもたらしえないであろう。またこの同じ理由でキリスト教は自然的霊魂不滅の教理を排して、その代りに存在自体の力としての神から賜わる永遠の生命の教理を主張しなければならない」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、237-238頁)と。

 

また、神論と非存在の弁証法的問題に関して次のように述べている。

 

「もし神が活ける神と呼ばれるならば、もし神が生命の創造的過程の根拠であるならば、もし歴史が神にとって意味を持つならば、もし悪と罪を説明し得る否定原理が神のほかに別にないならば、どうして神自身のうちに弁証法的否定を定立することを避けることが出来ようか。このような諸問題が、神学者たちをして、非存在を弁証法的に存在自体に、したがって結局神に関連づけるように強いたのである。べーメのUngrund(無基底)、シェリングの『第一(ポテ)(ンツ)』、ヘーゲルの『反立』、最近の有神論の神における『偶然』と『所与』、ベルジャエフの『メー・オン的自由』、――これらすべては弁証法的非存在の問題がキリスト教神論に及ぼした影響の実例である」(同、238頁)

 

a 「ヘーゲル弁証法の『反定立』について」

 

上述のように、ティリッヒは「もし悪と罪を説明し得る否定原理が神のほかに別にないならば、どうして神自身のうちに弁証法的否定を定立することを避けることが出来ようか」という。そして非存在を神に関連づける実例の一つにヘーゲルの「反定立」を取り上げている。

 

この「反定立」の問題に関して、文鮮明師は次のように語っておられる。

 

「ヘーゲルの弁証法に出てくる『闘争』という観念をどこから引用したのか分かりますか。人間の心の奥に深く入ってみれば、良心と肉心が戦っています。それでヘーゲルは闘争が元来からあるように考えたのです。神が創造した世界それ自体に闘争があると曲解しました。これは、人間が堕落したという根本的な事実を知らなかったためです。人間の本心を深く調べてみれば、相反する二つの心が対立していることを知ることができますが、そのような二つの心、すなわち良心と肉心が互いに対応しながら歴史が発展してきたと見たのです。ヘーゲルが『堕落』を考えられなかったことが根本的な過ちです。堕落した結果として現れた人間自体を分析してみれば、人間は相反する二種類の性質によって結合しています。そのために、神様が人間をこのように相反する二種類の性質をもった存在として創造したことが原則であると考え、宇宙もそのようにでき上がったという理論を立てるようになりました。共産主義思想はすべての事物を弁証法的理論によって分析して、歴史の発展も弁証法によって理解するのです」(文鮮明著『神様の摂理から見た南北統一』607頁)

 

「元来創造本然の人間の内部には矛盾はなかったのです」(同、608頁)

「このような人間自体を見て弁証法という矛盾した論理が見いだされたのです。人間自体の闘争からすべて見つけ出したのです」(同、609頁)

 

ティリッヒは、上述のように神自身のうちに「対立」する二つの要素があるとし、弁証法的否定を定立させる。これはヘーゲルの弁証法の影響であって、ここから闘争概念が出てくるのである。

ティリッヒの弁証法は「マルクス―レーニン主義」の弁証法のように、事物は対立物の統一と闘争によって発展する。「統一」は条件的・一時的・相対的で、「闘争」は絶対的である。支配と被支配は逆転するというような存在と一致しない虚構の論理ではないが、G・E・ムーアから「このような統合は科学的厳密さに欠ける」と批判されたのである。

 

ティリッヒは、弁証法は「悪と罪を説明し得る否定原理」であるといい、原罪と遺伝的罪についてふれ、『組織神学』第2巻で、罪は「疎外の普遍的運命」であると次のように述べている。

 

「アダムは本質的人間として、また本質から実存への移行の象徴として理解されなければならない。原罪、ないし遺伝的罪は、本源(オリジナル)的でも遺伝的でもない。それはどの人間にも関わる疎外の普遍的運命である」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、70頁)

 

