Archive for 6月, 2014

ブルンナー「出会いの神学」(4)

(5)「結合点」について

 

ブルンナーは『結合点』(言語能力と応答責任性)、すなわち「人間性」について次のように述べている。

 

「神の救済の恵み(Erlösungsgnade)に対して結合点が存在するということは、……その人とは、石や丸太でなく、ただ人間的主体だけが神の言葉と聖霊を受けることができるということを承認する人のことである。結合点とはどういうものであるかというと、罪人からも失われてない形式的な神のかたち、すなわち人間を人間たらしめるもの、人間性、前述の二つの要素でもって言えば、言語能力と応答責任性である。人間は言葉を受けることができる存在であるということ、そしてまた人間だけが神の言葉を受けることができる存在であるということ、そのことは罪によってもなくならせられない。……それは純粋に形式的な、話しかけられることができるということ(Anspruchbarkeit)である。そもそも、この話しかけられることができるということはまた、応答責任性の前提でもある。」(ブルンナー著『自然と恩寵』、150頁)

 

このように、ブルンナーは、真の神から「話しかけられることができる」という「結合点」(言語受容能力と応答責任性)、すなわち「人間性」は、罪によってもなくなっていないというのである。しかし、バルトは『結合点』(人間性)を否定し、神認識は上からの一方的な恵みによると言い、人間は自分で自分を救うことはできないと主張するのである。

 

ブルンナーは、「神の恵みはただすでに罪について知っている者のみが理解することができる」(同、151頁)と述べた後に、罪と結合点の関係について、次のように述べている。

 

「神について知ることなしには、いかなる罪も存在しない。罪は常に『神の前に』ある。……神の言葉が初めて人間の言語能力を造り出すのではない。言葉を聞きうる能力があるという性質を、人間は決して失ってしまっていないその性質は、神の言葉を聞くことができるということに対する前提である。……結合点についてのそのような教えによって、『恵みのみ』についての教えが少しも危険にさらされないことは明らかである。」(同、151頁)

 

このように、一方において、「恵みのみ」の教えが少しも危険にさらされないというが、他方では、対象に言語受容能力と応答責任性がなければ、上よりの「恵み」(和解)の働きかけに対し、対象は応答できないというのである。

 

バルトは、神の呼びかけに応答する能力でさえ、人間に生得せいとくのものではなく、神の啓示と聖霊の働きによって新しく創造されるものであるというのである。

しかし、和解以前のノアやアブラハムやモーセらは、神の呼びかけに応答していた。

 

バルト神学は、信仰には認識が対応している。信仰が認識に先行するのである。

これに対して、ブルンナーは、「聖書が信仰を聖霊のわざ、聖霊の賜物と呼んでいることは確かであるが、しかし聖書は決して聖霊が私の中で信じるとは言っていない。聖霊が私のなかで信じるのではなく、私が聖霊を通して信じるのである」(『自然と恩寵』、152頁)と批判している。

 

ちなみに、バルトの『教会教義学』の「和解論」について、大木英夫氏は次のごとく述べている。

 

「キリスト教的な神認識と人間認識が可能となる場所……和解だけが、そこから、罪とは何かが、キリスト教的に洞察され判断される場所である。……和解とは、神からまた自分自身から疎外された人間にとって何の出発点もないところの真空の中に、神ご自身が一切の認識の出発点を設定したもうたみ言葉だからである。」(『バルト』大木英夫著、講談社、260頁)

 

このように、バルトにとって「和解」こそが、真の神認識、真の人間認識、そして罪認識などの一切が洞察され判断される場所であり出発点なのである。

 

すでに論述してきたごとく、ブルンナーは「自然的な人間性」には、神の恵みとの必然的な、不可欠な「結合点」(言語受容能力と責任応答性)があるというのである。しかし、バルトの「和解論」にはこの前提がないのである。

 

また、ブルンナーは、この恩寵おんちょうと自然的な神認識の関係について、次のように述べている。

 

「この『話しかけられることができる性質』と関係のある領域は、より狭い意味での人間性(das Humanum)を包含しているばかりではない。それは、『自然的な』神認識と関連しているいっさいのことを包含している。もはや何の神認識も持たない人間に、神の言葉はもはや到達することができないであろう。良心のない人間は、『悔い改めて福音を信ぜよ』という呼びかけによって呼びかけられることができない。確かに自然的な人間が、神について、律法について、そして自分自身が神のものであること(Gottgehörigkeit)について知っているその知識は、非常に混乱したものであるかもしれない。しかし、それでいてなお、それは神の恵みとの必然的な、不可欠な結合点なのである。そしてそのことは、次の事実の中においても証明される。すなわち、福音はほとんど常に、新しい言葉を造り出したのではなく、異教の宗教意識によってすでに造り出されていた言葉を使用した、という事実である」(『自然と恩寵』、151-152頁)と。

 

他宗教には、キリストを受容する不可欠な「結合点」があるということである。しかし、バルトは、他宗教は真の神を認識できず、また、神ならざる神を礼拝するとして排除し、〝偶像崇拝〟は神を受け入れる準備段階であるのかと反論する。〝偶像崇拝〟に対する反論は後にする。

 

