Archive for 8月 26th, 2014

ブルンナー「出会いの神学」(8)

補足

 

(1)「神のかたち

 

ブルンナーは、「神の像」という視点から、男と女の関係を次のように考察している。

 

「人間創造は、相手ができるまでは、完成されていない。……神は愛であり、神の本質自身に交わりが存在する故に、人間は愛することができる者として、一対の人間として、造られねばならない。彼は他者なしには自己の本質を実現することはできないのであり、その目ざす所は、愛における交わりである。」(『ブルンナー著作集』第3巻 教義学Ⅱ、教文館、1997年、79頁)

 

このように、ブルンナーは、「神は愛であり、神の本質自身に交わりが存在する」と述べ、「神の似姿」とは男と女に分かれていることではなく、「一対の人間」(二人は一体)であると原理的に捉えている。しかし、「一対の人間」から、愛なる神を二性性相の中和的主体と捉えるに至っていない。また、二人(アダムとエバ)の愛の成長過程についても述べていない。

 

これに対して、バルトは神を「三位一体の神」と捉え、その神(神論)から人間との縦的関係と、人間と人間との横的関係を基本形として捉え、男と女の区別と関係について述べている。

 

それで、ここから、バルトの「神の像」(男と女)の解釈を中心に論述していくことにする。

 

バルトは、人間の応答責任について次のように述べている。

 

「人間は、創造主なる神の前で応答の責任をとる・・・・・・・・間に、存在する・・・・。そのことは、あれらの線のうちの第一の線であり、それを念頭においてわれわれは神の誡めを前節で、この応答責任を遂行し、そのようにして神の前で、神のために、自由であるようにという誡めとして理解しようとこころみた。人間についてあの第一の命題から、今、次の第二の命題が区別されなければならない。それはすなわち、人間はその創造の中で、創造と共に、したがって彼が人間として存在することがゆるされる間に、神の契約相手・・・・・・であるよう定められており、この彼の定めが彼の存在をほかの・・・人間との出会い・・・の中での存在として特徴づけているという命題である。人間が、神との契約の中で存在するよう定められているということ、そのことはその対応を、彼の人間性(Menschlichkeit)、すなわち、彼の存在の特別な性質は、もともと、はじめからして、そのようなものとして〔隣人と〕共なる人間性・・・・・・(Mitmenschlichkeit)であるということの中に、その対応をもっている。」(カール・バルトの主著『教会教義学 創造論Ⅳ/2』吉永正義訳 新教出版社、1980年、3-4頁)

 

このように、バルトは「神の像」から、第一の命題として、人間は「神の契約相手」(縦的関係)であるように定められていると述べ、第二の命題として、「〔隣人と〕共なる人間性」(横的関係)として、他の人間との出会いの中での存在として定められているというのである。

 

同様のことであるが、またバルトは、「神は人間に対しその人間性に向かって語りかけ給う。そのことは具体的には、神は人間をその隣人に向かわせ給うということを意味している。……神は人間を、『交わりの中での自由』へと、すなわち、その隣人との交わりの中での自由へと、呼び入れることの中で、神との契約の中にあるべしという人間の定めにおいて、真剣に受けとり給うということを意味している」(同、4頁)と述べている。

 

このように、神と人間との縦的な関係は、孤立した関係ではなく、人間と人間との横的関係性として定められているというのである。これが人間の基本的形態で、それは男と女の関係で示されるというのである。

 

