Archive for 5月, 2014

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(35)

(4)「ティリッヒの永遠の生命の問題点」

 

原理的に見て、「肉のからだ」は永生しない。永生するのは「霊のからだ」である。「肉のからだ」と「霊のからだ」は相違する。しかし、彼は「からだの復活」という表現で、肉体で復活し、肉体で永生するという従来の主張を説いているのである。

 

統一原理は、永遠の生命について、肉体の生死の概念以外に、聖書の生死の概念を説いている(『原理講論』、復活208-215頁)。

神との愛の関係にある人、神の愛の圏内にいる人を生きている人といい、肉体が生きていても、神との愛の関係が断絶している人、神の愛の圏外にいる人、サタンの主管圏内に留まっている人を「死んだ人」(同、209頁)というのである。

イエス様も「死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」(ルカ9・60)と言われた。このように、まだ生きている人を指して死人と言われたのである。

 

再臨のメシヤの教えに従って、神の愛の内にある人は、地上においても、霊界においても、神の愛の圏内にあるので「永遠の生命」を得ているといい、反対に再臨主の教えに反して、神の愛の圏外にいる人は、「永遠の死」の中にいるので死んだ人というのである。

したがって、永遠の生命とは肉体で永生することではない。復活の体という不死の体に変えられることでもないのである。

イエスは、「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」(ヨハネ5・24)と述べておられる。

 

復活とは「堕落による死」から「永遠の生命」に向かって「完全な者」(マタイ5・48)となるために、日々復活することである。

 

統一原理は、復活について次のように簡潔・明瞭に述べている。

 

「復活は人間が堕落によってもたらされた死、すなわちサタンの主管圏内に堕ちた立場から、復帰摂理によって神の直接主管圏内に復帰されていく、その過程的な現象を意味するのである。したがって、罪を悔い改めて、昨日の自分よりきょうの自分が少しでも善に変わるとすれば、我々はそれだけ復活したことになる」(『原理講論』復活の意義、213頁)と。

 

また、「天国」や「地獄」は字義(じぎ)的解釈と(ぐう)()的解釈の両方があるが、神の真の愛のあるところが天国であり、神の真の愛のないところが地獄であると述べている。そして現代が「終末」であり、「終末」とは、この世が天変地異によって崩壊することではない。「この世」(天地)の支配権が、サタンから神に移行することを言うのである。終末の火による審判とは、舌は火であると言われるごとく、舌すなわち御言の審判を意味すると説いている。

 

 

 

このように「天国」とは、神の真の愛を中心とした再臨のメシヤ(真の父母様の真の家庭)と成約聖徒(勝利した祝福家庭)の集っている聖なる場所をいい、天においても、地においても、「天国」はすでに成就しつつあるのである。以上

 

 

「原理的批評」 

 

(1) ティリッヒの「弁証神学」は、キリスト教の「使信(ししん)」と「状況」との関係を重視する「相関の方法」である。この「相関の方法」を哲学的人間学であると批判する人に対して、ティリッヒは彼等とて神学を語る時、哲学的人間学的用語を使用せざるをえないと反論する。

 

(2) ティリッヒは、理性が「曖昧(あいまい)」であるという判断は、「技術的理性」関するものでもなく、また存在自体と一致した「存在論的理性」に関するものでもない。理性は曖昧であるという判断は、実存の諸制約下における理性に関するものであるという。「理性」という言葉は、ときには好都合な、しかし多くは軽視すべき不都合な漠然(ばくぜん)たる意味で用いられている。したがって「理性」という言葉の意味を定義する必要性があるというのである。

 

ティリッヒは、啓示と人間状況に関しても相関関係として捉える。したがって、もし主観の側が、ある出来事を啓示と受けとらなければ、ただの偶然の出来事にすぎないことになり、何も啓示されない。また、主観の側が啓示と受けとったとしても、相関関係外の人にとっては、それらの出来事は啓示として信じることが出来ないし、無関係なことと受けとられるという。

啓示の中の終極啓示はキリストである。キリストは「あらゆる啓示の基準」であるという。すなわち、「あらゆる宗教と文化の基準」であり、「すべての人間集団の社会的存在」や「個人の人格的基準」にも妥当し、さらに「宇宙に対しても意味をもつ」というのである。

 

(3) バルトは、神認識は信仰からというが、ティリッヒは神を存在論的に捉える。彼は究極者(神)を「存在自体」と言い、「存在の力」「万物の中に在る存在せしめる力」「万物を目的に導く力」であるという。神を他の諸存在と同一水準に置くことにならない神観とは、ティリッヒによると神を「存在としての神」(「存在自体」と「存在の力」)として捉えることであるというのである。この存在論的神観は、統一原理の存在論的神観と一致する。

