Archive for 5月, 2013

バルト17 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(17)

「補足」

(1)「信仰と理性、人間の努力や責任」について

バルトは応答する能力は和解によるというが、ブルンナーは人間の理性的本質は罪によって実質的には歪められているとしても、神の啓示を受け容れる形式的な可能性をもつと次のように述べている。

「人間はまた罪人としても、他人の語り相手となることができ、また神の語り相手となることもできる」(カール・バルト著作集2、エーミル・ブルンナー『自然と恩寵』、144頁)。「形式的には神の像(imago Dei)は少しも毀損されていない」(同上)。

このように、人間は主体であり理性的存在であり、言語受容能力と応答責任性があるというのである。確かに、「人間だけが神の言葉を受けることができる存在である」(『自然と恩寵』、150頁)。聖書が与えられているのがその証拠であるといえよう。

事実、和解以前のノアやアブラハムやモーセらは、神に応答していたのである。

これに対して、バルトは神の呼びかけに応答する能力でさえ、人間に生得のものではなく神の啓示と聖霊の働きによって新しく創造されるものであるというのである。「聖霊のみによって―ただ恩寵のみによって」(著作集2、カール・バルト、『ナイン!』197頁)と。

バルト神学は信仰には認識が対応している。信仰が認識に先行する。

これに対してブルンナーは次のように批判している。「聖書が信仰を聖霊の業、聖霊の賜物と呼んでいることは確かであるが、しかし聖書は決して聖霊が私の中で信じるとは言っていない。聖霊が私のなかで信じるのではなく、私が聖霊を通して信じるのである」(同上、『自然と恩寵』、152頁)と。統一原理と同様に、信じるということは神の「95%の責任分担」ではなく人間の意志である「5%の責任分担」であることを強調している。人間はロボットではない。5%は神の創造の偉業に人間が参与することであり、人間のみに与えられた偉大な特権である。神のみ旨は「神の95%の責任分担」と「人間の5%の責任分担」の合力よって成就するのである(『原理講論』予定論より 237~250頁)。

 

(2)「トマスの神学」(Thomas Aquinas 1225年頃~1274年)

さてここで、トマスの神学について、少々弁明しておかねばならない。

先に見たごとく、バルトの神学は「自然神学と啓示神学」「理性と信仰」「自然と恩寵」などは、本来絶対に相容れないもの、すなわち、不倶戴天の敵であるという見解が前提となっている。

トマスの神学は、聖書は単に狭い意味での超自然的真理のみならず、自然的真理についても、超自然的立場からのある判断を含んでいると考えられているのである。つまり、聖書は自然神学を除外せず、却ってこれを包含するということである。それが、トマスの「恩寵は自然を破壊せず、却ってこれを完成する」という有名な命題なのである。すなわち、「自然神学と啓示神学」「理性と信仰」とは対立するものではなく、却って前者は後者を受け容れる前提なのであり、啓示神学によって完成するということなのである。

ところで、「完成する」とは、自然に有徳の人が、その徳を積んで完成すればキリストのごとくになれるという意味ではない。罪人はキリストに接木されて初めて可能となる。連続性ではない。生まれ変わるのであって、「再生」、それは過去との質的断絶である。ペラギウス主義は自然と恩寵、道徳と宗教、などを「連続的」に捉えるが、「完成する」をペラギウスのごとく捉えるのではない。また、そのようにトマスを解釈して批判するのは誤解による。

恩恵はあくまでも自然の次元を超えたものであり、その限りにおいて、確かに自然と恩恵との間には断絶がある。しかし、恩恵は自然を否定しないのである。

トマスによれば、「恩恵を受けることによって自然そのものの構造が、それの『あるべきすがた』と、それが現実に『あるすがた』との両方を含めて、いっそう明瞭に透視されてくる」(『トマス・アクィナス』山田晶著、中央公論社、47頁)ということなのである。

恩恵によって現存する被造物の姿と本来あるべき姿(創造本然の姿)が明瞭に分るということである。どのように本来あるべき姿に復帰するかは、連続か中断かですでに述べている通りである。

