ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(13)

「補足理論」

 

(一)「存在自体について」

 

(1)「概念でもあり象徴でもある」について

 

藤倉恒雄氏は「概念でもあり象徴でもある」というティリッヒの見解に対して、次のごとく疑問を述べている。

 

「彼は組織神学第一巻(1951年)の第10章『神の現実性』の(b)項の『存在としての神と神認識』において、存在自体のみを非象徴的叙述とした立場を――即ち、神を主観―客観構造と同一化して『存在の構造』とし、この構造による以外に神を語り得ぬとしていた立場を(Ⅰ,238-9)、1年後の1952年には、存在自体をも象徴的と修正することとなる(Ⅱ,9,“The Theology of Paul Tillich”,p.334-5)。即ち、彼は人間が神を字義的、直接的に語りえない理由を、人間の実存的諸制約に帰し、人間の神叙述には象徴的なものと非象徴的なものとが一致する境界線ともいうべき存在概念が現われてくる結果、その境界線上で神を『無限なるもの』、無制約者と語ることは、合理的に語ることであるが、同時に脱自的に語ることでもあると説明を修正する(Ⅱ,10)。しかし、ここでも、彼は神と存在自体の関係を充分説明するには至っていない。」(『ティリッヒの「組織神学」研究』、藤倉恒雄著、新教出版社、106-107頁)

 

聖書に、人間は神の(かたち)と啓示しているが、統一原理はそのごとく「人間は神の形象的実体対象」、「万物は神の象徴的実体対象」と捉えている。

ティリッヒが、神叙述は〝象徴〟としてというとき、神をそのような象徴的にしか示し得ないことに不満が残る。具体的に、キリストによって神を概念的に「形象的」に叙述できるではないかというのである。

神の似姿として造られた人間は、罪によって歪められてはいるが、本来においては〝神の形象〟であって〝神の象徴〟ではないのである。

 

聖書には、次のように述べられている。

 

「わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。全きものが来る時には、部分的なものはすたれる」(コリントⅠ、13・9-10)。

「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない」(コリントⅠ、13・12)。

 

全き(完全な)真理は、神認識において、一部分の真理のごとく「おぼろげ」ではない。「顔と顔とを合わせて見る」ごとく鮮明である。したがって、神叙述は〝象徴〟ではない。

神について知っている知識について、パウロは「わたしが完全に〔神によって〕知られているように、完全に知るであろう」(コリントⅠ、13・12)と言っている。

 

(二)カントの「第一原因と因果律について」

 

(1)「空疎な無限因果の系列理論」

 

カントは、因果律によって、神を論理的科学的に論証することはできないと次のごとく述べている。

 

「およそ原因性には、自然法則に従う原因性だけしかない、………何か或るものは原因の原因性、即ち原因がそこではたらいている状態であるところの原因性によって生起したのであるが、この原因性はまたそれ自身生起した或るものであり、この生起した或るものは更にまた自然法則に従ってそれよりも前の状態とその原因性とを前提する。するとこの状態はいま述べたのとまったく同様に、それよりも前の状態を前提とするという工合(ぐあい)に、どこまでも(さかのぼ)っていくわけである。」(カント著『純粋理性批判』(中)、篠田英雄訳、岩波文庫、126-127頁)

 

このように、〝原因の原因〟と順次に遡っていくと最上位の始まり、第一の始まりと言うものは決してありえないというのである。つまり、神の存在を証明するはずの因果律によって、第一原因の〝原因は何か〟と、どこまでも遡行していくことになり、その因果律による第一原因の論証が、その因果律によって否定され、それを放棄せざるを得ないというのである。

 

すなわち、自己矛盾に陥ると言うのである。また、無限の因果の系列に、神(第一原因)も巻き込まれ、神が他の存在に並ぶ一存在になってしまうと指摘する。

 

(2)「神の自存性の矛盾」について

 

この因果の連鎖の強制からの解放は、カントによると、自らが自らの端初(たんしょ)であるところの神の「自存性」の主張となるとし、しかし、そこにもまた矛盾が生じると次のごとく指摘する。

 

