ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(7)
(C)「存在と有限性」
(1)「存在と非存在」
ティリッヒは「非存在の神秘は弁証法的な取り扱いを必要とする」という。ギリシア語は非存在の弁証法的概念を非弁証法的概念から区別する。前者をme on(メー・オン)、後者をouk on(ウーク・オン)と称した。ウーク・オンは存在と無関係な「無」であり、メー・オンは存在と弁証法的関係にある「無」のことである。
「無」に関して次のように述べている。
「キリスト教はcreatio ex nihilo(無よりの創造)の教理に基づいてメー・オン的質料の概念を斥けた。質料は神とは別の第二の原理ではない。神がそこから創造するnihil(無)は非弁証法的な存在の否定としてのウーク・オンである。しかしそれでもなおキリスト教神学者たちはいくつかの点において非存在の弁証法的問題に直面しなければならなかった。アウグスティヌスと彼以後の多くの神学者たちや神秘主義者たちが、罪を「非存在」と称した時に、………批評家たちがしばしば誤解したように、罪が実在ではないとか、罪は完全な現実化の欠如であるとかを意味したのではない。彼らは罪には積極的な存在論的立場がないと考え、また同時に非存在を存在に対する抵抗、また存在の歪曲と解したのである。人間の被造性についての教理は、人間論における非存在の弁証法的性格を示す今一つの点である。無から創造されたことは無に帰らなければならないことを意味する。無から創造された痕跡はすべての被造物の上に刻印されている。この理由でキリスト教はアリウスにおける最高の被造者としてのロゴスの教説を斥けねばならない。被造者としてのロゴス(キリスト)は永遠の生命をもたらしえないであろう。またこの同じ理由でキリスト教は自然的霊魂不滅の教理を排して、その代りに存在自体の力としての神から賜わる永遠の生命の教理を主張しなければならない」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、237-238頁)と。
また、神論と非存在の弁証法的問題に関して次のように述べている。
「もし神が活ける神と呼ばれるならば、もし神が生命の創造的過程の根拠であるならば、もし歴史が神にとって意味を持つならば、もし悪と罪を説明し得る否定原理が神のほかに別にないならば、どうして神自身のうちに弁証法的否定を定立することを避けることが出来ようか。このような諸問題が、神学者たちをして、非存在を弁証法的に存在自体に、したがって結局神に関連づけるように強いたのである。べーメのUngrund(無基底)、シェリングの『第一勢位』、ヘーゲルの『反立』、最近の有神論の神における『偶然』と『所与』、ベルジャエフの『メー・オン的自由』、――これらすべては弁証法的非存在の問題がキリスト教神論に及ぼした影響の実例である」(同、238頁)
a 「ヘーゲル弁証法の『反定立』について」
上述のように、ティリッヒは「もし悪と罪を説明し得る否定原理が神のほかに別にないならば、どうして神自身のうちに弁証法的否定を定立することを避けることが出来ようか」という。そして非存在を神に関連づける実例の一つにヘーゲルの「反定立」を取り上げている。
この「反定立」の問題に関して、文鮮明師は次のように語っておられる。
「ヘーゲルの弁証法に出てくる『闘争』という観念をどこから引用したのか分かりますか。人間の心の奥に深く入ってみれば、良心と肉心が戦っています。それでヘーゲルは闘争が元来からあるように考えたのです。神が創造した世界それ自体に闘争があると曲解しました。これは、人間が堕落したという根本的な事実を知らなかったためです。人間の本心を深く調べてみれば、相反する二つの心が対立していることを知ることができますが、そのような二つの心、すなわち良心と肉心が互いに対応しながら歴史が発展してきたと見たのです。ヘーゲルが『堕落』を考えられなかったことが根本的な過ちです。堕落した結果として現れた人間自体を分析してみれば、人間は相反する二種類の性質によって結合しています。そのために、神様が人間をこのように相反する二種類の性質をもった存在として創造したことが原則であると考え、宇宙もそのようにでき上がったという理論を立てるようになりました。共産主義思想はすべての事物を弁証法的理論によって分析して、歴史の発展も弁証法によって理解するのです」(文鮮明著『神様の摂理から見た南北統一』607頁)
「元来創造本然の人間の内部には矛盾はなかったのです」(同、608頁)
「このような人間自体を見て弁証法という矛盾した論理が見いだされたのです。人間自体の闘争からすべて見つけ出したのです」(同、609頁)
ティリッヒは、上述のように神自身のうちに「対立」する二つの要素があるとし、弁証法的否定を定立させる。これはヘーゲルの弁証法の影響であって、ここから闘争概念が出てくるのである。
ティリッヒの弁証法は「マルクス―レーニン主義」の弁証法のように、事物は対立物の統一と闘争によって発展する。「統一」は条件的・一時的・相対的で、「闘争」は絶対的である。支配と被支配は逆転するというような存在と一致しない虚構の論理ではないが、G・E・ムーアから「このような統合は科学的厳密さに欠ける」と批判されたのである。
