ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(6)

(B)「存在論的諸要素」 

 

(1)「個別化と関与」

 

ティリッヒは、「プラトンによれば、相違の観念(イデア)は『すべてのものの上に行きわたって』いる。………聖書の創造物語においては、神は普遍者でなく個別存在者を、男性とか女性とかの観念(イデア)ではなくてアダムとイヴとを創造する。新プラトン主義でさえ、その存在論的『実在論』にもかかわらず、種のイデア(永遠の原型)のみでなく、個々のもののイデアもまた存在するとの説を受け入れている」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、220頁)という。

 

ティリッヒによると個別化は特殊なものではなく、存在論的要素であり、性質であるという。そして「絶対的に等しい事物は実存し得ない」(同)というのである。

 

これは中世のスコラ哲学の普遍論争である。「普遍は存在するか」という問いをめぐって争われてきた哲学と神学の論争の一つである。

普遍は個物に先立って存在するという実念論(実在論)と、普遍は個物の後に人間が作った名前に過ぎないという唯名論が対立した。

この論争は、近代哲学や現代哲学において「普遍概念」の問題として論争されてきた。

 

ちなみに、統一原理によると、人間は「神の形象的個性真理体」であるという。すなわち無形なる神の実体(神の像)として創造されたというのである(創世記1・27)。

個性真理体とは、人間は唯一・絶対・永遠・不変であるということである。この真理によって人格の独自性(個別化)が確立される。そして、人は諸人格との交わりをもつ。このように、人間は人格的存在であり、共同体的存在であるといえるのである。

 

ティリッヒの神学には、統一原理のように人間(男・女)が世界(ペア・システム)に対応する小宇宙であるという論証はないが、「人間は精神と実在との合理的構造を通して宇宙に関与する」(同、222頁)、「宇宙的な諸構造、諸形式及び諸法則が人間に開けているゆえに、人間は宇宙に関与する」(同)と説いている。

 

このように、ティリッヒは、人間(個別的自己)は環境に関与し世界と宇宙に関与するというのである。しかし、先に指摘したように個別化には「男・女」、「雄・雌」、「陽・陰」という主体的要素と対象的要素の「格位性」に関する明確な区別の説明はない。

 

ティリッヒの「自己―世界」構造を、より理解するために、ここで「科学的神学」について述べておこう。トーマス・F・トランスは、次のごとく述べている。

 

「自然科学によって探求されている時間と空間のこの宇宙は、神学に無関係であるどころか、神がそこに人間を置いた宇宙だからである。神は宇宙を創造され、人間にそれを研究し解釈する精神と悟性を賜った」(『科学としての神学の基礎』トーマス・F・トランス著、教文館、18頁)。

「人間をその本質的構成要素とする宇宙を、それ自体を認識し、かつ明確に表現できるものとして創造した」(同、18頁)

「人間のいない自然は沈黙したままであり、自然に言葉を与えること、すなわち生ける神の栄光と尊厳を表わす全宇宙の口になることが、人間の役割なのである」(同、18-19頁)

「また、神が人類との対話のなかで人間にご自身を人格的に啓示してきたのも、この空間と時間の宇宙を通じてである。この歴史的対話は、神の言を知解可能な仕方で人間に媒介し神認識を聖書を通して伝達可能にする相互関係の共同体を確立してきた」(同、19頁)

 

上述の文章の中に多くの示唆と霊感をわれわれは読み取ることができる。人間のみが言葉を持つ存在なのである。ティリッヒは、「言語は人間が小宇宙であることを証明する。普遍概念を通して人間は最も遠い星にも最も遠い過去にも関与する」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、222頁)という。

 

科学的神学とは、ハルナックに代表される歴史科学あるいはもっと広義の文化科学として方法論的に確立された神学であって、19世紀にドイツの近代的大学の中に科学としてのいわば市民権を確立した神学のことである。

言い換えると、ハルナックによれば「科学一般とかたく結合されており、それと血縁関係にあるところの神学である」ということである。

 