「自然法則とは異なる別の原因性が想定されねばならない。かかる原因性は、何か或るものを生起せしめるけれども、しかしこの生起の原因はもはやそれよりも前にある原因によって、必然的自然法則に従って規定されることがない、――換言すればかかる原因性は原因の絶対的自発性であり、自然法則に従って進行する現象の系列をみずから始めるところのものである。」(同、128頁)と。

 

つまり、第一の始まりは、それよりも前にある状態から決して生じてこないような状態、すなわち自存性を前提している。ところで、これは因果の連鎖からの自由であり解放であるが、この自由は因果律に反するものだ、とカントは言う。

なぜなら、因果律からの解放〔自由〕は、第一原因と現象界との連続性の切断である。もし、連続しているなら、その自由の介入(結合)によって自然法則は混乱するというのである。以上のことに関するカントのいうところを再度引用してみよう。

 

a 「切断に関して」

 

「自由という幻影は、なるほど究明を事とする悟性に、原因の系列の停止を約束する、自由は悟性を無条件的〔絶対的〕原因性、即ちみずから作用を開始する原因性に達せしめるからである。しかしかかる無条件的原因性そのものは盲目的であるから、規則の手引きの系――つまりそれを辿ってのみ完全に関連する経験が可能になるところの手引きの糸を切断してしまうからである。」(カント著『純粋理性批判』(中)、岩波文庫、128-129頁)と。

つまり、因果の系列の停止は、第一原因と現象界との因果の関連性の切断であり、因果律の放棄であるというのである。

 

b 「混乱に関して」

 

「自然は自由というかかる無法則的な能力と同列に考えられるものではない。両者を同列に置くと、自然法則は自由の影響によって絶えず変改されることになるし、また現象の過程は、自然だけに従っていさえすれば規則的、斉合(せいごう)的であるのに、これもまた自由の影響によって混乱に陥いり、ついに支離滅裂(しりめつれつ)になるからである。」(カント著『純粋理性批判』(中)、岩波文庫、132頁)と。

 

つまり、切断にしろ、連続性にしろ、いずれにしても論理に一貫性がなく、自己矛盾に陥り、混乱すると言うのである。だから、「第一の始まりを単なる自然から説明しようとはしなかった」(『純粋理性批判』(中)133頁)とカントは結論づけるのである。

 

つまり、因果律によって、究極的存在(第一原因)を論証できないということである。それは自然神学(宇宙論的論証、存在論的論証、目的論的証明)による神の証明が不可能であることを論証しているのである。

 

このように、カントによって重要な問題がすでに提起されていたのである。第一に、神の存在論的証明は可能であるか。第二に、自然(現象界、被造物)と神との関係は如何に、という問題である。神との接点があるのかないのか、もし、何らかの連続性があるなら、それは如何してという問いである。

ティリッヒは、存在自体を〝概念〟でもあり、〝象徴〟でもあるとして、存在との接点(境界線)において合理的に語ることは脱自的に語ることであるといって、連続性を維持しようとしたのである。

 

「神と被造物との関係」は、すでに本文で「万有原力と授受作用」で論述している。カントのいう論理的矛盾は、統一原理によって解消されている。

 

(三)「カントの主張に対する反論」

 

(1)「客観的存在と一致しない」(空疎な思惟)

 

ところで、因果律の系列について、具体的に客観的存在に沿って、無形なる第一原因の構造と、神と被造物との関係、神の自存性と神と被造物との因果の連続性を如何に正しく理論的に捉えるか、科学的に検証して見よう。

このような試みは経験不可能な〝空虚な思惟〟とカントは言うが、はたしてどちらが〝空虚な思惟〟なのか。カントの主張に妥当性があるのか、という問題である。

 

物質を形成する分子は原子から、原子は素粒子から、この素粒子の原因はエネルギー(力)から、ということが今日においては科学によって明らかにされている。認識の対象はここで消滅して、形のない無形なるものとなる。

エネルギーは無形である(形がない)。したがって、これ以上、原因の原因として遡れない。無形なるものの原因は無形であるからである。

 

究極的存在とは、ティリッヒがいう「存在の力」であり、統一原理のいう「原力」(万有原力)のことである。これを第一原因というのである。

この無形なる原力によって、エネルギーが現れ、この無形なるエネルギーから有形なる物質が現れたというのが、現代物理学の世界観である。ここに因果律の切断はない。第一原因と連続性があるのである。

