カテゴリー: バルト「神の言葉の神学」

バルト11 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(11)

「神認識の可能性とその根拠」

それでは如何にして神認識は可能なのであろうか。

先に論述したごとく、バルトの神認識の問題は、歴史的政治的状況下で、他の神学理論の批判から形成されていったのである。それも個々の宗教に対する批判ではなく、宗教そのものの批判である。その批判はまずもって、まさにキリスト者たちに対して遂行されていった。

 

バルトによると、宗教とは「いたるところ全面的に、神ご自身とかかわらない一つの虚構であり、真理が(われわれのところに)来ることによってだけそのようなものとして、虚構として認識されることのできる似而非なる神である」(『バルト神学入門』63頁)というのである。つまり宗教は不完全なものであり、完全な真理(キリスト)が来ることによって既存のものが虚構であり、一部分であることが暴露されるというのである。

 

また宗教に対して、宗教は「ご自身を啓示においてわれわれに差し出し現示する神の現実の代わりに、人間が自ら勝手に独断で描き出した神の像」(同上)であると厳しく批判する。

神はただ神によってしか人間のもとに来ることはありえない。人間がもし自分から神を捉えようとして手を伸ばすなら、本当のところ彼がつかむのはただ「独断で描き出した神の像」でしかないというのである。

 

このように、キリスト中心主義から見れば、宗教は独断論であり、虚構であり、神でないものを神であると言って礼拝する。そしてバルトは「宗教はそれ自身によるならば不信仰以外の何ものでもない」(『バルト神学入門』E. ブッシュ、64頁)というのである。

 

それでは真の神認識の可能性は一体どこにあると言うのであろうか。またその認識が真理であるという判断基準はどこにあると言うのであろうか。

大木英夫氏はそのことに関して次のように述べている

「宗教的願望や宗教的想像力は、啓示に反するものとして、徹底的に否定された。人間の宗教的主観の投影にすぎない虚像が神認識の対象ではない。しかしこうして人間の可能性が完膚なきまでに破壊されたあと、一体人間の神認識とはいかにして成り立つのだろうか。もしそれが成立するとすれば、それは人間の内在的能力によってではあり得ない。それは、無から有をつくり出すような、いわば奇蹟的な出来事として成立する」(『バルト』大木英夫著、講談社、227頁)。

 

右の文言にあるように神認識の可能性―、それは「奇跡的な出来事」によるのである。言うまでもなく、曇らされた理性の新生は、「キリストの出来事」(和解)による以外にない。それゆえ、バルトはキリストの啓示の出来事が神認識の根拠であるというのである。

バルトは教会教義学で次のように述べている。

「神認識の可能性は神からしては、次のこと―神ご自身真理であり給い、その言葉の中で聖霊を通し、真理として人間に認識すべくご自身を与え給うという―から成り立っている」(「教会教義学」―『神論』Ⅰ/1、新教出版社、115頁)。

「神は自分自身からして、自分自身を通して、認識される」(神論Ⅰ/1,119頁)

このようにバルトは、神がいまし給うことや、認識が幻想でないことを証明できるのは、ただ神ご自身でしかないというのである。言い換えると、神認識は神からであって、人間の側からではないというのである。

 

以上のように、神と人との真の対応や真の神認識は、人間に生得的な本質や存在に基づくのではなく、「キリストの出来事」によって神と人との間に新しく確立された関係に基づくというのである。すなわち、キリストによる和解が一切の尺度であるということである。注⑥

 

ブッシュ教授はバルトの尺度、すなわち真理(キリスト)について次のように述べている。

「尺度とは、私たちが神をキリストの和解以外のところで見てとろうとするとき、本当に神と関わっているのか、それとも一つの幻想とか悪霊とかに関わっているのではないのか、それを決める尺度である。それゆえキリストこそそのための尺度である。なぜなら、神は、ヨハネによる福音書1・14に語られているようにキリストにおいてご自身を啓示したもうたのだから」(『バルト神学入門』、エーバハルト・ブッシュ、新教出版社、44頁)と。

 

*「罪人を救うキリストの行為が神の呼びかけに応答する人間を創り出す根源的出来事であると理解し、このキリストの出来事の中にだけ神の臨在を見るのである。」(『カール=バルト』大島末男、94頁)

キリストの出来事とは、降誕、復活、臨在、再臨であり、キリストの出来事が原歴史である。この原歴史の中に世界史の全過程を包摂する。しかし、統一原理のごとく歴史の同時性をバルトは解明していない。

 

「信仰が認識に先行する」

バルトは「神論においても、また神認識についての教説においても(ほかのところからではなく)イエス・キリストからして、神の言葉からして、語り、論じられなければならないということが大切である」(『神論』Ⅰ/1、448頁)というのである。

 

ブッシュはバルト神学の神認識ついて次のように解説している。

「神学とは根本的に自己自身からはじめることのできない思考である。この思考は自らに先行し自らにすでに与えられているもののあとを追う。キリスト教神学はこの先行する所与のものに完全に依存する。それを基礎づけることも、証明することも、生み出すことも、神学にはできない。神学はただそこから出発し、そこから由来し、そのあとを追うことができるだけなのである。そしてわれわれは、ただちにここで、バルトの認識理論の根本命題を理解することになる」(『バルト神学入門』、E.ブッシュ、57頁)。

 

以上のように、神の言葉において神認識は実現されるが、「神の言葉による拘束が生起しなければならない」(『神論』Ⅰ/1)ということを強調する。そして拘束を振り切ると逸脱するというのである。キリスト抜きで真の神の認識はありえないということである。

このようにバルト神学とは、「信仰が認識に先行」し、信じている所与のことを追思考すること、すなわち「思考とは追思考である」ということである。先に論述したが、アンセルムスの定式で言えば、「神学とは、信仰が信じていることを理解しようとする企てである」(同上、『バルト神学入門』70頁)ということである。

 

*バルト神学は、ティリッヒから認識の基礎に信仰をおく不合理な信仰主義(fideism)と批判されている。カトリックからは「存在の比論」があって「信仰の比論」「関係の比論」が成立すると反論された。父と子と聖霊の存在があってバルトのいう「三位一体の神」があり、その存在が前提となって「信仰の比論」が生じるというのである。それでカトリック神学に相似するバルトのアナロギアは「隠れたカトリック主義」(『神の言葉』Ⅰ/1)として嫌疑をかけられたのである。

注⑥  キリストの出来事は包括的な概念で、まずイエス=キリストの具体的な歴史的事実を指示し、次にこの事実の中に巻き込まれて生き方を変えられた人間が神の呼びかけに応答することによって展開する根源的歴史(関係)を指す」(『カール・バルト』大島末男著、清水書院、49頁)。

