ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(2)

ティリッヒは『組織神学』の序論(「組織神学の方法と構造」)で神学と哲学の相関関係を解説し、バルトらの批判に対して、次のように反論している。

 

「意味論的状況は神学者の言葉が聖なるまた啓示された言葉ではあり得ないことを明瞭にする。彼は自分自身を聖書の術語や古典的神学の用語のみに限定することは出来ない。彼はたとえ聖書の言葉だけを用いているとしても哲学的概念を避けることが出来ないし、宗教改革者の言葉だけを用いるとしても、なおさら哲学的概念を避けることは出来ない。それゆえに彼はキリスト教の信仰内容を説明する自分の仕事に役立つと思う時にはいつでも、哲学的なまた科学的な用語を用いなければならない」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、68頁)

 

このように、ティリッヒは哲学と神学の相関を強調し、バルト神学と鋭く対立する。

 

キリスト教の信仰内容を説明する時には「いつでも、哲学的なまた科学的な用語を用いなければならない」という彼の哲学と神学の相関論は。統一原理を受容可能にする洗礼ヨハネ的使命を持った神学であるといえよう。

 

大島末男氏はティリッヒの相関論について、次のように述べている。

 

「ティリッヒの神学は、本質的には新正統主義の立場に近いが、ティリッヒは聖書の罪概念を理解するためにギリシア哲学、ドイツ観念論、深層心理学、実存主義を導入し、神学と哲学の相関論という自己固有の道を開拓していった」(『ティリッヒ』大島末男著、清水書院、51頁)

 

「ティリッヒ神学の問題点の一つは、プロティノスの哲学(古典哲学)とドイツ観念論(近代哲学)とハイデガー哲学の統合にかかわるが、哲学的空想の深化である表現主義と象徴の概念、また三者に共通する同一性と差異性の同一性という弁証法的論理が三者の統合を可能にする。しかしこのような統合は科学的厳密さに欠けるので、英国の哲学者G・E・ムーアから『一文、いや一語でいいから私の理解できる言葉を語ってくれませんか』と皮肉られる破目に陥った」(同著、25頁)

 

弁証法といえば、一般的にヘーゲルやマルクスの弁証法を弁証法であると言われているが、それはヘーゲル的な、またマルクス的なタイプの弁証法なのである。

 

古代から現代まで多くの弁証法の形態があるのである。ゼノンの論駁の方法としての弁証法、ヘラクレイトスの運動の弁証法、ソクラテスの問答法としての弁証法、プラトンの思考法としての弁証法など、多種多様の形態があるのである。ティリッヒの弁証法は、ヘーゲルやマルクスなどの弁証法の形態であるといえよう。

 

(二)「理性と啓示」

 

正統主義は、〝理性〟によって神の本質は認識しえない、神認識は〝信仰〟からという。確かに理性は曖昧であり、「最も卓越した部分」で神を侮る無知や軽蔑がある。

 

ルターは、「盲目にして無知なる理性が、どうして正しいことを教えられようか。また邪悪で無益な意志が、どうして善いことを選ぶことができようか」(『ルター』松田智雄編、中央公論社、237頁、「奴隷的意志」より)、「自由意志は自分だけでは罪を自覚しない」(同著、239頁)、「罪を自覚しない者が罪をとりのぞくために、いかなる努力を払いうるというのであろうか」(同)と述べている。

 

しかし、ティリッヒは『組織神学』で、多くの神学者は理性という言葉を定義することなく、漠然たる意味で用いていると批判する。

 

(A)「理性」について

 

 (1)「理性の構造」

 

ティリッヒは「認識論すなわち認識に関する学は、存在論すなわち存在についての学の一部分である」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、88頁)という。

 

そして、「どの認識論的主張も潜在的に存在論である。それゆえ、実存の分析を始めるには知識の問題から始めるよりは存在の問題から始める方がより正しいであろう」(同)、「理性も存在をもち存在に関与し論理的には存在に属している」(同著、204頁)というのである。

