ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(35)
(4)「ティリッヒの永遠の生命の問題点」
原理的に見て、「肉のからだ」は永生しない。永生するのは「霊のからだ」である。「肉のからだ」と「霊のからだ」は相違する。しかし、彼は「からだの復活」という表現で、肉体で復活し、肉体で永生するという従来の主張を説いているのである。
統一原理は、永遠の生命について、肉体の生死の概念以外に、聖書の生死の概念を説いている(『原理講論』、復活208-215頁)。
神との愛の関係にある人、神の愛の圏内にいる人を生きている人といい、肉体が生きていても、神との愛の関係が断絶している人、神の愛の圏外にいる人、サタンの主管圏内に留まっている人を「死んだ人」(同、209頁)というのである。
イエス様も「死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」(ルカ9・60)と言われた。このように、まだ生きている人を指して死人と言われたのである。
再臨のメシヤの教えに従って、神の愛の内にある人は、地上においても、霊界においても、神の愛の圏内にあるので「永遠の生命」を得ているといい、反対に再臨主の教えに反して、神の愛の圏外にいる人は、「永遠の死」の中にいるので死んだ人というのである。
したがって、永遠の生命とは肉体で永生することではない。復活の体という不死の体に変えられることでもないのである。
イエスは、「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」(ヨハネ5・24)と述べておられる。
復活とは「堕落による死」から「永遠の生命」に向かって「完全な者」(マタイ5・48)となるために、日々復活することである。
統一原理は、復活について次のように簡潔・明瞭に述べている。
「復活は人間が堕落によってもたらされた死、すなわちサタンの主管圏内に堕ちた立場から、復帰摂理によって神の直接主管圏内に復帰されていく、その過程的な現象を意味するのである。したがって、罪を悔い改めて、昨日の自分よりきょうの自分が少しでも善に変わるとすれば、我々はそれだけ復活したことになる」(『原理講論』復活の意義、213頁)と。
また、「天国」や「地獄」は字義的解釈と寓喩的解釈の両方があるが、神の真の愛のあるところが天国であり、神の真の愛のないところが地獄であると述べている。そして現代が「終末」であり、「終末」とは、この世が天変地異によって崩壊することではない。「この世」(天地)の支配権が、サタンから神に移行することを言うのである。終末の火による審判とは、舌は火であると言われるごとく、舌すなわち御言の審判を意味すると説いている。
このように「天国」とは、神の真の愛を中心とした再臨のメシヤ(真の父母様の真の家庭)と成約聖徒(勝利した祝福家庭)の集っている聖なる場所をいい、天においても、地においても、「天国」はすでに成就しつつあるのである。以上
「原理的批評」
(1) ティリッヒの「弁証神学」は、キリスト教の「使信」と「状況」との関係を重視する「相関の方法」である。この「相関の方法」を哲学的人間学であると批判する人に対して、ティリッヒは彼等とて神学を語る時、哲学的人間学的用語を使用せざるをえないと反論する。
(2) ティリッヒは、理性が「曖昧」であるという判断は、「技術的理性」関するものでもなく、また存在自体と一致した「存在論的理性」に関するものでもない。理性は曖昧であるという判断は、実存の諸制約下における理性に関するものであるという。「理性」という言葉は、ときには好都合な、しかし多くは軽視すべき不都合な漠然たる意味で用いられている。したがって「理性」という言葉の意味を定義する必要性があるというのである。
ティリッヒは、啓示と人間状況に関しても相関関係として捉える。したがって、もし主観の側が、ある出来事を啓示と受けとらなければ、ただの偶然の出来事にすぎないことになり、何も啓示されない。また、主観の側が啓示と受けとったとしても、相関関係外の人にとっては、それらの出来事は啓示として信じることが出来ないし、無関係なことと受けとられるという。
啓示の中の終極啓示はキリストである。キリストは「あらゆる啓示の基準」であるという。すなわち、「あらゆる宗教と文化の基準」であり、「すべての人間集団の社会的存在」や「個人の人格的基準」にも妥当し、さらに「宇宙に対しても意味をもつ」というのである。
(3) バルトは、神認識は信仰からというが、ティリッヒは神を存在論的に捉える。彼は究極者(神)を「存在自体」と言い、「存在の力」「万物の中に在る存在せしめる力」「万物を目的に導く力」であるという。神を他の諸存在と同一水準に置くことにならない神観とは、ティリッヒによると神を「存在としての神」(「存在自体」と「存在の力」)として捉えることであるというのである。この存在論的神観は、統一原理の存在論的神観と一致する。