再臨は初臨の勝利を継承し、残された神様の「み旨」(創造目的=家庭的四位基台の完成)を実現し天国を創建する。

バルト10 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(10)

「教会教義学」

 

「神認識」(キリスト諭的集中)

「キリスト論的集中」とは「神の名」(イエス・キリスト)の啓示から発想する思惟様式であり、それ以外のところから出発することを拒否する神学(キリスト中心主義)である。注④

従って、その思惟様式以外のところから神と被造物〔人間〕の類比を説く自然神学や哲学などの一切の人間学的要素が排除される。

 

バルトは、彼の主著『教会教義学』(「神の言葉」、「神論」、「創造論」、「和解論」)の最初の巻(『神の言葉』Ⅰ/1)の序説で、キリスト中心主義を「存在ノ類比」(analogia  entis=アナロギア・エンティス)の否定として、すなわち、トマス・アクィナスの神学的方法論の否定として言い表す。

バルトはローマ・カトリック教会のこの「存在ノ類比」(「存在のアナロギア」)は「反キリストの発明」(『神の言葉』Ⅰ/1、序説)であると糾弾した。注⑤

なぜなら、「存在のアナロギア」は、神の啓示、すなわち、キリストを抜きにして、人間の生得的な自然理性で神を認識することができると主張するからである。一応、存在による神と人間の間に、その類比は成立するが、人間は罪によってその本質構造(神の像)は歪められており、人間の理性は曇らされているので、神を正しく知り得ないと言うのである。

 

*カトリック神学の「神と被造物の類比」について

「被造物はその『存在からして』、本性上、神へ向けて秩序づけられており、神と類縁の存在であるがゆえに、われわれは被造物から創造者を推論することができるということである」(『バルト神学入門』エーバハルト・ブッシュ、新教出版、111頁)

*「バルトは『教会教義学』を『存在の類比』による人間や世界から神へと上昇する方法ではなく、それと完全に対極的な、神から、上から考える方法によって、つまり哲学的なものをきっぱりと除去した純粋神学として構築する。」(『バルト』大木英夫、212頁、講談社)

バルトは上述のような「存在ノ類比」を否定する。プロテスタント神学は統一原理を同類の神学であるとして否定する。しかし無原罪のメシヤが説いた神認識(「神と被造物の類比」)であることを知らないのである。

また、統一原理は人間や世界から神へと上昇する方法だけでなく、それと完全に対極的な、神から、上から考える方法の双方で、論述している。言い換えると、帰納法と演繹法の双方で論述しているのである。

注④  神の名」について、――「神の名」とは神の人格的主体の独自性を示すもので、主体、しかも固有名詞的独自性における主体であって、概念のもつ客観的普遍性に解消することはできない。「神は決して〈何〉ではない……神は〈誰〉である」(『バルト』大木英夫著、講談社、202頁)。

上述のごとく、バルトは「神の名」を強調するが、われわれはこれをどのように理解すればよいのであろうか。

聖書には「神のかたち」のごとく人(男と女)を造ったと啓示されている。また、固有名詞として「アダム」と「エバ」と、その名が記されている。言い換えると、神はご自身の似姿として、一方においては、人間として男と女、すなわち神様の息子と娘としてご自身の似姿を啓示され、他方においては「アダム」と「エバ」という固有名詞として啓示されているのである。従って、普遍的概念的に捉える側面と、主体として固有名詞として捉える側面の両側面がある。それゆえに、一方のみの強調、他方の否定は正しい神認識に至らないと言えるのではないか。バルトがいう「神の名」とは、言うまでもなく「イエス」をいう。そして、バルトはその名以外に神を認識し得ないというのであるが、その神は独身男性の神である。その他に聖書は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、「わたしは、有って有る者」(出エジプト、3・14)とモーセに言われた神の名の啓示がある。しかし旧約聖書はキリスト論的に与型論的に解釈されイエス・キリストの名以外は次のように拒絶される。「神の名の告知の本質は名の拒絶にある・・・・その場合―私たちが神をそれにおいて知りそれにおいて語りかけることの許される名において、その名が拒絶されるのである」(『バルト神学入門』、エーバハルト・ブッシュ、新教出版社、24頁)。

注⑤  アナロギア」(analogia)について――アナロギアとは数学における「比例」を意味する。比例は有限なる数と有限なる数との間に成立するものである。神と被造物の間に成り立つアナロギアは、このような有限なる関係ではない。神の存在は被造物との比例によって測られる有限る存在でないからである。言うまでもなく、トマスのいう「存在のアナロギア」は有限なる存在者と有限なる存在者との間に成り立つ「アナロギア」ではない。それは「存在のアナロギア」ではなく、「存在者(被造物)のアナロギア」である。神(「無限なる存在」)と被造物(「有限なる存在」)との間には数学的な意味での比例は成立しない。従って、トマスのいう「アナロギア」は数学的意味での「比例」ではなく、「関係」を意味するものなのである。つまり、無限なる存在と有限なる存在の「アナロギア」は「在らしめる存在」と「在らしめられる存在」との間に成り立つ「存在の関係」であり、最も根源的な意味での存在の因果の関係である。ただし、神は諸々の存在者と同一平面において諸々の存在者の原因になるのではない。それは、垂直的に個々の存在者の存在原因としてかかわるのである(『トマス・アクィナス』山田晶著、中央公論社、49~51頁 参照)。

科学的世界観を持つ現代人に、トマスの言う「存在のアナロギア」を説明できるのは「統一原理」(第二節、「万有原力と授受作用および四位基台」)以外にないであろう。縦的関係(垂直的関係)と横的関係(平面的関係)の授受作用と万有原力との関係、すなわち、生命、作用、存在、などにおける授受作用の原理のことである。

「存在のアナロギア」は自然神学の原理であり、啓示神学は神の恩恵授与の決断と人間の恩恵受容の決断との間に成り立つ「信仰のアナロギア」を根本原理とする。バルトはキリスト者は啓示神学であって、自然神学を反キリストとして排斥する。しかし、トマスは、公然とアリストテレスの存在論を神学に導入し、そこで哲学と神学、あるいは自然と恩恵の総合を企てるのである。すなわち、理性によって知られる「神の知」と、啓示によって知られる「神の知」との間に、この両者の何らかの共通性があるとみる。それはこのいずれの知も根源的には、神から人間に与えられた恩恵によると見るからである。理性も神から与えられたものと見る。従って、これら二つの「神の知」がバルト神学のように敵対的に対立することなどあり得ないとトマスの思想からは見るのである(同上、53頁、参照)。

