Archive for 2月 4th, 2014

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(19)

(5)「キリスト論的教理の発展における危険と決定」

 

a. 「神性と人性」

 

ティリッヒは「キリスト論」について、常にイエスの〝キリスト性〟の否定と、〝イエス性〟の否定という二つの危険性があることを、次のように指摘する。再臨主に関しても同様である。

 

「キリスト論的発言を脅かす二つの危険性が、イエスはキリストであるとの主張の直接的結果としてでてくる。この主張を概念的に解釈しようとする試みは、現実的には、キリストとしてのイエスのキリスト性の否定となったり、あるいはまた、キリストとしてのイエスのイエス性の否定となったりする。キリスト論は、常にこの二つの大きな谷間にはさまれた尾根の上を歩まねばならず、決して完全に成功しえないことを知らねばならない。というのは、それは神的神秘に触れる問題であり、神的神秘はその顕現のなかにおいてさえどこまでも神秘にとどまるからである。

伝統的用語では、この問題はイエスにおける神性と人性の関係として論ぜられた。人性の減少は、実存の諸制約へのキリストの全的関与性を奪い去るであろう。また、神性の減少は実存的疎外へのキリストの全的勝利を奪い去るであろう。いずれの場合も、かれは新しき存在の創造ではありえないであろう。かれの存在は新しき存在以下になるであろう。したがって問題は、完全な人性と完全な神性との一体性をいかに考えるべきかにあった。………

キリストにおける神人両性の教説は正しい問題を提出しているが、誤った概念的手段を使用している。その根本的な不適切性は、神または人の「性」(nature)の概念にある。この概念は、それが人間に適用されると両義的であり、神に適用されると誤りである。これが、ニケア会議やカルケドン会議などの諸会議の実質的真理と歴史的意義にもかかわらず、その不可避的最終的失敗の理由を説明する。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、181-182頁。注:太字は筆者による)

 

b. 「二種類の人間」(「真の人」と「堕落人間」)

 

原理的に考察すると、「完全な人性と完全な神性との一体性をいかに考えるべきか」に関して、神と人間の関係には「本然の人間」(真の人)と「堕落人間」という二種類の人間観があるという点が、解決の着眼点であるといえよう。父と子との間にいかなる相違があるというのであろうか。本来、神と人間は〝親子の関係〟であり、親子という以外に「神」と「真の人」(本然の人間)の間に相違はない。

 

人間の精神には原罪と堕落性がある。したがって、神性と人性は一つになりえない。しかし、「本然の人間」(真の人)である「イエス」(ティリッヒがいう「新しき存在」)には原罪も堕落性もない。

キリストは、本質的に神人一体化した「真の人」(完全な者)である。したがって、イエスにおいて神性と人性が一つになっているのである。

 

ただし、イエスにおける両性の一致は生れながらであり、また原罪がないので、イエスの人性は堕落人間の人性ではないのである。イエスは神の体である。神とイエスとの関係は、心と体との関係にたとえられる。ロゴスが実体として定着した完成人間である。神と人との仲保者である。

 

統一原理は、堕落人間がキリストによって新しき存在に再創造(重生)されれば、キリストの形象に似て「完全な者」(マタイ5・48)になり得ると説いている。

 

統一原理は、「キリスト論」で次のように述べている。

 

「イエスを神であると信じる信仰に対しては異議がない。なぜなら、完成した人間が神と一体であるということは事実だからである。また原理が、イエスに対して、彼は創造目的を完成した一人の人間(真の人)であると主張したとしても、彼の価値を決して少しも下げるものではない。ただ、創造原理は、完成された創造本然の人間の価値を、イエスの価値と同等の立場に引きあげるだけである」(『原理講論』257頁)

 

以上が、神性と人性の一体性についての問いに対する原理的な答えである。ただし、統一原理は、賢明にも誤解を招くような〝神性〟と〝人性〟という概念を用いていない。

 

ティリッヒは、これらの問題に関して次のように述べている。

 

