Archive for 8月, 2013

ブルトマンの「非神話化」(現代から見た信仰と実存論的解釈学)(6)

(三)「非神話化」(実存論的解釈)

 

ブルトマンの有名な非神話化は、新約聖書の使信に対する実存論的解釈から生まれてきた。この非神話化論は第二次世界大戦以降に、欧州の神学界において、最大の関心と論議を惹起した。

 

ブルトマンは彼の著『新約聖書と神話論』の中で、「新約聖書の世界像は、神話的世界像である。世界は三階層に編成されているものとみなされる」(ブルトマン著『新約聖書と神話論』、山岡喜久男訳、新教出版社、11頁)という。

 

この三階層の世界とは、神と天使のいる「天界」と、サタンと悪鬼の住む「下界」と、その中間に人間が生活している「大地」があるという神話的な世界像である。このような古い時代の神話的世界像を現代人は信じていない。それでブルトマンは使徒信条の信仰告白の意義はなくなったと次のように述べている。

 

「今日、信仰告白をするものが、この〔使徒信経の〕定式の根底になっている三階層の神話的世界像を、もし信じていないならば、『陰府にくだり』とか、あるいはまた『天にのぼり』ということを、今日告白するのはいかなる意義をもつであろうか」(『新約聖書と神話論』、16頁)と。

 

結論として、ブルトマンは空中にある「天」とか、地下にあるという「陰府」などは存在しない。したがって、文字通りに信じる信仰は終結したと述べている。

 

「いかなる成人も、神を天上にある存在として思い浮かべるものはないであろう。のみならず、もはやわれわれにとって、古い意味の『天』というものはまったく存在しないのである。おなじように、陰府、すなわちわれわれが立っている地表の下方なる神話的下界なるものも存在しない。これをもってキリストが天にのぼり、また陰府にくだったという物語は終結し、天の雲に乗って来るべき『人の子』の待望や、信者が空中に引き上げられて、キリストのもとにゆくという期待も終結した」(同上、17頁)。

 

これはキリスト教信仰から見れば、軽視できないブルトマン問題なのである。

 

歴史的批評的神学に関連して、ティリッヒは、彼の著『近代プロテスタント思想史』の中で、次のように述べている。

 

「特にアルバート・シュヴァイツァーの『イエス伝研究史』を読んで、私は、歴史的問題を真剣に取りあげない聖書主義の不適切さを納得した。この経験のゆえに、私はドイツ教会闘争の期間におけるバルトの影響にもかかわらず、歴史的批評的問題に沈黙したままという態度をとらなかった。バルトは、自己の学派の中でほとんど完全にこの問題を沈黙させた。私がアメリカにきた時、ここの神学者たちもこの問題について心を煩わしていなかった。

しかし真の問題は結局無視しえない。ブルトマンが生み出した爆発は………バルト派がおさえていた問題を表面にもたらしたという事実によるものであった。………爆発が起ったのは、ブルトマンが『新約聖書と神話論』という非神話化に関する論文を書いた時である。もしドイツの神学者たちが――他の神学者もそうであるが――新約聖書の解釈において歴史的研究を無視することができないということを初めから認識していたら、この衝撃はそんなにひどいものではなかったかもしれない」(『近代プロテスタント思想史』、P・ティリッヒ著、佐藤敏夫訳、新教出版社、306頁)。

 

ティリッヒは、1952年に「欧州の神学界の問題は、すでに、バルトからブルトマンに移行した」と講演した。そして、非神話化の議論は今日までより一層の進展と深化を見せ、神学界や哲学界に広汎で深刻な影響を与え続けているのである(ブルトマン著『原始キリスト教』、米倉 充訳、261頁、「解題」より)。

 

原理的に見れば、非神話化は統一原理の終末論、復活論、再臨論を受容可能にする洗礼ヨハネ的使命を担った神学思想であると言えるであろう。

 

この三つの階層とは天界、大地、下界という古代の世界観である。また、そこに住む人間は超自然的な諸力によって支配されていると笠井恵二氏は次のように要約している。

 

「新約聖書の世界は神と天使のいる天界とサタンと悪鬼の住む下界の中間に人間のいる大地がある、という神話的な世界像である。人間の思惟や行動は超自然的な諸力によって支配される。しかしこの神話的世界像に対応するものが救済の出来事の叙述なのであり、これこそが新約聖書の宣教の本来の内容をなすものである。神話的な世界像は現代人には過去のものであるから、彼らにはこのような神話論的な説話をそのまま信じることはできないし、すべきでもない。大切なことは、新約聖書の宣教は、神話的な世界像に依存しない真理をもっているか否かである」(『二十世紀神学の形成者たち』、笠井恵二著、新教出版社、103頁)。