バルトの観点から見れば、トマスは理性による神の知と啓示による神の知の総合というが、理性は神から与えられたとはいえ、理性は罪に歪められているので、その神の知も歪められている。従って、キリストと聖霊によって新生した理性と捉えなければならない。また啓示はたんに神の啓示ではなくキリストの出来事としての啓示と捉えないと、いくら恩寵を授与された者と言っても、キリスト抜きでの総合は不可能であると指摘できる。原理的観点はキリストの出来事による啓示と神による啓示という二つの啓示を再臨のメシヤの理性によって統一されるのであって、それ以外の人によるのではないと見るのである。

バルト神学は他の神学理論を破壊するが、同時に統一原理の創造原理(神の定義)は自然神学であると見て敵対者となり得る。

バルト9 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(9)

「世界大戦のキリスト論的解釈」

ところで、第二次世界大戦の本質的原因は何であったのか。この問題はいろいろな角度からさまざまに議論されてきたが、「統一原理」のように、歴史を神の摂理(救済史=蕩減復帰歴史、再創造史)として本質的全般的に捉えられていない。世界の出来事をキリスト論的集中によって解釈するバルトですら、世界大戦の原因をキリスト論的に解明していない。

世界大戦を、政治、経済、思想など、外的な要因を見るだけでは、歴史に対する摂理的な意義を把握することができない。統一原理は、「主権を奪われまいとするサタンの最後の発悪」「神の三大祝福の成就」「イエスの三大試練」「神の主権復帰のための世界的な蕩減条件」などが世界大戦の内的な要因であると捉えている。(『原理講論』538頁以下 参照)これは、一口で言えば、見事な「キリスト論的解釈」と言えよう。

このように世界大戦の摂理的な原理的意義を「キリスト論」的に捉えることは再臨のメシヤ以外に不可能であるが、しかしバルトやブルトマンは歴史の本質の一端を見たのである。このことに関して大木英夫氏は次のように述べている。

「第二次大戦は、・・・・日本にも南原繁が見破った田辺元による国家の擬似キリスト化があったとすれば、日本をも含めて根本的には世界史的規模の神学問題であったと言い得るであろう。神学がない日本ではそれを見破ることが容易でなかった。しかしバルトは、ヒットラー政権獲得後ただちに見破った。一九三二年『教会教義学』のペンを置いて、その高みから見たとき、あたかも双眼鏡の焦点が合って敵影がはっきり見えてくるように、ヒットラーの悪魔的な姿が見えてきた。世界で最初にそれを見た」(『バルト』、大木英夫著、講談社、130頁)。

「非神話化を論じるブルトマンは、バルトに興奮した口調で『われわれはこの目でサタンを見た』と言った」(同上、134頁)。

以上のごとく、歴史の出来事の中に神の本質と神の存在を見るバルトは、「歴史の本質」(主権を奪われまいとするサタンの最後の発悪)の一端を見たのである。それはバルトが勝れて歴史的政治的状況の下で、聖書の使信を現代の諸問題の中で理解しようとしたからに他ならない。まさに、バルト神学は聖書が証言している神的事実そのものに迫っていく方法であり、この方法でバルトは二千年の時を超えて語りかける神の声を聞くのである。

それゆえ、バルト神学に対して、バルトの功績は虚無的とか無神論的なものが知的人間の身分証明であるかのような二十世紀のただ中での「神」の再発見にあると言われている。

 

以上のように、バルトは神を発見したといわれるのは、それはすでに論じてきたごとく、イエス・キリストとして神を対象化し、人間に認識可能なものとする神の啓示によるのである。

*社会倫理学者C・フライが次のように述べている。

「『ティリッヒは、しばしば現代的思想家として賞賛されるが、実際は、はるかに古い思考構造を忠実に守っている。それに反してバルトは、われわれにとっては多くの点で親しみのない、古い用語を用いて、構造的にまったく新しいことを語ろうとした』というのです。バルトに関するフライの主張が正しいと私は考えるのですが、そうだとすれば、われわれはバルト神学を新正統主義だとする誤解を越えて、バルト神学における『構造的に新しいもの』を理解する」(『カール・バルトと現代』、小林圭治編、新教出版社、18頁)

 

バルト神学の「キリスト論的集中」(キリスト中心主義)は、既存の自由主義や福音主義の観念や概念を破壊する洗礼ヨハネ的側面があるが、同時に統一原理を誤解して敵対する側面もある。

しかし、彼の斬新な教説、すなわち、キリスト中心主義による聖書解釈は、同様に、第一アダム、第二アダム、第三アダムとして、キリスト中心主義的に聖書を解釈する統一原理を、受容可能にする準備段階の神学であったとわれわれは理解することができるのである。

 

以上のように、社会性、政治性を包摂するバルトの神学活動は、様々な決断と逡巡を経て未完の巨大な著作である「教会教義学」へと成熟していくのである。

 

*K・バルトの「教会教義学」は、1932年から1962年まで、邦訳は全36巻からなる。それはカルヴァンの「キリスト教綱要」の9倍の量、トマス・アクィナスの「神学大全」のほぼ2倍の量である。

バルト8 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(8)

「悪の本質」

ハンガリーの政治情勢がナチズムから共産主義へ移行した中で、バルトは、「キリスト教会は原則として共産主義に反対する必要はないと主張した。これに対して、ブルンナーはバルトがナチズムに反抗した時と同様に共産主義を攻撃しないと、バルトを非難した。」(『カール=バルト』大島末男著、清水書店、59~60頁)。

バルトが共産主義を非難しない理由は、大島氏によると、「共産圏では経済面においては兄弟愛があると信じたのであった。そして西欧社会では政治的には自由と平等が保障されているが、経済的には不平等があると感じたのである」(同上、60頁)という。

しかし、ソ連が崩壊(1991年)し、現代においては、バルトのように、北朝鮮や中国が「経済面において兄弟愛がある」と信じている人は少ないであろう。

また、共産主義思想は事物の発展は対立物の闘争によるといい、同様に人類歴史も階級闘争によって発展するという。この戦闘的唯物論の本質は、愛ではなく「憎悪」にある。共産主義者は、暴力革命を主張し、「支配階級を震撼せしめよ!」(「共産党宣言」)という。

マルクスは学位論文(『デモクリトスとエピクロスの自然哲学の差異』)の序文で、「一切の神々を憎悪する」といい、『ヘーゲル法哲学批判序説』で、「宗教は民衆のアヘンである」と言った。

「汝の敵を愛せ」というイエス・キリストの教えと「弁証法的唯物論」は敵対する。まさしく共産主義の憎悪はサタンの思想であって、神と人類の敵であるといえよう。その敵を愛せとキリストは言うのである。