ところで、再臨主の御言みことばと原理から見れば、バルトの反論の基礎である三位一体の神も、おぼろげな神認識であって完全な神認識ではないのである。「全きものが来る時には、部分的なものはすたれる」(コリントⅠ、13・10)運命にある。

 

(6)自己意識について(「人間の5%の責任分担」)

 

ブルンナーは、人間は主体であり理性的存在であると言い、自己意識の維持について次のように述べている。

 

「人格的な神が人間と人格的に出会う。そのことの中に、自己意識の維持ということが含まれている。そのことの典型的な表現が、まさしく新約聖書の中で、神秘主義的表現に最も近づいているあのガラテヤ書2・20の表現である、『しかしわたしは生きている、それでいて私ではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである』……この『しかしわたしは生きている』という表現は、『わたしは律法によって……死んだ、私はキリストとともに十字架につけられた』というあの文章のあとに続いている。その表現は、また内容的な人格性(Personalität)が死んでもなお形式的な人格性が維持されているということを言い表わしている。」(同、152頁)

 

自己意識の維持とは、原理的に言えば、神の「95%の責任分担」(恵み)に対して、人間には「5%の責任分担」である自由意志があるということである。罪によっても、自由意志はなくなっていないということである。しかし、ルターは、人間は善を成し得ない、自由意志は罪の奴隷である。したがって自由意志はない、と言っている(奴隷意志論)。バルトも同じ見解である。

しかし、自由意志があるか、ないか、という問題と、自由意志は善を成し得るか、成し得ないかという価値問題は別の問題である。ルターの主張は論点がずれている。

 

ティリッヒは、彼の著『組織神学』(第一巻「啓示の現実」)の中で「啓示と理性の相関論」を説き、脱自だつじ恍惚こうこつ、霊的現臨)は精神がその通常の状態を超え出るという意味において異常な精神状態を指すが、それは自由な理性の否定ではないと述べている。

 

さらに、ブルンナーは、信仰命令(戒め)について次のように述べている。

 

「その信仰命令は――誰でもが知っているように――新約聖書にとって、ちょうど信仰は神の賜物であり、神の業であるという主張と同じように、特徴的なものである。新約聖書の用語法の統計的な結果によると、信仰は神の賜物であり、神の業であるという主張よりも、信仰命令の方を、いっそう強く力説していることを示しているとさえ、私は考える。」(『自然と恩寵』、153頁)

 

神からの信仰命令は、人間の5%の自由意志や責任性を認めるからこそ出されるのである。

 

以上、今まで論述してきたこと、ブルンナーは「こういうもろもろの主張から、私の自然神学(theologianaturalis)――カール・バルトにとっては、全く疑わしい――が成り立っている」(同)と述べている。

 

「原理的批評」(自由意志について)

 

「信仰の行為」とは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです」(マルコ5・34)とあるように、信仰は「人間の5%の責任分担」なのである。すなわち応答責任性であり、信仰する「決断」も5%の人間の自由意志である。

 

聖書にある多くの「信仰命令」(勧告や命令や約束)は、それらを人間は理解する能力(理性)があり、それを行う5%の責任性があり、決断する自由意志があることが前提で与えられるのである。

 

バルトは、この神の呼びかけに「応答する能力」ですら「神の恩恵」によって創造されたものであるといい、人間の主体的な自由意志や責任性を否定する。しかし、罪によって本質構造(神の像)を喪失した人間には、そのような応答能力(自由意志)すらないと否定されるなら、応答したものには「永遠の生命」が約束され、拒んだものには「永劫の罰」(永遠の死)が課せられるというこのような厳しい責任を負わされる「最後の審判」はないはずである。すべて神の責任となるからである。

 

また、救済の予定において、全てが必然で「恩寵のみ」であるなら、人間は自由のない神の意志通りに動くロボットに過ぎず、「聖書」の中にある多くの勧告、命令、非難、要求は、必要ではなく、このような「信仰命令」は全く無意味なものとなってしまうのである。悔い改める期間も不必要である。

 

また、神と人との契約が現実の歴史であるなら、神が人と〝契約を結ぶ〟のは、罪人であっても人間には良心があり、「人間性」があり、「言語受容能力」と「応答責任性」があるからなのであって、もし、人間に自由も責任も人間性もないなら、そのような人間と神は〝契約を結ぶ〟ことなどあるはずがないのである。

 

統一原理は、人間に「5%の責任分担」があるのは、創造への参加と万物の主管権の賦与ふよのためであると説いている。これは人間の特権なのである。

 

このように、み旨成就における「神の95%の責任分担」+「人間の5%の責任分担」=100%という神と人間の関係における責任分担論を説くと、プロテスタントの神学、特に福音主義神学と鋭く対立せざるを得ないのである。

なぜなら、神の恵みを95%というように、いかに大きく捉えようとも、5%という人間の「行い」がなければ100%にはならない。したがって、このように人間の行いに対して、ほんの少しでも価値を認めれば、救いが人間の行いを少しも必要とせず、神の一方的な「恵み」であるとする「福音」も、また否定されるからである。

 

もし、バルトが、統一原理のように「人間の5%の責任分担」(「行い」)を認めるとするならば、カトリック神学の「協働きょうどう説」や「功徳思想」を認めることになり、ルター以来の宗教改革的信仰を、自ら誤りであると認めることになってしまう。

