ブルンナー「出会いの神学」(6)

(C)「自然神学が神学および教会に対して持っている意味」

 

(1)「キリスト教の社会倫理」について

 

ブルンナーは「キリスト教の社会倫理」という主題の基で、次のように述べている。

 

「自然神学に対してどういう立場をとるかが、倫理の性格に関して決定的であるということである。……キリスト教倫理にとって創造の秩序の概念は、最初から啓蒙主義の時代に到るまで、社会組織の問題と関係しているすべての事柄に対しての、したがって職業、召命、結婚、国家等々についての思想の中で標準的であった、と。昔から、全世紀を通して、キリスト教の社会倫理はイエス・キリストに基づいた愛――神が与え給うた構造のままの共同社会の諸形式の中で、生きて働いて来なければならない愛――についての思想であると定義することができる。それであるから社会倫理は、救済するキリストの恵みの概念を通して規定されているのと同様、また常に神の創造の恵みおよび保持ほじの恵みの概念を通して規定されている。」(ブルンナー著『自然と恩寵』168頁)

 

このように、社会倫理は「キリストの恵み」の概念を通して規定されているのと同様、また、常に「神の創造の恵み」および「保持の恵み」の概念を通して規定されているというのである。

 

さらに、彼は次のように述べている。

 

「諸秩序は神の律法の一部分である――例えば結婚の秩序、すなわち一夫一婦制の命令や、国家の秩序すなわち政府当局を認めてこれに服従することは、神の律法の一部分である。律法は――それが書かれた法であろうと自然法(lex naturae)であろうと、以上述べたいろいろの秩序の中の一つであろうと――神の意志の啓示されてあること(Offenbartheit)をあらわす形式である。……ただ聖霊だけが我々に、律法と秩序を正しく、現時点にふさわしい仕方で認識することを教える。それはちょうど聖霊だけが律法と秩序にわれわれが従う時に、単に外面にばかりでなく、内面的にも神の意志が行なわれるというふうに従うことの出来る力を与えてくれるのと同様である。」(同、169頁)

 

キリストと聖霊との関係で、ここで一言述べておかなければならない。

上述のごとく、ブルンナーは、聖霊のわざは「『現時点』にふさわしい仕方で認識することを教える」と述べているように、聖霊が教えるのは現時点までで、言い換えると、再臨主が顕現するまでである。

なぜなら、「結婚」や「国家の秩序」や「自然法」は、再臨主の御言みことばによって完全な真理の内容としてすべてが教えられるからである。

 

(2)「アナロギアの思想」について

 

ブルンナーは、「神のかたち」と関連する「アナロギアの思想」(存在の類比)について、次のように述べている。

 

「アナロギア(Analogie)の原理及びそれに対するバルトの論争に関してここで一言ふれなければならない。バルトはアナロギア(Analogie)の原理がどのように用いられるかということの中に、カトリックの思想とプロテスタントの思想との間の一つの、いな、唯一つの対立を、見てとった最初の神学者である。バルトはこう主張する、すなわち、それ自身の中に始めから神との類似性を持つ被造物は存在しない。ただキリストにあっての啓示を通して、そして聖書を通して初めて被造物は神との類似性を持つという資格を付与されるのである、と。これは前代未聞の神学的唯名論であって、それと比べるなら、オッカムの唯名論でさえ無害と思われる。なぜなら、そうだとすると、われわれが神を『父』、『子』、『聖霊』と呼ぶこと、われわれが神の『言葉』について語ること等々は、神がそのほかの何物かとよりも父と類似性を持つということに基づいているのではなく、単純に神が聖書の中でそのように語っているからという事実に基づくということになるであろうからである。つまり、神がそう語るのは、そういうことが――神の創造したものを通して、神の創造の時以来――始めからそうであるからではなく、それは神の語った聖書を通して、初めてそのようになるからである。」(同、169-170頁)

 

上述のごとく、バルトは、「それ自身の中に始めから神との類似性を持つ被造物は存在しない。ただキリストにあっての啓示を通して、そして聖書を通して初めて被造物は神との類似性を持つという資格を付与されるのである」という。

 

ブルンナーは、バルトのこの見解に対して唯名論であると批判しているのである。被造物が神との類似性をもつのは聖書によって資格が付与されたからではないというのである。「キリストの啓示」とか「聖書の啓示」がなくても、人間の意識から独立して客観的に存在するすべての被造物には、神の印章(類似性)があるというのである。

 

上述の事柄を一言でいえば、バルトの思想とは客観的存在を認めない粗野そやな主観主義の哲学であると言っているのである。分かりやすく表現するなら、バルトの「聖書のみ」(聖書の解釈)とは、聖書に書かれていない〝ガリレオやコペルニクスの地動説は異端である〟と断罪するような立場なのである。

 

