カテゴリー: ティリッヒ「弁証神学」

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(25)

聖霊論

 

(二)「霊的現臨」 ――神の霊(聖霊論)――

 

(A)「人間の精神における霊的現臨の顕現」

 

ティリッヒは『組織神学』の第3巻で、「生」の問いと「聖霊」の答えの相関論を論述する。

聖霊は、曖昧(あいまい)な「生」の中から曖昧ならざる脱自の状態に人間を引き上げる。ティリッヒは「聖霊の臨在」を「神の霊」あるいは「霊的現臨」という。

 

(1)「人間精神における聖霊の顕現の性格」

 

 a. 「人間の精神と神の霊」

 

人間の精神における「神の霊」または「霊的現臨」について、ティリッヒは次のように述べている。

 

「生の一つの次元としての精神は、存在の力と存在の意味とを結合している。精神は力と意味との統一における現実と定義することができる。われわれの経験の範囲では、このことは人間においてのみ起こる。………自分のうちにある力と意味との統一としての精神の経験なしには、人間は『現臨する神』の啓示的経験を『霊』または『霊的現臨』の用語で表現することはできなかったであろう。」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、142-143頁)

 

人間の精神の経験は「神の霊」について語ることを可能にする。「神の霊」は人間の精神の中に宿り、また働くというのである。「霊的現臨」の下における人間の状態は脱自(ecstasy)の状態である。この脱自に関しては「理性と啓示」の項ですでに述べているが、ティリッヒは「啓示の経験」は「救いの経験」の一要素であると、次のように述べている。

 

「霊的現臨は啓示の経験と救いの経験とに脱自的状態を創り出し、人間の精神をして自己を越えさせるが、それの本質的な、すなわち、合理的な構造を破壊するということはしない。脱自性は統合された自己の中心性を破らない。もし破るならば、魔神的憑依(ひょうい)が霊の創造的現臨に取って替わるであろう。」(同、143-144頁)

 

このように、神の霊の現臨は恵みであり、脱的状態を創り出すというと言うのである。しかし、神から離反(疎外)している人間の精神は「神の霊」を自分の精神の中に入るように強いることはできない。生の一つの次元としての人間の精神は、曖昧である。しかし、「神の霊」は曖昧ならざる生を創造すると言うのである(同、144頁を参照)。

 

しかし、上述のように、彼は、脱自は「(精神の)合理的な構造を破壊するということはしない」という。もし破るならば、魔神的憑依が霊の創造的現臨に取って替わると警告する。

統一原理は、霊的現臨と魔神的憑依の分立、すなわち「善神の(わざ)と悪神の(わざ)」の見分け方を説いている(『原理講論』堕落論、120頁)。

 

ちなみに、ガラテヤ人への手紙には「肉の働き」と「御霊(みたま)の実」を対比して、次のように述べている。

 

「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。しかし、御霊(みたま)の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈悲、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。」(ガラテヤ5・19-23)

 

 b. 「精神構造の破壊と脱自」

 

「霊的現臨」の顕示は、古代においても、聖書の記録においても、奇跡的性格を持っている。

ティリッヒは、神の霊の力ある業について、次のように述べている。

 

「霊は身体的効果をもつ。或る人を一つの場所から他の場所へ移動させたり、身体の内部に変化を起こさせたりする。たとえば、身体の中における新しい生命の発生がそれである。また霊は硬質の物体を浸透する。霊はまた通常な性格を越えた心理的効果をもち、知性や意志に対して、人間の自然的能力を超えた能力を与える。たとえば異言(いげん)についての知識、他人の心のもっとも深いところの思いを洞察する能力、一定の距離をおいてさえも病を(いや)す能力等である。」(『組織神学』第3巻、147頁)

 

 C. 「注入という言葉について」

 

「インスピレーションと『注入』(infusion)という二つの言葉は、人間の精神が霊的現臨の衝迫(しょうはく)を受ける仕方を表現している。」(同)

空間的隠喩(いんゆ)をもって霊的現臨の衝迫を記述する言葉が「注入」である。

 

ティリッヒは、「『信仰の注入』(infusio fidei)とか『愛の注入』(infusio amori)とかいう言葉は、『聖霊の注入』(infusio Spiritus Sancti)に由来する。プロテスタント・キリスト教は、この用語について懐疑的であったし、今もそうである。そのわけは、この観念が、後のローマ教会において魔術的-物質的意味に誤用されたからである。霊は実体となり、その実体性は必ずしも中心性をもった人格の自意識によって感知されなかった。それは一種の『物質』(matter)となり、それを受ける主体が阻止(そし)しない限り、秘蹟(ひせき)の執行において、司祭によって伝達された。この非人格的な霊的現臨の理解は宗教生活の客観化となり、免罪(めんざい)()の販売という商取引において頂点に達した。プロテスタント的()()にとっては、霊は常に人格的である。信仰と愛とは霊的現臨の自己の中に中心性をもつ自我への働きかけ、その働きかけの媒体は、サクラメントの執行においても『言葉』である。プロテスタント・キリスト教が霊的現臨の働きかけに対して『注入』(infusion)という言葉を使うことを好まないのは、このゆえである」(同、148頁)という。

 

しかし、プロテスタント・キリスト教は、「注入」について一貫してはいないとも言う。

 

ティリッヒは、「新約聖書、特に使徒行伝、書簡(特にパウロ)の或る節におけるペンテコステまたはそれに類似する物語を読みかつ解釈する時、プロテスタントもまた聖霊の『そそぎ』(outpouring)という隠喩(いんゆ)を用いるのである。………われわれがインスピレーションという言葉を好んで用いたとしても、われわれは実体的な隠喩をさけることはできないからである。息(breath)もまた霊を受ける者の中に入ってくる実体である」(同、148-149頁)と述べているのである。

 

このように「注入」という言葉を使用することに対して、一方でローマ教会を批判するが、他方で、プロテスタント教会に対して、「われわれは実体的な隠喩をさけることはできない」と指摘する。これでは、肯定しているのか否定しているのかわからないのである。

 

統一原理も1ヶ所ではあるが、新生論(重生(じゅうせい)論)において「注入」という言葉を用いている。

 

「聖霊の感動によって、イエスを救い主として信じるようになれば、……新たな生命が注入され、新しい霊的自我に新生(重生)されるのである。」(『原理講論』キリスト論、266頁)

 

 d. 霊的現象(脱自)と「共同体の分裂」について

 

ティリッヒは、主観―客観の構造を超越する脱自は、自意識の次元における偉大な解放の力であると言う。ただし、彼は「霊的現臨」によって創造される脱自の奇跡が、人間の精神構造の破壊をもたらすと理解された場合には、それを否定する。

 

聖書には、「すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい」(ヨハネの第一の手紙4・1)と述べられている。

 

また、ティリッヒは、具体的に次のように述べている。

 

「パウロは、霊の賜物について語り、もし脱自的に異言を語ることが、混乱を産み、共同体を分裂せしめるようなものであるならば、それを拒否している。また個人的な脱自的経験の強調が高慢(こうまん)(hubris)を生み出し、その他の霊の賜物(charismata)が愛(agape)に従わないならば、それをも拒否している。それから彼は霊的現臨の最大の創造物である愛(agape)について論じる。コリント人への第一の手紙13章の愛の讃歌(さんか)においては、道徳的命令の構造と霊的現臨の脱自とが完全に一致している。」(『組織神学』第3巻、150頁)

 

このように、「霊的現臨」による脱自の精神状態は、道徳的命令の構造と一致し、共同体を分裂させることはないのである。この精神構造は、愛として現れたものなのである。

 

 e. 「愛として現れた霊的現臨」

 

次は、愛と霊的現臨の関係についてであるが、ティリッヒは次のように述べている。

 

「信仰が霊的現臨によって(とら)えられた存在の状態であるのに対して、愛は霊的現臨によって曖昧ならざる生の超越的統一へと取りこまれた存在の状態である。」(同、171頁)

「愛は精神のあらゆる機能の中で働いており、生そのものの最深の核に根ざしているということである。愛は分離されているものの再結合への衝動である。このことは存在論的に、それゆえに普遍的に真理である。」(同、171頁)

 

このように、愛と聖霊の関係を存在論的に捉え、愛は分離を統一する力であるというのである。言い換えると、「神の霊」は曖昧ならざる生を創造し、愛は神の霊の現臨によって「生の曖昧な状態」を統一した状態に再結合するというのである。

 

 f. 「聖書的な聖霊概念と統一原理の一致」について

 

統一原理は「イエスは、男性であられるので、天(陽)において、また、聖霊は女性であられるので、地(陰)において、(わざ)役事(やくじ))をなさるのである」(『原理講論』重生論、265頁)と説いている。

 

統一原理は、地における聖霊の業はどのような「感動の働き」をするかに関して、聖書の「コリントⅠ、12章」(知恵、知識、信仰、いやしの賜物、力あるわざ、預言、霊を見わける力、異言、異言を解く力)を挙げ、また「罪の悔い改めの業」「とりなし」(ローマ8・26)に関しても述べている(『原理講論』265頁)。

 

このように、統一原理は、聖書的な聖霊概念と一致している。

 

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(24)

「補足」:「進化論に対する批判」

 

近代になって、正統派キリスト教を悩ました二つの科学の学説がある。それは、ニコラウス・コペルニクス(1473-1543)とチャールズ・ダーウィン(1809-1882)のそれである。

 

それまでの中世の世界観は、地球が宇宙の中心(天動説)であり、そこに人間が君臨しているということであった。ところが、コペルニクスは〝地動説〟を主張し、宇宙は広大で地球は浜辺の砂のように小さいと言った。この事実は人々の発想に大転換をもたらし、「もし神が実在したとしても、この地球と人間が、特に神にとって重要な意味を持っているとどうして言えるであろうか」と考え出させるまでに至ったのである。

 

また、ダーウィンの〝進化論〟は、人間と動物の間に引かれていた一線を取り去り、人間は単に高度に発達した動物にすぎないというのである。

 

〝進化論〟の影響を受けたハーバード・スペンサー(1820-1903)は、人はアメーバーから現代の発達した状態に進化したと言い、さらに、自然法則によって、より完全なものへと向って発展していくと説いた。

そして、正統神学の〝創造神話〟は、ばかげているという。人間は堕落しなかった、人間は単なる動物の一つにすぎないと言うのである。

また、宇宙の年齢に比べると、問題にならないほど短期間に、今日の文明を築き上げ、人間の前には無限の可能性が約束されていると力説した。

 

この進化論に関して反論しておかねばならない。

 

「ダーウィンの進化論は依然として仮説にすぎない」

 

〝進化論〟とは、チャールズ・ダーウィンの『種の起源』(1859年)の出版によって一躍有名になった学説で、その学説(自然淘汰、適者生存)によると、生物は大腸菌のような単純なものから、次々と枝分かれして出現し、最も複雑で高度な存在である人間まで次第に連続的に移行してきたというものである。

 

今日の進化論者はおおむね、生命が神の力を全く受けずに、無生の物質から発生したと考えている。

生物は、どのようにして地球上に発生したのか(生命の起源)、生物の中に多様な種類が存在するのはなぜか(種の起源)。この二つの問題は、そっくりそのまま哲学的な問題となる。

 

それでは、ここで「進化論」について、いくつかの疑問点(批判)を論述しておこう。

 

「生命の起源」について、――現代何も理論と呼べるものはない

 

進化論者は、最初の生命はよどんだ水、あるいは大洋の中で「自然発生」したという。つまり、水たまりに自然に虫がわいたという表現で代表されるように、〝無〟から〝有〟が生じたというのである。しかし、よく殺菌消毒すれば何も出てこない。したがって、自然発生ではない、というのが科学上の事実なのである。

 

米国のプリンストン大学の生物学教授エドウィン・コンクリンは「生命が偶然に発生する確率は、印刷工場の爆発によって大きな辞典ができる確率に等しい」と言っている。

 

「突然変異」について

 

多様な〝種〟は、如何に生じたかということであるが、現代の進化論では突然変異は、宇宙線その他イオン化を起こさせる放射線、細胞内での物質交代、あるいは遺伝子の複製上の誤りなど、環境的な要素によって起きたという。

 

しかし、遺伝子に突然変異的な変化が起きるのはまれで、遺伝子は普通、正確な自己複製を行うのみである。また、突然変異によって新種が生じると言うが、遺伝子の突然変異の99パーセント以上は機能障害をはじめ、何らかの有害な作用を持つことが、今日科学的に明らかにされている。

 

新種を発見したとよく聞くが、「種」という概念が曖昧で、構造や形態に何の変化もないものを、ただ少し大きいか小さいかだけのものを、あるいは色が変わっただけのものを、新種と言っている場合が多い。

 

聖書では、種子を生ずる草とか、這うもの等、その「種類にしたがって」それぞれの生物を創造されたとある(創世記1章)。

その「類」の中に、いろいろな「種」があり、これらは同類のものから変化したと見られる。科学が証明できないのは、一つの類が他の類から進化したということである。

 

生物学はそのことに関して「突然変異」というが、それを裏付ける決定的な事実はない。したがって、人間は決して他の下等動物から進化したものではないと考えられる。聖書がいうように、人間はもともと種類の一つとして創造されているのではなかろうか、ということである。

だだし、神の新しい創造の力が加わることによってAからBに、すなわち、ある種類を基にして、そこから他の種類に突然変異していったと考えられる。しかし自然に、ではない。

 

熱力学の第二法則について

 

熱力学の第二法則によれば、孤立系の中ではエントロピーは増大し、この増大は、秩序が減少する方向へと不可逆的に進行する。つまり、すべての自然の過程は、無秩序が増大する方向へと進むというのである。

換言すると、この大自然の秩序は徐々に崩壊しながら混沌へと進んでいくというわけである。

 

この法則を進化に関連させて考えると、彼らが言うように偶然の作用のみならば、事物はむしろ、ばらばらの方向へ、無秩序、非組織化の方向へ進行するはずである。

このことは、無神論的進化論が自然に単純なものから複雑なものへ、秩序化の方向へと進化していったというのであるが、そのことを、自然法則自体が否定しているということを意味する。

 

したがって、この絶対的なエントロピーの法則に反して、「偶然」が生命を発生させ、それが、より組織化され秩序化されたものへと進化してきた、とは言えないのである。

だが彼らは、事実は進化してきたと言う。しかし、それは彼らの進化に対する理論的説明が虚偽であり、虚構であることを科学的に暴露されたことに対する反論ではなく、ただ進化してきたという事実確認にすぎないというのである。

 

〝なぜ〟という問いに対する答えではない。われわれは、エントロピーの法則に抗して何か他の創造的な力が常に働いて、秩序化の方向へと進んできたと見るのである。AからBに進化する新しい力は、いずこより来るのであろうか。新たな進化する力は、生物自体の内にはない。外から内に入ってきたと考えざるを得ないのである。

