バルト13 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(13)

「神の現実性」

神の存在について、バルトは、「真の神は、神の啓示の行為の中に存在する」という。

バルトは「神の現実性」について、「神の行為」と「神の存在」という項目で次のように述べている。

「われわれは、神が完全に自己に依存し(ase)自己に満足している神、自由の神であることを認識する。神は三位一体の交わりの中で、互いに愛し合っているので、自己充足している神であり、さらに人間との交わりや人間の愛を求める必要のない自由の神である。

したがって神の啓示の行為は神の存在に結びつけられているが、神の存在は神の行為にむすびつけられてはいない。すなわち神が存在しなければ、神の啓示の行為はないが、神の啓示の行為はなくとも神は存在する。」(『カール=バルト』大島末男、148頁 清水書院)

 

ところで「自己充足している神」であるなら、なぜ人間を創造したのであろうか。人間を創造する必要はないはずである。

なぜかに関して大島末男氏は次のように述べている。

「換言すると、三位一体の神の中の愛と交わりが横溢して、神とわれわれの交わりと愛を確立する。真の愛とは、満ち足りた自己の生活の殻を破って、他者のために存在することである。したがって神は、自己固有の本質的な交わりの豊かさを自分だけで享受するのに満足せず、われわれと交わりをもつことを欲する。それゆえ神の啓示は、神の内的=本質的真理に対する外的=非本質的、経綸的な真理ではない。むしろ神の啓示は、神の本質的=内的真理の啓示なのである。すなわち神と人間の交わりは、神にとって根源的なもの、本質的なものであり、またそのゆえに後期バルトはキリストの人間性を三位一体の神の中に取り入れるのである。」(『カール=バルト』大島末男、148~149頁 清水書院)

 

真の愛は「他者のために存在することである」とわれわれは理解できるが、しかし「自己充足している神」と「われわれと交わりをもつことを欲する」という神は矛盾している。

無形なる神が実体の人間をなぜ創造したのか。また人間の堕落行為に干渉せず、放置し、堕落した後、なぜまた救済しよとされるのか。「神と人間の交わりは、神にとって根源的なもの、本質的なもの」というが、神の現実性、神の本質、神の本体論に関して、バルト神学はまだまだ問題が未解決のままであると言えよう。

 

2、「三位一体と位格」

周知のように、三位一体論で問題になるのは一神論の概念である。

三位一体論の教義が語っているのは、「聖書で神と呼ばれている方は父・子・聖霊であって、決して三神ではなくひとりの神でありたもうということ、またそうした三位一体はひとりの神にとって本質的なものである」(『バルト神学入門』E.ブッシュ、79頁)というのである。

バルトは「父、御子、御霊という言葉によってPersonen(「位格」)という言葉で考えるものを、理解してはならない。・・・・(少なくも神学的伝統の大筋においては)神のうちに三つの異なった人格があるということではなかった」(『和解論』Ⅰ/2、87頁)という。

なぜなら人格という名のもとで、近代では、「独自に存在する三つの個体がある」と考えられるからである。三位一体における神の一性はそれでは表現されないという。

それでバルトは、「唯一の神の唯一の名が、父・子・聖霊という三一の名なのである。神の唯一の『人格』、働き語る唯一の神の『我』―それが、父・子・聖霊なのである。さもないならば、人が三人の神々について語ることになる」(『和解論』Ⅰ/2、88頁)と指摘する。

 

*ここで注視しなければならないことは、バルトが「三位一体はひとりの神にとって本質的なものである」と言っている個所である。言い換えると、神の本質、すなわち神の本体が三位一体であるという意味である。

次に、人格でなく三つの名であるというが、これはバルト特有の巧みな言葉の言い回しにすぎない。一神論と三人の神々について、なお不明瞭である。

 

3、「神の存在様式」(存在の仕方)

