Archive for 1月, 2014

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(18)

(二)「キリストの現実性」

 

(A)「キリストとしてのイエス」

 

ティリッヒは、「キリスト教がキリスト教であるのは、『キリスト』と呼ばれたナザレのイエスが現実にキリストであること、すなわち、かれが事物の新しい状態・新しき存在をもたらす人であることを主張するからである。イエスがキリストであるとの主張が維持されるところに、キリスト教使信(ししん)がある。この主張が否定されるところにはキリスト教使信はない」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、123頁)という。

 

また、「実存的疎外の克服者」であるイエスと彼の「死」について、次のように述べている。

 

「実存的疎外の克服者たるかれが実存的疎外とその自己破壊的諸結果にみずから関与し〔死な〕なければならないという逆理である。これが福音の中心的物語である」(同、124頁)と。

 

ただし、ティリッヒは説いていないが、福音書から使徒行伝へと続くように、キリストとしてのイエスの再臨も福音の中心である。

 

上述の「みずから関与し〔死な〕なければならない」とは、イエスの十字架の死と復活を意味し、それは人間の「死」を如何に克服するかという「問い」に対する「答え」(啓示)なのである。

 

(1)「イエス・キリストの名称」

 

イエス・キリストとは固有名詞ではない。

 

「メシア――ギリシア語の『キリスト』――とは、イスラエルと世界における神の支配を確立すべく神より塗油(とゆ)された『受膏者(じゅこうしゃ)』である。したがって、イエス・キリストなる名称は『キリストと称されるイエス』、『キリストであるイエス』、『キリストとしてのイエス』、『キリスト・イエス』として理解されなければならない」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、124頁)

 

なぜ、キリストとしてのイエスにこだわるのであろうか。

ちなみに、パネンベルクは、次のように述べている。

 

「イエスを通して啓示されてこそ、はじめて、神を知るのである。神について語る他のどんな語りかけも、せいぜい暫定的な意味を持ちうるにすぎない。」(『キリスト論要綱』W・パネンベルク著、3-4頁)

 

このように神学とキリスト論、すなわち、神についての教理とキリストとしてのイエスについての教理とは互いに結びついている。この結びつきを開陳することこそ、まさにキリスト論のみならず、神学自体の目標でもあるというのである。

 

キリスト教が、ナザレのイエスが指し示す現実的事実に固執(こしつ)するゆえんについて、ティリッヒは次のように述べている。

 

「もし神学がナザレのイエスなる名称が指示する事実を無視するならば、神学はキリスト教の基礎的主張――すなわち本質的神人性〔神人一体性〕が実存の中に現われ、実存的諸制約に征服されることなしにそれに従わせたとの主張――を無視することになる。実存的疎外が克服された人格的生活がなかったならば、新しき存在は単なる求めであり期待であるにとどまり、時間空間的現実ではなくなる。実存が一点において――実存全体を代表する一個の人格的生活において――克服される場合にのみ、実存は原理的に克服される」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、125頁)

 

「実存的疎外が克服された人格的生活」とは、福音書に記述されているイエスの生涯それ自体のことである。イエスは架空の人物ではなく、歴史に実在した人物である。

 

ティリッヒは、キリストとしてのイエスに対する弟子たちの信仰もまた強調する。

この信仰受容がないならば、「もしイエスがかれの弟子たちの上に、また弟子たちを通して次の世代の上に、かれ自身をキリストとして刻印しなかったならば、ナザレのイエスと呼ばれた人間は恐らく歴史的宗教的重要人物として記憶にとどめられただけのことになるであろう」(同、126頁)と指摘する。

 

信仰の基礎には、イエスはキリストであると宣教した使徒の証言や、地上でのイエスがご自身の権威を主張したこと、さらに、イエスの復活を目撃した証人などの見解がある。

 

また、「キリスト論」は、イエス自身から着手すべきなのか、それとも教会のケリュグマ(宣教)から着手しなければならないのか、という問題がある。

 

パネンベルクは、「キリスト者の現在的な経験を神学の出発点として用いることは、……シュライエルマッハーと19世紀のエルランゲンのルター派神学にさかのぼることができる。シュライエルマッハーは彼の信仰論において、現在的なキリスト者の体験による逆推論の方法でキリスト論を構成した」(『キリスト論要綱』W・パネンベルク、9頁)と述べている。

 

そして、結論として、パネンベルクは次のように述べている。

 

「新約聖書は、イエスがその高挙(こうきょ)によって、地上から、また彼の弟子たちから、取り去られたと証言している。私たちが、挙げられた主としてイエスのいま生きていることを知るのは、現在の経験からではなく、ただその当時に起こった出来事に基づいているのである。イエスの復活と高挙を証言する報告の確かさを信頼することによってのみ、私たちは、挙げられ、そして今なお生きていたもうお方に、祈りにおいて向かうことができるし、しかも現在このお方と交わることができるのである」(同、12~13頁)

 

このように、パネンベルクは「キリスト論は、単に教会のキリスト告白の発展に関わるだけでなく、何よりも、地上におけるイエスの活動と運命にその基礎をもっていることを問題にするのである」(同、13頁)というのである。

 

(2)「史的イエスの研究」

 

ティリッヒは、歴史研究の科学的方法が聖書文書に応用され始めて以来、それ以前は背後に潜んでいた〝神学的諸問題〟が、教会史上未曽有(みぞう)の重大性を持つようになったという。

今日、歴史的研究全体を「歴史批判」とか「高等批評」(高層批評)とか、あるいは「形式批判」などと呼ばれている。

 

彼は「史的イエスの研究」の動機について次のように述べている。

 

