Archive for 1月, 2013

シュヴァイツァー14 信仰義認論への挑戦(14)

「原理的批評」

 十字架の死(贖罪)に対する疑念と愛の実践(「行い」)による「キリストとの合一」(復活理解)を説くシュヴァイツァーの神学思想は、イエスの本来の降臨の目的が「十字架の死」(贖罪)にあるのではなく、「神の国の実現」にあったということを確信する彼の福音書研究の結論に他ならない。イエスの公的活動はメシヤ性と無関係であるとか、なぜメシヤであることを秘密にしたのか、という指摘は、キリスト教の救いの中心である十字架の死の絶対予定説に対する否定である。言い換えると、イエスの本来の目的は死ぬためにきたのではないという神学である。

 このような神学思想がキリスト教界に出現し、霊的精神的環境圏を形成したことは、同じ発想を持つメシヤ思想である統一原理(『原理講論』)を、キリスト教界が受容可能なものとせんがための洗礼ヨハネ的使命を持った神学であると言えよう。

 キリストを信じるだけで救われるのではなく、愛の「行い」による「キリストとの合一」が救いであると強調する点は、ルター以来の信仰義認論に対する批判であり、本来的なイエス・キリストの教えへの帰還を目指すものである。

 「生命に対する畏敬」という世界観と人間観は地上天国の建設を目指す理念であり、個人の救いの次元を超えた理性的な大人を対象としたものである。それは人間だけでなく、万物の救いも包含した再臨のメシヤ思想の到来を予言する成熟社会の神学思想であるといえよう。

以上のような歴史的・学問的に誠実なシュヴァイツアーの神学思想は、イエスといえども人間学の対象とした科学的な歴史研究の結果によって形成されたものである。

また、諸宗教との対話は、宗教統一、思想統一を目指す再臨のメシヤ思想を先駆けるものであるといえよう。

 

注①    『二十世紀神学の形成者たち』(笠井恵二、新教出版社、23頁)②同40頁、③同19頁、④同51頁、⑤同42頁

注⑥『バルト初期神学の展開』(T・F・トーランス、新教出版社、108頁)

 

 

主要参考資料

『イエス伝研究史』(上)、著作集19、白水社

『イエス小伝』著作集8、白水社

『使徒パウロの神秘主義』著作集10、白水社

『わが生活と思想』著作集2、『わが生活と思想』選集2、白水社

『二十世紀神学の形成者たち』笠井恵二、新教出版社

『シュバイツァー』小牧治 泉谷周三郎、清水書院

『文化と倫理』著作集7、白水社

『キリスト教と世界宗教』シュヴァイツェル著、鈴木俊郎訳、岩波書店

シュヴァイツァー13 信仰義認論への挑戦(13)

「生命への畏敬」

 ここで、「生命への畏敬」という言葉がどのように啓示されたかについて述べておこう。

啓示にはいろいろあるが、バルトはイエス・キリスト以外の啓示を認めないが、ここでは文章を書いている時に現れてくる場合である。ルターの「塔の体験」の場合もそうであったし、シュヴァイツァーの場合もそうであった。その啓示とは、どのような心境において起ったのであろうか。

 シュヴァイツァーは文化哲学の基礎となる「生命への畏敬」の思想に到達するまで長く呻吟し道なき密林を彷徨し、時に意気阻喪(そそう)してしまったこともある。その時期、彼は河を遡ってかなり長い旅をしなくてはならないことが有った(1915年9月)。

 その旅の途上において新しい思想が突如彼に臨んだのである。その時の体験を次のように彼は述べている。

 「舟はくるしそうに砂丘のあいだをわけながら、ゆるゆるとオゴーウェ河をさかのぼって行った。ちょうど乾燥期であった。私は引舟の甲板の上に茫然と坐っていた。心中には、いかなる哲学の中にも書いてない根本的な普遍的な倫理性の概念を考えて、苦心惨憺しながら、紙に一枚一枚と連絡のない文章を書き記していた。それはただこの問題について集中しておらんがためであった。三日目の晩、日没の頃、河馬の群のあいだを舟が進んで行ったとき、突如、今まで予感もしなければ求めたこともない「生への畏敬」という言葉が心中にひらめいたのであった。― 鉄扉は開けた! 密林の路は見えてきた! ついに私は、世界人生肯定と倫理とがともに包含される理念に到達したのである! 今こそ、倫理的世界人生肯定の世界観が文化理念とともに、思考の中に基礎づけられることが、明白となったのである!」(著作集2、『わが生活と思想』、192頁)と。