「本質から実存への移行」とはアダムの堕落を実存主義的に表現したものである。実存主義哲学による罪の叙述で問題なのは、上述のように「原罪、ないし遺伝罪は、本源的でも遺伝的でもない」という点であり、また堕落は「疎外の普遍的運命である」とする点にある。これは正統主義の堕落神話の見解を哲学的に表現したものに他ならない。

しかし、自由によって堕落したと見る疎外論には多くの問題点があるのである。

 

原罪という言葉を最初に使ったのはアウグスティヌスである。彼は「アダムの罪は、人類の末端にまで及んでいる。子孫は、性を通して生まれるがゆえに、性は二重の意味において罪の根源となっている。すなわち、一人ひとりの人間が、性を通して生まれたということが、すでに罪に満ちていたし、罪を犯す傾向性も、実は先天的な弱さとして、受けつがれてきている」(W・E・ホーダーン著『現代キリスト教神学入門』46頁)というのである。

 

プロテスタント神学は、人間の病の根源を「精神的なもの」(貪欲、傲慢、自己中心)と捉える。しかし、それがどう始まりどのように伝えられるのかという点になると、ホーダーンは「アウグスティヌスの、アダムとその罪の遺伝についての教義を、学ぶ必要性があろう」(同、47頁)と指摘し、「罪の精神性とでもいうべきものが、生物的なものへと変わっていったというように考えられる。罪の心理的分析と、その生物的遺伝的な側面の、どちらに軍配をあげ、どう調和するかということは、容易なわざではない」(同)と述べている(『続・誤りを正す』、世界基督教統一神霊協会発行、18-21頁を参照)。

 

創世記によれば、アダムとエバは「善悪を知る木の実」をとって食べて堕落したという。この「木の実」とは何であろうか。原罪とはこの「木の実」を食べたことにある。また、人間始祖を誘惑した言葉を話す「蛇」とは何か、何を象徴しているのか。

ところが、プロテスタント神学では、食べた行為よりも戒めを守らなかった動機(精神性)を心理分析し、心の中に原罪があると捉えるのである。

ところで、心の中に原罪があるとすると、また新たな問題が生じる。罪を裁く神は、悪と罪の根源ではない。それで、罪の気質がどのようにして「アダムの性質の中にはいり込んだのか」という問題が生じるのである。罪が「内的な性質にある」とする見解は、神がそのような心を創造したと神に罪の責任を負わせることになる。それゆえ、「性質に原罪がある」といえないのではないかというのである。答えは統一原理の堕落論にある。

 

b 「人間の有限性」(非存在と死)について

 

ティリッヒは「非存在と死」について次のように述べている。

 

「現在の実存主義は深刻かつ徹底した仕方で『無に遭遇』(クーン)した。それは非存在に対してその直接的語義に矛盾する積極性と力とを与えて、非存在を存在自体の上位に置いた。ハイデッガーの『絶滅させる無』は、最後的に不可能な仕方で非存在すなわち死に脅かされている人間の状況を記している。死における無の予想は人間の実存にその実存的性格を附与する。サルトルは非存在の中に無の脅威だけでなく無意味の脅威(すなわち、存在構造の破壊)をも含めている。実存主義においては、この脅威を克服する途はない。この脅威を取り扱う唯一の途はそれを自己の上に取り上げる勇気にある」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、238頁)

 

ちなみに、大島末男氏は勇気に関して次のように述べている。

 

「そして死、運命、無意味さという不安によって脅かされているにも拘らず、生きる勇気をもつことが絶対的信仰であると説いた名著『存在への勇気』(1952年刊)は、全米のベスト・セラ-となった」(『ティリッヒ』大島末男著、清水書院、57頁)と。

 

非存在と人間の有限性に関する弁証法について、ティリッヒは次のように述べている。

 

「非存在の弁証法の問題は不可避であるという。それは有限性の問題である。有限性は存在を弁証法的非存在に結合する。人間の有限性すなわち被造性は、弁証法的非存在の概念なしには理解されない」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、238-239頁)

 

このように、ティリッヒの神学は「非存在すなわち死に脅かされている人間の状況」「死における無の予想」を論述し、「人間の有限性」の問題を主題として取り上げる。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(6)