次に、バルトは「隣人と共なる人間性」を通じて「神を知る」と、下記のように述べている。

「神は人間を、彼がほかのもの・・・・・を肯定する間に、自分自身を・・・・・知り、ほかのものを・・・・・・慰め励ます間に、自ら・・を喜び、ほかのものを・・・・・・尊重する間に、自分自身が自分であることを実証するよう呼び出し給う。この自由・・への呼び声として――(われわれはまたこのように言うことができる)人間性・・・(Humanität)への呼び出しとして――われわれは今、神の誡めを理解しなければならない。人間性、人間的存在の特別な、自然的な性質は、その根において、まさに隣人と共なる人間性である。隣人と共なる人間性でない・・ような人間性は非人間性(Unmenschlichkeit、Inhumanität)であるであろう。そのような〔隣人と共なる人間性でないような〕人間性は、また神の契約相手であるべき人間の定めに対応することができず、ただ矛盾することができるだけである。その間の事情は、ちょうど孤独ナ神ではなく、三位一体ノ神、関係の中での神、であり給う神が、孤独ナ人間の中に、ご自身を再認識し給うことができないのと同じようである。神が人間に対して人間性を、したがって交わりの中での自由を、命じ給う間に、神は、人間に対して、自分自身を神の似像として――なぜならばそのようなものとして神は彼を創造されたのであるから――確証し、実証するよう呼び出し給う。そのことが、われわれが今考察しなければならない神の誡めの形態の最も深い、最後的な基礎づけである。」(カール・バルト著『教会教義学 創造論Ⅳ/2』吉永正義訳 新教出版社、1980年、4-5頁、注:太字ゴシックは筆者による)

 

そして、バルトは、「隣人と共なる人間性の最初の、同時にまた範例的な領域、人間と人間の間の最初の、同時にまた範例的な区別と関係が、男と女の・・・・間の区別と関係である」(同、5頁)と述べている。

 

このように、バルトは、「神の像」を「隣人と共なる人間性」(共同人間性)として理解するのである。つまり、バルトは「神の像」(男と女)を「三位一体の神」の似像として類比的に理解しているのである。

言い換えると、「神が、孤独ナ人間の中に、ご自身を再認識し給うことができない」といい、神は、「隣人と共なる人間性」(男と女)を通じて「確証し、実証するよう呼び出し給う」と述べ、神と人間との「類比の関係」から、神を知ることができるというのである。

 

このように、バルトは、神と人間との関係を類比的に捉えているが、この類比については、ブルンナーはバルトに対して次のように述べていた。

 

「バルトの教義学も、そのほかのすべての教義学と同じようにアナロギア(Analogie)の思想の上に基礎を持っている。ただ、バルトはそのことを認めようとしないだけである。」(『自然と恩寵』170頁)。

 

しかし、バルトは、反論文『ナイン!』では沈黙していたが、『教会教義学』においてブルンナーとの論争を省察し、上述のように〝神の像〟の解釈を展開しているのである。

ただし、バルトは、神と人との関係をトマス・アクィナスのように「存在の類比」と捉えるのではなく、信仰の義認によって新しく形成される神と人間との関係、すなわち「関係の類比」(信仰の類比)として捉えるのである。つまり、自然神学の立場から、人間は「神の像」であると「存在の類比」として捉えることを否定しているのである。

しかし、カトリック側から、バルトの「関係の類比」(信仰の類比)は「存在の類比」が前提でそのように言えるのではないかと反論されている。

 

ところで、文鮮明師は、神と人間(アダムとエバ)との縦的な「真の愛」の関係と「男と女」(アダムとエバ)の横的な「真の愛」の関係において、二人の「真の愛」の成長過程を捉え、「四大心情圏」と「三大王権」として解明されている(図解がある)。

バルトの「神の像」の解釈は、この真理をキリスト教会が受容することを可能にする前提条件となるであろう。

 

以上のように、バルトは「三位一体の神」の内在的関係(父、子、聖霊がどのような相互関係にあるかということ)から出発して、共同人間性を理解し、共同人間性を前提として男と女の関係を理解し、隣人と共なる人間性の最初の範例的な区別と関係は、男と女の間の区別と関係であると述べているのである。

 

ただし、最初の範例的な区別と関係の成長過程に関しては、ブルンナーと同様に論じていない。バルトは「三位一体の神」というが、イエスに幼年―少年―成人という成長過程があったように、神に〝成長〟という概念があることを知らないのである。したがって、バルトは「成長過程」において、「真の家庭」の中で、神の愛を確証し、「四大心情圏」と「三大王権」として原理的に解明していない。バルトやブルンナーは再臨のメシヤでないので、それは致し方がないことである。

 

(2)「人間論の問題解決は神論にある」

 