 

中間型の不在について

 

進化は、微妙な突然変異の連続的移行であり、生物の化石も類と類の間の変化を表わす連続的なものが発見されなければならない。

けれども、実際において、中間の化石はいまだに発見されていない。

 

キリンの首がだんだん長くなっていったというのは、人間の妄想によるイラストレーションであって、漸次的に進化していったという科学的根拠としての化石はない。

 

進化は、何万年という長い年月がかかって漸次的に進化するといわれるが、化石でなくても、現代の生物は何万年と生命を継代して現代に繋がっているのであるから、その中にAからBになりつつある生物が一つぐらいあってもよいはずである。

しかし、海でも陸でも空でも、世界にある現代の生物において、種類(類)に従いAからAが、BからBが生じ、AからBになりつつある中間の存在者は、一つも存在しないのである。

 

すべて完成した個性体である。つまり、AからAであって、AからBへの進化の連続性は、化石においても、現代の生物においても、見られない。

聖書に、神の創造は終わった(創世記2・2)とあるが、このことと関係があるのだろうか。それにしても、進化する力はいずこから来たのであろうか。

 

「目」について

 

文鮮明師は「目の先祖」と表現してユーモアたっぷりに語っておられたが、まだ物を見たことのない生物は、〝目〟があれば便利であると、どうして知ることができたのであろうか。

目は、角膜、瞳孔、虹彩、神経、筋肉、血管など、多くの複雑で繊細な部分が互いに連結してできているが、これらはすべて、同時に進化しなければならないのである。そして、部分的に発達した〝目〟はむしろ大きな障害となるのである。

 

文鮮明師は、〝目〟について、次のごとく述べておられる。

 

「動物世界では、生まれると時に、まず目が最初に生ずるようになっています。目自体は物質です。目は生まれる前から、太陽があることを知っていたでしょうか、知らなかったでしょうか。物自体である目は何も知らずに生まれてきましたが、太陽を見られるように生まれたということは、目が生まれる以前から、太陽のあることを知っている存在があったことになります。すなわち、目は太陽があることを知っていて生まれたのです。

目自体は、空気があることも,(ほこり)が飛び散っていることも、蒸発による乾燥があることも知らなかったとしても、既にそれを知っている存在があって、目を守るために、(まぶた)が準備されたり、涙腺をもって防備させたりするのです。

結論を言えば、このように、私たちは思惟と存在、精神と物質、観念と実在、有神論と無神論、創造論と進化論、等々の問題を解決することができるのです。したがって、すべては確実に、神によって創造されたということを否定することはできません。」(『祝福家庭と理想天国(1)』、86-87頁)

 

ダーウィンも「種の起源」の中で、こうした点に触れ、彼は、目は多くの「過渡的」な段階を経て進化したと説明している。

しかし、現実の〝目〟を有する動物を調べても、「過渡的」なものは一つも見いだせない。これと同じことは〝耳〟や、無性生殖の生物から有性生殖の生物の進化における〝生殖器〟の発生に関しても言えることなのである。

 

「種の起源」

 

海や陸に棲息する生物、また、空を飛ぶ生物等に〝多様な種類〟があるのはなぜか。

同じ環境の中にあるのに、なぜタコやエビや魚貝類など、無数の形態の相異ができたのであろうか。

馬と牛は、同じ環境のもとにあって草を食べるが、なぜ牛の爪は割れ、馬はそうでないのか。

獲得形質は遺伝しないといわれているが、これらの多様性は単に要不要説、適者生存説、種族保存の本能だけで説明できない。

ゆりやバラや蘭などの草花に、なぜ無数の形と色が存在するのであろうか。人間以外の動物が、それらを鑑賞し()でるであろうか。人間以外にないのである。

同じ環境のもとにある鳥の形と大きさ、色彩等の美しさ、その鳴き声等々の多様性についても、同じ問いが生じるのである。

 

『新創造論』による無神論的進化論に対する指摘

 

統一思想研究院から無神論的進化論に対して、次のような問題点あると指摘されている。

 

「①DNA、RNA、リボゾーム等からタンパク質合成のシステムがいかに発生したか?

②生物のエネルギー源としての光合成のメカニズムや酵素呼吸のメカニズムはいかにして発生したか?

③生物に必要な約2000種の主要な酵素いかにして発生したか?

④細胞分裂のメカニズムはいかにして発生したか?

⑤有性生殖はいかにして発生したか?

これらは、どれ一つをとってみても、自然に発生したとは、とても考えられないものばかりです。」(李相憲監修『進化論から新創造論へ』、統一思想研究院、光言社、61-62頁)

 

以上のごとく、進化は事実であるが、その客観的な事実に対する解釈において、ダーウィンの進化論は、科学的な「事実」と一致しない〝虚偽の解釈〟であるというのである。

 

このような憶測や曖昧な〝仮説〟である進化論を、多くの人々は学校で教育され、信じさせられているのである。

―「補足」の項、以上―

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(23)

(B)「生の自己実現とその曖昧(あいまい)性」

 

次は、「生の過程」は、いかに運動し、いかに発展するか、に関するティリッヒ式弁証法による解説である。

 

彼は、生の過程は「それは自己同一と自己変化と自己への帰還である」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、37頁)という。

すなわち、「生」は「自己同一」(正)――「自己変化」(反)――「自己帰還」(合)と弁証法的に運動し、発展していくというのである。

 

ティリッヒは「生の過程」を次の三つに分析している。

 

(1)「生の自己統一」とその曖昧性

 

「自己統一において、自己同一の中心が確立され、自己変化へと引き込まれ、それがその中へと変化せしめられたものの内容と結びついて再確立される。」(同、37頁)

 

ティリッヒ式弁証法の特徴の一つは、「すべての生には、実在としても、課題としても、中心性がある。」(同、37頁)という点である。この中心性が実現される運動は、生の自己統一という。

 

(2)「生の自己創造」とその曖昧性

 

しかし、現実化の過程は、単に「自己統一の機能」のみではない。「新しい中心を生産する機能」(自己創造の機能)を含蓄しているのである。すなわち、「生」は「自己同一と自己変化」という弁証法的な二つの存在による「内部矛盾」によって働き、生は新しいものへ向かって進むというのである。

 

彼は、この弁証法の運動を「成長の原理」であるという。

 

「自己創造の機能を決定するものは成長の原理である。その成長は自己中心性をもった存在の円環運動の中で行われるし、その円環を越えた新しい中心の創造においても行われる。」(同、38頁)

 

上述のティリッヒの「自己統一の機能」と「自己創造の機能」とは、統一思想的に表現すれば、「自己同一的四位基台」と繁殖の「発展的四位基台」の原理のことである。

 

(3)「生の自己超越」とその曖昧性

 

さて、「可能的なものの現実化する第三の方向は、円環的な方向と水平的な方向とは対照的な方向、すなわち、垂直的な方向である。この比喩は、われわれが自己超越的機能と呼ぶことによって示唆する生の機能を表わすものである。それ自身において、『自己超越』という言葉は他の二つの機能に対しても用いることができる。自己同一から出て、変化を経て、自己同一へと帰ってくる自己統一は、中心性をもった存在内における、一種の内的な自己超越であり、すべての成長の過程において、後の段階は、前の段階を、水平的な方向に超越する。」(同、38~39頁)

 

このように、「生は、その本性からして、それ自身の中にあると同時に、それを越えている」と自己超越を弁証法的に説く。

そして、この自己を超越する生の高揚に対して、ティリッヒは「崇高なるものへの突進」(driving toward the sublime)という語句を用いる。「崇高な」(sublime)、「昇華」(sublimation)、「崇高性」(sublimity)というような言葉は、偉大なもの、荘厳なものへと「限界を越えていく」ことを示すというのである(同、39頁)。

 

このように、ティリッヒは、「中心性の原理の下における自己統一、成長の原理の下における自己創造、昇華の原理の下における自己超越」(同、39頁)について論述するのである。

 

しかし、ティリッヒの「生の過程」の変化・発展に関する弁証法は、科学的にその論理と実在が一致しているかどうかに関して、疑念が表明されている。

したがって、鶏卵や種子などの具体的な例をあげて、彼の弁証法の「成長の原理」、すなわち、(1)「生の自己統一」、(2)「生の自己創造」、(3)「生の自己超越」を検証しなければならない。マルクスの唯物弁証法が検証されなければならないのと同じである。

 

「生の弁証法的記述」に対する問題点

 

マルクス主義は、事物だけでなく、生物や人間も「運動する物質である」と捉える。これに対して、ティリッヒは無機物も有機物もすべて「生の過程」であるというのである。

「星や岩の発生は、その成長や衰微と同様に、生の過程」(同、14頁)であるという。

 

また、次のように、同じ領域で互いに「闘争」するという。

 

「一つの次元の実現は宇宙史内における一つの歴史的出来事である。しかし、それは時間と空間の特定の一点に位置づけることのできない出来事である。永い時代の推移の中で、もろもろの次元が、比喩的な言い方をすれば、同じ領域で互いに闘争する。このことは、無機的次元から有機的次元へ、植物的次元から動物的次元へ、生物学的次元から心理学的次元への推移に関して明白である。これはまた心理学的次元から精神の次元への推移についても真である」(同、31頁)と。

 

ところで、〝闘争〟は明白であろうか。「勝共理論」は次のように述べている。

 

「種子の発芽はその内部の胚芽と種子の外皮がお互いに………相反して闘争しているとは見られない。かえって胚芽は一定期間外皮の保護のもとに成長して、自ら弱化していく外皮の助けをうけて発芽するのである。」(『新しい共産主義批判』、211頁)

 

このように、種子の発芽において相手を排斥する「闘争」という関係は見られない。相手を必要とする「統一」関係のみしか見られない。

ただし、自然界には弱肉強食という〝食物連鎖〟は存在する。しかし、これらの闘争は、マルクス主義が言う「事物は対立物の闘争によって発展する」という法則とは何の関係もないのである。

 

ティリッヒは、へーゲルの弁証法と同様に、すべての存在は内部に矛盾があり、その内部矛盾によって変化・発展し、神から出で、神に帰る過程であると捉え、この過程を「生の過程」として、ティリッヒ的弁証法で論述しているのである。

 

しかし、堕落しているのは人間だけであって、万物ではない。万物には矛盾構造はないと反論しておく。弁証法的構造ではなく、授受法的構造であると。

 

(C)「曖昧ならざる生の探求とそれの予兆としての象徴」

 

ティリッヒは、「生の曖昧性」について、次のように述べている。

 

「すべての生の過程において、本質的要素と実存的要素、創造された善とそれからの疎外とは、互いに合体していて、そのいずれか一方が排他的に働いているということはない。生は常に本質的要素と実存的要素とを含んでいる。これが曖昧性の根源である。」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、135頁)

 

ティリッヒによると、この「生の曖昧性」(矛盾構造)が「曖昧ならざる生の探求」へと発展していくというのである。

 

「精神の担い手としての人間においてのみ、生の曖昧性と曖昧ならざる生の探求が意識にのぼってくる。………自己の内面において、精神の諸機能、すなわち、道徳、文化、宗教の曖昧性として経験する。曖昧ならざる生の探求は、これらの経験から起こってくる。この探求は生がそれに向かって自己を超越する」(同、135頁)

 

この生の自己超越は宗教によってなされ、宗教が曖昧ならざる生を探求するというのである。

 

そして、「曖昧ならざる生の探求」の問いに対する答えについて、次のように述べている。

 

「宗教の象徴性は………三つの主要なシンボルを生産した。それは『神の霊』(Spirit of God)、『神の国』(Kingdom of God)、『永遠の生命』(Eternal Life)である」(同、136頁)

 

この三つのシンボルは、「曖昧ならざる生への探求に対して啓示が与える答えの象徴的表現である」(同、137頁)というのである。

 

第3巻の訳者である土居真俊氏は、訳者後記で、次のように書いている。

 

「ティリッヒの『組織神学』は三巻五部から成っている。第一巻には理性の問題が啓示との相関において、また存在一般の問題が神の問題との相関において取り扱われている。(但し、日本訳では、啓示の問題と神の問題とが上下二巻に分けて訳出されているので、全四巻五部となっている。)更に第二巻においては、実存の諸問題がキリスト論との相関において、第三巻においては生の諸次元の問題が霊との相関において、続いて歴史の諸問題が神の国のシンボルとの相関において取り扱われている。」(同、535頁)

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(22)

(4)「生の諸次元とその関係」

 

 a. 「無機的および有機的領域における諸次元」

 

ティリッヒは、無機的なものは物質として取り扱われてきたが、「無機的なものの神学」(theology of inorganic)は欠如しているという。

それで、ティリッヒは〝単純〟なものから〝複雑〟なものへと漸次的に発展してきたその各次元について、「現象学的」に記述する。彼の現象学的記述とは、理論的な説明や推論をする前に、与えられたままの実在をそのまま記述することをいうのである。

 

現象学的な記述を基盤とした理論的説明や推論、すなわち、原理的見解では、神は初めに〝ロゴス〟でアダムを構想されたと見る。しかし、創造は、素粒子から原子、分子、そして植物、動物、人間(最終目的)と、〝単純〟なものから〝複雑〟なものへと段階的に発展させながら創造されたというのである。これを、「創造論的進化論」という。

この創造の過程から、鉱物、植物、動物、人間の階層構造を分析すれば、人間は、すべての存在の〝性相〟と〝形状〟の総合実体相(小宇宙)であると知り得るのである。

 

ところで、ティリッヒは、すべての存在者の第一条件は無機物であると、次のように述べる。

 

「無機的次元は、それがすべての次元が現実化する第一条件である限りにおいて、諸次元の中では優先的位置を占めている」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、23頁)。なぜなら、「基礎的条件が消滅するならば、存在のすべての領域は解体する」(同)からである。聖書にも、「あなたは……ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから」(創世記3・19)とある。

 

確かに、無機的次元が第一条件である。この同じ認識を、統一原理では「人間を創造するにあたって、有形世界を感得し、それを主管せしめるようになさるために、それと同じ要素である水と土と空気で肉身を創造された」(『原理講論』83頁)と述べている。

 

次に、有機的次元、すなわち有機的生は植物的領域と動物的領域という二つの次元があり、さらに動物的領域にはもう一つの次元として生の自覚、すなわち精神的なもの(the psychic)が現われているという。

この「有機的次元は自己関係的・自己保存的・自己増殖的・自己継続的諸型体(「生ける総体」)によって特徴づけられている」(『組織神学』第3巻、23頁)というのである。

上述の事柄を言い換えると、植物や動物や人間は、孤立して存在するのではなく、他者との関係存在であり、自己保存的・自己増殖的・自己継続的諸型体であるというのである。

 

