カテゴリー: ティリッヒ「弁証神学」

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(15)

『組織神学』第2巻――(実存とキリスト論)――

 

(一)「実存と、キリストへの問い」

 

ティリッヒは『組織神学』第2巻の緒論で、次のように述べている。

 

「神を存在自体と定義することから神論が始められると、哲学的な存在概念が組織神学のなかに導入される。このことはキリスト教神学の初期においてなされたし、キリスト教思想史全体においてもなされて来た。この書においては、存在概念は三つの個所で現われる。すなわち、神が存在としての存在、存在の根拠、また存在の力、と呼ばれる神論において、また、人間の本質的存在と実存的存在との区別が貫かれる人間論において、最後に、キリストが神の霊の働きによって実現された新しき存在の顕現と呼ばれるキリスト論においてである」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、新教出版社、12頁)

 

このように、ティリッヒの哲学的な存在概念は、神論、人間論、キリスト論の三つの個所で現われるのである。この三つの個所がティリッヒの『組織神学』体系の中心なのである。

 

ティリッヒは、神論について次のように述べている。

 

「この存在の力としての存在概念は、いかなる神学もこれを排除することができない。存在と神とを引き離すことはできない。神があるとか、神は存在するとか言われる瞬間、神と存在の関係がどう理解されるかが問われている。この問いに対する唯一の答えは、神は存在の力、ないし非存在を克服する力、としての意味において存在自体である、ということである」(同、13頁)

 

このように、神を存在の力と捉え、統一原理と同様に神概念を存在論的に論述している。

 

統一原理の神論も、「万有原力」、「授受作用」、「三対象目的」、そして「四位基台」など、哲学的な存在概念で論述されている。

ティリッヒの「存在の力」とは、統一原理の「万有原力」のことである。万有原力とは、神が永存し、すべての存在が存在するための根本的な力のことである。ティリッヒによると、この存在論的な神論はいかなる神学も排除できないというのである。

 

以上のように、ティリッヒの神論における存在概念は、統一原理の神概念を受容可能にする天的使命を持った洗礼ヨハネ的な神学であるといえるであろう。

 

『組織神学』第3巻の訳者である土居真俊氏は、「訳者後記」で次のように述べている。

 

「彼(ティリッヒ)の神学は哲学、文化、心理学、社会科学、自然科学のあらゆる領域を包括しており、極めて多面的である。

彼は聖書からの引照を余り用いないので非聖書的であるような印象を与えるが、そうではない。内実的には極めて聖書的である。彼は、『キリストとしてのイエスに現われた新しき存在』を彼の神学の中心に据えるという意味において、私は彼をバルト、ブルンナー、ニーバー兄弟と共にネオ・オーソドキシーに加えることを躊躇(ちゅうちょ)しない」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、新教出版社、536-567頁)

 

(A)「実存と実存主義」

 

ティリッヒは、神と人間の堕落した状態を、次のように実存哲学を用いて語る。

 

「神においては、本質的存在と実存的存在との区別はない。」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、28頁)

「神は本質と実存との対立に従属しない。神は諸存在に並ぶ一存在ではない」(同)

「神のみが『完全』であり、『完全』とは正確には、本質的存在と実存的存在との間隙(かんげき)を越えた存在を意味する語である。人間とその世界は完全性を持っていない。人間と世界の実存は、『堕落』におけるように、本質の外に立つ。」(同)

 

ティリッヒは、実存主義に関して次のごとく評価している。

 

「実存主義は、『(ふる)い世』すなわち疎外(そがい)状況の人間と世界の窮境(きゅうきょう)を分析した。その点で実存主義はキリスト教の味方である。」(同、33頁)

「実存主義は、人間実存の古典的キリスト教的解釈の再発見を助けた。」(同)

 

ティリッヒは、メシヤの使命に関しても次のように実存哲学を用いて語る。

 

「キリスト教は、イエスがキリストであることを主張する。『キリスト』なる語は、著しい対照によって人間の実存的状況を指し示す。というのは、キリスト、すなわちメシアは、『新しい(アイオーン)』・宇宙の更新・新しい現実、をもたらす人であるからである。新しい現実は、(ふる)い現実を前提とする。旧い現実とは、預言者たち・黙示文学者たちの記述によれば、神からの人間と世界の離反〔疎外〕の状態である。この離反の世界は、『魔的諸力』として象徴される悪の諸構造に支配されている。悪の諸構造は個人の魂を、民族を、また自然界をさえ支配している。それはあらゆる形態の不安を生じさせる。これを克服して、魔的諸力すなわち破壊の諸構造が撤廃(てっぱい)される新しい現実をもたらすことが、メシアの仕事である」(同)

 

このように、ティリッヒは「神からの人間と世界の離反〔疎外〕の状態」(内部に矛盾性を持つ「破壊の諸構造」)をメシヤが撤廃して「新しい現実」をもたらす、と実存哲学を用いて語るのである。

 

(B)「本質から実存への移行と『堕落』の象徴」

 

ティリッヒは堕落の神話について、文字通りの解釈の弊害(へいがい)を次のように実存主義哲学によって批判する。

 

「『堕落』の象徴はキリスト教の伝統の一つの重要な部分である。それは普通はアダムの堕落に関する聖書物語と関連づけられているが、しかしそれの意味はアダムの堕落の神話以上の普遍的人間学的意義を有する。聖書の直解主義は、キリスト教的堕落神話の強調と創世記物語の直解主義的解釈とを同一視し、そのためキリスト教に著しい害を与えた。神学は今日直解主義を真剣にうけとる必要はないが、しかしそれがいかにキリスト教会の弁証論的課題を妨害したかをわれわれは知らなければならない。神学は『堕落』を『昔々あるときに』起こった出来事としてではなく普遍的人間状況の象徴として、明瞭かつ明白に説明しなければならない」(同、36頁)

 

ちなみに、統一原理は、エデンの園の〝蛇〟や〝善悪を知る木〟を文字どおりに解釈しない。それらを、何かの比喩であり、象徴であるとする。

ところが、直解主義者は非直解主義的解釈に対して、狂信的に反対する。しかし、ティリッヒは「文字通りの解釈」はキリスト教に著しい害を与えたというのである。

 

「『直解主義』(Literalism)の語は翻訳できない。それは象徴を文字通りにとることによって、それを迷信的不条理に変えてしまう神学的態度を意味する」(同、36頁)

 

ブルトマンは、聖書の神話を「非神話化」すべきであると言って問題となったが、ティリッヒは「非神話化」という言葉を避けて「非直解化」という言葉を用いる。

 

上述のように、ティリッヒは、堕落神話の「直解主義」(文字通りの解釈)の弊害(へいがい)を排除し、堕落神話は「『昔々あるとき』起こった出来事」としてではなく、「普遍的人間状況の象徴」であると捉え、人間の堕落を「本質より実存への移行」であると実存主義的に論述するのである。

ただし、ティリッヒは、「普遍的人間状況の象徴」というだけで、神が「取って食べてはならない」(創世記2・17)と言われた「善悪を知る木の実」とは何か、また、言葉を話す「蛇」とは何か、に関しては解明していない。

 

(1)「自由と堕落」について

 

ところで、なぜ堕落したのかという問題に関して、ティリッヒは「堕落の可能性は、統一としての人間的自由のあらゆる性質から来る。………神の似像(にすがた)である人間のみが自己を神から離間(りかん)する力を持つ。」(同、41頁)と述べ、この自由のために堕落したというのである。

 

しかし、この見解には問題がある。「神が堕落するような人間をつくったのか」、「罪の気質がどのようにして『夢心地の無垢(むく)』なアダムの性質の中に入りこんだのか」、さらに、「神が悪を創造したのか」という神義論の問題にまで至るのである。

しかし、ティリッヒは、何も解明していない。彼はメシヤでないので、仕方がないのではあるが…。

 

a 「ルタ-の疑念」と「ザビエルへの問い」

 

マルティン・ルター(1483-1546)は、「どうして神は、アダムが堕落するのを許したもうたのか。また、神は彼を堕落せぬように保つか、あるいは私たちをほかの(すえ)からか、または清められた第一の裔から造ることができたもうたであろうのに、どうして私たちすべてを同一の罪にけがされたものとして造りたもうたのであるか」(『世界の名著18ルタ-』松田智雄編、中央公論社、223頁)と述べている。

そして、ルターはその問いに対して「このような神秘を探ることは、私たちのなすべきことではない。むしろ、この神秘を畏敬すべきなのである」(同)という。

 

フランシスコ・ザビエル(1506-1552)に対して、鹿児島の住人が次のような疑問を提起したという話がある。

 

「確かに悪魔が存在し、それが悪の原理であり人類の敵であることはわかるが、それなら創造主を認めることができなくなる。何故なら、万物を造ったといふ善なる創造主が悪を造り出したといふのは矛盾だからである………もし創造主が人間を造ったと言ふなら、自分が造った人間が悪魔に誘惑された時、何故人間を保護せず誘惑されるのを黙認したのか」(小堀桂一郎著『国民精神の復権』、PHP研究所、65頁)と。

 

これらの論難(ろんなん)は、誰も解明していない。しかし、文鮮明師が解明した「堕落論」を知っている人なら、難なく答えることができる。

 

小堀桂一郎氏は、先の問いの最後を次のような言葉で()めくくっている。

 

「これから日本に派遣される宣教師は特に哲学、論理学を修めてこなくてはならない、日本人は非常に手ごはい相手である、トマス・アキナス、ドン・スコトスほどの学者でも日本人の質問にはよく答へられまい、といふのがサヴィエルの正直な感想だったのです」(同、67頁)

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(14)

「補足理論」

 

(4)「垂直的関係」と「平面的関係」

 

無限なる存在と有限なる存在の「アナロギア」(類比)は「在らしめる存在」と「在らしめられる存在」との間に成り立つ「存在の関係」であり、最も根源的な意味での存在の〝因果の関係〟である。

ただし、神は諸々の存在者と同一平面において諸々の存在者の原因になるのではない。それは、垂直的に個々の存在者の存在原因としてかかわるのである。

 

科学的世界観を持つ現代人に、「存在のアナロギア」を説明できるのは「統一原理」(『原理講論』第二節、「万有原力と授受作用および四位基台」)以外にないであろう。

 

統一原理は、縦的関係(垂直的関係)と横的関係(平面的関係)を、万有原力と授受作用の原理として解明している。

カントの「無限因果の系列理論」を論破したという統一原理は、神と被造物との関係を如何に捉えているのかという問題である。具体的に言えば、生命、作用、存在の原理とは何かという問題である。

すべての存在者は「神のうちに生き、動き、存在している」(使徒行伝17・28)のである。「人間の在り方」(四位基台)は「万物の在り方」(四位基台)なのである。

 

カントの論難(ろんなん)とは、「自存性」を前提とする因果律からの解放〔自由〕は第一原因と現象界との連続性の切断である。もし、連続しているなら、その自由の介入によって〝自然法則〟は混乱するというのである。

上述の統一原理は、縦的な万有原力の介入と横的な授受作用の原理によって、自然法則は混乱しないと説いている。カントの「無限因果の系列理論」は神と被造物との平面的関係のみを見て、より根源的な垂直的関係を見ていないのである。神は諸々の存在者と同一平面において、諸々の存在者の原因になるのではないというのである。

 

カントに影響されている知識人は、現代においても非常に多い。バルトもそうである。彼らはカントが次のごとく言うことに追随(ついずい)する。

 

