ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(4)
(B)「啓示」について
啓示は、伝統的には普通の知識獲得の方法によっては得られない秘められたものの顕現を意味する。この秘められた隠されたものはしばしば神秘と呼ばれている。この神秘は普通の認識態度とは相容れない態度で体験されるとティリッヒはいう。
(1)「啓示の諸媒介と相関の方法」
ティリッヒは、啓示の媒体としての自然について次のように述べている。
「自然からとられた啓示の諸媒介は自然的諸対象物と同様に無数にある。大洋や星、植物や動物、人体や魂は啓示の自然的諸媒介物である。同様に啓示的性格を帯びた状況に入リ得る自然的出来事もまた無数に存在する。空の動き、昼と夜、生成と衰亡、誕生と死などの変化、自然界の激変、また成熟、病気、性、危険などのような精神的身体的諸経験などである」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、149頁)
このように、「いかなる実在、事物、出来事でも、存在の神秘の担い手となり啓示的相関の中に入ることの出来ないものは何もない」(同、148頁)という。
具体的には、自然や歌や言葉などを媒介として、ある状況下にある人間に啓示し、悟りを与え、神(メシヤ)へと心を向けさせる。
このように、ティリッヒの神学は「相関の方法」であって、啓示と人間状況に関しても相関関係として捉えるのである。
したがって、もし主観の側がそれらを啓示と受けとらなければ、ただの偶然の出来事にすぎないことになり、何も啓示されない。
また、主観の側が啓示と受けとったとしても、相関関係外の人にとっては、それらの出来事は啓示として信じることが出来ないし、無関係なことと受けとられるというのである。
(2) 「終極啓示」
啓示の中の〝終極啓示〟としてのキリストについて、次のようにティリッヒは語っている。
「終極啓示すなわちキリストとしてのイエスにおける啓示は普遍的に妥当する、なぜなら、それはすべての啓示の基準を含み、すべての啓示の終局(finis)ないし目標(telos)であるからである。終極啓示はそれに先行また後続するあらゆる啓示の基準である。それはそれが出現した文化と宗教のみならず、あらゆる宗教と文化の基準でもある。それはすべての人間集団の社会的存在にも、すべての個人の人格的存在にも妥当する。それは人類そのものにとっても妥当し、またある叙述不可能の仕方で宇宙に対しても意味を持つ。キリスト教神学の主張はこれ以下であってはならない」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、171頁)
上述のように、ティリッヒによると、キリストは「あらゆる啓示の基準」であるという。
すなわち、「あらゆる宗教と文化の基準」であり、「すべての人間集団の社会的存在」や「個人の人格的基準」にも妥当し、さらに「宇宙に対しても意味をもつ」というのである。
このようなキリストを〝終極啓示〟とする啓示理解は、諸宗教の啓示に対して、キリストへ向かわせるものと理解して寛容な態度をとる。これは、バルトのキリスト以外の啓示を否定する見解と異なる。
大島末男氏は、終極啓示について次のように述べている。
「したがって啓示の答えも、本質領域におけるプラトン哲学やヘーゲル哲学、実存領域におけるハイデガー哲学、また諸宗教によっても提示される。たしかにキリスト教は終極的解答を提供するが、諸宗教の解答も、それぞれ固有な意味において予備的な解答であることが承認される」(『ティリッヒ』大島末男著、清水書院、137頁)と。
a 「脱自」
大島末男氏は、脱自について次のように述べている。
「脱自とは、理性が主観と客観の対立構造を超えることであり、存在自体が人間の精神を捉えるとき生起する。人間存在の根底を揺さぶる非存在の脅威が惹起する存在論的衝撃は、『なぜ存在があって無ではないのか』という根本的な問いを提起するが、その答えは存在の自己肯定、すなわち罪人を救うキリストの出来事が啓示する。この存在の自己肯定(存在の力)が虚無を克服し、自然の秩序を形成する出来事であり、存在の意味である」(同、117頁)と。
脱自(恍惚)は、精神がその通常の状態を超え出るという意味において〝異常〟な精神状態を指す。われわれが〝霊的になった〟ということを指す。
それは理性の否定ではない。それは理性が自己を越えること、すなわち認識における主観と客観を超える精神の状態を脱自という。脱自的理性もやはり理性である。理性は、非理性的あるいは反理性的なものを受容しない(受容すれば自己破壊する)。
神的脱自は合理的精神の統一をそこなわないが、魔的憑霊はそれを弱め、または破壊する。また、脱自はその認識的要素に関しては、しばしば霊感と呼ばれている。
b 「奇蹟」
ティリッヒによると、奇蹟はそれが「徴しの出来事」となる人々、すなわち信仰によって受けとる人に対してのみ与えられるという。
彼は、イエスは客観的奇蹟を行うことを拒否していると述べている。
最後に、啓示に関する理解について、ティリッヒは次のごとく述べている。
「脱自も奇蹟も認識理性の構造を破壊しないのであるから、科学的分析、心理学的物理学的また歴史学的研究が可能であり、必要である。研究はなんの制約もなく進めることができ、進めざるをえない。その研究は啓示、脱自、奇蹟についての迷信と魔的解釈とを切りくずすことが出来る。真の啓示の超自然主義的歪曲に対する戦いにおいて、科学、心理学、歴史学は神学の味方である。科学的説明と歴史的批判は啓示を防衛する。………啓示は理性の深層と存在の根拠との顕現である。それは実存の神秘とわれわれの究極的関心を指し示す」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、147頁)と。
すでに指摘してきたごとく、啓示に対する迷信や悪霊現象を分別する基本的見方は、キリストの御言であり、ティリッヒもわれわれも同じ見解である。
具体的に、統一原理は「善神の業と悪神の業」の見分け方を論述し、「善神の業と悪神の業は同一のかたちを持って出発し、ただその目的のみを異にする」(『原理講論』120頁)と述べている。
また、上述のごとくティリッヒは啓示を曲解する戦いにおいて、科学、心理学、歴史学は神学の味方なのであると述べている。
この見解は、バルトの一切の人間学的要素の排除という宣教神学と対立する。
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