バルト21 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(21)
(講演)「カール・バルトの現代的意義」(E・ブッシュ)より
*E・ブッシュの講演の前半に、本文で論述したバルト神学の骨子が語られている。日本基督教団の牧師らの福音主義神学とは如何なるものなのか、また、牧師らが統一原理をどのように見ているのか、それに対して、われわれがどのように応答すればよいのか、を知ることは大変重要なことである。これらに関しては、すでに本文で述べているが、ブッシュ教授の講演を通して改めて確認することができる。
「講演内容」
「バルト神学は、近代世俗主義の持つ無神論と根本的に対決したと言えるでしょう。・・・・・。
神とは信仰または思考によって造り出された信仰または思考の前提だと理解する場合には、人間はそこでは、人間が造り出した形像とかかわるのであって、それにどれほど素晴らしい属性が付与されたとしても、神とかかわるのではありません。それらの属性は、人間によって付与されたものだからです。若きバルトが認識したところによれば、ほんとうに神であるのは、御自らがわれわれの信仰と認識の前提である方のみであって、その場合に、神によってつくられた前提は、決して人間によって『造られる』ことはありえないという事実は変わらないのです」(18頁)。
このように、統一原理の創造原理に対して、他の宗教の神観と同様に見て、「人間が作り出した形象」「どれほど素晴らしい属性が付与されたとしても」「人間によって付与されたもの」と見ているのである。そして「ほんとうに神であるのは、御自らがわれわれの信仰と認識の前提である方」「神によってつくられた前提は、決して人間によって『造られる』ことはありえない」と見ているのである。
さらにE・ブッシュはバルト神学の骨子を次のごとく簡潔・明瞭に解説する。
「神がイエス・キリストにおいて自らを啓示し給うということが、キリスト教信仰の拠りどころなのです。イエス・キリストは真ノ神(vere deus)なのです」(21頁)。
「神がイエス・キリストにおいてわれわれに向って到来し給うということによって、神とは誰かが定義されるだけでなく、人間とは誰かが同時に定義されるのです。バルトの解釈によれば、それが、イエス・キリストは真ノ神(vere deus)であるだけではなく、同時に真ノ人(vere homo)でもあるという古い言葉の意味なのです。彼は、真ノ人を真ノ神との類比において理解しているのです。」(22~23頁)
「キリストにおいてはじめて、『ほんとうに』人間とは誰であるかが規定されるというのです。神が人間なしで自分だけで在り給う存在でないように、人間に対する神の関係から神が人間と共なる神であることが認識されるように、『真の人間』は神なしで自分だけで生きている存在ではなく、神の人間に対する結びつきから神が共にいます人間こそが真の人間であることが認識されるのです」(同上、23頁)。
このように、真の神、真の人間について、バルト神学は如何に認識し得るかを述べている。
「原理的批評」
ブッシュ教授は、①「神がイエス・キリストにおいて自らを啓示し給う」、②「神とは誰かが定義されるだけでなく、人間とは誰かが同時に定義されるのです」③「人間に対する神の関係から神が人間と共なる神であることが認識される」④「彼は、真ノ人を真ノ神との類比において理解している」という。
「問題点」
①バルトはイエス・キリスト以外の啓示を認めないと他の神学者からその狭隘性が指摘され、歴史における神の啓示は一回だけかと批判されている。②統一原理から見て、バルトは「人間とは誰かが定義される」というが、「真ノ人間」とは独身男性なのか。また女性に関しては何も説いていないのではないか。さらに真の「男女の関係」や真の夫婦関係、そして真の「家庭」に関しても、何も説いていないではないか、と指摘することができる。
③「人間に対する神の関係から神が人間と共なる神であることが認識される」というが、具体性がない。キリスト者は本当に神様と共にあるのであろうか(コリントⅠ3・16、ヨハネの黙示録21・3)。神と人間の関係において、人間は僕なのか、養子なのか、実子の関係なのか、真ノ人間(イエス)が神であり、神の子であるなら、「神と人間の関係」は「親子の関係」であるが、キリスト者は神の子として「完全な者」(マタイ5・48)になれると言えるのであろうか。キリストの形に変えられていく過程であるというが、その聖化の過程にあるキリスト者は「完全な者」となり救済されると言えるのであろうか。④「真ノ人を真ノ神との類比」において真の神を認識しているというが、上述のような問題点があるのであって、E・ブッシュとの討論でA氏とB氏の「問い」にあるように、男女の人間関係について何も根本的に説いていないのではないか。また真ノ神と類比した家庭が存在するのであろうか。「神様も家庭がある」(『天聖経』2317頁)のであって、神の本体は真の父母と真の家庭であると言うのである。
以上のような問題を提起して見れば、日本基督教団の信仰義認は、救いが個人的次元で、妻は天国、夫は地獄、あるいは親は天国、子供は地獄とばらばらに別れる個人的次元の救いと信仰であるといえる。これでは救われていると、とても言えないのである。
実際において、予定論から見て、キリスト者らは、自分が予定された者として、救われているのか、いないのか定かでなく、救いに関して不安はいつまで経っても解消されないのである。信仰義認の救いは、自分は救われているという主観的な思いが基準であって客観的な救いの定義がないのである。
つまりアナロギア(「信仰の類比」、「関係の類比」)といっても、真の神の本体がおぼろげにしか分からないからに他ならないからである(コリントⅠ13・12)。
また和解は人間側からの努力ではなく、神様側からの一方的な予定であるなら、他の予定されていない人の救い(和解)はないことになる。この福音主義神学の見解では万民救済論と矛盾するのではないか。全人類の救いに無関心になるのではないか。
さらに無神論と対決するというが、バルト神学では無神論を排斥することはできても、弁証法的唯物論を統一原理の創造原理を根拠とした「勝共理論」のように、批判・克服して真の愛で彼らを自然屈服させることはできないのである。言い換えると、バルト神学では北朝鮮や中国を平和的に解放することができないし、アジアと世界の平和を実現させることはできないというのである。
以上のように、統一原理によって、バルト神学の虚構性が暴露される。
*統一原理の二性性相と言う概念は客観的存在を物質と見る唯物弁証法を批判克服する重要な概念である。また被造物をペア・システム(相対物)と捉え、主体と対象の相対的関係と見る概念は、事物を対立物と捉える唯物弁証法を批判・克服する概念である。そして事物は対立物の闘争によって発展するのではなく、主体と対象の授受作用によって存在し発展すると捉えているのである。