「自然学が、原因の系列を用いてかかる第一の始まりをどのように説明しようとしたところで、すべて失敗に終るのである」(カント著『判断力批判』〔下〕、篠田英雄訳、岩波文庫、122頁)と。

 

そこで、反対派は、統一原理に対し次のように問うのである。「第一原因の原因は何か」と。

神論における多くの混乱と多くの弁証論的弱さの除去は、ティリッヒがいうように、神を存在論的に捉えることであり、問題とされている〝因果の系列〟の問いに対する答えの鍵は、「神は無形実在である」(真の愛を中心とした二性性相の中和的・統一体)と捉えるところにある。

 

ティリッヒは、存在者と神との関係を「有限なるもの」に対する「無限なるもの」と捉えたが、「有形なるもの」に対する「無形なるもの」という概念を想起できなかった。それで、カントのいう無限の因果の系列という「無限」を批判し得なかったのである。

 

カントの哲学は、その時代的社会的背景の反映である〝機械的唯物論〟の世界観に影響され、制約されている。また、彼にはプロテスタントの福音主義の影響が強く、彼の批判哲学はその信仰を基盤とした〝福音主義〟の神学の哲学化であるといえよう。

理論理性による神の存在論的な証明はすべて失敗する、神認識は信仰(道徳的実践の要請)による、という彼の哲学体系は、福音主義と一致する。

 

しかし、時代的に制約されているとはいえ、彼の三つの『批判書』(『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』)の影響は、現代にまで及んでいる。「すべての哲学は彼に流れ、彼から出発する」といわれるが、そのことをわれわれは改めて認めざるを得ないのである。

 

カントの先験(せんけん)的認識論や善意志、あるいは道徳的法則は「人間の意識の主体性、能動性」の論証に不可欠であり、レーニンが彼の著『唯物論と経験批判論』でいう「精神は脳髄の機能である」と精神を物質に従属させる唯物論的見解(精神は物質の所産)に対する批判において、カント哲学は不可欠である。

 

そのことを、カントはすでに次のごとく言っていたのである。

 

思惟(しい)する存在者の行為と内感の現象とは、唯物論的には何ひとつ説明され得ない」(カント著『判断力批判』〔下〕、187頁)と。この偉大なる哲学者に敬意を表する。

 

(5)「日本共産党の批判」

 

日本共産党は、「カントも批判する『神』の『宇宙論的証明』」と題して、次のように統一原理を批判する。

 

「神の存在の『宇宙論的証明』は、ヨーロッパの古代や中世の神学や哲学で、ごく普通にもちいられてきた議論のすすめ方である。この考え方は、自然界におけるすべてのものごとが因果関係によって制約されている事実にもとづいて、この原因―結果の系列をさかのぼって、もはやいかなるものの結果でもない端的(たんてき)な原因(第一原因あるいは自己原因)に到着し、これを世界の創造者つまり神とみなす議論である。

古代のアリストテレスをはじめ、中世のアウグスチヌス、アヴェロエス、トマス・アクィナスなどの考え方はこのような証明法にもとづいていた。近代においてもロックやライプニッツたちの機械論的自然観の場合、基本的にはこれと同じ考え方に立っていた。………運動・変化の原因を因果の無限連鎖(れんさ)として考え………この無限系列に区切りをつけようとすれば『第一原因』を考えざるを得なかったのである。」(『原理運動と勝共連合』、日本共産党中央委員会出版局、138頁)

 

日本共産党は、上述のごとく論述した後に、神の存在証明を批判するカントの「無限因果の連鎖」を取り上げ、宇宙論的証明は18世紀に「打ち破られてしまったもの」と言って、次のごとく統一原理を揶揄(やゆ)する。

 

「出来事には必ず原因があるはずだとする因果律は、結果から原因へ、そしてまたその原因へと無限にさかのぼることを要求する性格をもっている。この『証明』はそのような因果律の性格にもとづいて究極の原因たる『第一原因=神』を導きだすのだが、しかし同時にこの因果律の性格はその『第一原因』の背後にもまたその原因を追求せずにはいない。『第一原因』はもはやそれ自体、原因をもたない最初の原因であるはずであるが、因果律はそれにとどまらず、さらに『第一原因』の原因をも要求せずにはいない。これはこの『宇宙論的証明』が自分自身の()りどころである因果律によって自己矛盾に陥っているのである。『第一原因』を求めていけばいくほど、それは無限のかなたへと遠のき、もはやそれは『第一原因』ではないものと化してしまう。こうして『第一原因』は消滅し、つまり『宇宙論的証明』はなんら証明とはなりえないのである。

観念論者カントによる実に見事な批判ではないか。勝共連合=統一協会のいう『第一原因=神』論は、このようにすでに十八世紀にカントたちによって打ち破られてしまったものであったのだ。」(同、139頁)

 

このように批判を展開した後に、結論として次のように()めくくる。

 

「なおこの神の存在の『宇宙論的証明』に対するカントをはじめとする批判に直面して、その後の宗教哲学は大きく転回せざるを得なかったという宗教思想史上の事実をもつけ加えておこう。まともな宗教思想家であるならば、その後、宗教を心のなかの問題として論ずることはあっても、宇宙の『第一原因』などから論ずるということはしなくなったのである。」(同、140頁)と。

 

以上のように、日本共産党は、カントの無限因果の連鎖を無批判的に用いているのである。

また、「宗教を心のなかの問題として論ずることはあっても、宇宙の『第一原因』などから論ずるということはしなくなった」というが、ティリッヒが、神を「存在自体」、「存在の力」であると存在論的に論じていることを知らないのであろうか。

 

神を心の中の問題として捉えて、〝神認識は信仰から〟という福音主義神学は、神を心の枠内に幽閉(ゆうへい)し、自然界をもっぱら無神論や唯物論の独壇場(どくだんじょう)にさせているのである。この見解は、知性の怠慢(たいまん)であるという他はない。

統一原理は、既存の新正統主義神学や新自由主義神学ではないのである。

 

(三)「カントの目的論批判に反論する」

 

カントは、目的論を次のように批判している。

 

「完全無欠な目的論があるにしても、それはけっきょく何を証明するのだろうか。かかる目的論は、このような知性的存在者が現実的に存在するというようなことでも証明するのだろうか。いや、そうでない、この目的論といえども、その証明するところは次のこと以上に出ないのである、即ち――我々の認識能力の性質にかんがみ、従ってまた経験と我々の理性とを結合したうえで、意図を持って作用するような最高の世界原因を思いみるのでなければ、この種の世界の可能を絶対に理解することはできない、ということだけである。それだから我々は、『知性的な根原的存在者が存在する』という命題を客観的に証明することはできない、ただ我々の判断力を使用して自然における目的を反省する場合に備えて、この命題を主観的にのみ証明し得るにすぎない。」(カント著『判断力批判』〔下〕岩波文庫、79-80頁)

 

しかし、今日では、動物と植物に目的意識があることが証明されている。植物が音楽に反応することまで分かっている。存在者の存在目的は、カントのいうような認識主体である人間の〝主観的〟な目的意識の投影ではない。

 

カントは、神(知性的な根源的存在者)を「客観的に証明することはできない」、「主観的にのみ証明し得るにすぎない」というが、統一原理は神を存在論的に捉え、客観的に論理的科学的に証明している。

「キリスト論」で、イエスは神の実体対象である(ヨハネ14・9-10)と述べている。したがって、神と「真の人」(イエス)との「存在の類比」から神認識が可能であり、神は人格神(天の父)であると捉えている。

 

また、カントは存在者の存在目的を、次のように否定する。

 

「我々が究極目的を物のなかへ持ち込むのであって、物の知覚から究極目的を取り出してくるのではない」(カント著『判断力批判』〔下〕、岩波文庫、271頁)

 

このように、カントによると、自然における客観的な存在者は「意図をもつもの」「目的をもつもの」と科学的に論証できない、神によって創造された存在者は創造目的があると演繹(えんえき)的に目的存在であると断定される、というのである。

 

「我々はもともと自然における目的を、意図をもつものとして観察するのではなくて、この〔目的の〕概念を判断力に対する手引として、考えのなかでつけ加えるにすぎないからである。要するに自然における目的は、対象によって我々に与えられたものではないのである。」(カント著『判断力批判』〔下〕、80頁)

 

このように、目的は〝主観的〟な判断力の手引きとして、考えの中でつけ加えられるに過ぎないというのである。

さらに、目的論を次のように批判している。

 

「自然における合目的性を説明するために自然科学の組織のなかへ神の概念を持ち込み、今度はまた神の存在を証明するためにこの合目性を使用するとなると、この(ふた)つの学〔自然科学と神学〕のいずれにおいてもその内的自存性が失われることになる。そればかりでなくかかるごまかしの循環(じゅんかん)論証は、両者のいずれをも不確実なものとする、両学は互いにその限界を混雑(こんざつ)させる結果になるからである。」(カント著『判断力批判』〔下〕、49頁)。

 

このように、カントは自然の中に神の概念を持ち込むと、自然科学の内的自存性が失われると断言する。これは、神やサタンなどの超自然の力によって干渉されるという〝前近代的〟な人間観や自然観から、啓蒙主義によって解放された〝近代的〟な人間観や自然観の反映である。

超越神は、自然と無関係であるとされる。この見解は、ティリッヒのいう実存的制約下にある理性が容易に陥るわなである。自然科学と神学は、相互補完関係にあると捉えなければならない。それで両学の内的自存性が失われはしない。逆に両学が発展するのである。カントのように、「両学は互いにその限界を混雑させる結果になる」と判断して、伝統的な教理的偏見に基づいて〝信仰の真理〟と〝科学的真理〟の相違を主張し、自然科学と神学の相関論を拒否して、神学が狭隘(きょうあい)な孤立的宗教界のなかに閉じこもることは、神のみ旨ではないと思われるのである。

 

ところで、カントは「自然の中に神の概念を持ち込むと、自然科学の内的自存性が失われる」というが、失われはしない。統一原理はティリッヒがいう「万物の中に在る存在せしめる力」を「授受作用の力」として説いている。

この授受作用の力によって、すべての存在者は、「神のうちに生き、動き、存在している」(使徒行伝17・28)というのである。

 

ちなみに、レオン・レーダーマンは次のように言っている。

 

「物理学者も天文学者も、単純にして首尾一貫した包括的モデルをめざして進んでいる。そのモデルがすべてを説明してくれるだろう――物質とエネルギーの構造も、途方もない超高温、超高密度の宇宙が生まれた初期から、われわれが今日見ているような、かなり冷えきってすきまだらけになった世界にいたるまでの、あらゆる状況における力のふるまいについても。」(『神がつくった究極の素粒子』レオン・レーダーマン、草思社、48頁)

「われわれはできるだけ理論に統一性をもちこもうとしています。大統一理論は、いまわれわれが夢中になっているものです。」(同、73頁)

 

このように、自然科学は、「物質とエネルギーの構造」とは何か、「あらゆる状況における力のふるまい」とは何か、という問いを提起し、その「答え」(統一理論)を求めているのである。

 

ところで、存在者に目的があることを、統一原理は次のように述べている。

 

「心と体は、各々性相と形状に該当するもので、体は心に似ているというだけではなく、心の命ずるがままに動じ静ずる。それによって、人間はその目的を指向しつつ(せい)を維持するのである。」(『原理講論』45頁)

 