 

ティリッヒは、神を存在自体と定義すると、哲学的な存在概念が神学に導入されるという。このことは、キリスト教神学の初期においてなされていたし、キリスト教思想史全体においてもなされて来たというのである。ティリッヒの哲学的な存在概念は、神論、人間論、キリスト論の三つの個所で現われる。この三つの個所が、ティリッヒの『組織神学』体系の中心なのである。

 

(4) ティリッヒは罪を実存主義哲学で論述する。彼は、世界内存在としての人間は、実存的諸制約のもとで、「存在の根拠」より疎外(そがい)され、自己の本質を喪失していると見る。したがって、人間は自己と世界の「存在の根拠」と「意味」を問わざるを得ず、すべての実在を在らしめ、根拠づけている「存在自体」、すなわち「究極者」に関心を寄せざるを得ないというのである。

そして、原罪説の文字通りの解釈は、ティリッヒによると「多くの直解的主義的不条理を負わせているから、実際的にはもはや使用不可能である」(『組織神学』第2巻、58頁)というのである。

 

確かに、「文字通りの解釈」は不条理でキリスト教に著しい害を与えた。しかし、今まで誰も解きえないからと言って、原罪説を使用不可能と言って廃棄(はいき)することではない。この不可解な神話の謎を解く人こそ、再臨のメシヤであるといえるであろう。また、ティリッヒは、アダムは自由意志によって堕落したというが、この既存神学と同様の見解には問題がある。

 

(5) 「キリスト論」について、ティリッヒが次のように述べていることに注視しなければならない。

「イエス形象は半神的イエス形象ではない。むしろそれは神が独特の仕方でそこに顕現している一人間の形象である。……プロテスタント神学の正統主義的方法も自由主義的方法も共に、プロテスタント教会が現代果たさなければならないキリスト論的課題に不適切である」(『組織神学』第2巻、186頁)と。

プロテスタント神学は、「キリスト論的課題に不適切である」、「神学は哲学的概念を排除してはならない」、「神学は、教会的伝統から与えられた概念的手段よりも、いっそう適切ないかなる手段を用いても、キリスト論的実質を表現する『新しい形式』を見出さなければならない」というティリッヒの忌憚(きたん)のない率直な言葉は、統一原理のキリスト論を証しする一種の啓示であるといえよう。特に、三位一体論における女性的要素の欠如に関する彼の指摘は、現代キリスト教神学の最も重要な課題なのである。

 

(6) ティリッヒは、無機物と有機物、そして人類の歴史を「生の過程」として捉え、弁証法的に記述する。その生の次元の現象学的記述は、無神論的進化論に対する批判が含蓄(がんちく)されている。また、歴史のリズム、歴史の動態における召命意識による時代区分は、唯物史観の歴史区分に対する批判がある。

生の自己統合、自己創造、自己超越に関する教説には、問題がないわけではないが、ヘーゲル弁証法の影響を受けている。

 

(7) 聖霊論と神の国について―――ティリッヒは、生の問いと聖霊の答えを相関関係として捉える。

神の霊の業である教会や共同体(ユダヤ教やその他)は神の国の基盤であるという。神の霊は、曖昧(あいまい)な生の中から曖昧ならざる脱自(だつじ)の状態に人間を引き上げる。しかし、魔神(ましん)憑依(ひょうい)に替わるとキリストを否定し、霊的共同体を分裂させるという。したがって、ティリッヒも統一原理も、聖霊の恵みを受けた人は「善神の業」と「悪神の業」の見分け方を知らなければならないと警告している。

ティリッヒは「歴史」の諸問題も「神の国」との相関関係として捉えている。すなわち、歴史に目標があり、それは内在的で、超越的な「神の国」と「永遠の生命」であるというのである。このように、生は実存の否定の運動によって、究極的に新しいもの、超越的なものに向かって進み、「永遠の生命」に至るというのである。

 

以上のように、ティリッヒの『組織神学』は、バルトのキリスト中心主義やブルトマンの「非神話化」(実存論的解釈学)と同様に、人類に統一原理を受容させるための天的使命を持った〝洗礼ヨハネ的神学〟であるといえるであろう。

 

 

「主要参考資料」

 

「ティリッヒ著『組織神学』第1巻」、谷口美智雄訳、新教出版社

「ティリッヒ著『組織神学』第2巻」、谷口美智雄訳、新教出版社

「ティリッヒ著『組織神学』第3巻」、土屋真俊訳、新教出版社

「ティリッヒの『組織神学』研究」、藤倉恒雄著、新教出版社

『キリスト論要綱』、W・パネンベルク著、麻生信吾・池永倫明訳、新教出版社

『キリスト論論争史』、水垣渉・小高毅 編、日本基督教団出版局

『ティリッヒ』大島末男著、清水書院

『信仰の本質と動態』、ティリッヒ著、谷口美智雄訳、新教出版社

『聖霊は女性ではないのか』E・モルトマン=ヴェンデル編、新教出版社

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(34)