ちなみに、統一原理は「宇宙は何のためにあるのであり、その中心は何であるのだろうか。………人間が存在しないならば、その被造世界は、まるで、見物者のいない博物館のようなものとなってしまう」(『原理講論』59頁)、「博物館のすべての陳列品は、それを鑑賞し、愛し、喜んでくれる人間がいてはじめて、………各々その存在の価値を表すことができる」(同)と述べている。

これは、人間と世界の「主体―対象」構造と、神が人間を創造した目的に関する叙述の一節である。

 

a 「力動性と形式」

 

ティリッヒは、存在者の内容と形式を力動性と形式として次のように語る。

 

「力動性と形式との両極は、人間の直接経験においては活力と志向性との両極的構造として現われる」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、227頁)

活力(ヴアイタリティ)は生ける存在の生命と成長とを維持する力である。êlan vital(生命の躍進)は新しい形式へと向かって生きる万物の活ける実体の創造的衝動である」(同、227頁)

「存在の力動的要素は自己を超越し新形式を創造しようとする物の傾向を含んでいる。と同時に万物はその自己超越の基礎としての自己自身の形式を保存しようとする傾向を持つ。万物は同一と相違、静止と運動、保存と変化を統一しようとする傾向を持つ」(同、228頁)

 

この力動性と形式の両極性はヘーゲルやマルクスの弁証法を理解していなければ理解することができないであろう。ただし「マルクス―レーニン主義」(共産主義)では事物の内部矛盾において対立物の「統一」は一時的・条件的であるが、「闘争」は絶対的であるという。

 

しかし、ティリッヒは「存在について語ることなくして生成について語ることは不可能である。生成過程においてどこまでも不変にとどまるものが根源的であるように、同様に生成は存在の構造において根源的である」(同)という。

 

この不変と可変(生成)に関して、原理的に解説すれば、「存在の構造」(神)について、四位基台には「自己同一的四位基台」(不変)と「発展的四位基台」(生成・発展)の二つの形態があるということを、ティリッヒは弁証法的に上述のように表現しているのである。

 

ティリッヒは、人間以下の生命力と人間の力動性について、次のように述べている。

 

「人間における力動的要素はあらゆる方向に開かれている。………人間は技術的領域と精神的領域を創造する。人間以下の生命力動性は、それが産み出す無限の変形にかかわらず、また進化過程によって創造される新しい諸形式にもかかわらず、自然的必然性の制限内にとどまっている。動態が自然を越えて伸びるのはただ人間においてのみである」(同、227頁)

 

ちなみに「マルクス―レーニン主義」は、生命は物質の高度に発達した段階であるとし、鉱物、植物、動物、そして人間も「運動する物質である」という。

これに対して、ティリッヒは、物質も「生」の概念に包含し、すべて存在するものを「生の過程である」というのである。

 

b 「自由と運命」

 

ティリッヒは、存在論的両極性は自由と運命の両極性であるという。この存在論的両極性とは存在するものには必ず二つの対立する要素があるということでる。

これは、マルクス主義の物質の運動は内部矛盾によるという見解と相似する。統一原理は「神のうちに生き、動き、存在している」(使徒行伝17・28)のは、万有原力(縦的力)と授受作用の力(横的力)によると捉え、二つの要素は対立物ではなく、相対物(相応物)であるというのである。

 

自由と運命の両極性とは、「人間は自由を持つから人間であるが、しかし人間が自由をもつのは運命との両極的相互依存性においてのみである」(同、230頁)というのである。普通は、自由と必然として語られる。

 

「自由は一機能(「意志」)の自由ではなくて人間の自由、すなわち事物ではなくて完全な自己であり理性的人間である存在者の自由である」(同、231頁)

 

「自由は熟慮、決断、および責任として経験される。………熟慮とは、論証や動機を考量する(librale)行為を指す。考量する人間は諸動機の上に超越している。諸動機を考量している限り、彼は諸動機のどれとも同一ではなく、そのすべてから自由である」(同、232頁)

 

ティリッヒによると、制約された自由を行使することにより、人間は本質の領域から脱落して実存の領域へ移行したというのである。

簡潔に言えば、自由で堕落したというのである。

 



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