「歴史的批判は信仰そのものを覆えすかの如くに思われた。………古い諸伝統による着色や被覆(ひふく)の背後にあるナザレのイエスなる人物の事実を発見しようとする熾烈(しれつ)な〔宗教的〕欲求が働いていた。いわゆる『史的イエス』の探求が始まったのはこのようにしてであった。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、129頁)

 

D・F・シュトラウス(1807-1874)の『イエスの生涯』や、アルベルト・シュヴァイツァーの『イエス伝研究史』、そして、ブルトマンの『新約聖書と神話論』などがそうである。ナザレのイエスなる人物の事実を発見しようとする熾烈な〔宗教的〕欲求なのである。

 

ティリッヒは、ブルトマンの大胆な新約聖書の非神話化は「神学の全分野に嵐を()き起こし、歴史的問題に関するバルト主義のまどろみに驚愕(きょうがく)覚醒(かくせい)を与えた」(同、130頁)と述べている。

 

歴史的研究に対し、特に聖書文書の歴史的研究を神学的偏見によるものとして攻撃する見解があるが、これに対してティリッヒは次のように反論する。

 

「かれらはかれら自身の解釈もまた偏見によるものであること、すなわちかれらのいわゆる信仰の真理によるものであることを否定しえないであろう。しかるにかれらは歴史的方法には客観的科学的基準があることを否定する。しかしそのような主張は、普遍的研究方法の使用によって発見されまたしばしば経験的に検証された膨大(ぼうだい)な史料を思い見るとき、とうてい維持されがたいものである」(同、131頁)と。

 

これは、歴史的研究に対するバルトらの批判を意識して書かれたものであろう。

 

(3)「歴史的研究と神学」

 

しかし、ティリッヒは「歴史的研究によってキリスト教信仰および神学を基礎づけようとする(くわだ)てが失敗である」(同、136頁)という。しかし、他方で歴史的研究を次のように偉大なできごととして評価している。これは、彼の文脈によく見られる対立的見解を統一しようとする〝否定〟と〝肯定〟の弁証法的思考である。

 

次の本文は肯定面である。

 

「聖書文書の歴史的研究なるものはキリスト教史上における、否、さらに宗教史・文化史上における一つの偉大な出来事である。それはプロテスタント主義の誇りとするに足る一要素である。神学者たちがみずからの教会の神聖な文書を歴史的研究による批判的分析にかけたことは、プロテスタント的勇気の一つの表われであった。人類史上、他のいかなる宗教も、このような大胆なことを実行し、このような危険性をみずからに引き受けたことはなかったと思われる。イスラム教にも、正統ユダヤ教にも、ローマ・カトリック教にも、そのようなことはなかった。この勇気には報賞(ほうしょう)が与えられた。というのは、ひとりプロテスタント主義のみがよく一般の歴史的意識の流れに参加し、みずからを精神生活の創造的発展への影響力なき狭隘(きょうあい)な孤立的宗教界のなかに閉じこめることをまぬがれたからである。プロテスタント主義(根本主義のグループは別として)は、歴史的研究の結果を、証拠に基づくのではなく、教理的偏見に基づいて拒否する無意識的不誠実性へと追いこまれなかった。………プロテスタントのグループは、徹底的な歴史的批判によってさまざまの危機状態に投げ込まれたにもかかわらず、なお生き続けた。イエスがキリストであるとのキリスト教的主張は、最も厳しい歴史的誠実性にも矛盾しないことが、ますます明白となった。」(同、136-137頁)

 

上述の「狭隘な孤立的宗教界のなかに閉じこめる」とは、他宗教に対する排他的狭隘性を批判しているのである。また「教理的偏見に基づいて拒否する」とは、統一原理と文鮮明師に対して教理的偏見(根本主義などの見解)で拒否しているキリスト教の現状に一致する。

 

ところで、ティリッヒは「歴史的研究によってキリスト教信仰および神学を基礎づけようとする企が失敗である」というが、下記のごとく今日「歴史への復帰」という現象が顕著になって来る。パネンペルクは、「信仰は史的イエス自身に根拠」を持たねばならないことを強調する。

 

「バルトをはじめブルトマンやティリッヒなど、一九六〇年代頃までをその活躍の時期としていた二十世紀の神学者たちは、近代自由主義神学における不毛な『史的イエス』の探求や人間主義的なキリスト解釈に反対して、おしなべて歴史学的地平からの後退を宣言し、『原歴史』や『実存の歴史性』や『キリストの象徴(シンボル)』などに新たな活路を求めたが、これに対して一九五〇年代半ば頃から、『歴史への復帰』という現象が顕著になってくる。一九五三年、ゲーゼマンは『史的イエスの新しき探究』の必要性を叫び始め、その三年後にはボルンカムが『ナザレのイエス』Jesus von Nazareth(1956)を上梓する。新約学者たちのこういう動きに対応するかのように、やがてヴォルフハルト・パネンベルク(Wolfhart Pannenberg,1928- )が、『パネンベルク・グループ』と称される仲間たちと共同で、『歴史としての啓示』Offenbarung als Geschichte(1961)を著わす。」(『キリスト論論争史』水垣渉・小高毅編、日本キリスト教団出版局、524頁)

 

そして、パネンベルクはその3年後には、さらに『キリスト論要綱』(1964)を出版するのである。

 

(4)「キリスト論的教理の評価」

 

キリスト論的教理は如何に形成されていったかに関して、ティリッヒは新しき存在の追求とともに始まったという。

イエスは、人の子、神の子、キリスト、ロゴスなどと言われている。

ティリッヒは、初代教会の「キリスト論」について、次のように述べている。

 

