Archive for 3月, 2013

バルト8 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(8)

「悪の本質」

ハンガリーの政治情勢がナチズムから共産主義へ移行した中で、バルトは、「キリスト教会は原則として共産主義に反対する必要はないと主張した。これに対して、ブルンナーはバルトがナチズムに反抗した時と同様に共産主義を攻撃しないと、バルトを非難した。」(『カール=バルト』大島末男著、清水書店、59~60頁)。

バルトが共産主義を非難しない理由は、大島氏によると、「共産圏では経済面においては兄弟愛があると信じたのであった。そして西欧社会では政治的には自由と平等が保障されているが、経済的には不平等があると感じたのである」(同上、60頁)という。

しかし、ソ連が崩壊(1991年)し、現代においては、バルトのように、北朝鮮や中国が「経済面において兄弟愛がある」と信じている人は少ないであろう。

また、共産主義思想は事物の発展は対立物の闘争によるといい、同様に人類歴史も階級闘争によって発展するという。この戦闘的唯物論の本質は、愛ではなく「憎悪」にある。共産主義者は、暴力革命を主張し、「支配階級を震撼せしめよ!」(「共産党宣言」)という。

マルクスは学位論文(『デモクリトスとエピクロスの自然哲学の差異』)の序文で、「一切の神々を憎悪する」といい、『ヘーゲル法哲学批判序説』で、「宗教は民衆のアヘンである」と言った。

「汝の敵を愛せ」というイエス・キリストの教えと「弁証法的唯物論」は敵対する。まさしく共産主義の憎悪はサタンの思想であって、神と人類の敵であるといえよう。その敵を愛せとキリストは言うのである。

バルトはナチスの本質を見抜いたが、共産主義の本質は見抜けなかった。われわれはバルトから多くを学ぶが、「この福音に基づくバルト神学は、悪の力を克服する神の根源的な働きに根差す根源的な思考である」(『カール=バルト』大島末男著、清水書院、53頁)などと、とても考えることは出来ないのである。統一原理こそ悪の力を克服する思想なのである。

 

*神の「愛は被造物の命の根本であり、幸福と理想の要素」(『原理講論』、109頁)である。神の御霊があるところに自由があるのである。

*「悪の始原」とは、既存神学によると、人間は自由意志によって神の恩寵から離れ、神の戒めから自由になり、自分が始原となり、また始原であることを欲し、ヘビ(サタン)の誘惑によって戒めを破るという罪(原罪)を犯した。その結果、サタンの支配下に堕ちたというのである。

しかし人間の堕落が「自由意志」によるのか、統一原理のいう「愛の力」によるのか、という争点がある。

「悪の本質」(憎悪と暴力)

*「共産主義者は、これまでのいっさいの社会秩序を強力的に転覆することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。支配階級よ、共産主義革命のまえにおののくがいい。プロレタリアは、革命においてくさりのほか失うべきものをもたない。かれらが獲得するものは世界である。

万国のプロレタリア団結せよ!」(『共産党宣言』、岩波書店、87頁)

このようにマルクスは、「社会秩序を強力的に転覆する」、「共産主義革命のまえにおののくがいい」と公言している。

毛沢東も次のように語っている。

*「どの共産党員もみな、『銃口から政権が生まれる』というこの真理がわからなければならない。」(『毛沢東語録』講談社文庫、51頁)。「革命の中心任務と最高形態は、武力による政権の奪取であり、戦争による問題の解決である」(同上、51頁)。「戦争は政治の継続である」(同上、49頁)。「政治は血を流さない戦争であり、戦争は血を流す政治である」(同上、49頁)。

*学生時代のマルクスにあてた父親の手紙に、「息子のうちにひそんではいないかとかねがね恐れていた『悪魔』(Damon)をまのあたりに見る思いがした」(『初期のマルクス』淡野安太郎著、勁草書房、63頁)と書かれている。

バルト7 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(7)

バルトの「与型論的解釈」

バルトは、十字架による和解から時間的に過去に遡り、「『キリストとアダム』という表題で救済秩序が創造秩序に先行するキリスト中心主義」(『カール・バルトの生涯』E・ブッシュ、553頁)を主張する。

E・ブッシュはそのことに関して次のように述べている。

「創世記第一章、第二章は二つの異なった歴史物語を提示している。そこで語られていることをバルトは二つの命題にまとめている。第一章は『創造は契約の外的な……根拠である』(『創造論』I/1、177頁)。そして第二章は『契約は創造の内的な根拠である』(422頁)」(『バルト神学入門』、107頁)。