「このように、いかなる被造物にも、その次元こそ互いに異なるが、いずれも無形の性相、すなわち、人間における心のように、無形の内的な性相があって、それが原因または主体となり、人間における体のようなその形状的部分を動かし、それによってその個性体を、ある目的を持つ被造物として存在せしめるようになるのである。それゆえ、動物にも、人間の心のようなものがあり、これがある目的を指向する主体的な原因となっているので、その肉体は、その個体の目的のために生を営むようになるのである。植物にもやはりこのような性相的な部分があって、それが、人間における心のような作用をするので、その個体は有機的な機能を維持するようになるのである。そればかりでなく、人間が互いに結合するようになるのはそれらの中に各々結合しようとする心があるからであるのと同様、陽イオンと陰イオンとが結合してある物質を形成するのも、この二つのイオンの中に、各々その分子形成の目的を指向するある性相的な部分があるからである。陽子を中心として電子が回転して原子を形成するのも、これまた、これらのものの中に、各々その原子形成の目的を指向する性相的な部分があるからである。」(『原理講論』45頁)

 

カントは、「自然における目的は、対象によって我々に与えられたものではない」と断定するが、上述のごとく統一原理によって論破(ろんぱ)されている。

 

文鮮明師は、創造目的(存在目的)に対して、次のように述べておられる。

 

「主体と対象があれば、必ず目的があり、方向性があります。」(八大教材・教本『天聖経』「宇宙の根本」1614頁)

「今日では、物理学が発達し、『すべての原子にも意識がある』という……この論理は、統一教会の二性性相の原理と同じです。」(同、1615頁)

 

人間や動物、植物、鉱物など全ての存在者は、主体と対象のペア・システムとして、「(つい)」として存在し、主体と対象があれば、必ず目的性と方向性があるのである。

―「補足理論」の項、以上―

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(13)

「補足理論」

 

(一)「存在自体について」

 

(1)「概念でもあり象徴でもある」について

 

藤倉恒雄氏は「概念でもあり象徴でもある」というティリッヒの見解に対して、次のごとく疑問を述べている。

 

「彼は組織神学第一巻(1951年)の第10章『神の現実性』の(b)項の『存在としての神と神認識』において、存在自体のみを非象徴的叙述とした立場を――即ち、神を主観―客観構造と同一化して『存在の構造』とし、この構造による以外に神を語り得ぬとしていた立場を(Ⅰ,238-9)、1年後の1952年には、存在自体をも象徴的と修正することとなる(Ⅱ,9,“The Theology of Paul Tillich”,p.334-5)。即ち、彼は人間が神を字義的、直接的に語りえない理由を、人間の実存的諸制約に帰し、人間の神叙述には象徴的なものと非象徴的なものとが一致する境界線ともいうべき存在概念が現われてくる結果、その境界線上で神を『無限なるもの』、無制約者と語ることは、合理的に語ることであるが、同時に脱自的に語ることでもあると説明を修正する(Ⅱ,10)。しかし、ここでも、彼は神と存在自体の関係を充分説明するには至っていない。」(『ティリッヒの「組織神学」研究』、藤倉恒雄著、新教出版社、106-107頁)

 

聖書に、人間は神の(かたち)と啓示しているが、統一原理はそのごとく「人間は神の形象的実体対象」、「万物は神の象徴的実体対象」と捉えている。

ティリッヒが、神叙述は〝象徴〟としてというとき、神をそのような象徴的にしか示し得ないことに不満が残る。具体的に、キリストによって神を概念的に「形象的」に叙述できるではないかというのである。

神の似姿として造られた人間は、罪によって歪められてはいるが、本来においては〝神の形象〟であって〝神の象徴〟ではないのである。

 

聖書には、次のように述べられている。

 

「わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。全きものが来る時には、部分的なものはすたれる」(コリントⅠ、13・9-10)。

「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない」(コリントⅠ、13・12)。

 

全き(完全な)真理は、神認識において、一部分の真理のごとく「おぼろげ」ではない。「顔と顔とを合わせて見る」ごとく鮮明である。したがって、神叙述は〝象徴〟ではない。

神について知っている知識について、パウロは「わたしが完全に〔神によって〕知られているように、完全に知るであろう」(コリントⅠ、13・12)と言っている。

 

(二)カントの「第一原因と因果律について」

 

(1)「空疎な無限因果の系列理論」

 

カントは、因果律によって、神を論理的科学的に論証することはできないと次のごとく述べている。

 

「およそ原因性には、自然法則に従う原因性だけしかない、………何か或るものは原因の原因性、即ち原因がそこではたらいている状態であるところの原因性によって生起したのであるが、この原因性はまたそれ自身生起した或るものであり、この生起した或るものは更にまた自然法則に従ってそれよりも前の状態とその原因性とを前提する。するとこの状態はいま述べたのとまったく同様に、それよりも前の状態を前提とするという工合(ぐあい)に、どこまでも(さかのぼ)っていくわけである。」(カント著『純粋理性批判』(中)、篠田英雄訳、岩波文庫、126-127頁)

 

このように、〝原因の原因〟と順次に遡っていくと最上位の始まり、第一の始まりと言うものは決してありえないというのである。つまり、神の存在を証明するはずの因果律によって、第一原因の〝原因は何か〟と、どこまでも遡行していくことになり、その因果律による第一原因の論証が、その因果律によって否定され、それを放棄せざるを得ないというのである。

 

すなわち、自己矛盾に陥ると言うのである。また、無限の因果の系列に、神(第一原因)も巻き込まれ、神が他の存在に並ぶ一存在になってしまうと指摘する。

 

(2)「神の自存性の矛盾」について

 

この因果の連鎖の強制からの解放は、カントによると、自らが自らの端初(たんしょ)であるところの神の「自存性」の主張となるとし、しかし、そこにもまた矛盾が生じると次のごとく指摘する。

 

「自然法則とは異なる別の原因性が想定されねばならない。かかる原因性は、何か或るものを生起せしめるけれども、しかしこの生起の原因はもはやそれよりも前にある原因によって、必然的自然法則に従って規定されることがない、――換言すればかかる原因性は原因の絶対的自発性であり、自然法則に従って進行する現象の系列をみずから始めるところのものである。」(同、128頁)と。

 

つまり、第一の始まりは、それよりも前にある状態から決して生じてこないような状態、すなわち自存性を前提している。ところで、これは因果の連鎖からの自由であり解放であるが、この自由は因果律に反するものだ、とカントは言う。

なぜなら、因果律からの解放〔自由〕は、第一原因と現象界との連続性の切断である。もし、連続しているなら、その自由の介入(結合)によって自然法則は混乱するというのである。以上のことに関するカントのいうところを再度引用してみよう。

 

a 「切断に関して」

 

「自由という幻影は、なるほど究明を事とする悟性に、原因の系列の停止を約束する、自由は悟性を無条件的〔絶対的〕原因性、即ちみずから作用を開始する原因性に達せしめるからである。しかしかかる無条件的原因性そのものは盲目的であるから、規則の手引きの系――つまりそれを辿ってのみ完全に関連する経験が可能になるところの手引きの糸を切断してしまうからである。」(カント著『純粋理性批判』(中)、岩波文庫、128-129頁)と。

つまり、因果の系列の停止は、第一原因と現象界との因果の関連性の切断であり、因果律の放棄であるというのである。

 

b 「混乱に関して」

 

「自然は自由というかかる無法則的な能力と同列に考えられるものではない。両者を同列に置くと、自然法則は自由の影響によって絶えず変改されることになるし、また現象の過程は、自然だけに従っていさえすれば規則的、斉合(せいごう)的であるのに、これもまた自由の影響によって混乱に陥いり、ついに支離滅裂(しりめつれつ)になるからである。」(カント著『純粋理性批判』(中)、岩波文庫、132頁)と。

 

つまり、切断にしろ、連続性にしろ、いずれにしても論理に一貫性がなく、自己矛盾に陥り、混乱すると言うのである。だから、「第一の始まりを単なる自然から説明しようとはしなかった」(『純粋理性批判』(中)133頁)とカントは結論づけるのである。

 

つまり、因果律によって、究極的存在(第一原因)を論証できないということである。それは自然神学(宇宙論的論証、存在論的論証、目的論的証明)による神の証明が不可能であることを論証しているのである。

 

このように、カントによって重要な問題がすでに提起されていたのである。第一に、神の存在論的証明は可能であるか。第二に、自然(現象界、被造物)と神との関係は如何に、という問題である。神との接点があるのかないのか、もし、何らかの連続性があるなら、それは如何してという問いである。

ティリッヒは、存在自体を〝概念〟でもあり、〝象徴〟でもあるとして、存在との接点(境界線)において合理的に語ることは脱自的に語ることであるといって、連続性を維持しようとしたのである。

 

「神と被造物との関係」は、すでに本文で「万有原力と授受作用」で論述している。カントのいう論理的矛盾は、統一原理によって解消されている。

 

(三)「カントの主張に対する反論」

 

(1)「客観的存在と一致しない」(空疎な思惟)

 

ところで、因果律の系列について、具体的に客観的存在に沿って、無形なる第一原因の構造と、神と被造物との関係、神の自存性と神と被造物との因果の連続性を如何に正しく理論的に捉えるか、科学的に検証して見よう。

このような試みは経験不可能な〝空虚な思惟〟とカントは言うが、はたしてどちらが〝空虚な思惟〟なのか。カントの主張に妥当性があるのか、という問題である。

 

物質を形成する分子は原子から、原子は素粒子から、この素粒子の原因はエネルギー(力)から、ということが今日においては科学によって明らかにされている。認識の対象はここで消滅して、形のない無形なるものとなる。

エネルギーは無形である(形がない)。したがって、これ以上、原因の原因として遡れない。無形なるものの原因は無形であるからである。

 

究極的存在とは、ティリッヒがいう「存在の力」であり、統一原理のいう「原力」(万有原力)のことである。これを第一原因というのである。

この無形なる原力によって、エネルギーが現れ、この無形なるエネルギーから有形なる物質が現れたというのが、現代物理学の世界観である。ここに因果律の切断はない。第一原因と連続性があるのである。

 

カントの議論は、一見すると論駁(ろんばく)し難い科学的な理論に見えるが、具体的に客観的存在を追及していくと、「認識対象」を離れて、観念的に無限の因果の系列があるかのように主張していることが分かる。

有形なる原因の遡行は、無限でない。分子、原子、素粒子、エネルギーと、たった4段階で、もう無形なるものに至り、次の段階で第一原因に行きつくのである。

 

カントによると、「原因と実体」(生起した或るもの)は有限性の範疇(はんちゅう)であり、有形な「生起した或るもの」が原因の系列の前提であった。だが、この前提がエネルギー(力)に至って無形なる存在となるのである。

したがって、有形なる前提が消滅する。それゆえ、その原因の原因は何かと、生起した有形なる或るものをその原因の原因として措定(そてい)し、さらに遡行(そこう)していくことができなくなるというのである。

 

無形なるものが有形なるものの原因であって、有形なるものが無形なるものの原因になり得ない。それはつまり無形なるエネルギー(力)の原因として有形なる「生起した或るもの」を前提とすることができないということである。

だから、カントの無限の因果の系列は、客観的存在を離れた空虚な思惟であると言うのである。

 

無形なるエネルギーの原因は第一原因と呼ばれるが、それは無形なる存在であるが、実在するということである。したがって、無形なる世界に有形なる世界の因果律を適用することはできない。

因果律が適用できるのは、無形なる第一原因に至るまでのことである。その無形なるものが絶対的端初(たんしょ)(第一原因)となるのである。

 