 

カントの議論は、一見すると論駁(ろんばく)し難い科学的な理論に見えるが、具体的に客観的存在を追及していくと、「認識対象」を離れて、観念的に無限の因果の系列があるかのように主張していることが分かる。

有形なる原因の遡行は、無限でない。分子、原子、素粒子、エネルギーと、たった4段階で、もう無形なるものに至り、次の段階で第一原因に行きつくのである。

 

カントによると、「原因と実体」(生起した或るもの)は有限性の範疇(はんちゅう)であり、有形な「生起した或るもの」が原因の系列の前提であった。だが、この前提がエネルギー(力)に至って無形なる存在となるのである。

したがって、有形なる前提が消滅する。それゆえ、その原因の原因は何かと、生起した有形なる或るものをその原因の原因として措定(そてい)し、さらに遡行(そこう)していくことができなくなるというのである。

 

無形なるものが有形なるものの原因であって、有形なるものが無形なるものの原因になり得ない。それはつまり無形なるエネルギー(力)の原因として有形なる「生起した或るもの」を前提とすることができないということである。

だから、カントの無限の因果の系列は、客観的存在を離れた空虚な思惟であると言うのである。

 

無形なるエネルギーの原因は第一原因と呼ばれるが、それは無形なる存在であるが、実在するということである。したがって、無形なる世界に有形なる世界の因果律を適用することはできない。

因果律が適用できるのは、無形なる第一原因に至るまでのことである。その無形なるものが絶対的端初(たんしょ)(第一原因)となるのである。

 

神はエネルギーの本体である。宇宙も、ある力の源泉から生まれたのである。したがって、天地を動かすとか、創造するという力の作用体、根本の作用体がなければならない。このような立場にいるその方を、私たちは神様というのである。

力は作用過程(授受作用)から現れる。したがって、力が存在する以前に、力の作用体がなければならない。その作用体が作用するためには、主体と対象がければならない。なぜなら、単独では作用することができないからである。ゆえに、力の源泉である第一原因は「二性性相」である。

 

以上のごとく、カントの無限なる因果の連鎖(れんさ)というのは、客観的存在(有形実体対象)として極小の物体が無限に存在するということを、暗々裏に前提とした推論であった。

しかし、第一原因は有形ではなく無形実体であり、無形なるものの原因は無形であって、生起したあるものなどではない。有形なる存在という前提がなくなる。したがって、第一原因の原因は何か、と無限に遡行していく因果の連鎖の系列は、〝空虚な思惟〟の産物であるということになる。

 

この点を見抜けず、ティリッヒは、カントと同様に「『論証』の無能性、神問題に答えることの不可能性を暴露(ばくろ)することである」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、266頁)と言って、カントに並ぶ。

そして、第一原因の原因と遡行していくところの観念的な空疎な理論を、次のように承認する。「このような存在者はそれ自体因果連鎖(れんさ)の一部であり、再び原因の問題を提起するであろう。」(同、265頁)と。

 

しかし、提起はできない。なぜなら、ビックバンによって現われた時間と空間の世界における因果の法則を、ビックバン以前の時間と空間を超越した世界に適応することはできないからである。

 

このように、第一原因の原因という問いそのものが〝妄想〟であることに気づかないのである。ここに、ティリッヒが存在論的に神を存在自体と捉えながら、それを〝象徴〟と修正する曖昧(あいまい)さが生じるのである。

 

(2)「第一原因は無形なる存在である」

 

時間空間の現象界の因果法則を、時間空間を超越した世界に適応することはできない。

第一原因は無形なる存在である。この無形なる存在に対して有形なる世界の因果の法則を適応して、第一原因の原因は何かと問うこと自体、経験の世界を越えた越権であり、妄想であり、空虚な思惟である。

このことは、カント自身が形而上学(けいじじょうがく)と言って批判していたことではなかったのか。因果律による遡行は、第一原因に至るまでのことである。それを超えて因果律で思惟することは〝妄想〟である。

 

「無形なるもの」から「有形なるもの」が生起したことは、ノーベル物理学賞を受賞したレーダーマンが次のごとく述べている。

 

「無が爆発したわけだ。この最初の爆発で、時間と空間が生まれた。そのエネルギーのなかから物質が生まれた」(『神がつくった究極の素粒子』(上)、レオン・レーダーマン著、高橋健次訳、草思社、14頁)

