Archive for 9月 30th, 2014

ブルンナー「出会いの神学」(9)

(B)「ブルンナーの『六つの命題』に対するバルトの反論」

 

バルトはブルンナーの「私の反対命題とその基礎づけ」(六つの命題)に対して下記のごとく反論している。

 

(1)ブルンナーの「神の像」の理解に対するバルトの批判について

 

バルトは、ブルンナーの「神のかたち」の解釈について、次のようにバルト式にまとめている。

 

「上述の人間の『啓示能力』という言葉は、ブルンナーに従えば(143頁以下 注:ブルンナー著『自然と恩寵』のページ数)、人間の持っている『神の像』を意味する。『人間の持っている神の像はその形式的側面からすると全然こわれていないということが、神の啓示に対する客観的可能性である』(172頁)。ブルンナーは力を入れてこう言う――被造物の中で人間を特に顕著なものとして区別するものは、人間における純粋に形式的なもの、すなわち『人間性』、主体性、理性的なもの、応答責任性のことであって、それが人間の信仰の可能性の前提であると共にまた罪を犯す可能性の前提でもある。こういう前提、すなわち人格的存在であるということは、罪によってなくならされてはいない。したがって、こういう形式的意味において人間の中にある本来の神の像はこわれていない。――事実上、こわれていないではないか。人間は罪人であっても、やはり人間であって、材木や丸太にはならない。しかし、それだからと言って人間の理性は神の本質を規定するのには、この世の中の何か外のものよりも、より適したものであるだろうか(170頁)。」(バルト著『ナイン!』196頁)

 

人間の理性に関して、バルトは上述のごとく、理性は「人間の信仰の可能性の前提である」と述べたブルンナーの見解を取り上げて批判している。しかしブルンナーは、そのようなバルトが批判する自然的理性だけでなく、啓示の光の中にある理性に関しても述べている。言い換えると、第一に、人間の理性に関して、神から離反している理性(人間の信仰の可能性の前提である)と、第二に、恩寵を受容した理性の二つを述べている。しかし、バルトは、前者のみを主張し、後者を否定する。

 

ところで、バルトは、ブルンナーの「神の像」の理解を「啓示能力」と言い換えている。それで、読者はバルトのいう「啓示能力」では、ブルンナーのいう「神の像」の意味がわからなくなる。したがって、バルトが「啓示能力」といって批判する時、ブルンナーのいう「神の像」、すなわち、人間は主体であり理性的存在であるということ、罪人であるとしても〝言語受容能力〟と〝応答責任性〟があり、人間は〝特殊な地位〟にあるということを想起しなければならない。

 

はじめに、恩寵について、バルトは「泳ぐ運動」の譬えをもって、次のようにブルンナーを批判する。

 

「水泳の達人によって瀕死ひんしから救われた人間が、自分は依然として人間であって鉛の塊でないという明白なことを、彼の『救われる能力』だと主張するなら、それはおかしくはないか、――と、全く偶然にもある人がブルンナーの書物のこの個所から受けた印象をはっきりと述べた。一人の人が自分も泳ぐ運動とでも言うようなことをすることによって、自分を救ってくれる人を助けたと言いうるのなら、それは救われうる能力だということができるだろうが、そう言えないなら、それはおかしい言葉である。ブルンナーはそういうことを考えることができるのだろうか。否、決してそうでないはずである。われわれは『自分自身で自分を救うために何もできない人間』ということを彼が語るのを聞いた。」(『ナイン!』196頁)

 

このように、バルトは、ブルンナーの「啓示能力」、すなわちブルンナーのいう「神の像」(人間は主体であり、理性的存在である。言語受容能力と応答責任性がある)を、自分も泳ぐ運動で、自分を救ってくれる人を助ける能力であると解釈する。それは、救われうる能力であるという譬えでもって表現し、「自分自身で自分を救うために何もできない人間である」という主張と矛盾するではないか、と批判するのである。

 

そして、バルトは、ブルンナーの「啓示能力」(応答責任性)を、さらに次のように批判する。

 

「あの『啓示能力』と言われているものは、啓示の中で人間に与えられる神の恩寵の働きに対して、人間がその仕事仲間として協力することであるかのように見えるような、そういう見方のことである。……ブルンナーは、宗教改革者たちの『聖霊のみによって――ただ恩寵のみによって』という主張を無条件的に認めることと少しも矛盾することなしに、しかもなおああいう自明なことについて一言だけでも言えるだろうか」(『ナイン!』197頁)と。

 