以上のように、トマスの神学体系は、理性の探求によって得られる神学と、啓示によって与えられる神学を対立させず、前者を後者に秩序づけられているのである。それは決して批判者が言うような自然神学と啓示神学の無原則な折衷でも混合でもない。もちろん、ここで、トマスの神学体系が全き真理であると言っているのではない。啓示と自然の関係について、どのように理解すればよいのか、ということに限って、弁明したのである。ただし、バルト神学からはキリスト以外の啓示を認めないので、啓示神学による自然神学の秩序づけといっても、その啓示、すなわちキリスト抜きでの神認識は拒否される。この主張はトマスに対してだけでなく、プロテスタントのあらゆる神学や他の宗教に対しても同様の批判がなされる。確かに、完全になるのはキリスト抜きでありえない。バルトにとって他者はすべて部分であり、人間学であり、間違いなのである。これは傾聴に値するが、ところでバルトの啓示による神認識は完全な神認識なのであろうか、キリストの再臨が抜けているのではないか。

バルト16 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(16)

「聖化」

聖化は、バルトによれば、われわれの義認の帰結であるとともにその目標であり、正にその両方であるという(『和解論』Ⅱ/3、召命の目標 233頁)。

人間の身に起こる変化の究極は、何であろうか。バルトは『和解論』で「召命の意義と目標」に関して、「キリストとのキリスト者の一体化という最高で究極的な表示」、「キリストと彼の一体化というこの偉大な事柄」(『和解論』Ⅲ/3、304頁)であると語る。

またそれは同時に、われわれが神の国への途上にあって、つまり「この世」で福音を証するために装備を整えることでもある(『和解論』Ⅲ/3、人間の召命、証し人としてのキリスト者 358~359頁)と言うのである。

義認から生起して究極的目標である聖化への道のりに関してブッシュは次のように述べている。

「聖化は、ひとり聖なる方と同じ形になることであり、それはその方の『随従への呼びかけ』に聞き従うことである。この呼びかけがどのように厳しいのか、パウロはローマ書一二・二でこう言っている、『あなたがたはこの世に倣ってはいけません!』。その意味はこうである。キリストに従うことは『神の国の開始に対応しそれを証しする決裂、すなわち、われわれを取り巻く世界の、したがってこの世全体の壮大なもろもろの自明性との決裂』において生起すると。それゆえイエスに従う者は、彼の周りの人たちに対し、『よそ者として、愚か者として、有害な者として』不愉快な存在となることがありうるであろう。彼はそれゆえ十字架をになうことにならざるをえなくなることがありうるであろう」(『バルト神学入門』、155頁)と。

 

聖化に関して、以上のように理解した上で、バルトは「われわれの神学は『旅人ノ神学』(theologia viatorum)、『神の国への途上にある神学』である」(同上、142頁)というのである。

 

*「真の人間」

「神がイエス・キリストにおいてわれわれに向かって到来し給うということによって、神とは誰かが定義されるだけでなく、人間とは誰かが同時に定義されるのです。バルトの解釈によれば、それが、イエス・キリストは真ノ神(vere deus)であるだけではなく、同時に真ノ人(vere homo)でもあるという古い言葉の意味なのです。彼は、真ノ人を真ノ神との類比において理解しているのです。つまり、われわれが人間存在としてすでに知っていることを、キリストにおいても確認するというのでなく、キリストにおいてはじめて、『ほんとうに』人間とは誰であるかが規定されるというのです。神が人間なしで自分だけで在り給う存在ではないように、人間に対する神の関係から神が人間と共なる神であることが認識されるように、「真の人間」は神なしで自分だけで生きている存在ではなく、神の人間に対する結びつきから神が共にいます人間こそが真の人間であることが認識されるのです」(『カール・バルトと現代』ひとつの出会い―E・ブッシュ教授をむかえて、22~23頁)。

 