神はエネルギーの本体である。宇宙も、ある力の源泉から生まれたのである。したがって、天地を動かすとか、創造するという力の作用体、根本の作用体がなければならない。このような立場にいるその方を、私たちは神様というのである。

力は作用過程(授受作用)から現れる。したがって、力が存在する以前に、力の作用体がなければならない。その作用体が作用するためには、主体と対象がければならない。なぜなら、単独では作用することができないからである。ゆえに、力の源泉である第一原因は「二性性相」である。

 

以上のごとく、カントの無限なる因果の連鎖(れんさ)というのは、客観的存在(有形実体対象)として極小の物体が無限に存在するということを、暗々裏に前提とした推論であった。

しかし、第一原因は有形ではなく無形実体であり、無形なるものの原因は無形であって、生起したあるものなどではない。有形なる存在という前提がなくなる。したがって、第一原因の原因は何か、と無限に遡行していく因果の連鎖の系列は、〝空虚な思惟〟の産物であるということになる。

 

この点を見抜けず、ティリッヒは、カントと同様に「『論証』の無能性、神問題に答えることの不可能性を暴露(ばくろ)することである」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、266頁)と言って、カントに並ぶ。

そして、第一原因の原因と遡行していくところの観念的な空疎な理論を、次のように承認する。「このような存在者はそれ自体因果連鎖(れんさ)の一部であり、再び原因の問題を提起するであろう。」(同、265頁)と。

 

しかし、提起はできない。なぜなら、ビックバンによって現われた時間と空間の世界における因果の法則を、ビックバン以前の時間と空間を超越した世界に適応することはできないからである。

 

このように、第一原因の原因という問いそのものが〝妄想〟であることに気づかないのである。ここに、ティリッヒが存在論的に神を存在自体と捉えながら、それを〝象徴〟と修正する曖昧(あいまい)さが生じるのである。

 

(2)「第一原因は無形なる存在である」

 

時間空間の現象界の因果法則を、時間空間を超越した世界に適応することはできない。

第一原因は無形なる存在である。この無形なる存在に対して有形なる世界の因果の法則を適応して、第一原因の原因は何かと問うこと自体、経験の世界を越えた越権であり、妄想であり、空虚な思惟である。

このことは、カント自身が形而上学(けいじじょうがく)と言って批判していたことではなかったのか。因果律による遡行は、第一原因に至るまでのことである。それを超えて因果律で思惟することは〝妄想〟である。

 

「無形なるもの」から「有形なるもの」が生起したことは、ノーベル物理学賞を受賞したレーダーマンが次のごとく述べている。

 

「無が爆発したわけだ。この最初の爆発で、時間と空間が生まれた。そのエネルギーのなかから物質が生まれた」(『神がつくった究極の素粒子』(上)、レオン・レーダーマン著、高橋健次訳、草思社、14頁)

 

最初の爆発の結果、生まれた時間と空間の世界に適応する物質界の因果の法則を、爆発以前の時間も空間もない第一原因の世界に適応することは、非科学的である。

 

(3)「卵の比喩」

 

それでは、如何にして「無形なるもの」から「有形なるもの」(第一の始まり)が現れたのであろうか。

逆に、結果から原因を遡行して、如何に第一原因にまで至るのか。そこに因果の連続性は保たれ、切断はないのか。それらのことは理論的に証明され、認識されるのか。

自然界には、象徴的に真理を語るものが多く存在する。この場合、卑近(ひきん)な例として鶏卵(けいらん)を取り上げてみると、真理が一層明らかになるであろう。

 

鶏卵が如何にして形成されるのか、解剖すれば母体から卵が形成される過程が見られる。小さいものから大きいものまで卵に成りつつある一連の()のかたちをしたものが母体に現われる。

そして、ある大きさにおいて母体から球形の形をした卵として分離する。これは、極小の世界である素粒子が「無形なるエネルギー」(無形実在)から如何に「形あるもの」として形成されるかを象徴的に見せているのである。

 

母体は無形なる第一原因を象徴し、一連の卵は素粒子が形成される過程を象徴している。母体と卵の間に因果の連続性があり、そこに因果の切断はない。そのことが認識できる。

このことは、無形なる第一原因から最初に生起する無形なる原物質(エネルギー、力)、さらに、素粒子へと連なる関係の間に、因果の連続性があり、そこに因果の切断がないことを示している。

 

また、「無形なる第一原因」から最初の「原物質」(物質的要素)の間に、極小なる粒子が無限にどこまでも分割されてあるのではない。まだ発見されていない物質があるだけで、第一原因を根源として原物質(物質の究極的構成要素、目的エネルギー)が生起し、原物質から生じる一連のエネルギーの波動(曲線、弧)や素粒子(形のない「点」)が現れる。

そのことを、鶏卵の母体から、最初に生起し、母胎からまだ離れていない小さな卵(弧)は示している。

 

「無形なるもの」から「有形なるもの」の境界線は、最初に生起する原物質である(統一原理の存在様相からみて、最初の生起は力=目的エネルギーであって、それによって弧をえがく波動と粒子の場であろう)。

その形のない原物質から、さらに生起する対象として認識される素粒子も波動(曲線)であり、粒子(球形―分割できない最小のもの、「点」)として現れる。

 

最小の素粒子(クォークが6つと、レプトンが6つあると考えられている)によって、すなわちクォークとレプトンが結合し、宇宙のすべての物体ができている。陽子はクォーク3つでできている。その陽子1個にたいして、レプトンという素粒子に属する電子を1個加えれば、原子1個ができあがるのである。

この原子が水素である。クォークとレプトンは、統一原理による陰陽の二性性相に相当する。このクォークはどれも「点」のようなもので、体積がなく、形がない。目で見ることができないが、有るのである。――(『神がつくった究極の素粒子』(上)、レオン・レーダーマン著、草思社、86-91頁を参照)

 

最初の生起や有形なるものは理性で認識でき、ティリッヒの言うごとく脱自的になる必要性はない。第一原因を、彼は「存在自体」と概念的に捉えたが、第一原因を「無限なるもの」と捉えて「無形」(二性性相)という概念を想起できず、概念でもあり象徴でもあると修正したのである。

それで、彼の神叙述に明確性がなくなったと指摘されるのである。

 

以上が、カントの自然法則による無限の因果の連鎖(原因の系列)という論理に対する反論であり、カントの批判は有形なる客観的実在から離れた経験的対象を無視した観念的な〝空疎な理論〟であると反論する理由である。

第一原因と現象界との間に「連続性」があるのであって、「中断も混乱」もない。第一原因(自由)の介入が異種の法則の介入(結合)であって、自然法則を混乱させるという主張も、事実として認識できないカントの観念的な〝妄想〟である。

 

ただし、連続性があると言っても、現象界は神によって創造された被造物である。被造物は神ではない。神は、万有原力ですべての存在者と関係し、存在者を存在せしめているのである。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(12)

(6)「認識論や価値判断は存在論に基盤をもつ」

 

ティリッヒは、認識論や価値論が「存在論」に基盤を持たなければ、超越的妥当性にとどまるか、恣意(しい)的偶然的な実用主義に陥り、「論理と実在」の関係の問題を見落としてしまうという。このことに関して、藤倉恒雄氏は次のように述べている。

 

「認識行為の分析は存在の解釈なしにはあり得ないし、また、倫理的な価値判断にせよ、その妥当性の主張は存在論的基盤を要求すべきものとする。………プラトンが善と本質的構造(存在の諸理念)とを同一化している点を指摘し、価値が実在に基盤(fundamentum in re, a foundation in reality)を持たないなら、超越的妥当性に止まるか、諸本質の存在論に基づかぬ恣意的偶然的な実用主義に服さざるを得なくなるとする。論理実証主義や言語分析の諸学派が伝統的な哲学的諸問題を捨象して、哲学を一種の論理的計測(科学的論理)に還元するのも、彼らが意味論(セマンティックス)の展開において記号や象徴、さらには、論理的操作のもつ実在との関係問題を見落としている結果とし、………哲学が存在の構造を問題にする以上、存在論的たらざるを得ないとする。」(『ティリッヒの「組織神学」研究』、藤倉恒雄著、新教出版社、47頁、参照:ティリッヒ著『組織神学』第1巻、24-25頁)

 

また、ティリッヒは、新カント学派が先験的認識論において、ついに存在論を認めたと次のように述べている。

 

「十九世紀における新カント派とその関連諸学派が目差したような哲学を認識論と倫理学とに還元する試み………また二十世紀における論理実証主義とその関連諸学派が目差したような哲学を論理的計算に還元する試み………存在論を避けようとする両学派の試みは不成功であった。新カント派哲学の後期の信奉者たちは、どの認識論も暗黙の中に存在論を含んでいることを認めた。」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、24頁)

 

以上のように、認識論、論理学、価値論、倫理論が存在論に基盤を持たねばならないというティリッヒの主張もまた「統一原理」(統一思想)に一致する。彼は、哲学者も神学者も存在論的問題を避けることができないと次のように述べている。

 

「神学が、われわれの究極的関心を取り扱う際、そのすべての命題において存在の構造、その範疇(はんちゅう)、諸法則、諸概念を前提している。それゆえに、神学が存在の問題を避けることの出来ないのは、哲学と同じである。」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、26頁)

 

このように、彼の神学は統一原理を受容可能なものとせんがための洗礼ヨハネ的使命を持った神学であると言わねばならない。

 

(7)「神を存在論的に把握する意義」

 

ところで、ティリッヒは、神を「存在自体」と存在論的に把握しているが、「その概念を必ずしも明確に整理していなかったといわざるを得ない。」(「ティリッヒの『組織神学』研究」、藤倉恒雄著、106頁)と指摘されている。

 

「存在のアナロギア」による完全な神の叙述は、再臨のメシヤの理性によらなければ不可能なのであろうか。

愛の概念化も同様に困難とされ、善も主観的な感情の表現であって、客観的に定義されないといわれている。しかし、絶対的真理として善を存在論的に客観的に定義されなければ、ティリッヒが指摘するごとく「恣意的偶然的」「時代的」「実用主義的」にならざるを得ない。

 

人間の良心や正義感も、時の権力者によって利用されることもあり得る。すべてが相対的なものとされるなら、お互いが正義を主張し、戦争や闘争は永遠になくならない。

真の愛や絶対善が恣意的主観的でなく、客観的に存在論的に解明されないと、罪を審判することも、平和を実現させることも、「救いを完成させること」(天国実現)も不可能である。救いは、救われたと主観的に思い込むことではない。客観的に存在論的に神認識を説き、救いの定義を与えることと同時に、神の愛を完全に認識することは経験可能であると客観的に説くことである。

 

文鮮明師は「四大心情圏」と「三大王権」として神の愛を概念的に解明し、メシヤに接ぎ木された祝福家庭は、真の神の完全な愛を家庭で経験できると説かれる。このように、客観的に具体的に人間の完成目標を「完全な神の完全な愛の体恤」(家庭的四位基台の完成)と明示することである。そうでなければ、救われていると主観的に信じるだけで、客観的に救われたのか、救われていないのか、何時まで経っても分らないのである。

 

実存的状況の下では、キリスト者は救われているという予定論の絶対的な確証はなく、不安はつのるばかりで、いつまで経っても不安は解消されないのである。

 

ティリッヒは、「愛は存在論的概念である。………神は存在自体であるから、存在自体は愛であると言わなければならない。」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、353頁)と述べている。

 