 

現代人の人間観は内的統一を自己に帰し、自己を統一的存在と見ているのであって、人間の思惟や行動は、サタンや悪霊などの超自然的な諸力によって支配されているのではないと見るのである。

 

ちなみにティリッヒは彼の主著『組織神学』で自律と他律について論述し、堕落して神から分離した実存的制約下で、分裂している啓蒙主義の自律と正統神学の他律は、ともに「理性の深層」(神)に根差さないので、相互に争い、相互に破壊し合う。この両者を再統一するのは啓示(神律=キリスト)によるという。

 

ブルトマンによると、神話的な世界像は本来キリスト教独自のものではなく、単なる過ぎ去った科学以前の世界像に過ぎないのである。それで、彼は新約聖書の神話の「非神話化」を主張し、科学時代に生きる人間に、新約聖書の神話の受容を強要することは、「知性を犠牲」にし、「信仰を業(わざ)にまで低めることを意味するであろう」(『新約聖書と神話論』、16頁)と言うのである。

 

したがって、ブルトマンは科学以前の聖書の世界観を「非神話化」し、それを現代の言語で再解釈すべきだと次のように主張するのである。

「新約聖書の神話論を問題にする場合にも、また、その問は、その客観化する表象内容へと向けられるべきではなくて、この表象のうちに現れている実存理解へと向けられるべきである。この実存理解の真理性が問題であり、そして新約聖書の表象的世界に束縛される必要のない信仰こそ、その真理性を肯定するのである」(ブルトマン著『新約聖書と神話論』山岡喜久男訳、新教出版社、29頁)。

 

このように、新約聖書の世界観(三階層)までも信じることではなく、「神話は、宇宙論的でなく、人間学的に、むしろ実存論的に解釈されること」(同上、27頁)であると言うのである。そして新約聖書は「客観的な世界像を与えることには存しない」(同上、27頁)と指摘する。つまり神話的世界像の排除である。

 

われわれは聖書の世界観を古代の宇宙論としてではなく、聖書でいう「天」とは、「地」とは、とその意味を分析して、それらを概念的に明確化すべきだと主張し、「終末」や「復活」、そして「再臨」に関する統一原理の解釈を、見事な「非神話化」として、ここで想起するのである。

 

しかし、ブルトマンは「神話的世界像をば、全体として採用するか、あるいはまた、破棄する以外に方法はない」(同上、26頁)と二者択一を迫り、「非神話化」することを説く。

 

肯定的に評価すれば、ブルトマンの非神話化論は統一原理の終末論、復活論、再臨論は新しい見事な非神話化論であると欧州の神学界や哲学界において統一原理を受容可能にする洗礼ヨハネ的使命を担った神学思想であるということができるであろう。

 

否定面は神の本質や属性など普遍的真理をイエスは語らなかったという主張にある。ブルトマンが否定するのは既存の観念論の哲学体系や神学であるが、統一原理の創造原理も同類と見做される点は注視しなければならない。

 

 

「イエスの先在性」について

 

ヨハネ福音書にイエスの先在性について神話的に語られているが、ブルトマンは彼の名著『新約聖書神学』の中で次のように述べている。

 

「イエスについて、人となった先在の神の子として、神話的形式において語っているこのような記述は、どの程度まで実際に神話論的意味に理解されるべきなのであろうか。それはもっと詳細な解釈によって、初めて明らかにされるであろう。」(『新約聖書神学』Ⅱ、ブルトマン、川端純四郎訳、新教出版社、280-281頁)

 

 

統一原理の中にある非神話化

 

われわれはヨハネ福音書のイエスの先在性に対する非神話化をブルトマンに求めるのであるが、この問題は解かれていない。「詳細な解釈」は「明らかにされるであろう」という指摘にとどまる。

 

イエスの先在性とは、イエスが「アブラハムの生れる前からわたしはいた」(ヨハネ8・58)とか、「世が造られる前に、わたしが(神の)みそばで持っていた栄光」(ヨハネ17・5)とか、「初めに神と共にあった」、「世は彼によってできた」(ヨハネ1・9)と聖書に記述されているこの問題である。

 

この問題は、統一原理(『原理講論』)で次のように解明されている。

 

「世は彼によってできた」とは、ロゴスとしての完成人間、すなわち彼(アダムあるいは第二アダムであるイエス)を“標本”として、「人間は神の形象的な実体対象、万物は象徴的な実体対象」(『原理講論』、48頁)として創造されたという意味である。

