Archive for 12月 19th, 2012

シュヴァイツァー8 信仰義認論への挑戦(8)

(三)『イエス小伝』(イエスの生涯)

シュヴァイツァーは彼の著『イエス小伝』で福音書を研究し、イエスの公生涯について次のような問題点を指摘する。

 

(1)、突然の死の予告

シュヴァイツァーはイエスの「突然の死の予告」について次のように述べている。

「つまり、受難思想があらわれる所までなら、どんなイエス伝でも、一応ついてゆける。しかしちょうどそこで、きまって脈絡がつかなくなってしまうのである。なぜイエスはその時になって突然、どうしても自分が死ななければならない、と考えるのか。またイエスが自分の死は救いをもたらすと考えるのは、どういう意味においてであろうか。従来のイエス伝で、これを明らかにすることに成功しているものは一つもないのである。」(著作集8、『イエス小伝』、97頁)。

このように「突然の死の予告」はなぜかを、誰も解明していないという。そしてシュヴァイツァーは次のような2つの疑問を投げかける。

 

1、公的活動はイエスのメシヤ性と無関係?

2、なぜイエスは自分がメシヤであることを秘密にしたのか?

この二つの問題に関して次のように述べている。

「イエスが本当に自分をメシヤと考えていたとするならば、どうしてイエスは、あたかもメシヤではないかのように行動しているのであろうか? ひいては、イエスのメシヤという尊称と権威ある地位がメシヤの公的活動とまったく無関係であるかに見えることはどのように説明すればよいのであろうか? エルサレムにおけるわずかの日を別にすれば、イエスの公的活動がすでに終わってしまった後になってはじめて、イエスは弟子たちに、自分がだれであるかを打ち明け、さらにその上に、この秘密を厳守するようにかれらに命じているということは、これはどう考えればよいのか? 慎重な心遣いから、あるいは教育的な意図からイエスはこのような態度を余儀なくされた、とするのはすこしも説明になっていない。イエスが弟子たちや群集を教化して自分がメシヤであることを悟らしめようとしたというようなことを、ほんのわずかでも暗示している言葉がはたして共観福音書のどこにあるのであろうか?」(著作集8、『イエス小伝』、98頁)。

「なにゆえにイエスはメシヤ観念に対する自分の解釈をどこまでも沈黙しとおしたのであろうか?」(同上、『イエス小伝』、99頁)。

このようにシュヴァイツァーは、なぜイエスはメシヤであることを秘密にし、沈黙しとおしたのかと問題を提起する。これらの疑問は、統一原理(『原理講論』)の「メシヤ論」ですべて解明されている。シュヴァイツァーは問題提起にとどまっていたが、彼が統一原理を知れば、どれほど喜んだことであろうか。異端と言った人たちを論破したに違いない。