ブルンナー「出会いの神学」(7)
(三)「バルトの主張」(『ナイン! エーミル・ブルンナーに対する答え』)
新正統主義のチャンピオン、カール・バルトは、ブルンナーが〝正しい自然神学に帰ることが現代神学の課題である〟と言っていることに対して、次のように反論する。
「一般的には実証的・自由主義的な戦前の神学の影響から脱却し始めた時以来、常に次のようなものであった。それは、われわれが啓示を恩寵として、また恩寵を啓示として理解し、したがってまたあらゆる『正しい』あるいは『正しくない』自然神学を不断に新しく決断と悔い改めとをもって決然と見捨てるべきである」(『カール・バルト著作集2』、「ナイン!――エーミル・ブルンナーに対する答え」、新教出版社、187頁。以後『ナイン!』という)と。
このように、自然と恩寵との間の調停を拒否し、ブルンナーの書物は警戒警報であると断言する。
また、バルトは「調停神学はドイツの福音主義教会の今日の不幸の原因であることは明らかであり、そしてもしそういう事情が更に続くなら、また他の国の福音主義教会をも不幸に導くであろう」(『ナイン!』188頁)と予見するのである。
そして、キリスト中心主義の立場から自然神学に対して次のように批判する。
「私は『自然神学』という言葉でもって、イエス・キリストにあっての神の啓示を対象としないあらゆる(積極的にまたは消極的に)神学的とみなされている体系的思想、言葉を換えれば、神の啓示の解釈であると自称する体系的思想のことを理解する。したがって、そういう体系的思想のとる方法は、聖書の解釈とは根本的に違ったものである」(『ナイン!』191頁)と。
このように述べた後で、バルトは「私は全く出発点から彼と違った方向をとらざるをえないからである」(同、191頁)といい、「われわれは、自然神学を大きい誘惑と間違いのもととして、ただ恐れと怒りとをもってこれに背を向け、そして自然神学には関わり合わないで、自分自身に対してもまた他人に対しても、自分は自然神学に関わり合わないということと、そしてまた、なぜ関わり合わないかということを、その都度明らかにしうるのみである」(同、192頁)と宣言するのである。
バルトの批判は、近代主義の自然神学に対する先入観によるものであって、ブルンナーの正しい自然神学を誤解している。
ブルンナーは、「キリストの啓示」と「自然を通しての啓示」という二つの啓示の相関論を述べているのである。それなのに、バルトは、それを理解せず、「キリストの啓示のみである」といい、自然神学は「誘惑と間違いのもと」と従来からの主張を繰り返えすのである。
「原理的批評」
ブルンナーが主張する〝キリストの啓示〟と〝自然の啓示〟による「正しい自然神学」(「体系的思想」)に対して、バルトが、自然神学は「聖書の解釈とは根本的に違ったものである」と主張するのは、相手の言い分をよく聞かないバルトの誤解によるものである。
また、自然神学の排除は、彼の主観的な聖書解釈に起因するのである。
バルトは、出発点から、自己の神学的立場(キリスト中心主義)とブルンナーの神学とを区別し、感情的になって、「自然神学を大きい誘惑と間違いのもと」、「ただ恐れと怒りとをもってこれに背を向け」、「自然神学には関わり合わない」と述べている。
このバルトの聖書の解釈は、自己主張する分派主義であって、福音主義教会を偏狭にする。また、自然神学を否定する彼のキリスト中心主義は、現在、環境破壊によって危機的状況下にある自然を救済する視点がないと言えよう。
芦名定道氏は「環境論とキリスト論」について、次のように述べている。
「(近代神学においては)もはやキリストは人類の歴史との関係でのみ問題とされ、キリストの出来事と地球環境や宇宙全体との関わりで理解することはほとんど現実性を持ち得なくなった。一千億の銀河を包括した大宇宙の百五十億年の歴史の創造者にして救済者が惑星地球の一人間の生涯である三十年という一瞬においてのみ具体的な形をとって現れたというキリスト論の主張は、現代の科学的宇宙論を前にして激しい挑戦を受けている(McFague [1993],p.159)。キリストの出来事は古代のキリスト論が主張したような宇宙論的意味を再び回復することができるのか、あるいはキリストの出来事の意味はその歴史性(さらには世界史から区別された実存の歴史性)に限定されざるを得ないのか。これが環境論が提起する問いとキリスト論との関わりを論じるための思想史的な前提なのである。しかし、以上の歴史的事情より科学的宇宙論との積極的な関係構築を試みるだけの基礎作業が神学の側に欠けているため、本格的な『自然の神学』『コスモロジーの神学』は現在のところ存在しない――古い『自然神学』への逆戻りではなく――。これが環境危機に対する神学的取り組みを困難なものにしている。なぜなら、環境論から問われているのは『自然』や『環境』についての神学的理解であるにもかかわらず、現代神学はこれについて本格的な議論を展開する基盤(キリスト論的な)を失っているからである。」(『キリスト論論争史』水垣渉・小高毅編、日本基督教団出版局、556-557頁)