「定形化されたキリスト論は、新約聖書の記者たちが『キリスト』と呼んだイエスにキリスト論的諸象徴を適用した仕方によって基礎を置かれた。」(ティリッヒ著『組織神学』2巻、177頁)

「初期教会がギリシア哲学から得た概念的用語によってキリスト論的象徴の解釈を始めた一つの理由であった。そのための最適の象徴が『ロゴス』の象徴であったのであり、そしてこれはその本性上、宗教的・哲学的に根を張った概念象徴である。その結果、初期教会のキリスト論はロゴス・キリスト論となった。」(同、177-178頁)

 

このロゴス・キリスト論は、キリストが実体(肉体)として顕現したことを強調するためである。それは「ナザレのイエス」に対して仮現説(仮の現れにすぎない)を主張するグノーシス(ドケティズム)に対抗するためであった。

ドケティズムとは、2世紀以前の初期グノーシス派と神秘宗教からでたもので、受肉と十字架は単なる見かけ、つまり〝仮象〟であるというのである。

 

初代教会はこの「キリスト論」の教義問題で論争した。

ティリッヒは、これらについて次のごとく述べている。

 

「初期教会の教理的研究の中心は、キリスト論的教理の創造にあった。他のすべての教理的発言――特に神と人間、聖霊と三位一体についての発言――は、キリスト論的教理の前提ともなり、またその結果である。イエスがキリストであるとの洗礼告白文が、キリスト論的教理が注釈する本文である。キリスト教教理に対する根本的攻撃は、直接的・間接的にキリスト論的教理に対してである。その攻撃のあるものは、この教理の実質すなわち洗礼告白文についてであり、また他のものはギリシア的概念の使用のようなその形式についてである。」(同、178頁)

 

ティリッヒは、論戦の結果は「キリスト論的教理は教会を救ったが、極めて不適切な概念手段によってであった」(同、179頁)と述べている。

 

その論争について、次のように評価している。

 

「一つには、キリストとしてのイエスにおける新しき存在の使信の表現にはいかなる人間的概念も不適切であるからであり、また一つには、ギリシア的概念の特殊的不適切性のためにである。すなわちギリシア的概念は普遍的意義を有するが、しかしそれはアポロやディオニソスの神像(しんぞう)に規定された具体的宗教〔的状況〕から由来したものである。」(同、179頁)

 

受肉は、アポロやディオニソスの神像と同じ偶像ではないかと思われた。福音書には、ナザレのイエスは人間として実存的疎外を克服した人格的生活の模範を示したことが記述されている。

 

「第六世紀中葉以後におけるカルケドン信条の半-単性論的変質である。この例における本来的使信の歪曲(わいきょく)化の原因は、ギリシア哲学の概念の使用にあったのではなく、当時のきわめて強力な呪術(じゅじゅつ)的迷信的敬虔(けいけん)の傾向が諸会議に与えた影響にあったのである。概念的形式の不適切性の例はカルケドン信条そのものである。この信条は、その意図としては、キリスト教使信の本来的意味に対して忠実であった。そして事実、この信条はイエスの人間的形象の完全な排除からキリスト教を救った。しかし、この課題を果たすためには、当時手もとにあった概念的手段をもってしてはただ強大な逆理的命題の積み重ねによるのほか仕方がなかった。それは、キリスト教使信に組織的解釈を与えること――これこそが哲学的諸概念導入の本来の理由であったのだが、――はできなかった。神学は、失敗が敬虔心の悪化に起因する場合に神学の必然的概念的手段を非難してはならないし、また概念的手段の不適切性を宗教的脆弱(ぜいじゃく)性に帰してもいけない。また神学は哲学的概念を排除してはならない。それは現実には、神学が自己自身を排斥することを意味する。神学は自ら使用する諸概念からまたそれらの諸概念に対して自由でなければならない。神学は、その概念的形式とその実質との混同から自由でなければならない。神学は、教会的伝統から与えられた概念的手段よりも、いっそう適切ないかなる手段を用いてでも、その実質を表現すべく自由でなければならない」(同、179-181頁。注:太字は筆者による)

 

上述の最後の「いっそう適切ないかなる手段を用いてでも、その実質を表現すべく自由でなければならない」という個所は、統一原理の神論とキリスト論を受容ならしめる洗礼ヨハネ的主張であるといえるのであろう。

その実質とは、キリスト論的実質であって、神の本体は何かである。バルトは〝三位一体の神〟という。統一原理は〝天の父母〟という。キリスト教は、神は〝父〟であって女性的要素はない。したがって、父母とはいわない。それで、父母という神概念に違和感を持つキリスト教徒は少なくないであろう。

「三位一体」と「天の父母」という神概念の同一性を存在論的に説かねばならない。この問題は後で論ずる。

 

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(17)

 (5)「実存的自己破壊と、悪についての説」

 

人間とその世界とは実存的疎外の状態にある。自己矛盾は自己破壊に向かう。それは、疎外の構造自体からくる。この構造をティリッヒは「破壊の構造」という。

 

ティリッヒは、「(悪は)破壊と疎外の両方……を含む。」「罪は悪の原因であり、また悪そのものである。」「(悪は)罪と疎外の状態から来る諸結果を意味する」(『組織神学』第2巻、76頁)という。

また、「自己喪失は、自己決定の中心の喪失である。」「諸衝動が中心に統一されている間は、それらが全体としての人格を構成する。それらが互いに対立的に働くようになると、それらは人格を分裂させる。」「(分裂が大きくなると)人間の中心ある自己は破壊されることがあり、そして自己喪失と共に人間は世界を喪失する。」「自己喪失は自己決定の中心の喪失、人格の統一の崩壊である」(同、77頁)というのである。

 

