ブルンナー「出会いの神学」(4)
(5)「結合点」について
ブルンナーは『結合点』(言語能力と応答責任性)、すなわち「人間性」について次のように述べている。
「神の救済の恵み(Erlösungsgnade)に対して結合点が存在するということは、……その人とは、石や丸太でなく、ただ人間的主体だけが神の言葉と聖霊を受けることができるということを承認する人のことである。結合点とはどういうものであるかというと、罪人からも失われてない形式的な神の像、すなわち人間を人間たらしめるもの、人間性、前述の二つの要素でもって言えば、言語能力と応答責任性である。人間は言葉を受けることができる存在であるということ、そしてまた人間だけが神の言葉を受けることができる存在であるということ、そのことは罪によってもなくならせられない。……それは純粋に形式的な、話しかけられることができるということ(Anspruchbarkeit)である。そもそも、この話しかけられることができるということはまた、応答責任性の前提でもある。」(ブルンナー著『自然と恩寵』、150頁)
このように、ブルンナーは、真の神から「話しかけられることができる」という「結合点」(言語受容能力と応答責任性)、すなわち「人間性」は、罪によってもなくなっていないというのである。しかし、バルトは『結合点』(人間性)を否定し、神認識は上からの一方的な恵みによると言い、人間は自分で自分を救うことはできないと主張するのである。
ブルンナーは、「神の恵みはただすでに罪について知っている者のみが理解することができる」(同、151頁)と述べた後に、罪と結合点の関係について、次のように述べている。
「神について知ることなしには、いかなる罪も存在しない。罪は常に『神の前に』ある。……神の言葉が初めて人間の言語能力を造り出すのではない。言葉を聞きうる能力があるという性質を、人間は決して失ってしまっていない。その性質は、神の言葉を聞くことができるということに対する前提である。……結合点についてのそのような教えによって、『恵みのみ』についての教えが少しも危険にさらされないことは明らかである。」(同、151頁)
このように、一方において、「恵みのみ」の教えが少しも危険にさらされないというが、他方では、対象に言語受容能力と応答責任性がなければ、上よりの「恵み」(和解)の働きかけに対し、対象は応答できないというのである。
バルトは、神の呼びかけに応答する能力でさえ、人間に生得のものではなく、神の啓示と聖霊の働きによって新しく創造されるものであるというのである。
しかし、和解以前のノアやアブラハムやモーセらは、神の呼びかけに応答していた。
バルト神学は、信仰には認識が対応している。信仰が認識に先行するのである。
これに対して、ブルンナーは、「聖書が信仰を聖霊の業、聖霊の賜物と呼んでいることは確かであるが、しかし聖書は決して聖霊が私の中で信じるとは言っていない。聖霊が私のなかで信じるのではなく、私が聖霊を通して信じるのである」(『自然と恩寵』、152頁)と批判している。
ちなみに、バルトの『教会教義学』の「和解論」について、大木英夫氏は次のごとく述べている。
「キリスト教的な神認識と人間認識が可能となる場所……和解だけが、そこから、罪とは何かが、キリスト教的に洞察され判断される場所である。……和解とは、神からまた自分自身から疎外された人間にとって何の出発点もないところの真空の中に、神ご自身が一切の認識の出発点を設定したもうたみ言葉だからである。」(『バルト』大木英夫著、講談社、260頁)
このように、バルトにとって「和解」こそが、真の神認識、真の人間認識、そして罪認識などの一切が洞察され判断される場所であり出発点なのである。
すでに論述してきたごとく、ブルンナーは「自然的な人間性」には、神の恵みとの必然的な、不可欠な「結合点」(言語受容能力と責任応答性)があるというのである。しかし、バルトの「和解論」にはこの前提がないのである。
また、ブルンナーは、この恩寵と自然的な神認識の関係について、次のように述べている。
「この『話しかけられることができる性質』と関係のある領域は、より狭い意味での人間性(das Humanum)を包含しているばかりではない。それは、『自然的な』神認識と関連しているいっさいのことを包含している。もはや何の神認識も持たない人間に、神の言葉はもはや到達することができないであろう。良心のない人間は、『悔い改めて福音を信ぜよ』という呼びかけによって呼びかけられることができない。確かに自然的な人間が、神について、律法について、そして自分自身が神のものであること(Gottgehörigkeit)について知っているその知識は、非常に混乱したものであるかもしれない。しかし、それでいてなお、それは神の恵みとの必然的な、不可欠な結合点なのである。そしてそのことは、次の事実の中においても証明される。すなわち、福音はほとんど常に、新しい言葉を造り出したのではなく、異教の宗教意識によってすでに造り出されていた言葉を使用した、という事実である」(『自然と恩寵』、151-152頁)と。
他宗教には、キリストを受容する不可欠な「結合点」があるということである。しかし、バルトは、他宗教は真の神を認識できず、また、神ならざる神を礼拝するとして排除し、〝偶像崇拝〟は神を受け入れる準備段階であるのかと反論する。〝偶像崇拝〟に対する反論は後にする。
ところで、再臨主の御言と原理から見れば、バルトの反論の基礎である三位一体の神も、おぼろげな神認識であって完全な神認識ではないのである。「全きものが来る時には、部分的なものはすたれる」(コリントⅠ、13・10)運命にある。
(6)自己意識について(「人間の5%の責任分担」)
ブルンナーは、人間は主体であり理性的存在であると言い、自己意識の維持について次のように述べている。