(B)「存在論的諸要素」 

 

(1)「個別化と関与」

 

ティリッヒは、「プラトンによれば、相違の観念(イデア)は『すべてのものの上に行きわたって』いる。………聖書の創造物語においては、神は普遍者でなく個別存在者を、男性とか女性とかの観念(イデア)ではなくてアダムとイヴとを創造する。新プラトン主義でさえ、その存在論的『実在論』にもかかわらず、種のイデア(永遠の原型)のみでなく、個々のもののイデアもまた存在するとの説を受け入れている」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、220頁)という。

 

ティリッヒによると個別化は特殊なものではなく、存在論的要素であり、性質であるという。そして「絶対的に等しい事物は実存し得ない」(同)というのである。

 

これは中世のスコラ哲学の普遍論争である。「普遍は存在するか」という問いをめぐって争われてきた哲学と神学の論争の一つである。

普遍は個物に先立って存在するという実念論(実在論)と、普遍は個物の後に人間が作った名前に過ぎないという唯名論が対立した。

この論争は、近代哲学や現代哲学において「普遍概念」の問題として論争されてきた。

 

ちなみに、統一原理によると、人間は「神の形象的個性真理体」であるという。すなわち無形なる神の実体(神の像)として創造されたというのである(創世記1・27)。

個性真理体とは、人間は唯一・絶対・永遠・不変であるということである。この真理によって人格の独自性(個別化)が確立される。そして、人は諸人格との交わりをもつ。このように、人間は人格的存在であり、共同体的存在であるといえるのである。

 

ティリッヒの神学には、統一原理のように人間(男・女)が世界(ペア・システム)に対応する小宇宙であるという論証はないが、「人間は精神と実在との合理的構造を通して宇宙に関与する」(同、222頁)、「宇宙的な諸構造、諸形式及び諸法則が人間に開けているゆえに、人間は宇宙に関与する」(同)と説いている。

 

このように、ティリッヒは、人間(個別的自己)は環境に関与し世界と宇宙に関与するというのである。しかし、先に指摘したように個別化には「男・女」、「雄・雌」、「陽・陰」という主体的要素と対象的要素の「格位性」に関する明確な区別の説明はない。

 

ティリッヒの「自己―世界」構造を、より理解するために、ここで「科学的神学」について述べておこう。トーマス・F・トランスは、次のごとく述べている。

 

「自然科学によって探求されている時間と空間のこの宇宙は、神学に無関係であるどころか、神がそこに人間を置いた宇宙だからである。神は宇宙を創造され、人間にそれを研究し解釈する精神と悟性を賜った」(『科学としての神学の基礎』トーマス・F・トランス著、教文館、18頁)。

「人間をその本質的構成要素とする宇宙を、それ自体を認識し、かつ明確に表現できるものとして創造した」(同、18頁)

「人間のいない自然は沈黙したままであり、自然に言葉を与えること、すなわち生ける神の栄光と尊厳を表わす全宇宙の口になることが、人間の役割なのである」(同、18-19頁)

「また、神が人類との対話のなかで人間にご自身を人格的に啓示してきたのも、この空間と時間の宇宙を通じてである。この歴史的対話は、神の言を知解可能な仕方で人間に媒介し神認識を聖書を通して伝達可能にする相互関係の共同体を確立してきた」(同、19頁)

 

上述の文章の中に多くの示唆と霊感をわれわれは読み取ることができる。人間のみが言葉を持つ存在なのである。ティリッヒは、「言語は人間が小宇宙であることを証明する。普遍概念を通して人間は最も遠い星にも最も遠い過去にも関与する」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、222頁)という。

 

科学的神学とは、ハルナックに代表される歴史科学あるいはもっと広義の文化科学として方法論的に確立された神学であって、19世紀にドイツの近代的大学の中に科学としてのいわば市民権を確立した神学のことである。

言い換えると、ハルナックによれば「科学一般とかたく結合されており、それと血縁関係にあるところの神学である」ということである。

 

