Archive for 6月, 2013

バルト21 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(21)

(講演)「カール・バルトの現代的意義」(E・ブッシュ)より

 

*E・ブッシュの講演の前半に、本文で論述したバルト神学の骨子が語られている。日本基督教団の牧師らの福音主義神学とは如何なるものなのか、また、牧師らが統一原理をどのように見ているのか、それに対して、われわれがどのように応答すればよいのか、を知ることは大変重要なことである。これらに関しては、すでに本文で述べているが、ブッシュ教授の講演を通して改めて確認することができる。

 

「講演内容」

「バルト神学は、近代世俗主義の持つ無神論と根本的に対決したと言えるでしょう。・・・・・。

神とは信仰または思考によって造り出された信仰または思考の前提だと理解する場合には、人間はそこでは、人間が造り出した形像とかかわるのであって、それにどれほど素晴らしい属性が付与されたとしても、神とかかわるのではありません。それらの属性は、人間によって付与されたものだからです。若きバルトが認識したところによれば、ほんとうに神であるのは、御自らがわれわれの信仰と認識の前提である方のみであって、その場合に、神によってつくられた前提は、決して人間によって『造られる』ことはありえないという事実は変わらないのです」(18頁)。

 

このように、統一原理の創造原理に対して、他の宗教の神観と同様に見て、「人間が作り出した形象」「どれほど素晴らしい属性が付与されたとしても」「人間によって付与されたもの」と見ているのである。そして「ほんとうに神であるのは、御自らがわれわれの信仰と認識の前提である方」「神によってつくられた前提は、決して人間によって『造られる』ことはありえない」と見ているのである。

 

さらにE・ブッシュはバルト神学の骨子を次のごとく簡潔・明瞭に解説する。

「神がイエス・キリストにおいて自らを啓示し給うということが、キリスト教信仰の拠りどころなのです。イエス・キリストは真ノ神(vere deus)なのです」(21頁)。

 

「神がイエス・キリストにおいてわれわれに向って到来し給うということによって、神とは誰かが定義されるだけでなく、人間とは誰かが同時に定義されるのです。バルトの解釈によれば、それが、イエス・キリストは真ノ神(vere deus)であるだけではなく、同時に真ノ人(vere homo)でもあるという古い言葉の意味なのです。彼は、真ノ人を真ノ神との類比において理解しているのです。」(22~23頁)

 

「キリストにおいてはじめて、『ほんとうに』人間とは誰であるかが規定されるというのです。神が人間なしで自分だけで在り給う存在でないように、人間に対する神の関係から神が人間と共なる神であることが認識されるように、『真の人間』は神なしで自分だけで生きている存在ではなく、神の人間に対する結びつきから神が共にいます人間こそが真の人間であることが認識されるのです」(同上、23頁)。

このように、真の神、真の人間について、バルト神学は如何に認識し得るかを述べている。

 

「原理的批評」

ブッシュ教授は、①「神がイエス・キリストにおいて自らを啓示し給う」、②「神とは誰かが定義されるだけでなく、人間とは誰かが同時に定義されるのです」③「人間に対する神の関係から神が人間と共なる神であることが認識される」④「彼は、真ノ人を真ノ神との類比において理解している」という。

 

「問題点」

①バルトはイエス・キリスト以外の啓示を認めないと他の神学者からその狭隘性が指摘され、歴史における神の啓示は一回だけかと批判されている。②統一原理から見て、バルトは「人間とは誰かが定義される」というが、「真ノ人間」とは独身男性なのか。また女性に関しては何も説いていないのではないか。さらに真の「男女の関係」や真の夫婦関係、そして真の「家庭」に関しても、何も説いていないではないか、と指摘することができる。

③「人間に対する神の関係から神が人間と共なる神であることが認識される」というが、具体性がない。キリスト者は本当に神様と共にあるのであろうか(コリントⅠ3・16、ヨハネの黙示録21・3)。神と人間の関係において、人間は僕なのか、養子なのか、実子の関係なのか、真ノ人間(イエス)が神であり、神の子であるなら、「神と人間の関係」は「親子の関係」であるが、キリスト者は神の子として「完全な者」(マタイ5・48)になれると言えるのであろうか。キリストの形に変えられていく過程であるというが、その聖化の過程にあるキリスト者は「完全な者」となり救済されると言えるのであろうか。④「真ノ人を真ノ神との類比」において真の神を認識しているというが、上述のような問題点があるのであって、E・ブッシュとの討論でA氏とB氏の「問い」にあるように、男女の人間関係について何も根本的に説いていないのではないか。また真ノ神と類比した家庭が存在するのであろうか。「神様も家庭がある」(『天聖経』2317頁)のであって、神の本体は真の父母と真の家庭であると言うのである。