ところで、無機的なものから有機的なものが如何にして発生したかに関しては、議論が決着しないまま残っている。科学的で客観的であろうとするティリッヒは、「『最初の細胞』は或る特殊な神の干渉である」という主張に対して、「生物学は超自然的な原因性を拒否(する)」(『組織神学』第3巻、24頁)と述べている。

そして「有機的なものの次元は本質的に無機的なものの次元の中に現存し、それの実際的な発現は種々の条件に依存する。その諸条件を記述することが生物学や生化学の課題なのである」(同)と主張する。

 

しかし、現象学的記述を根拠とした理論的な推論の一つである唯物的進化論が主張するように、生命は、環境的な物資的諸条件が整えば〝自然発生〟するというのであろうか。また、AからBに進化する力は、いずこより来るのであろうか。進化する力は、生物自体の内にはない。したがって、われわれは、進化する力(入力)は、外から来たと考えざるを得ないのである。しかし、生物はどのようにして地球上に発生したのかという「生命の起源」の問題は、未だ決着していない。

 

次に、ティリッヒは「植物的次元から動物的次元への推移、特に個が自分自身を『内的に知覚する』(inner awareness)という現象への推移の問題に対して………潜在的には自意識はすべての次元に現存するが、現実的には、それは動物的存在の次元においてのみ発現する」(同)という。

そして、さらに次元の高い段階の記述に進み、ティリッヒは「内的知覚の想定を、………高等動物に限定することが賢明であるように思われる」と述べ、「内的知覚の次元、すなわち心理学的領域は、自分自身の中にもう一つの次元、すなわち人格的―社会的次元、または『精神』(spirit)の次元を実現する。現在人間の経験の及ぶ範囲内においては、それは人間においてのみ起こった」(『組織神学』第3巻、24頁)と述べている。

 

このように、ティリッヒの現象学的記述は、暗々裏に進化論を否定しているといえよう。

 

ちなみに、ティリッヒは、彼の著『信仰の本質と動態』の中で次のように述べている。

 

「進化論と神学との闘争は、科学と信仰との闘争ではなく、ある種の科学と、ある種の信仰とのあいだの闘争であった。それは人間から人間性を奪い去る信仰を内に秘めた科学と、聖書の直解主義によって神学的表現を(ゆが)められた信仰との、闘争であった。聖書の創造物語を昔あるときに起こった事件の科学的記述と解する神学が、方法的、科学的研究と衝突することは自明である。また先行の生命形態から人間の発生を解釈して、人間と動物との質的区別を認めないような進化論は、科学ではなくて信仰であることもまた自明である。」(ティリッヒ著『信仰の本質と動態』、谷口美智雄訳、新教出版社、104頁)

 

「科学と信仰との闘争ではなく、ある種の科学と、ある種の信仰とのあいだの闘争であった」という主張は傾聴に値する。

ただし、「聖書の創造物語」を文字通りに「6日」で創造したと信じ、それは科学的記述であると解する神学に対して、「聖書に記録された創造の過程が、今日、科学者たちの研究による宇宙の生成(せいせい)過程とほぼ一致するという事実を知ることができる」(『原理講論』75頁)と科学的に解釈し、「6日」を「創造過程の六段階の期間を表示したもの」であり、したがって「この記録が神の啓示である」(同、76頁)と主張する統一原理は、相違している。

一方は似非(えせ)科学であり、他方は真の科学的解釈である。

 

 b. 「生の一次元としての精神の意味」

 

ティリッヒは、精神の次元は人間のみに現われ、精神は「霊魂」(psyche)、「心」(nous)、「理性」(logos)などに関係づけることが望ましいという(『組織神学』第3巻、28頁)。しかし、「霊魂」(soul)という言葉は心理学の中から失われてしまった。現在の心理学は「霊魂」不在の心理学であるという(同)。

また、心という言葉は生物の意識を表現し、意識と知覚と志向性を含んでいる。自意識は、動物の次元に現われ、「それは知性と意志と方向づけられた行動とを含んでいる」(同、29頁)という。

また、理性の概念は、すでに「理性と啓示」において論述されているが、「ロゴス的構造をぬきにしては、精神は何事をも表現することができない」と述べ、「推理の意味における理性は、認識的領域における人間精神の一つである」(同)と述べている。

 

このように、進化を「生の過程」と表現し、人間の精神(心)までを現象学的に記述し、最後に精神の次元の段階で〝究極者〟への関心となると説いていくのである。

 

 c. 「それに先行する諸次元との関係における精神の次元」

 

ティリッヒは、人間が出現するまでの先行する諸次元について、次のように述べている。

 

「生の新しい次元の出現は………ある条件群が無機的領域における有機的領域の出現を可能にする。………それは神の志向的創造性の下における、すなわち、神的摂理の下における自由と運命との相互作用の問題である。むしろ問題は、いかにして潜在的なものの現実化がある条件群から起こるかということである。」(同、30頁)

「無機的次元から有機的次元へ、植物的次元から動物的次元へ、生物学的次元から心理学的次元への推移に関して明白である。これはまた心理学的次元から精神の次元への推移についても真である。」(同、31頁)

 

このように、ティリッヒは「生の過程」の明白な事実を現象学的に記述するのである。

 

 d. 「精神の次元における規範と価値」

 

次に、ティリッヒは、精神の次元における規範と価値の顕現に関する記述へと進むのである。

 

「精神がそれの生物学的・心理学的運命の限界内で自由であるためには……規範があればこそである。……そこで起こってくる問題は、何がもろもろの規範の根源であるか、ということである。」(同、34頁)

 

このように、規範や価値の顕現からその根源が探求されていくのである。

 

彼は、「規範の実用主義的な抽出法によれば、生はそれ自身の規準である。………精神の規準は精神的生の中に内在する」(同)という。

 

さらに、ティリッヒは、実用主義ですら規範と価値論の妥当性を認識していると、次のように述べている。

 

「生活の規範は生の外側で発生するのではない」(同、34頁)。

「実用主義的方法が一貫して倫理的・政治的・審美(しんび)的判断に対して適用される場合には、いつでも、規準が選択されるわけであるが」、どうして規範となり得るかということを証明する仕方を知らない(同、34-35頁)。

しかし、彼らは「精神の次元における規範についての価値論によって明らかに認識されている」という。「価値論は現在の哲学思想において高い位置を占めており」、今日においては「価値論を産出した形而上(けいじじょう)学に逃避することなくして、規範の妥当性を確立した。」「彼らは、実用主義的相対主義や形而上学的絶対主義〔に陥ること〕なくして、妥当性(Geltung)を救おうと欲した」(同、35頁)と述べている。

 

このように、実用主義は規範と価値論の妥当性を認識しているという。

しかし、ティリッヒは、次の問いに対して彼らは答えることができないという。

 

「そのような価値が社会を統制すると主張する根拠は何か。……それらの価値の適切性は何か。いったい精神の担い手である生は、なぜそれらの価値を問題にしなければならないのか。存在に対する義務の関係はどういうものか。」「精神の次元における生に対する規準は生そのものの中に含蓄されている……そうでなければ、それらの規準は生に対して適切ではあり得ないであろう。……人間と人間の世界における本質的なもの、また可能的なものは、そこから精神の次元における生に対する規範が導き出される源泉である。存在の本性、実在のロゴスによって決定された構想は、ストア哲学やキリスト教がそう呼んだように『価値の天国』(heaven of values)であって、価値論はそれを指し示すものである」(同、35~36頁)という。

 

彼は、「生はそれ自身の規準である」「精神の規準は精神的生の中に内在する」「精神の次元における生に対する規準は生そのものの中に含蓄されている」ということから、規範の源泉を究明していくのである。

 

このように実用主義が価値論を認めるなら、結局のところ、その根源である究極者を認めざるを得なくなるというのである。究極者は自己を啓示する。

 

このようにして、究極的啓示であるキリストと「霊的現臨」(聖霊の現臨)によって〝新しき存在〟となるという。また、本質から実存へと分離した生の曖昧(あいまい)性を曖昧ならざる生に統一する力が愛であり、この神の愛によって自己超越し、生の多元的統一がなされていくと説いていくのである。

 

ティリッヒの「生の過程」における諸次元は、正統主義神学が天地創造の神話を文字通りに解釈し、「神が6日間で天地を創造した」、「成人した人間(アダムとエバ)を一瞬のうちに土から創造した」という非科学的見解に対する批判である。

また、生の過程の現象学的記述には、唯物論的進化論に対する批判も含蓄されている。さらに、精神の次元における規範や価値論の根源は、「究極者」(神)であるという。

ここに至って現象学的記述による存在者の各次元への進化は、科学を基盤とした新しい有神論になるのである。この存在論的観点は、統一原理の存在論的観点と一致する。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(21)

『組織神学』第3巻――(生と聖霊論)――

 

(一)「生、その曖昧(あいまい)性、そして曖昧ならざる生の探究」

 

この章において、ティリッヒはすべての存在を「生の過程」として捉え、この「生の過程」をティリッヒ式弁証法で論述する。

ただし、成長過程における堕落は人間のみであって、万物は完成し堕落していない。しかし、ティリッヒにはそのような区別はなく、「生」という存在概念(弁証法的構造)を人間にも万物にも適用する。

 

ティリッヒによると、「生」は無機物、有機物、そして人間精神と発展し、歴史として展開され、そして、その歴史の目標は「神の国」であり、「永遠の生命」であるという。このすべてを「生の過程」であるとし、彼は弁証法で論述するのである。

 

(A)「生の多次元的統一」

 

(1)「生――本質と実存」

 

ティリッヒによると、多くの哲学者は「生」という語を用いることを躊躇(ちゅうちょ)し、それを生物学の領域にのみ限定するが、ヨーロッパ大陸では20世紀初期に哲学の大きな学派が「生の哲学」に関心をもっていた。ニーチェ、ディルタイ、ベルグソン、ジンメル、シェラーなどである。その他、実存主義者に影響を及ぼしたというのである。

 

また、ティリッヒは「アメリカにおいては、『過程の哲学』(philosophy of process)が、ジェームスやデュイー(デューイ)の実用主義によって予兆され、ホワイトヘッドとその学派によって十分に展開された。『過程』(process)という言葉は『生』という言葉ほど曖昧ではないが、表現力においてはるかに劣っている」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、新教出版社、12頁)と述べている。

 

なぜなら、「生体と死体とは同様に『過程』に属しているけれども、しかし、死の事実においては『生』はその否定を含んでいる。『生』という語を強調して用いることは、『生まれかわった生命』(life reborn)とか『永遠の生命』(eternal life)とかいう場合のように、この否定の克服を示すのに役立つ。………生と死との両極性は常に『生』(life)という語を色づけてきた」(同、12-13頁)というのである。

 

このように、ティリッヒの「生の概念」は体系全体の基底をなしている。言い換えると、本質的なものと実存的なものの基盤である。

ティリッヒは「『生』(life)という語をこの本質的な要素と実存的な要素との『混合』(mixture)の意味に用いる」(同、13頁)と述べている。

 

以上のように、ティリッヒは「生の概念」によって、すべての存在の実存的曖昧性(疎外状況)を分析し、また、曖昧ならざる「永遠の生」を叙述しようとするのである。

 

(2)「層」という言葉について

 

事物の多様性の中の秩序に関して、ティリッヒは次のように述べている。

 

「人間は遭遇(そうぐう)する事物の多様性を、統一原理の助けをかりてのみ認識することができる………普遍的な原理の一つは、階層的秩序のそれであって、そこでは事物のあらゆる類と種とが、またそれらを通してあらゆる個物がその場所をもっている。一見して混沌(こんとん)としているように見える実在の中に秩序を発見するこの方法は、存在の等級と層とを見分ける。」(同、14頁)

 

このように、存在の等級と層によって、実在の中に階層的秩序を発見するというのである。

また、自然に階層的秩序があるように、人間社会にも単一者を頂点とする階層的秩序があるという。

 

このことに関して、ティリッヒは次のように述べている。

 

「高度の普遍性とか潜勢力(せんせいりょく)の豊かな発展とかいうような存在論的資質が特定の層に帰せられる場所を決定する。『僧職(そうしょく)職階制度』(hierarchy)――聖礼典的権力の位階(いかい)に従って配置された聖なる支配者団――という古い用語は、この種の思考をもっともよく表現している。それは地上的支配者と同様に、自然における存在の類や種、たとえば無機的なもの、有機的なもの、心理的なものにも適用され得る。この観点においては、実在はその存在の能力と価値の等級に従って垂直的に相重なる層のピラミッドとして見られている。『僧職職階制度』の意味における支配者たち(archoi)の映像はより高い層により高い資格を与えるが、その例示者の量は小さくなる。その頂点は、それが祭司であろうと、皇帝であろうと、神、すなわち一神教の神であろうと、単一者である。」(同、14-15頁)

 

「階層の原理」においては、一つの層から他の層への有機的運動は起こらない。しかし、プロテスタントの原理やデモクラシーの平等の原理は、この「階層の原理」を否定するという。

 

これらに関して、ティリッヒは次のように述べている。

 

「ニコラウス・クザーヌスが『相反するものの一致』(coincidence of opposites)――たとえば無限者と有限者との――原理を定式化し、ルタ-が(聖人を罪人と呼び、神によって受け容れられた罪人を聖徒と呼ぶことによって)『罪人の義認』(justification of the sinner)の原理を定式化するまでは階層の原理が力を失い〔他の原理によって〕置き換えられるということはなかった。それは〔後に〕、宗教的領域においては、万人祭司の教理によって取って代わられ、社会―政治的領域においては、各人における平等の人間性というデモクラシーの原理によって取って代わられた。プロテスタント原理もデモクラシーの原理もともに、互いに独立しながら、階層的に組織された存在の能力の層〔という考え方〕を否定する。」(同、15頁)

 

このような訳で、ティリッヒは誤解されないように、「層」という言葉に対して「次元」という言葉を用いるのである。

 

ところで、ティリッヒはデモクラシーの原理によって階層の原理を否定するが、自然界には大小様々な階層が存在する。しかも、自然界の「層」に属するすべての事物は平均化され平等である。したがって、その「階層の原理」とは何かを究明しなければならない。ティリッヒも事物の平均化を認めて、次のように述べている。

 

「『層』という言葉は、特定の層に属するすべての事物の平等性を強調する表現である。〔そこでは〕事物は平均化されている。すなわち、共通の平面に置かれ、そこに保たれている」(同、15頁)と。

 

したがって、問題なのは、自然界と人間社会の同一の「存在の原理」(「家庭の原理」)とは何かを究明し、「階層の原理」と「平等の原理」の対立を統一することである。

民主主義は自由を主張するが、貧富の格差が生じて平等でなくなる。共産主義は平等を主張するが、自由を否定する。人間社会における自由と平等の原理とは一体何なのか。

文鮮明師は〝神の愛〟において平等であるといわれる。〝神の愛〟によって統一された理想世界は「家庭の原理」を基盤として現れる。

 

