(五)『文化哲学』(「生命への畏敬」=愛の万物主管)
1923年、文化哲学の第1巻の表題は「文化の退廃と再建」、第2巻を「文化と倫理」とし、文化哲学の根源を「生命への畏敬」とする。
シュヴァイツァーは、神の愛を普遍化し、自然を物理的な物質と見ず、「生きようとする生命」(生への意志)と捉え、他者の生命を自己の生命の中に体験する「生命への畏敬の倫理」を説く。イエスはその体現者であるという。
「生命への畏敬」とは、一見すると物質に見える自然に、人間の心のような性相的側面を見る深い宗教性からくる悟りなのである。彼はこの「生命への畏敬の倫理」こそ、正しいキリスト教であり、人類の未来の希望であると断言する。
いち早く東洋の諸宗教と対話したシュヴァイツァーに対し『二十世紀神学の形成者たち』の著者、笠井恵二氏は次のごとく評している。
「生命倫理や地球環境の問題がクローズアップされている今日、植物にまでおよぶ生きとし生けるものへの畏敬の念をいちはやく喚起した彼の深い先見の明に、われわれは深く感動させられる」(52頁)と。
確かに神の愛による万物主管を説く「統一原理」と同様に人間の救いに止まらず、万物の救いまでも説く彼の「生命への畏敬」の神学思想は称賛に値する。
さらにまた、シュヴァイツァーが「一神論は汎神論と対立するものではない」(選集2、『わが生涯と思想』、250頁)と言う時、まさしく彼は20世紀の先駆的神学者と言うべきか。彼の神学思想は、キリスト教的一神論と東洋の自然観(汎神論)との統一の道を示しているからである。
ただし、キリスト教と諸宗教を常に対決させ、論理的思惟より倫理的宗教であるキリスト教の立場を擁護する。
この点に関して、彼は次のように述べている。
「思索から生じる敬虔さをこいねがうキリスト教は汎神論に堕するのではあるまいか、との危惧はいわれなきものである。すべて存在するものは存在の根本原因のうちに存在すると、考えざるをえないのであるから、そのかぎりにおいては、生きたキリスト教は汎神論的になるよりほかないのである。しかし同時に、あらゆる倫理的敬虔さがいかなる汎神論的神秘主義よりもすぐれているのは、それが愛の神を自然のうちに見いださずに、愛の神は愛の意志としてわれわれのうちに現われるとするからである。存在の根本原因は、自然のなかに発現するときはつねに非人格的である。しかし、われわれの心のうちに啓示される存在の根本原因にたいしては、われわれは、倫理的人格にたいすると同様な態度を見せる。一神論は汎神論と対立するものではなくて、むしろ、自然状態にある無規定のもののなかから生まれた倫理的に規定されたものとして、汎神論のうちから現われるのである。」(『わが生涯と思想より』選集2、249~250頁)。
上の文言は一神論と汎神論の問題をみごとに統一していると言えよう。しかし問題がないわけではない。神の愛は自然の内に内在するのではない「われわれのうちに現れる」といい、「自然のなかに発現するときはつねに非人格的である」という。しかし、神と人間と万物の関係が不明瞭なのである。
文鮮明師は、「自然は『真の愛』を学ぶ教材である。神様の宇宙創造の動機は愛である。『講論』では『人間』は神の形象的実体対象として、『万物』は象徴的実体対象として創造された」と述べている。自然には象徴的な愛があり、人間は本来、「神の宮」(コリントⅠ、3・16)なので神様の真の愛が顕現するのである。したがって文鮮明師によると神と人間の関係は父子関係であると説かれるのである。
ところで、周知のごとくバルトは頑迷にも自然神学を否定する。そして「シュヴァイツァーの見解において窮極的に危くなっていたのは、キリスト論である。」(註⑥)と、バルトらしく批判することを忘れない。それは彼の神学(キリストを抜きにして神を認識することは出来ない)から見た批判であって、それは一理あるが、しかし聖書は自然神学を否定していない。文鮮明師は、神は科学者であり、自然は第一の聖書であるといわれている。
以上のごとく、結論として言えることは、シュヴァイツァーのいう「存在の根本原因」(力の総括)としての神のとらえ方は、論理的思惟的に客観的な神を知る方法であり、「愛による神との合一」は、倫理的に体験的に知る方法である(キリスト教神秘主義による)。
これに対して、「生命への畏敬の倫理」(イエスはその体現者)は、それら双方のとらえ方の統一である。すなわち、万物まで包含した愛を説き、前者と後者との統一なのである。その体現者は文化人であり、そのような人たちによる文化国家の実現をシュヴァイツァーは「文化哲学」で説いているのである。
換言すると、シュヴァイツァーの神学思想の根本原理は「自己犠牲」による「行い」を強調し、愛の実践によるキリストとの合一を説く点にある。すなわち献身(自己犠牲)の倫理の実践による自己完成(神人合一)である。それは信じるだけで救われるという従来のキリスト教の教義(福音主義)への挑戦であり、また救いは個人の次元にとどまることではないということである。
*「文化と倫理」
「現代において精神の大きな課題は、世界観をつくることである。あらゆる思想は、その時代の世界観を基礎にしている。」(『シュバイツァー』清水書院、164頁)
「われわれは生命の意味をよく考えて、世界と生命とを肯定する世界観を確立しなければならない。この世界観こそ、文化の理想を樹立し、実現する力をあたえるものである。」(同上、166頁)
「倫理について語られるすべてのことは、老子・孔子・ソクラテス・プラトン・イエス・ロック・ヒューム・カント・ヘーゲル・ニーチェなどの思想家によって語りつくされているのではないか。われわれは、これらの偉大なる思想家の考えをこえる見解に到達できるのだろうか。今後これらの思想家の道徳思想を統一する理念を、見いだすことが可能であろうか。」(同上、169頁)
「人類の運命に絶望しないならば、いろいろな思想家の思想を統一する根本原理への希望を、いだくことができるであろう。」(同上、170頁)
「したがって、われわれに残された問題は、つぎの二つの試みしかない。一つは、倫理的な献身から出発して、それを自己完成の倫理のなかにとり入れることである。他の一つは、自己完成から出発して、献身を自己完成の必然的な内容として示すことである。つまり、献身の倫理と自己完成の倫理との総合が問題なのである。」(同上、173~174頁)
上の文言にあるように、「世界と生命とを肯定する世界観」、「道徳思想を統一する理念」、「献身の倫理と自己完成の倫理との総合」とは、「神の真の愛」(自己犠牲の献身的愛)を実践して自己完成し、家庭倫理として四位基台(四大心情圏と三大王権)を完成させることなのである。
注⑥『バルト初期神学の展開』(T・F・トーランス、新教出版社、108頁)