「教会の死活問題としてアタナシウスによって守られたニケア会議の決定は、啓示と救済に関するキリストの神的力の否定を許し難いものにした。ニケア論争の用語では、キリストの力は神の自己顕現の原理としてのロゴスの神的力である。ここから、ロゴスはその神的力において父と同等であるか、それ以下であるかの問題が起こる。もし第一の答えが与えられると、サベリウス的異端におけるように父と子との区別が消滅してしまうようにみえる。もし第二の答えが与えられるならば、アリウス的異端におけるように、ロゴスはたとえそれが一切の被造物のうち最大のものと呼ばれてもなおやはり一個の被造物であり、したがって被造物を救うことができないことになる。真に神である神のみが新しき存在を創造することができるのであり、半神にそれはできない。この思想を表現すべきものが、“homo‐ousios”(同一本質の〔同じ存在の力の〕)の語であった。しかしその場合でもなお半アリウス派はさらに問いを発することができた――では、父と子との間にいかなる相違がありうるか、地上のイエスの形象は全く理解不可能とならないであろうか、と。この問いに対してアタナシウスや多くのかれの親しい追従者たち(例、マルケルス)は答えに(きゅう)した。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、182頁。注:太字は筆者による)

 

アタナシウスは神とイエスは同質(同一本質“homo‐ousios”)であると主張した。

しかし、イエスが神であるなら、ティリッヒは「地上のイエスの形象は全く理解不可能とならないであろうか」と述べている。一例をあげると、「荒野を40日のあいだ御霊(みたま)にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた」(ルカ4・2)と記述されているが、イエスが神御自身であるならば、神がサタンから試練を受けることなどは理解不可能である(『原理講論』260頁を参照)。したがって、「父と子との間にいかなる相違がありうるか」という問題が生じる。

 

それゆえに、「答えに窮した」とあるが、われわれは「なぜ窮したのか」と問わなければならない。このように、イエスの人性と神性に関してどのように捉えるかで論争が続いたのである。

 

「本然の人間」(新しき存在=無原罪のイエス)の人性は原罪のある「堕落人間」の人性(「人間精神」)と相違する。「本然の人間」(真の人)の神性と人性の一体化は半神的神ではない。イエスは神人一体化した完全な人間である。

 

イエスと人間の本質的相違は原罪があるか、ないかである。統一原理は、「創造目的を完成した人間とイエス」の間には差異がないと述べている。

 

c. 「キリスト論と三位一体論との関係」

 

次の本文は「三位一体論」に関するものである。

 

「ニケア会議の決定は、たとえそれが三位一体論的教理にも基本的貢献をしたにしても、やはりキリスト論に根ざすものである。同様に、コンスタンティノポリス会議(三八一年)におけるニケア信条の再主張と拡大は、たとえそれがロゴスの神性に聖霊の神聖を付加したとはいえ、やはりキリスト論的発言であった。もしキリストとしてのイエスの存在が新しき存在であるならば、かれをしてキリストたらしめるものは人間イエスの人間的精神ではなく、ロゴスと同様な神におとらぬ神的精神でなければならない。………ただここで言えることは、三位一体的象徴は、もしそれがそれの根ざす二つの経験――生ける神の経験と、キリストにおける新しき存在の経験――から切り離されるならば、所詮(しょせん)は空虚なものとなってしまうということである。アウグスティヌスもルターも、この事情を感じていた。アウグスティヌスは、三位一体における三つのペルソナ(現代語における人格の意味ではない)はいかなる内容をも持たず、『特定の何かを言うためではなく、沈黙のままでいないために』用いられたものであることを知っていた。事実、『生まれない』、『永遠に生まれ』『………より出て』などの用語は、たとえそれが象徴と解する――象徴にちがいないが――としても、何ら象徴的表象として有意味なものを示さない。ルターは、『三位一体』のような語を奇妙な笑うべき語と考えたが、しかし他の場合と同様にこの場合にも、より良い語がないことを知っていた。かれは三位一体的思想の二つの実存的な根を知っていたから、三位一体的弁証法を無意味な数の遊戯とみなす神学を(しりぞ)けた。三位一体論的教理はキリスト論的教理の補強的部分であり、ニケア信条の決定は〔空虚な三位一体論的思弁のためのものではなく〕キリスト教を半神的神の儀礼への逆転から救った。それはキリストとしてのイエスから新しき存在の創造力を奪う恐れある解釈を斥けた。」(同、183頁。注:太字は筆者による)

 

このように「初期教会の二大決定によって、キリストとしてのイエスの事件のキリスト的性格とイエス的性格との両方が保存された」のである。

ティリッヒは、「ルターは、『三位一体』のような語を奇妙な笑うべき語と考えた」と述べている。「人格」(ペルソナ)という語は、独立した個人の人格を意味する。そうすると、三位一体における三つのペルソナは〝三人の神〟がいることになり、「唯一の神」と矛盾することになる。それで、現代語の〝人格〟の意味ではないと解説しているのである。つまり、「数の遊戯(ゆうぎ)」ではないと言って誤魔化(ごまか)しているのである。