 

以上のような問題を提起して見れば、日本基督教団の信仰義認は、救いが個人的次元で、妻は天国、夫は地獄、あるいは親は天国、子供は地獄とばらばらに別れる個人的次元の救いと信仰であるといえる。これでは救われていると、とても言えないのである。

 

実際において、予定論から見て、キリスト者らは、自分が予定された者として、救われているのか、いないのか定かでなく、救いに関して不安はいつまで経っても解消されないのである。信仰義認の救いは、自分は救われているという主観的な思いが基準であって客観的な救いの定義がないのである。

つまりアナロギア(「信仰の類比」、「関係の類比」)といっても、真の神の本体がおぼろげにしか分からないからに他ならないからである(コリントⅠ13・12)。

また和解は人間側からの努力ではなく、神様側からの一方的な予定であるなら、他の予定されていない人の救い(和解)はないことになる。この福音主義神学の見解では万民救済論と矛盾するのではないか。全人類の救いに無関心になるのではないか。

さらに無神論と対決するというが、バルト神学では無神論を排斥することはできても、弁証法的唯物論を統一原理の創造原理を根拠とした「勝共理論」のように、批判・克服して真の愛で彼らを自然屈服させることはできないのである。言い換えると、バルト神学では北朝鮮や中国を平和的に解放することができないし、アジアと世界の平和を実現させることはできないというのである。

以上のように、統一原理によって、バルト神学の虚構性が暴露される。

 

*統一原理の二性性相と言う概念は客観的存在を物質と見る唯物弁証法を批判克服する重要な概念である。また被造物をペア・システム(相対物)と捉え、主体と対象の相対的関係と見る概念は、事物を対立物と捉える唯物弁証法を批判・克服する概念である。そして事物は対立物の闘争によって発展するのではなく、主体と対象の授受作用によって存在し発展すると捉えているのである。

バルト20 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(20)

「補講」(在りし日の日本基督教団の動き)

 

「カール・バルトと現代」(小川圭治編 新教出版社)

ひとつの出会い― E・ブッシュ教授をむかえて

 

エーバーハルト・ブッシュの『カール・バルトの生涯』が出版され、好評を以って迎えられた。この機会に、日本基督教団は、著者ブッシュを1989年9月7日から10月4日まで日本に迎えた。そして日本基督教団の要請に応じ、ブッシュ教授は伊豆の天城山荘の研究会をふり出しに、仙台、福岡、大阪、東京などで、研究会、講演会、そしていくつかの教会で説教を行った。このブッシュの滞在一か月の記録が『カール・バルトと現在』(ひとつの出会い―E・ブッシュ教授をむかえて、小川圭治編、新教出版社、1990年8月31日)にまとめられ報告されている。

特に、仙台では教団、日基、改革派、ルター派など教派をこえ、教職も信徒も一つとなって、エキュメニカルに討論がなされたと述べている。次の対論は、仙台における「ブッシュ博士を囲む研修会」の報告の中からその一部を抜粋したものである。

 

次の参席された諸先生方の発言は、バルト神学の理解を深化させる。

*バルトが少年時代、両親・祖父母・おば・牧師との出会いの中で、多くのものを受けた。また、バルトの自由主義神学からの脱出は、多くの教会的現実の中で、徐々に形成されてきたもので、特に第一次大戦を通し、さらにその後のナチズムとの戦いの中で、弁証神学の基礎が築かれてきた。

特にバルトは、家父長的家庭環境の中で育ち、そのことが彼の神学形成に大きな影響を与えてきたことは否めない。・・・・特に教義学のⅢ/4にある、「男と女」の関係は、つまり男が第一、女が第二という位置は、聖書的に正しいものか。またこれからの新しい社会を形成してゆくのに、男と女に全く同等の相互関係であるべきではないか(A)。

 

*バルトが男女の平等性と男性の奉仕について言及していることは、十分承知しているが、にもかかわらず、バルトのパウロの釈義(たとえば、コリントI11章)は正しくないのではないか。コリントの特殊な状況で言われていることを、原理にしてしまっていないか。男が第一というバルトの考えでは、女系社会や婦人の首相といったものは理解できなくなりはしないか(B)。

