Archive for 7月, 2014

ブルンナー「出会いの神学」(7)

(三)「バルトの主張」(『ナイン! エーミル・ブルンナーに対する答え』)

 

新正統主義のチャンピオン、カール・バルトは、ブルンナーが〝正しい自然神学に帰ることが現代神学の課題である〟と言っていることに対して、次のように反論する。

 

「一般的には実証的・自由主義的な戦前の神学の影響から脱却し始めた時以来、常に次のようなものであった。それは、われわれが啓示を恩寵おんちょうとして、また恩寵を啓示として理解し、したがってまたあらゆる『正しい』あるいは『正しくない』自然神学を不断に新しく決断と悔い改めとをもって決然と見捨てるべきである」(『カール・バルト著作集2』、「ナイン!――エーミル・ブルンナーに対する答え」、新教出版社、187頁。以後『ナイン!』という)と。

 

このように、自然と恩寵との間の調停を拒否し、ブルンナーの書物は警戒警報であると断言する。

また、バルトは「調停神学はドイツの福音主義教会の今日の不幸の原因であることは明らかであり、そしてもしそういう事情が更に続くなら、また他の国の福音主義教会をも不幸に導くであろう」(『ナイン!』188頁)と予見するのである。

 

そして、キリスト中心主義の立場から自然神学に対して次のように批判する。

 

「私は『自然神学』という言葉でもって、イエス・キリストにあっての神の啓示を対象としないあらゆる(積極的にまたは消極的に)神学的とみなされている体系的思想、言葉を換えれば、神の啓示の解釈であると自称する体系的思想のことを理解する。したがって、そういう体系的思想のとる方法は、聖書の解釈とは根本的に違ったものである」(『ナイン!』191頁)と。

 

このように述べた後で、バルトは「私は全く出発点から彼と違った方向をとらざるをえないからである」(同、191頁)といい、「われわれは、自然神学を大きい誘惑と間違いのもととして、ただ恐れと怒りとをもってこれに背を向け、そして自然神学には関わり合わないで、自分自身に対してもまた他人に対しても、自分は自然神学に関わり合わないということと、そしてまた、なぜ関わり合わないかということを、その都度明らかにしうるのみである」(同、192頁)と宣言するのである。

 

バルトの批判は、近代主義の自然神学に対する先入観によるものであって、ブルンナーの正しい自然神学を誤解している。

ブルンナーは、「キリストの啓示」と「自然を通しての啓示」という二つの啓示の相関論を述べているのである。それなのに、バルトは、それを理解せず、「キリストの啓示のみである」といい、自然神学は「誘惑と間違いのもと」と従来からの主張を繰り返えすのである。

 

「原理的批評」

 

ブルンナーが主張する〝キリストの啓示〟と〝自然の啓示〟による「正しい自然神学」(「体系的思想」)に対して、バルトが、自然神学は「聖書の解釈とは根本的に違ったものである」と主張するのは、相手の言い分をよく聞かないバルトの誤解によるものである。

また、自然神学の排除は、彼の主観的な聖書解釈に起因するのである。

 

バルトは、出発点から、自己の神学的立場(キリスト中心主義)とブルンナーの神学とを区別し、感情的になって、「自然神学を大きい誘惑と間違いのもと」、「ただ恐れと怒りとをもってこれに背を向け」、「自然神学には関わり合わない」と述べている。

 

このバルトの聖書の解釈は、自己主張する分派主義であって、福音主義教会を偏狭にする。また、自然神学を否定する彼のキリスト中心主義は、現在、環境破壊によって危機的状況下にある自然を救済する視点がないと言えよう。

 

芦名定道氏は「環境論とキリスト論」について、次のように述べている。

 