(3)「次元、領域、階程」

 

ティリッヒの「生の過程」は、進化論と対比すると分かりやすい。

 

「有機的次元の現実化は無機的次元の現実化なしには不可能であるし、精神の次元は有機的次元の現実化がなければ潜在的にとどまるであろう。………無機的領域が有機的領域における事物の出現を許すまでには幾百万年を経過したことであろうし、有機的領域が言語をもった存在の出現を許すまでにはまた幾百万年を要したことであろう。更に言語の能力をもった存在が、今日われわれが自分自身として知っているような歴史的人間となる前には、幾万年かを経たことであろう。これらすべての場合を通じて、存在の潜在的次元が現実となったのは、すでに〔それ以前に〕常に潜在的に実在したものの実現化を可能ならしめるような諸条件が現存したからである。」(同、18頁)

 

聖書に、神は天地創造に関して6日、すなわち6段階の期間を要したとあるが、ティリッヒはその6日を文字通りに解釈していない。この解釈は、統一原理の創造原理と一致する。

 

また、彼は次のように述べている。

 

「神が自己自身のうちにアトムの可能性を創造したもうた時、人間の可能性を創造したもうた。また神が人間の可能性を創造したもうた時、アトムの可能性と、その両者の中間にあるすべての他の次元の可能性とを創造したもうた。それらすべての次元は、部分的には潜在的に、部分的には(或る場合には完全に)現実的に、すべての領域に現存する。現実化された諸次元のうちの一つがその領域を性格づける。というのは、そこに実現されている他の諸次元は、決定的な次元(それ自身は他の諸次元に対する一つの条件ではない)の現実化のための条件としてそこに存在するだけだからである。無機的なものは有機的なものの現実がなくても現実的であることができる。しかし、その逆ではあり得ない。」(同、19頁)

 

上述の本文に、「神が自己自身のうちにアトムの可能性を創造したもうた時、人間の可能性を創造したもうた」とあり、また「神が人間の可能性を創造したもうた時、アトムの可能性と、その両者の中間にあるすべての他の次元の可能性とを創造したもうた」とあるが、この見解は、統一思想の「存在者の性相・形状の階層的構造」(『新版・統一思想要綱(頭翼思想)』166頁)と同じ見解である。

創造原理的に見れば、神の創造目的の最終目標は、人間創造(アダムとエバ)である。したがって、神の創造論的進化は無機物から有機物へと進化し、さらに、有機物は最終目標(人間の創造)に向かって進化してきたのである。

 

つまり、進化に方向性(内的目的)があるというのである。単純なものから複雑なものへの進化、下等なものから高等なものへの進化は、個物が他の存在と無関係に、偶然に、無目的に、進化してきたのではない。進化は、最終目標に向かって進化してきたというのである。

このように、ティリッヒは、ビックバンから始まった神の宇宙創造、すなわち、無機物と有機物の創造過程を「生の過程」と表現し、階層を〝次元〟として現象学的に記述するのである。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(20)

(7)「キリストとしてのイエスの事件の普遍的意義」

 

 a. 「キリスト論と救済論の結合」

 

ティリッヒは、キリスト論は救済論の一機能であるという。言い換えると、(ふる)い存在、すなわち実存的疎外と自己破壊から人々を救済することが、キリスト論の職能(しょくのう)であるというのである。

 

「キリスト論は救済論の一機能である。救済論の問題がキリスト論的な問いを生じ、またその答えを方向づける。というのは新しき存在をもたらし、それによって旧い存在すなわち実存的疎外と自己破壊から人々を救済することがキリストの職能であるからである。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、192頁)

 

近代神学においては、シュライエルマッハー以来、キリスト論と救済論の緊密な結合が主張されるのが通例であった。しかし、キリスト論と救済とは分離できないことは明瞭であるが、パネンベルクはキリスト論と救済論のこのような結合に含まれている危惧もまた同時に現われると、次のように述べている。

 

「ほんとうにイエス自身について語られているかどうかという点である。そこでは、人間の救いと神格化への願望の投影が、むしろ問題の中心になっていないであろうか。そこでは、神に似た者になりたいという人間の努力、犯した罪を償わねばならぬ人間の義務、自らの罪責をおぼえて、破滅にとらわれている体験の投影といったものがあるのではないのか。また、新プロテスタント主義において最も明瞭に表れているように、完全な宗教性・完全な道徳性・純粋な人格性・積極的な信頼といった理念をイエスの姿に投影しているのではないのか。ここで、単に人びとの憧憬のみが、イエスに具現されたり、投影されたりしているのではないのか。」(『キリスト論要綱』W・パネンベルク、新教出版社、40頁)

 

そして、次のように述べている。

 

「キリスト論は、私たちにとっての有意義性、つまりそれを直接には宣教が供する有意義性から出発するのではなく、ナザレのイエスから出発しなければならない。イエスの有意義性は、地上のイエスが実際にどのような方であったかということから展開されねばならない。」(『キリスト論要綱』W・パネンベルク、新教出版社、41頁)

 

さらに、次のように述べている。

 

「この意図は一般に、キリスト論の伝統の基礎となっていると言ってよい。カント、シュライエルマッハー、ブルトマン、ティリッヒのような例外を除けば、ナザレのイエスの事実に根ざした現実性を犠牲にして、意識的に救拯(きゅうじょう)論的な関心の視野から考えられるようなことはなかった。」(同、41頁)

 

しかし、反論として、「アタナシオスは常に救済論的観点に立って論じている。主は完全なる神であると同時に完全な人間である。そうでなければ救いは成就されない。」(『キリスト論論争史』水垣渉・小高毅編、日本キリスト教団出版局、119頁)と解説されていることを指摘しておかねばならない。

 

しかし、次の点は傾聴に値する。

 

「『そもそもキリスト論は救拯論の一機能である』といったティリッヒによるほど無遠慮に表現されたことはない。………ブルトマンと彼の弟子たちにおいても、〈イエス自身、つまり、史的イエスが問題ではなく、新しい実存の可能性の開発として、私たちにとっての彼の『有意義性』のみが重要である〉とはっきり言っているときに、危険は明らかとなる。」(『キリスト論要綱』W・パネンベルク、新教出版社、40頁)

 

結論として、パネンベルクは次のように述べている。

 

「彼の人格についての問いであるキリスト論は、イエスの有意義性についてのすべての問い、つまり、すべての救拯論に先行されねばならない。救拯論は、キリスト論の後に続かねばならないのであって、その逆であってはならない。」(同、41頁)

 

統一原理の「キリスト論」は、第一節「創造目的を完成した人間の価値」、第二節「創造目的を完成した人間とイエス」、第三節「堕落人間とイエス」を論じた後に、「救済論」として、第四節「新生(重生(じゅうせい))論と三位一体論」が論じられている。

「創造目的を完成した人間」とは、最初に、神との一体性の問題を論述しているのである。

 

創造原理は、人間の二性性相の実体的な展開として創造したのが被造物であり、人間は天宙を総合した実体相であると論じている(『原理講論』84頁)。創造目的を完成した人間とはキリストのことであり、これは宇宙論的キリスト論である。有形なる宇宙の中心がキリストであると述べているのである。

 

近代神学において、キリストは人類の歴史との関係でのみ問題とされ、キリストの出来事を地球環境や宇宙全体との関わりで理解することはほとんどなかった。それで、現在の環境破壊に対する神学的取り組みを困難なものにしているのである。

「科学的宇宙論との積極的な関係構築を試みるだけの基礎作業が神学の側に欠けているため、本格的な『自然の神学』『コスモロジーの神学』は現在のところ存在しない………現代神学はこれについて本格的な議論を展開する基礎(キリスト論的な)を失っているからである。」(『キリスト論論争史』水垣渉・小高毅編、557頁)

 

このような問題提起に対し、すでに答えているのが統一原理のキリスト論、すなわち「創造目的を完成した人間の価値」(宇宙論的キリスト論)なのである。

 

 b. 「イエスの普遍性」

 

ところで、ティリッヒは、イエスの「実在的」形象の持つ具体性と唯一性によって普遍性が論証されるという。なぜイエスがすべての宗教を統一する普遍的存在であるのかという問題である。

 

「キリストとしてのイエスはいかなる意味で、またいかなる仕方で救済者であるか。………キリストとしてのイエスの事件は、いかなる仕方で万人にとって、また間接的には宇宙にとって普遍的意味を有するか。これをわれわれは問わなければならない。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、192頁)

 

ティリッヒは次のように述べる。〝聖書におけるイエスの形象は、唯一的事件である。かれの性格、かれの置かれた歴史的状況において、かれは唯一的である。当時の(みつ)()宗教的儀礼(ぎれい)覚知(かくち)主義的洞察(どうさつ)に対する優位は、まさにこのイエスの「実在的」形象の持つ具体性とその比較を絶した唯一性のゆえであった。〟(同、192-193頁参照)

 

「かれのすべての発言と行動を通して一個の実在的個性的生が輝き出ている。これに比すると、密儀宗教的儀礼の神々の姿像は抽象的であり、現実に生きられた生涯の新鮮な色調を欠き、歴史的運命と有限的自由の諸緊張とを欠いている。キリストとしてのイエスの形象は、その具体的実在性の力によってかれらを征服した。」(同、193頁)

 

このように、事実によって普遍性が論証される。

ティリッヒは、実存への服従は「キリストの十字架」の象徴によって、実存への勝利は「キリストの復活」の象徴によって実現されたという。ただし、象徴や神話は字義通り解釈されるとその意義を失うことを、ここでも強調している。すなわち、「非直解化」(非神話化)しなければならないというのである。ただし、十字架の死と復活をどのように非直解化するのかに関しては明確ではない。

 

(8)「救済力としての、キリストとしてのイエスにおける新しき存在」

 

キリスとしてのイエスは新しき存在であり、新しき存在を創造する力である。

 

「キリスト教が出現した世界は、魔的世界に対する恐怖に満ちていた。………魔的諸力は霊魂と神との再結合を阻止(そし)する。それは、人間を束縛(そくばく)して実存的自己破壊の支配下に(つな)ぐ。キリスト教の使信(ししん)は、この魔的諸力の恐怖からの解放の使信であった。だから贖罪(しょくざい)の過程は解放の過程である」(同、218頁)と。

 

ちなみに、再臨主による〝聖酒式〟は原罪清算(サタンの血統を清算する式)である。「イエスの体」と「堕落人間の体」の相違は、原罪があるか、ないかである。「真の父母様」による祝福結婚は、原罪を清算して「新しき存在」に新生(重生(じゅうせい))することであり、「実存的疎外の下」(魔的諸力)からの解放・釈放である。

これがキリストの救済力である。キリストの使信が一切を解放する。

 

「サタンは元来、血統的な因縁をもって堕落した人間に対応している」(『原理講論』273頁)。したがって、「堕落人間がサタンを分立して、堕落以前の本然の人間として復帰するには、原罪を取り除かなければならない」(同、271頁)のである。

 

パウロは、「神の子たる身分」を授けられるために、「体のあがなわれること」(原罪清算)を待ち望んでいると、次のように述べている。

 

「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、体のあがなわれることを待ち望んでいる。」(ローマ8・23)

 

ティリッヒは聖化(せいか)に関して、対社会的に次のように述べている。

 

「聖化は、新しき存在の力が教会の内外の個人・団体を改変する過程である。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、227頁)

 

ティリッヒは、キリスト(仲保者、(あがな)い主)が「あらゆる治癒(ちゆ)過程・救済過程の究極的基準である」(同、213頁)という。

また、キリストの使信が一切を解放する。「人類のいかなるところにある救済力も、キリストとしてのイエスの救済力によって判定されなければならない」(同)という。

 

文鮮明師の御言と原理は、イエス・キリストの使信と一致することが判定されるであろう。

イエスは〝個人路程〟の霊的救済を歩み、再臨主はそのイエス様が残した〝家庭路程〟を歩んで、霊肉両面の救済(堕落性とサタン的血統の清算)を成し、成約聖徒と共に天上天国と地上天国を創建していく。

 

ティリッヒの『組織神学』第2巻(1957年刊)は、第1巻(1951年刊)の6年後に現われた。第3巻(1963年刊)は、それよりもさらに6年後に出版された。

 

 

「補足」(「神の本体」)

 

「三位一体」と「天の父母」という神概念の同一は、統一原理の「キリスト論」と「神の成長」という概念によって存在論的に論証される。

(1)「『神様の成長』という概念について」

 

文鮮明師は、「幼児が成長したのちに結婚をするということ、これは、夫婦の位置を尋ね求めていくことであり、父母の位置を尋ね求めていくことです。神様と一体になる位置を尋ね求めていく道です」(八大教材・教本『天聖経』「真の家庭と家庭盟誓」、2336頁)と語っておられる。

 

このように、「人間の成長と人生の目標」に関して、それは、幼児が成長して結婚し、父母となり、神様と一体になることであると簡潔・明瞭に語っておられるのである。

 

次に、「神様の成長と人間の成長の関係」について、それがいかなる関係にあるかを知らなければならない。

 

文鮮明師は、この点について、次のように語っておられる。

 

「神様も赤ん坊のような時があり、兄弟のような時があり、夫婦のような時があり、父母のような時があったので、そのように創造されたのです。」(八大教材・教本『天聖経』「宇宙の根本」、1591頁)

「人間創造とは、神様ご自身が成長してきたことを実際に再度展開させてきたものです。」(同、1590頁)

 

このように、文鮮明師は、「神様ご自身が成長してきた」といわれている。今までの神学は、神様は永遠・不変、唯一・絶対なるお方であると捉えてきたが、「神様の成長」「神様の発展」という概念を知らなかった。これは驚嘆すべき御言(みことば)である。

 

聖書を見れば分かるように、イエス様は、幼少期、青少年期、成人、と成長していかれた。したがって、「神様の成長」という概念が出てきていると言える。しかし、イエス様は、結婚されなかった。上述の文師の御言により、神様とイエス様の願いは、さらに結婚して、「真の父母」になることであったと理解することができる。

 

「神様の願いは『天の父母』になること」

 

アダムとエバは神様の真の相対であると、文鮮明師は次のように語っておられる。

 

「神様の心中にある無形の子女、兄弟、夫婦、父母として、真の愛の実体完成を望んでアダムとエバの二人を創造したのです。それは、神様が実体として子女の真の愛の完成を願い、実体家庭の兄弟として、実体の夫婦として、実体の父母として、神様の真の愛の相対として完成を願われたからです。」(同、「真の家庭と家庭盟誓」、2336頁)

 

このように、アダムとエバは神様の実体として成長し、完成していくというのである。

 

ところで、文師は「アダムとエバの結婚式は神様の結婚式である」と、次のように語っておられる。

 