人間論(男と女の関係)は、神論の捉え方によって決定する。男と女の関係は主体と対象の「相対的関係」であって、支配と被支配の「対立関係」(支配と隷属関係)ではない。

今日、フェミニズム神学が主張するように、「神の像」の解釈において、伝統的神学は堕落人間に対しても、「男は、神のかたち」(コリントⅠ、11・7)であると解釈し、反対に女性は「神の像」というより、アダムを誘惑して堕落させたエバの似姿であると解釈されてきたというのである。

 

このように、フェミニズム神学は、伝統的神学は聖書を男性中心主義的に解釈してきたと批判し、男性優位の家父長的体制の下で女性は虐げられ隷属させられてきたというのである。男はこうで、女はこうあるべきだという「男らしさ」、「女らしさ」という性差による社会的役割の差別は、生物学的な区別ではなく、文化的社会的な産物であると批判している。

 

このような人間論の解決は神論にある。「神の像」から、既存の神学のように人間論(男と女の関係)をあれこれと論じても、決して解決しない。「神の像」から神論を究明するところに、問題を解決する鍵があるのである。

 

ところで、バルトは、人と人との関係(男と女の関係)が基本形であるというが、われわれは〝家庭〟が基本形であると捉え、真の家庭が、神との類比の関係にあると見る。また「家庭が天国の基盤」(『真の神様』126頁)であるというのである。

 

「創造論」において、バルトは「神の像」を三位一体的に理解し、神論(三位一体論)から「人間論」(男と女の関係)を論述するが、その点は評価されるが、完全な神を完全には認識できていない(コリントⅠ、13・12a)。

 

「聖書の啓示」である「神の像」(男と女)と「自然の啓示」から、神概念を「真の愛を中心とした二性性相の中和的主体」と存在論的に捉え、文鮮明師は、神の「心情」(真の愛)を「真の家庭」の枠の中で「生活」(参照:ヨハネの黙示録21章3節)を通して「四大心情圏」と「三大王権」として誰もが経験し得ると説かれるのである。これは驚くべき御言みことばである。

 

バルトの神は、「神―イエス―聖霊」の「三位一体の神」である。しかし、彼の「天の父」の概念に女性性相がない。「神―アダム―エバ」と「神―イエス―聖霊」は類比関係である。したがって、イエスに対する聖霊はアダムに対する堕落前のエバに対応するので、聖霊は女性ではないかというのである。旧約聖書の「ルァハは女性形である」(『聖霊は女性ではないのか』E・モルトマン=ヴェンデル編、内藤道雄訳、新教出版社、44頁)。

 

ちなみに、今日までの歴史において、神は三人のアダムを送って来られた。しかし、三人の個体は相違する。イエスは洗礼ヨハネを指してエリヤである(マルコ9・13以下)と言われた。洗礼ヨハネとエリヤは、個体は異なるが〝天的使命〟が同じなので、そのように言われたのである。洗礼ヨハネは、エリヤの霊の「再臨者」なのである(『原理講論』復活論、231-232頁)。「最後のアダムは命を与える霊となった」(コリントⅠ、15・45)、その霊(イエス)の「再臨者」が文鮮明師なのである。

 

再臨主の御言に、「アダムは神様の男性的性稟を展開させたものであり、エバは神様の女性的性稟を展開させたものなのです」(八大教材・教本『天聖経』「成約人への道」1421頁)とある。

 

神(天の父)の概念の中に、男性性相と女性性相があるのである。すなわち、神は無形であり、その無形なる神の二性性相が有形の分立体として顕現したのが、「アダムとエバ」であり、「イエスと聖霊」である。言うまでもなく、神を無形なる存在と捉える神観は偶像ではない。

 

「神の像」である人間は、心と体の統一体である。神と人間の類比の関係から、統一原理は、神は男(陽性)と女(陰性)の二性性相であるが、心(性相)と体(形状)の二性性相の存在でもあると捉えている(『原理講論』47頁)。