「(近代神学においては)もはやキリストは人類の歴史との関係でのみ問題とされ、キリストの出来事と地球環境や宇宙全体との関わりで理解することはほとんど現実性を持ち得なくなった。一千億の銀河を包括した大宇宙の百五十億年の歴史の創造者にして救済者が惑星地球の一人間の生涯である三十年という一瞬においてのみ具体的な形をとって現れたというキリスト論の主張は、現代の科学的宇宙論を前にして激しい挑戦を受けている(McFague [1993],p.159)。キリストの出来事は古代のキリスト論が主張したような宇宙論的意味を再び回復することができるのか、あるいはキリストの出来事の意味はその歴史性(さらには世界史から区別された実存の歴史性)に限定されざるを得ないのか。これが環境論が提起する問いとキリスト論との関わりを論じるための思想史的な前提なのである。しかし、以上の歴史的事情より科学的宇宙論との積極的な関係構築を試みるだけの基礎作業が神学の側に欠けているため、本格的な『自然の神学』『コスモロジーの神学』は現在のところ存在しない――古い『自然神学』への逆戻りではなく――。これが環境危機に対する神学的取り組みを困難なものにしている。なぜなら、環境論から問われているのは『自然』や『環境』についての神学的理解であるにもかかわらず、現代神学はこれについて本格的な議論を展開する基盤(キリスト論的な)を失っているからである。」(『キリスト論論争史』水垣渉・小高毅編、日本基督教団出版局、556-557頁)

 

現代神学を牽引してきたバルトの福音主義神学の欠陥を、見事に指摘しているではないか。

ちなみに、統一原理は「創造原理」と「キリスト論」で、キリスト(真の人)は天地万物の中心存在であると次のように述べている。

 

「完成した人間は、神が常に宿ることができる宮(コリントⅠ、3・16)」(『原理講論』252頁)、「神と人間が合性一体化した位置が、まさしく天宙の中心となる位置なのである。」(同、60頁)、「創造目的を完成した人間は、天宙を総合した実体相となるのである。人間を小宇宙であるという理由はここにある。」(同、253頁)、「人間が存在して、被造物を形成しているすべての物質の根本とその性格を明らかにし、分類する……動植物や水陸万象や宇宙を形成しているすべての星座などの正体が区別でき、それが人間を中心として、合目的的な関係をもつことができるのである。……物質から形成された人間の生理的機能が、心の知情意に完全に共鳴するのは、物質もやはり、知情意に共鳴できる要素をもっているという事実を立証するものにほかならない。このような要素が、物質の性相を形成しているために、森羅万象は、各々その程度の差こそあれ、すべてが知情意の感応体となっている」(同、59-60頁)と。

 

この統一原理の宇宙論的「キリスト論」、すなわち、科学的宇宙論と「キリスト」(創造本然の人間)との関係論は、現代神学が求めている環境破壊に対処するキリスト論的な基礎を与えていると言えよう。統一原理のキリスト論は「自然の神学」「コスモロジーの神学」を包含している。

 

ところで、バルトは、自然神学の否定のために、次のような狂信論を語ることも躊躇ちゅうちょしない。

 

「自然神学を本当に拒否する時には、われわれは先ず初め蛇をにらみつけ、次に蛇によって自分がにらみつけられ、催眠術にかけられ、そして遂にまれるのでなくて、われわれは蛇を見たとたんに既に杖をもって打ちかかり、打ち殺してしまっている。」(『ナイン!』192頁)

「自然神学を本当に拒否することは、神を恐れることの中でのみ行なわれうる。したがってまた、自然神学に対して全く無関心の中でのみ行なわれうる」(『ナイン!』193頁)と。

 

以上のように、彼の論争術は、巧妙で感情論をあおり、自己の見解と相違する聖書解釈に対して敵対的になり、特に、自然神学を容赦しない。それはまるで中世の異端審問官のようでもある。

バルトのような〝絶対信仰〟の立場に立つ人たちに対しては、冷静に理性的に相手の主張をよく分析して反論し、対処しなければならない。しかし、誤りを指摘しても聞く耳を持たない人たちであることも心得ておくべきであろう。

 

(A)「バルトの自然神学批判の中身」

 

バルトは、ブルンナーの主張を、次のようにまとめて彼を批判する前提とする。

 

「ブルンナーの言う自然神学とは、次のようなものである。すなわち、人間には啓示なくしても人間自身が本来持っていて、そして啓示の中で言わば甦えって来る『啓示能力』(147頁)、または『言語能力』(150頁以下、172頁)、または『呼びかけられうる能力』(150頁以下)というものがあるということである。」(『ナイン!』195頁)