(六)「歴史の目標としての神の国」

 

(1)「歴史の目標または永遠の生命」

 

ティリッヒの哲学と神学の相関論は、どの編も難解である。「歴史の目標」(終末論)と「永遠の生命」(神の国)についても例外ではない。

ティリッヒは、終末論のシンボルである〝天変地異〟や〝火の審判〟や〝空中で主に会う(空中掲挙(くうちゅうけいきょ))〟などに関して、彼特有の哲学的表現でそれらを「()神話(しんわ)化」(実存的に解釈)している。

この難解な文章は、統一原理の終末論と対比しながら見れば、理解することができるであろう。

 

(2)「『歴史の目標』と終末」

 

ティリッヒは、終末について次のように述べている。

 

「宇宙の発展の或る時、人類歴史、地上の生命、地そのもの、それに属する宇宙の段階は終わりに到達し、時間と空間に存在をもたなくなるであろう。この出来事は宇宙的時間の過程における小さな出来事である。しかし、endはまた目標をも意味する。」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、496頁)

 

このように、歴史のendは、また目標をも意味するという。そして「歴史のテロスの意味における歴史の終わりは『永遠の生命』(eternal life)である」(同、497頁)というのである。

 

彼は、「『歴史の終わり』(end of history)の教説に対する古典的な言葉は『終末論』である。ギリシア語の「エスカトス」(eschatos)は、英語のendのように、時間-空間的意味と質的-評価的意味とを結合している。それは時間と空間における最後のもの、最も遠いもの、最も高いもの、最も完全なもの、最も崇高(すうこう)なものを指すが、時にはまた価値において最も低いもの、極端に否定的なものをも指す」(同、497頁)と弁証法的に述べている。

 

善(積極的なもの)と悪(積極的でないもの)に対する最後の審判、すなわち、その日に起こるすべての出来事は、「最後の事ども」(the last things-ta eschata)と呼ばれる。

「焼き尽す火」(burning fire)は、「積極的であるようによそおって、実はそうでないものを焼きつくすのである。積極的なものは何も焼かれない。いかなる裁きの火も、神の怒りの火さえも、それはできない。なぜなら、神は自己を否定できないし、すべての積極的なものは存在そのものの表現だからである。……存在するものは何も究極的に無化(むか)され得ない」(同、502頁)と述べている。

 

〝最後の審判〟についての原理的見解は、聖書に「舌は火である」(ヤコブ、3・6)とある。したがって、火は舌の審判、すなわち御言(みことば)の審判であり、御言で悪を審判すると解釈している。

イエス様も、「わたしの語ったその言葉が、終わりの日にその人をさばくであろう」(ヨハネ、12・48)と語っておられる。

 

終末に関する多くの出来事の神学的意味について、ティリッヒは次のように実存的に解釈している。

 

「終末論の神学的問題は起こるであろう多くのことからなっているのではなく、一つの『こと』(thing)とは言っても『事』ではなく、時間的なものの永遠的なものへの関係からなっているのである。もっと詳しく言えば、時間的なものから永遠的なものへの『推移(すいい)』を象徴するものであり、それは創造の教義における永遠なものから時間的なものへの推移、堕落の教義における本質から実存への推移、救いの教義における実存から本質への推移に似た隠喩(いんゆ)である。」(同、497頁)

 

このように、「終末論的問題はeschataからeschatonへのこの還元(かんげん)によって、直接的な実存的意義を与えられる」(同、498頁)というのである。

つまり、終末の多くの出来事は文字通りに起こる出来事ではなく、時間的なものの永遠的なものへの『推移』を象徴しているというのである。

 

すなわち、創造の教義における永遠なるものから時間的なものへの推移、堕落の教義における本質から実存への推移や救いの教義における実存から本質への推移に似た〝隠喩〟であるというのである。

ティリッヒは、終末はいつ来るのか、という問いに対して、次のように答えている。

 

「過去と未来は現在において出会う。そして両者は永遠の『今』(now)に含まれている」(同、498頁)。

「エスカトーンは、その未来的次元を失わずして、現在的経験の問題となるのである。われわれは今永遠に面して立っている。しかもわれわれは前方に向かって歴史の終りを見ている。すべての時間的なものの終りを永遠において見ている」(同)というのである。

 

 

このように、ティリッヒは終末の出来事について、象徴であるとか、隠喩であることを強調し、実存から本質へ推移するごとく、歴史の「目標」は「神の国」と「永遠の生命」(eternal life)であるというのである。