『原理講論』には、「夫婦として完成されるためには、神を中心として、男性と女性が三位一体となり、四位基台を造成しなければならない。」(446頁)とある。

神と真の人間の類比から、「神-イエス-聖霊」の三位一体と「神-アダム-エバ」の三位一体も類比関係であると捉え、「イエスとアダム」そして「聖霊とエバ」が対応しているので、エバと対応する聖霊は〝女性である〟と断定される。したがって、無形なる神の実体対象である「イエスと聖霊」すなわち「アダムとエバ」は「人類の父母」として実体として顕現すると解釈できる。

 

バルトが、神は「三位一体の神」であるという所以もここにあると言える。ただし、「三位一体の神」の解釈において、伝統的神学もそうであるが、バルトの神学も神の女性的要素が抜けているのである。

フェミニスト神学は『聖霊は女性ではないのか』(E・モルトマン=ヴェンデル、新教出版社)と言っている。

 

しかし、伝統的神学は、イエスは聖霊によってマリヤから生まれたので聖霊は男性の霊と解釈し、神を「天の父」というが、「天の父母」とは言わないのである。

しかし、聖書には、神は「種をもつ草」(創世記1・11)と動物を創造し、ノアの洪水審判の時に、種類にしたがい「つがいの動物」(雄と雌)を箱舟にいれなさいと命じられた(創世記6・19)とある。

 

また、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記1・27)とある。

それゆえに、文鮮明師は、人間、動物、植物、鉱物などすべての存在は〝ペア・システムである〟と語られている(『宇宙の根本』)。

 

神のかたちに創造された人間もペアであるので、神を存在論的に捉えると、神は「天の父母」であるという概念が出てくるのである。

イエスも「父母」(マタイ19・5)と語っておられる。神は、男性的要素だけではないというのである。

ティリッヒの言う「自己-自然」構造は、彼は論じていないが、原理的に言うならば神に似たペア・システムなのである。

 

以上のように、ティリッヒは存在論的な究極者の神概念に基づいて、キリスト教の「使信」を再解釈しようとしたのである。

この偉大な神学者に、われわれは敬意を表するのである。アメリカの神学界も彼から多大な影響を受けたのである。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(11)

(2)「存在論からの神の証明についての諸問題」

 

ティリッヒは存在論的に神を叙述することについて、「存在自体の構造的要素」から論述すべきだと次のように述べている。

 

「神は存在の根拠であるから、神は存在の構造の根拠である。神がこの構造に従属しているのではなく、構造が神のうちにその根拠を有するのである。神はこの構造であり、この構造による以外神について語ることは不可能である。神に至る道は認識的には存在自体の構造的要素を通してなされなければならない」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、新教出版社、302頁)。

 

しかし、神に至る道は認識論的には「存在自体の構造的要素」を通してなされなければならないとティリッヒは言うが、その存在自体の構造要素とは何か、また、神に構造があるのか、目で認識できるのか、神を被造物の次元で把握しているのではないか、という問題点が指摘された。

 

周知のように、統一原理も存在者の構造的要素に関する分析から、「性相と形状の二性性相」、「陽性と陰性の二性性相」という概念で「存在自体の構造的要素」を「二性性相の中和的・統一体」(唯一論)と存在論的に叙述している(『原理講論』の「創造原理」)。

 

この新しい神観は、ティリッヒの存在論的な神の捉え方と一致する。ただし、ティリッヒの「存在自体の構造的要素」に関しては、神に構造があるのかと批判され、統一原理のように構造を性相と捉えることができなかった。それゆえ、彼は『組織神学』第二版で、神の叙述において経験的範疇(はんちゅう)の適用を〝象徴〟と改訂せざるを得なかったのである。

 

大島末男氏は、象徴について肯定的に評価して、次のように述べている。

 

「存在自体であるティリッヒの神は、本質と実存の分裂に先行するので本質ではなく、存在(実存)と意味(本質)の根拠である。また存在自体、無制約的な力と意味である神は有限な存在者を無限に超越するのに対し、人間は有限性のカテゴリーによって制約されるので、最高存在者という概念も存在者(実存)のレベルまで引き下げる。それゆえスピノザとライプニッツが、それぞれ、有限な存在者の実体、また有限な存在者の原因として神を定義する時、究極的実体や第一原因という概念は、存在自体すなわち創造的・深淵的な存在の根拠の象徴的表現であると解釈されるべきである。つまり宗教的な神は、哲学的には存在自体であり、キリスト教の創造神(力の神)は、哲学的には存在の力、スピノザの『能産的自然』(natura naturans)によって象徴される」(『ティリッヒ』、大島末男著、清水書院、142頁)

 

しかし、統一原理の「性相と形状の二性性相の中和的・統一体」という神概念は、神には形状(構造)はあるが、形状は「第二の性相」として見るのであって、その形状は他の存在者に並ぶ一存在として、目で認識可能な「構造のある『有形なるもの』」ではない。

第一原因の性相と形状は「無形なる存在」であって、被造物に対して「性相」的な存在なのである。

したがって、ティリッヒのごとく〝象徴〟と修正する必要性はない。統一原理の性相的存在という神概念は、存在論的に神を叙述する困難を解消しているというのである。

 

(3)「存在自体」(存在の類比)について

 

ところで、有限なる存在の一部にすぎない人間が無限なるものに関する基盤となり得るのであろうか。

この「問い」について、ティリッヒは神と人間の「存在の類比」(存在のアナロギア)から、この問題は解決できると次のように述べている。

 

「何となれば、無限的なものは存在自体であるからであり、またすべてのものが存在自体に関与しているからである。Analogia entis(存在の類比)は、有限的なものから無限的なものについての推論によって神への認識を得ようと試みる疑わしい自然神学の特性ではない。Analogia entisは、われわれが神について語ることの唯一の正当性をわれわれに与える。それは、神は存在自体と解されなければならない事実に基づく」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、304頁)と。

 

このように、ティリッヒは疑わしい自然神学ではなく、神は存在自体であるという根拠から、神と人間の「存在の類比」が成立するという新しい自然神学の可能性について述べているのである。

 

すなわち、神の存在と人間の存在との「存在の類比」(存在のアナロギア)から神認識の可能性とその叙述の正当性が主張されるのである。

「象徴として」というのは、第一原因を論証する因果律に対するカントの批判によってティリッヒが修正したことによる。しかし、先に指摘したごとく、神を無形として捉える「性相」という概念によって、神の構造的要素の叙述を〝象徴〟と修正する必要性はなくなるのである。

 

人間が如何にして無限なるものの基礎となり得るかという問題に関して、ティリッヒはハイデガーの著『存在と時間』を引用して次のごとく述べている。

 

「存在の構造が顕わになる場所を『現存在(ダーザイン)』と呼ぶ。………人間が自己自身で存在論的問いに答えうるのは、彼が存在の構造とその諸要素を直接に経験するからである。」(同、212頁)

 

ハイデガーは、人間だけが直接この構造を意識していると次のように述べている。

 

「現存在は、ただたんに他の存在するものの間にだけ現われるような、存在者ではないのです。むしろ現存在は、自分の存在において、この存在そのものを問題とする存在」(ハイデガー著『存在と時間』(上)、岩波文庫、34頁)である。

 

また、ティリッヒは次のように述べている。

 

「人間は他の諸対象の中のすぐれた一対象としてではなく、存在論的問いを問い、自己意識の中に存在論的答えを見出しうる存在として、宇宙を構成する諸原理は人間の中に求められねばならぬ………」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、211-212頁)と。

 

ここで注目すべきことは、「宇宙を構成する原理は人間の中に」という文言である。啓示論で、キリストは「すべての啓示の基準である」とティリッヒは述べていたが、それと関連させて、完成したアダム(キリスト)が、「存在」とは何かを解明することができるのである。

 

(4)「存在の力」について

 

統一原理は「存在の力」、すなわち「万有原力」について次のように論述している。

 

「神はそれ自体の内に永存する二性性相を持っておられるので、これらが万有原力により相対基準を造成して、永遠の授受作用をするようになるのである。この授受作用の力により、その二性性相は永遠の相対基台を造成し、神の永遠なる存在基台をつくることによって、神は永存し、また、被造世界を創造なさるためのすべての力を発揮(はっき)するようになるのである。」(『原理講論』51頁)

 

聖書に、「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、あきらかに認められるからである」(ローマ1・20)とある、その「神の永遠の力」を統一原理は「万有原力」として表現し、神が如何にして「自存」しているかを存在論的に万有原力と授受作用および授受作用の力として簡潔明瞭に概念化して述べているのである。

 

先に論述したごとく、ティリッヒは、神を「存在自体」「存在の力」として捉える神観こそ聖書的であると言ったが、その存在論的な神観は、統一原理の神観を受容可能にする洗礼ヨハネ的な使命をもった神学であると言えるのである。

 

(5)「神と被造物の関係」について

 

次に、「神と被造物の関係」について、神と被造物がどのように関係しているのか、という神学的難題についてであるが、先に解説した「万有原力」と「授受作用」および「授受作用の力」で、統一原理は次のように解いている。

 

ただし、罪と死の支配下、実存的制約下にある被造物に対して、神は如何にして関係し、「主管」(関与)しているのであろうか、という難題があるのである。

統一原理では、神の直接主管圏と間接主管圏(原理結果主管圏)のあることを論述して、この疑問を解く鍵を与えている。

 

神は堕落行為に干渉されない。また、文鮮明師は人間始祖アダムとエバの堕落によって〝夜の神〟と〝昼の神〟の分裂があり、メシヤ(第3アダム)である真の父母の完成によって〝夜の神〟と〝昼の神〟が統一したと語っておられた。バルトが、〝神は隠れる〟と言っていたことを理解することができるのである。

 

隠れるのは創造前の純粋な夜の神である。このような原理的理解の(もと)で、下記の原理から見た見解をみていただきたい。

万物は堕落していないが、主管者である人間が堕落して宇宙が「罪の支配」(サタンの主管)の下にある。それなのに、なぜ今でも宇宙(自然)は破壊されずに存在しているのか。存在の力である神の関与なくして存在し続けられないのに、なぜ存続しているのであろうか。

神は、唯一、絶対、永遠、不変である。したがって、神が創造した原理も絶対である。原理で創造した被造物が堕落したからといって破壊するなら、神は失敗の神となり、原理の絶対性を自ら否定することになる。それで、その原理で堕落した人間を再創造されるのである。どのように原理によって再創造されるかは統一原理の人類歴史を解明した蕩減復帰原理と御言を見ていただきたい。

ティリッヒは、実存の制約下で、人間と宇宙(自然)は破壊されているが、キリストによって人間と自然は新しき存在に創造され、超自然の力の介入によって神の国が実現化するという。

文鮮明師は、歴史の目的はただ一人のメシヤを降誕させることにあると言われ、人間の堕落によって、サタンの主管下で破壊された人間と宇宙(自然)を、再臨のメシヤ(真の父母)が再創造し、サタンを自然屈伏させ、真の父母の完成によって創造目的が完成し、夜の神と昼の神の分裂が統一されると語られ、「全てを成した」、「完成、完結、完了した」と宣言された。神様の直接主管する時代(神の国)が到来するという意味である。

 