ティリッヒは、「破壊の構造」を上述のごとく論述する。統一原理も「それ自体の内部に矛盾性をもつようになれば、破壊されざるを得ない」(『原理講論』22頁)と述べ、この「人間の矛盾性」(破壊の構造)は〝先天的なもの〟ではなく、人間の堕落の結果による〝後天的なもの〟であると述べている。

 

「有限性と疎外性」の個所で、ティリッヒは次のように述べている。

 

「人間は存在の根拠から疎外して、かれの有限性に規定されている。かれはかれの自然的運命〔死の運命〕に引き渡されている。かれは無から出て無に帰する。かれは死の支配下にあり、可死性の不安にかられる。これが罪と死の関係の問題に対する最初の答えである」(同、83頁)と。

 

このように、ティリッヒは、「存在の根拠」(神)から疎外(堕落)して、かれの有限性(肉体の死)に規定される「不安」にかられるという。

キリスト教では、人間の肉体が死ぬのは〝堕落〟に起因するという。そして「永遠の命」とは、人間の肉体が永遠に生きることを意味する。

 

この見解は、人間には「霊のからだ」と「肉のからだ」があることを知らない見解であるといえよう(コリントⅠ、15・44)。堕落人間は、神から離反(疎外)して霊肉が分離している。それで、霊界が存在することがわからない状態にある。

したがって、死を恐れるのである。ティリッヒは、堕落人間の「肉のからだ」の有限性を根拠に、人間の不安に関する実存を語るのである。

 

原理的に解説すると、堕落による死とは〝肉体の死〟ではなく、神との愛の関係が切れることをいうのである。

肉体は死ぬが、その肉体の〝死〟は、罪とは関係がないというのである。死ねば「霊の体」となり、霊界で永生する。神の愛のあるところは〝天国〟であり、神の愛のないところは〝地獄〟である。

 

したがって、「永遠の命」とは肉体が永遠に生きることではなく、神との愛の関係を回復した「霊の体」(霊人体)で、霊界において永遠に生きる喜びをいうのである。

キリスト教の救いとは、この「永遠の命」を得ることである。反対に、神の愛から離反(疎外)した「霊の体」は、生きているが死んだ体なのである。それで、「生きた死体」として、サタンの支配の下で永遠に生きるのである。

それが、聖書でいう「永遠の死」という意味である。このような、死んだ「霊人の復活」(地獄からの解放)に関しては、統一原理の「復活論」で説かれている。メシヤによって再創造されて復活するというのである。

 

霊界のことを、もう少し原理的に説明すると、旧約時代の律法を行うことで義とされた人は霊界の(しもべ)圏で霊形体となり、救い主を待っている。新約時代のイエスと聖霊によって導かれ、キリストを信じて義とされた人は、霊界の養子圏で生命体となり、再臨主を待っているのである。

 

キリスト教以外の仏教や儒教やイスラム教などを信じて義とされた人たちは、律法と同じ等級の僕圏で救い主を待っているのである。したがって、今まで生霊体となり、天国に入った人は誰もいないのである。再臨主はこれら霊界のすべての人、すなわち、サタンの支配の下にいる僕圏や天国の待合所(養子圏)にいるキリスト者たち、そして無神論や殺人鬼などの悪人たちすべてをサタンの(もと)から解放・釈放して天国へ導くのである。

 

ただし、再臨主に対して造反した人は「第二の死」(永遠の死)の世界へ行くことになる。彼らは、そこ(罪と死と恐怖の世界)で「生きた死体」として永遠に苦しむことになる。それを後悔して悔い改め、救いを求めるならば、再臨主の教えによって最後には復活する。

 

ティリッヒの中心思想の一つである生の過程における疎外論は、マルクスが『経済学・哲学草稿』で論述している資本主義社会における「労働生産物からの疎外」、「労働の疎外」、「類からの疎外」、「人間からの人間の疎外」という「四つの疎外論」と対比するとよい。体制の革命か、人間革命(心の革命、心情革命)か、どちらであるかという問題である。

 

ティリッヒは、「社会構造の改変のみが人間の実存的窮境(きゅうきょう)を改変することができるという信念」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、92頁)をユートピア主義として批判している。

そして、「本質存在からの人間の疎外は実存の普遍的性格である。それは各時代にそれぞれ特殊の悪を限りなく生み出す」(同、93頁)と述べている。

 

また、マルクス主義が主張する社会体制が疎外(悪)の原因なのではなく、時代を超越した普遍的な「人間の罪」(人間の疎外構造、自己破壊の諸構造)が根本的な原因であると述べているのである。

 

以上述べた「悪の諸構造は人間を『絶望』に追いやる」(同、93頁)とティリッヒは述べ、「絶望の経験はまた、『呪詛(じゅそ)』の象徴によって表現される」(同、96頁)という。

そして、「人間は、呪詛の状態にあってもなお存在の根拠から切断されていない」(同、97頁)というのである。

 

なぜ切断されないのかに関しては、彼の『組織神学』で解かれていないが、全能で完全な神は〝失敗する神〟ではない、と統一原理の堕落論において解明されている。

 

(6)「新しき存在への問いと、『キリスト』の意味」

 

堕落によって神から離反(疎外)した実存的制約下にある人間の意志は、善を成し得ない。「ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の(もと)にある………義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものとなっている」(ローマ3・9-12)。

このようにティリッヒは「意志の奴隷性は普遍的事実である」(同、99頁)という。

 

ティリッヒは、宗教史は人間の自己救済の企てと、その失敗の歴史であるという。それは、人間が彼の疎外性を突破しえない無能力にあるからであるというのである。

そして、救いは「新しき存在」であるキリストを抜きにしてあり得ないということを悟るためであるというのである。

 