(3)「個々の人格とその永遠の生命」

 

ティリッヒは、「永遠の生命に対する個人の参与に対して、キリスト教は『不死』(immortality)と『復活』(resurrection)の二つの言葉(永遠の生命それ自身のほかに)を用いる。二つのうち『復活』(resurrection)のみが聖書的である。

しかし、『不死』(immortality)はプラトンの霊魂(れいこん)不滅(ふめつ)の教説の意味において、キリスト教神学の中で、非常に早くから用いられた」(同、515頁)という。

 

彼は、「永遠への参与は『死後の生命』(life hereafter)ではない」(同、516頁)という。なぜなら、永遠への参与は「死後における時間的生命の継続を意味するものではな(い)」(同)からであるというのである。

 

確かに、原理的に見ても、人間は死後、霊界で〝霊人体〟(霊のからだ)で永生するが、再臨のメシヤによって祝福されていない人は、ティリッヒが意味する永遠の生命に参与していない。

 

それでは、「永遠の生命」について、彼はどのように説いているのであろうか。

「霊魂不滅」(immortality of the soul)については、「それはキリスト教の霊の概念に矛盾する。霊は存在のあらゆる次元を包含(ほうがん)し、『肉体の復活』(resurrection of the body)というシンボルと両立しない」(同、516頁)という。なぜなら、「霊魂不滅」は、肉体でもって永遠に生きるというキリスト教の教説と矛盾するからである。

 

一方で、彼は、アリストテレスは形相(けいそう)質料(しつりょう)という存在論の中で「霊は生の過程の形相である」(同、516頁)とするが、この説で理解可能となるのではないかという。

しかし、なお問題が残るという。それでティリッヒは、「死後における人間の永遠の生命への参与は、高度に象徴的な熟語『からだの復活』(resurrection of the body)によってより適当に表現される」(同、518頁。注:太字は筆者による)というのである。

 

「肉体の復活」だと肉体で永生するという教説を信じなければならないのかという疑念が生じる。したがって、ティリッヒは「からだの復活」と言い換える。

そして、この「からだの復活」は、パウロ的シンボルである「霊のからだ」(Spiritual body)と解釈する方が好ましいというのである。

 

神の霊と復活の体について、彼は次のように述べている。

 

「パウロは肉と血とは神の国を()ぐ(inherit)ことはできないと主張する。そして、この『物質主義的』(materialistic)な危険に対して、復活のからだを『霊的』(Spiritual)と呼ぶ。霊、これはパウロ神学の中心概念であるが、人間の精神に現臨し、それに侵入し、それを変容し、それ自身を越えて高める神である。そこで霊のからだは霊的に変革された人間の全人格を表現するからだである。」(同、519頁。注:太字は筆者による)

 

このように、「肉体の復活」を「復活のからだ」と言い換え、この「復活のからだ」を「霊的」(Spiritual)と呼ぶと言い、『肉体の復活』と聖書の「霊のからだ」(コリントⅠ、15・44)をたくみな表現力で一致させる。さらに、「神の霊」(聖霊)との関係で「霊のからだ」(Spiritual body)は霊的に変革されると説明を加えている。

 

このように、肉体で永遠に生きるというキリスト教の教説に疑念を持たれないように、あれこれ叡智(えいち)(しぼ)って説いていくのである。

そして、彼は、キリスト教が「復活のからだ」を強調することは、「個々の人格の独自性の永遠の重要性に対する強い肯定を含蓄(がんちく)している」(同、520頁)と、その意義を述べている。

 

また、「天国」(heaven)や「地獄」(hell)は、「シンボルであって、場所の記述ではない」(同、526頁)と実存論的に解釈している。

 

以上のように、ティリッヒの神学は、現在の最高の実存論的解釈であると言われる所以(ゆえん)が、ここにあるのである。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(33)

(C)「歴史解釈と神の国の探求」

 

(1)「歴史解釈の本質と問題」

 

歴史の意味についての問いに対する答えは、いかにして可能であろうか。

 

ティリッヒは、歴史的行動に対する召命意識のみが、歴史の解釈に基礎を与えるといい、その召命意識は歴史解釈への鍵であると次のように述べている。

 

「鍵を決定し、歴史解釈の道を開示するものは、前に述べた召命意識である。たとえば、アリストテレスの『政治学』(Politics)に示されたような、ギリシア人の召命の自己解釈は、ギリシア人と未開人との対照の中に、歴史解釈の鍵を見出し、ユダヤ人の召命についての自己解釈は、預言文学に示されているように、ヤㇵウェによる世界の国々の支配の確立の中に、そのような鍵を見た。」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、440頁)

 

