Archive for 9月 24th, 2013

ブルトマンの「非神話化」(現代から見た信仰と実存論的解釈学)(10)

次の聖書の記述も霊的現象である。復活には、イエスの復活と一般の人間の復活問題があるが、霊的復活に関して聖書は次のように記述している。

 

「また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた」(マタイ27・52)。

 

この聖書の記述に関して、「統一原理」(『原理講論』)は次のごとく解釈している。

 

「これは、土の中で既に腐ってなくなってしまった彼らの肉身が、再び原状どおりに肉身をとって生き返ったことをいうのではない。………もしも、聖書の文字どおりに、旧約時代の霊人たちが墓の中から肉身をとって、再び生き返ったとすれば、彼らは必ず、イエスがメシヤである事実を証したはずである。墓の中から生き返った信徒たちが証すイエスを、メシヤとして信じないユダヤ人がどこにいるだろうか。このような聖徒たちに関する行跡は、必ず聖書の記録に残ったであろうし、また今も地上に住んでいるはずである。しかし、彼らが墓の中から生き返ったという事実以外には、何の記録も残っていない」(『原理講論』226-227頁)。

 

このように、聖書には復活した人たちが、その後どうしたのか、また、いつ再び死んだのか(消えたのか)、何も記述されていない。

したがって、この事実は、「統一原理」が述べているごとく、霊眼が開けた聖徒にだけ、しばらくの間、見えた霊的な出来事なのである。つまり、霊の目で見た「霊のからだ」の復活であって、それを記述したものに他ならないというのである。

 

原理的に解釈するなら、旧約時代の霊人達が地上にいるイエスの弟子たちに協助するために霊的に現れた霊的現象なのである。そしてキリストが十字架の死によって三日の後に勝利して支配する霊的世界(パラダイス)に旧約の霊人達が移行する様を復活(墓が開け、再び生き返る)と記述したのである。

 

霊界においては、新約の世界から旧約の世界を見ると薄暗い死んだ世界のように見えるのである。「墓」とは死の世界、すなわち次元の低い霊界を意味し、その世界にいる霊たちは、いわば「生きた死体」のように見えるのである(霊的に生きているが、実は死人のように見えるのである)。だから、「墓から出てきて」とか、「死体が生き返る」と記述したのである。

 

〝生き返った〟とは、霊界において、死の体(霊形体)から生の体(霊、生命体)に復活し、死の世界(旧約の世界)から生の世界、すなわち、新約の世界、イエス・キリストが支配するパラダイス(楽園)へと、キリストに従って、その弟子たちが共に移行することをいう。

 

言い換えると、低い霊界から高い霊界への霊的移行を意味するのである。また、地上において、ブルトマンのいう実存論的な解釈をするならば、復活とは日々復活することを意味し、日常の信仰生活における霊的向上を復活する(生き返る)と解釈することもできる。

 

以上のように、「復活」とは、霊的復活であってバルトが肉体の復活と信じ「信仰告白」するような、驚くべき、奇跡のような出来事などではないのである。

 

ところで、イエスが「生きておられる」ことに対して、トマスは「釘あと」、「わき」腹に指を入れてみないと信じない(ヨハネ20・25)と言ったと述べられている。

 

これも肉体で復活したことを証明したものではない。後から追加したものかもしれないが、死んだイエスが霊的に「生きておられる」ことを強調せんがために、そのような、あえて実証的な記述をしたのである。

復活の事実を、聖書全体から矛盾なく論理的に整合的に解釈するなら、イエスは、現在も肉体ではなく霊的な体で生きておられると言うのである。

 

肉体による復活という信仰的理解(「先行的理解」)で本文に接すると、新約聖書の「使信」を現代人に理解不可能なことがらとしてしまうのである。そして信仰を強要して「知性の犠牲」を強いて躓かせるのである。

「統一原理」の復活論には、次のように論述されている。

 

「復活というのは、再び活きるという意味である。再び活きるというのは、死んだからである。そこで、我々が復活の意義を知るためには、まず、死と生に対する聖書的な概念をはっきり知なければならないのである」(『原理講論』208頁)。

 

バルトは、概念的に論じることを哲学的人間学として排除するが、巨大な量の著作を書いても、生と死について概念が明確ではない。

その結果、神学とは、すでにある神的事実(Sacheザッヘ)に対する追思考であると言うが、復活に関して、かくも盲目的な信仰的理解なのである。そして、その信仰をわれわれに強要するのである。