したがって、信仰義認という立場から見て、救いにおける「信仰」と「行い」の対立を主張し、罪人である人間の「自由意志」や「業」(「行い」)を完全に否定することは、「福音主義」の何であるかを説かんがための生命線であり、彼らにとって重大な問題なのである。

 

バルトが、ブルンナーの自然神学を必死になって否定するのは、そのためである。したがって、われわれもバルトの自然神学批判を知って、原理的観点からブルンナーを補完し、バルトの誤りを指摘しなければならないのである。

 

ブルンナー「出会いの神学」(3)

(4)「保持の恵み」

 

ブルンナーは「保持の恵み」について、次のように述べている。

 

保持ほじの恵みとは、大部分は、人間が罪を犯すにもかかわらず、神の創造の恵み(Schöpfungsgnade)を罪深い人間から全く取り去ってはしまわないということである。」(ブルンナー著『自然と恩寵』、147頁)

 

ただし、ブルンナーは、「保持の恵みに関して正しく語ることは、キリストの啓示の光の中で初めて可能である。」(同、148頁)と言うのである。

 

彼は「保持の恵み」について次のように述べている。

 

「神は全く善意を持つ方であるので、太陽をよい者の上にも悪い者の上にも、照り輝かせるということ、神はわれわれに生命、健康、力等を与えるということ、……自然的な生活に必要なすべてのもの、そういうものすべては、保持の恵みの概念の下に置かれるが――、その保持の恵みは、それであるから一般的な恵みと呼ばれているが……われわれはこのこと、すなわち救う恵みを学び知る前にすでに神の恵みによって生きていたということを、たとえその恵みが何であるかを正しく認識しなくても、認識する。」(同、148頁)

 

確かに、キリスト者以外の人も、大地からの豊穣ほうじょうの恵みを受け、自然的な生活に必要な「保持の恵み」を受けている。

 

ブルンナーは「保持の恵み」(歴史の遺産)に関して、さらに次のように説明を加える。

 

「この保持の恵みの領域には、自然な生活全体と共に、また歴史的な生活全体も属している。……われわれが父および母から受けたものばかりでなく、また民族とその歴史から受けたもの、また全人類の歴史的な遺産であるもろもろのものも、信仰の中で神の維持する恵みの賜物とみなされる。」(同、148頁)

 

事実、現代人は歴史の遺産を相続して、時代的恩恵を受けている。

 

次は、「創造の秩序」(結婚、一夫一婦制)についてである。

 

「この保持の恵みの領域に属するものに、特に歴史的-社会的生活のいろいろの定数(Konstanten)として、すべての倫理的な問題提起の根本要素を形造っているある『秩序』がある。たとえば結婚や国家のような、それなくしてはいかなる人間的な共同生活も考えられないところのある秩序が存在する。……たとえば、一夫一婦制の結婚は、……国家よりもより高い権威を持つものである。……それ故に、一夫一婦制の結婚は昔から『創造の秩序』(Schöpfungsordnung)と呼ばれてきた。そうだからと言って、イエス・キリストの中で初めて真に創造神を認識するキリスト信者は、また結婚の秩序を、創造主が設立したものとして認識するということ以外のことが言われているのではない。」(同、149頁)

 

ブルンナーが指摘するごとく、国家は国民の命と暮らしを守り、安全を保障する。

ここで重要な事柄は、ブルンナーが結婚について語り、一夫一婦制の結婚は「創造の秩序」であり、「イエス・キリストの中で始めて真に創造神を認識する」というところにある。

 

この結婚に関するブルンナーの主張は、再臨主の思想(家庭の原理)を全世界に証しする〝洗礼ヨハネ的使命〟を持った主張であると言えるのである。

 

聖書に、「『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない。」(マタイ19・4-6、マルコ10・6-9、参照聖句:創世記2・24)とイエスが言われた、と記述されている。

 

後で、また論じるが、ブルンナーの上述の主張に対して、バルトは「誰が何を基準に結婚を創造の秩序である」とし、「公理として義務と束縛とをもった命令にまで高めるのか」と結婚に対して問題を提起する。

この誰が、に対して、キリストが答えているというのである。キリストの御言みことばは絶対的基準である。キリストの御言が結婚の意義や家庭の原理について答えているというのである。

 

「家庭の原理」は、再臨のメシヤによって発表される真理である。従来の神学や哲学では、愛を概念化することは不可能であると言われてきたが、真の愛は「再臨のメシヤ」(文鮮明師)によって、「四大心情圏」と「三大王権」として概念的に解明されている。

そして、驚嘆すべきことは、真の家庭の中において「真の神」の「真の愛」を誰もが経験できると説かれている点である。神が人と共に生活する(ヨハネの黙示録21・3)というのである。

 

真の愛と家庭の原理について、真の父母様(文鮮明師ご夫妻)は次のように語っておられる。

 

「エデンの園のアダム家庭は、神様が理想とされた真の家庭の典型でした。無形で存在された神様の存在を実体で現すための四位基台の創造でした。

創造主であられる神様は、主体の位置で人間を対象の位置に創造され、神様の心の中だけに存在していた無形の子女、無形の兄弟、無形の夫婦、無形の父母を、アダムとエバの創造を通して、実体として完成しようとされたのです。