ここで問題なのは、いかなるグループが、またいかなる召命意識が、全体としての歴史への鍵を与えるのかという問題である。

 

ティリッヒによると、「鍵と答えとが発見されるのはキリスト教である。キリスト教の召命意識においては、歴史は歴史的次元の下における生の曖昧(あいまい)性の中に含蓄(がんちく)された諸問題は、『神の国』(Kingdom of God)のシンボルによって答えられるような仕方で把握されている」(同、440-441頁)というのである。

 

「歴史の解釈は歴史の問題に対して、一つ以上の答えを含蓄している。歴史は生のすべてを包括する次元なるがゆえに、歴史的時間はそこにおいて、すべての時間の他の次元が前提されている時間なるがゆえに、歴史の意味についての答えには、存在の普遍的意味に対する答えが含まれている。歴史的次元は、ただの従属的次元としてではあっても、生のすべての領域に存在する。人間の歴史において、それは本来の歴史となる。しかし、それが本来の歴史となった後も、それは、それ自身の中に、他の次元の曖昧性や問題を抱え込む。神の国のシンボルについて言えば、それは『国』(Kingdom)がすべての領域の生を包み込む、またはすべて存在するものは、歴史の内的目的、すなわち成就または究極的昇華へ向かっての前進に参与することを意味する。」(同、441頁。注:太字は筆者による)

 

このように、歴史の意味について、その答えである「神の国」のシンボルは、「すべての生の領域」を包み込むと断定しているのである。

しかし、これは一つの解釈を含んでいる。そこで問題なのは、歴史の内的目的についての特殊な理解は、いかにして記述され、正当化され得るかという問題である。

 

ティリッヒは、「人類の救済の理念」が正当化の根拠となるというのである。

 

(2)「歴史の意味の問題への答えとしての『神の国』のシンボル」

 

 a. 「『神の国』のシンボルの特質」

 

歴史の目的と意味とは、救済史(再創造史)であり、霊的現臨とキリストによる「神の国」の創建である。ティリッヒは、これまで論述した結論を次のように述べている。

 

「生の曖昧性の3つのシンボルについての章において、われわれは『神の国』のシンボルの『霊的現臨』(spiritual presence)および『永遠の生命』のシンボルに対する関係について論述した。われわれが発見したことは、それらの一つ一つは他の二つを含んではいるが、象徴資料の相違のゆえに、霊的現臨を人間精神とそれの諸機能の曖昧性に対する答えとし、神の国を歴史の曖昧性に対する答え、そして『永遠の生命』を生一般の曖昧性に対する答えとすることが正当であるということであった。」(同、449頁。注:太字は筆者による)

 

このように、霊的現臨の啓示である「神の国」と「永遠の生命」という人類救済の理念が、歴史の意味の正当化の根拠であるというのである。

 

この神の国のシンボルの特徴は、政治的、社会的、人格主義的であり、普遍性であるという。ただし、それは「人間のみの王国であるのみではなく、すべての次元における生の成就を含蓄している」(同、451頁)というのである。

 

ティリッヒは、「パウロはこれを『神はすべてにおいてすべてである』(God being all in all)というシンボルで表現し、また歴史の動態が終結した時は『キリストは歴史の支配を神に帰する』(the Christ surrendering the rule over history to God)と言う」(同、451頁)と述べている。

 

「真の父母様」(文鮮明師夫妻)は、摂理を「完成・完結・完了した」といわれ、「すべてを成した」と公言された(2012年天暦8月8日〈陽暦9月23日〉、真のお父様が聖和されてから21日目の早朝の真のお母様の御言(みことば))。

そして、「既に神の直接主管圏時代に進入している」と宣言された。(天一国経典『天聖経』、「平和メッセージ」〈天地人真の父母定着実体み(ことば)宣布天宙大会〉、1451頁)

 

上述のごとく、 「歴史の動態が終結した時は『キリストは歴史の支配を神に帰する』」とあるように、人間始祖の堕落によって始まった罪悪歴史の縦的なすべての蕩減条件を、真の父母様が一時に、横的に蕩減復帰され、天宙の支配を神に帰されたので、「既に神の直接主管圏時代に進入している」というのである。

 

(五)「歴史の中なる神の国」

 

(1)「救済史の理念」

 

ナザレのイエスはキリストであり、歴史における〝新しき存在〟の究極的顕示である。

われわれは霊的現臨とそれの顕示とを、それらの歴史の動態への参加の観点からみなければならない。これは救済史の啓示史に対する関係の問題である。啓示のあるところに救いがある。救いのあるところに啓示がある。

ティリッヒは、歴史の救済史に対する関係の問題は、しばしば進歩主義的歴史観に結びついているという。

 

(2)「歴史における神の国の中心的顕現」

 