 

上述のごとく、人間は無形なる神の形象的な実体対象である。すなわち「神の像」(神の似姿)として創造された。それに対して万物は無形なる神の「象徴的な実体対象」として創造されたのである。言い換えると、万物は人間をモデルとして形象的に創造された。したがって神から見れば万物は象徴的な存在である。しかし人間から見れば万物は形象的な存在であるという意味なのである。

 

「世が造られる前に、わたしが(神の)みそばで持っていた栄光」とあるごとく、イエスは世がつくられる前に存在していたというのである。伝統的神学はこの聖句を字義的に解釈するが、その原理的な意味は被造物を創造する前に、神は構想理想(設計図)を持ち、神はご自身の似姿としてアダム(第二アダムであるイエス)を「言」によってイメージされ、すなわちロゴスによって設計され、そのごとくに造られたという意味なのである。それで、イエス(アダム)は「世が造られる前に」存在していたと啓示されているのである。言い換えると、イエスは無形なる神の実体として顕現されたと解釈するのである。しかしイエスは神自身ではない。

 

「世は彼によってできた」という「 彼」とは第二アダムであるイエスのことである。第一アダムは成長過程で堕落したので神の構想理想は具現化しなかった。それで、言による構想理想を具現化させたのが第二アダムであるイエスである。すなわちロゴスの受肉、言による「理想の完成」(個性完成)である。先に解説したごとく、イエス(アダム)は天地を創造する前に、神の構想理想の中に言として初めからあったのである。それで「言は初めに神と共にあった」(ヨハネ1・1)と啓示されているのである。しかし先に指摘したように、イエスは神自身ではない。

 

ところで、聖書に次のように記述されている。

「どうして人々はキリストをダビデの子だというのか。………このように、ダビデはキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」(ルカ20・41-44)

 

この聖句に対して統一原理は次のように解明している。

「イエスは血統的に見れば、アブラハムの子孫であるが、彼は全人類を重生させる人間祖先として来られたので、復帰摂理の立場から見れば、アブラハムの先祖になる」(『原理講論』「キリスト論」、259頁)。

 

このように、伝統神学が解釈するように、イエスが神御自身であるという意味から言われたのではないのである。

 

同じプロテスタントの信仰義認論から見たバルトとブルトマンとの間に相違がある。バルトはイエスの啓示を神側から、ブルトマンは人間側から解釈しているのである。

統一原理は主体(神)と対象(人間)の授受法からすべての使信を解釈する。聖書の使信を正しく解釈できる人は、罪人(堕落人間)ではなく、第三アダムである再臨のメシヤである。

 

聖書にイエスは「最後のアダム」(コリントⅠ、15・45)とある。したがって文鮮明師を第三アダムであると言えないのではないかという疑念がある。しかしイエスはモーセとエリヤが霊界にいるのを知りながら(ルカ9・30)、個体の違う洗礼ヨハネをエリヤだと言われた(マタイ17・12)。それは洗礼ヨハネがエリヤの復活体であるという意味である。

 

同様に文鮮明師とイエスは、個体は違うが文鮮明師は「最後のアダム」であるイエスの復活体であると言えるのである。またイエスを「第二の人」(コリントⅠ、15・47)とあるので「第三の人」すなわち「第三アダム」とも言える。

 

ブルトマンの「非神話化」(現代から見た信仰と実存論的解釈学)(5)

「原理的批評」

 

「神が命じればすなわち成り、神が要求すればすなわち生じる」と言うが、創造の原理、すなわち科学を無視してなされるのではない。神が創造した宇宙は法則によって運行している。また人間は科学の粋を集めたものと言われている。

したがって天地万物を創造した神は科学者であると言える。「神が世界を無から創造した」「創造思想はユダヤ教においては決して宇宙論的な理論などではなく」というが、確かにユダヤ教は歴史の神であって宇宙論的な理論はない。しかし上述の見解は天地創造の創世記一章に対する非科学的な解釈に過ぎない。

上述のような科学や哲学的な神観に対立した主張を見ると、ブルトマンの神学によって宗教や思想の対立から生じる戦争の危機を解消することはできないといえよう。このような対立をなくして世界平和を実現するために、「今」はギリシャ的な「ヘレニズム」とユダヤ教の「ヘブライズム」の相違を、ブルトマンのように認識して対決することではなく、対立から和解へと一歩前進して、ヘブライズムがヘレニズムを完全に吸収融合して世界を一つにするような、新しい思想が求められているのである。それがすなわち再臨のメシヤ思想なのである。