 すなわち、シュヴァイツァーは自己を多くの「生きようとする意志」に取り囲まれた一つの「生きようとする意志」として感じたとき、すべての存在者との共生共栄の理念を発見するのである。

 このことに関して、また、彼は次のように述べている。

 「他者の『生きようとする意志』に対して自己のそれに対する同様な『生命に対する畏敬』を払うべき必然を感得することであるべきである。これは他者の生命を自己の生命の中に体験することである。・・・・『生命に対する畏敬』の倫理とは、すべての愛、献身、苦痛をともにし歓びをともにし努力をともにすることの一切をいうのである。それゆえ『生命に対する畏敬は』は『生きようとする意志』が思想化されたものであり、それは世界人生肯定とそして倫理とをともに含有している。」(『キリスト教と世界宗教』、93頁)。

 「他者の生命を自己の生命の中に体験する」とは、人類の罪を自分が背負って十字架についたイエス・キリストの精神と一致するものである。

 その精神は、右の文言にあるように、愛、献身、苦痛、歓びを共にし、努力を共にする一切をいうのであり、他者とは人間社会だけでなく、万物をも包含し、万物に対しても同様の精神で接するべきだというのである。

 そして、イエスは「生命への畏敬」の模範的な体現者であるというのである。

 以上が、思索が限界状況に直面した時いかに飛躍するか、それを啓示として、「閃き」として捉える場合の一つの例である。

 聖書に、人間が堕落することによって、万物までも虚無となり、万物が神の子たちの現れることを待っているという、次のような聖句がある。

「被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている」(ローマ人への手紙8・19~22)。

 この聖句は、シュヴァイツァーの「生命への畏敬」の思想の正しさを裏づけている。

 

「生命への畏敬と御言の関係」

*「(ヘリコブター)事故が起きた後に、わたしが深く悟ったことが何かと言えば、太陽も真の父母の血族であるということです。水と空気も真の父母の血族、地も一つの真の父母を育て上げるために存在するというのです。そして、存在するすべてのものは、出発から怨讐という心がありません。出発から相対的存在を調節するとか、相入れない闘争という概念がないのです。」(『ファミリー』2008年10月号、9頁。8月1日「天正宮博物館訓読会での御言」)。ヘリコブター事故(2008年7月19日)

*「この微小な動物も、神様の絶対愛の上で、絶対信仰の上で創造しました。神様ご自身も絶対信仰、絶対愛、絶対何ですか?(「服従です」)。服従です。その上に存在するこのすべてのものは、これから神様の救援摂理圏内ですべて一つになり、各自異なる万有の存在は、数千の系列、数万段階の存在として、真の父母の一身と同じ対等な位置を持つようになったということです。この砂粒なら砂粒にも真の父がいなければならず、真の母がいなければなりません。真の父母がいなければならず、真の愛と真の生命が連結され、真の血統がなければならないのです。その場は、大小の万物を中心とする万有の存在が、解放された完成した花のような香りがする園です。」(『ファミリー』2008年10月号、13頁。2008年8・1)

微小な動物だけでなく、太陽も水も空気も、「真の父母の血族」であり、「この砂粒なら砂粒に真の愛と真の生命が連結され」、真の血統がなければならないといわれているのです。その場は、「大小の万物を中心とする万有の存在が、解放された完成した花のような香りがする園です。」と言われています。これが真の愛による万物主管です。真の愛のない人は万物を主管する資格はない。

聖書に、今まで、被造物全体が虚無に服していたが、「被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。」(ローマ人への手紙、8章19節)とあるように、ついに「万有の存在」が、解放され、完成したのです。それは「真の父母」、「真理の実体」の顕現によるのです。

シュヴァイツァー12 信仰義認論への挑戦(12)

比較宗教の発端はシュヴァイツァーからです。

シュヴァイツァーは『キリスト教と世界宗教』という書物の中で、キリスト教と諸宗教を対立させ、「バラモン教と仏教」そして「シナの宗教思想」を分析し、「インド的宗教心が一元論的悲観主義的であるならば、シナ的宗教心は一元的楽観主義的である」(40頁)と述べている。彼は西洋的世界観の問題を追及してそれ自体を明らかにするために、二つのことを明らかにする。「世界人生否定的悲観主義的であるか、世界人生肯定的楽天主義および倫理的であるか、」と。