(7)「神、人間、および『キリスト』象徴」

 

ティリッヒの『組織神学』第2巻の中心は「キリスト論」である。

彼のいう「キリスト」象徴の意味をいかに理解すればよいのであろうか。神・人間・宇宙に対するキリストについての考察で、彼は次のように述べている。

 

「受肉が、神的諸存在が自然物や人間的存在に変質する神話的解釈をされることがある。この意味では、受肉はキリスト教の特徴であるどころか、はるかにそれから隔たったものである。むしろそれは、異教の神が有限性を克服していないかぎりにおける異教の特徴である。多神教においては、有限性が克服されないがゆえに、神的諸存在が神話的空想によって何の困難もなく自然的諸事物や人間的諸存在に変えられる。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、118頁)

「『ロゴスが肉となった』とのヨハネ的発言に従うべきであろう。『ロゴス』は、神と宇宙における、また自然と歴史における神の自己顕現の原理である。『肉』は物質的実体ではなく、歴史的実存を表わす。」(同)

「これは変質の神話ではなく、神が一人格の生活過程に顕現して人間の窮境(きゅうきょう)に救済的に関与するとの主張である。もし『受肉』の語がこのような限定された意味に解されるならば、それはキリスト教的逆理を表現することができる。しかし、それにしてもこれはあまり賢明な表現法ではない。というのは、この語の概念の迷信的含意を防ぐことは実際に不可能であるからである。」(同、118頁)というのである。

 

受肉思想は、いろいろと議論されてきた。グノーシスのキリスト仮現説(イエスの肉体は仮象であり、人間性を否定する)、神の子の神性が人間となる、肉に神性を見る、一時的に天使も見える姿に現われたがこれも受肉なのか、ロゴスが肉となったのはイエスのみである、受肉は被造物である。被造物は神ではない。被造物は被造物を救えないなど、今も論争の対象である。

 

ちなみに、統一原理はヨハネ福音書のロゴスを、〝理法〟あるいはロゴスによる神の無限なる〝構想理想〟(設計図)と解釈する。その設計図によって、天地万物を創造したというのである。

 

「世は彼によってできた」(ヨハネ1・10)とは、神は彼(アダム=イエス)を標本として世(被造物)を造ったということである。人間から見れば、万物は人間の形象(『原理講論』67ページ)である。また、人間は小宇宙であると説いている。

 

ティリッヒは、「『ロゴス』は、神と宇宙における、また自然と歴史における神の自己顕現の原理である」というのは、「キリスト教的逆理」であり、「あまり賢明な表現法ではない」というが、そうであろうか。

ロゴスを御言あるいは原理と捉え、その具体的内容(創造原理、堕落論、復帰原理)を知らないようである。

 

神は原理によって天地万物を創造された。しかし、神の()姿(すがた)である天地を主管する人間が堕落したからといって、天地万物を破壊し、その原理を捨てるなら、創造に失敗した神になる。神は失敗する神ではない。したがって、その原理によって堕落した人間を再創造されるのである。アダムが堕落して御言(原理)を失ったので、第二アダム(イエス)を送って御言(原理)を復帰し、原理によって堕落人間を救済されるというのである。

 

したがって、歴史は一人のメシヤ(イエス=真理)を送ることにあるのである。これが「歴史における神の自己顕現の原理」と言っている意味である。

「神(イエス)が一人格の生活過程に顕現して人間の窮境に救済的に関与する」という意味である。文鮮明師は「原理とは神様の心の中にある主流の憲法である」と語られている。

 

伝統的神学は、イエスは〝家庭の原理〟について何も語られていないというが、家庭の原理に関して、次のように述べておられるのである。

「……『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」(マタイ19・4-6)

 

このように、「父母()」(神)-「ふたり()」(夫婦)-「一体()」(合性体)という四位基台(存在の原理)について述べておられるのである。

同様に、統一原理は「夫婦として完成されるためには、神を中心として、男性と女性が三位一体となり、四位基台を造成しなければならない」(『原理講論』446頁)と説いている。

 

次に、「キリスト」象徴の意味についてである。

 

ティリッヒは、「われわれが聖書的また聖書に関連するメシア待望がメシア到来を宇宙的規模で描いていることを考える時、特にその重要性を増して来る。宇宙が新しい世界(アイオーン)に生まれかわるのである。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、119頁)という。

 

新しき存在は、「単に個々人を救済して人間の歴史的実存を改変するのみではなく、また宇宙を更新することにある。………〔人間〕の救済は他方〔自然〕の救済なしには考えられず、またその逆でもある。」(同、119頁)というのである。

このように、救済を個人的に捉えようと宇宙論的に捉えようと、キリストが宇宙の中心(本体)であり、キリストが主管する世界となるのである。

 

ところで、「宇宙の更新」に関して、ティリッヒの神学には具体的な説明がない。「事物の新しい状態・新しき存在」をもたらすとは、神話的に文字通りに捉えるのではなく、統一原理の「終末論」で説かれているように、サタンの支配する時代が終わり、神が支配する時代が始まるこというのである。

言い換えると、人間の堕落によって宇宙は破壊されたが、終末に、再臨主によって、人間も宇宙(自然)も再創造されて救済されるという意味である。

 

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(16)

(2)「有限性と不安」

 

さて、本論に戻るが、ティリッヒは有限性と不安について、次のように述べている。

 

「人間は単にすべての被造物と同様に有限的であるだけではなく、また自己の有限性を意識する。そしてこの意識が『不安』である」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、43頁)と。

 

そして、ティリッヒはアダムとエバが自己実現に向かって自由を行使して堕落したというのである。

 

次の本文は、有限的自由に根ざした〝不安〟に対する心理学的分析である。

 