 

*この問題は、ドイツではホットな問題であるが、日本でも問題にされていることを知ってびっくりしている。・・・・・。

バルトは、教義学の中で「男が第一、女が第二」といっても、彼が女性を抑圧したことは一度もない。隣人関係がなくなったら、人間ではなくなるとさえ言っている。男女の問題でも「共存の中での自由な決定」ということが中心である。バルトが仕残したことといえば、この原則に反するように見える聖句を、どう解釈し、これを関係づけるかということである(ブッシュ)。

 

*・・・弁証法神学を形成してゆくにあたって、へッぺの『福音主義―改革派教会の教義学』が参考になったという。その正統派的なものから、「何か」を学ぼうとしたと言われるが、その「何か」とは何か。また他の弁証法神学者たちは、正統派から学ぼうとしなかったのか。また教父神学・伝統の摂取において、他の弁証法神学者とどこが違うのか。

またバルト神学の初期と後期との違いは何か。この中でアンセルムスの研究がはたした役割、なぜ『キリスト教教義学草案』から『教会教義学』にかわったのか。よく言われている「弁証法からアナロギアへ」の移行は何か、初期バルトにはアナロギアはなかったのか。また『教会教義学』では、初期の弁証法はどうなったのか(C)。

 

*自由主義から弁証法神学のバルトに移る時、新カント派哲学がどの程度の意味を持っていたのか。人間の小さな宗教意識という窓から超越者なる神を見ている自由主義から脱する時、その宗教意識を成り立たせていたものが超越的な神であるという時、考え方として理想主義的で新カント派と思想構造が似ていると思う。その点どう考えているか。(D)

 

*バルト自身の問題意識があって、それを解決するのにアナロギアに達したと思うが、その点についてお聞きしたい(E)。

 

*弁証法の時代、神自身しか語りえない。人間は、その神を指し示すが、「できない」にとどまっていた。ところが、アンセルムスの研究によって、「神が語りたもうた」、これは人間の側からは基礎づけられない。私たちの側からは待つ以外にない。しかし、それは教会において(すでに)証しされている。教会が信じ、証言している事実、これこそ神学が、神について語る根本的条件である。このことがアンセルムスの「知解を求める信仰」で表現されている。知ることが、すでに信仰において起こっている。つまり、教会において語られ、信じられることを理解するのである。それに基いてさらにまた教会は、あらためて証言し、信じ語ることが問題になってくる。信仰にしたがって問いただすことは、その信じている対象にしたがって考えてゆくことである。教会が信じていることを神学的に認識する、この構造がアナロギアである(ブッシュ)。

 

*古プロテスタントの伝統から学んだという時、それはどの程度の範囲を指していたのか(F)

 

*バルトは、もちろん改革派の伝統から来たが、彼は自分なりの存在を確立する。ではその時、なぜ十七世紀に帰っていったのか。また彼はその時代、喜びをもってカトリックとも出会っていた。人間の意識の中には「超越」がある。ここ一七世紀に帰った理由がある。しかし、神は人間の意識の投影ではない。

つまりここには、はっきりしたバルトのフォイエルバッハ批判がある。他の弁証法神学者との対立・違いは、バルトのフォイエルバッハ批判についての明確さがある。

バルトは、正統主義をそのまま受け入れたのではなく、これを解釈しなおし、ただ神を対象としたのでなく、主体の出会いの出来事としたのである(ブッシュ)。

 

以上は、日本基督教団の諸先生方の真摯な問いの一部である。

バルト19 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(19)

(4)「歴史」(原歴史=キリストの出来事)について

古来、キリスト教は歴史の宗教といわれ、自然の事物を崇拝する原始的な自然宗教とは異なる。

バルトの歴史に対する理解は、一般的な歴史ではなく、神の恵みと人間の応答の間に形成された契約関係が歴史(救済史)だというのである。この救済(「神の予定」)の中に神は自己を啓示し、存在するとバルトは言う。このようにバルト神学は形而上学とは関係なく、歴史の中に生起したキリストの出来事に集中する。すなわち、歴史の過程に生起したキリストの出来事を通してだけ、神を理解しようとするのである。