 

そしてシュヴァイツァーは次のように結論を述べている。

「いずれの思惟的宗教も、倫理的宗教であろうとするか或いは世界を説明する宗教であろうとするかを選択しなければならない。われわれキリスト教徒は前者をより価値あるものとして選択する。論理的な、それ自体において完結した宗教心をわれわれは放棄する。『いかにしてわれわれは同時に世界にあり同時に神にあることができるか』という問いに対して、イエスの福音は答える。『汝が世界の中にて生きそして世界とは異なるものとして働く・・・ことによって』と。」(『キリスト教と世界宗教』鈴木俊郎訳 岩波文庫 58頁)

 

さらにシュヴァイツァーは対立する問題点について次のように整理し理解する。

「東洋の論理的諸宗教と比較すればイエスの福音は非論理的である。それは倫理的人格としていわば世界の外に立っているひとりの神を前提する。この倫理的人格は世界において作用している力といかに関係しているかという問いの答えとしては、それは不明瞭の域を出ない。神は世界において作用している力の総括概念であること、すなわち存在する一切は神において存在するということを、それは堅持しなければならない。究極的にはそれゆえそれもまた一元論的にまた汎神論的に思惟せざるをえない。同時にしかしそれは神はただ世界において作用している力の総括概念たるべしということに甘んじない、なんとなれば一元論と汎神論の神は―世界に関する自然的思惟の神は―非人格的であってなんら倫理的性格をもっていないからである。それゆえキリスト教は二元論のあらゆる困難を自分自身に引き受ける、それは倫理的有神論である。神を世界とは異なる又私自身を強いて世界と異ならしめる意志として把握する。

 たえずくりかえしその存在の幾世期のあいだそれは神に関する自然的思惟から生ずる観念と倫理的観念とを一致調和させようとこころみる。けっして成功しない。未解決のままそれは一元論と二元論、論理的宗教と倫理的宗教の分裂を自身のなかに担う。」(同上、59~60頁)。

 

*「バラモン教的および仏教的思惟が何かを示すことができるのは、ただ世界から隠遁して無行動的な自己完成に生きられる境地にあるものに対してだけである。畑を耕しているものに或は工場で労働しているものにはそれはただこう言うことができるにすぎない、『きみはまだ真の認識には達していない、そうでないならきみは虚偽にして苦悩多き感覚世界にきみを縛りつけているその労働から目を転ずるであろうから』と。唯一の慰藉(いしゃ)としてそれがかれに期待をもたせて差支えないのは、かれが来世に生まれかわってより高い認識に達し、そしてそのときに世界から抜け出る途を探究することができるということである。」(『キリスト教と世界宗教』シュヴァイツェル、37頁 鈴木俊郎訳 岩波書店)

シュヴァイツァー11 信仰義認論への挑戦(11)

(五)『文化哲学』(「生命への畏敬」=愛の万物主管)

1923年、文化哲学の第1巻の表題は「文化の退廃と再建」、第2巻を「文化と倫理」とし、文化哲学の根源を「生命への畏敬」とする。

シュヴァイツァーは、神の愛を普遍化し、自然を物理的な物質と見ず、「生きようとする生命」(生への意志)と捉え、他者の生命を自己の生命の中に体験する「生命への畏敬の倫理」を説く。イエスはその体現者であるという。

「生命への畏敬」とは、一見すると物質に見える自然に、人間の心のような性相的側面を見る深い宗教性からくる悟りなのである。彼はこの「生命への畏敬の倫理」こそ、正しいキリスト教であり、人類の未来の希望であると断言する。

いち早く東洋の諸宗教と対話したシュヴァイツァーに対し『二十世紀神学の形成者たち』の著者、笠井恵二氏は次のごとく評している。

「生命倫理や地球環境の問題がクローズアップされている今日、植物にまでおよぶ生きとし生けるものへの畏敬の念をいちはやく喚起した彼の深い先見の明に、われわれは深く感動させられる」(52頁)と。

確かに神の愛による万物主管を説く「統一原理」と同様に人間の救いに止まらず、万物の救いまでも説く彼の「生命への畏敬」の神学思想は称賛に値する。

さらにまた、シュヴァイツァーが「一神論は汎神論と対立するものではない」(選集2、『わが生涯と思想』、250頁)と言う時、まさしく彼は20世紀の先駆的神学者と言うべきか。彼の神学思想は、キリスト教的一神論と東洋の自然観(汎神論)との統一の道を示しているからである。