 

上述のまとめに続き、バルトは、次のように「言語受容能力」を批判する。

 

「『最高絶対にして自由に選ぶ神の恩寵』なくしても、人間に『啓示能力』があって、その能力はその神の恩寵によってただ助けられるにすぎないとすれば、そういう神の恩寵は一体いかなるものであろうか。もし人間が自分自身からしては自分の救いのためには何もなしえないなら、そしてもし人間に十字架の言葉を生ける認識としてくれるものが聖霊であるならば、『言語能力』とは何を意味するのであろうか――」(同、195-196頁)と。

 

周知のように、ブルンナーは、神の言葉を聞き理解するには「言語受容能力」と「応答責任性」が不可欠であると述べている。

この「言語受容能力」との関係で、誰しもプロテスタントの信仰義認論に対して素朴に疑問をいだく事柄がある。それは、信仰が全く真理の承認と無関係な事柄であるならば、教義的問題などはどうでもよいことになる。

 

しかし、はたしてそうであろうか。この問題に関する、下記のカトリックの批判は傾聴に値する。

 

「直接的救済は、必ず彼等の有する恩寵や神の前における義、又は予定説プレデスチネーションの観念によって説明される。これは体験的プロテスタンチズムに内在する矛盾に基づくのであって、いくら信仰は真理の承認ではなく神への人格的信頼だとか、愛の関係(智的要素を除外せる人格的関係もありうると見える)であると定義しても、少なくともその体験する神とは何ぞや、キリストはいかなる方か、神の前における我は何者か等の教義的背景なしに、上述の関係が成立するはずはない。」(『カトリックの信仰』、岩下壮一著、講談社学術文庫、642頁)

 

常々、われわれが信仰義認論に対していだく、一つの疑問(信仰義認と教義の関係)についての明確な解答が、上述の文章の中にある。

 

これに対して、バルトの主張は、ブルンナーが指摘しているように「恩寵のみ」、「聖書のみ」、というだけである。

 

ブルンナー「出会いの神学」(6)

(C)「自然神学が神学および教会に対して持っている意味」

 

(1)「キリスト教の社会倫理」について

 

ブルンナーは「キリスト教の社会倫理」という主題の基で、次のように述べている。

 

「自然神学に対してどういう立場をとるかが、倫理の性格に関して決定的であるということである。……キリスト教倫理にとって創造の秩序の概念は、最初から啓蒙主義の時代に到るまで、社会組織の問題と関係しているすべての事柄に対しての、したがって職業、召命、結婚、国家等々についての思想の中で標準的であった、と。昔から、全世紀を通して、キリスト教の社会倫理はイエス・キリストに基づいた愛――神が与え給うた構造のままの共同社会の諸形式の中で、生きて働いて来なければならない愛――についての思想であると定義することができる。それであるから社会倫理は、救済するキリストの恵みの概念を通して規定されているのと同様、また常に神の創造の恵みおよび保持ほじの恵みの概念を通して規定されている。」(ブルンナー著『自然と恩寵』168頁)

 

このように、社会倫理は「キリストの恵み」の概念を通して規定されているのと同様、また、常に「神の創造の恵み」および「保持の恵み」の概念を通して規定されているというのである。

 

さらに、彼は次のように述べている。

 

「諸秩序は神の律法の一部分である――例えば結婚の秩序、すなわち一夫一婦制の命令や、国家の秩序すなわち政府当局を認めてこれに服従することは、神の律法の一部分である。律法は――それが書かれた法であろうと自然法(lex naturae)であろうと、以上述べたいろいろの秩序の中の一つであろうと――神の意志の啓示されてあること(Offenbartheit)をあらわす形式である。……ただ聖霊だけが我々に、律法と秩序を正しく、現時点にふさわしい仕方で認識することを教える。それはちょうど聖霊だけが律法と秩序にわれわれが従う時に、単に外面にばかりでなく、内面的にも神の意志が行なわれるというふうに従うことの出来る力を与えてくれるのと同様である。」(同、169頁)

 