その救済史とは、言うまでもなく、キリストの降誕、復活、臨在、再臨という出来事である。この歴史の全過程の中に神は存在すると、次のようにいう。

「『使徒の働き』17章二八節によれば、隠れている神は、自己の懐(原歴史)の中に世界史の全過程を包摂する存在である。したがって神の存在とは、歴史の全過程を自己の中に包み込むと同時に、歴史の過程の中に生起するキリストの降誕、復活、臨在、再臨という出来事と同一性を保持するのである」(『カール=バルト』大島末男諸、清水書院、81頁)。「神は救済史の全過程を自己の中に包み込むと同時に、救済史の過程の中に存在する。」(同上、137頁)。

上述のごとく、バルトにとって神を認識することとは、神の救済史を認識することに帰着する。この点は統一原理による神認識と同じである。神を歴史の中に生起した摂理的な出来事に見る統一原理の歴史理解は、すなわち、蕩減復帰歴史(神の現実=救済史)は、バルトの原歴史(キリストの出来事)と一致する。歴史は神の勝利の歴史を原歴史(公式的典型的な路程)として繰り返す。但し、原歴史とはキリストの出来事だけでなく、神の勝利の公式路程となったアブラハム、イサク、ヤコブの家庭的勝利路程を拡大しながらモーセの民族的路程、さらにイエスの世界的路程へと螺旋型を描きながら発展してきたと統一原理は捉えるのである。この蕩減復帰歴史の中に神が存在すると統一史観は見るのである。神の存在と神の現実はこの勝利の公式的な路程(原歴史)の中にあるというのである。

神認識が出来るか出来ないかは、われわれがキリストの出来事(「イエスの路程」=個人路程と「再臨主の路程」=家庭路程)に参与して、神の召命に従順に応答するかしないかというわれわれ自身の5%の決断次第なのである。

バルトは言う、「神から出て神へ戻る神の歴史(救済史)と神の自己認識にわれわれが積極的に参与するとき、真の歴史が形成され、真の神認識が生起するわけである。これは、神から出て神へ帰る神の歴史と神の認識が、 われわれ自身の歴史と認識となるのである」(同上、141頁)。

イエスの出来事(「イエスの路程」)が、神の召命に応答すべき人間の生き方の原型なのである。キリストの出来事に巻き込まれて救済された人間は第二次的な意味でのキリストの出来事である。この両者の間に展開される歴史がバルト神学の主題なのである。

原理観から見れば、歴史の中心は、神と人との接点、すなわち、現実のキリストであり、キリストの生き方に参与する人たちによって、世界史を根源的な意味で決定する。バルトの歴史理解は、ヤコブ路程(家庭的路程)、モーセ路程(民族的路程)を原型とするイエスの霊的路程(霊的な世界的路程)を叙述する神学であるといえる。またそれは同時に再臨のメシヤの路程、すなわち、霊肉両面の世界史的路程の洗礼ヨハネ的な使命(模型)を持った神学であると読むことが出来る。バルトにとって神の召命に応答することが、神認識の出発(「和解」)であり、参与は、完全なる神認識への過程である。それが信仰生活(信仰のアナロギア)なのである。完全なる神認識(家庭的四位基台の完成)とは具体的に何かを、バルトは説き得ないとしても、キリストを現代に蘇らせた功績は偉大である。神の本質にしろ、人間の本質にしろ、また罪認識にしろ、キリストを抜きにして論じ得ないことをわれわれに教えている。

残念なのは自然神学を否定し、ラジカルに啓示を一回きりと解釈し、キリスト以外の啓示を認めないところにある。自然神学に対してブルンナーの示す方向で啓示を理解すれば、バルト神学はもっと豊かなものとなったであろう。またボンヘッファーは「非宗教的に聖書の使信を解釈する」ことにバルトが一歩踏み出さないことに不満を表明した。

現実の歴史の中に「神の本質」と「神の存在」を見るバルトであるが、ナチスの本質を「サタン」と喝破したが、共産主義について反対せず、寛大であって、その本質を見抜けなかったことは指摘しておかなければならない。しかし、イエス様は「なんじの敵を愛せよ」と言われたことを我々は忘れてはならない。文鮮明先生も同じことを言われるのである。文鮮明先生が実践された神様の真の愛は地獄も開放する力なのです。

バルト18 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(18)

(3)「三位一体の神」について

聖書には、神はご自身の「かたち」に似せて男と女を造ったと啓示しているが、イエスは男性格主体として独身の神を顕現されたのであって、女性格としての神は現されていない。実体的な神認識に関して神の対象化は、一面的、部分的であって、今日まで誰も完全なる神(父母)を認識した人はいない。すべての宗教は、個人を救いの対象とし、家庭が対象ではなかった。