 

文鮮明師は、次のように語っておられる。

 

「神様が二性性相の主体であられるように、神様が自分の二性性相を展開し、神様の形状どおり万宇宙を造り、人間を造ったのです。アダムは神様の男性的性稟(せいひん)を展開させたものであり、エバは神様の女性的性稟を展開させたものなのです。このように見るとき、私たち一般人が普通『天のお父様!』と言うのは、お一人ですからそのように言うのでしょうが、そのお一人という概念の中に『天のお父様、お母様』という概念が入っているというのです。」(八大教材・教本『天聖經』「成約人への道」1421頁)

 

「神様が二性性相(男性的性稟と女性的性稟)の主体であられる」という存在論から見た神観と、「天のお父様!」と言うのは、「お一人という概念の中に『天のお父様、お母様』という概念が入っている」という説明によって、「唯一の神」と「三位一体の神」の矛盾の問題が存在論の観点から解決するのである。

 

すなわち、「唯一の神」(神様が二性性相<男性的性稟と女性的性稟>の主体であられる)と「三位一体の神」(「神-アダム-エバ」あるいは「神-イエス―聖霊」と「神を中心とした真の父母」)が存在論的に類比の関係にあるという観点から同一であると言えるのである。

ただし、「唯一の神」は無形であるが、「三位一体の神」は無形なる神が有形なる「アダムとエバ」あるいは「イエスと聖霊」、そして「真の父母」として顕現したという相違がある。

 

統一原理(文鮮明師の神学思想)は、三位一体論を信仰からではなく普遍的な存在論から論じているのである。

 

(6)「現代神学のキリスト論的課題」

 

以上のごとく、ティリッヒはキリスト論的実質を表現しうる「新しい形式」を見出す試みをしなければならないという。そして、新しき存在である一人間の形象、実存的疎外を克服しうる一人間の形象とは、神が独特の仕方でそこに顕現している一人間の形象であるという。

これは、統一原理のキリスト論の思想それ自体であるといえよう。

 

原理的に言えば、「神が独特の仕方でそこに顕現している一人間の形象」とは、生まれながらにして無原罪のイエスの形象のことである。

人間がメシヤに「接ぎ木」されて原罪を清算し、堕落性を脱ぐなら、個性完成したイエスと同じ価値をもつ存在になり、「神が独特の仕方でそこに顕現」するようになるというのである。

 

キリストの形象に似ること、これが救いの目標である。神から見た歴史の目標は、ただ一人のメシヤ(キリスト)をこの地上に送ることにあるのである。

 

ティリッヒは、「『ロゴスが肉となった』というヨハネ的発言に従うべきであろう。『ロゴス』は、神と宇宙における、また自然と歴史における神の自己権限の原理である」という。

神が、どのような原理によって歴史の中にキリストとしてのイエスとして顕現したのであろうか。それを具体的に解明したのが、統一原理の「復帰原理」である。

 

ところで、われわれと同じ人間マリヤから生まれたイエスが、なぜ無原罪であるのかという問題がある。これは誰にも解けないミステリーである。

聖なる処女マリヤから生まれたからというが、なぜ「聖なる処女」といわれるのか、その根拠を示していない。〝胎中聖別〟はタマルの腹中での双子(長子ゼラと次子ペレヅ)の闘いで、次子が長子として出てきたことと関係があるのであるが(創世記38・28-30)、このようなことが、なぜ旧約聖書に記述されているのか、これは「統一原理」の堕落論が分からなければ解けない問題である。

 

また、〝聖霊〟によって生まれたからというが、洗礼ヨハネもそうである。彼が胎内にいる時、母エリサベツも聖霊に満たされていた(ルカ1・15、同1・41)。洗礼ヨハネも無原罪のキリストになるのであろうか。そうではない。

 

文鮮明師は、これらの謎を八大教材・教本『天聖経』の「罪と蕩減復帰」と『祝福家庭と理想天国』(1)に掲載されている「救援摂理史の原理観」の中で、イエスの無原罪の問題を解明されている。

 

a. 「過去のキリスト論はすべて不適切」

 

過去のキリスト論は、プロテスタント教会が現代果たさなければならないキリスト論的課題に不適切であると、ティリッヒは次のように述べている。

 