「横的な父母であるアダム・エバは神様の体であり、縦的な父母であられる神様が心なのです。神様は、アダム・エバの心なのです。ここで心と体が一つになって愛するとき、アダム・エバの結婚式は『体』的な父母の結婚式であると同時に、『心』的な神様の結婚式になるのです。」(『ファミリー』1999年1月号、21~23頁、第39回「真の子女の日」記念礼拝の御言)

 

そして、真の父母になる意義について、文鮮明師は次のように語っておられる。

 

「アダムとエバが真の愛で完成することは、まさに神様が実体を身にまとう願いが成就するのです。………アダムとエバが善なる子女をもって真の父母になることは、まさに神様が永存の父母の位を実体的に確定」(『祝福家庭と理想天国(Ⅰ)』、29頁、「救援摂理史の原理観」)することなのです。

 

このように、アダムとエバが「真の父母」になることは、まさに神様が永存の父母の位を実体的に確定することであると言われているのである。

神様が「天の父母様」になられるという意義が、ここにあるのである。繰り返して言えば、アダムとエバが「真の父母」として完成すれば、無形なる神様も完成した「真の父母」になるということである。そして「真の父母」の体を用いて、有形なる天地万物を直接主管されるというのである。

 

このように、「真の父母」になることが神から見れば〝創造目的〟であり、人間から見れば〝人生の目的〟なのである。

 

ティリッヒが、次のように言っていたことを想起していただきたい。

 

「『ロゴスが肉となった』というヨハネ的発言に従うべきであろう。『ロゴス』は、神と宇宙における、また自然と歴史における神の自己顕現の原理である。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、118頁)

 

以上が、神に〝成長〟という概念があるのであり、その「神の成長」という概念から見た「神の自己顕現の原理」に関する解説である。

 

(2)「三位一体と天の父母という神概念の同一」について

 

聖書には、「神の定義」はないという神学者がいるが、聖書によると、神の()姿(すがた)として、無形なる神の有形なる分立実体対象としてアダムとエバが創造されたと定義されている(創世記1・27)。

同様に無形なる神の分立実体対象が、イエスと聖霊(霊的実体)である。したがって、「神―アダム―エバ」と「神―イエス―聖霊」の関係は〝類比関係〟にある。この類比から、三位一体論を再考察する必要性があるのである。

 

統一原理の三位一体論は、「神がアダムとエバを創造された目的は、彼らを人類の真の父母に立て、合性一体化させて、神を中心とした四位基台をつくり、三位一体をなさしめるところにあった」(『原理講論』、267頁)とあり、同様に、「イエスと聖霊は、神様を中心として一体となるのであるが、これがすなわち三位一体なのである」(同)と述べている。したがって、三位一体論のエバに対応する聖霊は、〝女性である〟と言えるのである。

 

無形なる「神の本体」は、統一原理によると、真の愛を中心とした「二性性相の中和的・統一体」なのである。神の二性性相とは、神の神的な男性的要素と神的な女性的要素をいう。その無形なる神の二性性相の分立実体対象が、アダムとエバであり、イエスと聖霊なのである。

 

「三位一体」とは、無形なる神様を中心として、有形なるイエスと聖霊が一体となることである。神とイエスが一体であり、神と聖霊が一体なのである。

イエスと聖霊は、アダムに対するエバとの〝類比関係〟にあり、神から分かれた二つは、イエスの復活後、霊的に一つになったのである。これが、伝統的な三位一体論の諸概念の形式から自由な立場で実質を表現した「霊的な三位一体論」なのである。

 

アダムとエバは完成を目指して成長していた。しかし、未成年期でサタンの誘惑によって堕落して人類を繁殖し、「偽りの父母」となった。それで、サタンの支配下で人間は生まれながらにして神から離反(疎外)した存在となっているのである。つまり、人間の疎外は普遍的現実となったのである。

 

第二アダムであるイエス様も、幼少から成長して成人となられ、そして、結婚して「真の父母」となることを願われた。しかし、十字架の死によって肉体を奪われたので、神が実体として父母となることができなかったのである。それで、再臨して実体の父母となる天的使命を果たされることを約束されるのである。

 

アダムの相対がエバである。同様に、霊的イエスの相対が聖霊(女性)である。イエス様は「霊的な真の父母」(霊的な三位一体)になられ、信仰者を霊的に新生されるのである。

イエスの残された〝家庭路程〟を、結婚して歩まれた再臨のメシヤは、実体の神の体として、「実体の真の父母」(実体的な三位一体)として完成された。そして、人類を霊肉両面においてを重生(じゅうせい)(原罪清算)し、サタンの支配圏から人間を解放・釈放されているのである。

 

また、万物の主管者である人間(アダム)の完成は、万物の救いでもあるのである(ローマ8・19-21)。

 

以上のように、イエスの復活である再臨主は、実体の「真の父母」(実体的な三位一体)となられたので、神も「天の父母」になられたのである。

 

結論として、次のように言える。

神を中心とした真の父母は、実体的な三位一体である。無形なる神が有形なる「真の父母」の姿として顕現されているというのである。言い換えると、「真の父母」は神様の体である。

 

存在論から見て、「三位一体」と、神を中心とした「真の父母」は同一である。というのは、「神を中心としたイエスと聖霊」と「神を中心とした真の父母」は同じ様式による「三位一体」であるという意味である。

イエスと聖霊は「霊的な三位一体」となり、真の父母は「霊肉の三位一体」なのである。

 

「霊的な三位一体」と「霊肉の三位一体」の相違について、前者は霊的救いを与え、後者は霊肉両面の救いを与える。

パウロは「神の子たる身分」を授けられるために、「体のあがなわれること」(原罪清算)を待ち望んでいると、次のように述べている。

 

御霊(みたま)の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。」(ローマ8・23)

 

このように、イエスと御霊(聖霊)によって新生した「最初の実」であるキリスト者パウロが、なおも「からだのあがなわれること」を待ち望んでいるのである。

 

したがって、イエスはキリスト者の「からだをあがなわれる」ようにするために再臨されるのである。すなわち、再臨のキリストは実体の神の体として、「実体の真の父母」(霊肉の三位一体)として完成され、そして、人類を霊肉両面において重生(じゅうせい)(原罪清算)し、サタンの支配圏から人間を解放・釈放されるのである。

 

以上が、存在論から見た「三位一体と天の父母という神概念の同一」と「霊的な三位一体」と「霊肉の三位一体」の相違に関する霊的救いと霊肉両面の救いの説明である。

 

無形なる神の有形実体である「真の父母」による霊肉両面の救いは、地上天国(神の国)がそこに現われていることを示している。

 

文鮮明師の八大教材・教本に『天国を開く門 真の家庭』と『平和の主人、血統の主人』がある。この二つの本の表題の意味は深い。「真の家庭」とは、メシヤの家庭のことである。平和の主人、血統の主人とは誰のことなのであろうか。

  ―「補足」の項、以上―

 

 

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(19)

(5)「キリスト論的教理の発展における危険と決定」

 

a. 「神性と人性」

 

ティリッヒは「キリスト論」について、常にイエスの〝キリスト性〟の否定と、〝イエス性〟の否定という二つの危険性があることを、次のように指摘する。再臨主に関しても同様である。

 

「キリスト論的発言を脅かす二つの危険性が、イエスはキリストであるとの主張の直接的結果としてでてくる。この主張を概念的に解釈しようとする試みは、現実的には、キリストとしてのイエスのキリスト性の否定となったり、あるいはまた、キリストとしてのイエスのイエス性の否定となったりする。キリスト論は、常にこの二つの大きな谷間にはさまれた尾根の上を歩まねばならず、決して完全に成功しえないことを知らねばならない。というのは、それは神的神秘に触れる問題であり、神的神秘はその顕現のなかにおいてさえどこまでも神秘にとどまるからである。

伝統的用語では、この問題はイエスにおける神性と人性の関係として論ぜられた。人性の減少は、実存の諸制約へのキリストの全的関与性を奪い去るであろう。また、神性の減少は実存的疎外へのキリストの全的勝利を奪い去るであろう。いずれの場合も、かれは新しき存在の創造ではありえないであろう。かれの存在は新しき存在以下になるであろう。したがって問題は、完全な人性と完全な神性との一体性をいかに考えるべきかにあった。………

キリストにおける神人両性の教説は正しい問題を提出しているが、誤った概念的手段を使用している。その根本的な不適切性は、神または人の「性」(nature)の概念にある。この概念は、それが人間に適用されると両義的であり、神に適用されると誤りである。これが、ニケア会議やカルケドン会議などの諸会議の実質的真理と歴史的意義にもかかわらず、その不可避的最終的失敗の理由を説明する。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、181-182頁。注:太字は筆者による)

 

b. 「二種類の人間」(「真の人」と「堕落人間」)

 

原理的に考察すると、「完全な人性と完全な神性との一体性をいかに考えるべきか」に関して、神と人間の関係には「本然の人間」(真の人)と「堕落人間」という二種類の人間観があるという点が、解決の着眼点であるといえよう。父と子との間にいかなる相違があるというのであろうか。本来、神と人間は〝親子の関係〟であり、親子という以外に「神」と「真の人」(本然の人間)の間に相違はない。

 

人間の精神には原罪と堕落性がある。したがって、神性と人性は一つになりえない。しかし、「本然の人間」(真の人)である「イエス」(ティリッヒがいう「新しき存在」)には原罪も堕落性もない。

キリストは、本質的に神人一体化した「真の人」(完全な者)である。したがって、イエスにおいて神性と人性が一つになっているのである。

 

ただし、イエスにおける両性の一致は生れながらであり、また原罪がないので、イエスの人性は堕落人間の人性ではないのである。イエスは神の体である。神とイエスとの関係は、心と体との関係にたとえられる。ロゴスが実体として定着した完成人間である。神と人との仲保者である。

 

統一原理は、堕落人間がキリストによって新しき存在に再創造(重生)されれば、キリストの形象に似て「完全な者」(マタイ5・48)になり得ると説いている。

 

統一原理は、「キリスト論」で次のように述べている。

 

「イエスを神であると信じる信仰に対しては異議がない。なぜなら、完成した人間が神と一体であるということは事実だからである。また原理が、イエスに対して、彼は創造目的を完成した一人の人間(真の人)であると主張したとしても、彼の価値を決して少しも下げるものではない。ただ、創造原理は、完成された創造本然の人間の価値を、イエスの価値と同等の立場に引きあげるだけである」(『原理講論』257頁)

 

以上が、神性と人性の一体性についての問いに対する原理的な答えである。ただし、統一原理は、賢明にも誤解を招くような〝神性〟と〝人性〟という概念を用いていない。

 

ティリッヒは、これらの問題に関して次のように述べている。

 

「教会の死活問題としてアタナシウスによって守られたニケア会議の決定は、啓示と救済に関するキリストの神的力の否定を許し難いものにした。ニケア論争の用語では、キリストの力は神の自己顕現の原理としてのロゴスの神的力である。ここから、ロゴスはその神的力において父と同等であるか、それ以下であるかの問題が起こる。もし第一の答えが与えられると、サベリウス的異端におけるように父と子との区別が消滅してしまうようにみえる。もし第二の答えが与えられるならば、アリウス的異端におけるように、ロゴスはたとえそれが一切の被造物のうち最大のものと呼ばれてもなおやはり一個の被造物であり、したがって被造物を救うことができないことになる。真に神である神のみが新しき存在を創造することができるのであり、半神にそれはできない。この思想を表現すべきものが、“homo‐ousios”(同一本質の〔同じ存在の力の〕)の語であった。しかしその場合でもなお半アリウス派はさらに問いを発することができた――では、父と子との間にいかなる相違がありうるか、地上のイエスの形象は全く理解不可能とならないであろうか、と。この問いに対してアタナシウスや多くのかれの親しい追従者たち(例、マルケルス)は答えに(きゅう)した。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、182頁。注:太字は筆者による)

 

アタナシウスは神とイエスは同質(同一本質“homo‐ousios”)であると主張した。

しかし、イエスが神であるなら、ティリッヒは「地上のイエスの形象は全く理解不可能とならないであろうか」と述べている。一例をあげると、「荒野を40日のあいだ御霊(みたま)にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた」(ルカ4・2)と記述されているが、イエスが神御自身であるならば、神がサタンから試練を受けることなどは理解不可能である(『原理講論』260頁を参照)。したがって、「父と子との間にいかなる相違がありうるか」という問題が生じる。

 

それゆえに、「答えに窮した」とあるが、われわれは「なぜ窮したのか」と問わなければならない。このように、イエスの人性と神性に関してどのように捉えるかで論争が続いたのである。

 

「本然の人間」(新しき存在=無原罪のイエス)の人性は原罪のある「堕落人間」の人性(「人間精神」)と相違する。「本然の人間」(真の人)の神性と人性の一体化は半神的神ではない。イエスは神人一体化した完全な人間である。

 

イエスと人間の本質的相違は原罪があるか、ないかである。統一原理は、「創造目的を完成した人間とイエス」の間には差異がないと述べている。

 

c. 「キリスト論と三位一体論との関係」

 

次の本文は「三位一体論」に関するものである。

 

「ニケア会議の決定は、たとえそれが三位一体論的教理にも基本的貢献をしたにしても、やはりキリスト論に根ざすものである。同様に、コンスタンティノポリス会議(三八一年)におけるニケア信条の再主張と拡大は、たとえそれがロゴスの神性に聖霊の神聖を付加したとはいえ、やはりキリスト論的発言であった。もしキリストとしてのイエスの存在が新しき存在であるならば、かれをしてキリストたらしめるものは人間イエスの人間的精神ではなく、ロゴスと同様な神におとらぬ神的精神でなければならない。………ただここで言えることは、三位一体的象徴は、もしそれがそれの根ざす二つの経験――生ける神の経験と、キリストにおける新しき存在の経験――から切り離されるならば、所詮(しょせん)は空虚なものとなってしまうということである。アウグスティヌスもルターも、この事情を感じていた。アウグスティヌスは、三位一体における三つのペルソナ(現代語における人格の意味ではない)はいかなる内容をも持たず、『特定の何かを言うためではなく、沈黙のままでいないために』用いられたものであることを知っていた。事実、『生まれない』、『永遠に生まれ』『………より出て』などの用語は、たとえそれが象徴と解する――象徴にちがいないが――としても、何ら象徴的表象として有意味なものを示さない。ルターは、『三位一体』のような語を奇妙な笑うべき語と考えたが、しかし他の場合と同様にこの場合にも、より良い語がないことを知っていた。かれは三位一体的思想の二つの実存的な根を知っていたから、三位一体的弁証法を無意味な数の遊戯とみなす神学を(しりぞ)けた。三位一体論的教理はキリスト論的教理の補強的部分であり、ニケア信条の決定は〔空虚な三位一体論的思弁のためのものではなく〕キリスト教を半神的神の儀礼への逆転から救った。それはキリストとしてのイエスから新しき存在の創造力を奪う恐れある解釈を斥けた。」(同、183頁。注:太字は筆者による)