また、「逆に創造が神の契約に関係づけられているのである。・・・・創造は契約に一致する。しかしそれはそれ自身によってではない。創造が契約に一致するのは、契約の神が創造をご自身の契約への一致へと呼びかけ、一致へともたらすことによってである。それがバルトが『存在ノ類比』(analogia entis)に反対し『啓示ノ類比』(analogia revelationis)に味方する意味にほかならない(『創造論』Ⅲ/1、98頁)」(『バルト神学入門』E・ブッシュ、110頁)。

また次のようにも述べている。「われわれは創造において契約の神とは別の神――契約の歴史を無視し、われわれをもそれを無視するように招く神――を相手にしているのではないということである」(同上、110頁)。

このように創造が契約に関係づけられている。しかしブルトマンは、これは転倒していると指摘した。しかしバルトは、和解による神認識に、旧約聖書の信仰認識が収斂されると次のように述べている。

「旧約聖書および新約聖書の中で証しされている信仰認識・・・今やイエス・キリストの教会の使信の認識内容である」(『神論』Ⅰ/1、34頁)。

 

そしてさらにバルトは、旧約聖書とカトリック教会の信仰の基本文章としての古代教会の信条まで包含し、すべての神認識はキリストの和解に収斂させるのである。

 

E・ブッシュはこのキリスト中心主義の根拠について次のように述べている。

「もちろん私自身、長い道程(あるいは回り道)をたどって初めて、ヨハネ福音書1・14の言葉があらゆる神学の中心であり、主題であり、もともと神学の全体の簡潔ナ表現でさえあるということを、ますますはっきり洞察するようになりました」(『カール・バルトの生涯』、E・ブッシュ、539頁)。

 

以上のように、これらの見解は、聖書全体にキリストを介入させてキリスト論的に聖書全体を解釈するバルト神学の方法なのである。しかし彼の旧約聖書に対する与型論的解釈は、旧約聖書の豊かさや多様性を認識しないキリスト論的一元ではないかと批判されている。またわれわれの側からは、彼のキリスト論には再臨の視点が抜けているのではないかと指摘することができる。またシヴァイツァーも『イエス小伝』で述べているように、イエスが来られたその時が終末であり、天国の創建が始まっているのである。それなのに公生涯と無関係な十字架の死が絶対予定とされているが、そうであろうかと問題を提起することができる。

 

E・ブッシュは、バルト神学は状況に対応した事柄に関する力動的な叙述であるというが、「和解論」は静的に自己完結したものである。先に指摘したように、再臨が抜けているのではないか。

またバルトの「信仰ノ類比」「関係ノ類比」はカトリックの新しい路線ではないかと指摘され、「存在の類比」があって「信仰の類比」「関係の類比」があるのではないかと批判されている。

 

「リッチュルの解釈法」

*リッチユルはその著「説教の神学」で、旧約聖書に対するキリスト論的アプローチの問題を取り扱い、聖書全体をキリストを介して解釈し、旧約聖書の中にキリストに対する与型を見出す解釈法とか、三一論的出発と教会論的理解を前提する解釈の方法を論述している。この見解は古くからある聖書解釈法の一つである。例えばイエス・キリストを介して、青銅の蛇を贖罪(ヨハネ福音書3・14)、大魚に呑まれたヨナ(マタイ福音書12・40)を復活の予型と解釈されていた。

 バルトの解釈法もこのような予型を見出す解釈法であると言えよう。またこの解釈法は、統一原理の復帰原理にも見られ、アブラハムの路程、ヤコブ路程、モーセ路程を、メシヤの「人類救済の公式路程」(初臨と再臨のメシヤの公式路程)として、神様があらかじめ示しておられると見るのである。言い換えると、聖書に「父は子を愛して、みずからなさることは、すべて子にお示しになるからである」(ヨハネ5・20)とある通り、キリスト中心主義、すなわち、再臨のメシヤの観点から旧約聖書を考察したものなのである。

*周知のように、統一原理の「創造原理」と「メシヤの降臨とその再臨の目的」で説く神は、「契約の歴史を無視するように招く神」を論述しているのではない。「旧約聖書の神認識」(行義)も、「和解による神認識」(信義)も、統一原理の解く神認識(侍義)に収斂されているのである。バルトの三位一体の神は霊的な三位一体の神であり、「イエス様と聖霊とは、神を中心とする霊的な三位一体を造ることによって、霊的真の父母の使命を果たしただけで終わった」(『講論』267頁)。したがって、「神を中心とする実体的な三位一体」をつくるために、再臨しなければならない。「神の本体」である三位一体の神とは、一言でいえば「天の真の父母」である。「神の本体」の実体がアダムとエバ、イエスと聖霊、そして真の父母である。神を「天の真の父母」と捉える。バルトが言うように、「神は人間にご自身を人間が神を親称であなた(Du)と呼びかけることができるほどに理解させたもう」(『バルト神学入門』76頁)ことによる。

