ブルトマンの「非神話化」(現代から見た信仰と実存論的解釈学)(9)

(2)「非神話化」の真意

 

使徒信条の「陰府にくだり」とか「天にのぼり」というようなことを礼拝で告白することにいかなる意義があるのかとブルトマンは問う。このような「神話論的な表象は取り去られるべきであり、今日においていかなる人も、神を天上にある存在として思い浮かべはしない」という。

われわれは、古い意味での「天」(空の上にある天国)とか「陰府」(地の下の世界)などを実際に存在すると信じることはできない。

 

したがって、キリストが陰府にくだり天にのぼったという物語もすでに終結しているのである。また「天の雲に乗ってくる」という再臨のキリストについての待望論や「信徒が空中に引き上げられてキリストのもとにゆく」という期待も現代人にとっては信じがたい事柄であるとブルトマンはいう。さらに、天変地異(宇宙の破壊)というような終末論も終結したと次のように述べている。

 

「パウロとヨハネによれば、終末論的なできごとは劇的な宇宙的破局として理解されるべきではなくて、………繰返し現存するものとして、説教を通してここでいまあなたやわたしに呼びかけるものとして終末論的現在なのである」(ブルトマン著『歴史と終末論』、中川秀恭訳、岩波書店、196-197頁)。

 

「新約によれば、イエス・キリストは終末論的なできごと、神がそれによって古き世界を終らしめるところの神の行為である。キリスト教会の説教において、この終末論的なできごとが常に繰返し現在となるであろうし、信仰において常に繰返し現在となるのである。信仰者にとって古き世界はその終りに達したのであって、彼は『キリストにある新しき被造物』である。何故なら、信仰者自身が『古き人間』としてその終りに達し、今や『新しき人間』、自由なる人間であるという事実と共に古き世界がその終りに達したからである」(同上、『歴史と終末論』196頁)

 

このように、客観的な出来事を否定し実存論的に解釈しているのである。

 

その他に「処女降誕についての伝承と、イエスの昇天についての伝承とは、ばらばらにしか見出されない。パウロとヨハネは、この伝承を知ない」(ブルトマン著『新約聖書と神話論』、山岡喜久男、新教出版社、26頁)とブルトマンは指摘する。

これらが後から付け加えられたとしても、いずれにしても救済の中心的な出来事は神話的であるというのである。

 

以上のように、このようなケーリュグマ(宣教の使信)はブルトマンによれば、その神話的形式のままでは新約聖書の表象は、すなわち、それによって意味され、語られた内容の表現としては、現代人にとって理解できない事柄であると言うのである。そのわけは、神話的世界と神話的人間像とは、その時代と共に、われわれの前から消え去ってしまったからである。

 

われわれは、聖書記者と異なった、新しい近代的な世界像や人間観を持ち、その諸前提の下で必然的に考えざるをえないからであるという。

したがって、新約聖書における救済の出来事の叙述に見られるような「その世界像を、真なるもの」と認めよと言っても、それは無意味であり、不可能である。それを信じるように自己に強いることは、それこそ、「知性ノ犠牲」ということになる。ブルトマンが「非神話化」を主張する真意がここにある。

 

(3)「復活」信仰について

 

バルトは新約聖書の使信を「非神話化」すれば、すべて危険にさらされると見ている。それゆえ次の聖書の復活に関する記述は、バルトによれば、「非神話化」できず、信ずる以外にないというのである。

 

「死人の中からの復活における栄光をも、空間と時間との中で注目し、目で見、耳で聞き、手でふれたという事実に、ケーリュグマがその起源をもつと告白することがケーリュグマには禁じられているという場合はどうであろうか?」(『カール・バルト著作集』3.「ルドルフ・ブルトマン」より、新教出版社、238頁)と。

 

イエス・キリストの十字架の死と復活において、キリストの出来事の全体において告白することが、禁じられる場合、救済の出来事の中心そのものが、キリスト者の信仰そのものが、危うくなってしまうのである。