現代神学の動向に、「神の像」の解釈で、男と女の関係から形状的な社会学的人間関係を見る見解が評価されるが、統一原理の神論から見て、彼らは、神の性相的な「真の愛の秩序」の原理が実体の人間関係の中で顕現することを見落としているのではないか、と指摘し得る。

 

堕落によって、自己中心的になった人間は、神との縦的な心情関係が断絶し、神の心情(愛)から疎外された存在となっている。その結果、横的な人間と人間の間の心情関係も断絶するようになった。言い換えると、人間関係の疎外の根本原因は、神と人間との縦的な心情(愛)の断絶にあるというのである。それゆえ、救いとは、メシヤによって人間が再創造され、断絶した神と人間の縦的関係と、人間と人間との横的関係を連結することにある。

 

ところで、なぜ神と人間との縦的な心情関係が断絶したのであろうか。

文鮮明師は、「これからこの世界問題を解決して、人類の道徳問題をすべて解消させるためには、堕落論がなくてはならないのです。堕落論なくしては、人間の問題が是正されないのです」(八大教材・教本『天聖経』「成約人への道」1480頁)と語っておられるのである。

 

(3)「男と女の区別」と「結婚」(一対の人間)について

 

バルトは男と女の関係について、次のように述べている。

 

「人間が神の似像をもっているということで、創世一・二七以下によれば、神は彼らを『男と女』とに創造されたこと、この関係の中で、まさに神ご自身こそが関係の中にあり、ご自身の中で孤独ではあり給わないということに対応しつつ〔神が彼らを男と女とに創造されたこと〕が理解されているのである。」(カール・バルト著『教会教義学 創造論Ⅳ/2』吉永正義訳、新教出版社、1980年、5-6頁)

 

神は「人間を男と女とに創造された」といい、バルトは「まさに神ご自身こそが関係の中にあり、ご自身の中で孤独ではあり給わない」と述べているが、堕落の出来事によって一瞬のうちにして息子(アダム)と娘(エバ)を失った親(神)が、お一人でいて寂しくないはずがない。ところで、神は孤独でないと感ずる人格があるのであろうか。

 

文鮮明師は、神と人間との「類比」から「人格神」について次のように述べておられる。

 

「神様がいらっしゃるのならば、神様も人格的神でなければなりません。人と同じでなければなりません。人格的神だということは、知情意を備え、感情とか、またはみ旨を中心として目標とか、そのようなすべてのものが具体的でなければならないのです。」(『真の神様』35頁)

「絶対的神様は、悲しむことができるでしょうか、できないでしょうか。……悲しみとかかわることができるでしょうか、できないでしょうか。これは深刻な問題です。わたしたちのような人間は、それをそのまま通り過ぎることはできません。絶対的である神様は絶対的に悲しみがあってはならないと言うならば、その神様は知情意をもった、喜怒哀楽の感情をもった人間の父となることはできないのです。論理的に矛盾します。ですから神様は、私たち人間よりももっと喜怒哀楽を感じることができる主体とならなければなりません。」(『真の神様』37頁)

 

このように、伝統的神学の悲しみも、苦しみもない、不変不動の超越的な神観は虚構であると批判し、神の像(創世記1・27)から〝人格的神〟を論じておられるのである。

 

人間は男と女に分立しているが、その区別に関して、バルトは次のように述べている。

 

「人間と人間の間のほかのどんな区別とも比較され得ないほどの徹底性全体――の中で、関係を指し示す唯一の指示であるからである。人は、両方のことを語らなければならない。

すなわち、人間は必然的に、完全に、男女かである。それと共に、それ故にこそ男女とである、と。人はこの区別・・から自分を解放することはできず、男か女かの規定の彼岸で『単なる人間』であろうとすることはできない。すなわち、人間は、人間としてのあらゆる共通のものを持ってはいるが、それでもなお事実、常に、どこででも、男の人間あるいは女の人間である。……そのようにして彼ら両方が彼らの出会いに、また彼らの共存に、指し向けられ、合わせて整えられているのである。これ以外のいかなる人間の間の区別・・も、人間である男と人間である女が全く別なものであるという区別ほどに深くはない。……女は男にとって、男は女にとって、他なる・・・人間である。しかしまさにそのようにしてこそ共に生くべき・・・・・・人間〔隣人〕(Mitmensch)である。」(カール・バルト著『教会教義学 創造論Ⅳ/2』吉永正義訳、新教出版社、1980年、6-7頁)