ただし、キリスト教と諸宗教を常に対決させ、論理的思惟より倫理的宗教であるキリスト教の立場を擁護する。

この点に関して、彼は次のように述べている。

「思索から生じる敬虔さをこいねがうキリスト教は汎神論に堕するのではあるまいか、との危惧はいわれなきものである。すべて存在するものは存在の根本原因のうちに存在すると、考えざるをえないのであるから、そのかぎりにおいては、生きたキリスト教は汎神論的になるよりほかないのである。しかし同時に、あらゆる倫理的敬虔さがいかなる汎神論的神秘主義よりもすぐれているのは、それが愛の神を自然のうちに見いださずに、愛の神は愛の意志としてわれわれのうちに現われるとするからである。存在の根本原因は、自然のなかに発現するときはつねに非人格的である。しかし、われわれの心のうちに啓示される存在の根本原因にたいしては、われわれは、倫理的人格にたいすると同様な態度を見せる。一神論は汎神論と対立するものではなくて、むしろ、自然状態にある無規定のもののなかから生まれた倫理的に規定されたものとして、汎神論のうちから現われるのである。」(『わが生涯と思想より』選集2、249~250頁)。

上の文言は一神論と汎神論の問題をみごとに統一していると言えよう。しかし問題がないわけではない。神の愛は自然の内に内在するのではない「われわれのうちに現れる」といい、「自然のなかに発現するときはつねに非人格的である」という。しかし、神と人間と万物の関係が不明瞭なのである。

文鮮明師は、「自然は『真の愛』を学ぶ教材である。神様の宇宙創造の動機は愛である。『講論』では『人間』は神の形象的実体対象として、『万物』は象徴的実体対象として創造された」と述べている。自然には象徴的な愛があり、人間は本来、「神の宮」(コリントⅠ、3・16)なので神様の真の愛が顕現するのである。したがって文鮮明師によると神と人間の関係は父子関係であると説かれるのである。

 

ところで、周知のごとくバルトは頑迷にも自然神学を否定する。そして「シュヴァイツァーの見解において窮極的に危くなっていたのは、キリスト論である。」(註⑥)と、バルトらしく批判することを忘れない。それは彼の神学(キリストを抜きにして神を認識することは出来ない)から見た批判であって、それは一理あるが、しかし聖書は自然神学を否定していない。文鮮明師は、神は科学者であり、自然は第一の聖書であるといわれている。

 

以上のごとく、結論として言えることは、シュヴァイツァーのいう「存在の根本原因」(力の総括)としての神のとらえ方は、論理的思惟的に客観的な神を知る方法であり、「愛による神との合一」は、倫理的に体験的に知る方法である(キリスト教神秘主義による)。

これに対して、「生命への畏敬の倫理」(イエスはその体現者)は、それら双方のとらえ方の統一である。すなわち、万物まで包含した愛を説き、前者と後者との統一なのである。その体現者は文化人であり、そのような人たちによる文化国家の実現をシュヴァイツァーは「文化哲学」で説いているのである。

換言すると、シュヴァイツァーの神学思想の根本原理は「自己犠牲」による「行い」を強調し、愛の実践によるキリストとの合一を説く点にある。すなわち献身(自己犠牲)の倫理の実践による自己完成(神人合一)である。それは信じるだけで救われるという従来のキリスト教の教義(福音主義)への挑戦であり、また救いは個人の次元にとどまることではないということである。

 

 

*「文化と倫理」

「現代において精神の大きな課題は、世界観をつくることである。あらゆる思想は、その時代の世界観を基礎にしている。」(『シュバイツァー』清水書院、164頁)

「われわれは生命の意味をよく考えて、世界と生命とを肯定する世界観を確立しなければならない。この世界観こそ、文化の理想を樹立し、実現する力をあたえるものである。」(同上、166頁)

「倫理について語られるすべてのことは、老子・孔子・ソクラテス・プラトン・イエス・ロック・ヒューム・カント・ヘーゲル・ニーチェなどの思想家によって語りつくされているのではないか。われわれは、これらの偉大なる思想家の考えをこえる見解に到達できるのだろうか。今後これらの思想家の道徳思想を統一する理念を、見いだすことが可能であろうか。」(同上、169頁)

