ブルトマンの「非神話化」(現代から見た信仰と実存論的解釈学)(4)

ブルトマンと同様のことを、文鮮明師は次のように語られる。

「最近人々は神様の属性について、神様は絶対的であり、全知全能であり、遍在し、唯一無二であり、その次に永遠不変だと言うのです。しかし、絶対的で何をするのですか。唯一だとして何をするのですか。神様が唯一なのと、私たちとは何の関係がありますか。大きな問題です。全知全能ならば何をしますか。何の関係があるというのですか。永遠不変ならば何をしますか。神様自身にはいいですが、私たち人間には何ら関係がないならば、それは邪悪なことになるのです。必要ないのです。盲目的な信仰は、できないというのです」(『天聖経』「真の神様」66頁)。

 

ここで語られている「盲目的な信仰」とは、神様は全知全能であるから、自然法則を無視して何でもできると信じる信仰のことである。しかし、神は全知全能ではあるが、ご自分が立てた法則を、自分勝手に壊してなされることはない。神は愛で法を治められるのである。

ところで、神は人間にどのようにかかわるのか。ブルトマンは歴史の出会いで「服従の倫理」を説く。しかし文鮮明師は同様に服従を説かれるが、イエスと同様に神の愛による自然屈伏を説かれるのである。

 

「神様も愛の前には絶対服従である」

神様の属性について、神様は絶対的であり、全知全能であり、遍在し、永遠不変だ、というが、私達と何の関係があるのかと言うのです。

文鮮明師は、神様は全知全能であるが、一つだけ思いどおりにできないものがあるといわれます。それは何だと思いますか。

神様は、「お金がつくれないのでしょうか。ダイヤモンドがつくれないのでしょうか。力がないのでしょうか。全知全能なる方が一つだけ思い通りにできないものがあるというのです。それは何ですか。愛だというのです。愛です」(『天聖経』「真の神様」66頁)。

 

「世の中に存在するものの中で、神様と相対になる力はありません。神様は全知全能であり、絶対的だからです。または永遠不滅の自存の方が神様です。そのような神様が願われるものがあるとすれば、何だと思いますか。お金でもなく、知識でもなく、権力でもない、その何を願っていらっしゃるのかというのです。神様が絶対に必要とするものがただ一つあります。それは人間に絶対に必要なものであると同時に、神様にも絶対に必要なもの、真の愛です」(『天聖経』「真の神様」69頁)。

 

原理的に見れば、愛は一人で生じない。愛は相対を通じて来る。「神様も愛の前には絶対服従である」といわれる。全知全能なる神様お一人で、どうするのかと言うのである。神様は、愛の対象として人間を創造された。すべての存在者の中で、神様に完全に相対できる存在は人間だけである。しかし、人間が堕落することにより、「人間と関係を結ぶべき神様の愛は、人間と関係を結ぶことができずに、人間から離れるようになり、全被造世界から離れるようになりました」と語られている。

 

上述のブルトマンの実存論的解釈は、自然神学、自然哲学を否定し、神認識は信仰からという福音主義神学と一致する解釈である。「イエスにとって、神は思惟や思弁の対象ではない。」「イエスにとっては形而上学的実在でも、宇宙的な力でも、また世界法則でもなく」というが、これは先に指摘したごとく、ブルトマン式の「実存的に自己理解された見解」なのである。言い換えると、すでに自然神学を否定するという先行理解をしたうえで、信仰義認の視座から見た見解なのである。

 

イエス様の福音の中心は何であろうか。それは、文鮮明師が言われるごとく、真の愛なのである。神は愛であり、愛で天地を治められる。

 

ところで、ブルトマンは、いつまでも古い教義を固守すべきでない、時代の変化発展に照応した新しい信仰観をもつべきであるというのであるが、この点は傾聴に値する。

 

「神を存在論的に叙述することへの弁証」

ブルトマンによると、イエスは神の支配と神の意志の使信をもたらしただけであって、「今は決断の中にある」と終末論的に悔い改めと決断を促す。ブルトマンはイエスの使信を実存論的に解釈し、イエスの倫理は「服従の倫理」であると新しい信仰観を説く。

 

ここでわれわれは、ユダヤ・キリスト教の神は「歴史の神」(啓示する神)であってギリシャ哲学のような存在論的に神概念を説く見解と対立することを想起する。このブルトマンのような自然神学を否定する見解は新正統主義と見做される。

 

神に導かれて歴史を生きてきたイスラエル民族に対して、イエスは神の存在を証明する必要性はないのである。言い換えると、イスラエル民族に対して、神の本質、神の属性、宇宙的な力、神の永遠性や普遍性などについて、ギリシャ哲学のような哲学理論や新しい神観を説く必要性はないのである。しかしキリストの使信をギリシャやローマのような異邦人に宣教する時には、哲学的に新しい神観や普遍的真理を語る必要性が生じるのである。