今まで誰も解明できなかったこれらの神学的問題に関して、文師の御言と原理は、すべて解明しているのである。

「神は被造物とどのように関係しているのか」という問い関して、統一原理は次のように解明している。

「また、被造物においても、それ自体をつくっている二性性相が、万有原力により相対基準を造成して、授受作用をするようになる。また、この授受作用の力により、その二性は相対基台を造成し、その個性体の存在基台をつくって、はじめて、その個性体は神の対象として立つことができるし、また、自らが存在するためのすべての力をも発揮できるようになるのである」(『原理講論』51頁)と。

 

このように、統一原理の解く「万有原力」(神の永遠の力)は、ティリッヒが「存在の力」「万物の中に在る存在せしめる力」「万物を目的に導く力」という、その「存在の力」のことである。

また、ティリッヒは「存在の力としての神はすべての存在と存在の総体(世界)とを超越する」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、300頁)と述べている。

 

以上のごとく、統一原理は、ティリッヒがいう「万物の中に在る存在せしめる力」(授受作用の力)の根源、すなわち「神の永遠の力」を「万有原力」と言っている。また、統一原理は「生命」「活動」「存在」の原理を「授受法」として説いている。

すなわち、すべての存在者は「神のうちに生き、動き、存在している」(使徒行伝17・28)のである。神は人間を形象的個性真理体として、万物を象徴的個性真理体として創造された。したがって、「人間の在り方」(四位基台)は、「万物の在り方」(四位基台)なのである。

 

以上のように、ティリッヒの「哲学と神学」の「相関の方法」や「存在論からの神概念の叙述」は、統一原理との類似において、極めて重要な神学であるといえるのである。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(10)

(B)神の現実

 

(1)「存在としての神」

 

神を「存在としての神」と捉えるティリッヒは、次のように述べている。

 

「神の存在は存在自体である。神の存在は、諸他のものと並ぶ一存在、または諸他のものの上にある一存在の実存としては理解され得ない。もし神が一存在であるならば、神は有限性の諸範疇(はんちゅう)、特に空間と実体の範疇に従属することになる。たとえ神が『最も完全な』また『最も力ある』存在という意味で『最高存在』と呼ばれるとしても、右の状態には変わりはない。最上級の語でもそれが神に適応されると、縮小語になってしまう。最上級の語は、神をすべての存在の上に高めつつ、実は神を他の諸存在と同一水準に置くことになる。………無限または無制約的な力と意味とが最高存在に帰せられる時、最高存在は一存在であることをやめて存在自体となる」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、298頁)と。

 

上述のように、神を他の諸存在と同一水準に置くことにならない神観とは、ティリッヒによると、神を「存在としての神」(「存在自体」と「存在の力」)として捉えることなのである。

 

ティリッヒは、世界内存在としての人間は、実存的諸制約のもとで「存在の根拠」より疎外され、自己の本質を喪失していると見る。したがって、人間は自己と世界の「存在の根拠」と「意味」を問わざるを得ず、すべての実在を在らしめ、根拠づけている「存在自体」(being itself)、すなわち「究極者」に関心を寄せざるを得ないというのである。彼は、究極者(神)を「存在自体」と言い、「存在の力」(power of being)「万物の中に在る存在せしめる力」「万物を目的に導く力」であるというのである。

 

また、「存在自体の構造は、それが他のすべての事物の運命であるように、神の運命となる………神は自分自身の運命であり、『自己自身で』存在し、『aseity(自存性)』を有する」(同、299頁)。

「存在の力としての神はすべての存在と存在の総体(世界)とを超越する」(同、300頁)と述べている。

 

そして、「もし神が何よりも先ず存在自体、また存在の根拠と解されるならば、神論における多くの混乱と多くの弁証論的弱さとは除去されたであろう。存在の力という表現もまた同一のことを他の仕方で表現する方法である」(同、298-299頁)と述べている。

 

このように、上述のような神観こそ「神を超自然の領域に幽閉している神学」よりも「聖書的である」と断言するのである。

 

藤倉恒雄氏は、彼の著『ティリッヒの「組織神学」研究』の中で、「存在自体」としての神概念を擁護しながら、カント的原理による神認識に対して次のように批判している。

 

「超自然主義は万物の内的原理としての『存在自体』を認識不能とし、………神認識はカント的原理の上でのみ可能とされ、神を道徳的規範理念(一存在)にするか、認識の基礎に信仰を置く不合理な信仰主義(fideism)によって超自然的な啓示を成立させる。ティリッヒはこのような解釈が神の中に意志の優位を措定し、究極的には神の自由と主権を保障するものの、『存在自体』としての神概念を見失うものでしかない」(『ティリッヒ「組織神学」研究』、藤倉恒雄著、新教出版社、63-64頁)というのである。

 

したがって、ティリッヒは存在に基礎を持たない一切の観念の偶像を(しりぞ)ける、と藤倉恒雄氏は解説する。このように、ティリッヒの存在論を根拠とする神の捉え方は、諸宗教の神観念を統一することを可能にするのである。

 

ティリッヒは、われわれのように「存在自体」を四位基台、「存在の力」を万有原力(縦的な力)と授受作用の力(横的な力)として解明していないが、彼のこのような神を存在論的に捉える神論は「統一原理」の神論と一致するものである。

 

ところで、現代人の生を支配している人間中心主義、実証主義的諸思想は、神を存在論的に叙述する可能性を否定し、合理性を超えた一切の実在を許容せず、究極者の概念を斥ける。そのことがキリスト者にも反映し、人格的な分裂を経験せしめている、とティリッヒはいうのである。

 

この「合理性を超えた一切の実在を許容せず」とは、実在する神に関してカントが因果の法則による神(第一原因)の存在論的証明を「独断論の妄想」(『純粋理性批判』(中)、カント著、岩波文庫、164頁)とし、経験の「対象の領域外」(同、158頁)と批判したことによる。

そして彼は、「神の実在を、最高善を可能ならしめる必然的条件として要請されなければならない」(『実践理性批判』、カント著、岩波文庫、250頁)と主張した。

 

このカント哲学は、自然神学(神の存在論的証明)を否定し、〝神認識は信仰から〟と捉えようとする福音主義の哲学化である。カント哲学と同様に、福音主義神学における客観的に根拠をもたない〝信仰による神認識〟は、神を、心情の枠内(家庭的四位基台に根拠をもたない個人が信じる主観的観念)に幽閉して、自然界をもっぱら無神論や唯物論の独壇場にするのである。これは、知性の怠慢であるという他はない。

 

周知のように、カール・バルトはカントの側に立って彼の神学の基礎を確立する。

 

『カール・バルトの生涯』を書いたエーバーハルト・ブッシュは、バルトは「彼(バルト)は、『カントとシュライアーマッハの綿密な研究によって彼自身の神学の基礎を確立しよう』としていた」(『カール・バルトの生涯』、E・ブッシュ著、小川圭治訳、新教出版社、68頁)と述べ、「『神の存在に関する宇宙論的証明』(もちろん、すでにカントとヘルマンにおいて片づいた問題であるが)について論文を書いた」(同、68頁)と述べている。

 

このように、バルトはカントの影響を受け、自然神学、自然哲学による「神の存在に関する宇宙論的証明」はカントの批判によって決着したのだと見て、存在論的な究極者の概念を斥けて、「神認識は信仰から」という立場に立つのである。

 

しかし、藤倉恒雄氏は、ティリッヒの観点から次のようにカントを批判する。

 

「合理性を超えた一切の実在(リアリティ)を許容しない実証主義的()()が究極者の概念を(しりぞ)け、その結果、相対的な文化の営みを絶対化するか、逆にすべてを相対化し、キリスト者にも聖書の提示している究極者の概念に基づいた統一的な世界解釈を困難にさせている」(『ティリッヒの「組織神学」研究』、藤倉恒雄著、新教出版社、2頁)と指摘している。

言うまでもなく、ティリッヒは相対主義の絶対化に反対している。

 

われわれも統一原理の視座から、カントが果たした一時代的なアベル的使命を評価してはいるものの(『原理講論』523頁)、存在論的な究極者の概念を斥け、「神認識は信仰から」という立場に立つカント哲学、および福音主義神学を論破しなければならないと見るのである。

 

カントは、彼の著『純粋理性批判』や『判断力批判』の中で因果律による神の存在証明や創造目的、そして宇宙論的証明を否定している。

このカントの見解はいまだ論破されず、各界において支持されている。それゆえ、各界から統一原理の神観(存在論)が、既存の観念論哲学や自然神学と同類のものと誤解されてしまい、排除されることを懸念するのである。

 

統一原理(『原理講論』)は、性相と形状の二性性相という新しい概念で無形なる存在自体(神)の存在構造を「性相的な存在構造」として解明している。それは、精神や物質に関する既存の観念論や実在論の諸概念と区別するためである。

唯物論を生み出したのは、唯心論(観念論哲学)が間違っていたからである。しかしながら、唯物論と唯心論とを批判克服する二性性相の概念が、いまだによく理解されていない現実がある。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(9)

(四)神の実在

 

(A)「神」の意味

 

(1)「現象学的記述」

 

神とは何か。現象学の視座からみると、「『神』は人間の有限性に含まれている問題に対する答えである」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、268頁)という。

 

ティリッヒによると、「『究極的に関心する』という語句は、………実在の領域にせよ、想像の領域にせよ、具体的に出会わないものには関心がよせられ得ない。普遍的なものは、それが具体的経験を代表する力を通してのみ初めて究極的関心の事柄となり得るのである。ものはそれが具体的であればあるほど、ますますそれに対する多くの関心が可能になる」(同、268頁)というのである。

 

また、「究極的関心は予備的ないかなる有限的具体的関心も超越していなければならない。それは有限性に含まれた問いに対する答えとなるために有限性の全域を超越していなければならない。しかし有限なるものを超越する際、宗教的関心は一つの存在対存在の関係の具体性を失う。それは単に絶対的となるのみならず抽象的となり、具体的要素の反撥(はんぱつ)を誘発する傾向にある。これは神観念における不可避的な内的緊張である。宗教的関心の具体性と究極性との衝突は、神が経験されまたこの経験が表現される場合には、原始的祈祷から最も複雑な神学組織に至るまで常に現実である。これは、宗教史の原動力の理解への鍵であり、また最も初期の祭司的知恵から三一神論の最も精錬された論議に至るまでの、あらゆる神論の根本問題である」(同、268-269頁)というのである。

 

このように、神観念の不可避的な内的緊張関係、すなわち究極的関心に関する「具体性と究極性との衝突」が叙述されるのである。

 

また、神聖に関して次のように述べている。

 

「神々の領域は聖の領域である。」「神聖は経験される現象である。」「神聖は宗教の本質理解のために非常に大切な認識的『入口』である」「神聖の範疇(はんちゅう)を含まない神論は単に神聖でないのみならず真理でない。」(同、273頁)と。

 

(2)「類型学的考察」(神論の統合)

 

ティリッヒは、「神観念を理解するためには、神観念の歴史を観察しなければならない。」「神の意味を終極啓示の光に照らして明白にしまた解釈しなければならない」(同、277頁)という。

 

a 「多神教の諸類型」

 

ティリッヒは、神観の歴史として「多神教の諸類型」を述べる(同、281-285頁)。

彼は、宗教的関心の具体性と究極性は、それぞれ多神教と一神教を生み、両者の均衡は三一神(三位一体の神)を生むと述べている。下記の説明は、大島末男氏の要約に基づくものである。

 