バルト6 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(6)

「自然神学批判」(キリストと別のもの)

バルトはなぜ痛烈に自然神学に反対し続けるのであろうか。それはローマ・カトリックの自然と恩寵に関する教説やエーミル・ブルンナーの著作「自然と恩寵」(1934年)との対論で、すでに明らかなように自然神学を次のように拒否している。それは「自然神学においては神は、キリストの外部でも認識される、というのではなくて、むしろ〔キリストとは〕別のものとして認識されるのである」(『バルト神学入門』E・ブッシュ、新教出版社、105頁)と明言している。『教会教義学』でも「神認識は信仰の認識としてすべてのそのほかの認識と、その対象は認識する人間の生きた主であるという点で、最高に違っている」(『神論』Ⅰ/1、35頁)と述べている。このように、バルト神学が「キリスト中心主義」と言われるゆえんがここにある。

また自然神学を否定する理由は次の点にもある。『カール=バルト』(清水書院)の著者、大島末男氏はそのことに関して次のように述べている。

「世界と人間の『あるべき姿』(本質)が歪められていない理想的な時代には、自然神学は力をもつ。カトリック教会の自然神学と新プロテスタント教会の自由神学は、人間の善意や正義が悪の力から保護されている理想的な条件の下でのみ成立する。つまり現実の罪に目を覆い、理想的な人間を前提とした上で、自然神学は意味を持つわけである。しかし邪悪がはびこり、世界と人間の『あるべき姿』が無惨にも打ち砕かれる時代には、自然神学は空虚となり、無意味となる。ところが真の福音とは、自然神学を無意味にした悪の力を克服する神の根源的な力である。この福音に基づくバルト神学は、悪の力を克服する神の根源的な働きに根差す根源的な思考である」(53頁)。

 

上述の文言にあるごとく、自然神学が「罪に目を覆い」、悪の軍門に容易に降り、悪の力に迎合するとバルトが言うのは、自然神学を肯定するゴーガルテンやヒルシュらがナチスに迎合したからである。そのことに関して次のごとく述べている。

「ゴーガルテンは、・・・神の律法とドイツ国民の法律の同一性を主張して、ナチスとキリスト教の総合を試みたのであった。これらは、キリストを抜きにして、人間の理性だけに頼る自然神学が、悪魔の働きに対して、如何に無力であるかを示す好い例である」(『カール=バルト』大島末男、清水書院、50頁)。

 

*「啓示理解の問題と、ドイツ・キリスト者が主張した啓示の第二の起源による補完の問題と《創造》という神の秘密と《人種、血統、土地、氏族、国家、などについての人間の理論》との混同の問題が話題となった」(『カール・バルトの生涯』、E・ブッシュ、341頁)。

ところで、なぜヒットラーがこれらの概念を強調したのであろうか。神の摂理から見た見解は!

バルトは世界大戦を神学問題と捉えたが、彼のキリスト論が人種や血統という概念を啓示(サタン側の先行)として捉えることができず、神と人間を結ぶ絆は、地縁=血縁ではなく、キリストの出来事に基づくというのである。しかし、統一原理では、三位一体の神の本質とは、キリストに「接ぎ木」(血統転換)されて新生することであると捉えている。

聖書には血統から見たイエスの系図がある(マタイ1・12~16)。

 

また、大島末男氏にようと、バルトは同じ論法(キリスト論的集中)でブルンナーを次のごとく批判するという。

「神を認識する能力が生得のものであるとすれば、彼の立場は、キリストを抜きにしても神を認識することができると主張する自然神学に陥る危険性を孕む」(『カール=バルト』、大島末男、清水書院、48頁)と。

さらに、「ブルンナーは人間学的な基礎を神学に提供していることになり、自然神学に逆戻りしている」(同上)というのである。

 

*「あまりにも有名になったバルトとブルンナーの論争は、・・・1934年、もともと弁証学に関心をもつブルンナーは、人間の理性的本質は罪によって実質的には歪められているとしても、神の啓示を受け容れる形式的な可能性をもつと主張した。ブルンナーは、神の呼びかけに応答する形式的な可能性を、人間は自己固有の本質としてもっていると主張したのである。これに対してバルトは、神の呼びかけに応答する能力でさえ、人間に生得のものではなく、神の啓示と聖霊の働きによって新しく創造されるものであると主張したのである。ここにブルンナーの本質主義の立場とバルトの出来事の立場の相違が明確に示されているのである」(『カール=バルト』大島末男著、清水書院、47頁)。

