バルト17 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(17)
「補足」
(1)「信仰と理性、人間の努力や責任」について
バルトは応答する能力は和解によるというが、ブルンナーは人間の理性的本質は罪によって実質的には歪められているとしても、神の啓示を受け容れる形式的な可能性をもつと次のように述べている。
「人間はまた罪人としても、他人の語り相手となることができ、また神の語り相手となることもできる」(カール・バルト著作集2、エーミル・ブルンナー『自然と恩寵』、144頁)。「形式的には神の像(imago Dei)は少しも毀損されていない」(同上)。
このように、人間は主体であり理性的存在であり、言語受容能力と応答責任性があるというのである。確かに、「人間だけが神の言葉を受けることができる存在である」(『自然と恩寵』、150頁)。聖書が与えられているのがその証拠であるといえよう。
事実、和解以前のノアやアブラハムやモーセらは、神に応答していたのである。
これに対して、バルトは神の呼びかけに応答する能力でさえ、人間に生得のものではなく神の啓示と聖霊の働きによって新しく創造されるものであるというのである。「聖霊のみによって―ただ恩寵のみによって」(著作集2、カール・バルト、『ナイン!』197頁)と。
バルト神学は信仰には認識が対応している。信仰が認識に先行する。
これに対してブルンナーは次のように批判している。「聖書が信仰を聖霊の業、聖霊の賜物と呼んでいることは確かであるが、しかし聖書は決して聖霊が私の中で信じるとは言っていない。聖霊が私のなかで信じるのではなく、私が聖霊を通して信じるのである」(同上、『自然と恩寵』、152頁)と。統一原理と同様に、信じるということは神の「95%の責任分担」ではなく人間の意志である「5%の責任分担」であることを強調している。人間はロボットではない。5%は神の創造の偉業に人間が参与することであり、人間のみに与えられた偉大な特権である。神のみ旨は「神の95%の責任分担」と「人間の5%の責任分担」の合力よって成就するのである(『原理講論』予定論より 237~250頁)。
(2)「トマスの神学」(Thomas Aquinas 1225年頃~1274年)
さてここで、トマスの神学について、少々弁明しておかねばならない。
先に見たごとく、バルトの神学は「自然神学と啓示神学」「理性と信仰」「自然と恩寵」などは、本来絶対に相容れないもの、すなわち、不倶戴天の敵であるという見解が前提となっている。
トマスの神学は、聖書は単に狭い意味での超自然的真理のみならず、自然的真理についても、超自然的立場からのある判断を含んでいると考えられているのである。つまり、聖書は自然神学を除外せず、却ってこれを包含するということである。それが、トマスの「恩寵は自然を破壊せず、却ってこれを完成する」という有名な命題なのである。すなわち、「自然神学と啓示神学」「理性と信仰」とは対立するものではなく、却って前者は後者を受け容れる前提なのであり、啓示神学によって完成するということなのである。
ところで、「完成する」とは、自然に有徳の人が、その徳を積んで完成すればキリストのごとくになれるという意味ではない。罪人はキリストに接木されて初めて可能となる。連続性ではない。生まれ変わるのであって、「再生」、それは過去との質的断絶である。ペラギウス主義は自然と恩寵、道徳と宗教、などを「連続的」に捉えるが、「完成する」をペラギウスのごとく捉えるのではない。また、そのようにトマスを解釈して批判するのは誤解による。
恩恵はあくまでも自然の次元を超えたものであり、その限りにおいて、確かに自然と恩恵との間には断絶がある。しかし、恩恵は自然を否定しないのである。
トマスによれば、「恩恵を受けることによって自然そのものの構造が、それの『あるべきすがた』と、それが現実に『あるすがた』との両方を含めて、いっそう明瞭に透視されてくる」(『トマス・アクィナス』山田晶著、中央公論社、47頁)ということなのである。
恩恵によって現存する被造物の姿と本来あるべき姿(創造本然の姿)が明瞭に分るということである。どのように本来あるべき姿に復帰するかは、連続か中断かですでに述べている通りである。
以上のように、トマスの神学体系は、理性の探求によって得られる神学と、啓示によって与えられる神学を対立させず、前者を後者に秩序づけられているのである。それは決して批判者が言うような自然神学と啓示神学の無原則な折衷でも混合でもない。もちろん、ここで、トマスの神学体系が全き真理であると言っているのではない。啓示と自然の関係について、どのように理解すればよいのか、ということに限って、弁明したのである。ただし、バルト神学からはキリスト以外の啓示を認めないので、啓示神学による自然神学の秩序づけといっても、その啓示、すなわちキリスト抜きでの神認識は拒否される。この主張はトマスに対してだけでなく、プロテスタントのあらゆる神学や他の宗教に対しても同様の批判がなされる。確かに、完全になるのはキリスト抜きでありえない。バルトにとって他者はすべて部分であり、人間学であり、間違いなのである。これは傾聴に値するが、ところでバルトの啓示による神認識は完全な神認識なのであろうか、キリストの再臨が抜けているのではないか。