アダム家庭を中心として、実体の子女としての真の愛の完成、実体の兄弟としての真の愛の完成、実体の夫婦としての真の愛の完成、そして実体の父母としての真の愛の理想完成を成し遂げ、無限の喜びを感じようとされたのです。

したがって、真の家庭主義の核心は、人間関係の最も根幹となり、真の家庭を成すにおいて、絶対必要条件となる『四大心情圏』の完成と『三大王権』の完成です。

四大心情圏とは、子女の心情圏、兄弟の心情圏、夫婦の心情圏、父母の心情圏を言います。

皆様、人間は、この地にだれかの子女として生まれ、兄弟姉妹の関係を結びながら成長し、結婚して夫婦となり、子女を生むことによって父母となる過程を経ていくようになっています。したがって四大心情圏と三大王権の完成は、家庭の枠の中で成し遂げることができるように創造されています。」(「ファミリー」2005年6月号、「摂理史的観点から見た自由と釈放」から、36-37頁)

 

また、真の家庭において、「父子間の愛は、上下の関係を捜し立てる縦的な関係であり、夫婦間の愛は、左右が一つとなって決定される横的な関係であり、兄弟間において与えて受ける愛は、前後の関係として代表される」と語っておられる。

 

このように、真の愛には前後、左右、上下の愛があり、愛には創造の秩序があり、規範があるのである。

 

上述の御言にあるように、人間は真の愛を家庭の中において経験して円満な人格を形成するのである。この真の愛の規範は、社会の倫理と国家の倫理の基礎である。

したがって、ブルンナーの言うごとく、「一夫一婦制の結婚は、……国家よりもより高い権威をもつ」と言えるのである。

 

ブルンナーは、「結婚は創造主の与えた『自然の』秩序の一つである」(『自然と恩寵』、149頁)と述べている。そして、「これらの秩序は、ただ信仰からしてのみ、すなわちキリストからしてのみ、その本来的な意味において神の愛の意志との関連において正しく理解される」(同、150頁)と述べている。

 

さらに、ブルンナーは、カルヴァンの結婚と国家の倫理を取り上げて、次のように述べている。

 

「神の秩序、あるいは創造の秩序の中で、カルヴァンにとっては特に結婚が重要である。罪と関連をもつ保持の秩序の中では、特に国家が重要である。カルヴァンが結婚および国家の倫理について語るすべてのことは、彼の自然神学から由来する」(同、161-162頁)と。

 

この家庭や国家の倫理の教説は、自然神学を拒否するバルト神学への批判が含蓄がんちくされている。

 

バルトは、ブルンナーのいう創造の秩序としての結婚を、次のように批判する。

 

「『人間の歴史的・社会的生活の常数(Konstanten)』とも言うべきあの諸秩序であって、『それなくしてはいかなる人間の共同生活も考えられない』が、しかしそういう諸秩序の下で、ブルンナーは今一つの本来的な『創造的秩序』としての結婚を、罪との関連において造られた『保持の秩序』としての国家に対比して、より高い威厳を持つものと考えようとする」(バルト著『ナイン!』203頁)と。

 

この反論に多くを語る必要はない。家庭の原理は、社会の倫理と国家の倫理の基礎であると答えておこう。

 

また、バルトは誰が、何を基準に、結婚を「創造の秩序」と宣言するのかと次のように述べている。

 

「公理は一体、本来いかなる内容のものだろうか。あるいは、何としても『徹底的に罪人である!』われわれの間で、誰が、そういう公理は一体、本来いかなる内容のものであるかをきめるのか。もしわれわれが衝動や理性に相談をかけるなら、たとえばすべての『結婚』とは何を意味し、また、何を意味しないだろうか。衝動や理性は、われわれに本当に『結婚』が――神の創造の秩序として認められまた宣言されるべきものであるような結婚が――何であるかを、われわれに語るだろうか。少なくとも、もし認識の明白さと確実さとが問題となるならば、物理学的、科学的、および生物学的な『自然の法則』や、あるいはさらにまた数学の特定の公理の方が、創造の秩序と称せられるものに対して、あの歴史的・社会的な常数と言われるものよりも、はるかにより多くの権利を要求しなければならぬのではないか。そして誰が、あるいはまた何が、これらの常数を一体今また戒めにまで、言いかえると、神の啓示として見られねばならないような義務と束縛とをもった命令にまで、高めるのであるか。衝動と理性がそれをするのだろうか。そしていかなる標準をもって測ることによって、われわれはさらにまた、こういう社会学的な『創造の諸秩序』の小さい階級制度を直ちに造り上げ、これには、より高い威厳を、あれには、より低い威厳を与えるようなことをするに到るのであろうか」(『ナイン!』204頁)と。

 

このように、バルトは「公理は一体、本来いかなる内容のものだろうか」といい、また「『結婚』とは何を意味し、「『結婚』が――神の創造の秩序として認められまた宣言されるべきものであるような結婚が――何であるかを、われわれに語るのだろうか」と疑義を抱き、「社会学的な『創造の諸秩序』の小さい階級制度」を造り上げると言って問題視するのである。