「宗教紛争の根本原因は本体論の曖昧さにある」(文鮮明師)

「新しい宗教のための本体論は、従来のすべての絶対者が各々別個の神様ではなく、同一な一つの神様であることを明かさなければなりません。それと同時にこの神様の属性の一部を把握したのが各宗教の神観であったことと、その神様の全貌を正しく把握して、すべての宗教は神様から立てられた兄弟的宗教であることを明らかにすることができなければなりません。

それだけではなくその本体論は、神様の属性とともに創造の動機と創造の目的と法則を明らかにし、その目的と法則が宇宙万物の運動を支配しているということと人間が守らなければならない規範も、結局この宇宙の法則、すなわち天道と一致することを解明しなければならないのです」(『天聖経』「真の神様」、79頁)

 

「神性はヘレニズム的な思想」

「神性という思想」はヘレニズム的な思想であるとブルトマンは次のように述べている。

「かくて神自身も神性という思想のもとには観察され得ない。そして神性を獲得するための聖化の禁欲は一切、イエスには当然全く異質でなければならない。というのは神性のようなものはイエスにとっては全く存在しない。これは特にヘレニズム的な思想である。神はイエスにとっては人間を決断の状況におく力、善の要請の中で人に出会う力、人の将来を規定する力なのである」(『イエス』105頁)

神性はヘレニズム的な思想であるという見解に対しては傾聴に値する。キリスト論の考察の一史料となる。

 

「イエスの死と復活」について

また、ブルトマンはイエスの死と復活について次のように述べている。

「ところで、イエスは自分の死と復活、及びその持つ救いの意味について語ってはいない。たしかに福音書の中では、このような内容をもったいくつかの言葉がイエスの口にいれられてはいるが、それらは教団の信仰からはじめて生まれたものである。しかもそれは原始教団から生まれたものではまったく一つもなく、ヘレニズムキリスト教から生まれたものである。何よりも、これらの言葉の中でも最も重要な贖いと晩餐の二つの言葉がそうである。………イエスが自分の死と復活について救いの事実として語ってはいないことは、ほとんど何の疑いもないであろう。もちろんそれは、他人がイエスの死と復活を救いの事実として語ることもできない、というようなことを意味するわけではない」(『イエス』224-225頁)。

 

このように、「イエスは自分の死と復活について救いの事実として語ってはいない」とブルトマンが言う時、われわれはシュヴァイツァーの『イエス小伝』を想起する。原理的に見れば、十字架の死と復活は第二摂理であって、神の第一次摂理である天国創建による霊肉の救済ではない。イスラエル民族がイエスをメシヤであると信じないので第一次摂理が不可能となったので、第二摂理である「霊的救済への摂理の転換」(ゲツセマネの祈りによる決断)であったと見るのである。

イエスの公生涯のほとんど最後に十字架への道が語られる。そうすると、公生涯は一体何であったのかという問題が生じる。周知のように、このような疑念はシュヴァイツァーによるものであった。

 

原理的に見れば、公生涯は第一次摂理を実現するメシヤ運動であった。この第一次摂理(神の国の創建)はイスラエル民族がメシヤであるイエスに対して「絶対服従」していれば実現していた。しかし、イスラエル民族のイエスに対する不信により、イエスを十字架の刑に追いやることで、地上天国の創建は不可能になった。それで神の国の実現は再臨に延長されたと見るのである。したがって、イエスは第一次摂理から見て、自分の死を救いと語られなかったのである。また再臨を約束された所以は、神の第一摂理である天国を実現するためなのである。

 

「シュヴァイツァー」

「神の国を問題にする聖句と、イエスのメシヤ意識を表言する聖句とは、実際、ともに徹頭徹尾終末論的性格を帯びているのである」(『イエス伝研究史』(上)、白水社、10頁)。

シュヴァイツァーはこのように考察した後で、「イエスは、その死後はじめて、イエスのよみがえりを信ずる信奉者たちの信仰にもとづき、信奉者たちにとってのメシヤとなったのである」(同上、10頁)と述べている。

そして「人々は、イエスのメシヤ性をあくまでもイエスの秘密とし、イエスの死後はじめてこの秘密が知らされる、という仕方でしか、処理できなかったのである」(同上、11頁)という。

このように「イエスのメシヤ性は、じつにイエスの復活にもとづいていたのであって、地上の活動にもとづくものではなかった」(『イエス小伝』、102頁)と断定している。

このシュヴァイツァーの『イエス伝研究史』と『イエス小伝』が、R・ブルトマンに大きな影響を与えていると言えよう。

 