 

 

「原理的批評」

 

(1)「様式史的方法」――ブルトマンの『共観福音書伝承史』は、マルコ、マタイ、ルカの共観福音書を様式によって整理分類し、共観福音書は客観的に歴史的事実を記述したものではなく、初期キリスト教の信仰の所産であるという。

この『共観福音書伝承史』は、非神話化と実存論的解釈の準備作業をなすものであった。『イエス』において、ブルトマンは史的イエスを復元することはできないと断定する。

 

(2)聖書記者たちの時代の神話的な世界像と神話的な人間像は、その時代と共に、現代のわれわれの前から消え去った。それらは科学的な世界観を持つ現代人には容認できない世界観であり人間像である。

それゆえ、新約聖書の神話を「非神話化」しなければならないとブルトマンは説く。十字架の死と復活というキリストの出来事も、すなわち、救済の中心の出来事も、神話的に語られており、「非神話化」しなければならないという。

だが、それは危険であるとバルトはいう。それらの使信はバルトのいうごとく「信じる」こと以外にないのであろうか。

史的な出来事は肉体の復活なのであろうか、霊的な復活なのであろうか。復活信仰とは何であったのか。今まで信仰的義認(前理解)の下で、間違って解釈していたのではないだろうか。

 

(3)ブルトマンの実存論的解釈は、前期ハイデッガーの哲学であると指摘し、その「先行的理解」の下で、聖書の本文に接しているとバルトは批判するが、そのバルト自身も信仰義認論という「先行的理解」(鋳型にはまった心像)を前提として本文に接しているのではないか。

それでは「本文が語り始める前に口を封じてしまう」のではないか。

 

(4)「統一原理」の堕落論、復活論、終末論、再臨論は、ブルトマン流にいえば、みごとな新しい「非神話化論」であると言える。

果たして、救済の出来事の中心である〝復活〟に対して「信じること」を強要し、「知性ノ犠牲」を強いることが、正しい信仰であり、正しい神認識なのであろうか。ブルトマンは〝否〟と言う。

 

以上のように、ブルトマンの神学は、既存の福音主義神学の破壊と活性化の両面性がある。

そういう意味でブルトマンの非神話化は、「統一原理」を受容可能な神学的精神的環境圏を先に形成するという意味において、〝洗礼ヨハネ的〟な天的使命をもった神学(実存論的解釈学)であったと言えるのである。

 

ただし、『イエス』の中で論述されているように、自然神学を批判している。しかし、ブルンナーが指摘しているように、現在において新しい自然神学が求められているのである。

 

だが、「統一原理」の創造原理を既存の自然神学と同類のものと見なされ、排除されるのではないかと危惧される。

したがって、バルトやブルトマンの自然神学批判を知って、傾聴に値する部分と、躓きとなる部分を抽出して整理分析し、誤ったプロテスタント神学の古い固定化した教義を論破しなければならないのである。それは相手を救済するためであって、真の愛である。

 

「主要参考資料」

『共観福音書伝承史』Ⅰ、Ⅱ、ブルトマン著、加山宏路訳、新教出版社

『イエス』ブルトマン著、川端純四郎・八木誠一共訳、未来社刊

『聖書の伝承と様式』ブルトマン、クンズィン著、山形孝夫訳、未来社刊

『ブルトマン』笠井恵二著、清水書院

『新約聖書と神話論』ブルトマン著、山岡喜久男訳、新教出版社

『新約聖書神学』Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、ブルトマン著、川端純四郎訳、新教出版社

『原始キリスト教』ブルトマン著、米倉充訳、現代神学双書、新教出版社

『歴史と終末論』ブルトマン著、中川秀恭訳、岩波書店

『キリストと神話』ブルトマン著、山岡喜久男・小黒薫訳、新教出版社

『カール・バルト著作集3』教義学論文集「ルドルフ・ブルトマン――彼を理解するための、一つの試み」(1952年)、新教出版社

『近代プロテスタント思想史』ティリッヒ著、佐藤敏夫訳、新教出版社

『二十世紀神学の形成者たち』笠井恵二著、新教出版社

『イエス・キリスト』荒井献著、講談社