「人類の運命に絶望しないならば、いろいろな思想家の思想を統一する根本原理への希望を、いだくことができるであろう。」(同上、170頁)

「したがって、われわれに残された問題は、つぎの二つの試みしかない。一つは、倫理的な献身から出発して、それを自己完成の倫理のなかにとり入れることである。他の一つは、自己完成から出発して、献身を自己完成の必然的な内容として示すことである。つまり、献身の倫理と自己完成の倫理との総合が問題なのである。」(同上、173~174頁)

 上の文言にあるように、「世界と生命とを肯定する世界観」、「道徳思想を統一する理念」、「献身の倫理と自己完成の倫理との総合」とは、「神の真の愛」(自己犠牲の献身的愛)を実践して自己完成し、家庭倫理として四位基台(四大心情圏と三大王権)を完成させることなのである。

注⑥『バルト初期神学の展開』(T・F・トーランス、新教出版社、108頁)

シュヴァイツァー10 信仰義認論への挑戦(10)

 (四)「十字架の贖罪」

アルベルト・シュヴァイツァーは、「十字架を人類の罪の贖いとして受け取ることを拒否し」(注①)、「人が自己犠牲と苦難において自らの使命を遂行するときにこそ、共に生きているイエスを体験できる」(注②)と人間の責任分担論を語り、彼はパウロの思想をルターのごとく信仰義認論(行いによるのではなく信仰によって義とされる)と捉えることに批判的で、「キリスト神秘主義」の視点からイエス・キリストを解明していったのである。

 すなわち、「パウロはイエスを主体的に主なるキリストとして受けとめ、このキリストと神秘的に合一する体験こそがイエスを真に理解することだと考えた。」(注③)と言うのである。

 このようにシュヴァイツァーは「自己犠牲」による「自らの使命」の遂行(「行い」)によってキリストと合一し得ると言う。合一とは、イエスが自己の内に「共に生きている」という意味である。

 また、思索を強調する彼は、キリスト教の本質を次のように語っている。

「イエスによって告知され、思索によって理解されるキリスト教の本質は、われわれは愛によってのみ神との合一に到達できる、ということにある。神を生き生きと認識するとは、結局、神を愛の意志として身うちに体験することにほかならない。」(注④)と。

このように、愛による「神との合一」を強調するシュヴァイツァーは、受肉した神の子が人類の罪を償うために十字架につき、復活したというような、キリスト教が永いあいだ主張してきたことを繰り返すことはなかったのである。

「神の愛」を体験するとは、それがシュヴァイツァーの復活に対する理解でもあるのだが、彼によると、復活信仰とは「キリストの身体的な復活を信ずること」(注⑤)ではなく、イエスと「共にいる」、その時、すでに復活しているということなのである。客観的に霊の体による復活と捉えていないが。

既存の福音主義神学が「イエスの復活」を文字通り「肉体の復活」と信じることを強いるが、そのことからすれば、シュヴァイツァーの復活理解は現代人にとって理解し納得し得るものである。だがしかし、キリストが心の内に生きているといっても、それは内面的な個人的体験でしかない。復活を普遍的に万人の理解可能なものとするためには、復活とは何かを統一原理のごとく概念的に説かねばならない。そうでなければそれは復活という客観的事実を無視したシュヴァイツァーの主観的解釈に過ぎないということになる。

だが、彼の独創性と偉大さは、すでに明らかである。それは十字架の死から復活した「生きているイエス」に重心がシフトし、既存の神学的理解にこだわらず、自分の内なる声(本心)に従って問題を提起し解釈しているからである。

 

  *「キリストの死は、いかにして罪のゆるしを可能にするのか。いかにしてキリストの死が人間に救いと永遠の命をもたらすのか。何からわれわれは救われるのであるか。神はキリストが死ぬべきことを意図したのか。キリストの死において神は苦しみを受けたのか。このような疑問に対して組織的に解答を与えようとしたとき、和解に関する種々の理論が生まれたのである。」(アラン・リチャードソン著『キリスト教教理史入門』、日本聖公会出版部、108頁)。

和解に関する代表的な教義には、賠償説、充足説、刑罰説、道徳説などがある。

注① 『二十世紀神学の形成者たち』(笠井恵二、新教出版社、23頁)②同40頁、③同19頁、④同51頁、⑤同42頁