ブルトマンは「イエスが赦しをもたらすのは、言葉においてであってそれ以外ではない」(『イエス』230頁)と述べて、彼の著『イエス』の最後を締めくくっている。

十字架の死が贖罪であるならイエスは「おし」でよかったことになる。これはイエスの言葉が救いをもたらすという主張と矛盾する。ブルトマンは「イエスにではなくケリュグマに関心を集中する」が、現在のブルトマン学派は「イエスにすでにケリュグマと同じ実存理解が含まれている」(『イエス』237頁、あとがき)とする。

 

「結婚や家庭の原理」について

ブルトマンは結婚や家庭の価値について次のように述べている。

「イエスは結婚や家族が人格性や共同体に対して持つ価値を語らない。成程結婚した者に対しては結婚の聖なること、解消すべからざることを語る(マタイ5・31、32、ルカ16・18)」(『イエス』107頁)。

 

ブルトマンは、イエスは結婚や家庭の価値を語らないと言うが、それは彼の主観的解釈である。したがって、そのすぐ後に結婚が聖なること、解消すべきでないことを述べざるを得ないのである。

イエスは「結婚」や「家庭の原理」を次のように語っている。

「創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」(マタイ19・4~6)と。

 

ただし、イエスは独身男性であって、結婚して家庭をもたれなかったが、上述のように「家庭の原理」について語られ、その他に聖書には、新郎新婦の話や小羊の婚姻について記述されている。

 

ブルトマンの「非神話化」(現代から見た信仰と実存論的解釈学)(4)

ブルトマンと同様のことを、文鮮明師は次のように語られる。

「最近人々は神様の属性について、神様は絶対的であり、全知全能であり、遍在し、唯一無二であり、その次に永遠不変だと言うのです。しかし、絶対的で何をするのですか。唯一だとして何をするのですか。神様が唯一なのと、私たちとは何の関係がありますか。大きな問題です。全知全能ならば何をしますか。何の関係があるというのですか。永遠不変ならば何をしますか。神様自身にはいいですが、私たち人間には何ら関係がないならば、それは邪悪なことになるのです。必要ないのです。盲目的な信仰は、できないというのです」(『天聖経』「真の神様」66頁)。

 

ここで語られている「盲目的な信仰」とは、神様は全知全能であるから、自然法則を無視して何でもできると信じる信仰のことである。しかし、神は全知全能ではあるが、ご自分が立てた法則を、自分勝手に壊してなされることはない。神は愛で法を治められるのである。

ところで、神は人間にどのようにかかわるのか。ブルトマンは歴史の出会いで「服従の倫理」を説く。しかし文鮮明師は同様に服従を説かれるが、イエスと同様に神の愛による自然屈伏を説かれるのである。

 

「神様も愛の前には絶対服従である」

神様の属性について、神様は絶対的であり、全知全能であり、遍在し、永遠不変だ、というが、私達と何の関係があるのかと言うのです。

文鮮明師は、神様は全知全能であるが、一つだけ思いどおりにできないものがあるといわれます。それは何だと思いますか。

神様は、「お金がつくれないのでしょうか。ダイヤモンドがつくれないのでしょうか。力がないのでしょうか。全知全能なる方が一つだけ思い通りにできないものがあるというのです。それは何ですか。愛だというのです。愛です」(『天聖経』「真の神様」66頁)。

 

「世の中に存在するものの中で、神様と相対になる力はありません。神様は全知全能であり、絶対的だからです。または永遠不滅の自存の方が神様です。そのような神様が願われるものがあるとすれば、何だと思いますか。お金でもなく、知識でもなく、権力でもない、その何を願っていらっしゃるのかというのです。神様が絶対に必要とするものがただ一つあります。それは人間に絶対に必要なものであると同時に、神様にも絶対に必要なもの、真の愛です」(『天聖経』「真の神様」69頁)。

 

原理的に見れば、愛は一人で生じない。愛は相対を通じて来る。「神様も愛の前には絶対服従である」といわれる。全知全能なる神様お一人で、どうするのかと言うのである。神様は、愛の対象として人間を創造された。すべての存在者の中で、神様に完全に相対できる存在は人間だけである。しかし、人間が堕落することにより、「人間と関係を結ぶべき神様の愛は、人間と関係を結ぶことができずに、人間から離れるようになり、全被造世界から離れるようになりました」と語られている。

 