歴史における神の国の顕現が、如何なるリズムを取るにせよ、キリスト教はキリストとしてのイエスの顕現を「歴史の中心」と考える。

歴史は、未熟から成熟への運動である。人類は、そこで歴史の中心が現われ、中心として受け入れられる点まで、成熟しなければならなかった(同、459頁参照)。

言うまでもなく、歴史における神の国の顕現の普遍的中心は、キリストに基づいている。

 

(3)「カイロス」

 

神の国の中心的顕示の突入を受容することができる点まで成就した瞬間を、新約聖書は「時間の成熟」(fulfilment of time)、ギリシア語の「カイロス」と呼んだ。

 

「バプテスマのヨハネによっても、イエスによっても、彼らが『近づいている』(at hand)神の国について、時の充満を宣言される時に用いられた。パウロは、神がみ子を遣わされるであろう世界史的な瞬間について語るとき、カイロスを用いた。」(同、465頁)

 

周知のように、カイロスの経験は、教会の歴史においてしばしば起こった。

 

(4)「歴史的摂理」

 

ティリッヒは、「摂理は決定論的な仕方で理解されてはならない。すなわち、神の構想が『世の創造の前』(before the creation of the world)に決定されて、今その過程を走りつつあるが、いつかは神が奇跡的に干渉したもうであろうという意味においてである。

このような超自然主義的機械論ではなくて、われわれは神と世界との関係に対して自由と運命との根本的・存在論的両極性を適用し、神の志向的創造性は被造物の自発性と人間の自由とを通して働く」(同、468頁)と主張する。

 

 

また、彼は、多くの人が「歴史的摂理の具体的構図を描こうと試みた」が、「誰もヘーゲルほどに豊かで具体的ではなかった」(同、470頁)という。

ティリッヒは、「シュペングラーの発生と没落の法則、トインビーの一般的範疇(はんちゅう)、すなわち、『退潮』(withdrawal)と『帰還』(return)、『挑戦』(challenge)と『応問』(response)の場合に例示されているように、歴史の動態におけるある種の法則性に自己を抑制する。このような試みは具体的運動に対する、貴重な洞察を与える。しかし、それらは歴史的摂理の構図を提供しない」(同、470頁)という。

 

上述のティリッヒの見解に対する原理的批評を述べておかなければならない。

ティリッヒのいう「歴史的摂理の構図」とは、統一原理の復帰原理のこととわれわれは理解する。ただし、誰も歴史における「摂理的同時性」に関しては解明できないというのである。

蕩減(とうげん)」あるいは「蕩減復帰」という言葉がわからなければ、旧約時代と新約時代の「歴史的摂理の構図」(歴史の同時性)に関しては、想起することすらできないであろうというのである。

 

彼は上述のように、神の摂理は「人間の自由と運命を通して働く」と主張してはいるが、この教説は、従来からある「自由と必然」の関係を「自由と運命」と言い換えただけのことであり、神の摂理と人間の責任分担に関しては不明瞭である。

 

また、必然とは、神の予定の絶対性を意味しているのである。つまり、人間は自由であるが、その自由は必然的な運命の中での自由であり、結局、絶対的な神の予定通りになるというのである。

 

このように、ティリッヒの教説は機械論的決定論ではないが、「自由と運命」の相関論によって、歴史の前進は究極性へと向かい、「神の国」は必然的に成就するというのである。

 

しかし、今まで終末は何度もあり、神の摂理は何度も延長されてきた。

先に述べたが、「自由と運命」は機械論的決定論ではない。しかし、神の予定は絶対であるとする。イエスが「時は満ちた、神の国は近づいた。」(マルコ、1・15)と宣言されても、神の国が顕現しなければ、まだ終末ではなかったとされるのである。

また、来臨の時は奇跡的に突然顕現するのであるから、その時と場所については知る必要性はないのである。

 

統一原理から見れば、現在が聖書でいう「時間の成熟」した時であり、終末であることを知ることができる。しかし、統一原理を知らないキリスト者は、「終末の時」がいつかに関してはわからないのである。

しかしながら、キリスト者は、神の国は超自然的な力の干渉によって実現されると信じているのであるから、その時を知る必要性はないのである。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(32)

 b. 「歴史と生の過程」

 

歴史は、停滞と悲劇的な破壊があるにもかかわらず、なぜ前進するのであろうか。

ティリッヒは、歴史は絶えず新しいものに向かって、究極的に新しいものに向かって前進するという。この前進する力が「生」であり、この「生」の観点から、自己統合、自己創造、自己超越へと駆り立てられる衝動の本質を観察しなければないというのである。

 