バルトによれば、復活は「非神話化」すべきでなく、また出来ないが、「信仰告白」として受容すべき事柄であるというのである。それで、キリストの出来事に対する非神話化に反対するのである。

 

だが現代において、「死人の中からの復活」、「肉体による復活」などは信じられない非科学的な出来事である。

例えば、カトリックに入信した安岡章太郎氏は、「これはもう、はっきり言って、いったん死んだ肉体の復活というようなことは、あり得るべきものとは、僕は思わない」(『我等なぜキリスト教徒となりし乎』、安岡章太郎、井上洋治、光文社、89頁)と言っている。

果たしてイエスの復活は、バルトが言うごとく非神話化できない出来事なのであろうか。

 

(4)「統一原理」による復活理解

 

ブルトマンは、復活を客観的な歴史的出来事としてではなく実存論的に解釈している。統一原理はバルトと同様に、これを歴史的客観的な出来事として捉え、その「非神話化」の問題を「非宗教的」(ボンヘッファー的)に論じている。

 

統一原理は、イエスの復活を霊的な出来事として捉え、肉体の復活として捉えていない。このように復活を霊的な出来事として捉えるなら、現代人の理性に矛盾なく容認されるのだが、肉体の復活とバルトのごとく捉えれば、確かに、ただ信ずる以外にない。

だが、神は、われわれ現代人に、そのような「知性ノ犠牲」を強いる信仰を求めておられるのであろうか?

 

この「復活」の事実は、どのように解釈すべきなのか。霊的復活なのか、肉体の復活なのか。

言い換えると、バルトが言うように、「空間と時間との中で注目し、目で見、耳で聞き、手でふれたという事実」を、肉体の復活であると先行的理解をし、その前提の下で本文に接して解釈し、それを信ずべき事柄であると強要すべきことなのか、というのである。

 

このことを記している聖書の前の節には、肉体ではなくイエスの霊的復活体と受け取れる次のような記述がある。

 

「八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って『安かれ』と言われた。」(ヨハネ20・26)

 

これは、イエスの弟子たちがユダヤ人をおそれ、自分たちのおる所の戸をみなしめていた時に起った出来事である。

この聖書の記述は「戸はみな閉ざされていた」ことが強調されているが、それでも、イエスが家の中に入って来られたとある。これは、いったい、どのように理解すべきであろうか。物理的に中に入れない状態であるにもかかわらず、入ってこられたとは!

 

復活したイエスの体とは、聖書がきわめて簡潔・明瞭に記述しているごとく、霊的な体であったのではないか。その霊的な体が、時間と空間の中に現れたのではないかというのである。

したがって、バルトが信仰的理解をするような肉体のそれではないのではないか、ということである。

 

「先行的理解」(信仰的理解)を前提として、本文に接すると「本文が語り始める前にその口を封じてしまうこと」になり、バルトのごとく肉体の復活と解釈してしまうのではないか、というのである。

 

「復活」とは、決して人間の「知性ノ犠牲」を強いるような出来事ではない。聖書に次のごとく、からだには「霊的な体」と「肉的な体」があることについて語られている。

 

「死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、………肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである」(コリントⅠ、15・42~44)。

 

このように、人間には「肉のからだ」と「霊のからだ」があると述べられている。朽ちる肉体では、永遠に生きることはできない。したがって、復活は霊の体であるといえる。もし、肉体で永遠に生きるなら霊の体はいらないであろう。

したがって聖書が記述しているように、人間は死後朽ちる肉体を脱いで、朽ちない霊の体によみがえり、地上界から霊界に行き、そこで「霊のからだ」で永遠に生きるように創造されているのではないか、と言うのである。同様に、イエス・キリストもわれわれ人間と同じであって、「霊のからだ」と「肉のからだ」があったとわれわれは理解することができるのである。肉体の死は罪と無関係である。

 

イエスは、現在も霊界で霊の体で生きておられるというのである。マリヤから生まれたイエスと他の人間とのあいだに、外的に、何か違いがあるのであろうか。ただし、堕落人間と「本然の人間」(真の人間)の相違はあるが。

 



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