上述のブルトマンの実存論的解釈は、自然神学、自然哲学を否定し、神認識は信仰からという福音主義神学と一致する解釈である。「イエスにとって、神は思惟や思弁の対象ではない。」「イエスにとっては形而上学的実在でも、宇宙的な力でも、また世界法則でもなく」というが、これは先に指摘したごとく、ブルトマン式の「実存的に自己理解された見解」なのである。言い換えると、すでに自然神学を否定するという先行理解をしたうえで、信仰義認の視座から見た見解なのである。

 

イエス様の福音の中心は何であろうか。それは、文鮮明師が言われるごとく、真の愛なのである。神は愛であり、愛で天地を治められる。

 

ところで、ブルトマンは、いつまでも古い教義を固守すべきでない、時代の変化発展に照応した新しい信仰観をもつべきであるというのであるが、この点は傾聴に値する。

 

「神を存在論的に叙述することへの弁証」

ブルトマンによると、イエスは神の支配と神の意志の使信をもたらしただけであって、「今は決断の中にある」と終末論的に悔い改めと決断を促す。ブルトマンはイエスの使信を実存論的に解釈し、イエスの倫理は「服従の倫理」であると新しい信仰観を説く。

 

ここでわれわれは、ユダヤ・キリスト教の神は「歴史の神」(啓示する神)であってギリシャ哲学のような存在論的に神概念を説く見解と対立することを想起する。このブルトマンのような自然神学を否定する見解は新正統主義と見做される。

 

神に導かれて歴史を生きてきたイスラエル民族に対して、イエスは神の存在を証明する必要性はないのである。言い換えると、イスラエル民族に対して、神の本質、神の属性、宇宙的な力、神の永遠性や普遍性などについて、ギリシャ哲学のような哲学理論や新しい神観を説く必要性はないのである。しかしキリストの使信をギリシャやローマのような異邦人に宣教する時には、哲学的に新しい神観や普遍的真理を語る必要性が生じるのである。

 

ところで、上述のように、ブルトマンは神の本質や神の属性などに関する哲学理論についてイエスは語らなかったと述べ、それらを排除する。しかし、紛争や戦争を平和的に解決しようとする時、現代において新しい神観や哲学理論が求められるのである。したがって再臨のメシヤ思想は、全ての宗教と思想を統一する新しい神学思想の体裁を備えた理論体系として出現するに相違ないというのである。

 

繰り返えして言うならば、ブルトマンのように哲学的理論や新しい神観を排除して、「神は憐れみ深く、恵み深い」、「今、決断の中にある」と説くだけで、神を信じる現代人は少ないであろう。現在においては、神の存在を否定する唯物論や無神論を批判・克服する新しい有神論的な理論体系が要請されているのである。神の愛と慈悲を説き、キリスト者以外の宗教や思想を持つ人類を救済しようとするなら、この点は指摘するまでもないことであろう。

 

バルトと自然神学論争をしたブルンナーは、『自然と恩寵』(1934年)の中でバルトに対して次のように反論していた。

 

「偽りの自然神学はこの最近の世紀のプロテスタントの思想………に非常な損害を与えたし、そしてまた偽りの自然神学は、今日も教会を脅かして死に至らせようとしているということである。確かに、これらの点に関してわれわれの間には意見の違いはない。この偽りの自然神学に対しては、すべての情熱と力と慎重さを総動員して戦わなければならないということを、カール・バルトほど明瞭に教えた者はいない。しかし、教会は一方の極端から他方の極端に走ってはならない。………正しい自然神学へ立ち返ることこそ、われわれの時代の神学の課題である。そして、そこで私は絶対的にこう確信する。この課題は、バルトの否定から遠く離れて、全くカルヴァンの思想の側に立つことである。もしこのカルヴァンという大先生に、もっと以前に問い合わせていたなら、われわれ弟子たちの間でこのような争いは決して起こらなかったであろう。今は、われわれが怠っていたものを取り戻すべき大切な時である。」(『カール・バルト著作集2』174~175頁、「自然と恩寵」より)

 

確かに、カルヴァンは彼の著『キリスト教綱要』(第五章「世界の構造と統治の中に明白な神認識」)の中で自然神学を肯定している。「今」は、われわれが怠っていたものを取り戻すべき「大切な時」なのである。

 

「ブルトマンの主張」

「神は世界の成立のもとであるような原理とか、思惟によって見通されるような起源ではなく、また世界の出来事のありとある形体の中に内在してこれに形相を与える力とかあるいは世界法則などでもなく、まさに創造者的な意思なのである。神が命じればすなわち成り、神が要求すればすなわち生じる(詩33・9)。その栄光のために神は世界を創造した………神は創造者である。これは神が手もとにあった材料に形相を与えたということではなく、神がその意思によって世界を創造したということである。後期ユダヤ教では、神が世界を無から創造したとはっきり言われるほどにこの考えは純粋に展開された」(『イエス』137頁)。