これは、従来からあるカトリックの協働きょうどう説に対する批判を、ブルンナーに適用したものである。すなわち、バルトの「恩寵のみ」という主張は、恩寵を受容する前提条件である「人間の決断や努力」(5%の責任分担)を否定する宗教改革者ルターの見解と同様のものである。

 

上述のバルトの「泳ぐ運動」の譬えに対抗して、ここで、カトリック側からの「嵐の中の船と船乗り」や「収穫の労働」の譬えを紹介しておこう。

 

「それでも、幇助ほうじょの恩恵によるのでなければ、得ようと努力している目的物を獲得することはできないのであるが、私たちの意志は何もなしていないのではない。……たとえば、激しい嵐の中から船を無傷で港へ導き入れた船乗りが、『私が船を救った』と言わず、『神が救いたもうた』と言うようなものだ。だが、彼の技術と努力が何ら働きをしなかったわけではない。同様に、豊かな収穫を畑から納屋へ運び入れている農夫は、『私がこんなに多量な年収穫高をあげた』と言わないで、『神がお与えになった』と語る。しかし、そうだからといって、農夫が穀物の収穫のために何の働きもしなかったと言う者があろうか。……しかし神の好意が近づかなければ、人間のわざは何の成果もあげえないから、全体が神の恵みに帰せられているのである。」(『世界の名著18・ルター』、中央公論社、229頁)

 

「嵐の中の船と船乗り」や「収穫の労働」の譬は、〝恩寵のみ〟を強調して「人間の努力」を否定するルターの見解を批判したもので、カトリックの「恩恵と自由意志の関係」についての「協働説」を説いたものである。

この譬えは、統一原理の説く「神の95%の責任分担」と「人間の5%の責任分担」の関係を表現している。

 

以上にように、「嵐の中の舟と船乗り」や「収穫の労働」の譬えと、バルトの「泳ぐ運動」の譬えとを対比すると、カトリックとプロテスタントの主張の相違点がよく分かる。

そして、バルトが、「聖霊のみによって――ただ恩寵のみによって」と述べる〝恩寵のみ〟の主張と、カトリックの「協働説」の対立を、統一原理によって矛盾することなく整理することができる。

 

協働説を原理的に解説すると、み旨の100%の成就において、「神の95%の責任分担」(恩寵)と「人間の5%の責任分担」(船乗りの努力)があるという意味である。その上で、み旨が成就すれば全体(100%)が神の恵みであると言って神に感謝するのである。そして、救われたのは〝自分の努力〟によるのではなく、〝神による〟と言って、神に感謝するのである。

 

ただし、統一原理は5%の「人間の努力」について、次のように述べている。

 

「人間の責任分担5%というのは、神の責任分担に比べて、ごく小さいものであるということを表示したものである。しかし、これが人間自身においては、100%に該当するということを知らなければならない」(『原理講論』243-244頁)と。

 

(2)「二種類の啓示」(「自然を通しての啓示」と「キリストの啓示」)について

 

バルトは、ブルンナーの「二つの啓示」について、次のようにまとめている。

 

「神は人間にとっては、神の創造した世界を通して『何らかの仕方で認識されうる』ということ(145頁)、『人間は何らかの仕方で神の意志を知る』(145頁)ということについて述べている。『神がこの世を創造することは、同時にまた神が啓示することであり、神が自己を伝達することである』(145頁)。そして、その神の啓示、自己伝達が認識されうるという可能性そのものは、罪によってももちろんゆがめられてはいるが、破壊されていない。この世を通しての神の啓示認識だけでは、救いをもたらす神の認識とはならない。天地万物の中での啓示も『それの完全な姿の中で』認識しうるのは、『キリストによってもうひらかれた人』のみである。しかし、天地万物の中での啓示は、キリストによって蒙を啓かれたとは言えない人にとっても、歪み、ぼかされてはいるが、とにかく何らかの仕方で認識されうる。」(バルト著『ナイン!』197頁)

 

上述のように述べた後に、次のように批判する。

 

「『自分自身によって自分を救うために何もなしえない』ならば、われわれが天地万物から事実上見出す神認識の対象として考察しうるものは、何としてもそういうものにほかならない。しかし、ブルンナーはそうは考えないし、またそうは言わない。」(同、『ナイン!』198頁)

 

ブルンナーは、「キリストの啓示」を受けていない人であっても、不完全であるが、自然を通して神を認識すると言っているのである。救われるか、救われないかという問題ではなく、真の神を認識できるか否かという認識論の問題なのである。しかし、バルトは、この〝認識論〟の問題を〝救済論〟の問題へと論点をずらして批判をしているのである。

 