「歴史の目標は今や生の三つの過程とそれらの統一の概念に従って次のように表現され得るであろう。生の自己統合の立場から言えば、歴史はすべての歴史を担うグループおよびその個々の構成員が、曖昧(あいまい)ならざる力と正義の調和のうちに、一つの中心に向かって進むことを意味する。生の自己創造の立場から言えば、歴史は新しい、曖昧ならざる事態に向かって進むのである。そして、生の自己超越の立場から言えば、歴史は存在の可能性の普遍的な、曖昧ならざる成就に向かって進む」(『組織神学』第3巻、419頁。注:太字は筆者による)

 

この三つの過程は後で詳論される。このように、生は究極的に新しいもの、超越的なものに向かって進むというのである。彼は、歴史も同じで、生の三つの過程は一つの過程、すなわち、一つの目標に向かう運動として〝統一的〟に捉えるのである。

 

そして、ティリッヒは、「生の過程」と「神の国」との関連性(相関的方法)について、特有な表現で、すなわち弁証法的否定で、中心性は新しいものへと前進し、「神の国」は生の曖昧性の分析から生じる「問い」に対する「答え」であると、次のように述べているのである。

 

「歴史は、生一般と同様に、実存の否定性の下に立っている。したがって生の曖昧性の下に立つのである。普遍的にして全体的な中心性、新しさ、成就への前進というのは一つの問題であって、歴史の続く限り問題にとどまるのである。歴史の大いなる曖昧性の中に含蓄(がんちく)されているこの問題は、常に感得され、神話や、宗教的・世俗的文学や芸術において、強力に表現されている。これらの問いは(相関的方法の意味において)宗教的(擬似(ぎじ)宗教的)歴史観および終末論的シンボルに関係づけられている。キリスト教神学の圏内においては、神の国はこの生の曖昧性の問いに対する答えである。」(同、419-420頁)

 

このように、歴史の諸問題が「神の国」との相関的方法において論述されるのである。すなわち、歴史に目標があり、それは「神の国」であるというのである。

このように、生は実存の否定の運動によって、究極的に新しいもの、超越的なものに向かって進んで行くというのである。

 

(B)「歴史的次元における生の曖昧性」

 

ティリッヒは、生の三つの過程を次のように具体的に論述する。

 

(1)「歴史的自己統合の曖昧性――帝国と中央集権」

 

歴史は、究極的目標に向かって前進する。ティリッヒは、「歴史的次元における生の自己統合における、普遍性、全体性に向かっての人間の努力は、『帝国』(empire)という言葉の中に表現されている」(同、428頁)という。

 

彼は、歴史の担い手である歴史的グループには「召命意識」があり、この要素がより強く、正当なものであればあるほど、そのグループの帝国建設への情熱は強くなり、それが全構成員の支持を得ることが多ければ多いほど、永続する可能性があるという。

このように、彼は生の自己統合の事例として「召命意識」と「帝国」の関係を次のように述べている。

 

「西方の歴史には、唯一ではないにしても、召命意識の最も偉大な例には次のようなものがある。ローマ帝国が法を代表するという言い分、ドイツ帝国がキリストのからだを代表するという言い分、大英帝国がキリスト教文明の代表であるという主張、ロシア帝国が機械化された文化に対して人間性の深さを代表しているという主張、アメリカ帝国が自由の原理を代表しているとの主張がある。そして、それに対応して、人類の東方地域にも、同様の例がある。……われわれの時代においては、二つの偉大な強国、すなわち、合衆国とロシアにおける、全体主義への傾向は、人類の最も深く、最も普遍的な分裂へと導いた。この事態が起こったのは単なる経済力ないしは政治力への意志によるのではなく、それらの強国が勃興(ぼっこう)し強力となったのは、自然的な自己肯定と結びついた召命意識によるのである」(同、429頁。注:太字は筆者による)と。

 

このようにティリッヒは、ロシアの共産主義革命は生産力と生産関係の〝矛盾〟によるのではなく、〝召命意識〟によるというのである。

そして、生の自己統合により、歴史は帝国建設へと進み、さらに人類を統一する前段階である二つの世界(合衆国とロシア)に分かれていったというのである。

 

すなわち、この段階は、ティリッヒ的弁証法の叙述によると、「人類の最も深く、最も普遍的な分裂へと導いた」(同、429頁)というのである。

そして、「この状況は世界史と呼ばれたものへの手がかりを与える」(同)と述べ、「それは人間の歴史的統合の新しい段階をなすものである。この意味において、われわれの世紀は新しいものを創造するという意味で、偉大な諸世紀の一つをなすものである」(同、430頁)と述べている。

つまり、その矛盾は、統一世界の前段階であるというのである。

 

