ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(27)

(B)「歴史的人類における霊的現臨の顕示」

 

(1)「霊と新しき存在――曖昧(あいまい)性と断片性」

 

ティリッヒは、「霊的現臨は、信仰と愛によって、人間を曖昧ならざる生の超越的統一へと高めながら、本質と実存とのギャップを越えて、したがって、生の曖昧性を越えて、新しき存在を創造する」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、177頁)という。

 

ところで、新しき存在の顕現する場所はどこなのであろうか。どこで聖霊が人間に臨在し、その精神構造を新しき存在に新生するというのであろうか。

ティリッヒは、キリストとしてのイエスにおける新しき存在は、歴史的関連においてのみ可能であると次のように述べている。

 

「神の霊の人間の精神への侵入は、孤立した個人においてではなく、社会的グループにおいて起こる。なぜなら、人間の精神のすべての機能(道徳の自己統一、文化的自己創造、宗教的自己超越)は、我と汝の出会いという社会的関係によって、条件づけられているからである。」(同、178頁)

 

このように、孤立した個人に臨在するのではなく、社会的関係、すなわち信仰の(あつ)い信徒の集う共同体の中で顕現するというのである。

 

霊的現臨または新しき存在、あるいはアガペーは、それ自身においては曖昧ではないが、時間と空間に現われてくる時には、断片的である。しかし、新しき存在は、生の曖昧性を克服するというのである(同、179頁を参照)。

 

(2)「霊的現臨と諸宗教における新しき存在の予見」

 

ティリッヒは、「霊的現臨と諸宗教における新しき存在の予見」という主題の下で、宗教史全体を取り扱う。なぜなら、一見混沌として見える人類の宗教生活に意味を見出す鍵があるというのである。

そして、東洋の諸宗教を考察することによって、キリスト教が「歴史の中心」であることが分かるというのである。しかし、「西洋のキリスト教的人本主義的文明の中で育った者は、アジア宗教の中心的経験に到達することは難しい」という。

したがって、精神生活を理解するためには参与することであり、人格と人格との出会いが必要とされるというのである。

 

「すべての偉大な宗教には、それの全体の構造の中に種々の要素があって、或る宗教においては従属的である要素が、他の宗教においては優勢であるということがあり得る。キリスト教神学者は、東方の神秘主義を、彼がキリスト教における神秘主義的要素を経験した程度に応じてのみ、理解することができる。」(同、180頁)

 

上述のごとく、ティリッヒは、経験した程度に応じて理解されるというが、参与も経験もない西洋人に、東洋の精神を理解できるようにするにはどうすればよいのであろうか。

 

統一原理の出番である。

 

西洋と東洋の架け橋は〝日本の島嶼(とうしょ)文明である〟と「統一原理」の再臨論には書かれている。つまり、日本の文化を通して見れば、西洋人は東洋の精神を理解することができ、また、東洋人は西洋の精神を理解することができるというのである。言い換えると、統一原理の内容それ自体が、西洋と東洋の両者の精神構造を理解可能にし、全体を統一的に理解することができるというのである。これは、東洋の諸宗教の中に霊的現臨を見る前提となる。

 

ティリッヒも次のように述べている。

 

「歴史における神の国の中心的顕現への成就しまた準備する過程は、それゆえに、キリスト以前の時期に限られるものではなく、それは中心の顕現の後にも続き、今も、ここにも進行しつつある。イスラエルがエジプトを脱出したというテーマは中心への成熟へのテーマであり、今日の日本における東洋と西洋の出会いのテーマであり、それは過去五百年間における、近代西洋文化の発達のテーマであったし、今もまたそうである。」(『組織神学』第3巻、460頁)

 

ティリッヒは、シュヴァイツァーと同様に東洋の諸宗教と対話し、次のようにティリッヒ式に霊的現臨の観点から考察する。

 

