バルト18 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(18)
(3)「三位一体の神」について
聖書には、神はご自身の「かたち」に似せて男と女を造ったと啓示しているが、イエスは男性格主体として独身の神を顕現されたのであって、女性格としての神は現されていない。実体的な神認識に関して神の対象化は、一面的、部分的であって、今日まで誰も完全なる神(父母)を認識した人はいない。すべての宗教は、個人を救いの対象とし、家庭が対象ではなかった。
バルトの三位一体論は、「キリスト教の神論をキリスト教の神論として・・・すべてのほかの神論および啓示概念から、根本的に区別し、ぬきん出させる(『神の言葉』Ⅰ/2、15頁)と述べているように、特別な重要性をもつ。しかし神の対象化に関して、実体的には個人的(イエス)で聖霊との関係が統一原理のように簡潔・明瞭でない。
統一原理の三位一体論は、「神がアダムとエバを創造された目的は、彼らを人類の真の父母に立て、合性一体化させて、神を中心とした四位基台をつくり、三位一体をなさしめるところにあった」「イエスと聖霊は、神を中心として一体となるのであるが、これがすなわち三位一体なのである」(『原理講論』、267頁)と論述している。既存神学の三位一体論と相違する。
文鮮明師は、天国は一人で行くところではなく、二人で行くところであると言われている。今日では、神様の真の愛を中心とした真の家庭と言われ、さらに、三位一体の神の本体である概念的な「家庭」の自己対象化について、本体の実体である真の家庭を形成し、その家庭の「三代圏の完成」(四大心情圏と三大王権)として、次のように神の真の愛(心情)を、人間に体験可能なこととして概念的に解明されている。
「本来、神様の本然的な真の愛、真の生命、そして真の血統で連結された真の家庭の中で、祖父母、父母、孫、孫娘を中心として、三代の純潔な血統を立て、父母の心情、夫婦の心情、子女の心情、兄弟姉妹の心情を完成するときに、これらを総称して四大心情圏の完成と言います。ここにおいて、父子間の愛は、上下の関係を捜し立てる縦的な関係であり、夫婦間の愛は、左右が一つとなって決定される横的な関係であり、兄弟間において与えて受ける愛は、前後の関係として代表されるのです。このように、観念的で所望としてだけ残る夢ではなく、神様の創造理想が家庭単位に、真の血統を中心として、四大心情圏の完成とともに実体的な完成をする」(『ファミリー』2004年、5月号、9頁、 04年3月23日 米国ワシントンDC連邦議会上院)。
神様の完全な愛が、「家庭単位に、真の血統を中心として、四大心情圏の完成とともに実体的な完成をする。」とある御言に驚嘆する。
ギリシャ哲学は、神の概念に関して、唯一・絶対・永遠・普遍などの概念を提供したが、愛とかパッション(激情)などに関して概念的に表現することができなかった。これが西洋哲学の限界である。
しかし、文鮮明師の主体と対象の授受法的思惟は神の愛に関して概念的に論じることを可能にした。親子の愛は上下の関係、夫婦の愛は左右の関係、兄弟姉妹の愛は前後の関係として規定している。神の愛はこれら父母の愛、夫婦の愛、兄弟姉妹の愛、子女の愛を総合した主体的愛のことである。
*ギリシャ哲学は神について、唯一性、超越性、永遠性、原因性などいくつかの概念を提供してきた。しかし、こうしたギリシャ流の不変・不動といった静止的な神観や神概念をさらにおし進めていくと、神の「不感性」(情念に動かされない)に導かれていく。これは、怒り、喜び、悔いる、などと聖書に啓示されている神と矛盾する。また、ギリシャ哲学は非合理な罪の問題にも触れていない。合理的なロゴスは愛や罪について考えることは不向きなのである。このように、ギリシャ哲学のイデアとかロゴスは宇宙がいかに形成されたかを説明するのに有用であるが、合理的なロゴスに反抗し、それを乱す激情(パトス)を説明することができなかった。したがって、ユダヤ・キリスト教的な「人格神」「いける神」「愛の神」という観念をギリシャ流に抽象化し概念化することは困難であると指摘されてきた。
それゆえ哲学的な神学はいろいろな限界があり、「啓示」の本質そのものを定義することはできないと断念され、神は「理解を超えるもの」と神秘的に解され、結局のところ、神の本質に突き入ることはできないというに至った。それで神認識はもっぱら「信仰から」ということになったのである。これがプロテスタント神学の伝統となり、理性や自然神学を退ける理由ともなった。しかし、上述のごとく、愛を概念的に規定した文鮮明先生(アダム言語)の四位基台哲学は、神認識を哲学的に論述することを可能にした。これは神学や哲学における大変な貢献である。
カテゴリー: バルト「神の言葉の神学」