バルトはナチスの本質を見抜いたが、共産主義の本質は見抜けなかった。われわれはバルトから多くを学ぶが、「この福音に基づくバルト神学は、悪の力を克服する神の根源的な働きに根差す根源的な思考である」(『カール=バルト』大島末男著、清水書院、53頁)などと、とても考えることは出来ないのである。統一原理こそ悪の力を克服する思想なのである。

 

*神の「愛は被造物の命の根本であり、幸福と理想の要素」(『原理講論』、109頁)である。神の御霊があるところに自由があるのである。

*「悪の始原」とは、既存神学によると、人間は自由意志によって神の恩寵から離れ、神の戒めから自由になり、自分が始原となり、また始原であることを欲し、ヘビ(サタン)の誘惑によって戒めを破るという罪(原罪)を犯した。その結果、サタンの支配下に堕ちたというのである。

しかし人間の堕落が「自由意志」によるのか、統一原理のいう「愛の力」によるのか、という争点がある。

「悪の本質」(憎悪と暴力)

*「共産主義者は、これまでのいっさいの社会秩序を強力的に転覆することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。支配階級よ、共産主義革命のまえにおののくがいい。プロレタリアは、革命においてくさりのほか失うべきものをもたない。かれらが獲得するものは世界である。

万国のプロレタリア団結せよ!」(『共産党宣言』、岩波書店、87頁)

このようにマルクスは、「社会秩序を強力的に転覆する」、「共産主義革命のまえにおののくがいい」と公言している。

毛沢東も次のように語っている。

*「どの共産党員もみな、『銃口から政権が生まれる』というこの真理がわからなければならない。」(『毛沢東語録』講談社文庫、51頁)。「革命の中心任務と最高形態は、武力による政権の奪取であり、戦争による問題の解決である」(同上、51頁)。「戦争は政治の継続である」(同上、49頁)。「政治は血を流さない戦争であり、戦争は血を流す政治である」(同上、49頁)。

*学生時代のマルクスにあてた父親の手紙に、「息子のうちにひそんではいないかとかねがね恐れていた『悪魔』(Damon)をまのあたりに見る思いがした」(『初期のマルクス』淡野安太郎著、勁草書房、63頁)と書かれている。

バルト7 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(7)

バルトの「与型論的解釈」

バルトは、十字架による和解から時間的に過去に遡り、「『キリストとアダム』という表題で救済秩序が創造秩序に先行するキリスト中心主義」(『カール・バルトの生涯』E・ブッシュ、553頁)を主張する。

E・ブッシュはそのことに関して次のように述べている。

「創世記第一章、第二章は二つの異なった歴史物語を提示している。そこで語られていることをバルトは二つの命題にまとめている。第一章は『創造は契約の外的な……根拠である』(『創造論』I/1、177頁)。そして第二章は『契約は創造の内的な根拠である』(422頁)」(『バルト神学入門』、107頁)。

また、「逆に創造が神の契約に関係づけられているのである。・・・・創造は契約に一致する。しかしそれはそれ自身によってではない。創造が契約に一致するのは、契約の神が創造をご自身の契約への一致へと呼びかけ、一致へともたらすことによってである。それがバルトが『存在ノ類比』(analogia entis)に反対し『啓示ノ類比』(analogia revelationis)に味方する意味にほかならない(『創造論』Ⅲ/1、98頁)」(『バルト神学入門』E・ブッシュ、110頁)。

また次のようにも述べている。「われわれは創造において契約の神とは別の神――契約の歴史を無視し、われわれをもそれを無視するように招く神――を相手にしているのではないということである」(同上、110頁)。

このように創造が契約に関係づけられている。しかしブルトマンは、これは転倒していると指摘した。しかしバルトは、和解による神認識に、旧約聖書の信仰認識が収斂されると次のように述べている。

「旧約聖書および新約聖書の中で証しされている信仰認識・・・今やイエス・キリストの教会の使信の認識内容である」(『神論』Ⅰ/1、34頁)。

 

そしてさらにバルトは、旧約聖書とカトリック教会の信仰の基本文章としての古代教会の信条まで包含し、すべての神認識はキリストの和解に収斂させるのである。

 

E・ブッシュはこのキリスト中心主義の根拠について次のように述べている。

「もちろん私自身、長い道程(あるいは回り道)をたどって初めて、ヨハネ福音書1・14の言葉があらゆる神学の中心であり、主題であり、もともと神学の全体の簡潔ナ表現でさえあるということを、ますますはっきり洞察するようになりました」(『カール・バルトの生涯』、E・ブッシュ、539頁)。

 

以上のように、これらの見解は、聖書全体にキリストを介入させてキリスト論的に聖書全体を解釈するバルト神学の方法なのである。しかし彼の旧約聖書に対する与型論的解釈は、旧約聖書の豊かさや多様性を認識しないキリスト論的一元ではないかと批判されている。またわれわれの側からは、彼のキリスト論には再臨の視点が抜けているのではないかと指摘することができる。またシヴァイツァーも『イエス小伝』で述べているように、イエスが来られたその時が終末であり、天国の創建が始まっているのである。それなのに公生涯と無関係な十字架の死が絶対予定とされているが、そうであろうかと問題を提起することができる。

 

E・ブッシュは、バルト神学は状況に対応した事柄に関する力動的な叙述であるというが、「和解論」は静的に自己完結したものである。先に指摘したように、再臨が抜けているのではないか。

またバルトの「信仰ノ類比」「関係ノ類比」はカトリックの新しい路線ではないかと指摘され、「存在の類比」があって「信仰の類比」「関係の類比」があるのではないかと批判されている。

 

「リッチュルの解釈法」

*リッチユルはその著「説教の神学」で、旧約聖書に対するキリスト論的アプローチの問題を取り扱い、聖書全体をキリストを介して解釈し、旧約聖書の中にキリストに対する与型を見出す解釈法とか、三一論的出発と教会論的理解を前提する解釈の方法を論述している。この見解は古くからある聖書解釈法の一つである。例えばイエス・キリストを介して、青銅の蛇を贖罪(ヨハネ福音書3・14)、大魚に呑まれたヨナ(マタイ福音書12・40)を復活の予型と解釈されていた。

 バルトの解釈法もこのような予型を見出す解釈法であると言えよう。またこの解釈法は、統一原理の復帰原理にも見られ、アブラハムの路程、ヤコブ路程、モーセ路程を、メシヤの「人類救済の公式路程」(初臨と再臨のメシヤの公式路程)として、神様があらかじめ示しておられると見るのである。言い換えると、聖書に「父は子を愛して、みずからなさることは、すべて子にお示しになるからである」(ヨハネ5・20)とある通り、キリスト中心主義、すなわち、再臨のメシヤの観点から旧約聖書を考察したものなのである。