 

このように「初期教会の二大決定によって、キリストとしてのイエスの事件のキリスト的性格とイエス的性格との両方が保存された」のである。

ティリッヒは、「ルターは、『三位一体』のような語を奇妙な笑うべき語と考えた」と述べている。「人格」(ペルソナ)という語は、独立した個人の人格を意味する。そうすると、三位一体における三つのペルソナは〝三人の神〟がいることになり、「唯一の神」と矛盾することになる。それで、現代語の〝人格〟の意味ではないと解説しているのである。つまり、「数の遊戯(ゆうぎ)」ではないと言って誤魔化(ごまか)しているのである。

 

文鮮明師は、次のように語っておられる。

 

「神様が二性性相の主体であられるように、神様が自分の二性性相を展開し、神様の形状どおり万宇宙を造り、人間を造ったのです。アダムは神様の男性的性稟(せいひん)を展開させたものであり、エバは神様の女性的性稟を展開させたものなのです。このように見るとき、私たち一般人が普通『天のお父様!』と言うのは、お一人ですからそのように言うのでしょうが、そのお一人という概念の中に『天のお父様、お母様』という概念が入っているというのです。」(八大教材・教本『天聖經』「成約人への道」1421頁)

 

「神様が二性性相(男性的性稟と女性的性稟)の主体であられる」という存在論から見た神観と、「天のお父様!」と言うのは、「お一人という概念の中に『天のお父様、お母様』という概念が入っている」という説明によって、「唯一の神」と「三位一体の神」の矛盾の問題が存在論の観点から解決するのである。

 

すなわち、「唯一の神」(神様が二性性相<男性的性稟と女性的性稟>の主体であられる)と「三位一体の神」(「神-アダム-エバ」あるいは「神-イエス―聖霊」と「神を中心とした真の父母」)が存在論的に類比の関係にあるという観点から同一であると言えるのである。

ただし、「唯一の神」は無形であるが、「三位一体の神」は無形なる神が有形なる「アダムとエバ」あるいは「イエスと聖霊」、そして「真の父母」として顕現したという相違がある。

 

統一原理(文鮮明師の神学思想)は、三位一体論を信仰からではなく普遍的な存在論から論じているのである。

 

(6)「現代神学のキリスト論的課題」

 

以上のごとく、ティリッヒはキリスト論的実質を表現しうる「新しい形式」を見出す試みをしなければならないという。そして、新しき存在である一人間の形象、実存的疎外を克服しうる一人間の形象とは、神が独特の仕方でそこに顕現している一人間の形象であるという。

これは、統一原理のキリスト論の思想それ自体であるといえよう。

 

原理的に言えば、「神が独特の仕方でそこに顕現している一人間の形象」とは、生まれながらにして無原罪のイエスの形象のことである。

人間がメシヤに「接ぎ木」されて原罪を清算し、堕落性を脱ぐなら、個性完成したイエスと同じ価値をもつ存在になり、「神が独特の仕方でそこに顕現」するようになるというのである。

 

キリストの形象に似ること、これが救いの目標である。神から見た歴史の目標は、ただ一人のメシヤ(キリスト)をこの地上に送ることにあるのである。

 

ティリッヒは、「『ロゴスが肉となった』というヨハネ的発言に従うべきであろう。『ロゴス』は、神と宇宙における、また自然と歴史における神の自己権限の原理である」という。

神が、どのような原理によって歴史の中にキリストとしてのイエスとして顕現したのであろうか。それを具体的に解明したのが、統一原理の「復帰原理」である。

 

ところで、われわれと同じ人間マリヤから生まれたイエスが、なぜ無原罪であるのかという問題がある。これは誰にも解けないミステリーである。

聖なる処女マリヤから生まれたからというが、なぜ「聖なる処女」といわれるのか、その根拠を示していない。〝胎中聖別〟はタマルの腹中での双子(長子ゼラと次子ペレヅ)の闘いで、次子が長子として出てきたことと関係があるのであるが(創世記38・28-30)、このようなことが、なぜ旧約聖書に記述されているのか、これは「統一原理」の堕落論が分からなければ解けない問題である。

 

また、〝聖霊〟によって生まれたからというが、洗礼ヨハネもそうである。彼が胎内にいる時、母エリサベツも聖霊に満たされていた(ルカ1・15、同1・41)。洗礼ヨハネも無原罪のキリストになるのであろうか。そうではない。

 

文鮮明師は、これらの謎を八大教材・教本『天聖経』の「罪と蕩減復帰」と『祝福家庭と理想天国』(1)に掲載されている「救援摂理史の原理観」の中で、イエスの無原罪の問題を解明されている。

 

a. 「過去のキリスト論はすべて不適切」

 

過去のキリスト論は、プロテスタント教会が現代果たさなければならないキリスト論的課題に不適切であると、ティリッヒは次のように述べている。

 

「『カトリック的』な伝統が初期教会の二大決定(ニケア、およびカルケドン)の実質に基づいているかぎり、プロテスタント神学もそれを受容しなければならない。しかしプロテスタント神学はさらにそれを越えて、過去のキリスト論的実質を表現しうる新しい形式を見出す試みをしなければならない。………それは、過去数世紀のプロテスタント神学における正統主義的キリスト論に対しても、また自由主義的キリスト論に対しても批判的態度をとることを意味する。プロテスタント正統主義の発展は、その古典的時期においても、またその後の再定形化においても、キリスト論的問題の古典的用語による理解可能な解決が不可能であることを示した。神学的自由主義は、その歴史的批判的研究(例、ハルナックの『教理史』)によって、神人両性説によるキリスト論的問題解決の試みがすべて不可避的に矛盾と不条理に追いこまれることを示した点で功績がある。しかし、自由主義自体は体系的な面でキリスト論に大した貢献をしなかった。自由主義は『イエスはイエスによって伝えられた福音に属しない』ことを主張することによって、キリスト・イエスの事件のキリスト的性格を排除した。アルベルト・シュヴァイツェルのような、イエスの使信(ししん)の終末観的性格、またその終末観的図式の中心人物としてのイエスの自己理解、を力説する歴史家たちでさえ、その終末観的要素をかれら自身のキリスト論に使用しなかった。かれらはそれを黙示文学的脱自(だつじ)から生じた奇妙な空想的合成として削除した。事件のキリスト的性格がイエス的性格のなかに吸収された。しかし自由主義神学をアリウス主義と同一視することは公平ではない。そのイエス形象は半神的イエス形象ではない。むしろそれは神が独特の仕方でそこに顕現している一人間の形象である。しかしそれはその存在が新しき存在である一人間の形象、実存的疎外を克服しうる一人間の形象ではない。プロテスタント神学の正統主義的方法も自由主義的方法も共に、プロテスタント教会が現代果たさなければならないキリスト論的課題に不適切である。」(ティリッヒ著『組織神学』2巻、185-186頁。注:太字は筆者による)

 

このように、ティリッヒは既存神学のすべてのキリスト論を不適切と言い切る。そして「キリスト論的実質を表現しうる新しい形式を見出す試みをしなければならない」というのである。

 

しかし、ティリッヒのキリスト論に対して、次のように批評されている。

「ティリッヒのキリスト論は、人間疎外とその克服という点から展開されている点に大きな特徴がある。………ティリッヒのキリスト論は、ブルトマンのそれとは違った意味において、現代におけるキリスト論の最もすぐれた実存論的解釈と言えるであろう。しかしケーラーやブルトマンの場合と同様、彼の場合にもイエスの歴史性が正当に評価されているとは必ずしも言いがたいであろう。」(『キリスト論論争史』水垣渉・小高毅編、日本キリスト教団出版局、520頁)と批評されている。

 

このように、「イエスの歴史性が正当に評価されているとは必ずしも言いがたいであろう」と言われている。周知のように、パネンベルクは「キリスト論は………何よりも、地上におけるイエスの活動と運命にその基礎をもっている」(W・パネンベルク著『キリスト論要綱』、13ページ)といい、「歴史の復権」(史的イエスの研究)を強調する。

 

これに対して、統一原理(啓示=神の御言・天的宣言)は「創造目的を完成した人間」から見た「キリスト論」である。イエスの歴史性の正当な評価に関しては、統一原理(『原理講論』)の「メシヤの降臨とその再臨の目的」や「イエスを中心とする復帰摂理」等で説かれている。シュヴァイツアーの『イエス小伝』で叙述されている十字架以前のイエスの地上の公生涯は一体何であったのか、という問いに対しても正当に答えている。

 

b. 「霊的な三位一体論と実体的な三位一体論」

 

三位一体論について、統一原理は次のように理解している。

イエスと聖霊とは、神を中心とする霊的な三位一体をつくることによって、〝霊的真の父母〟の使命を果たし、霊的新生(霊的重生(じゅうせい))の使命を果たされた。それゆえに、未だ、信徒たちは〝霊的子女〟の立場に留まっているのである。

したがって、イエスと聖霊は、神を中心とする実体的な三位一体をつくり、霊肉ともに真の父母となり、堕落人間を霊肉ともに新生(重生)させるために再臨されるのである(『原理講論』「三位一体論」、268頁を参照)。

 

このように、既存の三位一体論の形式から自由な立場で三位一体論的実質を論述している。

 

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(18)

(二)「キリストの現実性」

 

(A)「キリストとしてのイエス」

 

ティリッヒは、「キリスト教がキリスト教であるのは、『キリスト』と呼ばれたナザレのイエスが現実にキリストであること、すなわち、かれが事物の新しい状態・新しき存在をもたらす人であることを主張するからである。イエスがキリストであるとの主張が維持されるところに、キリスト教使信(ししん)がある。この主張が否定されるところにはキリスト教使信はない」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、123頁)という。

 

また、「実存的疎外の克服者」であるイエスと彼の「死」について、次のように述べている。

 

「実存的疎外の克服者たるかれが実存的疎外とその自己破壊的諸結果にみずから関与し〔死な〕なければならないという逆理である。これが福音の中心的物語である」(同、124頁)と。

 

ただし、ティリッヒは説いていないが、福音書から使徒行伝へと続くように、キリストとしてのイエスの再臨も福音の中心である。

 

上述の「みずから関与し〔死な〕なければならない」とは、イエスの十字架の死と復活を意味し、それは人間の「死」を如何に克服するかという「問い」に対する「答え」(啓示)なのである。

 

(1)「イエス・キリストの名称」

 

イエス・キリストとは固有名詞ではない。

 

「メシア――ギリシア語の『キリスト』――とは、イスラエルと世界における神の支配を確立すべく神より塗油(とゆ)された『受膏者(じゅこうしゃ)』である。したがって、イエス・キリストなる名称は『キリストと称されるイエス』、『キリストであるイエス』、『キリストとしてのイエス』、『キリスト・イエス』として理解されなければならない」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、124頁)

 

なぜ、キリストとしてのイエスにこだわるのであろうか。

ちなみに、パネンベルクは、次のように述べている。

 

「イエスを通して啓示されてこそ、はじめて、神を知るのである。神について語る他のどんな語りかけも、せいぜい暫定的な意味を持ちうるにすぎない。」(『キリスト論要綱』W・パネンベルク著、3-4頁)

 

このように神学とキリスト論、すなわち、神についての教理とキリストとしてのイエスについての教理とは互いに結びついている。この結びつきを開陳することこそ、まさにキリスト論のみならず、神学自体の目標でもあるというのである。

 

キリスト教が、ナザレのイエスが指し示す現実的事実に固執(こしつ)するゆえんについて、ティリッヒは次のように述べている。

 

「もし神学がナザレのイエスなる名称が指示する事実を無視するならば、神学はキリスト教の基礎的主張――すなわち本質的神人性〔神人一体性〕が実存の中に現われ、実存的諸制約に征服されることなしにそれに従わせたとの主張――を無視することになる。実存的疎外が克服された人格的生活がなかったならば、新しき存在は単なる求めであり期待であるにとどまり、時間空間的現実ではなくなる。実存が一点において――実存全体を代表する一個の人格的生活において――克服される場合にのみ、実存は原理的に克服される」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、125頁)

 

「実存的疎外が克服された人格的生活」とは、福音書に記述されているイエスの生涯それ自体のことである。イエスは架空の人物ではなく、歴史に実在した人物である。

 

ティリッヒは、キリストとしてのイエスに対する弟子たちの信仰もまた強調する。

この信仰受容がないならば、「もしイエスがかれの弟子たちの上に、また弟子たちを通して次の世代の上に、かれ自身をキリストとして刻印しなかったならば、ナザレのイエスと呼ばれた人間は恐らく歴史的宗教的重要人物として記憶にとどめられただけのことになるであろう」(同、126頁)と指摘する。

 

信仰の基礎には、イエスはキリストであると宣教した使徒の証言や、地上でのイエスがご自身の権威を主張したこと、さらに、イエスの復活を目撃した証人などの見解がある。

 

また、「キリスト論」は、イエス自身から着手すべきなのか、それとも教会のケリュグマ(宣教)から着手しなければならないのか、という問題がある。

 

パネンベルクは、「キリスト者の現在的な経験を神学の出発点として用いることは、……シュライエルマッハーと19世紀のエルランゲンのルター派神学にさかのぼることができる。シュライエルマッハーは彼の信仰論において、現在的なキリスト者の体験による逆推論の方法でキリスト論を構成した」(『キリスト論要綱』W・パネンベルク、9頁)と述べている。

 

そして、結論として、パネンベルクは次のように述べている。

 

「新約聖書は、イエスがその高挙(こうきょ)によって、地上から、また彼の弟子たちから、取り去られたと証言している。私たちが、挙げられた主としてイエスのいま生きていることを知るのは、現在の経験からではなく、ただその当時に起こった出来事に基づいているのである。イエスの復活と高挙を証言する報告の確かさを信頼することによってのみ、私たちは、挙げられ、そして今なお生きていたもうお方に、祈りにおいて向かうことができるし、しかも現在このお方と交わることができるのである」(同、12~13頁)

 

このように、パネンベルクは「キリスト論は、単に教会のキリスト告白の発展に関わるだけでなく、何よりも、地上におけるイエスの活動と運命にその基礎をもっていることを問題にするのである」(同、13頁)というのである。

 

(2)「史的イエスの研究」

 

ティリッヒは、歴史研究の科学的方法が聖書文書に応用され始めて以来、それ以前は背後に潜んでいた〝神学的諸問題〟が、教会史上未曽有(みぞう)の重大性を持つようになったという。

今日、歴史的研究全体を「歴史批判」とか「高等批評」(高層批評)とか、あるいは「形式批判」などと呼ばれている。

 