「原理的批評」

福音主義神学のチャンピオンであるカール・バルトの神学を論ずる際に、批判と反批判を通して見てきたが、日本基督教団の多くの学者が、バルト側につき、他の神学や自然神学に対して厳しい批判的観点と見解を保持している。それゆえ、バルト神学に対して原理的観点から見て肯定面と否定面の両面が見えるので、特に、優れた点を指摘すると同時に、バルト神学の排他的狭隘性を指摘せざるを得なかった。

だが、バルトの自然神学への批判は傾聴に値することも事実である。またバルトは人間の生得的な力で、人間の問題をすべて解決でき、神抜きで自己自身の諸問題を自分の力で救済できると考える人間の傲慢さ、すなわち「罪」を根本的に打ち砕いている。言い換えると、世界平和にしろ、社会問題にしろ、あるいはまた「神の本体」や「人間とは誰であるか」という問題、さらに、罪の認識と神の義の問題等々について、それらの根本的解決のためには、キリストを抜きにしては不可能であることをわれわれに悟らしめ、キリストを現代に蘇らせ、「和解」が現代の歴史的政治的な状況の下で、現代人と根源的に深く関係し、われわれがキリストの恩恵によって存在していることを教えている。まさしく、バルトは人間とは誰であるかを知り、真の神を知り得るのは、キリストによる以外に方法がないとことを教えている。

ただし、次の点は指摘しておかなければならない。「統一原理」を知るわれわれにとって、キリスト抜きで神認識は不可能であるとそう教えるバルトと、教わるわれわれとの間に、「神の知」について、その内容に大きな差がある。彼の説く神は「三位一体の神」であるが、神の対象化としては独身男性の一面的な神である。

神様の本体について、文鮮明師は「神様も家庭がり」、「家庭は核である」(『天聖経』2317頁)と語っておられます。神と人間との関係は親子の関係なのである。神の対象化である再臨主の家庭を通して、神認識に関しておぼろげでなく顔と顔を見合わせるごとく鮮明となる。「神の対象化」(家庭的四位基台)についてそうだし、「神の愛」(四大心情圏)についてそうである。われわれが知る神は完全な神である(コリントⅠ13・12)。バルトと同様にキリストによるが、ただし再臨のキリストによる。カントが批判する存在に根拠を持たない形而上学的な妄想や独断論としての神ではない。誰もが家庭において経験できる神の愛である。

 

周知のように、バルト神学は他の神学理論を破壊する。既存神学の概念や観念を排除する意味で神の摂理を担当する洗礼ヨハネ的使命を帯びた神学であるといえるが、同時に、統一原理の創造原理は自然神学であるとして敵対してくる側面もある。

バルトのキリスト中心主義による聖書解釈は既存の福音主義(正)と自由主義神学(反)を止揚統一(合)した弁証法的見解であると言えよう。しかし、その神学は完全な神学ではなく、再臨のキリストに出会うまでの「旅人の神学」であり、「神の国への途上にある神学」であるということを忘れてはならない。

 

「主要参考資料」

『カール・バルトの生涯』エーバーハルト・ブッシュ、新教出版社

『バルト神学入門』エーバハルト・ブッシュ、新教出版社

『バルト初期神学の展開』T.F.トーランス、現代神学双書64、新教出版社

『バルト』大木英夫著、講談社

『カール=バルト』大島末男著、清水書院

『カール・バルト著作集2』エーミル・ブルンナー「自然と恩寵」。カール・バルト「ナイン!」

『カール・バルト著作集8』知解を求める信仰 新教出版社

『カール・バルト著作集4』ルートヴィヒ・フォイエルバッハ 教義学論文集、新教出版社

『トマス・アクィナス』山田晶著、中央公論社

『カール・バルト著作集』14、『ローマ書』新教出版社

『教会教義学』(「神の言葉」、「神論」、「創造論」、「和解論」)新教出版社

バルト15 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(15)

「和解論」

バルト神学解説の筋道は、いろいろな資料を基に、主としてエーバーハルト・ブッシュ教授の著『カール・バルトの生涯』を参照した。和解論はバルト神学に対する最近の批判も取り入れて解説している『バルト神学の入門』に依存した。

 