 

このように、バルトは「神の像」の理解において男と女の区別を強調し、「人はこの区別・・から自分を解放することはできず、男か女かの規定の彼岸で『単なる人間』であろうとすることはできない」と述べている。

 

「神の像」の解釈で、ブルンナーは「一対の人間」を強調していたが、バルトは男と女の区別を強調する。この両者の主張の統一は、イエスが「『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』彼らはもはや、ふたりではなく一体である」(マタイ19・4-6)と言われた御言の中にある。

 

原理的に解説するなら、「父母=神」((1))→「男と女」((2))→「二人は一体」((1))と発展運動をして四位基台を完成する。「正」とは「神の似姿」である父母(「一対の人間」)であって、そこから「分」として「男と女」に区別されて顕現する。そして、「分」は結婚して再び「神の似姿」の「合」(一体)となるのである。

バルトは「三位一体の神」から人間論を説いたが、統一原理は「夫婦として完成されるためには、神を中心として、男性と女性が三位一体となり、四位基台を造成しなければならない」(『原理講論』446頁)と述べている。

 

文鮮明師は、「結婚」について次のように述べておられる。

 

「神様自身が男性格と女性格をもっていらっしゃるお方なので、そこから分立された実体対象として創造された人間も、男性と女性として創造されたのであり、彼らが結婚すれば、実体として神様に代わる陽性と陰性になるのです。」(『宇宙の根本』17頁)

 

また、次のように「神の似姿」(中和体)について語られている。

 

「一男一女は無形であられる神様の実体対象として表れた息子、娘です。……一人の男性と一人の女性は、それぞれ神様の一性に似て出てきました。したがってこれらの一男一女の結合は神のプラス(+)性稟とマイナス(-)性稟が一つとなることです。すなわち神様に似た中和体となるのです。それゆえ人間二人、すなわち夫婦は神様の全体を表象する結合体なのです。」(『真の神様』125頁)

 

さらに、「人間の完成」について、次のように語られている。

 

「人間の完成はどこにあるのでしょうか。男性なら男性自体で完成する道はなく、女性なら女性自体で完成する道はありません。それは、すべて半製品だからです。したがって、男性と女性が完全に一つになった愛を中心としてのみ完成するというのです。アダムが完成するには誰が絶対に必要でしょうか。神様が絶対に必要なのですが、神様は縦的に絶対必要です。アダムが完成しようとするなら、縦横の因縁をもたなければなりません。縦横の愛の因縁をもたなければ回転運動、球形運動が不可能です。それゆえに、横的にアダムに絶対必要とするのはエバです。同じように、エバにも絶対必要なのがアダムです。」(『宇宙の根本』96頁)

 

上述の御言の中に、「神の像」の解釈における、ブルンナーとバルトの対立を〝克服〟する内容があるのである。

 

ところで、先に取り上げた「共同人間性」と性差による「男と女の区別」に関するバルトの「神の像」の解釈は、フェミニズム神学や社会学的視点を持つ神学者にいろいろと影響を与えている。

しかし、バルトの男と女の性差の区別は、同性愛や生の多様性を主張する見解を克服し得えない。統一原理の神論は、彼らの主張に対する批判と克服の根拠となる。

神はホモなのであろうか。同性愛こそ、偽りの「神の像」であって、それは偶像崇拝である。「神の像」である男と女の成長過程を分析し、「結婚」の意義と「家庭の愛の秩序」を解明し、二人は絶対「性」を守ることによって神人合一して「真の父母」として完成するのであると言われている。しかし、彼らはこの原理を知らないのである。

 

自然もペア・システムである。(+)と(+)は反発して作用しない。(+)と(-)が作用するのである。また、男と男、女と女から子供は生まれない。それは血統の断絶である。同性愛の形態は、自己欺瞞であって、「存在の原理」に反している。言うまでもなく、同性愛やフリーセックスは、神の真の愛の形態(神の像)に敵対し、神を冒涜している。彼らは、創造本然の男と女の関係と真の愛の喜びを知らず、自己破壊の道を歩んでいる。彼らに真の愛の完成はない。