 

言い換えると、理性の分析また理性の実存的衝突を含む諸問題の分析において、ティリッヒは「組織神学者が認識論的部分(理性と啓示の教理)から出発する際には、理性についてまた啓示について彼のいだく予想を明白に表示することが必要である」(同著、89頁)というのである。

 

ティリッヒは、罪と死が支配している実存的制約下にあるすべての存在を実存主義哲学で分析する。

そして、「多くの神学的著作と宗教的談話との最大の弱点の一つは、『理性』という言葉が時には好都合な、しかし多くは軽視すべき不都合な漠然たる意味で用いられていることである」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、89頁)と指摘する。

 

したがって、「神学者がその用語を定義することなく、或いは明確に記述することなく用いるならば、それは許されない。それゆえ、『理性』という用語の用いられる意味を最初から定義することが必要である」(同、89頁)というのである。

 

 a 「理性の二概念」

 

ティリッヒは、理性を存在論的理性と技術的理性という二つに区別し、理性が蒙昧であるという判断に対して、それは存在論的理性でも技術的理性でもなく、それは実存的制約下にある理性のことであると次のように述べている。

 

「理性は『蒙昧』であるという宗教的判断は、それ自身の領域においては大抵の事物を充分によく見ることの出来る技術的理性に関するものでもなく、またその本質的完全性における、すなわち、存在自体との一致における存在論的理性に関するものでもない。理性は蒙昧であるという判断は、実存の諸制約下における理性に関するものである」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、92頁)

 

原理的に言い換えると、理性には創造本然の理性と、堕落した状態の理性があり、この二つの理性の区別を明確化すべきであるというのである。

 

 b 「存在論的理性と技術的理性」(理性の二概念)

 

ティリッヒは、「存在論的理性は、精神をして実在を把握し形成することをえさせる精神の構造である」(同著、93頁)と定義する。

 

存在論的理性とは、ティリッヒによると、パルメニデスからヘーゲルに至る古典的伝統において支配的であった理性のことであり、技術的理性とは、哲学以前にもあったが、古典的ドイツ観念論の崩壊以来、英国の経験論の勃興において支配的となった理性のことである。

 

藤倉恒雄氏は「理性の二概念」について次のごとく解説している。

 

「ティリッヒは本章の冒頭に述べたごとく、理性概念そのものを明確化する必要を認め、トマス・アクィナス、ルターの理性概念の区別に従って、理性の果す機能によって存在論的理性(Noûs,Intellectus,Ontological reason)と、技術的・形式的理性(dianoia,ratio,Technica reason)とに分ける。彼はデカルトよりカントに至る合理主義をオッカムに遡る唯名論の伝統に基づく立場とし、この流れに属する理性概念を技術的理性とすると共に、技術的理性の対象となる物理的諸事象の背後にある形而上学的な諸問題を取扱う理性を存在論的理性とする」(『ティリッヒの「組織神学」研究』藤倉恒雄著、新教出版社、76頁)

 

ティリッヒは、この技術的理性は存在論的理性から遊離すると、ある種の論理実証主義のごとく、おのずから実存的諸問題について完全に不適合なものとなり、技術的理性を超えた如何なるものをも「理解すること」を拒みさえする。

その結果、如何に論理的方法論的観点において洗練されていようとも、人間を非人間化し、また技術的理性は存在論的理性によって常に養われていなければ貧困化し、腐敗する危険性があるというのである。

 

この技術的理性は記号、象徴、論理的操作など、哲学を科学的な論理的計算に還元する。

しかし、諸構造や形態の諸過程、諸価値、存在目的、意味内容などは、存在論的理性なしでは把握されないというのである。

 

つまり、ティリッヒの言わんとすることは、技術的理性が存在論的理性と相互作用し、神と一体となった存在論的理性の要求を充たすために用いられる限りにおいて、そこには危険はないというのである。しかしそうでない場合は盲目的となり危険であるというのである。

 



カテゴリー: ティリッヒ「弁証神学」