シュヴァイツァー13 信仰義認論への挑戦(13)

「生命への畏敬」

 ここで、「生命への畏敬」という言葉がどのように啓示されたかについて述べておこう。

啓示にはいろいろあるが、バルトはイエス・キリスト以外の啓示を認めないが、ここでは文章を書いている時に現れてくる場合である。ルターの「塔の体験」の場合もそうであったし、シュヴァイツァーの場合もそうであった。その啓示とは、どのような心境において起ったのであろうか。

 シュヴァイツァーは文化哲学の基礎となる「生命への畏敬」の思想に到達するまで長く呻吟し道なき密林を彷徨し、時に意気阻喪(そそう)してしまったこともある。その時期、彼は河を遡ってかなり長い旅をしなくてはならないことが有った(1915年9月)。

 その旅の途上において新しい思想が突如彼に臨んだのである。その時の体験を次のように彼は述べている。

 「舟はくるしそうに砂丘のあいだをわけながら、ゆるゆるとオゴーウェ河をさかのぼって行った。ちょうど乾燥期であった。私は引舟の甲板の上に茫然と坐っていた。心中には、いかなる哲学の中にも書いてない根本的な普遍的な倫理性の概念を考えて、苦心惨憺しながら、紙に一枚一枚と連絡のない文章を書き記していた。それはただこの問題について集中しておらんがためであった。三日目の晩、日没の頃、河馬の群のあいだを舟が進んで行ったとき、突如、今まで予感もしなければ求めたこともない「生への畏敬」という言葉が心中にひらめいたのであった。― 鉄扉は開けた! 密林の路は見えてきた! ついに私は、世界人生肯定と倫理とがともに包含される理念に到達したのである! 今こそ、倫理的世界人生肯定の世界観が文化理念とともに、思考の中に基礎づけられることが、明白となったのである!」(著作集2、『わが生活と思想』、192頁)と。

 すなわち、シュヴァイツァーは自己を多くの「生きようとする意志」に取り囲まれた一つの「生きようとする意志」として感じたとき、すべての存在者との共生共栄の理念を発見するのである。

 このことに関して、また、彼は次のように述べている。

 「他者の『生きようとする意志』に対して自己のそれに対する同様な『生命に対する畏敬』を払うべき必然を感得することであるべきである。これは他者の生命を自己の生命の中に体験することである。・・・・『生命に対する畏敬』の倫理とは、すべての愛、献身、苦痛をともにし歓びをともにし努力をともにすることの一切をいうのである。それゆえ『生命に対する畏敬は』は『生きようとする意志』が思想化されたものであり、それは世界人生肯定とそして倫理とをともに含有している。」(『キリスト教と世界宗教』、93頁)。

 「他者の生命を自己の生命の中に体験する」とは、人類の罪を自分が背負って十字架についたイエス・キリストの精神と一致するものである。

 その精神は、右の文言にあるように、愛、献身、苦痛、歓びを共にし、努力を共にする一切をいうのであり、他者とは人間社会だけでなく、万物をも包含し、万物に対しても同様の精神で接するべきだというのである。

 そして、イエスは「生命への畏敬」の模範的な体現者であるというのである。

 以上が、思索が限界状況に直面した時いかに飛躍するか、それを啓示として、「閃き」として捉える場合の一つの例である。

 聖書に、人間が堕落することによって、万物までも虚無となり、万物が神の子たちの現れることを待っているという、次のような聖句がある。

「被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている」(ローマ人への手紙8・19~22)。

 この聖句は、シュヴァイツァーの「生命への畏敬」の思想の正しさを裏づけている。

 

「生命への畏敬と御言の関係」

*「(ヘリコブター)事故が起きた後に、わたしが深く悟ったことが何かと言えば、太陽も真の父母の血族であるということです。水と空気も真の父母の血族、地も一つの真の父母を育て上げるために存在するというのです。そして、存在するすべてのものは、出発から怨讐という心がありません。出発から相対的存在を調節するとか、相入れない闘争という概念がないのです。」(『ファミリー』2008年10月号、9頁。8月1日「天正宮博物館訓読会での御言」)。ヘリコブター事故(2008年7月19日)

*「この微小な動物も、神様の絶対愛の上で、絶対信仰の上で創造しました。神様ご自身も絶対信仰、絶対愛、絶対何ですか?(「服従です」)。服従です。その上に存在するこのすべてのものは、これから神様の救援摂理圏内ですべて一つになり、各自異なる万有の存在は、数千の系列、数万段階の存在として、真の父母の一身と同じ対等な位置を持つようになったということです。この砂粒なら砂粒にも真の父がいなければならず、真の母がいなければなりません。真の父母がいなければならず、真の愛と真の生命が連結され、真の血統がなければならないのです。その場は、大小の万物を中心とする万有の存在が、解放された完成した花のような香りがする園です。」(『ファミリー』2008年10月号、13頁。2008年8・1)

微小な動物だけでなく、太陽も水も空気も、「真の父母の血族」であり、「この砂粒なら砂粒に真の愛と真の生命が連結され」、真の血統がなければならないといわれているのです。その場は、「大小の万物を中心とする万有の存在が、解放された完成した花のような香りがする園です。」と言われています。これが真の愛による万物主管です。真の愛のない人は万物を主管する資格はない。

聖書に、今まで、被造物全体が虚無に服していたが、「被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。」(ローマ人への手紙、8章19節)とあるように、ついに「万有の存在」が、解放され、完成したのです。それは「真の父母」、「真理の実体」の顕現によるのです。



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