 

「男と女の区別」と神の戒めが、隣人と共なる人間性の中で、何を語ろうとしているかをわれわれは問わねばならない。「取って食べるな」、「取って食べると死ぬ」といわれた「園の中央」にある「木の実」とは、一体何であるのか(創世記2・17、同3・5)を、伝統的神学の文字通りの〝神話的解釈〟を克服して、真理を明らかにしなければならない。

 

夫婦の愛の関係において、夫にとって妻は唯一・絶対であり、妻にとって夫は唯一・絶対である。イエスは、「彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」(マタイ19・6)と言われた。このことを、文鮮明師は神の誡めとして、絶対「性」を守るようにと言われている。

 

文鮮明師は、性殖器は愛と生命と血統の「本宮」であると、次のように述べておられる。

 

「女も男も愛の本宮をもっているのです。……夫婦が一体になるところの本宮です。男女の生命が一体になる本宮です。そこ(本宮)において血統がつながるのです。それ以外は血統がつながりません。……その本場(本宮)が、堕落のために悪魔の本場となり、本宮が地獄の悪魔の本宮になってしまいました。天国と神様の本宮になるべきものが、神様の愛の本宮、神様の生命の本宮、神様の血統の本宮になるべきものが、悪魔の三大基地になってしまったのです。」(『続・誤りを正す』68頁、世界基督教統一神霊協会編)

 

これは、人間始祖アダムとエバの関係において、真の愛ではなく、自己中心的な愛を動機とする堕落の出来事とその結果に対する分析である。

 

文鮮明師は、真の家庭での愛の経験内容を分析して、愛を概念的に「四大心情圏」として説かれたが、その「四大心情圏」の視点から見て、「神ご自身こそが関係の中にある」というバルトの主張に、われわれは注目せざるを得ない。

しかし、上述のごとく、バルトは形状的な男と女の区別のみを強調して、二人の性相的関係(愛の成長過程)を捉えることができず、「共に生くべき人間〔隣人〕である」と言うに止まっている。

 

(4)「バルト神学の限界」

 

男と女として存在する人間と同様に、自然はペア・システムとして存在する。それは、愛のためであり、自然は愛の博物館である。神の本質は心情(愛)であるから、正分合と発展運動が展開するのである(『宇宙の根本』63-81頁、参照)。

しかし、自然神学を排斥するバルト神学では、今日の自然環境の破壊による危機的状況に対して、何も発言できないのである。

また、神に成長(発展)という概念があることを知らない。発展運動は、ヘーゲルのいう「正―反―合」ではなく、「正―分―合」である。

 

言うまでもないことであるが、「神の像」である男と女の関係は「相対的関係」であって、弁証法的唯物論のいう「対立的関係」(支配と被支配の関係)ではない。全ての存在は、ペア・システムとして存在し、二つは闘争のためではなく、愛のために動き、存在するのである。

 

ブルンナーは、「結婚の意義はキリストによって説かれる」と洗礼ヨハネ的発言をしているが、バルトは、パウロ(コリント人への第一の手紙7章)を根拠として結婚、離婚、独身について述べている。「男は女に触れない方がよい」というパウロの言説は、再臨が迫っているという終末論的動機から出たものであるが、永遠に独身でいることではない。キリスト者にとって〝小羊の婚姻〟が最大の願いであるからである。

 

四大心情圏と三大王権の観点から見れば、パウロを根拠とするバルトの隣人(「共なる人間性」=友情)は、再臨を待望する兄弟姉妹の心情(愛)の次元である。さらに一段高い「結婚」の意義と「夫婦の愛」と「父母の愛」に関しては、原理的に解明し得ず、再臨の御言によらねばならないのである。

