Archive for 2月 18th, 2014

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(21)

『組織神学』第3巻――(生と聖霊論)――

 

(一)「生、その曖昧(あいまい)性、そして曖昧ならざる生の探究」

 

この章において、ティリッヒはすべての存在を「生の過程」として捉え、この「生の過程」をティリッヒ式弁証法で論述する。

ただし、成長過程における堕落は人間のみであって、万物は完成し堕落していない。しかし、ティリッヒにはそのような区別はなく、「生」という存在概念(弁証法的構造)を人間にも万物にも適用する。

 

ティリッヒによると、「生」は無機物、有機物、そして人間精神と発展し、歴史として展開され、そして、その歴史の目標は「神の国」であり、「永遠の生命」であるという。このすべてを「生の過程」であるとし、彼は弁証法で論述するのである。

 

(A)「生の多次元的統一」

 

(1)「生――本質と実存」

 

ティリッヒによると、多くの哲学者は「生」という語を用いることを躊躇(ちゅうちょ)し、それを生物学の領域にのみ限定するが、ヨーロッパ大陸では20世紀初期に哲学の大きな学派が「生の哲学」に関心をもっていた。ニーチェ、ディルタイ、ベルグソン、ジンメル、シェラーなどである。その他、実存主義者に影響を及ぼしたというのである。

 

また、ティリッヒは「アメリカにおいては、『過程の哲学』(philosophy of process)が、ジェームスやデュイー(デューイ)の実用主義によって予兆され、ホワイトヘッドとその学派によって十分に展開された。『過程』(process)という言葉は『生』という言葉ほど曖昧ではないが、表現力においてはるかに劣っている」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、新教出版社、12頁)と述べている。

 

なぜなら、「生体と死体とは同様に『過程』に属しているけれども、しかし、死の事実においては『生』はその否定を含んでいる。『生』という語を強調して用いることは、『生まれかわった生命』(life reborn)とか『永遠の生命』(eternal life)とかいう場合のように、この否定の克服を示すのに役立つ。………生と死との両極性は常に『生』(life)という語を色づけてきた」(同、12-13頁)というのである。

 

このように、ティリッヒの「生の概念」は体系全体の基底をなしている。言い換えると、本質的なものと実存的なものの基盤である。

ティリッヒは「『生』(life)という語をこの本質的な要素と実存的な要素との『混合』(mixture)の意味に用いる」(同、13頁)と述べている。

 

以上のように、ティリッヒは「生の概念」によって、すべての存在の実存的曖昧性(疎外状況)を分析し、また、曖昧ならざる「永遠の生」を叙述しようとするのである。

 

(2)「層」という言葉について

 

事物の多様性の中の秩序に関して、ティリッヒは次のように述べている。

 

「人間は遭遇(そうぐう)する事物の多様性を、統一原理の助けをかりてのみ認識することができる………普遍的な原理の一つは、階層的秩序のそれであって、そこでは事物のあらゆる類と種とが、またそれらを通してあらゆる個物がその場所をもっている。一見して混沌(こんとん)としているように見える実在の中に秩序を発見するこの方法は、存在の等級と層とを見分ける。」(同、14頁)

 

このように、存在の等級と層によって、実在の中に階層的秩序を発見するというのである。

また、自然に階層的秩序があるように、人間社会にも単一者を頂点とする階層的秩序があるという。

 

このことに関して、ティリッヒは次のように述べている。

 

「高度の普遍性とか潜勢力(せんせいりょく)の豊かな発展とかいうような存在論的資質が特定の層に帰せられる場所を決定する。『僧職(そうしょく)職階制度』(hierarchy)――聖礼典的権力の位階(いかい)に従って配置された聖なる支配者団――という古い用語は、この種の思考をもっともよく表現している。それは地上的支配者と同様に、自然における存在の類や種、たとえば無機的なもの、有機的なもの、心理的なものにも適用され得る。この観点においては、実在はその存在の能力と価値の等級に従って垂直的に相重なる層のピラミッドとして見られている。『僧職職階制度』の意味における支配者たち(archoi)の映像はより高い層により高い資格を与えるが、その例示者の量は小さくなる。その頂点は、それが祭司であろうと、皇帝であろうと、神、すなわち一神教の神であろうと、単一者である。」(同、14-15頁)

 

「階層の原理」においては、一つの層から他の層への有機的運動は起こらない。しかし、プロテスタントの原理やデモクラシーの平等の原理は、この「階層の原理」を否定するという。

 

これらに関して、ティリッヒは次のように述べている。

 