「『カトリック的』な伝統が初期教会の二大決定(ニケア、およびカルケドン)の実質に基づいているかぎり、プロテスタント神学もそれを受容しなければならない。しかしプロテスタント神学はさらにそれを越えて、過去のキリスト論的実質を表現しうる新しい形式を見出す試みをしなければならない。………それは、過去数世紀のプロテスタント神学における正統主義的キリスト論に対しても、また自由主義的キリスト論に対しても批判的態度をとることを意味する。プロテスタント正統主義の発展は、その古典的時期においても、またその後の再定形化においても、キリスト論的問題の古典的用語による理解可能な解決が不可能であることを示した。神学的自由主義は、その歴史的批判的研究(例、ハルナックの『教理史』)によって、神人両性説によるキリスト論的問題解決の試みがすべて不可避的に矛盾と不条理に追いこまれることを示した点で功績がある。しかし、自由主義自体は体系的な面でキリスト論に大した貢献をしなかった。自由主義は『イエスはイエスによって伝えられた福音に属しない』ことを主張することによって、キリスト・イエスの事件のキリスト的性格を排除した。アルベルト・シュヴァイツェルのような、イエスの使信(ししん)の終末観的性格、またその終末観的図式の中心人物としてのイエスの自己理解、を力説する歴史家たちでさえ、その終末観的要素をかれら自身のキリスト論に使用しなかった。かれらはそれを黙示文学的脱自(だつじ)から生じた奇妙な空想的合成として削除した。事件のキリスト的性格がイエス的性格のなかに吸収された。しかし自由主義神学をアリウス主義と同一視することは公平ではない。そのイエス形象は半神的イエス形象ではない。むしろそれは神が独特の仕方でそこに顕現している一人間の形象である。しかしそれはその存在が新しき存在である一人間の形象、実存的疎外を克服しうる一人間の形象ではない。プロテスタント神学の正統主義的方法も自由主義的方法も共に、プロテスタント教会が現代果たさなければならないキリスト論的課題に不適切である。」(ティリッヒ著『組織神学』2巻、185-186頁。注:太字は筆者による)

 

このように、ティリッヒは既存神学のすべてのキリスト論を不適切と言い切る。そして「キリスト論的実質を表現しうる新しい形式を見出す試みをしなければならない」というのである。

 

しかし、ティリッヒのキリスト論に対して、次のように批評されている。

「ティリッヒのキリスト論は、人間疎外とその克服という点から展開されている点に大きな特徴がある。………ティリッヒのキリスト論は、ブルトマンのそれとは違った意味において、現代におけるキリスト論の最もすぐれた実存論的解釈と言えるであろう。しかしケーラーやブルトマンの場合と同様、彼の場合にもイエスの歴史性が正当に評価されているとは必ずしも言いがたいであろう。」(『キリスト論論争史』水垣渉・小高毅編、日本キリスト教団出版局、520頁)と批評されている。

 

このように、「イエスの歴史性が正当に評価されているとは必ずしも言いがたいであろう」と言われている。周知のように、パネンベルクは「キリスト論は………何よりも、地上におけるイエスの活動と運命にその基礎をもっている」(W・パネンベルク著『キリスト論要綱』、13ページ)といい、「歴史の復権」(史的イエスの研究)を強調する。

 

これに対して、統一原理(啓示=神の御言・天的宣言)は「創造目的を完成した人間」から見た「キリスト論」である。イエスの歴史性の正当な評価に関しては、統一原理(『原理講論』)の「メシヤの降臨とその再臨の目的」や「イエスを中心とする復帰摂理」等で説かれている。シュヴァイツアーの『イエス小伝』で叙述されている十字架以前のイエスの地上の公生涯は一体何であったのか、という問いに対しても正当に答えている。

 

b. 「霊的な三位一体論と実体的な三位一体論」

 

三位一体論について、統一原理は次のように理解している。

イエスと聖霊とは、神を中心とする霊的な三位一体をつくることによって、〝霊的真の父母〟の使命を果たし、霊的新生(霊的重生(じゅうせい))の使命を果たされた。それゆえに、未だ、信徒たちは〝霊的子女〟の立場に留まっているのである。

したがって、イエスと聖霊は、神を中心とする実体的な三位一体をつくり、霊肉ともに真の父母となり、堕落人間を霊肉ともに新生(重生)させるために再臨されるのである(『原理講論』「三位一体論」、268頁を参照)。

 

このように、既存の三位一体論の形式から自由な立場で三位一体論的実質を論述している。