 

この疑義に対して、「誰が」とはキリストが、であり、「何を基準に」とは、キリストの御言が絶対的基準であると、すでに答えている。

 

バルトは、「結婚が創造の秩序であるのか」といい、「神の啓示として見られねばならないような義務と束縛とをもった命令にまで高めるのか」と批判するが、この主張こそ、病める人間の心を代弁しているといえよう。

家庭の秩序は愛の秩序であって、「義務と束縛とをもった命令」ではない。しかし、神の愛がなければ、バルトの言うごとく束縛となる。

 

「自然法則」と「創造の秩序」(一夫一婦制の結婚)は、本来においては、どちらも創造の秩序である。人間が堕落して万物より劣る存在になってしまったので、バルトが指摘するように〝自然法則〟の方が勝っているように見えるのである。

 

しかし、本来においては、家庭の原理は最高の原理なのである。

なぜなら、文鮮明師によると、真の家庭の中に真の神の真の愛が顕現するからである。したがって、自然の秩序よりも家庭の愛の秩序の方が勝るのは言うまでもないことである。

 

ブルンナー「出会いの神学」(2)

(2)「ブルンナーの『反対命題とその基礎づけ』」(「神の像」について)

 

はじめに、ブルンナーは、彼自身の「反対命題とその基礎づけ」として、人間が他の被造物から区別されるのは、人間の中にある「神の像」であると次のように述べている。

 

「人間の持っている神の()姿(すがた)については、実際は二つの意味で語られねばならない。一つは形式的な意味で、もう一つは内容的な意味でである。この神の(かたち)という概念の形式的な意味は、人間性(Humanum)ということである。換言すれば、罪人であろうとなかろうと、人間をほかのすべての被造物から区別するものが神の像という概念の形式的な意味である。……人間はまた罪人としても天地万物の中心点であり、頂点であることをやめてしまったのではない。……天地万物の中でのこの優位の立場は、人間が神に対して持っている特別な位置の上に基づいている。詳しく言えば、神が人間を特別なものに創造したということ、すなわち、神の像を担う者として創造したということの上に基づいている。この像を担うという機能、あるいは像を担うという性質は、罪を犯したために除去されていないばかりか、それは罪を犯しうることの前提であり、まさしく罪の中でこそ生きて活動してくるところのものである。」(ブルンナー著『自然と恩寵』、143-144頁)

 

このように、神は人間を特別なものとして、神の(かたち)を担う者として創造したというのである。そして、それは、罪によっても除去されていないというのである。

 

この「神の像」に関して、さらに次のように述べている。

 

「われわれは、像を担う機能と性質を、人間が主体であるということと責任応答性という二つの概念によって表現する。人間はそのほかのすべての被造物に対して、ある大事なものを長所として持っている。罪人としてもそうである。それは主体であり理性的存在であるということである。この主体であり、理性的存在であるということを、人間は神と共通に持っている。ただ神は原型(げんけい)的に主体であり、人間は模造(もぞう)的に主体である。人間は、罪人としてもなお主体であることをやめてしまわない。人間はまた罪人としても、他人の語り相手となることができ、また神の語り相手となることもできる。そしてまさしくそのことの中に、責任を持つ者であるという人間の根本的本質(Urwesen)が基づいている。罪人としても、人間はまた責任を持つものである。こういう二つの性質の上に、すなわち言語受容能力と責任応答性との上に(そしてそれらはまた、それら二つの間で互いに非常に密接に関連しているのであるが)、人間の特殊な地位が基づいているばかりでなく、人間のこの特殊な地位と、そして神が人間となるという救済の啓示の形態との間の関係も、その上に基づいているのである。」(ブルンナー『自然と恩寵』、144頁)

 

上述のように、「人間の根本的本質」(神の像)とは、人間は理性的存在であり、「言語受容能力」と「責任応答性」を持ち、文法的に言葉となって語りかけるものを理解することができるという点にある。

人と人とが人格的に交流するのも、この言葉による。また、神と人が人格的に交流するのもこの言葉を媒介とするというのである。

 

ブルンナーは、この二つの機能と性質は堕落によっても毀損(きそん)されていないというのである。

確かに、彼の言うごとく、もし完全に毀損されているなら、神は御言(みことば)を人間に与えて人間を教育し、人間を成長させ、「完全な者」(マタイ5・48)とすることはできないであろう。

 

同様のことであるが、ブルンナーは、一方では、「形式的には神の像(imago Dei)は少しも毀損されていない。――人間は罪深くあろうとなかろうと、主体であり、責任をもつものである」(同、144頁)と言い、「言語受容能力と責任応答性」があると言う。

他方では、堕落によって「内容的には、神の像は完全に失われており、人間は徹頭徹尾、罪人であり、人間には罪によって汚されていないところは一つもない」(同、144頁)と述べている。

 

この彼の主張は、一見すると矛盾しているように見える。事実、バルトはブルンナーの見解は矛盾していると批判しているが、彼によると、そもそも堕落人間(罪人)はそのような形式と内容を持つ矛盾した存在であると見ているのである。

 

(3)「ブルンナーの『二種類の啓示』」

 

