ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(3)
下記の文章は、技術的理性が存在論的理性から分離していく過程に関するルドルフ・ブルトマンの著書『歴史と終末論』からの引用文である。
「ベーコン、ホッブス、ロック及びヒュームに源を発し、十九世紀に発達した近代自然科学は感覚的経験によって証明され、且つ数学の用語によって表現され得る物理的法則に基づいて生起することがらに限り実在と認めたのである。人間自身もまた自然科学の対象となり、したがって感覚的経験の世界とは異るものとしての人間の真の自己に関する問は消却されてしまった。そして、それとともに個人がそれにしたがって責任をもって生をおくるべき永遠の精神的な法則についての問が、消え失せてしまったのである。……人間は自然的存在として理解され、かくして人間学が生物学となる。人間の生は風土や地形や経済的な諸条件によって決定されるものとして理解されたのである。その結果、善の概念が変わった。善は有用なものに限る。……歴史は早くもモンテスキュー(1689-1755)の頃にすでに自然史として考えられたのである。オーギュスト・コント(1798-1857)は歴史というものはそれを社会学に変形することによって、科学の地位にまで高めることができるものと信じた。カール・マルクス(『資本論』1867以降)は、『弁証法的唯物論』を考え出し、歴史を通じて発展する客観的精神というヘーゲルの概念を経済史に変形した。この理論によれば、精神的な諸概念は経済的諸条件から生れた倒錯的な『イデオロギー』なのである。」(R・K・ブルトマン著『歴史と終末論』、中川秀恭訳、岩波書店、11-12頁)
かくして一切の認識が経験に依存し、真理認識が歴史的な性格をもち歴史的相対主義が現れる。その結果、普遍的真理の探究は無意味となり、歴史のうちにはたらく力、思想と知識の基礎としての理性に対する信仰が消え失せるのである。ティリッヒのいう存在論的理性の危機である。神や人間の本質を問うことの無意味さが支配的となるのである。
ティリッヒは、相対主義の絶対化に対して断固反対している。
ティリッヒは、「技術的理性は一つの道具であり、他のすべての道具と同様に、多く或いは少なく完全であり、多く或いは少なく巧妙に使用されることが出来る。しかし、いかなる場合にも実存問題は出されもせず、また解かれもしない」(『組織神学』第1巻、92頁)と述べている。
技術的理性では解かれないという実存問題とは、自己破壊に脅かされている実存的制約下にある理性のことである。
c 「理性の深層」
ティリッヒは、理性の深層とは「理性ではないが理性に先行し理性の根底にあって理性を通して顕現するあるものの表現である」(同、98頁)という。
ティリッヒは、「客観的主観的両構造における理性は、その構造の中に顕現するが、しかも力と意味において両構造を超越するあるものを指し示している」(同)というのである。それでは、どのように合理的理性的に表現されるというのであろうか。
ティリッヒは次のように語る。
「それは合理的構造の中に現われる『実体』、或いは存在のロゴスとして顕現する『存在自体』、或いはあらゆる合理的創造における創造的な『根拠』、或いはいかなる創造によってもまた創造の全体によっても汲みつくされ得ない『深淵』、或いは精神と実在の合理的諸構造にはいり込み、それらを実現し形成する『存在と意味の無限の可能性』などと呼ばれうるであろう」(同)。
そして、「理性に『先行する』ものを表現するこれらすべての用語は、比喩的性格を持っている」(同)と慎重に語る。
理性の深層に関する比喩は、次のように理性が実現化する種々の領域に適用される。
「認識領域においては理性の深層は、すべての相対的真理を通して真理それ自体を、すなわち存在と究極的に実在的なるものの無限の力を指し示す理性の性質である。美的領域においては理性の深層は、美的直観のすべての分野の作品を通して美それ自体を、すなわち無限の意味と究極的意義を指し示す理性の性質である。法律的領域においては、理性の深層は、実現化された正義のすべての構造形態を通して、正義それ自体を、すなわち無限の厳粛と究極的な尊厳を指し示すところの理性の性質である。社会的領域においては理性の深層は、実現された愛のすべての形態を通して愛自体を、すなわち無限の豊富さと究極的統一を指し示す理性の性質である。理性のこの次元、すなわち深層の次元はすべての合理的諸機能の本質的な性質である。それは理性の諸機能をして無尽蔵ならしめかつ偉大ならしめるそれら自身の深層である。」(『組織神学』第1巻、98-99頁)。