「神秘主義は、人間の主観-客観的な有限な構造を越えることによって、神的なもののあらゆる具体的表現を越える。しかし、まさにこの理由によって、神秘主義は中心性をもった自我を無化し、霊の脱自的経験の主体を失う危険にさらされている。東洋と西洋との間の交流は、この点において、もっとも困難である。東洋は『無相の自我』(formless self)をもって、すべての宗教生活の目標とするのに対して、西洋は(キリスト教神秘主義においてさえも)脱自的経験においても、信仰と愛の主体、すなわち人格と共同体を保持しようと試みる。」(『組織神学』第3巻、182-183頁)

 

主体(自我)を、一方は否定し、他方は肯定する。この両者の統一を考えなければならない。

 

「原始的なマナ(mana)の宗教は、すべて存在するものの『深み』における霊的現臨を強調するように見える。この神的能力はすべてのものに宿っているが、不可見であり、神秘的であり、決定された祭祀(さいし)によってのみ接近することができ、特定の人間のグループ、すなわち、祭司たちによってのみ知られ得る。霊的現臨についての、この初期の実体的見方は、ほとんどすべてのいわゆる高等宗教の中に、多くの変形として残存しており、或る形体のキリスト教的礼典の中にも残存し、浪漫(ろまん)主義的自然哲学においては世俗化している(すなわち、そこでは、脱自が審美(しんび)的情熱となっている)。」(同、181頁)

 

太平洋の島嶼で見られる原始的な宗教において、マナ(mana)とは普遍的な超自然の力をいう。

上述のように、ティリッヒは、霊の脱自的経験に対する東洋と西洋の相違を指摘し、霊的現臨の視点から理解の接点を求めていこうとしている。そして、どこにおいても、「人道や正義のないところには、純粋な霊的現臨は存在しない」(同、183頁)と述べている。

 

「補足」(聖霊は女性ではないのか)

 

1991年、韓国の神学者チュング女史のキャンベラの第7回世界教会評議会総会のテーマは「来たれ聖霊よ、被造物のすべてを新たにされたい」であった。

この総会において、聖霊を話題にするときには、被造物のすべて、宇宙全体を視野に入れることを要請した。

 

次の文章は、霊的現臨とアジアの諸宗教の関係についての「チュング・ヒュン・キュングの講演の注釈」である。チュング女史は、次のように聖霊を女神イナや中国哲学のクィ(気)やクァン・イン(観音)に見いだす。

 

「『イナはもともとフィリピンの民間宗教の女神である。生命の源泉であって、深く畏敬(いけい)されている女神である。スペインの征服者たちがフィリピン住民を改宗させたとき、彼らは植民地主義者たちのマリアを土着のイナに変化させた。フィリピンやアジアでは女性たちは、制度化された教会の狭い教義や規範をこえた生命付与的象徴を選んだのである』………聖霊の生命付与的力である。東アジアの思惟(しい)においては、この生のエネルギーは気と呼ばれている。中国の概念のチ(あるいはクィ)は、韓国語および日本語に導入された。この三ヶ国語において、日常的にこの気はよく用いられる。この言葉の根本的意味は、『大気、息、(生)気』である。生命の力としてクィは民間の医学用語としても使用されている。

『東アジアに大きな影響を与えた中国哲学において、クィは、重要な概念である。これは儒教の文書にも、道教の文書にも現われる。儒教の哲学者、孟子(西暦前約三世紀)はすでに正義において命と結びついたクィに言及している。クィはここでは倫理的要素をふくんでいる。老子(西暦前三世紀?)は、クィは森羅万象に浸透し、これを調和のうちに維持している生命力であるとしている。クィはエネルギーの流れとして把握されているのである。ギリシャ語のプネウマにおいても、これと似たように理解されている。旧約、新約では神の霊がプネウマと訳されている。