現代神学を牽引してきたバルトの福音主義神学の欠陥を、見事に指摘しているではないか。
ちなみに、統一原理は「創造原理」と「キリスト論」で、キリスト(真の人)は天地万物の中心存在であると次のように述べている。
「完成した人間は、神が常に宿ることができる宮(コリントⅠ、3・16)」(『原理講論』252頁)、「神と人間が合性一体化した位置が、まさしく天宙の中心となる位置なのである。」(同、60頁)、「創造目的を完成した人間は、天宙を総合した実体相となるのである。人間を小宇宙であるという理由はここにある。」(同、253頁)、「人間が存在して、被造物を形成しているすべての物質の根本とその性格を明らかにし、分類する……動植物や水陸万象や宇宙を形成しているすべての星座などの正体が区別でき、それが人間を中心として、合目的的な関係をもつことができるのである。……物質から形成された人間の生理的機能が、心の知情意に完全に共鳴するのは、物質もやはり、知情意に共鳴できる要素をもっているという事実を立証するものにほかならない。このような要素が、物質の性相を形成しているために、森羅万象は、各々その程度の差こそあれ、すべてが知情意の感応体となっている」(同、59-60頁)と。
この統一原理の宇宙論的「キリスト論」、すなわち、科学的宇宙論と「キリスト」(創造本然の人間)との関係論は、現代神学が求めている環境破壊に対処するキリスト論的な基礎を与えていると言えよう。統一原理のキリスト論は「自然の神学」「コスモロジーの神学」を包含している。
ところで、バルトは、自然神学の否定のために、次のような狂信論を語ることも躊躇しない。
「自然神学を本当に拒否する時には、われわれは先ず初め蛇をにらみつけ、次に蛇によって自分がにらみつけられ、催眠術にかけられ、そして遂に噛まれるのでなくて、われわれは蛇を見たとたんに既に杖をもって打ちかかり、打ち殺してしまっている。」(『ナイン!』192頁)
「自然神学を本当に拒否することは、神を恐れることの中でのみ行なわれうる。したがってまた、自然神学に対して全く無関心の中でのみ行なわれうる」(『ナイン!』193頁)と。
以上のように、彼の論争術は、巧妙で感情論を煽り、自己の見解と相違する聖書解釈に対して敵対的になり、特に、自然神学を容赦しない。それはまるで中世の異端審問官のようでもある。
バルトのような〝絶対信仰〟の立場に立つ人たちに対しては、冷静に理性的に相手の主張をよく分析して反論し、対処しなければならない。しかし、誤りを指摘しても聞く耳を持たない人たちであることも心得ておくべきであろう。
(A)「バルトの自然神学批判の中身」
バルトは、ブルンナーの主張を、次のようにまとめて彼を批判する前提とする。
「ブルンナーの言う自然神学とは、次のようなものである。すなわち、人間には啓示なくしても人間自身が本来持っていて、そして啓示の中で言わば甦えって来る『啓示能力』(147頁)、または『言語能力』(150頁以下、172頁)、または『呼びかけられうる能力』(150頁以下)というものがあるということである。」(『ナイン!』195頁)
上述のまとめに続き、バルトは、次のように「言語受容能力」を批判する。
「『最高絶対にして自由に選ぶ神の恩寵』なくしても、人間に『啓示能力』があって、その能力はその神の恩寵によってただ助けられるにすぎないとすれば、そういう神の恩寵は一体いかなるものであろうか。もし人間が自分自身からしては自分の救いのためには何もなしえないなら、そしてもし人間に十字架の言葉を生ける認識としてくれるものが聖霊であるならば、『言語能力』とは何を意味するのであろうか――」(同、195-196頁)と。
周知のように、ブルンナーは、神の言葉を聞き理解するには「言語受容能力」と「応答責任性」が不可欠であると述べている。
この「言語受容能力」との関係で、誰しもプロテスタントの信仰義認論に対して素朴に疑問をいだく事柄がある。それは、信仰が全く真理の承認と無関係な事柄であるならば、教義的問題などはどうでもよいことになる。
しかし、はたしてそうであろうか。この問題に関する、下記のカトリックの批判は傾聴に値する。
「直接的救済は、必ず彼等の有する恩寵や神の前における義、又は予定説の観念によって説明される。これは体験的プロテスタンチズムに内在する矛盾に基づくのであって、いくら信仰は真理の承認ではなく神への人格的信頼だとか、愛の関係(智的要素を除外せる人格的関係もありうると見える)であると定義しても、少なくともその体験する神とは何ぞや、キリストはいかなる方か、神の前における我は何者か等の教義的背景なしに、上述の関係が成立するはずはない。」(『カトリックの信仰』、岩下壮一著、講談社学術文庫、642頁)
常々、われわれが信仰義認論に対していだく、一つの疑問(信仰義認と教義の関係)についての明確な解答が、上述の文章の中にある。
これに対して、バルトの主張は、ブルンナーが指摘しているように「恩寵のみ」、「聖書のみ」、というだけである。
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