 

「創造思想はユダヤ教においては決して宇宙論的な理論などではなく、人間がその全存在において神に依存しているという信仰の表現であり、神の前に被造物であるという自覚の表現なのである」(『イエス』142頁)。

 

「世界説明の思想という性格は、ユダヤ教の創造信仰にはまったくない。それは人間が世界におけるその現実のすべてにおいて神に依存しているという自覚の表現なのである」(『イエス』162頁)。

 

「神は世界の成立のもとであるような原理とか、思惟によって見通されるような起源ではなく、また世界法則などでもなく、まさに創造者的な意思なのである」というが、人間創造は創造の原理(成長過程)を無視してつくられたのではない。

 

既存神学は、アダムとエバは塵から一瞬のうちにへその緒のない成人として造られたという。しかし、イエス様は、マリヤの胎中から生まれ、幼少時代を経て成人となられた。

すべての存在は神の意思によって生じたのであるが、非科学的に一瞬に人間を成人として創造されたのではない。人間創造には成長期間があったことをイエス様の成長過程がわれわれに原理的に示している。

他の被造物も同じである。

イエス様の誕生と成長過程は宇宙論的な神の創造原理であり、全被造物の創造過程を原理的に示している。

ブルトマンは後期ユダヤ教では、神が世界を無から創造したというが、無からは何も出てこない。天地を創造した神は科学者である。ブルトマンの主張は因果法則を無視した非科学的な主張以外の何ものでもない。

 

ブルトマンの「非神話化」(現代から見た信仰と実存論的解釈学)(3)

「自身の実存の解釈」(イエスに対する「服従の倫理」) 

ブルトマンによると、これがイエスの教説であるとか、イエスの思想であるという時、それは福音書に対する「自身の実存の解釈」なのであるという。そのことに関して次のように述べている。

 

「従ってイエスの教説とかイエスの思想とか言うとき、それは誰にでも納得出来るような普遍妥当的理想的思想体系という意味ではない。そうではなく、思想というとき、それは時の中に生きている人間の具体的状況と切り離せないものとして理解されている。すなわちそれは、動きと不確実性と決断の中にある、自身の実存の解釈なのである・・・・歴史の中で私達にイエスの言葉が出会う時、私達は哲学的体系からしてその言葉の合理的妥当性を判定してはならない。その言葉は、私達は私達の実存をどのように把握しようとしているか、という問いとして私達に出会うのである」(ブルトマン著『イエス』、15頁)と。

 

このように「普遍妥当的理想的思想体系」でなく、教説や思想は「人間の具体的状況と切り離せない」、「動きと不確実性と決断の中にある」、「自身の実存の解釈」なのであるというのである。一言でいえば、プロテスタントの信仰義認論から見たブルトマン式の解釈であるといえよう。

 

山岡喜久男氏は、実存論的解釈について次のように解説する。

「われわれにとっては、自然を観察するように歴史を客観的に観察することではなく、歴史と自己との邂逅Begegnungが重要である」(ブルトマン著『キリストと神話』山岡喜久男・小黒薫訳、125頁)。「歴史の観察でなくて、イエスに邂逅し、実存的にそのイエスの語りかけを聞こうとする接近の仕方」(同上、126頁)である。

 

また、ブルトマンは『イエス』の「日本語版への序文」で次のように語っている。

「歴史の真の理解は、いつでも歴史との出会いにおいて実現されます。その出会いにおいて歴史の求めに耳を傾けるのです。その意味はこうです。つまり歴史を理解しようと願う者は、自分自身についての理解を、歴史の中で出会う自己理解の諸可能性に照らして疑ってみる覚悟がなければならないということです。それは、そうすることによって自分自身についての理解が解明され、豊かにされるためであります。こうしてその人は歴史との対話の中にはいりこみ、歴史の求めはその人に決断を要求するのであります。歴史の認識とともに自己の認識が形成され、成長していきます」(ブルトマン著『イエス』川端純四郎・八木誠一共訳、未来社刊)。

 

上述の「歴史との出会い」とは、イエスとの出会いであり、イエスはその人に悔い改めと決断を要求する。

「人は悔改めへの呼びかけによって決断を要請され、彼が選ばれた人々に属するか、滅びる人に属するかは、決断においてあらわになるのである」(『イエス』50頁)。「神の支配は全く将来でありながら現在を全面的に規定する力なのである。それは人間に決断を強制することによって現在を規定する」(同、54頁)。