*周知のように、統一原理の「創造原理」と「メシヤの降臨とその再臨の目的」で説く神は、「契約の歴史を無視するように招く神」を論述しているのではない。「旧約聖書の神認識」(行義)も、「和解による神認識」(信義)も、統一原理の解く神認識(侍義)に収斂されているのである。バルトの三位一体の神は霊的な三位一体の神であり、「イエス様と聖霊とは、神を中心とする霊的な三位一体を造ることによって、霊的真の父母の使命を果たしただけで終わった」(『講論』267頁)。したがって、「神を中心とする実体的な三位一体」をつくるために、再臨しなければならない。「神の本体」である三位一体の神とは、一言でいえば「天の真の父母」である。「神の本体」の実体がアダムとエバ、イエスと聖霊、そして真の父母である。神を「天の真の父母」と捉える。バルトが言うように、「神は人間にご自身を人間が神を親称であなた(Du)と呼びかけることができるほどに理解させたもう」(『バルト神学入門』76頁)ことによる。

バルト6 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(6)

「自然神学批判」(キリストと別のもの)

バルトはなぜ痛烈に自然神学に反対し続けるのであろうか。それはローマ・カトリックの自然と恩寵に関する教説やエーミル・ブルンナーの著作「自然と恩寵」(1934年)との対論で、すでに明らかなように自然神学を次のように拒否している。それは「自然神学においては神は、キリストの外部でも認識される、というのではなくて、むしろ〔キリストとは〕別のものとして認識されるのである」(『バルト神学入門』E・ブッシュ、新教出版社、105頁)と明言している。『教会教義学』でも「神認識は信仰の認識としてすべてのそのほかの認識と、その対象は認識する人間の生きた主であるという点で、最高に違っている」(『神論』Ⅰ/1、35頁)と述べている。このように、バルト神学が「キリスト中心主義」と言われるゆえんがここにある。

また自然神学を否定する理由は次の点にもある。『カール=バルト』(清水書院)の著者、大島末男氏はそのことに関して次のように述べている。

「世界と人間の『あるべき姿』(本質)が歪められていない理想的な時代には、自然神学は力をもつ。カトリック教会の自然神学と新プロテスタント教会の自由神学は、人間の善意や正義が悪の力から保護されている理想的な条件の下でのみ成立する。つまり現実の罪に目を覆い、理想的な人間を前提とした上で、自然神学は意味を持つわけである。しかし邪悪がはびこり、世界と人間の『あるべき姿』が無惨にも打ち砕かれる時代には、自然神学は空虚となり、無意味となる。ところが真の福音とは、自然神学を無意味にした悪の力を克服する神の根源的な力である。この福音に基づくバルト神学は、悪の力を克服する神の根源的な働きに根差す根源的な思考である」(53頁)。

 

上述の文言にあるごとく、自然神学が「罪に目を覆い」、悪の軍門に容易に降り、悪の力に迎合するとバルトが言うのは、自然神学を肯定するゴーガルテンやヒルシュらがナチスに迎合したからである。そのことに関して次のごとく述べている。

「ゴーガルテンは、・・・神の律法とドイツ国民の法律の同一性を主張して、ナチスとキリスト教の総合を試みたのであった。これらは、キリストを抜きにして、人間の理性だけに頼る自然神学が、悪魔の働きに対して、如何に無力であるかを示す好い例である」(『カール=バルト』大島末男、清水書院、50頁)。

 

*「啓示理解の問題と、ドイツ・キリスト者が主張した啓示の第二の起源による補完の問題と《創造》という神の秘密と《人種、血統、土地、氏族、国家、などについての人間の理論》との混同の問題が話題となった」(『カール・バルトの生涯』、E・ブッシュ、341頁)。

ところで、なぜヒットラーがこれらの概念を強調したのであろうか。神の摂理から見た見解は!

バルトは世界大戦を神学問題と捉えたが、彼のキリスト論が人種や血統という概念を啓示(サタン側の先行)として捉えることができず、神と人間を結ぶ絆は、地縁=血縁ではなく、キリストの出来事に基づくというのである。しかし、統一原理では、三位一体の神の本質とは、キリストに「接ぎ木」(血統転換)されて新生することであると捉えている。

聖書には血統から見たイエスの系図がある(マタイ1・12~16)。

 

また、大島末男氏にようと、バルトは同じ論法(キリスト論的集中)でブルンナーを次のごとく批判するという。

「神を認識する能力が生得のものであるとすれば、彼の立場は、キリストを抜きにしても神を認識することができると主張する自然神学に陥る危険性を孕む」(『カール=バルト』、大島末男、清水書院、48頁)と。

さらに、「ブルンナーは人間学的な基礎を神学に提供していることになり、自然神学に逆戻りしている」(同上)というのである。

 

*「あまりにも有名になったバルトとブルンナーの論争は、・・・1934年、もともと弁証学に関心をもつブルンナーは、人間の理性的本質は罪によって実質的には歪められているとしても、神の啓示を受け容れる形式的な可能性をもつと主張した。ブルンナーは、神の呼びかけに応答する形式的な可能性を、人間は自己固有の本質としてもっていると主張したのである。これに対してバルトは、神の呼びかけに応答する能力でさえ、人間に生得のものではなく、神の啓示と聖霊の働きによって新しく創造されるものであると主張したのである。ここにブルンナーの本質主義の立場とバルトの出来事の立場の相違が明確に示されているのである」(『カール=バルト』大島末男著、清水書院、47頁)。

 

確かに、キリストを抜きにして罪を清算し神と和解することはあり得ない。また再臨による完全な救い、完全な神認識による「完全な人間」(真の人間)となり、天国へ入籍することも出来ないであろう。ところでバルトは和解を強調するが、再臨による完全な神認識が抜けているのではないか。

その抜けている完全な神認識とは何か。完全な神はイエス様のごとく独身男性なのか。なぜ、神は女性を創造されたのか。バルト神学では、本来的な男性と女性の関係や家庭に関する原理が語られていない。イエス様が結婚し、家庭を持ち、子供をもうけられなかったので福音書に家庭に関する御言がないのである。

 

*旧約時代のノア、アブラハム、モーセ、そして預言者たちが神の声を聴き、神に応答し、神の存在を認識していた。十字架による和解以前の12使徒も神に応答しキリストに従っていたことは事実である。ペテロは地上のイエスをキリストであると信じた。バルトは神認識は和解によるというが、旧約聖書における摂理的人物の神の呼びかけに応答している能力をどのように考えるのであろうか。

バルト5 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(5)