ちなみに、統一原理は「宇宙は何のためにあるのであり、その中心は何であるのだろうか。………人間が存在しないならば、その被造世界は、まるで、見物者のいない博物館のようなものとなってしまう」(『原理講論』59頁)、「博物館のすべての陳列品は、それを鑑賞し、愛し、喜んでくれる人間がいてはじめて、………各々その存在の価値を表すことができる」(同)と述べている。

これは、人間と世界の「主体―対象」構造と、神が人間を創造した目的に関する叙述の一節である。

 

a 「力動性と形式」

 

ティリッヒは、存在者の内容と形式を力動性と形式として次のように語る。

 

「力動性と形式との両極は、人間の直接経験においては活力と志向性との両極的構造として現われる」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、227頁)

活力(ヴアイタリティ)は生ける存在の生命と成長とを維持する力である。êlan vital(生命の躍進)は新しい形式へと向かって生きる万物の活ける実体の創造的衝動である」(同、227頁)

「存在の力動的要素は自己を超越し新形式を創造しようとする物の傾向を含んでいる。と同時に万物はその自己超越の基礎としての自己自身の形式を保存しようとする傾向を持つ。万物は同一と相違、静止と運動、保存と変化を統一しようとする傾向を持つ」(同、228頁)

 

この力動性と形式の両極性はヘーゲルやマルクスの弁証法を理解していなければ理解することができないであろう。ただし「マルクス―レーニン主義」(共産主義)では事物の内部矛盾において対立物の「統一」は一時的・条件的であるが、「闘争」は絶対的であるという。

 

しかし、ティリッヒは「存在について語ることなくして生成について語ることは不可能である。生成過程においてどこまでも不変にとどまるものが根源的であるように、同様に生成は存在の構造において根源的である」(同)という。

 

この不変と可変(生成)に関して、原理的に解説すれば、「存在の構造」(神)について、四位基台には「自己同一的四位基台」(不変)と「発展的四位基台」(生成・発展)の二つの形態があるということを、ティリッヒは弁証法的に上述のように表現しているのである。

 

ティリッヒは、人間以下の生命力と人間の力動性について、次のように述べている。

 

「人間における力動的要素はあらゆる方向に開かれている。………人間は技術的領域と精神的領域を創造する。人間以下の生命力動性は、それが産み出す無限の変形にかかわらず、また進化過程によって創造される新しい諸形式にもかかわらず、自然的必然性の制限内にとどまっている。動態が自然を越えて伸びるのはただ人間においてのみである」(同、227頁)

 

ちなみに「マルクス―レーニン主義」は、生命は物質の高度に発達した段階であるとし、鉱物、植物、動物、そして人間も「運動する物質である」という。

これに対して、ティリッヒは、物質も「生」の概念に包含し、すべて存在するものを「生の過程である」というのである。

 

b 「自由と運命」

 

ティリッヒは、存在論的両極性は自由と運命の両極性であるという。この存在論的両極性とは存在するものには必ず二つの対立する要素があるということでる。

これは、マルクス主義の物質の運動は内部矛盾によるという見解と相似する。統一原理は「神のうちに生き、動き、存在している」(使徒行伝17・28)のは、万有原力(縦的力)と授受作用の力(横的力)によると捉え、二つの要素は対立物ではなく、相対物(相応物)であるというのである。

 

自由と運命の両極性とは、「人間は自由を持つから人間であるが、しかし人間が自由をもつのは運命との両極的相互依存性においてのみである」(同、230頁)というのである。普通は、自由と必然として語られる。

 

「自由は一機能(「意志」)の自由ではなくて人間の自由、すなわち事物ではなくて完全な自己であり理性的人間である存在者の自由である」(同、231頁)

 

「自由は熟慮、決断、および責任として経験される。………熟慮とは、論証や動機を考量する(librale)行為を指す。考量する人間は諸動機の上に超越している。諸動機を考量している限り、彼は諸動機のどれとも同一ではなく、そのすべてから自由である」(同、232頁)

 

ティリッヒによると、制約された自由を行使することにより、人間は本質の領域から脱落して実存の領域へ移行したというのである。

簡潔に言えば、自由で堕落したというのである。