*エーバーハルト・ブッシュ(Eberhard Busch)1937年ドイツ・ラインラント州ヴィッテンで牧師の子として生まれた。59年からバーゼル大学でバルトに師事、65年からバルトの死(68年)まで秘書を務めた。その後、牧師時代に著した『カール・バルトの生涯』(邦訳は新教出版社)が高く評価され、ゲッティンゲン大学に招聘され、定年まで教鞭をとった。

「教会教義学」の『和解論』に関して大木英夫氏は次のごとく述べている。

「キリスト教的な神認識と人間認識が可能となる場所・・・・和解だけが、そこから、罪とは何かが、キリスト教的に洞察され判断される場所である。・・・・和解とは、神からまた自分自身から疎外された人間にとって何の出発点もないところの真空の中に、神ご自身が一切の認識の出発点を設定したもうたみ言葉だからである」(『バルト』大木英夫著、講談社、260頁)。

上述の文言にあるように、バルトにとって、「和解」こそが、真の神認識、真の人間認識、そして罪認識などの一切が洞察され判断される場所であり出発点なのである。

 

バルトは『和解論』で罪認識について次のように述べている。

「人間が罪の人間であるということ――人間の罪とは何であり、罪が人間にとって何を意味するかということは、イエス・キリストが認識されることによって認識される」(『和解論』Ⅰ/3、57頁)。

このように罪の認識はキリストによって認識されるというのである。それでは罪が目に見えるものとして認識されるとは、どういうことなのか。

罪はキリストがそれをわれわれに代わって担われたところで、すなわち「神の御業全体を脅かす神ご自身にとって絶え難いこと」(『バルト神学入門』130頁)として、目に見えるものとなるというのである。

 

次に、「神の義」に関して、不義なる者を義とする方は,それが神にほかならない。バルトは古典的な教説を超えて、神はただ人間だけを義とするのではないと言う。「この不義なる人間の義認の業において、神は、御自身をも――そして、先ずもって御自身を、義とし給う」(『和解論』Ⅰ/3、368頁)というのである。

 

それでは神は人間の義認の業において、如何にして御自身を義とし給うのであろうか。そのために、まず、バルトは罪をどのように認識しているのかを見てみよう。

 

バルトは罪について次のように述べている。

罪は、「われわれにとって耐え難いと同じように、神にとって耐え難い。しかしキリストはこの耐え難いものを克服するためにご自身を罪にさらされた。罪の克服とは神がこの耐え難いものと和解しないことである」(『バルト神学入門』、130頁)。

このように、「罪の克服とは神がこの耐え難いものと和解しないことである」といい、さらに次のように述べている。

 

「神は、罪の敵であり、罪は、神の敵である」(『和解論』Ⅰ/3、人間の高慢と堕落 94頁)。

「神がイエス・キリストにおいて罪に対して示し給う優越は、この〔罪という〕要素に対しての神の絶対的な『否』であるが、しかも同時に、この要素を代表する者としてのわれわれ自身に対しての『否』でもある。・・・・仮借のない神の怒りの『否』である」(同上、『和解論』、93~94頁)。

神は人間をその罪のゆえに愛し給うのではない。神は人間を愛し給うゆえに、人間の罪に逆らうのである。

このように、罪に対する否から和解が弁証法的に語られる。

すなわち、「和解において罪の『古い人間』が改善されるのではない。そうではなく、そこで神が古い人間に決着をつけたもう」(『バルト神学入門』131頁)と言うのである。

バルトは、和解がこうした否なしに考えられるとすれば、それは「不正との和解」になるというのである。

 

したがって、神が罪人を否定するのは、「神の義」であるが、同時に否定された人間を義として肯定せんがためであるというのである。

このようにバルトは、「罪」と「神の義」の関係において、弁証法的思惟で理論的に解明しようとしているのである。

確かにバルトの主張は論理的で整合性がある。しかしこの主張は、従来の宗教改革者たちの信仰によって「罪あるままで義とされる」という教説と相違していないであろうか。

 