「人格的な神が人間と人格的に出会う。そのことの中に、自己意識の維持ということが含まれている。そのことの典型的な表現が、まさしく新約聖書の中で、神秘主義的表現に最も近づいているあのガラテヤ書2・20の表現である、『しかしわたしは生きている、それでいて私ではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである』……この『しかしわたしは生きている』という表現は、『わたしは律法によって……死んだ、私はキリストとともに十字架につけられた』というあの文章のあとに続いている。その表現は、また内容的な人格性(Personalität)が死んでもなお形式的な人格性が維持されているということを言い表わしている。」(同、152頁)
自己意識の維持とは、原理的に言えば、神の「95%の責任分担」(恵み)に対して、人間には「5%の責任分担」である自由意志があるということである。罪によっても、自由意志はなくなっていないということである。しかし、ルターは、人間は善を成し得ない、自由意志は罪の奴隷である。したがって自由意志はない、と言っている(奴隷意志論)。バルトも同じ見解である。
しかし、自由意志があるか、ないか、という問題と、自由意志は善を成し得るか、成し得ないかという価値問題は別の問題である。ルターの主張は論点がずれている。
ティリッヒは、彼の著『組織神学』(第一巻「啓示の現実」)の中で「啓示と理性の相関論」を説き、脱自(恍惚、霊的現臨)は精神がその通常の状態を超え出るという意味において異常な精神状態を指すが、それは自由な理性の否定ではないと述べている。
さらに、ブルンナーは、信仰命令(戒め)について次のように述べている。
「その信仰命令は――誰でもが知っているように――新約聖書にとって、ちょうど信仰は神の賜物であり、神の業であるという主張と同じように、特徴的なものである。新約聖書の用語法の統計的な結果によると、信仰は神の賜物であり、神の業であるという主張よりも、信仰命令の方を、いっそう強く力説していることを示しているとさえ、私は考える。」(『自然と恩寵』、153頁)
神からの信仰命令は、人間の5%の自由意志や責任性を認めるからこそ出されるのである。
以上、今まで論述してきたこと、ブルンナーは「こういうもろもろの主張から、私の自然神学(theologianaturalis)――カール・バルトにとっては、全く疑わしい――が成り立っている」(同)と述べている。
「原理的批評」(自由意志について)
「信仰の行為」とは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです」(マルコ5・34)とあるように、信仰は「人間の5%の責任分担」なのである。すなわち応答責任性であり、信仰する「決断」も5%の人間の自由意志である。
聖書にある多くの「信仰命令」(勧告や命令や約束)は、それらを人間は理解する能力(理性)があり、それを行う5%の責任性があり、決断する自由意志があることが前提で与えられるのである。
バルトは、この神の呼びかけに「応答する能力」ですら「神の恩恵」によって創造されたものであるといい、人間の主体的な自由意志や責任性を否定する。しかし、罪によって本質構造(神の像)を喪失した人間には、そのような応答能力(自由意志)すらないと否定されるなら、応答したものには「永遠の生命」が約束され、拒んだものには「永劫の罰」(永遠の死)が課せられるというこのような厳しい責任を負わされる「最後の審判」はないはずである。すべて神の責任となるからである。
また、救済の予定において、全てが必然で「恩寵のみ」であるなら、人間は自由のない神の意志通りに動くロボットに過ぎず、「聖書」の中にある多くの勧告、命令、非難、要求は、必要ではなく、このような「信仰命令」は全く無意味なものとなってしまうのである。悔い改める期間も不必要である。
また、神と人との契約が現実の歴史であるなら、神が人と〝契約を結ぶ〟のは、罪人であっても人間には良心があり、「人間性」があり、「言語受容能力」と「応答責任性」があるからなのであって、もし、人間に自由も責任も人間性もないなら、そのような人間と神は〝契約を結ぶ〟ことなどあるはずがないのである。
統一原理は、人間に「5%の責任分担」があるのは、創造への参加と万物の主管権の賦与のためであると説いている。これは人間の特権なのである。
このように、み旨成就における「神の95%の責任分担」+「人間の5%の責任分担」=100%という神と人間の関係における責任分担論を説くと、プロテスタントの神学、特に福音主義神学と鋭く対立せざるを得ないのである。
なぜなら、神の恵みを95%というように、いかに大きく捉えようとも、5%という人間の「行い」がなければ100%にはならない。したがって、このように人間の行いに対して、ほんの少しでも価値を認めれば、救いが人間の行いを少しも必要とせず、神の一方的な「恵み」であるとする「福音」も、また否定されるからである。
もし、バルトが、統一原理のように「人間の5%の責任分担」(「行い」)を認めるとするならば、カトリック神学の「協働説」や「功徳思想」を認めることになり、ルター以来の宗教改革的信仰を、自ら誤りであると認めることになってしまう。
したがって、信仰義認という立場から見て、救いにおける「信仰」と「行い」の対立を主張し、罪人である人間の「自由意志」や「業」(「行い」)を完全に否定することは、「福音主義」の何であるかを説かんがための生命線であり、彼らにとって重大な問題なのである。
バルトが、ブルンナーの自然神学を必死になって否定するのは、そのためである。したがって、われわれもバルトの自然神学批判を知って、原理的観点からブルンナーを補完し、バルトの誤りを指摘しなければならないのである。
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