ティリッヒは、弁証法は「悪と罪を説明し得る否定原理」であるといい、原罪と遺伝的罪についてふれ、『組織神学』第2巻で、罪は「疎外の普遍的運命」であると次のように述べている。
「アダムは本質的人間として、また本質から実存への移行の象徴として理解されなければならない。原罪、ないし遺伝的罪は、本源的でも遺伝的でもない。それはどの人間にも関わる疎外の普遍的運命である」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、70頁)
「本質から実存への移行」とはアダムの堕落を実存主義的に表現したものである。実存主義哲学による罪の叙述で問題なのは、上述のように「原罪、ないし遺伝罪は、本源的でも遺伝的でもない」という点であり、また堕落は「疎外の普遍的運命である」とする点にある。これは正統主義の堕落神話の見解を哲学的に表現したものに他ならない。
しかし、自由によって堕落したと見る疎外論には多くの問題点があるのである。
原罪という言葉を最初に使ったのはアウグスティヌスである。彼は「アダムの罪は、人類の末端にまで及んでいる。子孫は、性を通して生まれるがゆえに、性は二重の意味において罪の根源となっている。すなわち、一人ひとりの人間が、性を通して生まれたということが、すでに罪に満ちていたし、罪を犯す傾向性も、実は先天的な弱さとして、受けつがれてきている」(W・E・ホーダーン著『現代キリスト教神学入門』46頁)というのである。
プロテスタント神学は、人間の病の根源を「精神的なもの」(貪欲、傲慢、自己中心)と捉える。しかし、それがどう始まりどのように伝えられるのかという点になると、ホーダーンは「アウグスティヌスの、アダムとその罪の遺伝についての教義を、学ぶ必要性があろう」(同、47頁)と指摘し、「罪の精神性とでもいうべきものが、生物的なものへと変わっていったというように考えられる。罪の心理的分析と、その生物的遺伝的な側面の、どちらに軍配をあげ、どう調和するかということは、容易なわざではない」(同)と述べている(『続・誤りを正す』、世界基督教統一神霊協会発行、18-21頁を参照)。
創世記によれば、アダムとエバは「善悪を知る木の実」をとって食べて堕落したという。この「木の実」とは何であろうか。原罪とはこの「木の実」を食べたことにある。また、人間始祖を誘惑した言葉を話す「蛇」とは何か、何を象徴しているのか。
ところが、プロテスタント神学では、食べた行為よりも戒めを守らなかった動機(精神性)を心理分析し、心の中に原罪があると捉えるのである。
ところで、心の中に原罪があるとすると、また新たな問題が生じる。罪を裁く神は、悪と罪の根源ではない。それで、罪の気質がどのようにして「アダムの性質の中にはいり込んだのか」という問題が生じるのである。罪が「内的な性質にある」とする見解は、神がそのような心を創造したと神に罪の責任を負わせることになる。それゆえ、「性質に原罪がある」といえないのではないかというのである。答えは統一原理の堕落論にある。
b 「人間の有限性」(非存在と死)について
ティリッヒは「非存在と死」について次のように述べている。
「現在の実存主義は深刻かつ徹底した仕方で『無に遭遇』(クーン)した。それは非存在に対してその直接的語義に矛盾する積極性と力とを与えて、非存在を存在自体の上位に置いた。ハイデッガーの『絶滅させる無』は、最後的に不可能な仕方で非存在すなわち死に脅かされている人間の状況を記している。死における無の予想は人間の実存にその実存的性格を附与する。サルトルは非存在の中に無の脅威だけでなく無意味の脅威(すなわち、存在構造の破壊)をも含めている。実存主義においては、この脅威を克服する途はない。この脅威を取り扱う唯一の途はそれを自己の上に取り上げる勇気にある」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、238頁)
ちなみに、大島末男氏は勇気に関して次のように述べている。
「そして死、運命、無意味さという不安によって脅かされているにも拘らず、生きる勇気をもつことが絶対的信仰であると説いた名著『存在への勇気』(1952年刊)は、全米のベスト・セラ-となった」(『ティリッヒ』大島末男著、清水書院、57頁)と。
非存在と人間の有限性に関する弁証法について、ティリッヒは次のように述べている。
「非存在の弁証法の問題は不可避であるという。それは有限性の問題である。有限性は存在を弁証法的非存在に結合する。人間の有限性すなわち被造性は、弁証法的非存在の概念なしには理解されない」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、238-239頁)
このように、ティリッヒの神学は「非存在すなわち死に脅かされている人間の状況」「死における無の予想」を論述し、「人間の有限性」の問題を主題として取り上げる。
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