ティリッヒは、神を存在自体と定義すると、哲学的な存在概念が神学に導入されるという。このことは、キリスト教神学の初期においてなされていたし、キリスト教思想史全体においてもなされて来たというのである。ティリッヒの哲学的な存在概念は、神論、人間論、キリスト論の三つの個所で現われる。この三つの個所が、ティリッヒの『組織神学』体系の中心なのである。
(4) ティリッヒは罪を実存主義哲学で論述する。彼は、世界内存在としての人間は、実存的諸制約のもとで、「存在の根拠」より疎外され、自己の本質を喪失していると見る。したがって、人間は自己と世界の「存在の根拠」と「意味」を問わざるを得ず、すべての実在を在らしめ、根拠づけている「存在自体」、すなわち「究極者」に関心を寄せざるを得ないというのである。
そして、原罪説の文字通りの解釈は、ティリッヒによると「多くの直解的主義的不条理を負わせているから、実際的にはもはや使用不可能である」(『組織神学』第2巻、58頁)というのである。
確かに、「文字通りの解釈」は不条理でキリスト教に著しい害を与えた。しかし、今まで誰も解きえないからと言って、原罪説を使用不可能と言って廃棄することではない。この不可解な神話の謎を解く人こそ、再臨のメシヤであるといえるであろう。また、ティリッヒは、アダムは自由意志によって堕落したというが、この既存神学と同様の見解には問題がある。
(5) 「キリスト論」について、ティリッヒが次のように述べていることに注視しなければならない。
「イエス形象は半神的イエス形象ではない。むしろそれは神が独特の仕方でそこに顕現している一人間の形象である。……プロテスタント神学の正統主義的方法も自由主義的方法も共に、プロテスタント教会が現代果たさなければならないキリスト論的課題に不適切である」(『組織神学』第2巻、186頁)と。
プロテスタント神学は、「キリスト論的課題に不適切である」、「神学は哲学的概念を排除してはならない」、「神学は、教会的伝統から与えられた概念的手段よりも、いっそう適切ないかなる手段を用いても、キリスト論的実質を表現する『新しい形式』を見出さなければならない」というティリッヒの忌憚のない率直な言葉は、統一原理のキリスト論を証しする一種の啓示であるといえよう。特に、三位一体論における女性的要素の欠如に関する彼の指摘は、現代キリスト教神学の最も重要な課題なのである。
(6) ティリッヒは、無機物と有機物、そして人類の歴史を「生の過程」として捉え、弁証法的に記述する。その生の次元の現象学的記述は、無神論的進化論に対する批判が含蓄されている。また、歴史のリズム、歴史の動態における召命意識による時代区分は、唯物史観の歴史区分に対する批判がある。
生の自己統合、自己創造、自己超越に関する教説には、問題がないわけではないが、ヘーゲル弁証法の影響を受けている。
(7) 聖霊論と神の国について―――ティリッヒは、生の問いと聖霊の答えを相関関係として捉える。
神の霊の業である教会や共同体(ユダヤ教やその他)は神の国の基盤であるという。神の霊は、曖昧な生の中から曖昧ならざる脱自の状態に人間を引き上げる。しかし、魔神的憑依に替わるとキリストを否定し、霊的共同体を分裂させるという。したがって、ティリッヒも統一原理も、聖霊の恵みを受けた人は「善神の業」と「悪神の業」の見分け方を知らなければならないと警告している。
ティリッヒは「歴史」の諸問題も「神の国」との相関関係として捉えている。すなわち、歴史に目標があり、それは内在的で、超越的な「神の国」と「永遠の生命」であるというのである。このように、生は実存の否定の運動によって、究極的に新しいもの、超越的なものに向かって進み、「永遠の生命」に至るというのである。
以上のように、ティリッヒの『組織神学』は、バルトのキリスト中心主義やブルトマンの「非神話化」(実存論的解釈学)と同様に、人類に統一原理を受容させるための天的使命を持った〝洗礼ヨハネ的神学〟であるといえるであろう。
了
「主要参考資料」
「ティリッヒ著『組織神学』第1巻」、谷口美智雄訳、新教出版社
「ティリッヒ著『組織神学』第2巻」、谷口美智雄訳、新教出版社
「ティリッヒ著『組織神学』第3巻」、土屋真俊訳、新教出版社
「ティリッヒの『組織神学』研究」、藤倉恒雄著、新教出版社
『キリスト論要綱』、W・パネンベルク著、麻生信吾・池永倫明訳、新教出版社
『キリスト論論争史』、水垣渉・小高毅 編、日本基督教団出版局
『ティリッヒ』大島末男著、清水書院
『信仰の本質と動態』、ティリッヒ著、谷口美智雄訳、新教出版社
『聖霊は女性ではないのか』E・モルトマン=ヴェンデル編、新教出版社