中国における11および12世紀における新儒教の哲学者たちは、クィを宇宙論の中核概念として使用した。………クィは宇宙的な力であり、森羅万象を成す宇宙的物質である。規定的原理であるリ〔理〕は、クィに形式を与える。クィはしかし単なる物質ではなく、それ自身が天地に、森羅万象に浸透しているエネルギーである。」(『聖霊は女性ではないのか』E・モルトマン=ヴェンデル編、新教出版社、269-270頁)

 

注解者は、チュング女史の観音に対する見解について、次のように要約している。

 

「(観音は)女神の自己犠牲的な慈悲を表現している………民間信仰においては、観音はとくに女性たちに敬愛されている。共苦は仏教の根本美徳である。共苦的な生活思想は多様に展開されていて、したがってこの文化的脈絡のなかではキリスト者が共苦的な神および共苦的な聖霊という先鋭な意識を持っていることは理解されるところである。」(同、271頁)

 

このように、観音は聖霊の具現化した姿であるとする捉え方は、観音は実体の「真の母」を比喩していると受け止めることができよう。

 

また、現在社会における環境破壊の危機的状況の中で、「大地と調和して生きる」ことをわれわれは学ばなければならない。

 

このように、チュング女史は、女神イナや気や叡智(えいち)と慈悲深い共苦の化身である観音のうちに聖霊を見るのである。そして、その聖霊のごとく、「私たちは他者とともに共苦してのみ、死の文化を克服できるのである」(同、270頁)と説くのである。

 

以上のように、女神イナ、クィ(気)、観音などに霊的現臨を見るチュング女史の理解は、注釈者によると、「約二千年前に、ただ父と息子に由来した霊を、父権制的な偏狭から広い空間へと導くことになるだろう」(同、273頁)というのである。

 

「父と子から由来した霊」とは、「聖霊が父と子から発出する」という西方教会の見解である。チュング女史によると、11および12世紀の新儒学者のクィ(気)の概念は、単なる物質ではなく、「宇宙的な力」あるいは「森羅万象に浸透しているエネルギーである」という。

 

しかし、プロテスタント神学は、聖霊を人格のある実体と見るのであって、その聖霊論から見れば、聖霊は生命付与的力であるが、チュング女史のように、「この生のエネルギーは気と呼ばれる」と、気を聖霊と同一視していない。

もし、同一視するなら、人格的存在がエネルギーとなり、聖霊の概念に混乱が生じるのではなかろうか。

 

この「宇宙の力」は、統一原理で説く「神の力」、すなわち「万有原力」のことであろう。理気の思想は、神の「性相と形状の二性性相」に対応している。男性的要素と女性的要素の存在について、人格的存在と非人格的な万物との間に区別がなければならない。神と被造物の関係のことである。

原理的に言えば、被造物は神ではない。神の象徴的な実体対象である。

 

総会に参加した西方教会も東方教会も、チュング女史の聖霊論を諸宗教の混合と非難している。また、教権的な聖霊論から見た見解と、これに対する反論もなされている。

 

原理的には、森羅万象の生命やエネルギーを神の霊の力であると解釈していない。統一原理は、性相と形状、陽性と陰性の二性性相という概念で、森羅万象のあらゆる存在者の存在と発展に関して、主体と対象のペア・システムとして原理的に説いている。

また、原理的に、聖霊をどのように理解するかは「統一原理」の三位一体論で明確に述べている。

 

チュング女史の聖霊理解は、現代を支配する科学的世界観の下では信じられてはいない。ただし、統一原理の性相と形状の二性性相という存在概念から見れば、クィ(気)を聖霊とは言わないが、理解できない世界観ではない。

 

ティリッヒが、なぜ東洋の諸宗教を考察しようとしたのか。パネンベルクがキリスト教の聖霊論に対して、「死せる伝統の断片に止まる」、「聖書的な聖霊概念に一致しない」となぜ批判したのかを想起し、原理的な観点からフェミニスト神学を批判的に見て、その積極面を受容するなら、キリスト教の使信の活性化になると同時に、キリスト教と諸宗教の統一に関する一つの見解になるのではないかというのである。

 



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