「分析はいわば内側から、すなわちかれがかれの有限的自由を意識する不安の側からもなされうる。かれが自由を意識する瞬間に、危険状態の意識がかれを捕える。かれは、有限的自由に根ざし不安となって発現する二重の脅威(きょうい)を経験する。かれは自己と自己の可能性とを現実化しないことによって自己を喪失(そうしつ)する不安と、自己と自己の可能性とを現実化することによって自己を喪失する不安とを経験する。かれは存在の現実性を経験することなしに夢心地の無垢(むく)状態を保持するか、あるいは無垢状態を喪失し、その代りに知恵と力と罪過とを得るかの二者選一の前に立たされる。この状態の不安が誘惑の状態である。かれは自己実現化に向かって決断し、かくて夢心地の無垢状態が終焉(しゅうえん)する」(同、44-45頁)

 

これが、「自由と堕落」に関する実存主義的心理学的分析によるティリッヒの教説なのである。これ以外に、〝蛇〟は不可解であると述べるにとどまり、何も解明していない。

ところで、自由意志の問題であるが、人間は神の意志通りに動くロボットではない。ティリッヒが言うように、人間のみが自己を神から離間する力(自由)を持つ存在として創造されている。そのような自由な存在であってこそ、人間は神の似像(にすがた)であると言えるのである。

しかし、この自由意志によって堕落したのではない。自由意志は神の愛を求めるが、死を選択しない。自己と自己の可能性とを現実化するために死を避けるのである。

 

聖書に、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5・48)とある。

しかし、自由がある限り、救われたとしても、また自由のために堕落するとするならば、人間は完全な者にはなり得ないということになる。

 

神は、そのような不完全な人間を造ったのであろうか。統一原理は、〝愛の力〟は〝原理の力〟より強いと捉え、それで、成長過程において「戒め」を守らなければ、愛の誘惑によって堕落する可能性があるとする。

すなわち、自由意志で堕落したのではなく、愛の力で堕落したと心理学的に分析している(「自由と堕落」より、『原理講論』125頁)。

それでは、なぜ愛を原理の力より強くしたのか。それは、愛を愛らしくするためであった。この神の愛で完成すれば、人間は決して堕落しないというのである。

 

(3)「原罪と人間観」について

 

ところで、ティリッヒは次のように原罪論を批評する。

 

「原罪説は人間に対する消極的否定的評価を意味するように考えられ、これが産業社会に発達した新しい生活感情・世界感情に真向から衝突(しょうとつ)した。人間に関する悲観論が、世界と社会を技術的・政治的・教育的に改造しようとする近代人の強い衝動を阻害(そがい)すると恐れられた。人間の道徳的力・知性的力の消極的評価から権威主義的・全体主義的諸結果が生じると懸念(けねん)されたし、今もそうである」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、48頁)と。

 

それで、ティリッヒは悲観的な原罪論との関連で、「神学は人間の本質的性質の積極的評価を強調しなければならない」(同)というのである。

シュヴァイツァーも「生命への畏敬(いけい)」を説き、「世界人生否定的悲観主義」ではなく、「倫理的世界人生肯定的な世界観」を説くべきことを強調していた。

バルトも、神が罪人を否定するのは「神の義」であるが、同時に否定された人間を義として肯定せんがためであるといい、「罪」と「神の義」の関係を弁証法的()()で理論的に説いている。

 

このように、原罪論は、一面において消極的否定的悲観的な人間観(罪人)となるので、救済論において積極的肯定的な人間観を説く必要性があるのである。

 

ところで、「人間の本質的性質の積極的評価」を主張するティリッヒは、神学は人間の偉大さと尊厳の自然主義に反対して「人間の創造された善性を守る点で古典的人本主義と提携(ていけい)しなければならない」(同、48頁)といい、「神学は人間の実存的自己疎外を示すことにより、また有益な人間的窮境(きゅうきょう)の実存主義的分析を使用することによって、原罪説を再解釈しなければならない」(同、48頁)というのである。

 

「古典的人本主義」との提携というが、統一原理は人本主義(人間中心主義)を批判克服した神本主義(神律)を主張している。言い換えると、神本主義によってヒューマニズムが完成すると説いているのである。

 

ところで、「原罪説の再解釈」を主張することは傾聴に値するが、しかし、彼は「『原罪』『遺伝的罪悪』などの語を除去」(同、48頁)することを主張する。これには反論せざるをえない。

原罪説と関連させ、メシヤによる接ぎ木によって「新生すること」(ティリッヒ的にいうと「新しい存在」に生まれかわること)を強調すべきなのであって、ティリッヒのように原罪論や遺伝的罪を排除することではない。

 

上述のように、原罪説が現代社会からなぜ攻撃され、また排除されるのかを知ることは、原罪ゆえに歪んでいる現在社会をいかに救済するかを考察する際の重要な問題意識となる。

 

ティリッヒは「創世記」の蛇の存在について、次のような疑念を述べている。

 

「創世記においては、人間のうちまた周囲における自然の力動性を代表するものは蛇である。しかし蛇だけでは力がない。人間を通してのみ本質から実存への移行が起こる。後世の説は反逆した天使の象徴を蛇の象徴に結合した。しかしこれとても人間の責任を解除するものとは考えられなかった。というのはルチファーの堕落は、たとえそれが人間の誘惑となるにしても、人間の堕落の原因にはならないからである。天使の堕落は実存の謎をとく助けにはならない。それはいっそう不可解の謎、すなわち神の栄光を永遠に見ている『祝福された霊的存在』が何故に神からの背反へと誘われたかという謎をもちこむ。」(同、49頁)

 