ブルンナーは、啓示には「自然を通しての啓示」と「キリストの啓示」の「二種類の啓示」があるという。

 

自然的啓示について、彼は次のように述べている。

 

「世は神によって創造されたものである。あらゆる被造物の中でその創造主の霊が何らかの仕方で認識される。すべての名人の真価は作品に現われる。」(ブルンナー著『自然と恩寵』、145頁)

 

このように、ブルンナーは、神は自然を通しても啓示されるというのである。

 

そして、自然を通して啓示されることを認めない〝バルトの福音主義神学〟こそ、聖書の証言と矛盾していると次のように批判する。

 

「神が被造物によって讃美されているということはまた、最初の時代からその後の全世紀を通してキリスト教の典礼には欠くことのできない一構成要素である。しかも聖書自身がそのことを語り、そしてそのことを承認しない人間を責め、人間は信者として、被造物が神をこのように讃美することに参与するよう聖書が期待しているとするならば、聖書の啓示の意味が軽んじられないために、そのような天地万物を通しての啓示を承認しないことを望むということは、私には、奇妙な、聖書への忠実さとしか思われない。」(同、145頁)

 

このように、ブルンナーは、バルトが「聖書のみ」と言いながら、天地万物を通しての啓示を承認しないのは、「奇妙な、聖書への忠実さとしか思われない」と批判しているのである。

つまり、バルトのキリスト中心主義は「偏った啓示概念」(同、165頁)であり、「偏狭な聖書解釈」であるというのである。

 

そして、ブルンナーは、「神が何事かをなすところ、そこでは神のなす(わざ)の上に神の本質の印章(いんしょう)(Stempel)を押す。それ故に、世の創造は同時に、神の啓示、神の自己伝達である。こういう主張は異端的なものではない。そうではなく、キリスト教の根本的主張である」(同、145頁)と主張する。

言い換えると、世の創造に神の本質の印章があると見る自然神学は「聖書の解釈」と矛盾していないというのである。

 

問題点は、「天地万物からの啓示」と、「イエス・キリストからの啓示」は互いにどのように関連しているかという点にある。

 

ブルンナーは、「世界の構造全体も、それ自体で神を(あら)わさないのは、ちょうど、聖書がそれ自体で神を顕さないのと同様である。……またこの構造全体がなす啓示を見る眼がこの啓示のほかに、付け加わるということを通してのみ、神を啓示する」(同、166頁)という。

 

それでは、自然が神を啓示するために、「自然の啓示」のほかにどのような啓示が「付け加わる」というのであろうか。

ブルンナーは「キリストの啓示」の中に立つ人間だけが、自然の中に正しい神を認識し得ると、次のように述べている。

 

「自然とは、罪深い人間が、そこで認識していながら同時にまた認識していないものを意味しうる。それはちょうど、人間自身の本性に関して言えば、神がご自分に似た姿として人間の本質の中に入れ給うたものは破壊されえないが、しかしどうしても常に罪によってくらまされてしまうと言いうるのと、事情は全く同じである。それ故、正しい自然からの神認識は、これをキリスト者だけが、換言すれば同時にキリストの啓示の中に立つ人間だけが、持っていると結論的に言える。」(ブルンナー著『自然と恩寵』、147頁)

 

このように、正しい〝自然からの神認識〟は、「キリストの啓示」の中に立つキリスト者だけが持っているというのである。

 

原理的に見れば、「キリストの啓示」とは、イエスと聖霊のことである。ただし、キリスト者の神認識は、ブルンナーの言うごとく「二つの啓示」から真の神を認識しているのであるが、まだ不完全な神認識である。再臨のメシヤの御言によって、キリスト者は〝不完全な神認識〟から〝完全な神認識〟に至るのである。キリスト者以外のすべての人も同じである。

 

「二つの啓示」に関して、笠井恵二氏は次のように解説している。

 

「大切なことは、『天地万物からの啓示』と『イエス・キリストからの啓示』という二つの種類の啓示が、いかに関連するかということである。……イエス・キリストにある第二の啓示の光の中でこそ、天地万物のなかに示される第一の啓示を明白に見ることができる。」(『二十世紀神学の形成者たち』笠井恵二著、新教出版社、157-158頁)

 

このように、ブルンナーは「二つの啓示」によって「正しい自然神学に立ち返れ」(『自然と恩寵』、175頁)と言うのである。しかし、彼は、誰もが自然の中に真の神を認識できると言っているのではない。

自然が常に啓示していても、唯物論者は神を認識しない。「キリストの啓示」(イエスと聖霊)も彼らの哲学である唯物弁証法で否定し、天地万物から神を排除する。これが神の心の痛みである。

しかし、共産主義(「マルクス―レーニン主義」)を批判・克服した再臨主(文鮮明師)の思想(統一原理と勝共理論と統一思想)によって、彼らも神を認識するようになるというのである。

 

以上のように、ブルンナーは「二種類の啓示」から、正しい神認識が可能であると言っているのである。

バルトは、キリストを抜きにしても〝自然を通して神を認識し得る〟という自然神学を、怒りをもって否定するが、ブルンナーの「二種類の啓示」は、自然を通しておぼろげに神を認識するが、キリストを抜きにして〝完全な神〟を〝完全に認識できる〟と言っているのではない。

