Archive for 6月 17th, 2014

ブルンナー「出会いの神学」(3)

(4)「保持の恵み」

 

ブルンナーは「保持の恵み」について、次のように述べている。

 

保持ほじの恵みとは、大部分は、人間が罪を犯すにもかかわらず、神の創造の恵み(Schöpfungsgnade)を罪深い人間から全く取り去ってはしまわないということである。」(ブルンナー著『自然と恩寵』、147頁)

 

ただし、ブルンナーは、「保持の恵みに関して正しく語ることは、キリストの啓示の光の中で初めて可能である。」(同、148頁)と言うのである。

 

彼は「保持の恵み」について次のように述べている。

 

「神は全く善意を持つ方であるので、太陽をよい者の上にも悪い者の上にも、照り輝かせるということ、神はわれわれに生命、健康、力等を与えるということ、……自然的な生活に必要なすべてのもの、そういうものすべては、保持の恵みの概念の下に置かれるが――、その保持の恵みは、それであるから一般的な恵みと呼ばれているが……われわれはこのこと、すなわち救う恵みを学び知る前にすでに神の恵みによって生きていたということを、たとえその恵みが何であるかを正しく認識しなくても、認識する。」(同、148頁)

 

確かに、キリスト者以外の人も、大地からの豊穣ほうじょうの恵みを受け、自然的な生活に必要な「保持の恵み」を受けている。

 

ブルンナーは「保持の恵み」(歴史の遺産)に関して、さらに次のように説明を加える。

 

「この保持の恵みの領域には、自然な生活全体と共に、また歴史的な生活全体も属している。……われわれが父および母から受けたものばかりでなく、また民族とその歴史から受けたもの、また全人類の歴史的な遺産であるもろもろのものも、信仰の中で神の維持する恵みの賜物とみなされる。」(同、148頁)

 

事実、現代人は歴史の遺産を相続して、時代的恩恵を受けている。

 

次は、「創造の秩序」(結婚、一夫一婦制)についてである。

 

「この保持の恵みの領域に属するものに、特に歴史的-社会的生活のいろいろの定数(Konstanten)として、すべての倫理的な問題提起の根本要素を形造っているある『秩序』がある。たとえば結婚や国家のような、それなくしてはいかなる人間的な共同生活も考えられないところのある秩序が存在する。……たとえば、一夫一婦制の結婚は、……国家よりもより高い権威を持つものである。……それ故に、一夫一婦制の結婚は昔から『創造の秩序』(Schöpfungsordnung)と呼ばれてきた。そうだからと言って、イエス・キリストの中で初めて真に創造神を認識するキリスト信者は、また結婚の秩序を、創造主が設立したものとして認識するということ以外のことが言われているのではない。」(同、149頁)

 

ブルンナーが指摘するごとく、国家は国民の命と暮らしを守り、安全を保障する。

ここで重要な事柄は、ブルンナーが結婚について語り、一夫一婦制の結婚は「創造の秩序」であり、「イエス・キリストの中で始めて真に創造神を認識する」というところにある。

 

この結婚に関するブルンナーの主張は、再臨主の思想(家庭の原理)を全世界に証しする〝洗礼ヨハネ的使命〟を持った主張であると言えるのである。

 

聖書に、「『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない。」(マタイ19・4-6、マルコ10・6-9、参照聖句:創世記2・24)とイエスが言われた、と記述されている。

 

後で、また論じるが、ブルンナーの上述の主張に対して、バルトは「誰が何を基準に結婚を創造の秩序である」とし、「公理として義務と束縛とをもった命令にまで高めるのか」と結婚に対して問題を提起する。

この誰が、に対して、キリストが答えているというのである。キリストの御言みことばは絶対的基準である。キリストの御言が結婚の意義や家庭の原理について答えているというのである。

 

「家庭の原理」は、再臨のメシヤによって発表される真理である。従来の神学や哲学では、愛を概念化することは不可能であると言われてきたが、真の愛は「再臨のメシヤ」(文鮮明師)によって、「四大心情圏」と「三大王権」として概念的に解明されている。

そして、驚嘆すべきことは、真の家庭の中において「真の神」の「真の愛」を誰もが経験できると説かれている点である。神が人と共に生活する(ヨハネの黙示録21・3)というのである。

 

真の愛と家庭の原理について、真の父母様(文鮮明師ご夫妻)は次のように語っておられる。

 

「エデンの園のアダム家庭は、神様が理想とされた真の家庭の典型でした。無形で存在された神様の存在を実体で現すための四位基台の創造でした。

創造主であられる神様は、主体の位置で人間を対象の位置に創造され、神様の心の中だけに存在していた無形の子女、無形の兄弟、無形の夫婦、無形の父母を、アダムとエバの創造を通して、実体として完成しようとされたのです。

アダム家庭を中心として、実体の子女としての真の愛の完成、実体の兄弟としての真の愛の完成、実体の夫婦としての真の愛の完成、そして実体の父母としての真の愛の理想完成を成し遂げ、無限の喜びを感じようとされたのです。

したがって、真の家庭主義の核心は、人間関係の最も根幹となり、真の家庭を成すにおいて、絶対必要条件となる『四大心情圏』の完成と『三大王権』の完成です。

四大心情圏とは、子女の心情圏、兄弟の心情圏、夫婦の心情圏、父母の心情圏を言います。

皆様、人間は、この地にだれかの子女として生まれ、兄弟姉妹の関係を結びながら成長し、結婚して夫婦となり、子女を生むことによって父母となる過程を経ていくようになっています。したがって四大心情圏と三大王権の完成は、家庭の枠の中で成し遂げることができるように創造されています。」(「ファミリー」2005年6月号、「摂理史的観点から見た自由と釈放」から、36-37頁)