「告白教会の出発」(「第二次世界大戦」)

1932年、ドイツ総選挙でナチスが第一党となった。33年に、ヒットラーは「帝国教会」(愛国者の集い)を成立させ、それによってナチスの言いなりになる「ドイツ・キリスト者」運動を起こし、民族主義的イデオロギーを教会の形成に適用した。

だがバルトはこれに反対し、バルメンでの改革派会議で「告白教会」の運動を起こした。彼らは「神のほか何ものも神としてはならない」(モーセの第一戒)の旗印の下に団結した。これはドイツ福音主義教会のルター派、合同派、改革派が一緒になって信仰告白する運動となり、1934年5月末の会議で、バルトが起草した宣言が採択された。これが、すなわち「バルメン宣言」であり、キリスト者の精神的な支柱となった(ドイツ教会闘争)。この第一戒の神とは、言うまでもなく、イエス・キリストのみに立つということである。

 

*「ヒトラーがアンチ・クリストであったのは、同時にアンチ・ユダヤだったからである。バルトは『反ユダヤは反キリスト』であり、これは神学的問題であると述べている」(『カール・バルトと現代』E・ブッシュ、109頁)。

*ヒットラーが悪魔的な考えをしている。

「ヒットラーはユダヤ人こそ当然虐殺されるべきであると信じていた。というのは、独裁者は、究極的な権威をもつことを主張するが、ユダヤ人がいるかぎり、独裁者をも審く生ける神を証ししつづけるからである(神が実在することの最善の証明は、ユダヤ人の実在そのものである、とバルトはのべたことがある)。ヒットラーのユダヤ人迫害に、神に対する宣戦布告を読みとった。そしてヒットラーのユダヤ人迫害は、必ず教会の迫害にまで進むことを予告した」(『現代キリスト教神学入門』W.E.ホーダーン、204頁、日本基督教団出版局)。

 

「キリスト教の教理の哲学的ないし人間学的根拠づけと解明といった最後の残滓から神学を解放することによって確立された『キリスト論的集中』というバルト神学の深化は、教会闘争において神学的支柱となったが、その神学的厳密化は、自然神学の拒否であった」(『カール・バルトと現代』ブッシュ教授をむかえて、小川圭治編、97頁)と述べている。

そして「それは単なるドイツ的キリスト者に対する一過性的な、教会政治的なリアクションであったのではなく、DC(ドイツ・キリスト者)の背後に立って現われていたヒトラーとナチズムそのものに対する真の決定的な対決としての政治的態度決定であった」(同上、97頁)のである。

なぜバルトは自然神学を拒否するのであろうか。そのことに関しては後に論述する。

 

*1931年5月1日に彼はドイツ社会民主党に入党した。改めて社会民主党と連携することによってその態度を示した。「『社会主義の理念と世界観に対する信仰告白』としてではなく、『実際的な政治的決断』だと考えた」(『カール・バルトの生涯』E・ブッシュ、新教出版社、309頁)。

 

当時、ドイツの暴君と対決することを余儀なくされたバルト、ボンヘッファー、ブルトマン、ティリッヒ等は、あのナチスの横暴と残虐さの前で、それぞれ自分が最善と信ずる道を選びとって、誠実にキリスト者としての道を生き抜いた(ボンヘッファーはヒットラー暗殺に荷担した罪で獄中で死す)。

バルト4 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(4)

「知解を求める信仰」(神認識)

バルトは25年にミュンスター大学、30年にボン大学へ移っていく。31年にはバルト自身が最も愛する『知解を求める信仰――アンセルムスの神の存在証明』を出版する。

「神ハナゼ人間トナラレタカ」(著作集8『知解を求める信仰』、新教出版社、12頁)と問題を提起し、「本質からして、信仰は知解ヲ求メル信仰である」(同上、21頁)という。アンセルムスの定式で言えば、「神学とは、信仰が信じていることを理解しようとする企てである」(『バルト神学入門』E・ブッシュ、新教出版社、70頁)ということである。

言い換えると、「信仰とは、『キリストの言葉』あるいは教会の『信条』(信仰告白)の『知解と肯定』のことだ」(『カール・バルトの生涯』E・ブッシュ、294頁)と定義し、神学に課せられた知解の課題は、「すでに語られ、すでに肯定された信条を追・思考すること」(同上)であるというのである。

 

以上のように、アンセルムス書でバルトは、古典的な神の存在論的証明に対して、神の「啓示の出来事」から「神の存在」と「神の本質」を導き出す方法を樹立する。それまでのバルトは、神は絶対的な行為の主体であって、決して客体的な知識の対象とはなり得なかった。『ローマ書』では、キルケゴールの言葉として次のように語っていた。

「キリストが真の神であるなら、彼は、不可知的でなければならない。直接的可知性はまさに偶像の特徴である」(著作集14『ローマ書』、新教出版社、48頁)。

しかし、新しいバルトは、神はイエス・キリストにおいて自己を対象として人間に認識可能なものとして与えるという立場に移行していくのである。すなわち神認識はキリストを抜きにしてあり得ないというのである。この釈義が、キリスト教を人間学的、哲学的に説明することから解放し、同時に神認識に関する形而上学的枠組みを解体していくことになるのである。そして後に、『教会教義学』として結晶するバルト固有の神学方法論を確立させていくことになるのである。

このようにバルトは教義学において、はじめてキルケゴールを越えて、イエス・キリストを中心に置く道に立ったのである。

 

ところで神が存在するなら、如何にして認識できるのか。またどの程度まで認識できるのか。その神とはいかなるお方なのか、ということについてくり返し教会は弁明しなければならないとバルトは次のようにいう。

「どの程度まで〔どのような事情のもとで〕神は認識されるのか、またどの程度まで神は認識可能であるのか」(『教会教義学』、『神論』Ⅰ/1、神の認識 新教出版社 4頁)と。

バルトによると、キリストを抜きにして神を認識することができない、神を知るには聖書による以外に方法がない、ということである。

人間が罪によって本質構造が歪められている以上、神を正しく知り得ない。神が存在することは、神自身が啓示する以外に知る方法がない、とバルトは次のように述べている。

「ただ神がご自身を〔そこでの〕対象として措定し給う間にだけ、人間は神を認識するものとして措定されている」(同上、『神論』Ⅰ/1、37頁)。

 

人間の宗教的主観の投影が虚像であって、実体がないものであるなら、真の神認識はどのようにして可能なのかという問いをバルトは繰り返し主張する。このことに関して、大木英夫氏は次のように述べている。