バルトは、ブルンナーの主張をよく理解しないで批判しているようである。

 

ただし、今までの神学はすべて、バルト神学もそうであるが、真理の一部分であって、完全な真理ではない(コリントⅠ、13・9)。

したがって、先に述べたごとく、誰も完全な神認識に到っていないと言えるのである。

 

また、バルトは認めないが、異教徒に対しても、神は自然を通してご自身を啓示しておられるのである。そのことに関して、聖書は次のように述べている。

 

「神は過ぎ去った時代には、すべての国々の人が、それぞれの道を行くままにしておかれたが、それでも、ご自分のことをあかししないでおられたわけではない。すなわち、あなたがたのために天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たすなど、いろいろのめぐみをお与えになっているのである。」(使徒行伝、14・16-17)

 

しかし、バルトは「聖書のみ」、「キリストの啓示のみ」を主張して、ブルンナーの言う自然を通しての「いろいろのめぐみ」を否定する。

だが、上述のごとく、聖書は自然を通して「いろいろのめぐみ」を人間に与え、またキリストを受け入れる準備として異邦人(キリスト教以外の他宗教)にも啓示されていると述べている。

 

それでは、次にブルンナーの言う「いろいろのめぐみ」について論述する。

 

ブルンナー「出会いの神学」(1)

エミール・ブルンナー(Emil Brunner,1889-1966)は、スイス出身のプロテスタント改革派の神学者で、カール・バルトらと共に弁証法神学運動の草創期を担った新正統主義の神学者である。彼は1942年にチューリヒ大学総長の重責を担った。

 

ブルンナーは、神が人間と直面するとき、危機が生ずると主張する。なぜなら、神が人間と対決する時、人間の将来は二者択一の緊張関係になるからである。すなわち、人間は神に対して「(いな)」と言うか、「(しか)り」と言うか、それ以外にない。前者は「死」を意味し、後者は「新しい人」となる。ここに彼の神学が「出会いの神学」あるいは「危機神学」と言われるゆえんがある。

 

 

「主観と客観の超克」

 

ブルンナーは、神との出会いを「われ―それ」(I-it)、「われ―なんじ」(I-thou)という関係概念を用いて説明する。「われ―それ」の認識は、自己の外にあるものとしての客体の客観的知識である。「われ―なんじ」は、他者はもはや「それ」とか「あるもの」ではなくなり、われわれにとって「なんじ」となる人格的な関係である。

この「われ―なんじ」という関係は客観的関係ではなく、二つの関係が相対的関係となり、この関係によって血の通った両者の交わりが回復される。その関係は、もはや単なる傍観(ぼうかん)者にとどまることはできない関係である。(『現代キリスト教神学入門』W・E・ホーダーン著、日本基督教団出版局、178-182頁を参照)

 

ブルンナーは、この「われ―なんじ」という人格的な関係を媒介とすることによって〝神との出会い〟が可能となると言うのである。

 

笠井恵二氏は、「神との出会い」について次のように説明している。

 

「神学者は、客観-主観の対立の彼方にあるもの、すなわち自己を啓示する神と、この啓示によって自己を開放された人間との出会いを叙述しなければならない。だから彼が対象とすべきものは、客観-主観の相関概念によって把握しうることの彼岸にある。さらに神学者は、その対象を単なる学問的な方法では認識しえない。彼は自ら信仰者となることなしには、つまり彼自身が客観-主観の対立から抜け出て、言葉における神に出会うことなしには、自己の対象を認識しえないのである」(『二十世紀神学の形成者たち』笠井恵二著、新教出版社、153-154頁)

 

以上のように、ブルンナーの「われ―なんじ」という「出会いの神学」は哲学的に神を説く方法を提供したといわれている。

 

従来から〝神認識〟に関して、カトリックの客観主義とプロテスタントの主観主義の対立があった。客観主義は、神についての無謬(むびゅう)の真理を把握できるというが、主観主義は、それは大きな間違いであるという。

主観主義は、神は客観的に把握できないといい、内的な経験や信仰を重要なものと考える。しかし、主観主義は自己の主観的な力を絶対化し、互いに相容れず教会を分裂させてしまう。

 

ブルンナーは、神認識はこのような客観主義か主観主義かという二者択一ではなく、「主観と客観の超克(ちょうこく)である」というのである。これがブルンナーの主観と客観を統一した「出会いの神学」の根本原理なのである。

 

ところで主観的とか客観的とは、神学的に双方にどのような思考の相違があるのかということに関して、少々述べておかねばならない。

 

ウィリアム・E・ホーダーンは、客観的な思考と主観的な思考の違いについて、次のように述べている。

 

「客観的な思考は、限界をもち、対象によってためされる。客観的な思考のできる人は、自分の好みとか願いとかにかかわりなく、むしろ事実をして事実を立証させることができる。神学や哲学はこの客観的思考というものを、非常に高く評価する。これに対して主観的な思考は、どうしても自己の感情というものが、思考の中にもはいりこみ、客観的な事実を無視してしまう。哲学の歴史をひもとくとき、客観的、主観的思考の相対的評価をめぐっての論議や、主観的要素が対象を知覚する際にどのような影像(えいぞう)を与えるかの論議を、数多く見いだす。」(『現代キリスト教神学入門』W・E・ホーダーン、日本基督教団出版局、179頁)