統一原理は「創造原理」で、「被造物はすべて、無形の主体としていまし給う神の二性性相に似た実体に分立された、神の実体対象である……人間は神の形象的な実体対象であるので形象的個性真理体といい、人間以外の被造物は、象徴的な実体対象であるために、それらを象徴的個性真理体という」(『原理講論』47~48頁)と述べている。

 

ブルンナーは「世は神によって創造されたものである。あらゆる被造物の中でその創造主の霊が何らかの仕方で認識される。すべての名人の真価は作品に現われる」(『自然と恩寵』より)と述べている。

彼は、「キリストの啓示」と「聖書の啓示」以外に、神は「自然を通しても啓示される」というのである。

 

ブルンナーは、「バルトの教義学も、そのほかのすべての教義学と同じようにアナロギア(Analogie)の思想の上に基礎を持っている。ただ、バルトはそのことを認めようとしないだけである」(同、170頁)と述べ、さらに、神と人間との「存在の類比」について、次のように述べている。

 

「われわれが神について語る時には人間の人格のたとえをもってするより以外の仕方では決して語りえない、ということが含まれている。そういう思想の上に、バルトの神学全体は基づいていることを意味する。父、子、聖霊、主、言葉――こういうキリスト教神学や聖書の宣教にとって決定的な諸概念は、人間の人格に関する概念である。そういう人格概念がすべての自然概念(そのことばの近代的意味における)よりぬきんでているのは、神がとにかく不可解な仕方でそのように欲し給うから、という理由によるのではなくして、神が人間の中に類似した本質、すなわち人間だけがもっている神に類似した本質、を創造したという理由による。神と類似した本質、すなわち主体的存在あるいは人格的存在は、また罪によっても〔ただ啓示を通してだけ認識されるという程度に〕破壊されてはいない。したがって、この類似性は、すべて自然との類似(Naturanalogie)とは違って、まさしく啓示を通してこそ初めて確認される、というようなことは言えない。」(同、171頁)

 

このようにブルンナーは、「神と類似した本質、すなわち主体的存在あるいは人格的存在は、また罪によっても〔ただ啓示を通してだけ認識されるという程度に〕破壊されてはいない」というのである。

 

ここでも一言、原理的に述べておかなければならない。

神と人間との「存在の類比」は、神と堕落人間との類比ではなく、神と堕落していない創造本然の人間であるキリストとの類比(父と子の関係)のことである。

 

ただし、本然の人間とは、神の似姿である堕落していないアダム(男)とエバ(女)のことであって、イエスは「第二アダム」(コリントⅠ、15・45以下)といわれるが、女性(エバ)を忘れてはならない。神には、男性的性相と女性的性相の二性性相があるのである。

したがって、神と人間との関係(父と子の関係)は、神(天の父母)と人間(アダムとエバ)の関係のことである。「天の父」という神概念に、男性性相だけでなく女性性相があるのである。

 

ブルンナーは、自説を次のようにまとめて述べている。

 

「人がそもそも神について語り、神の言葉を宣教しうることは、客観的には、神がわれわれを神のかたちに創造したということの中に、その基礎を持っている。しかし主観的には、そのことがわれわれに対してイエス・キリストの中で啓示されるということの中に基礎を持っている。神が人間となるということは、人間が神に似た姿であることを、それの真理と深さに従ってわれわれが認識する認識根拠である。そして、神に似た人間の姿が、形式的な側面から見ると、破壊されてないということが、神の『言葉』の中での神の啓示を人間が受ける客観的可能性である。

教会は、神の言葉と人間の言葉の間にある、神の創造によって造られた関係による以外の仕方では、決して宣教することはできない。教会が宣教するということ(Daβ)は、この神のかたち(imago Dei)の『残存』の上に基づいており、教会の宣教の内容(Was)は、この像の残存がキリストにあって回復されるということに基づいている。教会もまた、われわれは人間と『とにかく神について語り』うるということの上に立たされる。それが、『結合点』である――それはすなわち、言語能力と応答責任性ということである。」(『自然と恩寵』172頁)

 

そして彼は、「経験に従えば、自然神学を軽蔑することと共に、教育学的要素の蔑視べっしが起こってくる。そのことは、教会の中ではわざわいなる結果を招来しなければならぬ」(同、173頁)と警告する。

 

また、「あらゆる自然神学を軽視することは、教会の中では直ちに――そして今日は前よりももっとそうであるが――教会を完全に孤立化せしめることになるであろう」(同、174頁)と言うのである。

 

そして、このブルンナーの神学の確信は、偽りの自然神学が最近のプロテスタントの思想に大きな損害を与えたのであり、また、現在も教会をおびやかしつづけている。だから、正しい自然神学に立ち返ることこそが、現代の神学の課題であるというのである(『自然と恩寵』、174-175頁を参照)。

 



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