イエスと聖霊によって新生した理性であれば実存的制約下から解放されているので比喩的といわなくてもよいのだが、イエスのように完全に神と一体化した「真の人」になる過程にあるので、ティリッヒは「理性の深層」や「存在自体」(神)に関して「象徴」であると表現し、また、『組織神学』第3巻においては、すべての存在、すなわちすべての「生の過程」(内部に矛盾のある状態)を「曖昧」であると神学的に表現する。
(2)「実存的制約下の理性」
ティリッヒのいう実存的制約下の理性とは、具体的にどのような理性をいうのであろうか。
彼は実存の諸制約下にある理性は「自己自身に矛盾し、分裂と自己破壊におびやかされている。理性の諸要素は互いに衝突する」(『組織神学』第1巻、103頁)と述べている。そのような理性のことである。
しかし、実存の制約下にある理性は、自己矛盾し崩壊する危険に晒されているが、本質構造を完全に失っていないので、実存的苦境の中にあっても、啓示への探求へと駆られるというのである。
言い換えると、人間が「限界状況」に達したとき、理性は「もっとも深いところ」(理性の深層)につきあたり、実存や存在の関係が明瞭となってくると、そのような限界状況においては、究極的なものへの関心が啓示への探求となり、理性の問いは啓示が答えとなるというのである。
以上のように、ティリッヒは「理性そのものに対する非難は、神学的無知か神学的傲慢かの兆候である」(『組織神学』第1巻、103頁)と批判し、ブルンナーと同様に、人間は罪の支配の下にあるとはいえ、「理性の基礎的構造は必ずしも完全には喪失されてはいない」(同)と述べている。
a 「神認識に対する疑念」
次の問題は、理性で神の存在を把握できるか否かという問題である。換言すると理性の制限(認識の限界)、あるいは理性の有限性として知られている問題であるが、有限性の範疇で無限なるものを把握し、経験の範疇で真の実在を捉えることができるのかという問題である。
ティリッヒは、この理性の有限性については、ニコラウス・クザーヌスとイマヌエル・カントによって古典的な形で次のように述べられているという。
クザーヌスによると、理性はその有限性にもかかわらず、「無限の深層」(神)を意識する。理性はそれを合理的知識の言葉で表現できない(無知)。しかしそれが出来ないことを知る知識こそが真の知識である(学識)という。つまり「学識ある無知」とは人間の認識理性の有限性とそれ自体の「無限性の根拠」(神)を把握し得ない人間の無能性を認めることなのである。
カントの場合、彼の著『純粋理性批判』によれば、経験の諸範疇は有限性の諸範疇であり、それによって実在自体(神)を把握できないという。有限性の範疇で無限なるものを把握し経験の範疇で神の実在を捉えようとすると必ず失敗に終わるという。なぜなら、その把握は神を経験の範疇で規定することになり、神を他の存在と並ぶ一存在に格下げすることになるからである(『純粋理性批判(中)』、篠田英雄訳、岩波文庫、128頁参照)。
ティリッヒは、このカントの主張を受容する。われわれは補足理論の個所でこのカントの主張に反論する。
b 「自律と他律」
自律と他律は共に神律に根差している。神は理性の構造と根拠として法であるがゆえに両者は神によって統一され、その統一は神律として発現する。けれども実存の制約下においては完全な神律はない。実存的制約下では自律と他律はお互いに争い、お互いに他を破壊しようとする。ティリッヒはこの分裂の再統一は啓示への探求であるという。
事実、実存の制約下で分裂している啓蒙主義の自律と正統主義神学の他律は、ともに「理性の深層」(神)に根差さないので、相互に争い、相互に破壊し合う。しかし、両者を統一するのは啓示(神律)であるという。
また、ティリッヒによると絶対主義と相対主義の葛藤を統一するのも啓示によるという。啓示は自己分裂した理性の統合を意味するのである。
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