このようにバルトは、救済論の観点から神認識の問題を取り上げ、キリストを抜きにして天地万物から神をいくら認識しても、その人は、キリストを知らないので不完全な神認識であって救われていないといい、そのような神認識ではないかと批判しているのである。

しかし、「バルトの神認識も不完全で真理の一部分であるに過ぎないのであって、完全な救いではない。そのような神認識である(コリントⅠ、13・9-10)」と、バルトの批判をバルトにも投げ返しておきたい。

 

ところで、話をもとに戻すが、ブルンナーは「二種類の啓示」と言っているのであって、キリストの啓示を抜きにしているのではない。そして、自然神学は余計なものではないと言っているのである。しかし、バルトは余計なものとして、自然神学を徹底的に排斥するのである。ここが、神認識における両者の相違点なのである。

 

バルトは、ブルンナーの「自然を通しての啓示」(自然神学)について、次のように批判している。

 

天地万物の中で啓示される神は、人間には全然認識されえないで、完全にかくされているということである。そうであるなら、自然神学はどうなるか。そうであるなら、神学であると主張したり、神学的に価値があるというようなことは少しも言わないで、宗教史や文化史の上に立ってなされる理論であることしか自然神学のすることとしては残るものはない。否、残念ながらブルンナーは、天地万物から『何らかの仕方で』認識されうるしまた認識された神は、天地の創造者である唯一の神、三位一体の神であって、この神はキリストの中でわれわれを義としまた彼の聖霊によってきよめると考えている。この神は、たとえ罪によって歪められ、曇らされ、くらまされており、神々の姿に偽装されているとはいえ(146頁)、事実上すべての人間によって、キリストなくしても、また聖霊なくしても認識されうる神である。実際には『二種類の啓示』が『ある』――」(『ナイン!』198-199頁。注:太字ゴシックは筆者による)と。

 

上述のように、バルトは、キリストと聖霊なくしても天地の創造者である「唯一の神」、「三位一体の神」を認識することができるのか、と問うのである。

 

われわれは、次のようにバルトに反論することができるのである。キリスト以前の、神から召命された旧約時代の人たちは、キリストなくしても、また聖霊なくしても、アブラハムやモーセや預言者らは、創造神(唯一の神)を認識し、応答していたというのである。

 

ブルンナーは、神認識において、「事実上すべての人間」と言ってはいない。神が自然を通して啓示されても、無神論者や唯物論者は「自然は運動する物質のみである」と見て、神を認識しない。彼らは、彼らの哲学や思想によって事物の性相的側面(精神的要素)を見ることができず、形状的側面(物質的要素)のみを見るからである。また、このような無神論者や唯物論者を生み出したのは、今までの有神論的な神学や不完全な自然神学(自然哲学)によるのである。

 

次の問題は、バルトが「天地万物の中で啓示される神は、人間には全然認識されえないで、完全にかくされている……そうであるなら、自然神学はどうなるか。」という問題である。「神学であると主張したり、神学的に価値がある」とは言えないではないか、という問題である。

 

ブルンナーは、不完全な、一部分の神認識と言っているのであって、バルト式のブルンナー解説のように、「全然認識されない」とは言っていない。

 

ところで、バルトは〝偶像崇拝〟を取り上げて、次のようにブルンナーの主張を批判する。

 

「『何らかの仕方で』ゆがめられ、曇らされ、またくらまされて神を認識するのとは、もっと違った仕方で神を認識すると言っていると考えることができるようになるだろうか。一体、偶像崇拝はブルンナーに従えば、真の神の礼拝の言わば不完全な前段階にすぎないのだろうか。一体、キリストの中での神の啓示の機能は、神の啓示の広い働きの範囲内で、あの第一の段階から第二の段階にわれわれを導くことだけなのだろうか。」(『ナイン!』199頁)

 

周知のように、真の神の礼拝と偶像崇拝は同一方向ではない。全く反対方向である。それゆえ偶像礼拝は、バルトがいうように、真の神の礼拝の不完全な前段階ではない。

 

ちなみに、ティリッヒも「神の似像である人間のみが自己を神から離間りかんする力を持つ」(『組織神学』第2巻、41頁)と述べている。神は、そのような自由な人間を創造したからこそ、人間はロボットではなく「神の像」であると言えるのである。

 

(3)「保持の恩寵」に対する批判

 

バルトは、「保持の恩寵」に対して、次のように批判する。

 