*神の義とは、人間が「古い人間に決着」することである。しかし罪ある人間は罪を清算できない。罪は罪のない人間によって清算されると次のように述べている。

「審かれ・殺され・決済されたこの人間」(『和解論』Ⅰ/3、60頁)。「われわれに代わって、従って、この私にも代わって、そのようなことが、イエス・キリストの身に起こったのである」(同上、60頁)。「われわれは、そこで、イエス・キリストにおいて、神の怒りによって、捕えられ・罰せられ・審かれた古い人間そのものである。」(同上、60頁)。「彼は、まさにわれわれに代って、この古い人間と連帯的に、従って、われわれと連帯的に、苦しみ、また死に給うた」(同上、60頁)。「神に対してだけ希望を懐いて、苦しみ、また死に給うた。われわれに属するものであることを身に引き受け、そのような者として、われわれの行為が――われわれが、神の前に受くべき苦しみを苦しみ給うことによって、神を正しとし、御自身を不正とし、そのような従順の形においてだけ希望を懐いて、苦しみ、また死に給うた」(同上、60~61頁)

 

「人間自身」

統一原理は神の血統という観点から、「堕落人間」と「本然の人間」(真の人間)を区別する。同様にブッシュ教授は、バルトの罪と義の区別に関して、次のように「人間存在」(人間自身)について述べている。

「神が罪人を否定するのは、人間を肯定しておられるからである。・・・人間はその悪行によっても自らの人間存在を失うことはできない、それが神が人間を義としたもうということである。逆に、人間は、自分の最上の業によったとしても、それによって自らの人間存在を自ら獲得することはできない。この意味で、人間の人間存在と、もろもろの行為の行為者としての人間とのあいだは、区別されなければならない」(『バルト神学入門』、150~151頁)。バルトはそれらの行為から区別されるべき人格を「人間自身」(『和解論』Ⅲ/4、216~225頁)と呼んだ。

 

このようにバルトは、人間の罪と義を区別する。そして罪人の義認において神が愛し給うのはこの「人間自身」に他ならないと言うのである。

 

*「神は人間をなるほど罪人としても知りたもう。しかし神は人間をその罪のゆえに愛したもうのではない。神は人間を愛したもうがゆえに、人間の罪に逆らう。神は人間を義とすることによって愛したもう。この人間はわれわれには隠されている。この人間をわれわれは信じることしかできない。・・・・われわれは、人間としてのわれわれの存在と罪人としてのわれわれの存在とのあいだの、罪人には不可能な、しかし神には出来る区別を肯定し、神に従いつつそれを自分のものとして理解するのである」(『バルト神学入門』、151頁)と。

 

外的に見て、イエスと周りの人間とは何ら変わることがなく区別ができない。統一原理は「堕落人間」に神様は臨在しないが、イエスは神様と一体となった神性をもつ「本然の人間」(実子=聖なる方)であると捉え、血統から見て、「本然の人間」(神の子)と「堕落人間」(罪の血統を持つ人間)を区別している。神が愛せるのは「本然の人間」(真の人間)のみである。それでは如何にして善にも悪にもなる堕落人間を神が愛し給う「人間自身」、すなわち「本然の人間」に再創造(新生)することができるのであろうか。

バルト14 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(14)

「原理的批評」

イスラム教から、「神は唯一である。しかしキリスト教には三人の神がいる」と批判されている。

しかしバルトの三位一体論は啓示を根拠とし、時間の中に割って入る歴史的事実を強調する。この教説が他宗教から抜きん出たキリスト教の特徴であるとする。しかし伝統的な三位一体論と同様に、神とイエスと聖霊の関係と一神論の関係に関しては、やはり明解ではない。「位格の問題」「存在の仕方」「数字の一に還元」「神人協力説」など、いろいろな批判に反論しながら、巧みな言葉の言い回しによって、苦心して論じているが、どこか無理がある。「本質において同一である」とか、「神は父・子・聖霊の三位一体においてただひとりの神である」と認識しているので一神論からの離反でないというが、やはり鮮明でないといえよう。

 

