バルト15 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(15)
「和解論」
バルト神学解説の筋道は、いろいろな資料を基に、主としてエーバーハルト・ブッシュ教授の著『カール・バルトの生涯』を参照した。和解論はバルト神学に対する最近の批判も取り入れて解説している『バルト神学の入門』に依存した。
*エーバーハルト・ブッシュ(Eberhard Busch)1937年ドイツ・ラインラント州ヴィッテンで牧師の子として生まれた。59年からバーゼル大学でバルトに師事、65年からバルトの死(68年)まで秘書を務めた。その後、牧師時代に著した『カール・バルトの生涯』(邦訳は新教出版社)が高く評価され、ゲッティンゲン大学に招聘され、定年まで教鞭をとった。
「教会教義学」の『和解論』に関して大木英夫氏は次のごとく述べている。
「キリスト教的な神認識と人間認識が可能となる場所・・・・和解だけが、そこから、罪とは何かが、キリスト教的に洞察され判断される場所である。・・・・和解とは、神からまた自分自身から疎外された人間にとって何の出発点もないところの真空の中に、神ご自身が一切の認識の出発点を設定したもうたみ言葉だからである」(『バルト』大木英夫著、講談社、260頁)。
上述の文言にあるように、バルトにとって、「和解」こそが、真の神認識、真の人間認識、そして罪認識などの一切が洞察され判断される場所であり出発点なのである。
バルトは『和解論』で罪認識について次のように述べている。
「人間が罪の人間であるということ――人間の罪とは何であり、罪が人間にとって何を意味するかということは、イエス・キリストが認識されることによって認識される」(『和解論』Ⅰ/3、57頁)。
このように罪の認識はキリストによって認識されるというのである。それでは罪が目に見えるものとして認識されるとは、どういうことなのか。
罪はキリストがそれをわれわれに代わって担われたところで、すなわち「神の御業全体を脅かす神ご自身にとって絶え難いこと」(『バルト神学入門』130頁)として、目に見えるものとなるというのである。
次に、「神の義」に関して、不義なる者を義とする方は,それが神にほかならない。バルトは古典的な教説を超えて、神はただ人間だけを義とするのではないと言う。「この不義なる人間の義認の業において、神は、御自身をも――そして、先ずもって御自身を、義とし給う」(『和解論』Ⅰ/3、368頁)というのである。
それでは神は人間の義認の業において、如何にして御自身を義とし給うのであろうか。そのために、まず、バルトは罪をどのように認識しているのかを見てみよう。
バルトは罪について次のように述べている。
罪は、「われわれにとって耐え難いと同じように、神にとって耐え難い。しかしキリストはこの耐え難いものを克服するためにご自身を罪にさらされた。罪の克服とは神がこの耐え難いものと和解しないことである」(『バルト神学入門』、130頁)。
このように、「罪の克服とは神がこの耐え難いものと和解しないことである」といい、さらに次のように述べている。
「神は、罪の敵であり、罪は、神の敵である」(『和解論』Ⅰ/3、人間の高慢と堕落 94頁)。
「神がイエス・キリストにおいて罪に対して示し給う優越は、この〔罪という〕要素に対しての神の絶対的な『否』であるが、しかも同時に、この要素を代表する者としてのわれわれ自身に対しての『否』でもある。・・・・仮借のない神の怒りの『否』である」(同上、『和解論』、93~94頁)。
神は人間をその罪のゆえに愛し給うのではない。神は人間を愛し給うゆえに、人間の罪に逆らうのである。
このように、罪に対する否から和解が弁証法的に語られる。
すなわち、「和解において罪の『古い人間』が改善されるのではない。そうではなく、そこで神が古い人間に決着をつけたもう」(『バルト神学入門』131頁)と言うのである。
バルトは、和解がこうした否なしに考えられるとすれば、それは「不正との和解」になるというのである。
したがって、神が罪人を否定するのは、「神の義」であるが、同時に否定された人間を義として肯定せんがためであるというのである。
このようにバルトは、「罪」と「神の義」の関係において、弁証法的思惟で理論的に解明しようとしているのである。
確かにバルトの主張は論理的で整合性がある。しかしこの主張は、従来の宗教改革者たちの信仰によって「罪あるままで義とされる」という教説と相違していないであろうか。
*神の義とは、人間が「古い人間に決着」することである。しかし罪ある人間は罪を清算できない。罪は罪のない人間によって清算されると次のように述べている。
「審かれ・殺され・決済されたこの人間」(『和解論』Ⅰ/3、60頁)。「われわれに代わって、従って、この私にも代わって、そのようなことが、イエス・キリストの身に起こったのである」(同上、60頁)。「われわれは、そこで、イエス・キリストにおいて、神の怒りによって、捕えられ・罰せられ・審かれた古い人間そのものである。」(同上、60頁)。「彼は、まさにわれわれに代って、この古い人間と連帯的に、従って、われわれと連帯的に、苦しみ、また死に給うた」(同上、60頁)。「神に対してだけ希望を懐いて、苦しみ、また死に給うた。われわれに属するものであることを身に引き受け、そのような者として、われわれの行為が――われわれが、神の前に受くべき苦しみを苦しみ給うことによって、神を正しとし、御自身を不正とし、そのような従順の形においてだけ希望を懐いて、苦しみ、また死に給うた」(同上、60~61頁)
「人間自身」
統一原理は神の血統という観点から、「堕落人間」と「本然の人間」(真の人間)を区別する。同様にブッシュ教授は、バルトの罪と義の区別に関して、次のように「人間存在」(人間自身)について述べている。
「神が罪人を否定するのは、人間を肯定しておられるからである。・・・人間はその悪行によっても自らの人間存在を失うことはできない、それが神が人間を義としたもうということである。逆に、人間は、自分の最上の業によったとしても、それによって自らの人間存在を自ら獲得することはできない。この意味で、人間の人間存在と、もろもろの行為の行為者としての人間とのあいだは、区別されなければならない」(『バルト神学入門』、150~151頁)。バルトはそれらの行為から区別されるべき人格を「人間自身」(『和解論』Ⅲ/4、216~225頁)と呼んだ。
このようにバルトは、人間の罪と義を区別する。そして罪人の義認において神が愛し給うのはこの「人間自身」に他ならないと言うのである。
*「神は人間をなるほど罪人としても知りたもう。しかし神は人間をその罪のゆえに愛したもうのではない。神は人間を愛したもうがゆえに、人間の罪に逆らう。神は人間を義とすることによって愛したもう。この人間はわれわれには隠されている。この人間をわれわれは信じることしかできない。・・・・われわれは、人間としてのわれわれの存在と罪人としてのわれわれの存在とのあいだの、罪人には不可能な、しかし神には出来る区別を肯定し、神に従いつつそれを自分のものとして理解するのである」(『バルト神学入門』、151頁)と。
外的に見て、イエスと周りの人間とは何ら変わることがなく区別ができない。統一原理は「堕落人間」に神様は臨在しないが、イエスは神様と一体となった神性をもつ「本然の人間」(実子=聖なる方)であると捉え、血統から見て、「本然の人間」(神の子)と「堕落人間」(罪の血統を持つ人間)を区別している。神が愛せるのは「本然の人間」(真の人間)のみである。それでは如何にして善にも悪にもなる堕落人間を神が愛し給う「人間自身」、すなわち「本然の人間」に再創造(新生)することができるのであろうか。
カテゴリー: バルト「神の言葉の神学」