「神認識とは、対象化されない神がみずからを対象化することによって、人間の前に立ち、そして人間がそのことによって神の前に立つという対向関係の成立を前提として成り立つものであって、神認識の存在根拠と認識根拠とは、この神の自己対象化の中にある」(『バルト』大木英夫著、講談社、228~229頁)。

 

この神の自己対象化、すなわちイエス・キリストによって、われわれは、そこでのみ、神を認識の対象として知り得るというのである。従って、バルトは神認識において不可知論者ではない。注③

このようにバルトは、人間の理性に根拠をおく古典的な神の存在論的証明を否定し、「啓示」に根拠をおき、古い存在論を解体して、再びそれを構築しようとするのである。

 

以上のように、アンセルムスに取り組んで以後、人間が神を認識し得るための神と人間との対応、つまり類比という概念が、バルト自身の認識方法を特徴づけるものとなったのである(『カール・バルトの生涯』エーバーハルト・ブッシュ、307頁 参照)。

 

*バルトによる神認識とは、人間の側からではない。神の側から、神の呼びかけに対してわれわれの応答を生起させる出来事(「和解」)に基き、初めて神と人間の間に関係が造成されるというのである。それは上よりの一方的な恵みなのである。その関係は「信仰」による関係で造成されるので「信仰ノ類比」あるいは「関係ノ類比」と言われるのである。そして人間の理性の働きが「キリストの出来事」に呼応するとき、神学は学として成立して、神の存在論的証明も可能となるというのである。したがって「信仰が認識に先行する」ということなのである。このように、神認識に関して、啓示(和解)から、神の存在論的証明の具体的可能性が説かれるのである。

注③  バルトは、神についての不可知論者ではい。ヨハネ福音書一四章九節の『わたしを見た者は、父を見たのである』という言葉が示すよう、イエス・キリストにおいて神を認識するのである」(『バルト』大木英夫著、講談社、230頁)。

 

バルト3 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(3)

「弁証法神学」

『ローマ書』出版の二年後、バルトはゲッティンゲン大学に招かれ、神学部で教鞭を執るようになる。そしてこのころ、フリードリヒ・ゴーガルテン(Friedrich Gogarten)、エドゥアルト・トゥールナイゼン(Eduard Thurneysen)らと雑誌『時の間』を刊行し、近代プロテスタント主義に対する抗議をし、時代に警鐘を鳴らす。

そこにルドルフ・ブルトマン(Rudolf Bultmann)、エーミル・ブルンナー(Emil Brunner)らも参加し、これが「弁証法神学」と呼ばれる一つの大きな潮流となっていくのである(注②)。

「弁証法神学」というのは、これらの人々がキルケゴールの影響の下に、「時間と永遠」との無限の質的な断絶を強調したことによる。「この神学はそれ以前の神学的方向づけ、すなわち、リベラルな神学にもそれに反対する保守的な神学にも、対立した。『弁証法神学』という名称は解消不可能な対立関係において思考する彼らの思惟のスタイルに由来する」(『バルト神学入門』、エーバハルト・ブッシュ、新教出版社、15頁)。

またこの流れは「危機の神学」とも呼ばれた。それは有限で罪深い人間にとって、超越的かつ神聖なる神が「危機」であり、審判者であるからである。

バルトは近代神学について「ただ人間の精神や心や良心や内面性だけを問題にする人は、本当に神を問題にしているのか、人間の神化を問題にしているのではないか」(著作集4、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』、153頁)と批判する。そして神学はずっと以前から人間学になってしまっていると言うのである。

 

*近代合理主義はキリスト教と科学的合理性との調和を目指す理神論を生み出し、批判精神と実証的な歴史研究にもとづく自由主義神学は、聖書や教会の歴史的批評的研究を進めていった。またそこから「史的イエス」の研究も進展していく。このようなプロテスタント教会に対して、カトリック教会は二十世紀に至るまで反近代主義をつらぬき伝統主義を強化した。

*「一九世紀の神学の根底を批判的に綿密に精査すると共に、教理自体の基盤に基づいて、また、教理それ自体の内的で客観的な論理により、キリスト教の根本的な教理を実証的に再考察することであった・・・彼が攻撃しなければならなかった神学は、哲学と文学と音楽、そして輝かしいヨーロッパ文化のあらゆる精神科学における、現在ヨーロッパの最大の知的業績に関する思考と見解とに、からみついていたからである。したがって彼は、あら探しの断片的批判によってではなく、根本的アプローチによって、そのすべてと格闘しなければならなかった」(『バルト初期神学の展開』T.F.トーランス 新教出版社、75頁)。

 

「フォイエルバッハ論」

周知のように、フォイエルバッハは「神の本質とは人間の本質である」(「キリスト教の本質」1841年)と批判し、「人間の本質」を肯定するために、神学と宗教の幻想的投影を否定した。バルトはこの転倒した命題は、シュライエルマッハーやリッチュルやヘルマンおよびその時代の人々に対する帰結であるといい、「神と人間を同一視する神学」をやめない限り、「フォイエルバッハを批判する理由は、われわれにはない」(著作集4、158頁)という。そしてフォイエルバッハの学説に対して次のように反撃した。

「もしフォイエルバッハが、われわれ人間は頭から足の裏まで悪い者だということを知っている者であり、われわれは死ななければならないということを思う者であれば、神の本質は人間の本質だなどということが、あらゆる幻想中最も幻想的な幻想だということを認識したであろう」(同上、著作集4、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』、新教出版社、157頁)。

そしてバルトは、「神との関係が転倒不可能なものだという事実が、われわれにとって絶対的・徹底的に確立されないかぎりは、この点について沈着に達することはないであろう」(同上、151頁)と述べている。このようにバルト神学は、近代世俗主義の持つ無神論と根本的に対決したのである。

そしてこのような「無神論」を生み出した「有神論」とバルトは対決したのである。

このことに関してエーバハルト・ブッシュは、「カール・バルトの現代的意義」と題する講演で、次のように述べている。

「無神論的世俗主義との対決を決定的に遂行するためには、無神論があの帰結を引き出した有神論の前提そのものとの対決という形をとらなければならないというのです。なぜなら、バルトにとっては、事実このような前提―すなわち絶対者としての神、人間に対抗する抽象的な対立概念(Gegenbegriff)としての神―は、神がまったく存在しない場合よりはるかに大きな害悪なのです」(『カール・バルトと現代』ひとつの出会い―E・ブッシュ教授をむかえて、新教出版社19頁)。

 

さらに、有神論の神観念は神と無関係であり、それによって「人間は神を見失うだけではなく、同時に自分自身をも見失う」(同上、20頁)と述べている。

 