しかし、彼の弁証法による両極性は、歴史的統合の新しい段階、すなわち、「歴史における最大の統合の瞬間は、最大の崩壊、根本的な破壊の危機をさえ意味していた」(同)といい、二つの相反する危機的傾向性を指摘することを忘れないのである。

 

また、ティリッヒは、「中心主義の曖昧性は歴史的統合の外延(がいえん)的側面に関連するのみならず、内包的側面にも関連する」(同、431頁)という。

それで、彼は「内包的中心性と外延的中心性との関係を見なければならない」というのである。そして、「外延的・帝国主義的傾向と内部的中央集権的傾向とは、曖昧ならざる歴史的統合において、克服され得るかという問題に導く」(同、432頁)と述べている。

 

このように、生の自己統合は一つの中心に向かって進むというのである。そして、彼の歴史に対する弁証法的考察は、次の「生の自己創造」へ進むのである。

(2)「歴史的自己創造の曖昧性――革命と反動」

 

ティリッヒは、歴史における生の自己創造について、次のように述べている。

 

「歴史におけるすべて新しいものは、それ自身において、それがそこから出てきた古きものの要素を保っている。ヘーゲルは、この事実を著名な言葉で表現した。すなわち、古いものは新しいものの中に、否定されると同時に保存されている(aufgehoben)。しかし、彼はこの成長の構造とそれの破壊の可能性との両義性を真剣に(とら)えなかった。これらの諸要素は世代間の関係において、芸術的スタイルと哲学的スタイルとの葛藤において、政党のイデオロギーにおいて、革命と反動(反革命)との動揺において、これらの葛藤がそこへと導いた悲劇的状況において現われる。歴史の偉大性は新しきものへと進むことにある。しかし、その偉大さは、それの曖昧性のゆえに、また同時に歴史の悲劇性でもある。」(同、432-433頁)

 

このように、成長の構造と破壊の可能性との両義性によって、歴史は前進するというのである。政党のイデオロギーにおいて、革命と反革命(反動)との動揺において、これらの葛藤は何か新しきものへと進み、いかに歪曲(わいきょく)されようとも、新しいものは結局除去されない。

「これらの過程における人的犠牲や物的破壊の巨大さは、曖昧でない歴史的創造の問題へとわれわれを導く」(同、434頁)というのである。

 

(3)歴史的自己超越の曖昧性

 

生の自己超越性は、究極的なものへ進む。究極性の主張は、究極的なものをもつ。彼は、それは歴史の目標を代表する待望の「第三の時代」であるという。

 

「究極的なもの」(第三の時代)について、ティリッヒは次のように述べている。

 

「古いものと新しいものとの歴史的葛藤は、どちらかの側が自己の究極性を主張するとき、最も破壊的な段階に到達する。……究極性の主張は、究極的なものをもつ、または歴史がそれに向かって進む究極的なものをもたらすという主張の形を取る。このことは政治的領域においてのみならず、もっと直接的には、宗教の領域において起こった。」(同、434頁)

 

究極性の主張である第三の時代について、さらに次のように述べている。

 

「歴史の終局の前に千年間キリスト教が歴史を支配されるというシンボルがそれである。啓蒙主義と理想主義の時代には、第三の時代のシンボルが世俗化されて、革命的機能をもった。ブルジョワジーもプロレタリアートも共に、彼らの世界史的役割を、それぞれに『理性の時代』(age of reason)または『階級なき時代』(classles society)の担い手として推定した。これらの言葉は第三の時代のシンボルの変形である」(同、435頁)と。

 

このように、歴史が究極的成就に向かって進み、歴史の流れにおいて、その瞬間瞬間において、歴史はそれ自身を超越するとの確信が表現されている。

この観念において、歴史の次元における生の自己超越が表現され、現代において「二つの全く曖昧な態度」(弁証法的矛盾の状態)に到達したというのである。

 

ティリッヒの究極的主張、すなわち第三の時代について、もう少し解説すると、終末の日が近づき、神が直接地上を支配する千年王国が間近になったということである。

この説は、ローマ帝国でキリスト教が国教化した時、アウグスティヌスが『神国論』で唱えてから、ローマ・カトリックで支配的になった考えである。

 

その後、正教会やプロテスタントなど伝統的な教派では、地上の教会が「神の国」であると主張した。

また、ナチス・ドイツは第三帝国を千年王国と称し、負のキリスト教と言われるマルクス主義にも、千年王国と同じ思想が見られるのである。

 

歴史上における「神の国」は、現われたり、消えたりしている。また、自分の時代が終末であるという危機意識を常に持っていた。

したがって、ティリッヒは「神の国」のシンボルは、内在と超越の両面を表現する力を持っているというのである。

 

以上が、ティリッヒの「生の三つの過程」(自己統一、自己創造、自己超越)に関する説明である。