キリストと聖霊との関係で、ここで一言述べておかなければならない。

上述のごとく、ブルンナーは、聖霊のわざは「『現時点』にふさわしい仕方で認識することを教える」と述べているように、聖霊が教えるのは現時点までで、言い換えると、再臨主が顕現するまでである。

なぜなら、「結婚」や「国家の秩序」や「自然法」は、再臨主の御言みことばによって完全な真理の内容としてすべてが教えられるからである。

 

(2)「アナロギアの思想」について

 

ブルンナーは、「神のかたち」と関連する「アナロギアの思想」(存在の類比)について、次のように述べている。

 

「アナロギア(Analogie)の原理及びそれに対するバルトの論争に関してここで一言ふれなければならない。バルトはアナロギア(Analogie)の原理がどのように用いられるかということの中に、カトリックの思想とプロテスタントの思想との間の一つの、いな、唯一つの対立を、見てとった最初の神学者である。バルトはこう主張する、すなわち、それ自身の中に始めから神との類似性を持つ被造物は存在しない。ただキリストにあっての啓示を通して、そして聖書を通して初めて被造物は神との類似性を持つという資格を付与されるのである、と。これは前代未聞の神学的唯名論であって、それと比べるなら、オッカムの唯名論でさえ無害と思われる。なぜなら、そうだとすると、われわれが神を『父』、『子』、『聖霊』と呼ぶこと、われわれが神の『言葉』について語ること等々は、神がそのほかの何物かとよりも父と類似性を持つということに基づいているのではなく、単純に神が聖書の中でそのように語っているからという事実に基づくということになるであろうからである。つまり、神がそう語るのは、そういうことが――神の創造したものを通して、神の創造の時以来――始めからそうであるからではなく、それは神の語った聖書を通して、初めてそのようになるからである。」(同、169-170頁)

 

上述のごとく、バルトは、「それ自身の中に始めから神との類似性を持つ被造物は存在しない。ただキリストにあっての啓示を通して、そして聖書を通して初めて被造物は神との類似性を持つという資格を付与されるのである」という。

 

ブルンナーは、バルトのこの見解に対して唯名論であると批判しているのである。被造物が神との類似性をもつのは聖書によって資格が付与されたからではないというのである。「キリストの啓示」とか「聖書の啓示」がなくても、人間の意識から独立して客観的に存在するすべての被造物には、神の印章(類似性)があるというのである。

 

上述の事柄を一言でいえば、バルトの思想とは客観的存在を認めない粗野そやな主観主義の哲学であると言っているのである。分かりやすく表現するなら、バルトの「聖書のみ」(聖書の解釈)とは、聖書に書かれていない〝ガリレオやコペルニクスの地動説は異端である〟と断罪するような立場なのである。

 

統一原理は「創造原理」で、「被造物はすべて、無形の主体としていまし給う神の二性性相に似た実体に分立された、神の実体対象である……人間は神の形象的な実体対象であるので形象的個性真理体といい、人間以外の被造物は、象徴的な実体対象であるために、それらを象徴的個性真理体という」(『原理講論』47~48頁)と述べている。

 

ブルンナーは「世は神によって創造されたものである。あらゆる被造物の中でその創造主の霊が何らかの仕方で認識される。すべての名人の真価は作品に現われる」(『自然と恩寵』より)と述べている。

彼は、「キリストの啓示」と「聖書の啓示」以外に、神は「自然を通しても啓示される」というのである。

 

ブルンナーは、「バルトの教義学も、そのほかのすべての教義学と同じようにアナロギア(Analogie)の思想の上に基礎を持っている。ただ、バルトはそのことを認めようとしないだけである」(同、170頁)と述べ、さらに、神と人間との「存在の類比」について、次のように述べている。

 

