ブルトマンの「非神話化」(現代から見た信仰と実存論的解釈学)(3)
「自身の実存の解釈」(イエスに対する「服従の倫理」)
ブルトマンによると、これがイエスの教説であるとか、イエスの思想であるという時、それは福音書に対する「自身の実存の解釈」なのであるという。そのことに関して次のように述べている。
「従ってイエスの教説とかイエスの思想とか言うとき、それは誰にでも納得出来るような普遍妥当的理想的思想体系という意味ではない。そうではなく、思想というとき、それは時の中に生きている人間の具体的状況と切り離せないものとして理解されている。すなわちそれは、動きと不確実性と決断の中にある、自身の実存の解釈なのである・・・・歴史の中で私達にイエスの言葉が出会う時、私達は哲学的体系からしてその言葉の合理的妥当性を判定してはならない。その言葉は、私達は私達の実存をどのように把握しようとしているか、という問いとして私達に出会うのである」(ブルトマン著『イエス』、15頁)と。
このように「普遍妥当的理想的思想体系」でなく、教説や思想は「人間の具体的状況と切り離せない」、「動きと不確実性と決断の中にある」、「自身の実存の解釈」なのであるというのである。一言でいえば、プロテスタントの信仰義認論から見たブルトマン式の解釈であるといえよう。
山岡喜久男氏は、実存論的解釈について次のように解説する。
「われわれにとっては、自然を観察するように歴史を客観的に観察することではなく、歴史と自己との邂逅Begegnungが重要である」(ブルトマン著『キリストと神話』山岡喜久男・小黒薫訳、125頁)。「歴史の観察でなくて、イエスに邂逅し、実存的にそのイエスの語りかけを聞こうとする接近の仕方」(同上、126頁)である。
また、ブルトマンは『イエス』の「日本語版への序文」で次のように語っている。
「歴史の真の理解は、いつでも歴史との出会いにおいて実現されます。その出会いにおいて歴史の求めに耳を傾けるのです。その意味はこうです。つまり歴史を理解しようと願う者は、自分自身についての理解を、歴史の中で出会う自己理解の諸可能性に照らして疑ってみる覚悟がなければならないということです。それは、そうすることによって自分自身についての理解が解明され、豊かにされるためであります。こうしてその人は歴史との対話の中にはいりこみ、歴史の求めはその人に決断を要求するのであります。歴史の認識とともに自己の認識が形成され、成長していきます」(ブルトマン著『イエス』川端純四郎・八木誠一共訳、未来社刊)。
上述の「歴史との出会い」とは、イエスとの出会いであり、イエスはその人に悔い改めと決断を要求する。
「人は悔改めへの呼びかけによって決断を要請され、彼が選ばれた人々に属するか、滅びる人に属するかは、決断においてあらわになるのである」(『イエス』50頁)。「神の支配は全く将来でありながら現在を全面的に規定する力なのである。それは人間に決断を強制することによって現在を規定する」(同、54頁)。
「神の支配は全く将来でありながら現在を全面的に規定する」といい、決断へと呼びかける信仰とは、「服従の倫理」である。そのことに関してブルトマンは次のように述べている。
「イエスの倫理も一切のヒューマニズム的倫理や価値倫理と厳しく対立する。それは服従の倫理なのである」(『イエス』86頁)。「人間社会の理想が人間の行為にとって実現されるところにも見ない」(同、86頁)。「いわゆる個人的倫理あるいは社会的倫理はイエスにはない。理想や目的という概念はイエスには異質である」(同、86頁)。「すなわち性格の強さや人格的品位の思想にではなく、服従の思想、自己主張の断念という思想に基礎づけられている」(同、114頁)。
イエスに対する「服従の倫理」は信仰の本質であり、それは人格的品位などの人間の内面性を云々することではない。バルトも近代神学について「ただ人間の精神や心や良心や内面性だけを問題にする人は、本当に神を問題にしているのか、人間の神化を問題にしているのではないか」(カール・バルト著作集4、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』新教出版社、153頁)と批判し、神学はずっと以前から人間学になってしまっていると言っていたことを想起する。
自己主張を否定する文鮮明師も「真の父母様宣布文」で、統一家の伝統と信仰は服従であると説かれていた。この信仰(服従の倫理)は新しい信仰義認(「信義」)、あるいは12使徒らのイエスに対する「侍義」(絶対信仰、絶対愛、絶対服従)であると言えるであろう。
原理的に見れば、決断とか服従は人間の5%の自由意志に属する責任分担である。このブルトマンのイエスとの出会いによる「服従の倫理」は、神に対する信仰は人間の意志による決断ではなく「和解」によるというバルト神学と対立する。
ところで、彼は、イエスの「服従の倫理」(神中心主義のヘブライズム)と人間中心主義のヘレニズム(ヒューマニズム的倫理や価値倫理)を厳しく対立させている。
しかし、現在において神の願いである世界平和を実現するためには価値観の対立を明確にするだけでなく両者の統一が求められている。したがって再臨のメシヤ思想は「理想や目的という概念」を排除せず、ヘブライズムとヘレニズムの両者の価値観を統一するような新しい「理想や目的という概念」を原理的に体系化したものであるに相違ない。ただし再臨のメシヤの思想に出会うなら、決断を要請されるのは初臨と同じであろう。
「宇宙には愛がないところがない」「愛によって遍在される」(文鮮明師の御言、『真の神様』より)
しかし、ブルトマンは哲学的理論や形而上学的神観や神秘主義を次のように排除する。
「イエスにとって、神は思惟や思弁の対象ではない。イエスは世界を理解し、それを統一体として認識するために神観を求めたりはしない。したがって神は、イエスにとっては形而上学的実在でも、宇宙的な力でも、また世界法則でもなく、人格的な意志、聖なる恵み深い意志なのである。……イエスは神について普遍的な真理や教説によって語りはしない。むしろ神は人間に対してどのように在るのか、神は人間にどのようにかかわるのかということを述べる、そのようにのみ語る。従ってイエスは神の属性について、その永遠性や不変性等について対象的に語るのではない。ギリシャ的な思惟はこれらによって神の彼岸的本質を描こうと努めていた。神は憐れみ深く、恵み深いということをイエスはしばしば言っている(ルカ6・36、マルコ10・18)。しかしそれによってイエスは、ただ人間がその自分の現実においてどのように神を体験するかということを語っているだけであり、人間に対する神の行為を語っているだけなのである。しかもそれは、イエスが遠い、秘密に満ちた形而上学的な神の本質と、この本質の現れとしての我々に対する神の行為とを区別しているという意味ではない。……したがってイエスは、新しい神観についての知識や神の本質についての啓示をもたらしたのではない。イエスは来たらんとする神の支配と、神の意志の使信をもたらした」(『イエス』154~155頁)。
このようにブルトマンは「イエスは、新しい神観についての知識や神の本質についての啓示をもたらしたのではない」と断言し、イエスは「神は人間にどのようにかかわるのか」ということだけを語ったというのである。
しかし、イエスは「あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来るときには、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」(ヨハネ16・12)と語っておられる。
真理の御霊が「あらゆる真理に導いてくれる」とは、ブルトマンの解釈に反し、イエスが語り得なかった「新しい神観」や「神の本質」などについても語られると解釈することができる。
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