 

客観的な思考の限界とは、カントが指摘するように、自由な理性は感覚的、経験的に認識し得る対象を越えて、神や不死の問題をあれこれと推論する傾向性がある。それは往々にして既存の形而上学(けいじじょうがく)にみられるように、観念的な妄想(もうそう)となり、独断論となりがちになる。

それでカントは、理性は感覚的に感知しうる対象を越えないこと、すなわち理性の有限性(限界性)を主張したのである。

 

主観主義とは、人間の内的な体験や、信仰を重要なことと考えるのである。自分自身の内面をしっかりと見つめること、そこにおいて、客観的には観察することのできない「活ける真理」を発見することができると、人々に呼びかけているというのである。

しかし、主観主義が力を持つと、自己のみを絶対化し、互いにあいいれず、それゆえに分裂すると指摘されている。

 

ブルンナーによると、この客観的か主観的かという二者択一ではなく、主体(われ)と客体(それ)関係を超克することを説く。すなわち、超克とは「われ―なんじ」という「人格関係」のことであって、神はその人間との「人格関係」(言葉における神との出会い)の中にはいるということを強調するというのである(神認識、神の心情を体恤(たいじゅつ))。

 

この「われ―なんじ」という人格的関係の分析は、神学界におけるブルンナーの不滅の功績だといわれている。

 

しかし、ブルンナーの神と人との関係は、個人としての人格的関係に止まっている。さらに高い次元として、アダム(男性)とエバ(女性)が関係存在として、二人で一つとなって神と交流する愛の段階(家庭的四位基台)まで論じなければ、完全な神の愛を説くことにはならない。

そもそも伝統的神学には神概念(父なる神)に女性の性相がないのである。それは、再臨のメシヤによらなければ知り得ない「神の知」の段階であるので致し方ないと言えるが。

 

 

(二)「自然神学論争」

エミール・ブルンナーといえば、バルトと「自然神学論争」をしたことで有名であり、彼は『自然と恩寵』(1934年)の中で、バルトが自然神学を拒否するのは、「彼の偏った啓示概念にある」と指摘し、神は聖書を通して人間に語りかけるが、自然のはたらきを通しても語りかけるという面が否定されるべきでないと主張した。

 

これに対して、バルトは、すぐさま『ナイン!―― エーミル・ブルンナーに対する答え』を書いて応酬(おうしゅう)した。バルトは、神認識は「理性による哲学」などによるのではなく、旧約聖書と新約聖書における「キリストの啓示」以外にないと言い、「自然神学は、アンチ・クリスト」、「自然神学はただ病と死とを意味する」、「福音主義と自然神学とを結びつけることは決してできない」と痛烈に批判した。

 

 

(A)「ブルンナーの主張」

 

(1)「バルトの結論」

 

ブルンナーによると、バルトの結論とは「恩寵(おんちょう)のみ」、「聖書のみ」であって、キリストを対象としない一切のものを排斥(はいせき)するというのである。

 

ブルンナーは、バルトの主張を次のようにまとめている。

 

「人間は、恵みを通してのみ救われうる罪人であるがゆえに、神によって創造されて人間に賦与(ふよ)された神の似姿は、完全に、すなわちあとかたもなく消え去ってしまった。特に理性という性質や文化能力や人間性は、もちろん人間に対して否定することはできないが、そういうものはこの失われた神の似姿の痕跡(こんせき)、あるいは残存(ざんぞん)を全然含んでいない。」(『カール・バルト著作集2教義学論文集〔中〕』収録、ブルンナー著『自然と恩寵』、新教出版社、141頁)

 

また「聖書の啓示」を解釈するバルトの〝キリスト中心主義〟について、彼は次のように述べている。

 

「われわれは、聖書の啓示を、われわれの神認識の唯一の源泉として承認するがゆえに、自然の中に、良心の中に、歴史の中に、神の一般的啓示を認めようとするすべての試みは断乎(だんこ)として拒否されるべきである。二種類の啓示、すなわち一般的啓示と特殊的啓示とを承認することは意味がない。ただ一つの啓示だけ、詳しく言えば、完全なキリストの啓示しかない。」(『自然と恩寵』141頁)

 

このように、バルトはキリストの啓示以外の啓示を認めないというのである。

 

その他、ブルンナーによると、バルトは「ブルンナーの言うような『創造の恵み』、『保持(ほじ)の恵み』などは存在しない」といい、また、バルトは「天地万物の中から引き出してきた自然法などは異教の思想としてキリスト教神学の中に導入され得るものである」と主張しているというのである。

 

このように、バルト神学とは、一口に言えば、「恩寵のみ」、「聖書のみ」というキリスト中心主義(キリスト論的集中)なのである。

したがって、バルト著『ナイン!―― エーミル・ブルンナーに対する答え』とは、バルトの〝キリスト中心主義〟の立場、すなわち彼の聖書解釈の立場から見た〝自然神学に対する批判書〟なのである。

 

それでは、次に、ブルンナーの〝バルト批判〟をさらに詳細に検討してみることにしよう。