人間(罪人)は誰も、神の「真の愛」と一つとなった本然の「夫婦の愛」、本然の「父母の愛」を知らないのである。さらに、心情(愛)は発展し、孫が生まれ、その孫が結婚した時に、「祖父母(王と女王)の愛」(三大王権)が完成することを知らないのである。

 

(5)「バルトに対する原理的克服論」

 

バルトの「神の像」の解釈について、原理的視点から見て、次の諸点が指摘される。

 

第一に、神論について、神はご自身を啓示し、「神の像」(男と女)と定義している。

統一原理は、神は「二性性相の中和的主体である」(『原理講論』47頁)と述べ、「同時に愛の根本であるお方が神様」(『宇宙の根本』44頁)であると述べている。「真の愛の起源が神様だ」(同)というのである。

これに対して、バルトは「三位一体の神」であるという。神概念に関して、前者は女性性相があるが、後者は女性性相がない。この両者の神論の相違を明らかにし、バルトの神観は、無形(父)と有形(イエスと聖霊)の混在した神であると指摘しなければならない。また、哲学的な神概念を否定するバルトは、神の愛を概念的に述べていない。二性性相という概念は、神を哲学的に論ずることを可能にした。この功績は偉大である。

 

統一原理は、創世記1章27節の「神の像」から神を究明し、神の陽性と陰性の側面を次のように定義している。

 

「創世記1章27節に『神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された』と記録されているみ言を見ても、神は陽性と陰性の二性性相の中和的主体としてもいまし給うということが、明らかに分かるのである。」(『原理講論』創造原理46頁)

 

このように、「神の像」から、人間論ではなく、まず神論を究明しているのである。

「天の父」という概念の中に、男性性相(陽性)と女性性相(陰性)の二性性相があるのである。

 

また、文鮮明師は二性性相に関して次のように述べておられる。

 

「男性には女性の性相があります。女性も男性の二性性相の要素をもっているために、男性が暮らすことのできる場所があるのです。神様は二性性相なので、女性とも男性とも暮らすことができます。それと同じように、一つの相をもった夫も、女性が二性性相の要素をもっているために夫人の胸の中にとどまることができます。女性も男性の心の中にとどまることができます。一つです。離れることができないのです。」(『宇宙の根本』48-49頁)

 

神は無形である。人間は神の体であり、神が臨在する神の宮(コリントⅠ、3・16)である。「アダムとエバを創造したのは、無形の神が実体の神様として登場するためなのです」(『真の神様』119頁)と述べられている。

2000年前、イスラエルに、イエスは〝実体の神〟として登場したのである。

 

第二に、人間論について、神が人間(男と女)を創造された目的は何か。

神の創造理想(創造目的)は、アダムとエバが家庭を完成して人類の「真の父母」となり、天国を創建することであった。有形なる世界は体がなければ主管できない。それで無形なる神が実体の「真の父母」として顕現してこの世界を直接主管されるのである。

「神の創造理想(創造目的)とは、理想家庭を形成して、この地上に天国をつくることにあった」(『祝福家庭と理想天国(Ⅰ)』402-408頁)のである

人間と自然の関係において、「神の像」は人間の優位性の根拠となり、自己中心的な人間が自然を支配することを正当化してきたが、愛なる神が人間となって自然を直接主管することによって、人間と自然の関係の諸問題は解決する。

 

神のみ旨(創造理想)は、アダムとエバの堕落によってなされなかったが、イエス・キリストと再臨主によって必ず成就される。

 

第三に、神は無形であり、目に見えない。それでは如何にして神を認識するのであろうか。

文鮮明師は、「神様を見ることはできません。皆さん、力が見えますか。神様はエネルギーの本体であるので、霊界に行っても見ることができません」(『真の神様』13頁)と述べておられる。

この目に見えない無形なる神を、バルトが言うごとく、「他者との関係で知る」とは、一体どのようにして知るのであろうか。

われわれは、文鮮明師の御言(『宇宙の根本』と『真の家庭と家庭盟誓』)によって、神の真の愛を「四大心情圏」と「三大王権」として認識している。

 

神を知るとは、我々人間が再創造されてキリストのごとく〝神人一体〟となり、「完全な者」(マタイ5・48)となることである。そもそも神が「神の似姿」として男と女を創造したのはなぜかというのである。