「われわれが神について語る時には人間の人格のたとえをもってするより以外の仕方では決して語りえない、ということが含まれている。そういう思想の上に、バルトの神学全体は基づいていることを意味する。父、子、聖霊、主、言葉――こういうキリスト教神学や聖書の宣教にとって決定的な諸概念は、人間の人格に関する概念である。そういう人格概念がすべての自然概念(そのことばの近代的意味における)よりぬきんでているのは、神がとにかく不可解な仕方でそのように欲し給うから、という理由によるのではなくして、神が人間の中に類似した本質、すなわち人間だけがもっている神に類似した本質、を創造したという理由による。神と類似した本質、すなわち主体的存在あるいは人格的存在は、また罪によっても〔ただ啓示を通してだけ認識されるという程度に〕破壊されてはいない。したがって、この類似性は、すべて自然との類似(Naturanalogie)とは違って、まさしく啓示を通してこそ初めて確認される、というようなことは言えない。」(同、171頁)

 

このようにブルンナーは、「神と類似した本質、すなわち主体的存在あるいは人格的存在は、また罪によっても〔ただ啓示を通してだけ認識されるという程度に〕破壊されてはいない」というのである。

 

ここでも一言、原理的に述べておかなければならない。

神と人間との「存在の類比」は、神と堕落人間との類比ではなく、神と堕落していない創造本然の人間であるキリストとの類比(父と子の関係)のことである。

 

ただし、本然の人間とは、神の似姿である堕落していないアダム(男)とエバ(女)のことであって、イエスは「第二アダム」(コリントⅠ、15・45以下)といわれるが、女性(エバ)を忘れてはならない。神には、男性的性相と女性的性相の二性性相があるのである。

したがって、神と人間との関係(父と子の関係)は、神(天の父母)と人間(アダムとエバ)の関係のことである。「天の父」という神概念に、男性性相だけでなく女性性相があるのである。

 

ブルンナーは、自説を次のようにまとめて述べている。

 

「人がそもそも神について語り、神の言葉を宣教しうることは、客観的には、神がわれわれを神のかたちに創造したということの中に、その基礎を持っている。しかし主観的には、そのことがわれわれに対してイエス・キリストの中で啓示されるということの中に基礎を持っている。神が人間となるということは、人間が神に似た姿であることを、それの真理と深さに従ってわれわれが認識する認識根拠である。そして、神に似た人間の姿が、形式的な側面から見ると、破壊されてないということが、神の『言葉』の中での神の啓示を人間が受ける客観的可能性である。

教会は、神の言葉と人間の言葉の間にある、神の創造によって造られた関係による以外の仕方では、決して宣教することはできない。教会が宣教するということ(Daβ)は、この神のかたち(imago Dei)の『残存』の上に基づいており、教会の宣教の内容(Was)は、この像の残存がキリストにあって回復されるということに基づいている。教会もまた、われわれは人間と『とにかく神について語り』うるということの上に立たされる。それが、『結合点』である――それはすなわち、言語能力と応答責任性ということである。」(『自然と恩寵』172頁)

 

そして彼は、「経験に従えば、自然神学を軽蔑することと共に、教育学的要素の蔑視べっしが起こってくる。そのことは、教会の中ではわざわいなる結果を招来しなければならぬ」(同、173頁)と警告する。

 

また、「あらゆる自然神学を軽視することは、教会の中では直ちに――そして今日は前よりももっとそうであるが――教会を完全に孤立化せしめることになるであろう」(同、174頁)と言うのである。

 

そして、このブルンナーの神学の確信は、偽りの自然神学が最近のプロテスタントの思想に大きな損害を与えたのであり、また、現在も教会をおびやかしつづけている。だから、正しい自然神学に立ち返ることこそが、現代の神学の課題であるというのである(『自然と恩寵』、174-175頁を参照)。

 

ブルンナー「出会いの神学」(5)

(B)ブルンナーによる「宗教改革の思想」について

 

ブルンナーは、バルトに反論して、「わたしの主張はトマス主義的でもなければ新プロテスタント主義的でもなく、すこぶる宗教改革的である」(ブルンナー著『自然と恩寵』、154頁)といい、「ブルンナーの自然神学がトマス的であるならば、カルヴァンの自然神学はもっとトマス的である」(同)と主張する。

 

(1)「カルヴァンの自然神学」(「自然の啓示」と「聖書の啓示」)

 

ブルンナーは、カルヴァンの自然という概念は近代的な言葉の用い方におけるのとは全く違った意味を持っている。自然は、精神あるいは文化と対立するものではないというのである。