つまり「神は本来他者であり、まさに絶対的存在であることを承認したとしても、いずれの場合にも、神はまさに『人間が立ち現れる余地のない高み』だと考えられているのです」(同上、19頁)というのである。そしてこのような既存神学の絶対者という観念は「堕罪した人間の産物」であるといい、イエス・キリストと出会う神こそ「真の神」であると次のように述べている。

 

「人間が天に投影したものは、L・フォイエルバッハが考えたように、人間の真の本質ではなく」(同上20頁)「自己自身だけで生き、自己自身であろうと欲する絶対的存在の観念の全体は、それ自体、人間がそれによって神からだけでなく、人間自身から疎外される堕罪の人間の基本的産物なのです」(同上、20頁)。「有神論も無神論も、同じ害悪のもとに苦しんでいるのであり、共にそこから救出されるべきなのです。ここで私は、聖書によってイエス・キリストにおいてわれわれに出会い給う真の神のみが人類を神と自己自身からの疎外から解放し給うというバルト神学の基礎事実に背後から接近しているのです」(同上、20頁)。

 

以上のように、バルトは無神論を生み出した有神論を厳しく批判する。既存神学の絶対者という観念は、神からだけでなく、人間自身からも疎外された「堕罪した人間の産物である」と述べ、有神論の神観念は神と無関係であり、それによって「人間は神を見失うだけでなく、同時に自分自身を見失う」というのである。その結果、「有神論も無神論も同じ害悪のもとに苦しんでいるのであり、共にそこから救出されるべきなのである」と述べ、

イエス・キリストと出会う神こそ「真の神である」というのである。すなわち神認識はキリストを抜きにしてあり得ないというのである。

そして、このような認識の下で、バルトによる神認識は、神の側から和解に基づく「信仰の類比」へと発展していくのである。

 

*「真の神」、「完全な神認識」は再臨のメシヤを抜きにしてあり得ない。

*「わたしたちの知るところは一部分であり、予言するところも一部分にすぎない。全きものが来るときには、部分的なものはすたれる。」(コリントⅠ、13・9~10)

 

注②  『二十世紀神学の形成者たち』(笠井恵二著、新教出版社、57頁)。

バルト2 キリスト中心主義(一切の人間学的要素の排除)(2)

『ローマ書』(初期バルトの神学思想)

彼は1919年に『ローマ書』を出版する。程なくしてもう一度、まったく新しく書き改める(『ローマ書』第二版、1922年)。この本は各界に大きな衝撃を与えた。バルトは19世紀の人間中心的な近代プロテスタント主義(自由主義神学)、特にその理性による「自然神学」を痛烈に批判し、神学を再び神の言葉から出発させ、啓示の絶対性を主張した。『ローマ書』の基本的命題は、神とは誰か、あるいは何かを、パウロと共に理解しようとするところにある。

この姿勢は、ルター、カルヴァン等の宗教改革者の信仰を回復し、パウロの教えに帰ろうとするところにある。バルトにとって『ローマ書』はパウロの言葉を通して語りかける神の言葉なのである。

 

『ローマ書』でバルトは、「人間と、人間を基礎づける窮極者との間のあの質的な距離が看過され無視される場合には、必ず庶物崇拝が発生する。この庶物崇拝は《鳥や四つ足や虫》の中に、また最後に、否、最初に《滅びる人間の姿》(『人格』や『幼児』や『女性』)の中に、またその人間の精神的かつ物質的な創造物や建造物や表現物(家族や民族や国家や教会や祖国等々)の中に、神を体験し、―そしてあらゆる現世的事物の彼岸に住み給う神を見棄てるのである。かくして神ならぬ神が打ち立てられる。かくして偶像神が打ち立てられる。《それゆえに神は彼らを見棄て給うた。》・・・真の神を忘れるということは、それ自身が既に神を忘れる者に対する神の怒りの発現である(1・18)」(著作集14『ローマ書』、新教出版社、62頁)と述べている。

つまり、私たちが神として説明したものは偶像の一つであると警告しているのである。そして「ナザレのイエスの中にキリストを見出したということは、神の信実を告げる一切の告知がまさにイエスにおいてわれわれと邂逅した」(同上、114頁)と述べ、「イエスが律法と予言者たちとによって証しせられた神の信実を伝える窮極の言葉であり、すべてのほかの言葉を解明してその意味を最も明確に表現している言葉であるということによって、実証せられる」(同上、115頁)と述べている。

バルトは、「パウロはローマ書の中で本当にイエス・キリストのことを語ったのであり、それ以外の何かについて語ったのではない」(著作集14『ローマ書』、新教出版社、13頁)と述べている。

 

当時の歴史的批評主義からすれば、このような『ローマ書』は学問的な釈義などと言えたものではなく、それはバルトの独断論であると思われた。だが、バルトはハルナックに代表される近代神学(自由主義神学)の「歴史的・批評的方法」に対して、それらの学問が聖書の記述の事実性を確定する上で不可欠であることを認めるが、聖書の理解や解明、すなわち釈義そのものではないと真っ向から反論した。

『ローマ書』の解題には、少し意訳したが、次のように論述されている。

「彼が歴史的批評を認めるのは、あくまでも聖書の記述する事実の確定という聖書釈義の予備的段階にすぎないのであり、これが釈義そのものであることを要求するなら、それは拒否されねばならない。聖書をひとつの人間的・歴史的な文書として取り扱う歴史的批評学には、本質的な限界性がある。このようなものは釈義学上の素材に過ぎず、決して聖書の理解や解明と称し得べくもない」(『ローマ書』、解説 656頁 参照)というのである。

これに比べて、「聖書の一語一語を神の言葉とする霊感説は、聖書の人間的文書たる面を無視するという重大な欠陥をもつものの、釈義の真義を捉えている点、バルトはむしろこのほうに一層の親近性を感じる」(同上、参照)と。

 

しかし、彼の釈義的態度は、自由主義神学でも正統主義神学でもない。そのいずれをも排し、同時に、そのいずれをも採る立場であって、「『テキストからザッヘ(Sache)そのものへ』をその釈義学的方法とする」(『ローマ書』、解説、656頁)のである。彼の常用語であるザッヘとは、「外殻であるテキストの言葉ではなくて、そこにある核心的な事実、すなわち言いかえれば、人間の言葉である聖書の証言ではなくて、それが証言するところの神的事実そのもの、という意味である」(同上、解説、656頁)というのである。

バルトの神学はこのザッヘ(Sache 事柄)との関連性において考察せねばならない。すなわちイエス・キリストにおいて和解した神と人間の関係、言い換えると、人間を否定することによって肯定する神と、この神による人間の救いの福音なのである。彼はこのような釈義を『神学的釈義』(われ信ず)と名づけ、これこそはルターやカルヴァンの釈義であるとする。