バルトは、男と女の差異は「構造的、機能的な区別に基づいている」(同、『教会教義学』6頁)といい、「抽象的な人間」に解消することはできないという。そして、具体的な人間として、「むしろ常に、いたるところで人間的なとして、あるいは人間的なとして、存在する」(同、6頁)というのである。

しかし、この主張は、事実関係を述べたに過ぎない。なぜ人間はそのような男として、あるいは女として創造されたのかという問いに対する答えを究明しなければならない。

 

文鮮明師は「二性」(ペアとして男と女)として存在するのは愛のためであると、次のように述べておられる。

 

「この世の中のすべての存在がペア・システムになっているのです。それは愛のためであり、何の愛かというと、神様が喜ぶことのできる本然の愛、真の愛のゆえなのです。」(『ファミリー』1993年12月号、21頁)

「男と女を総合して、中心に立って動かすものが愛です。それでは、男性と女性が和合して愛を中心として動くことがどこから始まったのかといえば、神様の二性性相からなのです。男性性稟と女性性稟が和合したものを相対的に展開させたのです。」(『宇宙の根本』41頁)

 

このように、神は二性性相、自然も二性(ペア・システム)である(『宇宙の根本』135頁)。男一人、女一人では神を完全に認識することはできない。神は愛であるというが、愛は一人では知り得ない。それでは神の愛を如何にして知り得るのであろうか。「愛は、必ず相対を通して現れて成される」(『宇宙の根本』94頁)と述べられている。男にとって愛の相対は女であり、女にとって愛の相対は男である。神にとって、愛の相対は人間であって動物ではない。

 

このように、「真の愛」は神から、そして、男と女を創造されたのは「真の愛」のためであると述べておられるのである。

 

第四に、神と被造物の関係について、文鮮明師(真のお父様)は、原理的に次のように語っておられる。

 

「だから男女関係、オス・メスの観念というのは、宇宙の本源である。神様が存在して創造の前にちゃんとその観念があったので、その観念に合うように成し得たものが、プラス性格とマイナス性格、オスとメス、男女関係の世界だというのです。」(『ファミリー』1992年7月号、66頁)

 

それゆえに、「宇宙の根本は愛である」(『宇宙の根本』82頁)と言われ、「人間は万宇宙の愛の中心」(同、92頁)であり、「天地をペア・システムで造ったのは何のためですか。これは、愛の博物館です」(同、113頁)と語られている。

 

真の愛を動機として、この天地万物が生成しているというのである。

以上のように、「神と人間と万物の創造本然の関係」に関する諸見解は、自然神学を拒否するバルト神学にはない見解(克服論)である。

 

(注:「像と似姿の区別」について)

一方で「神の像」と「神の似姿」とは、ヘブライ語旧約聖書では同義語であって、両者は厳密に区別されていない。そして、教父たちが両者を区別するようになったのは、七十人訳がeikon とhomoiosis とに訳し分けたことに起因すると考えられている。

 

他方でヘブライ語聖書では、創世記1章26 節の「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」における「かたどり」と「似せて」はそれぞれzelem とdemut という別の単語が用いられている。つまり「神の像」と「神の似姿」はヘブライ語において最初から区別されているという。

 

「像と似姿の区別」について

人間が「神の像」にしたがって造られたとしても、必ずしもそれが現実態として実現されているわけではない。それはいわば萌芽として、あるいは可能的な傾向性として与えられているにすぎない。これに対して「神の似姿」とは、可能態としての「神の像」がまさに実現されるべき現実態を指している。したがって、それはすべての人間の向かうべき究極的な最高目的を意味することになる。この「神の似姿」はキリストにおいては完全に実現されているが、一般的には神との交わりを通して漸次実現されていくものと考えられる。

 

この「注:『像と似姿の区別』について」は、濱崎雅孝(京都大学非常勤講師)著『キリスト教思想研究の現在発表レジュメ(2004/05/10)― 神の像として造られ、神の似姿へと向かう人間(仮題)』からの抜粋である。