三位一体論と存在論と救済論は関連し、整合性がなければならない。聖書には「神の定義」はないという神学者がいるが、聖書によると、神の似姿として、無形なる神の分立対象実体としてアダムとエバが創造されたと定義されている(創世記1・27)。同様に無形なる神の分立対象実体がイエスと聖霊(霊的実体)であると定義される。したがって「神―アダム―エバ」と「神―イエス―聖霊」の関係は類比関係である。この類比から三位一体論を再考察する必要性があるのではないか。

再臨主の「完全な真理」以外はすべて部分的真理である(コリントI13・10)。したがって「完全な真理」である再臨のキリストによって三位一体論の虚構が暴露されるのはバルト神学も例外ではなさそうである。

 

*既存の三位一体論が否定される場合、われわれはキリストと聖霊をどのように理解するのだろうか。無形なる神様の有形実体がイエスと聖霊であると統一原理は見る。イエス様と同様に、霊的実体である聖霊に人格があるのである。

*統一原理の三位一体論は、「神がアダムとエバを創造された目的は、彼らを人類の真の父母に立て、合成一体化させて、神を中心とした四位基台をつくり、三位一体をなさしめるところにあった。」とあり、同様に、「イエスと聖霊は、神様を中心として一体となるのであるが、これがすなわち三位一体なのである」(『原理講論』、267頁)と論述している。

統一原理は神様の分立実体対象がアダムとエバであり、イエス様と聖霊であるというのである。イエス様は「最後のアダム」(コリントI15・45)、あるいは「第二の人」(コリントI15・47)といわれている。すなわち、イエス様は人であって、イエス様の体は神様が臨在する神様の体であるという意味である。言い換えると、神様と一体化したイエス様は創造本然の堕落していない「真の人間」であるという意味である。

同様に、バルトはキリストにおいてはじめて、『ほんとうに』人間とは誰であるかが規定され、神が共にいます人間こそが「真の人間」であることが認識されると述べている。このように、バルトは真の人を真の神との類比において理解しているのである。

*真の神認識(三位一体の神)について、大島末男氏は次のように述べている。

「神の真理とは、三位一体の神の交わりの中で、父なる神と子なる神が相互を対象として認識し合うことを本質とする。この神の自己認識の出来事が、われわれの神認識の原型、本質、力なのである。それゆえにわれわれの神認識は、三位一体の神の自己認識の出来事に基づいて真理となるのである。」(『カール=バルト』大島末男、140頁、清水書院)

「父なる神と子なる神が相互を対象として認識し合う」とは統一原理が解明している「三対象目的」(『講論』54頁)、すなわち「神とイエスと聖霊」、「神とアダムとエバ」が相互を対象として認識し合うことであり、その中で、神と神の息子であるイエスの関係のことである。この神の自己認識は、神と神の娘であるエバ(聖霊の実体)との関係における自己認識に関しては論述していない。

「神の本体」の認識とは、神の対象であるイエスと聖霊、あるいはアダムとエバの関係を認識することに他ならない。三位一体とは神とイエスと聖霊が一体であるということであり、同様に、神とアダムとエバが三位一体であるということを意味する。ただし、アダムとエバは堕落して神を中心として三位一体とならなかった。

イエス様が子供から少年、そして成人として成長していかれたように、「神様も成長する」(『天聖経』1590頁、「宇宙の根本」)と捉えることができる。アダムとエバが成長して個性完成して結婚する時、アダムとエバの結婚式は神様の結婚式となるのである。子供が生まれれば、アダムとエバは父母となる。これは、すなわち、神様が「真の父母」になられたということを意味する。

このような視座から、神様(イエス様)の願いは「真の父母」になることであったと捉えることができる。したがって、「神の本体」とは「真の父母」であると認識することができるのである。このように、上述の文鮮明師の見解が、三位一体の神の自己認識の出来事に基づいて真理となるのである。

三位一体の神の本体とは「神様も家庭があり」、「家庭は核である」(『天聖経』2317頁、「真の家庭と家庭盟誓」)ということである。したがって、神様が同居できる家庭的価値を備えてこそ天国に入籍できるのである。