 

彼は、宗教改革者カルヴァンの「自然観」について、次のように述べている。

 

「カルヴァンにおいては、自然は存在の規範という概念と同様のものである。そして数え切れないほど、頻繁に次のような表現が繰り返されている。『自然ハ教エル』(natura docet)。『自然ハ語ル』(natura dictat)。それは、カルヴァンにとっては『神が教える』というのとほとんど同じ意味である。詳しく言うならば、天地創造の時以来、世界に刻印せられた神の意志、すなわち神的な世界規則(Weltregel)が教えるということと同じである。それ故に、カルヴァンにとっては、自然法(lex naturae)という概念を、創造の秩序という概念と同様に用い、しかも両者をほとんど同じ価値、同じ意味のものとして用いるということは全く自明的なことである。自然法と創造の秩序というこれらの両方の概念は到るところで頻繁に用いられている。」(『自然と恩寵』155頁)

 

このように、ブルンナーは、カルヴァンの自然は存在の規範という概念と同様のものであると言うのである。

 

そして、彼は、キリスト者にとって自然的神認識は不可欠であると次のように述べている。

 

「聖書から得られる神認識に対する重要な補充である。確かに自然の中での神認識は、たとえて言うならば、われわれは自然の中で、神の手と足を認識するが、しかし神の心を認識しない。神の知恵と全能を認識するし、そしてまた神の正義、否、親切をさえも認識する。しかし罪を赦す神の憐れみを、無条件的に交わりを欲する神の意志を、認識しない。しかし、自然的神認識のこの不完全さは、少しもそれを過小に評価するための理由にはならない。神の言葉によって教えられた者も、そのような自然的神認識を欠くことはできない。神の言葉によって教えられた者は、自然的神認識を必要とするばかりでなく、自然的神認識によってまた特に促進せしめられるゆえに、自然的神認識に対して義務がある。」(『自然と恩寵』157頁)

 

ところで、バルトは「聖書のみ」と言って、「自然の啓示」を排斥する。この見解に対して、ブルンナーはどのように見ているのであろうか。

 

彼は次のように述べている。

 

「自然の啓示は、聖書を通じて明瞭化されると同時に、補充される。聖書は『レンズ』として役立つ。換言すれば、聖書は自然の啓示の拡大鏡として役立つ。別の譬(たと)えを用いて言うならば、聖書の啓示を通じて、自然の啓示の中での神の声は非常に大きくされるので、眠っている人間は、さもなければ聞き過ごしてしまう自然の啓示の中での神の声をきかざるをえなくなる。そして、二番目に、聖書はわれわれに神の心を示す。しかし自然の啓示の中では、少なくともその神の心の最も内面の奥義はわれわれに明らかにされない。いずれにしても、聖書の啓示によって自然の啓示は決して余計なものとなってしまわない。逆に聖書によって初めて、自然の啓示はまさしく効力を発揮する。そしてほかならぬ聖書の中においてこそ、われわれは自然の啓示に注意するよう教えられる。」(同、157頁)

 

このように、「聖書によって初めて、自然の啓示はまさしく効力を発揮する」というのである。

 

そして、ブルンナーは、「この関係はなおまた特別に、神的意志の認識について、すなわち律法と自然の秩序についても言える。われわれは、神の律法を理性の中で、あるいは良心の中で、知る」(同)と述べている。

 

「『殺すな、姦淫をするな、盗むな、偽証を立てるな。父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ』」(マタイ19・18-19)という戒めは、理性の中で、良心の中で、知るということである。

 

ブルンナーは、創造の秩序とカルヴァン的な倫理の関係について、次のように述べている。

 

「自然法は、まさしく神の創造の意志(Schöpfungswille)だからである。それと同じことが、もろもろの秩序についても言える。創造の秩序、あるいは自然の秩序は同様に、罪によって幾分暗くされており、キリストからして再び、新しく認識されなければならない。しかしまさしく、これらの自然の秩序は、キリストからして、創造の秩序として新しく認識されなければならないのである。創造の秩序の上に倫理を打ち建てようと欲し、しかもカトリック的とならない神学者は、素人であると、もし現代のある一人の神学者があえて主張するなら、この判決を受ける第一人者はカルヴァンである。カルヴァン的な倫理は、創造の秩序の概念なしには全く考えられない。しかしここで、倫理について語る前に、カルヴァンの自然神学に関するもう一つの概念が展開されなくてはならない。その概念は、彼の倫理にとって基本的なものなのである。それはすなわち、神のかたちの概念である。」(『自然と恩寵』157-158頁)