彼は「史的イエスの研究」の動機について次のように述べている。

 

「歴史的批判は信仰そのものを覆えすかの如くに思われた。………古い諸伝統による着色や被覆(ひふく)の背後にあるナザレのイエスなる人物の事実を発見しようとする熾烈(しれつ)な〔宗教的〕欲求が働いていた。いわゆる『史的イエス』の探求が始まったのはこのようにしてであった。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、129頁)

 

D・F・シュトラウス(1807-1874)の『イエスの生涯』や、アルベルト・シュヴァイツァーの『イエス伝研究史』、そして、ブルトマンの『新約聖書と神話論』などがそうである。ナザレのイエスなる人物の事実を発見しようとする熾烈な〔宗教的〕欲求なのである。

 

ティリッヒは、ブルトマンの大胆な新約聖書の非神話化は「神学の全分野に嵐を()き起こし、歴史的問題に関するバルト主義のまどろみに驚愕(きょうがく)覚醒(かくせい)を与えた」(同、130頁)と述べている。

 

歴史的研究に対し、特に聖書文書の歴史的研究を神学的偏見によるものとして攻撃する見解があるが、これに対してティリッヒは次のように反論する。

 

「かれらはかれら自身の解釈もまた偏見によるものであること、すなわちかれらのいわゆる信仰の真理によるものであることを否定しえないであろう。しかるにかれらは歴史的方法には客観的科学的基準があることを否定する。しかしそのような主張は、普遍的研究方法の使用によって発見されまたしばしば経験的に検証された膨大(ぼうだい)な史料を思い見るとき、とうてい維持されがたいものである」(同、131頁)と。

 

これは、歴史的研究に対するバルトらの批判を意識して書かれたものであろう。

 

(3)「歴史的研究と神学」

 

しかし、ティリッヒは「歴史的研究によってキリスト教信仰および神学を基礎づけようとする(くわだ)てが失敗である」(同、136頁)という。しかし、他方で歴史的研究を次のように偉大なできごととして評価している。これは、彼の文脈によく見られる対立的見解を統一しようとする〝否定〟と〝肯定〟の弁証法的思考である。

 

次の本文は肯定面である。

 

「聖書文書の歴史的研究なるものはキリスト教史上における、否、さらに宗教史・文化史上における一つの偉大な出来事である。それはプロテスタント主義の誇りとするに足る一要素である。神学者たちがみずからの教会の神聖な文書を歴史的研究による批判的分析にかけたことは、プロテスタント的勇気の一つの表われであった。人類史上、他のいかなる宗教も、このような大胆なことを実行し、このような危険性をみずからに引き受けたことはなかったと思われる。イスラム教にも、正統ユダヤ教にも、ローマ・カトリック教にも、そのようなことはなかった。この勇気には報賞(ほうしょう)が与えられた。というのは、ひとりプロテスタント主義のみがよく一般の歴史的意識の流れに参加し、みずからを精神生活の創造的発展への影響力なき狭隘(きょうあい)な孤立的宗教界のなかに閉じこめることをまぬがれたからである。プロテスタント主義(根本主義のグループは別として)は、歴史的研究の結果を、証拠に基づくのではなく、教理的偏見に基づいて拒否する無意識的不誠実性へと追いこまれなかった。………プロテスタントのグループは、徹底的な歴史的批判によってさまざまの危機状態に投げ込まれたにもかかわらず、なお生き続けた。イエスがキリストであるとのキリスト教的主張は、最も厳しい歴史的誠実性にも矛盾しないことが、ますます明白となった。」(同、136-137頁)

 

上述の「狭隘な孤立的宗教界のなかに閉じこめる」とは、他宗教に対する排他的狭隘性を批判しているのである。また「教理的偏見に基づいて拒否する」とは、統一原理と文鮮明師に対して教理的偏見(根本主義などの見解)で拒否しているキリスト教の現状に一致する。

 

ところで、ティリッヒは「歴史的研究によってキリスト教信仰および神学を基礎づけようとする企が失敗である」というが、下記のごとく今日「歴史への復帰」という現象が顕著になって来る。パネンペルクは、「信仰は史的イエス自身に根拠」を持たねばならないことを強調する。

 

「バルトをはじめブルトマンやティリッヒなど、一九六〇年代頃までをその活躍の時期としていた二十世紀の神学者たちは、近代自由主義神学における不毛な『史的イエス』の探求や人間主義的なキリスト解釈に反対して、おしなべて歴史学的地平からの後退を宣言し、『原歴史』や『実存の歴史性』や『キリストの象徴(シンボル)』などに新たな活路を求めたが、これに対して一九五〇年代半ば頃から、『歴史への復帰』という現象が顕著になってくる。一九五三年、ゲーゼマンは『史的イエスの新しき探究』の必要性を叫び始め、その三年後にはボルンカムが『ナザレのイエス』Jesus von Nazareth(1956)を上梓する。新約学者たちのこういう動きに対応するかのように、やがてヴォルフハルト・パネンベルク(Wolfhart Pannenberg,1928- )が、『パネンベルク・グループ』と称される仲間たちと共同で、『歴史としての啓示』Offenbarung als Geschichte(1961)を著わす。」(『キリスト論論争史』水垣渉・小高毅編、日本キリスト教団出版局、524頁)

 

そして、パネンベルクはその3年後には、さらに『キリスト論要綱』(1964)を出版するのである。

 

(4)「キリスト論的教理の評価」

 

キリスト論的教理は如何に形成されていったかに関して、ティリッヒは新しき存在の追求とともに始まったという。

イエスは、人の子、神の子、キリスト、ロゴスなどと言われている。

ティリッヒは、初代教会の「キリスト論」について、次のように述べている。

 

「定形化されたキリスト論は、新約聖書の記者たちが『キリスト』と呼んだイエスにキリスト論的諸象徴を適用した仕方によって基礎を置かれた。」(ティリッヒ著『組織神学』2巻、177頁)

「初期教会がギリシア哲学から得た概念的用語によってキリスト論的象徴の解釈を始めた一つの理由であった。そのための最適の象徴が『ロゴス』の象徴であったのであり、そしてこれはその本性上、宗教的・哲学的に根を張った概念象徴である。その結果、初期教会のキリスト論はロゴス・キリスト論となった。」(同、177-178頁)

 

このロゴス・キリスト論は、キリストが実体(肉体)として顕現したことを強調するためである。それは「ナザレのイエス」に対して仮現説(仮の現れにすぎない)を主張するグノーシス(ドケティズム)に対抗するためであった。

ドケティズムとは、2世紀以前の初期グノーシス派と神秘宗教からでたもので、受肉と十字架は単なる見かけ、つまり〝仮象〟であるというのである。

 

初代教会はこの「キリスト論」の教義問題で論争した。

ティリッヒは、これらについて次のごとく述べている。

 

「初期教会の教理的研究の中心は、キリスト論的教理の創造にあった。他のすべての教理的発言――特に神と人間、聖霊と三位一体についての発言――は、キリスト論的教理の前提ともなり、またその結果である。イエスがキリストであるとの洗礼告白文が、キリスト論的教理が注釈する本文である。キリスト教教理に対する根本的攻撃は、直接的・間接的にキリスト論的教理に対してである。その攻撃のあるものは、この教理の実質すなわち洗礼告白文についてであり、また他のものはギリシア的概念の使用のようなその形式についてである。」(同、178頁)

 

ティリッヒは、論戦の結果は「キリスト論的教理は教会を救ったが、極めて不適切な概念手段によってであった」(同、179頁)と述べている。

 

その論争について、次のように評価している。

 

「一つには、キリストとしてのイエスにおける新しき存在の使信の表現にはいかなる人間的概念も不適切であるからであり、また一つには、ギリシア的概念の特殊的不適切性のためにである。すなわちギリシア的概念は普遍的意義を有するが、しかしそれはアポロやディオニソスの神像(しんぞう)に規定された具体的宗教〔的状況〕から由来したものである。」(同、179頁)

 

受肉は、アポロやディオニソスの神像と同じ偶像ではないかと思われた。福音書には、ナザレのイエスは人間として実存的疎外を克服した人格的生活の模範を示したことが記述されている。

 

「第六世紀中葉以後におけるカルケドン信条の半-単性論的変質である。この例における本来的使信の歪曲(わいきょく)化の原因は、ギリシア哲学の概念の使用にあったのではなく、当時のきわめて強力な呪術(じゅじゅつ)的迷信的敬虔(けいけん)の傾向が諸会議に与えた影響にあったのである。概念的形式の不適切性の例はカルケドン信条そのものである。この信条は、その意図としては、キリスト教使信の本来的意味に対して忠実であった。そして事実、この信条はイエスの人間的形象の完全な排除からキリスト教を救った。しかし、この課題を果たすためには、当時手もとにあった概念的手段をもってしてはただ強大な逆理的命題の積み重ねによるのほか仕方がなかった。それは、キリスト教使信に組織的解釈を与えること――これこそが哲学的諸概念導入の本来の理由であったのだが、――はできなかった。神学は、失敗が敬虔心の悪化に起因する場合に神学の必然的概念的手段を非難してはならないし、また概念的手段の不適切性を宗教的脆弱(ぜいじゃく)性に帰してもいけない。また神学は哲学的概念を排除してはならない。それは現実には、神学が自己自身を排斥することを意味する。神学は自ら使用する諸概念からまたそれらの諸概念に対して自由でなければならない。神学は、その概念的形式とその実質との混同から自由でなければならない。神学は、教会的伝統から与えられた概念的手段よりも、いっそう適切ないかなる手段を用いてでも、その実質を表現すべく自由でなければならない」(同、179-181頁。注:太字は筆者による)

 

上述の最後の「いっそう適切ないかなる手段を用いてでも、その実質を表現すべく自由でなければならない」という個所は、統一原理の神論とキリスト論を受容ならしめる洗礼ヨハネ的主張であるといえるのであろう。

その実質とは、キリスト論的実質であって、神の本体は何かである。バルトは〝三位一体の神〟という。統一原理は〝天の父母〟という。キリスト教は、神は〝父〟であって女性的要素はない。したがって、父母とはいわない。それで、父母という神概念に違和感を持つキリスト教徒は少なくないであろう。

「三位一体」と「天の父母」という神概念の同一性を存在論的に説かねばならない。この問題は後で論ずる。

 

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(17)

 (5)「実存的自己破壊と、悪についての説」

 

人間とその世界とは実存的疎外の状態にある。自己矛盾は自己破壊に向かう。それは、疎外の構造自体からくる。この構造をティリッヒは「破壊の構造」という。

 

ティリッヒは、「(悪は)破壊と疎外の両方……を含む。」「罪は悪の原因であり、また悪そのものである。」「(悪は)罪と疎外の状態から来る諸結果を意味する」(『組織神学』第2巻、76頁)という。

また、「自己喪失は、自己決定の中心の喪失である。」「諸衝動が中心に統一されている間は、それらが全体としての人格を構成する。それらが互いに対立的に働くようになると、それらは人格を分裂させる。」「(分裂が大きくなると)人間の中心ある自己は破壊されることがあり、そして自己喪失と共に人間は世界を喪失する。」「自己喪失は自己決定の中心の喪失、人格の統一の崩壊である」(同、77頁)というのである。

 

ティリッヒは、「破壊の構造」を上述のごとく論述する。統一原理も「それ自体の内部に矛盾性をもつようになれば、破壊されざるを得ない」(『原理講論』22頁)と述べ、この「人間の矛盾性」(破壊の構造)は〝先天的なもの〟ではなく、人間の堕落の結果による〝後天的なもの〟であると述べている。

 

「有限性と疎外性」の個所で、ティリッヒは次のように述べている。

 

「人間は存在の根拠から疎外して、かれの有限性に規定されている。かれはかれの自然的運命〔死の運命〕に引き渡されている。かれは無から出て無に帰する。かれは死の支配下にあり、可死性の不安にかられる。これが罪と死の関係の問題に対する最初の答えである」(同、83頁)と。

 

このように、ティリッヒは、「存在の根拠」(神)から疎外(堕落)して、かれの有限性(肉体の死)に規定される「不安」にかられるという。

キリスト教では、人間の肉体が死ぬのは〝堕落〟に起因するという。そして「永遠の命」とは、人間の肉体が永遠に生きることを意味する。

 

この見解は、人間には「霊のからだ」と「肉のからだ」があることを知らない見解であるといえよう(コリントⅠ、15・44)。堕落人間は、神から離反(疎外)して霊肉が分離している。それで、霊界が存在することがわからない状態にある。

したがって、死を恐れるのである。ティリッヒは、堕落人間の「肉のからだ」の有限性を根拠に、人間の不安に関する実存を語るのである。

 

原理的に解説すると、堕落による死とは〝肉体の死〟ではなく、神との愛の関係が切れることをいうのである。

肉体は死ぬが、その肉体の〝死〟は、罪とは関係がないというのである。死ねば「霊の体」となり、霊界で永生する。神の愛のあるところは〝天国〟であり、神の愛のないところは〝地獄〟である。

 

したがって、「永遠の命」とは肉体が永遠に生きることではなく、神との愛の関係を回復した「霊の体」(霊人体)で、霊界において永遠に生きる喜びをいうのである。

キリスト教の救いとは、この「永遠の命」を得ることである。反対に、神の愛から離反(疎外)した「霊の体」は、生きているが死んだ体なのである。それで、「生きた死体」として、サタンの支配の下で永遠に生きるのである。

それが、聖書でいう「永遠の死」という意味である。このような、死んだ「霊人の復活」(地獄からの解放)に関しては、統一原理の「復活論」で説かれている。メシヤによって再創造されて復活するというのである。

 

霊界のことを、もう少し原理的に説明すると、旧約時代の律法を行うことで義とされた人は霊界の(しもべ)圏で霊形体となり、救い主を待っている。新約時代のイエスと聖霊によって導かれ、キリストを信じて義とされた人は、霊界の養子圏で生命体となり、再臨主を待っているのである。

 

キリスト教以外の仏教や儒教やイスラム教などを信じて義とされた人たちは、律法と同じ等級の僕圏で救い主を待っているのである。したがって、今まで生霊体となり、天国に入った人は誰もいないのである。再臨主はこれら霊界のすべての人、すなわち、サタンの支配の下にいる僕圏や天国の待合所(養子圏)にいるキリスト者たち、そして無神論や殺人鬼などの悪人たちすべてをサタンの(もと)から解放・釈放して天国へ導くのである。

 

ただし、再臨主に対して造反した人は「第二の死」(永遠の死)の世界へ行くことになる。彼らは、そこ(罪と死と恐怖の世界)で「生きた死体」として永遠に苦しむことになる。それを後悔して悔い改め、救いを求めるならば、再臨主の教えによって最後には復活する。

 