「天地万物はそれが活動している姿においても、またそれが現在置かれてある姿においても、ひとりの真の神の本当に自由な、本当に値なくして与えられるところの恩寵のわざである。その通り!とわれわれはそれに対して言わねばならない。しかし、どういう意味で、またどういう権利をもって、ここでブルンナーは、イエス・キリストの恩寵に言わば先行する別な、特殊な(あるいはむしろ『一般的な』)恩寵について語るのであろうか。」(『ナイン!』200頁)

 

バルトは、「イエス・キリストの恩寵に言わば先行する別な、特殊な(あるいはむしろ『一般的な』)恩寵について語るのであろうか」という。この問いは、神とは三位一体の神であり、キリスト以外の啓示はないという意味である。これが、バルト神学が「キリスト中心主義」(キリスト一元論)、あるいは「キリスト論的集中」と言われるゆえんである。

 

そして、バルトは〝恩寵のみ〟を、次のように説明している。

 

「『だから、それと共に人間の行為そのものは、神の恩寵――救う恩寵ではなくて維持する恩寵――の見地の下に置かれる。創造者自身が自分の創造したものを、罪の堕落の中で保持するために用いる人間のそういう行動のすべては、保持の恩寵の中でなされる行動である』(148頁)。一体、創造者自身が自分の恩寵を与えるために用いる人間の行為というようなものがあるのだろうか。こういう考え方は、人間の行動と神の行動とが間接的に同一であるというアウグスティヌスの図式を前提とするか、あるいはまた神の質料因と人間の道具因とが協力するというトマスの図式を前提とすると、よく分かる。もしブルンナーが、人間の行動も確実にまた『神の恩寵の見地の下に』置かれるという仕方でイエス・キリストの義認と聖化の恩寵について語るであろうならば、こういう考え方は確かに好意をもって理解されうるであろう。しかし、ブルンナーはそういうことをしようとしない。――彼はどこまでも一つの特別な『保持の恩寵』があると言おうとする。」(『ナイン!』202-203頁)

 

統一原理は、「聖書には、神の救いの摂理に関する数多くの秘密が隠されている」(『原理講論』341頁)と述べ、ヤコブの家庭的路程やモーセの民族的路程は「将来、イエスが来られて、人類救済のために歩まねばならない摂理」(同、341頁)を表示していると述べている。

 

また、「一人の預言者の生涯に関する記録を取ってみても、その内実は、単純にその人の歴史というだけにとどまるものではなく、その預言者の生涯を通して、堕落人間が歩まなければならない道を表示して下さっているのである。」(同)と述べている。

ヨハネ福音書5章19-20節で、イエスは、「子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。……父は子を愛して、みずからなさることは、すべて子にお示しになるからである」と語っている。

 

一人の預言者の生涯が示しているように、バルトの批判に反して、このことは、人間の行動と神の行動とが間接的に同一であるということを示している。統一原理は、恩寵(キリストの啓示)以外に、旧約聖書の歴史の中に〝特別な啓示〟を見るのである。

 

しかし、現在まで、旧約聖書の中にあるモーセの生涯に関する物語などは、彼の歴史に関する単なる記録であると考えてきた。バルトのキリスト中心主義から見れば、恩寵以外の別な「先行する」「特別な」啓示は存在しないということになる。しかし、統一原理は、モーセの生涯を通して、イエスに先行する「復帰摂理に関するある秘密を教えて(いる)」(『原理講論』400頁)と説いている。単なる歴史の記録ではないというのである。

 

ところで、ブルンナーのいう「保持の恵み」とは、「創造の恵み」のことであって、太陽は善人にも悪人にも照り輝かせ、生命、健康、力等を与えている。このように、自然的な生活に必要なすべてのもの、そういうものすべては、「保持の恵み」の概念の下に置かれる。また、歴史の遺産も「保持の恵み」の概念の中に入れている。

 

このように、ブルンナーは、「救う恵みを学び知る前にすでに神の恵みによって生きていたということを、たとえその恵みが何であるかを正しく認識しなくても、認識する」(『自然と恩寵』148頁)と述べているのである。

 

そして、ブルンナーは、「保持の恵みに関して正しく語ることは、キリストの啓示の光の中で初めて可能である」(『自然と恩寵』148頁)と指摘することも忘れてはいない。それにもかかわらず、バルトは、ブルンナーのいう恵みとは、すべてイエス・キリストの恩寵の下にあり、その恩寵に先行する別な、特殊な恩寵など存在しないと断言する。

 

バルトは言う、「天地万物とそれの保持とを和解からより以外の仕方で理解しうるか。どうしてそういうことについては旧約聖書と新約聖書とにおけるキリストの啓示からしてより以外の仕方で語りうるか」(『ナイン!』201頁)と。

 

安酸やすかた敏眞氏は、バルトの神概念について、次のように述べている。

 