「ニコラウス・クザーヌスが『相反するものの一致』(coincidence of opposites)――たとえば無限者と有限者との――原理を定式化し、ルタ-が(聖人を罪人と呼び、神によって受け容れられた罪人を聖徒と呼ぶことによって)『罪人の義認』(justification of the sinner)の原理を定式化するまでは階層の原理が力を失い〔他の原理によって〕置き換えられるということはなかった。それは〔後に〕、宗教的領域においては、万人祭司の教理によって取って代わられ、社会―政治的領域においては、各人における平等の人間性というデモクラシーの原理によって取って代わられた。プロテスタント原理もデモクラシーの原理もともに、互いに独立しながら、階層的に組織された存在の能力の層〔という考え方〕を否定する。」(同、15頁)

 

このような訳で、ティリッヒは誤解されないように、「層」という言葉に対して「次元」という言葉を用いるのである。

 

ところで、ティリッヒはデモクラシーの原理によって階層の原理を否定するが、自然界には大小様々な階層が存在する。しかも、自然界の「層」に属するすべての事物は平均化され平等である。したがって、その「階層の原理」とは何かを究明しなければならない。ティリッヒも事物の平均化を認めて、次のように述べている。

 

「『層』という言葉は、特定の層に属するすべての事物の平等性を強調する表現である。〔そこでは〕事物は平均化されている。すなわち、共通の平面に置かれ、そこに保たれている」(同、15頁)と。

 

したがって、問題なのは、自然界と人間社会の同一の「存在の原理」(「家庭の原理」)とは何かを究明し、「階層の原理」と「平等の原理」の対立を統一することである。

民主主義は自由を主張するが、貧富の格差が生じて平等でなくなる。共産主義は平等を主張するが、自由を否定する。人間社会における自由と平等の原理とは一体何なのか。

文鮮明師は〝神の愛〟において平等であるといわれる。〝神の愛〟によって統一された理想世界は「家庭の原理」を基盤として現れる。

 

(3)「次元、領域、階程」

 

ティリッヒの「生の過程」は、進化論と対比すると分かりやすい。

 

「有機的次元の現実化は無機的次元の現実化なしには不可能であるし、精神の次元は有機的次元の現実化がなければ潜在的にとどまるであろう。………無機的領域が有機的領域における事物の出現を許すまでには幾百万年を経過したことであろうし、有機的領域が言語をもった存在の出現を許すまでにはまた幾百万年を要したことであろう。更に言語の能力をもった存在が、今日われわれが自分自身として知っているような歴史的人間となる前には、幾万年かを経たことであろう。これらすべての場合を通じて、存在の潜在的次元が現実となったのは、すでに〔それ以前に〕常に潜在的に実在したものの実現化を可能ならしめるような諸条件が現存したからである。」(同、18頁)

 

聖書に、神は天地創造に関して6日、すなわち6段階の期間を要したとあるが、ティリッヒはその6日を文字通りに解釈していない。この解釈は、統一原理の創造原理と一致する。

 

また、彼は次のように述べている。

 

「神が自己自身のうちにアトムの可能性を創造したもうた時、人間の可能性を創造したもうた。また神が人間の可能性を創造したもうた時、アトムの可能性と、その両者の中間にあるすべての他の次元の可能性とを創造したもうた。それらすべての次元は、部分的には潜在的に、部分的には(或る場合には完全に)現実的に、すべての領域に現存する。現実化された諸次元のうちの一つがその領域を性格づける。というのは、そこに実現されている他の諸次元は、決定的な次元(それ自身は他の諸次元に対する一つの条件ではない)の現実化のための条件としてそこに存在するだけだからである。無機的なものは有機的なものの現実がなくても現実的であることができる。しかし、その逆ではあり得ない。」(同、19頁)

 

上述の本文に、「神が自己自身のうちにアトムの可能性を創造したもうた時、人間の可能性を創造したもうた」とあり、また「神が人間の可能性を創造したもうた時、アトムの可能性と、その両者の中間にあるすべての他の次元の可能性とを創造したもうた」とあるが、この見解は、統一思想の「存在者の性相・形状の階層的構造」(『新版・統一思想要綱(頭翼思想)』166頁)と同じ見解である。

創造原理的に見れば、神の創造目的の最終目標は、人間創造(アダムとエバ)である。したがって、神の創造論的進化は無機物から有機物へと進化し、さらに、有機物は最終目標(人間の創造)に向かって進化してきたのである。

 

つまり、進化に方向性(内的目的)があるというのである。単純なものから複雑なものへの進化、下等なものから高等なものへの進化は、個物が他の存在と無関係に、偶然に、無目的に、進化してきたのではない。進化は、最終目標に向かって進化してきたというのである。

このように、ティリッヒは、ビックバンから始まった神の宇宙創造、すなわち、無機物と有機物の創造過程を「生の過程」と表現し、階層を〝次元〟として現象学的に記述するのである。