 

このように、カルヴァン的な倫理は、創造の秩序の概念なしには全く考えられないという。彼の倫理にとって、基本的なもの、自然神学に関するもう一つの概念、すなわち、それは「神の像」の概念であるというのである。

 

(2)「神の像」について

 

ブルンナーは、その「神の像」について、次のように述べている。

 

「神の像の概念は、カルヴァンの人間論の基本概念である。この神の像の概念の取扱いの中で、カルヴァンはまた、ほかのところではほとんど見られないほどはっきりと、彼の神学全体の関連を、なかんずく自然神学と、その言葉の狭い意味での啓示神学(theologia revelata)との間の関連を明らかにしている。神の像は、一方においてはキリスト論を指し示す、なぜならば、キリストはあの摸像もぞうである人間の像(imago)に対する原像であるから。しかし、神の像は、神の像の完全な内容がただキリストと聖霊を通しての『回復』(reparatio)、『再生』(regeneratio)からしてのみ、認識されるかぎり、さらにより明確に、救済論を指し示す。特に好んでカルヴァンは、イエス・キリストへの信仰を通して起こるところの『再生』の内容全体を、『像の回復』(reparatio imaginis)という概念といっしょに結びつけている。『再生』および『回復』というこれら二つの規定でもって言われていることは、『神の像』の概念は、キリスト教神学においては、ただまさしくこの像の喪失としての罪の概念と関連づける時にのみ理解されることができる、ということである。」(同、158頁)

 

以上のように、「神の像」は人間論の基本概念であり、また、キリスト論と救済論に関連する根本概念であると述べている。

 

ところで、「神の像」は男だけを指し示すのではない。神は「神の像」としてアダム(男)とエバ(女)を創造されたのである。したがって、統一原理は、神は男性性相と女性性相の「二性性相」であるというのである。

 

ちなみに、ティリッヒは、女性的要素の排除について次のように述べている。

 

「キリスト以後5世紀から今日に至るまで聖処女(Holy Virgin)の表象が象徴的能力をもってきたということは、神と人間との間におけるすべての人間的仲保者に反対して戦われた宗教改革の戦において、この象徴を徹底して排除したプロテスタント・キリスト教に対して一つの問題を提起する。この追放によって、究極的関心の象徴的表現における女性的要素はおおむね排除された。」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、369-370頁)

 

今後、神学的に神の女性的性相が、あるのか、ないのか、が問題となるであろう。神概念を存在論的に論述している統一原理は、「自然の啓示」と「聖書の啓示」を根拠とし、神は男性性相と女性性相の二性性相であると述べている。

 

ところで、「神の像」と救済論との関係で、ブルンナーは「キリストと聖霊を通しての『回復』あるいは『再生』」と述べている。この彼の「回復」「再生」という表現を、バルトから和解によって「新しい人間、新しい被造者となった」ということは「人間の回復能力を全然考慮に入れることのできないようなものである」(バルト著『ナイン!』212頁)と批判されるのである。

 

ティリッヒは、「回復」「再生」と言わずに「新しい存在」といい、統一原理は「重生じゅうせい(新生)」と表現している。「重生(新生)」とは、新たに生まれるという意味である。

 

イエスは、ニコデモと次のような対話をしている。

 

「『だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない』。ニコデモは言った、『人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか』。イエスは答えられた、『よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。…』」(ヨハネ3・3)

 

この対話の意味を原理的に解説すると、「水」とは洗礼のことであり、「霊」とは聖霊のことである。それで、下記のごとく『原理講論』では、聖書の「霊」という言葉を〝聖霊〟と言い換えて、「聖霊によって新たに生まれなければ、神の国に入ることができない」と述べているのである。