バルトの三位一体論は、「キリスト教の神論をキリスト教の神論として・・・すべてのほかの神論および啓示概念から、根本的に区別し、ぬきん出させる(『神の言葉』Ⅰ/2、15頁)と述べているように、特別な重要性をもつ。しかし神の対象化に関して、実体的には個人的(イエス)で聖霊との関係が統一原理のように簡潔・明瞭でない。

 

統一原理の三位一体論は、「神がアダムとエバを創造された目的は、彼らを人類の真の父母に立て、合性一体化させて、神を中心とした四位基台をつくり、三位一体をなさしめるところにあった」「イエスと聖霊は、神を中心として一体となるのであるが、これがすなわち三位一体なのである」(『原理講論』、267頁)と論述している。既存神学の三位一体論と相違する。

文鮮明師は、天国は一人で行くところではなく、二人で行くところであると言われている。今日では、神様の真の愛を中心とした真の家庭と言われ、さらに、三位一体の神の本体である概念的な「家庭」の自己対象化について、本体の実体である真の家庭を形成し、その家庭の「三代圏の完成」(四大心情圏と三大王権)として、次のように神の真の愛(心情)を、人間に体験可能なこととして概念的に解明されている。

「本来、神様の本然的な真の愛、真の生命、そして真の血統で連結された真の家庭の中で、祖父母、父母、孫、孫娘を中心として、三代の純潔な血統を立て、父母の心情、夫婦の心情、子女の心情、兄弟姉妹の心情を完成するときに、これらを総称して四大心情圏の完成と言います。ここにおいて、父子間の愛は、上下の関係を捜し立てる縦的な関係であり、夫婦間の愛は、左右が一つとなって決定される横的な関係であり、兄弟間において与えて受ける愛は、前後の関係として代表されるのです。このように、観念的で所望としてだけ残る夢ではなく、神様の創造理想が家庭単位に、真の血統を中心として、四大心情圏の完成とともに実体的な完成をする」(『ファミリー』2004年、5月号、9頁、 04年3月23日 米国ワシントンDC連邦議会上院)。

 

神様の完全な愛が、「家庭単位に、真の血統を中心として、四大心情圏の完成とともに実体的な完成をする。」とある御言に驚嘆する。

 

ギリシャ哲学は、神の概念に関して、唯一・絶対・永遠・普遍などの概念を提供したが、愛とかパッション(激情)などに関して概念的に表現することができなかった。これが西洋哲学の限界である。

しかし、文鮮明師の主体と対象の授受法的思惟は神の愛に関して概念的に論じることを可能にした。親子の愛は上下の関係、夫婦の愛は左右の関係、兄弟姉妹の愛は前後の関係として規定している。神の愛はこれら父母の愛、夫婦の愛、兄弟姉妹の愛、子女の愛を総合した主体的愛のことである。

 

*ギリシャ哲学は神について、唯一性、超越性、永遠性、原因性などいくつかの概念を提供してきた。しかし、こうしたギリシャ流の不変・不動といった静止的な神観や神概念をさらにおし進めていくと、神の「不感性」(情念に動かされない)に導かれていく。これは、怒り、喜び、悔いる、などと聖書に啓示されている神と矛盾する。また、ギリシャ哲学は非合理な罪の問題にも触れていない。合理的なロゴスは愛や罪について考えることは不向きなのである。このように、ギリシャ哲学のイデアとかロゴスは宇宙がいかに形成されたかを説明するのに有用であるが、合理的なロゴスに反抗し、それを乱す激情(パトス)を説明することができなかった。したがって、ユダヤ・キリスト教的な「人格神」「いける神」「愛の神」という観念をギリシャ流に抽象化し概念化することは困難であると指摘されてきた。

 それゆえ哲学的な神学はいろいろな限界があり、「啓示」の本質そのものを定義することはできないと断念され、神は「理解を超えるもの」と神秘的に解され、結局のところ、神の本質に突き入ることはできないというに至った。それで神認識はもっぱら「信仰から」ということになったのである。これがプロテスタント神学の伝統となり、理性や自然神学を退ける理由ともなった。しかし、上述のごとく、愛を概念的に規定した文鮮明先生(アダム言語)の四位基台哲学は、神認識を哲学的に論述することを可能にした。これは神学や哲学における大変な貢献である。