Archive for 3月 12th, 2013

バルト6 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(6)

「自然神学批判」(キリストと別のもの)

バルトはなぜ痛烈に自然神学に反対し続けるのであろうか。それはローマ・カトリックの自然と恩寵に関する教説やエーミル・ブルンナーの著作「自然と恩寵」(1934年)との対論で、すでに明らかなように自然神学を次のように拒否している。それは「自然神学においては神は、キリストの外部でも認識される、というのではなくて、むしろ〔キリストとは〕別のものとして認識されるのである」(『バルト神学入門』E・ブッシュ、新教出版社、105頁)と明言している。『教会教義学』でも「神認識は信仰の認識としてすべてのそのほかの認識と、その対象は認識する人間の生きた主であるという点で、最高に違っている」(『神論』Ⅰ/1、35頁)と述べている。このように、バルト神学が「キリスト中心主義」と言われるゆえんがここにある。

また自然神学を否定する理由は次の点にもある。『カール=バルト』(清水書院)の著者、大島末男氏はそのことに関して次のように述べている。

「世界と人間の『あるべき姿』(本質)が歪められていない理想的な時代には、自然神学は力をもつ。カトリック教会の自然神学と新プロテスタント教会の自由神学は、人間の善意や正義が悪の力から保護されている理想的な条件の下でのみ成立する。つまり現実の罪に目を覆い、理想的な人間を前提とした上で、自然神学は意味を持つわけである。しかし邪悪がはびこり、世界と人間の『あるべき姿』が無惨にも打ち砕かれる時代には、自然神学は空虚となり、無意味となる。ところが真の福音とは、自然神学を無意味にした悪の力を克服する神の根源的な力である。この福音に基づくバルト神学は、悪の力を克服する神の根源的な働きに根差す根源的な思考である」(53頁)。

 

上述の文言にあるごとく、自然神学が「罪に目を覆い」、悪の軍門に容易に降り、悪の力に迎合するとバルトが言うのは、自然神学を肯定するゴーガルテンやヒルシュらがナチスに迎合したからである。そのことに関して次のごとく述べている。

「ゴーガルテンは、・・・神の律法とドイツ国民の法律の同一性を主張して、ナチスとキリスト教の総合を試みたのであった。これらは、キリストを抜きにして、人間の理性だけに頼る自然神学が、悪魔の働きに対して、如何に無力であるかを示す好い例である」(『カール=バルト』大島末男、清水書院、50頁)。

 

*「啓示理解の問題と、ドイツ・キリスト者が主張した啓示の第二の起源による補完の問題と《創造》という神の秘密と《人種、血統、土地、氏族、国家、などについての人間の理論》との混同の問題が話題となった」(『カール・バルトの生涯』、E・ブッシュ、341頁)。

ところで、なぜヒットラーがこれらの概念を強調したのであろうか。神の摂理から見た見解は!

バルトは世界大戦を神学問題と捉えたが、彼のキリスト論が人種や血統という概念を啓示(サタン側の先行)として捉えることができず、神と人間を結ぶ絆は、地縁=血縁ではなく、キリストの出来事に基づくというのである。しかし、統一原理では、三位一体の神の本質とは、キリストに「接ぎ木」(血統転換)されて新生することであると捉えている。

聖書には血統から見たイエスの系図がある(マタイ1・12~16)。

 

また、大島末男氏にようと、バルトは同じ論法(キリスト論的集中)でブルンナーを次のごとく批判するという。

「神を認識する能力が生得のものであるとすれば、彼の立場は、キリストを抜きにしても神を認識することができると主張する自然神学に陥る危険性を孕む」(『カール=バルト』、大島末男、清水書院、48頁)と。

さらに、「ブルンナーは人間学的な基礎を神学に提供していることになり、自然神学に逆戻りしている」(同上)というのである。

 

*「あまりにも有名になったバルトとブルンナーの論争は、・・・1934年、もともと弁証学に関心をもつブルンナーは、人間の理性的本質は罪によって実質的には歪められているとしても、神の啓示を受け容れる形式的な可能性をもつと主張した。ブルンナーは、神の呼びかけに応答する形式的な可能性を、人間は自己固有の本質としてもっていると主張したのである。これに対してバルトは、神の呼びかけに応答する能力でさえ、人間に生得のものではなく、神の啓示と聖霊の働きによって新しく創造されるものであると主張したのである。ここにブルンナーの本質主義の立場とバルトの出来事の立場の相違が明確に示されているのである」(『カール=バルト』大島末男著、清水書院、47頁)。

 

確かに、キリストを抜きにして罪を清算し神と和解することはあり得ない。また再臨による完全な救い、完全な神認識による「完全な人間」(真の人間)となり、天国へ入籍することも出来ないであろう。ところでバルトは和解を強調するが、再臨による完全な神認識が抜けているのではないか。

その抜けている完全な神認識とは何か。完全な神はイエス様のごとく独身男性なのか。なぜ、神は女性を創造されたのか。バルト神学では、本来的な男性と女性の関係や家庭に関する原理が語られていない。イエス様が結婚し、家庭を持ち、子供をもうけられなかったので福音書に家庭に関する御言がないのである。

 

*旧約時代のノア、アブラハム、モーセ、そして預言者たちが神の声を聴き、神に応答し、神の存在を認識していた。十字架による和解以前の12使徒も神に応答しキリストに従っていたことは事実である。ペテロは地上のイエスをキリストであると信じた。バルトは神認識は和解によるというが、旧約聖書における摂理的人物の神の呼びかけに応答している能力をどのように考えるのであろうか。