多神教は、多数を超えて統一する究極的なものを欠くので、神的な諸力が、具体的状況において各自の究極性を主張するので対立し、統一に対する脅威となる。他方、ロマン主義と汎神論は、この多神教の普遍的類型の末裔であり、充分な具体性にもまた充分な究極性にも到達しえない。神話の神々は、人間の具体的関心に対する宗教的創造力によって神的な諸力の人格化を促す。神々の人格化は人間が自分より以下のものの、非人格的なものに対して究極的関心を抱けないことによる。二元論的類型の神話は善悪二元論的な歴史解釈を生むが、一神論は神観念の究極性の強調により神話を破壊する(『ティリッヒ』大島末男著、140頁を参照)。

 

大島末男氏は、いろいろな神観について、さらに次のごとく解説している。

 

「人格神は人間が抱く究極的関心の具体性に基づくが、神は人格以下でも超人格的でもありうる。動物神は、人間の究極的関心を、動物が所有する超人的なエネルギーによって表現する。反面、人間が平伏(ひれふ)し祈る神は究極的な神なので、君主的類型の一神教を生み、さらに神々も服従する宿命は抽象的類型の一神教を生む。二元論は、神の中の破壊性と建設性、善と悪を区別することにより、神の秘義的性格を克服するが、マニ教では究極的関心を表現する善神は悪神に勝るので、悪神の力は限定される。またゾロアスター教では究極的原理である善は、善と悪を包摂するので、二元論的一神教が成立し、キリスト教の三位一体論を予示する」(『ティリッヒ』大島末男著、140-141頁)と。

 

b 「一神教の諸類型」

 

「一神教と多神教の境界に立つ君主的一神教の天帝は、神々を支配するギリシアの神ゼウス、また天使達や諸霊を支配する万軍の主エホバによって例証される。さらにインドの神秘主義的一神教は、具体的な神々を超越する究極的な深淵によって例証されるが、具体性を抑圧できず、多神教に対して開かれている。他方、排他的一神教は、具体性と究極性を統合するイスラエルの預言者の宗教の系譜に属す。イスラエルの神は、アブラハム、イサク、ヤコブの神といわれるように具体的な神であるが、普遍的正義によって自己を批判し、利己的な有限的存在者の魔的要求を排除する。しかし究極の関心は具体的要素を必要とするので、キリスト教の神は三一神となる」(『ティリッヒ』大島末男著、141頁)

 

究極の関心は、「具体的要素を必要とするので、キリスト教の神は三一神となる」と論述されている。

また、聖書には究極的関心(神)に関して父と子と聖霊に関する具体的記述があるので、バルトは神を「三位一体の神」というのである。もし、具体的存在の記述がなければ「三位一体の神」は存在しないという。ティリッヒは、すべての神論は「三位一体の神」に収斂(しゅうれん)されると述べている

 

大島末男氏は、「諸宗教の神論(啓示の答え)の現象学的考察を通して、キリスト教の三一神は具体性と究極性を統合するので、自己矛盾に悩む実存の問いに対する答えを形成する事実を示す。象徴論の視座からみれば、ティリッヒが諸宗教の神論を統合する最終的で最高の形式としてキリスト教の三位一体論を指示する方法論………を形成する」(同、141-142頁)と述べている。

 

多神教から一神教までいろいろな宗教のいろいろな神観があるが、ティリッヒは結局のところ、すべての神観は「三位一体の神」に統一されるというのである。

 

「新しい宗教のための本体論は、従来のすべての絶対者が各々別個の神様ではなく、同一の一つの神様であることを明かさなければなりません。それと同時に、この神様の属性の一部を把握したのが各宗教の神観であったことと、その神様の全貌を正しく把握して、すべての宗教は神様から立てられた兄弟的宗教であることを明らかにできなければなりません。

それだけではなく、その本体論は、神様の属性とともに創造の動機と創造の目的と法則を明らかにし、その目的と法則が宇宙万物の運動を支配しているということと、人間が守らなければならない規範も、結局、この宇宙の法則、すなわち天道と一致することを解明しなければならないのです。」(八大教材・教本『天聖経』「真の神様」、79頁)

 

c 「宗教紛争の根本原因は本体論の曖昧さにある」(文鮮明師)

 

原理的な見解では、ティリッヒの存在論的な神観から、さらに発展させて、すなわち「神とアダムとエバ」の三位一体論と「神とイエスと聖霊」の三位一体論の類比から、「アダムとエバ」、「イエスと聖霊」は〝人類の父母〟であるといえるのである。

アダムとエバは堕落して〝偽りの父母〟になったが、イエスと聖霊は神の顕現であるので、神は「天の父母」であるとえるのである。

 

また、聖書に「男は、神のかたちであり栄光である」(コリント1・7)とあるので、「神は性相的な男性格主体」(『原理講論』47頁)であるといえるのである。そして、その神をキリスト教は「天の父」と呼んで、その格位を表示しているというのである。

 

神論に関して、聖書に「わたしたちは、今は、鏡に映してみるようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう」(コリントⅠ、13・12)とある。

 

以上のように、すべての宗教の神観は、統一原理の神観(「天の父母」様)に収斂され統一される。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(8)

(2)「有限的なものと無限的なもの」

 

「非存在によって限界づけられた存在は有限性である。非存在は存在の『いまだ』と存在の『すでに』として現われる。それは存在するものを一定の終末(finis)をもって脅かす。このことは存在自体――これは『もの』ではない――以外のすべてのものに妥当する。存在の力としての存在自体には始めと終りとがない。そうでないならばそれは非存在から生じたことになる。しかし非存在は、存在との関係を除いては文字通り無である。存在は語そのものが示しているように、存在論的妥当性において非存在に先行する。存在は始めのない始めであり、終わりのない終りである。それはそれ自身の始めであり終末であり、存在するあらゆるものの根源的力である。しかし、存在の力に関与するものはすべて非存在と『混合』している。それは非存在から出て非存在へと向かう過程にある存在である。それは有限的である」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、239頁)

 

ここで、有限性について原理的に反論しておきたい。

 

原理的見解では、神によって創造された被造物は有限ではない。天体や原子の円運動は永遠である。植物(種子)も生物も繁殖を通して神に似て永遠性を保持している。人間は子供を産むことによって継代(螺旋運動)を保ち、死によって人間の肉体は土にかえるが、霊人体は霊界で永生する(コリントⅠ、15・44)。人間は有限ではない。

 

生物も個体は死によって消滅するが、繁殖によって自己の種を保存し発展させ、代から代へと螺旋運動によって永遠性を保つのである。このように、愛による繁殖活動によって、人間も万物も神の永遠性に似ている。

 

ティリッヒは、「聖書記事はキリストと呼ばれた彼における死ななければならない深刻な不安を示している」(同、245頁)というが、イエスは霊界で霊の体となって生きておられるのである。

「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26・39)という祈りは死に対する人間的な弱さからそのように祈られたのではない。

 

イスラエル民族が、メシヤとしてのイエスを不信している状況下で、「この杯」すなわち第二摂理である十字架の死による救い(贖罪)ではなく、生きて第一摂理である「神のみ旨」(神の国)を成就せんがために、その願いから、もう一度、第一摂理にチャレンジさせてくださいと、そのように神(父)に祈られたのである、と解釈すべきなのである。

 

ティリッヒは、「有限性は人間の運命である」という。「死ななければならない不安がある。………非存在は『内部から』経験される」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、244頁)と。しかし「それは疎外性と罪性とから全く別個に存在の被造性に属している」(同)という。

 

正統主義は、人間が死ぬようになったのは罪を犯したからであると信じている。しかしティリッヒは、死は「罪性や堕落と全く別個」であると見ている。この見解は首肯できる。

 

不安は確かに有限性を根拠としている。有限性の主張は、「被造物は永遠ではない、人間は必ず死ぬ」という見解からくる。しかし人間の肉体は死ぬが、「霊のからだ」は霊界で永生するのである。このことを知っていれば、死からくる不安は解消する。

 

自分の死を無と考え、肉親や友人の死を永別と考えるのは死後の世界があることを知らない人間の悲劇性である。人間は堕落して神から分離し、霊界があること、霊の体があることが分からなくなっているのである。聖書には「肉の体があるのだから、霊のからだもあるわけである」(コリントⅠ、15・44)と記述されている。

 

偉大なる神学者に対してこのようなことも知らないのかといいたいのだが、ティリッヒは実存的制約下における生に関して「曖昧」であると率直に説いているので敬意を表し、人間の有限性についての彼の教説に耳を傾けたいと思うのである。

統一原理と出合うことがなかったならば、われわれは今でも霊界や霊のからだがあることを知らずにいたかもしれないのである。

 

(D)「人間の有限性と神問題」

 

ティリッヒは先の有限性の問題に続いて、下記の問題を論述している。

 

(1)「神問題の必然性といわゆる宇宙論的論証」について

 

ティリッヒによると「不安として経験される非存在の脅威」が「存在への問いとなる」と次のように述べている。

 

「神の問題が問われうるのは、問題を問う行為自体の中に無制約的要素があるからである。神の問題が問われざるをえないのは、不安として経験される非存在の脅威が、非存在を克服する存在への問いと、不安を克服する勇気への問いへと人を駆り立てるからである」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、264頁)

 

ところで、ティリッヒは神の宇宙論的証明に関して、カントの批判を取り上げて次のように不可能であると述べている。

 

「宇宙論的論証の第一形式は有限性の範疇的構造によって規定されている。それは因果の無限の連鎖から発して、第一原因があるという結論に達し、また、すべての実体の偶然性から発して、必然的な実体が存在すると結論する。しかし原因と実体は有限性の範疇である、『第一原因』は因果の連鎖の初めをなす一存在者についての叙述ではなくて、問題の実体化である。このような存在者はそれ自体因果連鎖の一部であり、再び因果の問題を提起するであろう」(同、264~265頁)

 

上述の見解は、カントが『純粋理性批判』で論述している問題で、第一原因の原因は何かと問うなら無限に因果が続くので、カントは因果律によって第一原因を論証することはできないというのである。このカントの主張に対する反論は後で論述する。

 

ティリッヒは目的論的論証に関しても、カントの批判に従い次のように述べる。

 

「宇宙論的論証が存在の根拠の問題を定形化するのと同じように、目的論的論証は、意味の根拠の問題を定形化する。………『論証』の無能性、神問題に答えることの不可能性を暴露することである。それらの論証は、神問題が有限的存在の構造の中に含まれていることを示すことによって、存在論的分析をある結論にまでもたらす。この機能を果たすことによって、それらの論証は伝統的自然神学をある面では受容すると共にある面では拒否し、そして理性を啓示へと向かわせる」(同、266頁)

 

このように目的論的証明(自然神学)についても、肯定と否定を弁証法的に論述して「理性を啓示へと向かわせる」と述べている。結局、人間を神問題へと駆り立てるというのである。

結論として、問いに対する答えは啓示(キリスト)であるというのである。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(7)

(C)「存在と有限性」

 

(1)「存在と非存在」

 

ティリッヒは「非存在の神秘は弁証法的な取り扱いを必要とする」という。ギリシア語は非存在の弁証法的概念を非弁証法的概念から区別する。前者をme on(メー・オン)、後者をouk on(ウーク・オン)と称した。ウーク・オンは存在と無関係な「無」であり、メー・オンは存在と弁証法的関係にある「無」のことである。

 

「無」に関して次のように述べている。

 