バルトは三つの「存在の仕方」におけるひとりの神という概念を好んで用いる。「存在の仕方」という言葉は、神は啓示において三位一体である方だということを指し示しているだけでなく、むしろ三位一体である方が啓示において存在するということである。

三つの存在の仕方において父・子・聖霊としてのひとりの神はそれぞれに固有な機能を持っている。父は高みにいます神であり、子はへりくだりにおいています神であり、聖霊は父と子の結びつきの中にいます神でありたもう。「ひとりの神は三度別様に神である」(『神の言葉』Ⅰ/2、125頁)と。

つまり神は「三つの区別された存在の仕方において唯一の神であり給う」(『和解論』Ⅰ/2、88頁)というのである。

 

4、「一神論」(「単一性の囚人」)について

キリスト教神学は、バルトによれば、問題の中心は、三位一体の神の一性・唯一性にあるという。

「そのような局外中立的な・純粋な・空虚な神性―本来的に神的なものであろうとするその要求、それは、あらゆる異教の宗教・神話・哲学の発展の頂点において人間を極度に愚弄するのを常とする抽象的な『一神論』のよく知られた幻想にすぎない」(『バルト神学入門』Ⅰ/2、84頁)と。

しかし、「真実の生ける神は、その神性が……まさにあの三つの存在の仕方において、一なる方・永遠なる方・全能なる方・聖なる方・憐れみに富みたもう方・その自由において愛し、その愛において自由なる方である」(『バルト神学入門』E・ブッシュ、80頁)というのである。

 

「三位一体とは、一方で、神はひとりであることを意味するということである。神はその本質において、その『人格』において、唯一の方である。キリスト教信仰がこの方を聖書の言語使用に従い父・子・聖霊と呼ぶとき、それによってまさにこの神の『本質の同一性』を否定しているのではなく、むしろこれら三つの本質は等しいという意味でそれを教えているのである(『神の言葉』Ⅰ/2、一〇七頁)。それゆえ「まさに教会の三位一体論において……問題はキリスト教的一神論」(一〇八頁)なのである」(『バルト神学入門』、E・ブッシュ、82頁)と。

「キリスト教神学は『一神論』からの離反では決してない」(同上、80頁)。なぜなら「神は父・子・聖霊の三位一体」において「ただひとりの神でありたもう」(同上、83頁)と認識しているからであるというのである。

以上のように、必死に「一神論からの離反では決してない」と論述している。

 

ところでバルトは、「人間が自分自身の行為によっての一性を、一という数字に還元することに反対する」(『バルト神学入門』80頁)という。

「すべての神人協力説的な思想体系の神は、まさに、絶対的なもの、一般的なもの、数字の1、概念[で表示されるもの]である」(『創造論』Ⅲ/1、263頁)。

バルトはこの神は「自らの単一性の囚人」であるといい、この神は偶像であるという。バルトはこうした還元された一神論は「あなたがたはいかなる像もつくってはならない」という第二戒の違反であると言う。「神的なものを自分自身の像に似せて形造ったり、彼が律法とみなしていることに従って自分自身を義とし、聖化しようと努力し、自信をもって受け合いつつ」(『神の言葉』Ⅱ/2、214頁)、彼の欲求の満足に向かって進んでいこうとする人間によってつくられた宗教は、結局「人間自身がもっていることの映像以上のもの、あるいは映像以外のものではないであろう」(『神の言葉』Ⅱ/2、215頁)と批判し、神ではなく、神でないものが礼拝されるという。しかし人間はそのことを認めない、というのも彼はこの行為を宗教的に遂行するので、これが「似而非なる神」である。しかしバルトは「真理が人間のところに来る時にはじめてその正体が暴露され・・・そのようなもの、虚構な造りごととして認識される」(『和解論』Ⅰ/2、宗教の揚棄としての神の啓示、191頁)というのである。

「真理が人間のところに来る時」とは再臨の時という意味である。再臨以後は、再臨のメシヤの御言が真理の絶対的基準となるのである。



カテゴリー: バルト「神の言葉の神学」