 

最初の爆発の結果、生まれた時間と空間の世界に適応する物質界の因果の法則を、爆発以前の時間も空間もない第一原因の世界に適応することは、非科学的である。

 

(3)「卵の比喩」

 

それでは、如何にして「無形なるもの」から「有形なるもの」(第一の始まり)が現れたのであろうか。

逆に、結果から原因を遡行して、如何に第一原因にまで至るのか。そこに因果の連続性は保たれ、切断はないのか。それらのことは理論的に証明され、認識されるのか。

自然界には、象徴的に真理を語るものが多く存在する。この場合、卑近(ひきん)な例として鶏卵(けいらん)を取り上げてみると、真理が一層明らかになるであろう。

 

鶏卵が如何にして形成されるのか、解剖すれば母体から卵が形成される過程が見られる。小さいものから大きいものまで卵に成りつつある一連の()のかたちをしたものが母体に現われる。

そして、ある大きさにおいて母体から球形の形をした卵として分離する。これは、極小の世界である素粒子が「無形なるエネルギー」(無形実在)から如何に「形あるもの」として形成されるかを象徴的に見せているのである。

 

母体は無形なる第一原因を象徴し、一連の卵は素粒子が形成される過程を象徴している。母体と卵の間に因果の連続性があり、そこに因果の切断はない。そのことが認識できる。

このことは、無形なる第一原因から最初に生起する無形なる原物質(エネルギー、力)、さらに、素粒子へと連なる関係の間に、因果の連続性があり、そこに因果の切断がないことを示している。

 

また、「無形なる第一原因」から最初の「原物質」(物質的要素)の間に、極小なる粒子が無限にどこまでも分割されてあるのではない。まだ発見されていない物質があるだけで、第一原因を根源として原物質(物質の究極的構成要素、目的エネルギー)が生起し、原物質から生じる一連のエネルギーの波動(曲線、弧)や素粒子(形のない「点」)が現れる。

そのことを、鶏卵の母体から、最初に生起し、母胎からまだ離れていない小さな卵(弧)は示している。

 

「無形なるもの」から「有形なるもの」の境界線は、最初に生起する原物質である(統一原理の存在様相からみて、最初の生起は力=目的エネルギーであって、それによって弧をえがく波動と粒子の場であろう)。

その形のない原物質から、さらに生起する対象として認識される素粒子も波動(曲線)であり、粒子(球形―分割できない最小のもの、「点」)として現れる。

 

最小の素粒子(クォークが6つと、レプトンが6つあると考えられている)によって、すなわちクォークとレプトンが結合し、宇宙のすべての物体ができている。陽子はクォーク3つでできている。その陽子1個にたいして、レプトンという素粒子に属する電子を1個加えれば、原子1個ができあがるのである。

この原子が水素である。クォークとレプトンは、統一原理による陰陽の二性性相に相当する。このクォークはどれも「点」のようなもので、体積がなく、形がない。目で見ることができないが、有るのである。――(『神がつくった究極の素粒子』(上)、レオン・レーダーマン著、草思社、86-91頁を参照)

 

最初の生起や有形なるものは理性で認識でき、ティリッヒの言うごとく脱自的になる必要性はない。第一原因を、彼は「存在自体」と概念的に捉えたが、第一原因を「無限なるもの」と捉えて「無形」(二性性相)という概念を想起できず、概念でもあり象徴でもあると修正したのである。

それで、彼の神叙述に明確性がなくなったと指摘されるのである。

 

以上が、カントの自然法則による無限の因果の連鎖(原因の系列)という論理に対する反論であり、カントの批判は有形なる客観的実在から離れた経験的対象を無視した観念的な〝空疎な理論〟であると反論する理由である。

第一原因と現象界との間に「連続性」があるのであって、「中断も混乱」もない。第一原因(自由)の介入が異種の法則の介入(結合)であって、自然法則を混乱させるという主張も、事実として認識できないカントの観念的な〝妄想〟である。

 

ただし、連続性があると言っても、現象界は神によって創造された被造物である。被造物は神ではない。神は、万有原力ですべての存在者と関係し、存在者を存在せしめているのである。

 



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