ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(25)

聖霊論

 

(二)「霊的現臨」 ――神の霊(聖霊論)――

 

(A)「人間の精神における霊的現臨の顕現」

 

ティリッヒは『組織神学』の第3巻で、「生」の問いと「聖霊」の答えの相関論を論述する。

聖霊は、曖昧(あいまい)な「生」の中から曖昧ならざる脱自の状態に人間を引き上げる。ティリッヒは「聖霊の臨在」を「神の霊」あるいは「霊的現臨」という。

 

(1)「人間精神における聖霊の顕現の性格」

 

 a. 「人間の精神と神の霊」

 

人間の精神における「神の霊」または「霊的現臨」について、ティリッヒは次のように述べている。

 

「生の一つの次元としての精神は、存在の力と存在の意味とを結合している。精神は力と意味との統一における現実と定義することができる。われわれの経験の範囲では、このことは人間においてのみ起こる。………自分のうちにある力と意味との統一としての精神の経験なしには、人間は『現臨する神』の啓示的経験を『霊』または『霊的現臨』の用語で表現することはできなかったであろう。」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、142-143頁)

 

人間の精神の経験は「神の霊」について語ることを可能にする。「神の霊」は人間の精神の中に宿り、また働くというのである。「霊的現臨」の下における人間の状態は脱自(ecstasy)の状態である。この脱自に関しては「理性と啓示」の項ですでに述べているが、ティリッヒは「啓示の経験」は「救いの経験」の一要素であると、次のように述べている。

 

「霊的現臨は啓示の経験と救いの経験とに脱自的状態を創り出し、人間の精神をして自己を越えさせるが、それの本質的な、すなわち、合理的な構造を破壊するということはしない。脱自性は統合された自己の中心性を破らない。もし破るならば、魔神的憑依(ひょうい)が霊の創造的現臨に取って替わるであろう。」(同、143-144頁)

 

このように、神の霊の現臨は恵みであり、脱的状態を創り出すというと言うのである。しかし、神から離反(疎外)している人間の精神は「神の霊」を自分の精神の中に入るように強いることはできない。生の一つの次元としての人間の精神は、曖昧である。しかし、「神の霊」は曖昧ならざる生を創造すると言うのである(同、144頁を参照)。

 

しかし、上述のように、彼は、脱自は「(精神の)合理的な構造を破壊するということはしない」という。もし破るならば、魔神的憑依が霊の創造的現臨に取って替わると警告する。

統一原理は、霊的現臨と魔神的憑依の分立、すなわち「善神の(わざ)と悪神の(わざ)」の見分け方を説いている(『原理講論』堕落論、120頁)。

 

ちなみに、ガラテヤ人への手紙には「肉の働き」と「御霊(みたま)の実」を対比して、次のように述べている。

 

「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。しかし、御霊(みたま)の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈悲、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。」(ガラテヤ5・19-23)

 

 b. 「精神構造の破壊と脱自」

 

「霊的現臨」の顕示は、古代においても、聖書の記録においても、奇跡的性格を持っている。

ティリッヒは、神の霊の力ある業について、次のように述べている。

 

「霊は身体的効果をもつ。或る人を一つの場所から他の場所へ移動させたり、身体の内部に変化を起こさせたりする。たとえば、身体の中における新しい生命の発生がそれである。また霊は硬質の物体を浸透する。霊はまた通常な性格を越えた心理的効果をもち、知性や意志に対して、人間の自然的能力を超えた能力を与える。たとえば異言(いげん)についての知識、他人の心のもっとも深いところの思いを洞察する能力、一定の距離をおいてさえも病を(いや)す能力等である。」(『組織神学』第3巻、147頁)

 

 C. 「注入という言葉について」

 

「インスピレーションと『注入』(infusion)という二つの言葉は、人間の精神が霊的現臨の衝迫(しょうはく)を受ける仕方を表現している。」(同)

空間的隠喩(いんゆ)をもって霊的現臨の衝迫を記述する言葉が「注入」である。

 

ティリッヒは、「『信仰の注入』(infusio fidei)とか『愛の注入』(infusio amori)とかいう言葉は、『聖霊の注入』(infusio Spiritus Sancti)に由来する。プロテスタント・キリスト教は、この用語について懐疑的であったし、今もそうである。そのわけは、この観念が、後のローマ教会において魔術的-物質的意味に誤用されたからである。霊は実体となり、その実体性は必ずしも中心性をもった人格の自意識によって感知されなかった。それは一種の『物質』(matter)となり、それを受ける主体が阻止(そし)しない限り、秘蹟(ひせき)の執行において、司祭によって伝達された。この非人格的な霊的現臨の理解は宗教生活の客観化となり、免罪(めんざい)()の販売という商取引において頂点に達した。プロテスタント的()()にとっては、霊は常に人格的である。信仰と愛とは霊的現臨の自己の中に中心性をもつ自我への働きかけ、その働きかけの媒体は、サクラメントの執行においても『言葉』である。プロテスタント・キリスト教が霊的現臨の働きかけに対して『注入』(infusion)という言葉を使うことを好まないのは、このゆえである」(同、148頁)という。