 

ところで、上述のように、ブルトマンは神の本質や神の属性などに関する哲学理論についてイエスは語らなかったと述べ、それらを排除する。しかし、紛争や戦争を平和的に解決しようとする時、現代において新しい神観や哲学理論が求められるのである。したがって再臨のメシヤ思想は、全ての宗教と思想を統一する新しい神学思想の体裁を備えた理論体系として出現するに相違ないというのである。

 

繰り返えして言うならば、ブルトマンのように哲学的理論や新しい神観を排除して、「神は憐れみ深く、恵み深い」、「今、決断の中にある」と説くだけで、神を信じる現代人は少ないであろう。現在においては、神の存在を否定する唯物論や無神論を批判・克服する新しい有神論的な理論体系が要請されているのである。神の愛と慈悲を説き、キリスト者以外の宗教や思想を持つ人類を救済しようとするなら、この点は指摘するまでもないことであろう。

 

バルトと自然神学論争をしたブルンナーは、『自然と恩寵』(1934年)の中でバルトに対して次のように反論していた。

 

「偽りの自然神学はこの最近の世紀のプロテスタントの思想………に非常な損害を与えたし、そしてまた偽りの自然神学は、今日も教会を脅かして死に至らせようとしているということである。確かに、これらの点に関してわれわれの間には意見の違いはない。この偽りの自然神学に対しては、すべての情熱と力と慎重さを総動員して戦わなければならないということを、カール・バルトほど明瞭に教えた者はいない。しかし、教会は一方の極端から他方の極端に走ってはならない。………正しい自然神学へ立ち返ることこそ、われわれの時代の神学の課題である。そして、そこで私は絶対的にこう確信する。この課題は、バルトの否定から遠く離れて、全くカルヴァンの思想の側に立つことである。もしこのカルヴァンという大先生に、もっと以前に問い合わせていたなら、われわれ弟子たちの間でこのような争いは決して起こらなかったであろう。今は、われわれが怠っていたものを取り戻すべき大切な時である。」(『カール・バルト著作集2』174~175頁、「自然と恩寵」より)

 

確かに、カルヴァンは彼の著『キリスト教綱要』(第五章「世界の構造と統治の中に明白な神認識」)の中で自然神学を肯定している。「今」は、われわれが怠っていたものを取り戻すべき「大切な時」なのである。

 

「ブルトマンの主張」

「神は世界の成立のもとであるような原理とか、思惟によって見通されるような起源ではなく、また世界の出来事のありとある形体の中に内在してこれに形相を与える力とかあるいは世界法則などでもなく、まさに創造者的な意思なのである。神が命じればすなわち成り、神が要求すればすなわち生じる(詩33・9)。その栄光のために神は世界を創造した………神は創造者である。これは神が手もとにあった材料に形相を与えたということではなく、神がその意思によって世界を創造したということである。後期ユダヤ教では、神が世界を無から創造したとはっきり言われるほどにこの考えは純粋に展開された」(『イエス』137頁)。

 

「創造思想はユダヤ教においては決して宇宙論的な理論などではなく、人間がその全存在において神に依存しているという信仰の表現であり、神の前に被造物であるという自覚の表現なのである」(『イエス』142頁)。

 

「世界説明の思想という性格は、ユダヤ教の創造信仰にはまったくない。それは人間が世界におけるその現実のすべてにおいて神に依存しているという自覚の表現なのである」(『イエス』162頁)。

 

「神は世界の成立のもとであるような原理とか、思惟によって見通されるような起源ではなく、また世界法則などでもなく、まさに創造者的な意思なのである」というが、人間創造は創造の原理(成長過程)を無視してつくられたのではない。

 

既存神学は、アダムとエバは塵から一瞬のうちにへその緒のない成人として造られたという。しかし、イエス様は、マリヤの胎中から生まれ、幼少時代を経て成人となられた。

すべての存在は神の意思によって生じたのであるが、非科学的に一瞬に人間を成人として創造されたのではない。人間創造には成長期間があったことをイエス様の成長過程がわれわれに原理的に示している。

他の被造物も同じである。

イエス様の誕生と成長過程は宇宙論的な神の創造原理であり、全被造物の創造過程を原理的に示している。

ブルトマンは後期ユダヤ教では、神が世界を無から創造したというが、無からは何も出てこない。天地を創造した神は科学者である。ブルトマンの主張は因果法則を無視した非科学的な主張以外の何ものでもない。

 



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