つまり、誘惑者である「蛇」の堕落と人間の堕落を関係させる見解は、謎が謎を生み、より不可解なものにしてしまうというのである。

 

このように、聖書の堕落神話に疑念を表明し、「人間の状況における道徳的要素と悲劇的要素の相互浸透性を記述することが必要である」(同、48頁)というにとどまり、なぜ堕落したのかという問いに対して「自由で堕落した」という伝統的神学の見解を述べ、「本質から実存へ移行した」という事実を記述するにとどまる。

言い換えると、「罪への欲望」「覚醒(かくせい)された自由」が堕落の動機であるというだけで、「原罪」とは何かに関しては、上述のごとく解かれていないのである。

 

(4)「人間疎外の諸標識と罪の概念」

 

原罪説に対する文字通りの解釈は、ティリッヒによると「多くの直解的主義的不条理を負わせているから、実際的にはもはや使用不可能である」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、58頁)という。

しかし、今まで誰も解きえないからと言って、原罪説を廃棄(はいき)することではない。この不可解な神話の謎を解く人こそ、再臨のメシヤであるといえるであろう。

 

ところで、ティリッヒは個人的疎外と集団的疎外について、次のように論述している。

 

「自由と運命とが一体化しているかれらの行動は、それが関与する全体の運命に寄与しているからである。かれらは、かれらの集団内で犯された罪悪をみずから犯さなかったから有罪ではないが、その罪悪が行われえた全体の運命に寄与したがゆえに有罪である。このような間接的な意味において、一国の専制政治の犠牲となった人たちでさえ、その専制政治に関して有罪である」(同、73頁)と。

 

これは、統一原理の「連帯罪」に関する記述と同じである。原罪と遺伝的罪については、先に論述した通りである。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(15)

『組織神学』第2巻――(実存とキリスト論)――

 

(一)「実存と、キリストへの問い」

 

ティリッヒは『組織神学』第2巻の緒論で、次のように述べている。

 

「神を存在自体と定義することから神論が始められると、哲学的な存在概念が組織神学のなかに導入される。このことはキリスト教神学の初期においてなされたし、キリスト教思想史全体においてもなされて来た。この書においては、存在概念は三つの個所で現われる。すなわち、神が存在としての存在、存在の根拠、また存在の力、と呼ばれる神論において、また、人間の本質的存在と実存的存在との区別が貫かれる人間論において、最後に、キリストが神の霊の働きによって実現された新しき存在の顕現と呼ばれるキリスト論においてである」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、新教出版社、12頁)

 

このように、ティリッヒの哲学的な存在概念は、神論、人間論、キリスト論の三つの個所で現われるのである。この三つの個所がティリッヒの『組織神学』体系の中心なのである。

 

ティリッヒは、神論について次のように述べている。

 

「この存在の力としての存在概念は、いかなる神学もこれを排除することができない。存在と神とを引き離すことはできない。神があるとか、神は存在するとか言われる瞬間、神と存在の関係がどう理解されるかが問われている。この問いに対する唯一の答えは、神は存在の力、ないし非存在を克服する力、としての意味において存在自体である、ということである」(同、13頁)

 

このように、神を存在の力と捉え、統一原理と同様に神概念を存在論的に論述している。

 

統一原理の神論も、「万有原力」、「授受作用」、「三対象目的」、そして「四位基台」など、哲学的な存在概念で論述されている。

ティリッヒの「存在の力」とは、統一原理の「万有原力」のことである。万有原力とは、神が永存し、すべての存在が存在するための根本的な力のことである。ティリッヒによると、この存在論的な神論はいかなる神学も排除できないというのである。

 

以上のように、ティリッヒの神論における存在概念は、統一原理の神概念を受容可能にする天的使命を持った洗礼ヨハネ的な神学であるといえるであろう。

 

『組織神学』第3巻の訳者である土居真俊氏は、「訳者後記」で次のように述べている。

 

「彼(ティリッヒ)の神学は哲学、文化、心理学、社会科学、自然科学のあらゆる領域を包括しており、極めて多面的である。

彼は聖書からの引照を余り用いないので非聖書的であるような印象を与えるが、そうではない。内実的には極めて聖書的である。彼は、『キリストとしてのイエスに現われた新しき存在』を彼の神学の中心に据えるという意味において、私は彼をバルト、ブルンナー、ニーバー兄弟と共にネオ・オーソドキシーに加えることを躊躇(ちゅうちょ)しない」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、新教出版社、536-567頁)

 

(A)「実存と実存主義」

 

ティリッヒは、神と人間の堕落した状態を、次のように実存哲学を用いて語る。

 

「神においては、本質的存在と実存的存在との区別はない。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、28頁)

「神は本質と実存との対立に従属しない。神は諸存在に並ぶ一存在ではない」(同)

「神のみが『完全』であり、『完全』とは正確には、本質的存在と実存的存在との間隙(かんげき)を越えた存在を意味する語である。人間とその世界は完全性を持っていない。人間と世界の実存は、『堕落』におけるように、本質の外に立つ。」(同)

 

ティリッヒは、実存主義に関して次のごとく評価している。

 

「実存主義は、『(ふる)い世』すなわち疎外(そがい)状況の人間と世界の窮境(きゅうきょう)を分析した。その点で実存主義はキリスト教の味方である。」(同、33頁)

「実存主義は、人間実存の古典的キリスト教的解釈の再発見を助けた。」(同)

 

ティリッヒは、メシヤの使命に関しても次のように実存哲学を用いて語る。

 