 

しかし、プロテスタント・キリスト教は、「注入」について一貫してはいないとも言う。

 

ティリッヒは、「新約聖書、特に使徒行伝、書簡(特にパウロ)の或る節におけるペンテコステまたはそれに類似する物語を読みかつ解釈する時、プロテスタントもまた聖霊の『そそぎ』(outpouring)という隠喩(いんゆ)を用いるのである。………われわれがインスピレーションという言葉を好んで用いたとしても、われわれは実体的な隠喩をさけることはできないからである。息(breath)もまた霊を受ける者の中に入ってくる実体である」(同、148-149頁)と述べているのである。

 

このように「注入」という言葉を使用することに対して、一方でローマ教会を批判するが、他方で、プロテスタント教会に対して、「われわれは実体的な隠喩をさけることはできない」と指摘する。これでは、肯定しているのか否定しているのかわからないのである。

 

統一原理も1ヶ所ではあるが、新生論(重生(じゅうせい)論)において「注入」という言葉を用いている。

 

「聖霊の感動によって、イエスを救い主として信じるようになれば、……新たな生命が注入され、新しい霊的自我に新生(重生)されるのである。」(『原理講論』キリスト論、266頁)

 

 d. 霊的現象(脱自)と「共同体の分裂」について

 

ティリッヒは、主観―客観の構造を超越する脱自は、自意識の次元における偉大な解放の力であると言う。ただし、彼は「霊的現臨」によって創造される脱自の奇跡が、人間の精神構造の破壊をもたらすと理解された場合には、それを否定する。

 

聖書には、「すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい」(ヨハネの第一の手紙4・1)と述べられている。

 

また、ティリッヒは、具体的に次のように述べている。

 

「パウロは、霊の賜物について語り、もし脱自的に異言を語ることが、混乱を産み、共同体を分裂せしめるようなものであるならば、それを拒否している。また個人的な脱自的経験の強調が高慢(こうまん)(hubris)を生み出し、その他の霊の賜物(charismata)が愛(agape)に従わないならば、それをも拒否している。それから彼は霊的現臨の最大の創造物である愛(agape)について論じる。コリント人への第一の手紙13章の愛の讃歌(さんか)においては、道徳的命令の構造と霊的現臨の脱自とが完全に一致している。」(『組織神学』第3巻、150頁)

 

このように、「霊的現臨」による脱自の精神状態は、道徳的命令の構造と一致し、共同体を分裂させることはないのである。この精神構造は、愛として現れたものなのである。

 

 e. 「愛として現れた霊的現臨」

 

次は、愛と霊的現臨の関係についてであるが、ティリッヒは次のように述べている。

 

「信仰が霊的現臨によって(とら)えられた存在の状態であるのに対して、愛は霊的現臨によって曖昧ならざる生の超越的統一へと取りこまれた存在の状態である。」(同、171頁)

「愛は精神のあらゆる機能の中で働いており、生そのものの最深の核に根ざしているということである。愛は分離されているものの再結合への衝動である。このことは存在論的に、それゆえに普遍的に真理である。」(同、171頁)

 

このように、愛と聖霊の関係を存在論的に捉え、愛は分離を統一する力であるというのである。言い換えると、「神の霊」は曖昧ならざる生を創造し、愛は神の霊の現臨によって「生の曖昧な状態」を統一した状態に再結合するというのである。

 

 f. 「聖書的な聖霊概念と統一原理の一致」について

 

統一原理は「イエスは、男性であられるので、天(陽)において、また、聖霊は女性であられるので、地(陰)において、(わざ)役事(やくじ))をなさるのである」(『原理講論』重生論、265頁)と説いている。

 

統一原理は、地における聖霊の業はどのような「感動の働き」をするかに関して、聖書の「コリントⅠ、12章」(知恵、知識、信仰、いやしの賜物、力あるわざ、預言、霊を見わける力、異言、異言を解く力)を挙げ、また「罪の悔い改めの業」「とりなし」(ローマ8・26)に関しても述べている(『原理講論』265頁)。

 

このように、統一原理は、聖書的な聖霊概念と一致している。

 

 



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