ティリッヒの中心思想の一つである生の過程における疎外論は、マルクスが『経済学・哲学草稿』で論述している資本主義社会における「労働生産物からの疎外」、「労働の疎外」、「類からの疎外」、「人間からの人間の疎外」という「四つの疎外論」と対比するとよい。体制の革命か、人間革命(心の革命、心情革命)か、どちらであるかという問題である。

 

ティリッヒは、「社会構造の改変のみが人間の実存的窮境(きゅうきょう)を改変することができるという信念」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、92頁)をユートピア主義として批判している。

そして、「本質存在からの人間の疎外は実存の普遍的性格である。それは各時代にそれぞれ特殊の悪を限りなく生み出す」(同、93頁)と述べている。

 

また、マルクス主義が主張する社会体制が疎外(悪)の原因なのではなく、時代を超越した普遍的な「人間の罪」(人間の疎外構造、自己破壊の諸構造)が根本的な原因であると述べているのである。

 

以上述べた「悪の諸構造は人間を『絶望』に追いやる」(同、93頁)とティリッヒは述べ、「絶望の経験はまた、『呪詛(じゅそ)』の象徴によって表現される」(同、96頁)という。

そして、「人間は、呪詛の状態にあってもなお存在の根拠から切断されていない」(同、97頁)というのである。

 

なぜ切断されないのかに関しては、彼の『組織神学』で解かれていないが、全能で完全な神は〝失敗する神〟ではない、と統一原理の堕落論において解明されている。

 

(6)「新しき存在への問いと、『キリスト』の意味」

 

堕落によって神から離反(疎外)した実存的制約下にある人間の意志は、善を成し得ない。「ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の(もと)にある………義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものとなっている」(ローマ3・9-12)。

このようにティリッヒは「意志の奴隷性は普遍的事実である」(同、99頁)という。

 

ティリッヒは、宗教史は人間の自己救済の企てと、その失敗の歴史であるという。それは、人間が彼の疎外性を突破しえない無能力にあるからであるというのである。

そして、救いは「新しき存在」であるキリストを抜きにしてあり得ないということを悟るためであるというのである。

 

(7)「神、人間、および『キリスト』象徴」

 

ティリッヒの『組織神学』第2巻の中心は「キリスト論」である。

彼のいう「キリスト」象徴の意味をいかに理解すればよいのであろうか。神・人間・宇宙に対するキリストについての考察で、彼は次のように述べている。

 

「受肉が、神的諸存在が自然物や人間的存在に変質する神話的解釈をされることがある。この意味では、受肉はキリスト教の特徴であるどころか、はるかにそれから隔たったものである。むしろそれは、異教の神が有限性を克服していないかぎりにおける異教の特徴である。多神教においては、有限性が克服されないがゆえに、神的諸存在が神話的空想によって何の困難もなく自然的諸事物や人間的諸存在に変えられる。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、118頁)

「『ロゴスが肉となった』とのヨハネ的発言に従うべきであろう。『ロゴス』は、神と宇宙における、また自然と歴史における神の自己顕現の原理である。『肉』は物質的実体ではなく、歴史的実存を表わす。」(同)

「これは変質の神話ではなく、神が一人格の生活過程に顕現して人間の窮境(きゅうきょう)に救済的に関与するとの主張である。もし『受肉』の語がこのような限定された意味に解されるならば、それはキリスト教的逆理を表現することができる。しかし、それにしてもこれはあまり賢明な表現法ではない。というのは、この語の概念の迷信的含意を防ぐことは実際に不可能であるからである。」(同、118頁)というのである。

 

受肉思想は、いろいろと議論されてきた。グノーシスのキリスト仮現説(イエスの肉体は仮象であり、人間性を否定する)、神の子の神性が人間となる、肉に神性を見る、一時的に天使も見える姿に現われたがこれも受肉なのか、ロゴスが肉となったのはイエスのみである、受肉は被造物である。被造物は神ではない。被造物は被造物を救えないなど、今も論争の対象である。

 

ちなみに、統一原理はヨハネ福音書のロゴスを、〝理法〟あるいはロゴスによる神の無限なる〝構想理想〟(設計図)と解釈する。その設計図によって、天地万物を創造したというのである。

 

「世は彼によってできた」(ヨハネ1・10)とは、神は彼(アダム=イエス)を標本として世(被造物)を造ったということである。人間から見れば、万物は人間の形象(『原理講論』67ページ)である。また、人間は小宇宙であると説いている。

 

ティリッヒは、「『ロゴス』は、神と宇宙における、また自然と歴史における神の自己顕現の原理である」というのは、「キリスト教的逆理」であり、「あまり賢明な表現法ではない」というが、そうであろうか。

ロゴスを御言あるいは原理と捉え、その具体的内容(創造原理、堕落論、復帰原理)を知らないようである。

 

神は原理によって天地万物を創造された。しかし、神の()姿(すがた)である天地を主管する人間が堕落したからといって、天地万物を破壊し、その原理を捨てるなら、創造に失敗した神になる。神は失敗する神ではない。したがって、その原理によって堕落した人間を再創造されるのである。アダムが堕落して御言(原理)を失ったので、第二アダム(イエス)を送って御言(原理)を復帰し、原理によって堕落人間を救済されるというのである。

 

したがって、歴史は一人のメシヤ(イエス=真理)を送ることにあるのである。これが「歴史における神の自己顕現の原理」と言っている意味である。

「神(イエス)が一人格の生活過程に顕現して人間の窮境に救済的に関与する」という意味である。文鮮明師は「原理とは神様の心の中にある主流の憲法である」と語られている。

 

伝統的神学は、イエスは〝家庭の原理〟について何も語られていないというが、家庭の原理に関して、次のように述べておられるのである。

「……『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」(マタイ19・4-6)

 

このように、「父母()」(神)-「ふたり()」(夫婦)-「一体()」(合性体)という四位基台(存在の原理)について述べておられるのである。

同様に、統一原理は「夫婦として完成されるためには、神を中心として、男性と女性が三位一体となり、四位基台を造成しなければならない」(『原理講論』446頁)と説いている。

 

次に、「キリスト」象徴の意味についてである。

 

ティリッヒは、「われわれが聖書的また聖書に関連するメシア待望がメシア到来を宇宙的規模で描いていることを考える時、特にその重要性を増して来る。宇宙が新しい世界(アイオーン)に生まれかわるのである。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、119頁)という。

 

新しき存在は、「単に個々人を救済して人間の歴史的実存を改変するのみではなく、また宇宙を更新することにある。………〔人間〕の救済は他方〔自然〕の救済なしには考えられず、またその逆でもある。」(同、119頁)というのである。

このように、救済を個人的に捉えようと宇宙論的に捉えようと、キリストが宇宙の中心(本体)であり、キリストが主管する世界となるのである。

 

ところで、「宇宙の更新」に関して、ティリッヒの神学には具体的な説明がない。「事物の新しい状態・新しき存在」をもたらすとは、神話的に文字通りに捉えるのではなく、統一原理の「終末論」で説かれているように、サタンの支配する時代が終わり、神が支配する時代が始まるこというのである。

言い換えると、人間の堕落によって宇宙は破壊されたが、終末に、再臨主によって、人間も宇宙(自然)も再創造されて救済されるという意味である。

 

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(16)

(2)「有限性と不安」

 

さて、本論に戻るが、ティリッヒは有限性と不安について、次のように述べている。

 

「人間は単にすべての被造物と同様に有限的であるだけではなく、また自己の有限性を意識する。そしてこの意識が『不安』である」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、43頁)と。

 

そして、ティリッヒはアダムとエバが自己実現に向かって自由を行使して堕落したというのである。

 

次の本文は、有限的自由に根ざした〝不安〟に対する心理学的分析である。

 

「分析はいわば内側から、すなわちかれがかれの有限的自由を意識する不安の側からもなされうる。かれが自由を意識する瞬間に、危険状態の意識がかれを捕える。かれは、有限的自由に根ざし不安となって発現する二重の脅威(きょうい)を経験する。かれは自己と自己の可能性とを現実化しないことによって自己を喪失(そうしつ)する不安と、自己と自己の可能性とを現実化することによって自己を喪失する不安とを経験する。かれは存在の現実性を経験することなしに夢心地の無垢(むく)状態を保持するか、あるいは無垢状態を喪失し、その代りに知恵と力と罪過とを得るかの二者選一の前に立たされる。この状態の不安が誘惑の状態である。かれは自己実現化に向かって決断し、かくて夢心地の無垢状態が終焉(しゅうえん)する」(同、44-45頁)

 

これが、「自由と堕落」に関する実存主義的心理学的分析によるティリッヒの教説なのである。これ以外に、〝蛇〟は不可解であると述べるにとどまり、何も解明していない。

ところで、自由意志の問題であるが、人間は神の意志通りに動くロボットではない。ティリッヒが言うように、人間のみが自己を神から離間する力(自由)を持つ存在として創造されている。そのような自由な存在であってこそ、人間は神の似像(にすがた)であると言えるのである。

しかし、この自由意志によって堕落したのではない。自由意志は神の愛を求めるが、死を選択しない。自己と自己の可能性とを現実化するために死を避けるのである。

 

聖書に、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5・48)とある。

しかし、自由がある限り、救われたとしても、また自由のために堕落するとするならば、人間は完全な者にはなり得ないということになる。

 

神は、そのような不完全な人間を造ったのであろうか。統一原理は、〝愛の力〟は〝原理の力〟より強いと捉え、それで、成長過程において「戒め」を守らなければ、愛の誘惑によって堕落する可能性があるとする。

すなわち、自由意志で堕落したのではなく、愛の力で堕落したと心理学的に分析している(「自由と堕落」より、『原理講論』125頁)。

それでは、なぜ愛を原理の力より強くしたのか。それは、愛を愛らしくするためであった。この神の愛で完成すれば、人間は決して堕落しないというのである。

 

(3)「原罪と人間観」について

 

ところで、ティリッヒは次のように原罪論を批評する。

 

「原罪説は人間に対する消極的否定的評価を意味するように考えられ、これが産業社会に発達した新しい生活感情・世界感情に真向から衝突(しょうとつ)した。人間に関する悲観論が、世界と社会を技術的・政治的・教育的に改造しようとする近代人の強い衝動を阻害(そがい)すると恐れられた。人間の道徳的力・知性的力の消極的評価から権威主義的・全体主義的諸結果が生じると懸念(けねん)されたし、今もそうである」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、48頁)と。

 

それで、ティリッヒは悲観的な原罪論との関連で、「神学は人間の本質的性質の積極的評価を強調しなければならない」(同)というのである。

シュヴァイツァーも「生命への畏敬(いけい)」を説き、「世界人生否定的悲観主義」ではなく、「倫理的世界人生肯定的な世界観」を説くべきことを強調していた。

バルトも、神が罪人を否定するのは「神の義」であるが、同時に否定された人間を義として肯定せんがためであるといい、「罪」と「神の義」の関係を弁証法的()()で理論的に説いている。

 

このように、原罪論は、一面において消極的否定的悲観的な人間観(罪人)となるので、救済論において積極的肯定的な人間観を説く必要性があるのである。

 

ところで、「人間の本質的性質の積極的評価」を主張するティリッヒは、神学は人間の偉大さと尊厳の自然主義に反対して「人間の創造された善性を守る点で古典的人本主義と提携(ていけい)しなければならない」(同、48頁)といい、「神学は人間の実存的自己疎外を示すことにより、また有益な人間的窮境(きゅうきょう)の実存主義的分析を使用することによって、原罪説を再解釈しなければならない」(同、48頁)というのである。

 

「古典的人本主義」との提携というが、統一原理は人本主義(人間中心主義)を批判克服した神本主義(神律)を主張している。言い換えると、神本主義によってヒューマニズムが完成すると説いているのである。

 

ところで、「原罪説の再解釈」を主張することは傾聴に値するが、しかし、彼は「『原罪』『遺伝的罪悪』などの語を除去」(同、48頁)することを主張する。これには反論せざるをえない。

原罪説と関連させ、メシヤによる接ぎ木によって「新生すること」(ティリッヒ的にいうと「新しい存在」に生まれかわること)を強調すべきなのであって、ティリッヒのように原罪論や遺伝的罪を排除することではない。

 

上述のように、原罪説が現代社会からなぜ攻撃され、また排除されるのかを知ることは、原罪ゆえに歪んでいる現在社会をいかに救済するかを考察する際の重要な問題意識となる。

 

ティリッヒは「創世記」の蛇の存在について、次のような疑念を述べている。

 

「創世記においては、人間のうちまた周囲における自然の力動性を代表するものは蛇である。しかし蛇だけでは力がない。人間を通してのみ本質から実存への移行が起こる。後世の説は反逆した天使の象徴を蛇の象徴に結合した。しかしこれとても人間の責任を解除するものとは考えられなかった。というのはルチファーの堕落は、たとえそれが人間の誘惑となるにしても、人間の堕落の原因にはならないからである。天使の堕落は実存の謎をとく助けにはならない。それはいっそう不可解の謎、すなわち神の栄光を永遠に見ている『祝福された霊的存在』が何故に神からの背反へと誘われたかという謎をもちこむ。」(同、49頁)

 

つまり、誘惑者である「蛇」の堕落と人間の堕落を関係させる見解は、謎が謎を生み、より不可解なものにしてしまうというのである。

 

このように、聖書の堕落神話に疑念を表明し、「人間の状況における道徳的要素と悲劇的要素の相互浸透性を記述することが必要である」(同、48頁)というにとどまり、なぜ堕落したのかという問いに対して「自由で堕落した」という伝統的神学の見解を述べ、「本質から実存へ移行した」という事実を記述するにとどまる。

言い換えると、「罪への欲望」「覚醒(かくせい)された自由」が堕落の動機であるというだけで、「原罪」とは何かに関しては、上述のごとく解かれていないのである。

 

(4)「人間疎外の諸標識と罪の概念」

 

原罪説に対する文字通りの解釈は、ティリッヒによると「多くの直解的主義的不条理を負わせているから、実際的にはもはや使用不可能である」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、58頁)という。

しかし、今まで誰も解きえないからと言って、原罪説を廃棄(はいき)することではない。この不可解な神話の謎を解く人こそ、再臨のメシヤであるといえるであろう。

 

ところで、ティリッヒは個人的疎外と集団的疎外について、次のように論述している。

 

「自由と運命とが一体化しているかれらの行動は、それが関与する全体の運命に寄与しているからである。かれらは、かれらの集団内で犯された罪悪をみずから犯さなかったから有罪ではないが、その罪悪が行われえた全体の運命に寄与したがゆえに有罪である。このような間接的な意味において、一国の専制政治の犠牲となった人たちでさえ、その専制政治に関して有罪である」(同、73頁)と。

 

これは、統一原理の「連帯罪」に関する記述と同じである。原罪と遺伝的罪については、先に論述した通りである。