また、新たに生まれるためには父母がいなければならない。したがって、イエスが「真の父」であるなら、聖霊は「真の母」であると述べているのである。

 

また、ニコデモの問いである「もう一度、母の胎にはいって生れる」とは、いかにして原罪を清算するのかという問題に関するものであって、「生れる」とは、人間は罪人として生まれた堕落の経路と反対の経路を遡行そこうして、再び新しく生み直してもらうことを意味する(重生)。「霊から生まれる者は霊である」とは、十字架の死後、復活した霊的イエスと聖霊から霊的に重生(新生)したキリスト者のことである。

 

ところで、ブルンナーは、一方において、確かに「人間は聖書の中での、あるいはイエス・キリストの中での、啓示なくしても、自然の中で神を認識する能力を持っているのである」(『自然と恩寵』160頁)と述べている。この主張がバルトの目に留まり、「否!」と批判されたのである。

 

しかし、他方において、「主観的な自然という意味での自然神学は、われわれがキリストの中で持っているところのよりよい認識によって、全く余計なものとして、効力を失わしめられる。しかしキリストそは、この不完全であるばかりでなく、また常に不真理によってゆがめられた主観的・自然的神認識の代りに、われわれに真の自然神学、神の業の中での神のまことの認識を取り戻す方である」(『自然と恩寵』、160頁)と述べている。

 

ブルンナーの言う「正しい自然神学」とは、統一原理に他ならない。

 

神によって創造された自然は、ペア・システムとして存在する。したがって、統一原理による存在論からの神認識は、神は二性性相(男と女)であると捉えている。

しかし、バルトは「聖書のみ」と言って自然神学を排除し、存在論から創造神を見ようとしない。バルトは、聖書から「三位一体の神」というが、神の女性的性相を捉えることができないのである。聖書には「神の像」として、神はアダム(男)とエバ(女)を創造した(創世記1・27)と述べている。

したがって、神には男性的要素と女性的要素の二性性相があるのである。この神概念は、存在論(自然の啓示)と聖書の啓示の二つの啓示から捉えている。

 

文鮮明師は「宇宙の根本」の中で、次のように述べておられる。

 

「力よりも作用が先です。作用は、一人ではできないのです。必ず主体と対象がなければなりません。この宇宙は、ペア・システムの原則、公式に立っています。ペア・システムになっているというのです。結論がそうです。世界がどれほど簡単か見てください。鉱物世界も相対でできています。すべてそのようになっています。植物もペア・システム、動物もペア・システム、人間もペア・システムになっています。神様も二性性相です。それは、永遠の真理であり、公式です」(八大教材・教本『天聖経』「宇宙の根本」1578頁)

 

さらに、「宇宙の根本は愛である」(同、1583頁)、「人間は万宇宙の愛の中心」(同、1589頁)、「天地をペア・システムで、造ったのは何のためですか。これは、愛の博物館です」(同、1600頁)と述べておられる。

 

ブルンナーは、「自然の啓示と聖書の啓示との関連性は、最後にカルヴァンが、倫理に関して神の像をどう用いているかということの中で示される。……正しい自然倫理(ethica naturalis)は自然神学と同様、ただキリストにあってのみ完成される。」(『自然と恩寵』161頁)と述べている。

 

上述の言葉は、文鮮明師の御言みことばをキリスト教会に受容可能にする〝洗礼ヨハネ的な発言〟であるといえよう。

 

ブルンナーによると、「以上が、大ざっぱに言って、カルヴァンの自然神学である。それはまた、すべての本質的な点において、ルターの自然神学でもある」(ブルンナー『自然と恩寵』162頁)というのである。

 

ここに至って、争点がより明確になる。宗教改革的というのは、ブルンナーが主張するように、「二種類の啓示」(「自然の啓示」と「キリストの啓示」)から自然神学を肯定することなのであろうか。

あるいは反対に、バルトが「恩寵のみ」「聖書のみ」と主張するように、自然神学を否定することなのであろうか。

これは、統一教会の神学思想と、「統一原理」を批判する日本基督教団の一部の神学者や牧師らとの〝対立点〟でもある。