「キリスト教は、イエスがキリストであることを主張する。『キリスト』なる語は、著しい対照によって人間の実存的状況を指し示す。というのは、キリスト、すなわちメシアは、『新しい(アイオーン)』・宇宙の更新・新しい現実、をもたらす人であるからである。新しい現実は、(ふる)い現実を前提とする。旧い現実とは、預言者たち・黙示文学者たちの記述によれば、神からの人間と世界の離反〔疎外〕の状態である。この離反の世界は、『魔的諸力』として象徴される悪の諸構造に支配されている。悪の諸構造は個人の魂を、民族を、また自然界をさえ支配している。それはあらゆる形態の不安を生じさせる。これを克服して、魔的諸力すなわち破壊の諸構造が撤廃(てっぱい)される新しい現実をもたらすことが、メシアの仕事である」(同)

 

このように、ティリッヒは「神からの人間と世界の離反〔疎外〕の状態」(内部に矛盾性を持つ「破壊の諸構造」)をメシヤが撤廃して「新しい現実」をもたらす、と実存哲学を用いて語るのである。

 

(B)「本質から実存への移行と『堕落』の象徴」

 

ティリッヒは堕落の神話について、文字通りの解釈の弊害(へいがい)を次のように実存主義哲学によって批判する。

 

「『堕落』の象徴はキリスト教の伝統の一つの重要な部分である。それは普通はアダムの堕落に関する聖書物語と関連づけられているが、しかしそれの意味はアダムの堕落の神話以上の普遍的人間学的意義を有する。聖書の直解主義は、キリスト教的堕落神話の強調と創世記物語の直解主義的解釈とを同一視し、そのためキリスト教に著しい害を与えた。神学は今日直解主義を真剣にうけとる必要はないが、しかしそれがいかにキリスト教会の弁証論的課題を妨害したかをわれわれは知らなければならない。神学は『堕落』を『昔々あるときに』起こった出来事としてではなく普遍的人間状況の象徴として、明瞭かつ明白に説明しなければならない」(同、36頁)

 

ちなみに、統一原理は、エデンの園の〝蛇〟や〝善悪を知る木〟を文字どおりに解釈しない。それらを、何かの比喩であり、象徴であるとする。

ところが、直解主義者は非直解主義的解釈に対して、狂信的に反対する。しかし、ティリッヒは「文字通りの解釈」はキリスト教に著しい害を与えたというのである。

 

「『直解主義』(Literalism)の語は翻訳できない。それは象徴を文字通りにとることによって、それを迷信的不条理に変えてしまう神学的態度を意味する」(同、36頁)

 

ブルトマンは、聖書の神話を「非神話化」すべきであると言って問題となったが、ティリッヒは「非神話化」という言葉を避けて「非直解化」という言葉を用いる。

 

上述のように、ティリッヒは、堕落神話の「直解主義」(文字通りの解釈)の弊害(へいがい)を排除し、堕落神話は「『昔々あるとき』起こった出来事」としてではなく、「普遍的人間状況の象徴」であると捉え、人間の堕落を「本質より実存への移行」であると実存主義的に論述するのである。

ただし、ティリッヒは、「普遍的人間状況の象徴」というだけで、神が「取って食べてはならない」(創世記2・17)と言われた「善悪を知る木の実」とは何か、また、言葉を話す「蛇」とは何か、に関しては解明していない。

 

(1)「自由と堕落」について

 

ところで、なぜ堕落したのかという問題に関して、ティリッヒは「堕落の可能性は、統一としての人間的自由のあらゆる性質から来る。………神の似像(にすがた)である人間のみが自己を神から離間(りかん)する力を持つ。」(同、41頁)と述べ、この自由のために堕落したというのである。

 

しかし、この見解には問題がある。「神が堕落するような人間をつくったのか」、「罪の気質がどのようにして『夢心地の無垢(むく)』なアダムの性質の中に入りこんだのか」、さらに、「神が悪を創造したのか」という神義論の問題にまで至るのである。

しかし、ティリッヒは、何も解明していない。彼はメシヤでないので、仕方がないのではあるが…。

 

a 「ルタ-の疑念」と「ザビエルへの問い」

 

マルティン・ルター(1483-1546)は、「どうして神は、アダムが堕落するのを許したもうたのか。また、神は彼を堕落せぬように保つか、あるいは私たちをほかの(すえ)からか、または清められた第一の裔から造ることができたもうたであろうのに、どうして私たちすべてを同一の罪にけがされたものとして造りたもうたのであるか」(『世界の名著18ルタ-』松田智雄編、中央公論社、223頁)と述べている。

そして、ルターはその問いに対して「このような神秘を探ることは、私たちのなすべきことではない。むしろ、この神秘を畏敬すべきなのである」(同)という。

 

フランシスコ・ザビエル(1506-1552)に対して、鹿児島の住人が次のような疑問を提起したという話がある。

 

「確かに悪魔が存在し、それが悪の原理であり人類の敵であることはわかるが、それなら創造主を認めることができなくなる。何故なら、万物を造ったといふ善なる創造主が悪を造り出したといふのは矛盾だからである………もし創造主が人間を造ったと言ふなら、自分が造った人間が悪魔に誘惑された時、何故人間を保護せず誘惑されるのを黙認したのか」(小堀桂一郎著『国民精神の復権』、PHP研究所、65頁)と。

 

これらの論難(ろんなん)は、誰も解明していない。しかし、文鮮明師が解明した「堕落論」を知っている人なら、難なく答えることができる。

 

小堀桂一郎氏は、先の問いの最後を次のような言葉で()めくくっている。

 

「これから日本に派遣される宣教師は特に哲学、論理学を修めてこなくてはならない、日本人は非常に手ごはい相手である、トマス・アキナス、ドン・スコトスほどの学者でも日本人の質問にはよく答へられまい、といふのがサヴィエルの正直な感想だったのです」(同、67頁)