 

また、真の家庭において、「父子間の愛は、上下の関係を捜し立てる縦的な関係であり、夫婦間の愛は、左右が一つとなって決定される横的な関係であり、兄弟間において与えて受ける愛は、前後の関係として代表される」と語っておられる。

 

このように、真の愛には前後、左右、上下の愛があり、愛には創造の秩序があり、規範があるのである。

 

上述の御言にあるように、人間は真の愛を家庭の中において経験して円満な人格を形成するのである。この真の愛の規範は、社会の倫理と国家の倫理の基礎である。

したがって、ブルンナーの言うごとく、「一夫一婦制の結婚は、……国家よりもより高い権威をもつ」と言えるのである。

 

ブルンナーは、「結婚は創造主の与えた『自然の』秩序の一つである」(『自然と恩寵』、149頁)と述べている。そして、「これらの秩序は、ただ信仰からしてのみ、すなわちキリストからしてのみ、その本来的な意味において神の愛の意志との関連において正しく理解される」(同、150頁)と述べている。

 

さらに、ブルンナーは、カルヴァンの結婚と国家の倫理を取り上げて、次のように述べている。

 

「神の秩序、あるいは創造の秩序の中で、カルヴァンにとっては特に結婚が重要である。罪と関連をもつ保持の秩序の中では、特に国家が重要である。カルヴァンが結婚および国家の倫理について語るすべてのことは、彼の自然神学から由来する」(同、161-162頁)と。

 

この家庭や国家の倫理の教説は、自然神学を拒否するバルト神学への批判が含蓄がんちくされている。

 

バルトは、ブルンナーのいう創造の秩序としての結婚を、次のように批判する。

 

「『人間の歴史的・社会的生活の常数(Konstanten)』とも言うべきあの諸秩序であって、『それなくしてはいかなる人間の共同生活も考えられない』が、しかしそういう諸秩序の下で、ブルンナーは今一つの本来的な『創造的秩序』としての結婚を、罪との関連において造られた『保持の秩序』としての国家に対比して、より高い威厳を持つものと考えようとする」(バルト著『ナイン!』203頁)と。

 

この反論に多くを語る必要はない。家庭の原理は、社会の倫理と国家の倫理の基礎であると答えておこう。

 

また、バルトは誰が、何を基準に、結婚を「創造の秩序」と宣言するのかと次のように述べている。

 

「公理は一体、本来いかなる内容のものだろうか。あるいは、何としても『徹底的に罪人である!』われわれの間で、誰が、そういう公理は一体、本来いかなる内容のものであるかをきめるのか。もしわれわれが衝動や理性に相談をかけるなら、たとえばすべての『結婚』とは何を意味し、また、何を意味しないだろうか。衝動や理性は、われわれに本当に『結婚』が――神の創造の秩序として認められまた宣言されるべきものであるような結婚が――何であるかを、われわれに語るだろうか。少なくとも、もし認識の明白さと確実さとが問題となるならば、物理学的、科学的、および生物学的な『自然の法則』や、あるいはさらにまた数学の特定の公理の方が、創造の秩序と称せられるものに対して、あの歴史的・社会的な常数と言われるものよりも、はるかにより多くの権利を要求しなければならぬのではないか。そして誰が、あるいはまた何が、これらの常数を一体今また戒めにまで、言いかえると、神の啓示として見られねばならないような義務と束縛とをもった命令にまで、高めるのであるか。衝動と理性がそれをするのだろうか。そしていかなる標準をもって測ることによって、われわれはさらにまた、こういう社会学的な『創造の諸秩序』の小さい階級制度を直ちに造り上げ、これには、より高い威厳を、あれには、より低い威厳を与えるようなことをするに到るのであろうか」(『ナイン!』204頁)と。

 

このように、バルトは「公理は一体、本来いかなる内容のものだろうか」といい、また「『結婚』とは何を意味し、「『結婚』が――神の創造の秩序として認められまた宣言されるべきものであるような結婚が――何であるかを、われわれに語るのだろうか」と疑義を抱き、「社会学的な『創造の諸秩序』の小さい階級制度」を造り上げると言って問題視するのである。

 

この疑義に対して、「誰が」とはキリストが、であり、「何を基準に」とは、キリストの御言が絶対的基準であると、すでに答えている。

 

バルトは、「結婚が創造の秩序であるのか」といい、「神の啓示として見られねばならないような義務と束縛とをもった命令にまで高めるのか」と批判するが、この主張こそ、病める人間の心を代弁しているといえよう。

家庭の秩序は愛の秩序であって、「義務と束縛とをもった命令」ではない。しかし、神の愛がなければ、バルトの言うごとく束縛となる。

 

「自然法則」と「創造の秩序」(一夫一婦制の結婚)は、本来においては、どちらも創造の秩序である。人間が堕落して万物より劣る存在になってしまったので、バルトが指摘するように〝自然法則〟の方が勝っているように見えるのである。

 

しかし、本来においては、家庭の原理は最高の原理なのである。

なぜなら、文鮮明師によると、真の家庭の中に真の神の真の愛が顕現するからである。したがって、自然の秩序よりも家庭の愛の秩序の方が勝るのは言うまでもないことである。