 

「神の支配は全く将来でありながら現在を全面的に規定する」といい、決断へと呼びかける信仰とは、「服従の倫理」である。そのことに関してブルトマンは次のように述べている。

 

「イエスの倫理も一切のヒューマニズム的倫理や価値倫理と厳しく対立する。それは服従の倫理なのである」(『イエス』86頁)。「人間社会の理想が人間の行為にとって実現されるところにも見ない」(同、86頁)。「いわゆる個人的倫理あるいは社会的倫理はイエスにはない。理想や目的という概念はイエスには異質である」(同、86頁)。「すなわち性格の強さや人格的品位の思想にではなく、服従の思想、自己主張の断念という思想に基礎づけられている」(同、114頁)。

 

イエスに対する「服従の倫理」は信仰の本質であり、それは人格的品位などの人間の内面性を云々することではない。バルトも近代神学について「ただ人間の精神や心や良心や内面性だけを問題にする人は、本当に神を問題にしているのか、人間の神化を問題にしているのではないか」(カール・バルト著作集4、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』新教出版社、153頁)と批判し、神学はずっと以前から人間学になってしまっていると言っていたことを想起する。

自己主張を否定する文鮮明師も「真の父母様宣布文」で、統一家の伝統と信仰は服従であると説かれていた。この信仰(服従の倫理)は新しい信仰義認(「信義」)、あるいは12使徒らのイエスに対する「侍義」(絶対信仰、絶対愛、絶対服従)であると言えるであろう。

 

原理的に見れば、決断とか服従は人間の5%の自由意志に属する責任分担である。このブルトマンのイエスとの出会いによる「服従の倫理」は、神に対する信仰は人間の意志による決断ではなく「和解」によるというバルト神学と対立する。

 

ところで、彼は、イエスの「服従の倫理」(神中心主義のヘブライズム)と人間中心主義のヘレニズム(ヒューマニズム的倫理や価値倫理)を厳しく対立させている。

 

しかし、現在において神の願いである世界平和を実現するためには価値観の対立を明確にするだけでなく両者の統一が求められている。したがって再臨のメシヤ思想は「理想や目的という概念」を排除せず、ヘブライズムとヘレニズムの両者の価値観を統一するような新しい「理想や目的という概念」を原理的に体系化したものであるに相違ない。ただし再臨のメシヤの思想に出会うなら、決断を要請されるのは初臨と同じであろう。

 

「宇宙には愛がないところがない」「愛によって遍在される」(文鮮明師の御言、『真の神様』より)

しかし、ブルトマンは哲学的理論や形而上学的神観や神秘主義を次のように排除する。

「イエスにとって、神は思惟や思弁の対象ではない。イエスは世界を理解し、それを統一体として認識するために神観を求めたりはしない。したがって神は、イエスにとっては形而上学的実在でも、宇宙的な力でも、また世界法則でもなく、人格的な意志、聖なる恵み深い意志なのである。……イエスは神について普遍的な真理や教説によって語りはしない。むしろ神は人間に対してどのように在るのか、神は人間にどのようにかかわるのかということを述べる、そのようにのみ語る。従ってイエスは神の属性について、その永遠性や不変性等について対象的に語るのではない。ギリシャ的な思惟はこれらによって神の彼岸的本質を描こうと努めていた。神は憐れみ深く、恵み深いということをイエスはしばしば言っている(ルカ6・36、マルコ10・18)。しかしそれによってイエスは、ただ人間がその自分の現実においてどのように神を体験するかということを語っているだけであり、人間に対する神の行為を語っているだけなのである。しかもそれは、イエスが遠い、秘密に満ちた形而上学的な神の本質と、この本質の現れとしての我々に対する神の行為とを区別しているという意味ではない。……したがってイエスは、新しい神観についての知識や神の本質についての啓示をもたらしたのではない。イエスは来たらんとする神の支配と、神の意志の使信をもたらした」(『イエス』154~155頁)。

このようにブルトマンは「イエスは、新しい神観についての知識や神の本質についての啓示をもたらしたのではない」と断言し、イエスは「神は人間にどのようにかかわるのか」ということだけを語ったというのである。

 

しかし、イエスは「あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来るときには、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」(ヨハネ16・12)と語っておられる。

真理の御霊が「あらゆる真理に導いてくれる」とは、ブルトマンの解釈に反し、イエスが語り得なかった「新しい神観」や「神の本質」などについても語られると解釈することができる。