「バルトにおいてはキリスト論は三一論と完全に統合されて理解されており、キリスト論は全面的に三一論的文脈の内部で論じられるということである。したがって、バルトの教義学体系においては、『神についての教説』だけが三一論的視点から論述されるのではなく、『神の言葉についての教説』も、『創造論』も『和解論』もすべてが三一論的視点のもとで考察され、かつそれぞれがキリスト論的な含蓄を含んでいる。」(『キリスト論論争史』水垣渉・小高毅編、日本キリスト教団出版局、514頁)

 

以上のような、バルトの〝特殊な神概念〟(三位一体の神〈三一論〉)から、ブルンナーの主張する創造神の「保持の恵み」も、「創造の恵み」も、すべてそれらはイエスと聖霊の恵みとされてしまうのである。

 

太陽が輝くのもイエスによる(?) 雨が降る恵みもイエスによる(?) 豊かな農産物や海産物や地下資源が存在するのもイエスによる(?) このように、すべてがイエス・キリストの恵みであるというのであろうか。創造神の恵みと、イエス・キリストの恵みとの区別がない。

 

ちなみに、バルトのキリスト中心主義による聖書解釈は、旧約聖書の多様性をキリスト一元論に還元してしまうという批判がある。

 

(4)「結婚」について、

 

バルトは、「結婚が創造の秩序であるのか」といい、「神の啓示として見られねばならないような義務と束縛とをもった命令にまで高めるのか」と批判する。

そして、「結婚の原理的意義」も「家庭の原理」についても、聖書にそのような命令や原理などはない、として排除する。はたして、イエスは結婚について原理的に何も語っていないと断言できるのであろうか。

 

「補足」で、すでに論じているが、イエスは「『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』彼らはもはや、ふたりではなく一体である」(マタイ19・4-6)と家庭の原理について語られている。

そして、イエスは、「彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」(マタイ19・6)と戒めに関しても述べられている。

文鮮明師は、この夫婦の戒めについて、絶対「性」を守るようにと言われている。

 

(5)「結合点」についての批判

 

次の文章は、バルト式にブルンナーの「結合点」をまとめたものである。

 

「救いの恩寵に対して『結合点』がある(150頁)ということである。そこで言おうとしていることは、明らかにブルンナーの主張する、啓示に先立つ『啓示能力』のことである。もっとも、それは、たとえ啓示の中で初めて甦えって来るところのものであるにしても、啓示能力であることには変りがない。そういう啓示能力があって、その啓示能力を基礎として神の言葉が人間に達するのであるという見地の下で、この啓示能力をさらにこまかく説明する時に、ブルンナーは先ず第一に『結合点』の根源的規定にさかのぼる――すなわち『結合点』とは、罪人からも、なくなってしまっていない形式的な神の像のことであって、人間をして人間たらしめるもの、言葉を換えれば、人間性(humanitas)のことである。人間が責任を感じ決断しうるためには、人間は『形式的な意味において呼びかけられうる』ものでなければならない。」(『ナイン!』206頁)

 

上述のごとく述べた後に、次のごとく「結合点」を批判する。

 

「理性や応答責任性や決断能力は、人間の尺度からすると、あるとは言えないような人々にとっては、すなわち、生まれたての子供や白痴にとっては、最も深刻な悩みである。」(『ナイン!』207頁)

 

確かに、バルトの言うごとく深刻である。しかし、生まれたての子供や白痴にも「結合点」(神の像)がないのではなく、あるのである。

 

次に、バルトは、天使を持ち出してきて、次のように批判する。

 

「ただ人間のみが神の言葉を受けることのできる存在であるというような命題を用いる時には、用心して用いる必要性があるであろう。なぜなら、それは明らかに天使が忘れられているし、最後にはまたわれわれには知られていない『存在』がありうるし、そしてまた……」(『ナイン!』206頁)と批判する。

 

神は、啓示を天使に与えるのではない。人間に啓示を与えるのである。言語受容能力と応答責任性があるというのは、それがあるからこそ人間は神の啓示を受容することができるのである。

天使にも言語受容能力があるから啓示を天使に与えるという意味ではない。神の使いとしての天使は、処女マリヤに〝受胎告知〟をするが、神は天使を通して人間に啓示を与えるのである。天使に啓示を与えたのではない。

 

(6)人間の自意識について

 

この個所も、ブルンナーの主張の個所で詳細に論じているので、割愛する。

 

以上が、ブルンナーの「六つの反対命題」に対するバルトの反論であるが、われわれから見れば、上述のごとく、多くの問題点を指摘することができるのである。