 

確かに、キリストを抜きにして罪を清算し神と和解することはあり得ない。また再臨による完全な救い、完全な神認識による「完全な人間」(真の人間)となり、天国へ入籍することも出来ないであろう。ところでバルトは和解を強調するが、再臨による完全な神認識が抜けているのではないか。

その抜けている完全な神認識とは何か。完全な神はイエス様のごとく独身男性なのか。なぜ、神は女性を創造されたのか。バルト神学では、本来的な男性と女性の関係や家庭に関する原理が語られていない。イエス様が結婚し、家庭を持ち、子供をもうけられなかったので福音書に家庭に関する御言がないのである。

 

*旧約時代のノア、アブラハム、モーセ、そして預言者たちが神の声を聴き、神に応答し、神の存在を認識していた。十字架による和解以前の12使徒も神に応答しキリストに従っていたことは事実である。ペテロは地上のイエスをキリストであると信じた。バルトは神認識は和解によるというが、旧約聖書における摂理的人物の神の呼びかけに応答している能力をどのように考えるのであろうか。

バルト5 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(5)

「告白教会の出発」(「第二次世界大戦」)

1932年、ドイツ総選挙でナチスが第一党となった。33年に、ヒットラーは「帝国教会」(愛国者の集い)を成立させ、それによってナチスの言いなりになる「ドイツ・キリスト者」運動を起こし、民族主義的イデオロギーを教会の形成に適用した。

だがバルトはこれに反対し、バルメンでの改革派会議で「告白教会」の運動を起こした。彼らは「神のほか何ものも神としてはならない」(モーセの第一戒)の旗印の下に団結した。これはドイツ福音主義教会のルター派、合同派、改革派が一緒になって信仰告白する運動となり、1934年5月末の会議で、バルトが起草した宣言が採択された。これが、すなわち「バルメン宣言」であり、キリスト者の精神的な支柱となった(ドイツ教会闘争)。この第一戒の神とは、言うまでもなく、イエス・キリストのみに立つということである。

 

*「ヒトラーがアンチ・クリストであったのは、同時にアンチ・ユダヤだったからである。バルトは『反ユダヤは反キリスト』であり、これは神学的問題であると述べている」(『カール・バルトと現代』E・ブッシュ、109頁)。

*ヒットラーが悪魔的な考えをしている。

「ヒットラーはユダヤ人こそ当然虐殺されるべきであると信じていた。というのは、独裁者は、究極的な権威をもつことを主張するが、ユダヤ人がいるかぎり、独裁者をも審く生ける神を証ししつづけるからである(神が実在することの最善の証明は、ユダヤ人の実在そのものである、とバルトはのべたことがある)。ヒットラーのユダヤ人迫害に、神に対する宣戦布告を読みとった。そしてヒットラーのユダヤ人迫害は、必ず教会の迫害にまで進むことを予告した」(『現代キリスト教神学入門』W.E.ホーダーン、204頁、日本基督教団出版局)。

 

「キリスト教の教理の哲学的ないし人間学的根拠づけと解明といった最後の残滓から神学を解放することによって確立された『キリスト論的集中』というバルト神学の深化は、教会闘争において神学的支柱となったが、その神学的厳密化は、自然神学の拒否であった」(『カール・バルトと現代』ブッシュ教授をむかえて、小川圭治編、97頁)と述べている。

そして「それは単なるドイツ的キリスト者に対する一過性的な、教会政治的なリアクションであったのではなく、DC(ドイツ・キリスト者)の背後に立って現われていたヒトラーとナチズムそのものに対する真の決定的な対決としての政治的態度決定であった」(同上、97頁)のである。

なぜバルトは自然神学を拒否するのであろうか。そのことに関しては後に論述する。

 

*1931年5月1日に彼はドイツ社会民主党に入党した。改めて社会民主党と連携することによってその態度を示した。「『社会主義の理念と世界観に対する信仰告白』としてではなく、『実際的な政治的決断』だと考えた」(『カール・バルトの生涯』E・ブッシュ、新教出版社、309頁)。

 

当時、ドイツの暴君と対決することを余儀なくされたバルト、ボンヘッファー、ブルトマン、ティリッヒ等は、あのナチスの横暴と残虐さの前で、それぞれ自分が最善と信ずる道を選びとって、誠実にキリスト者としての道を生き抜いた(ボンヘッファーはヒットラー暗殺に荷担した罪で獄中で死す)。