「キリスト教はcreatio ex nihilo(無よりの創造)の教理に基づいてメー・オン的質料の概念を斥けた。質料は神とは別の第二の原理ではない。神がそこから創造するnihil(無)は非弁証法的な存在の否定としてのウーク・オンである。しかしそれでもなおキリスト教神学者たちはいくつかの点において非存在の弁証法的問題に直面しなければならなかった。アウグスティヌスと彼以後の多くの神学者たちや神秘主義者たちが、罪を「非存在」と称した時に、………批評家たちがしばしば誤解したように、罪が実在ではないとか、罪は完全な現実化の欠如であるとかを意味したのではない。彼らは罪には積極的な存在論的立場がないと考え、また同時に非存在を存在に対する抵抗、また存在の歪曲と解したのである。人間の被造性についての教理は、人間論における非存在の弁証法的性格を示す今一つの点である。無から創造されたことは無に帰らなければならないことを意味する。無から創造された痕跡はすべての被造物の上に刻印されている。この理由でキリスト教はアリウスにおける最高の被造者としてのロゴスの教説を斥けねばならない。被造者としてのロゴス(キリスト)は永遠の生命をもたらしえないであろう。またこの同じ理由でキリスト教は自然的霊魂不滅の教理を排して、その代りに存在自体の力としての神から賜わる永遠の生命の教理を主張しなければならない」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、237-238頁)と。

 

また、神論と非存在の弁証法的問題に関して次のように述べている。

 

「もし神が活ける神と呼ばれるならば、もし神が生命の創造的過程の根拠であるならば、もし歴史が神にとって意味を持つならば、もし悪と罪を説明し得る否定原理が神のほかに別にないならば、どうして神自身のうちに弁証法的否定を定立することを避けることが出来ようか。このような諸問題が、神学者たちをして、非存在を弁証法的に存在自体に、したがって結局神に関連づけるように強いたのである。べーメのUngrund(無基底)、シェリングの『第一(ポテ)(ンツ)』、ヘーゲルの『反立』、最近の有神論の神における『偶然』と『所与』、ベルジャエフの『メー・オン的自由』、――これらすべては弁証法的非存在の問題がキリスト教神論に及ぼした影響の実例である」(同、238頁)

 

a 「ヘーゲル弁証法の『反定立』について」

 

上述のように、ティリッヒは「もし悪と罪を説明し得る否定原理が神のほかに別にないならば、どうして神自身のうちに弁証法的否定を定立することを避けることが出来ようか」という。そして非存在を神に関連づける実例の一つにヘーゲルの「反定立」を取り上げている。

 

この「反定立」の問題に関して、文鮮明師は次のように語っておられる。

 

「ヘーゲルの弁証法に出てくる『闘争』という観念をどこから引用したのか分かりますか。人間の心の奥に深く入ってみれば、良心と肉心が戦っています。それでヘーゲルは闘争が元来からあるように考えたのです。神が創造した世界それ自体に闘争があると曲解しました。これは、人間が堕落したという根本的な事実を知らなかったためです。人間の本心を深く調べてみれば、相反する二つの心が対立していることを知ることができますが、そのような二つの心、すなわち良心と肉心が互いに対応しながら歴史が発展してきたと見たのです。ヘーゲルが『堕落』を考えられなかったことが根本的な過ちです。堕落した結果として現れた人間自体を分析してみれば、人間は相反する二種類の性質によって結合しています。そのために、神様が人間をこのように相反する二種類の性質をもった存在として創造したことが原則であると考え、宇宙もそのようにでき上がったという理論を立てるようになりました。共産主義思想はすべての事物を弁証法的理論によって分析して、歴史の発展も弁証法によって理解するのです」(文鮮明著『神様の摂理から見た南北統一』607頁)

 

「元来創造本然の人間の内部には矛盾はなかったのです」(同、608頁)

「このような人間自体を見て弁証法という矛盾した論理が見いだされたのです。人間自体の闘争からすべて見つけ出したのです」(同、609頁)

 

ティリッヒは、上述のように神自身のうちに「対立」する二つの要素があるとし、弁証法的否定を定立させる。これはヘーゲルの弁証法の影響であって、ここから闘争概念が出てくるのである。

ティリッヒの弁証法は「マルクス―レーニン主義」の弁証法のように、事物は対立物の統一と闘争によって発展する。「統一」は条件的・一時的・相対的で、「闘争」は絶対的である。支配と被支配は逆転するというような存在と一致しない虚構の論理ではないが、G・E・ムーアから「このような統合は科学的厳密さに欠ける」と批判されたのである。

 

ティリッヒは、弁証法は「悪と罪を説明し得る否定原理」であるといい、原罪と遺伝的罪についてふれ、『組織神学』第2巻で、罪は「疎外の普遍的運命」であると次のように述べている。

 

「アダムは本質的人間として、また本質から実存への移行の象徴として理解されなければならない。原罪、ないし遺伝的罪は、本源(オリジナル)的でも遺伝的でもない。それはどの人間にも関わる疎外の普遍的運命である」(ティリッヒ著『組織神学』第2巻、70頁)

 

「本質から実存への移行」とはアダムの堕落を実存主義的に表現したものである。実存主義哲学による罪の叙述で問題なのは、上述のように「原罪、ないし遺伝罪は、本源的でも遺伝的でもない」という点であり、また堕落は「疎外の普遍的運命である」とする点にある。これは正統主義の堕落神話の見解を哲学的に表現したものに他ならない。

しかし、自由によって堕落したと見る疎外論には多くの問題点があるのである。

 

原罪という言葉を最初に使ったのはアウグスティヌスである。彼は「アダムの罪は、人類の末端にまで及んでいる。子孫は、性を通して生まれるがゆえに、性は二重の意味において罪の根源となっている。すなわち、一人ひとりの人間が、性を通して生まれたということが、すでに罪に満ちていたし、罪を犯す傾向性も、実は先天的な弱さとして、受けつがれてきている」(W・E・ホーダーン著『現代キリスト教神学入門』46頁)というのである。

 

プロテスタント神学は、人間の病の根源を「精神的なもの」(貪欲、傲慢、自己中心)と捉える。しかし、それがどう始まりどのように伝えられるのかという点になると、ホーダーンは「アウグスティヌスの、アダムとその罪の遺伝についての教義を、学ぶ必要性があろう」(同、47頁)と指摘し、「罪の精神性とでもいうべきものが、生物的なものへと変わっていったというように考えられる。罪の心理的分析と、その生物的遺伝的な側面の、どちらに軍配をあげ、どう調和するかということは、容易なわざではない」(同)と述べている(『続・誤りを正す』、世界基督教統一神霊協会発行、18-21頁を参照)。

 

創世記によれば、アダムとエバは「善悪を知る木の実」をとって食べて堕落したという。この「木の実」とは何であろうか。原罪とはこの「木の実」を食べたことにある。また、人間始祖を誘惑した言葉を話す「蛇」とは何か、何を象徴しているのか。

ところが、プロテスタント神学では、食べた行為よりも戒めを守らなかった動機(精神性)を心理分析し、心の中に原罪があると捉えるのである。

ところで、心の中に原罪があるとすると、また新たな問題が生じる。罪を裁く神は、悪と罪の根源ではない。それで、罪の気質がどのようにして「アダムの性質の中にはいり込んだのか」という問題が生じるのである。罪が「内的な性質にある」とする見解は、神がそのような心を創造したと神に罪の責任を負わせることになる。それゆえ、「性質に原罪がある」といえないのではないかというのである。答えは統一原理の堕落論にある。

 

b 「人間の有限性」(非存在と死)について

 

ティリッヒは「非存在と死」について次のように述べている。

 

「現在の実存主義は深刻かつ徹底した仕方で『無に遭遇』(クーン)した。それは非存在に対してその直接的語義に矛盾する積極性と力とを与えて、非存在を存在自体の上位に置いた。ハイデッガーの『絶滅させる無』は、最後的に不可能な仕方で非存在すなわち死に脅かされている人間の状況を記している。死における無の予想は人間の実存にその実存的性格を附与する。サルトルは非存在の中に無の脅威だけでなく無意味の脅威(すなわち、存在構造の破壊)をも含めている。実存主義においては、この脅威を克服する途はない。この脅威を取り扱う唯一の途はそれを自己の上に取り上げる勇気にある」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、238頁)

 

ちなみに、大島末男氏は勇気に関して次のように述べている。

 

「そして死、運命、無意味さという不安によって脅かされているにも拘らず、生きる勇気をもつことが絶対的信仰であると説いた名著『存在への勇気』(1952年刊)は、全米のベスト・セラ-となった」(『ティリッヒ』大島末男著、清水書院、57頁)と。

 

非存在と人間の有限性に関する弁証法について、ティリッヒは次のように述べている。

 

「非存在の弁証法の問題は不可避であるという。それは有限性の問題である。有限性は存在を弁証法的非存在に結合する。人間の有限性すなわち被造性は、弁証法的非存在の概念なしには理解されない」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、238-239頁)

 

このように、ティリッヒの神学は「非存在すなわち死に脅かされている人間の状況」「死における無の予想」を論述し、「人間の有限性」の問題を主題として取り上げる。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(6)

(B)「存在論的諸要素」 

 

(1)「個別化と関与」

 

ティリッヒは、「プラトンによれば、相違の観念(イデア)は『すべてのものの上に行きわたって』いる。………聖書の創造物語においては、神は普遍者でなく個別存在者を、男性とか女性とかの観念(イデア)ではなくてアダムとイヴとを創造する。新プラトン主義でさえ、その存在論的『実在論』にもかかわらず、種のイデア(永遠の原型)のみでなく、個々のもののイデアもまた存在するとの説を受け入れている」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、220頁)という。

 

ティリッヒによると個別化は特殊なものではなく、存在論的要素であり、性質であるという。そして「絶対的に等しい事物は実存し得ない」(同)というのである。

 

これは中世のスコラ哲学の普遍論争である。「普遍は存在するか」という問いをめぐって争われてきた哲学と神学の論争の一つである。

普遍は個物に先立って存在するという実念論(実在論)と、普遍は個物の後に人間が作った名前に過ぎないという唯名論が対立した。

この論争は、近代哲学や現代哲学において「普遍概念」の問題として論争されてきた。

 

ちなみに、統一原理によると、人間は「神の形象的個性真理体」であるという。すなわち無形なる神の実体(神の像)として創造されたというのである(創世記1・27)。

個性真理体とは、人間は唯一・絶対・永遠・不変であるということである。この真理によって人格の独自性(個別化)が確立される。そして、人は諸人格との交わりをもつ。このように、人間は人格的存在であり、共同体的存在であるといえるのである。

 

ティリッヒの神学には、統一原理のように人間(男・女)が世界(ペア・システム)に対応する小宇宙であるという論証はないが、「人間は精神と実在との合理的構造を通して宇宙に関与する」(同、222頁)、「宇宙的な諸構造、諸形式及び諸法則が人間に開けているゆえに、人間は宇宙に関与する」(同)と説いている。

 

このように、ティリッヒは、人間(個別的自己)は環境に関与し世界と宇宙に関与するというのである。しかし、先に指摘したように個別化には「男・女」、「雄・雌」、「陽・陰」という主体的要素と対象的要素の「格位性」に関する明確な区別の説明はない。

 

ティリッヒの「自己―世界」構造を、より理解するために、ここで「科学的神学」について述べておこう。トーマス・F・トランスは、次のごとく述べている。

 

「自然科学によって探求されている時間と空間のこの宇宙は、神学に無関係であるどころか、神がそこに人間を置いた宇宙だからである。神は宇宙を創造され、人間にそれを研究し解釈する精神と悟性を賜った」(『科学としての神学の基礎』トーマス・F・トランス著、教文館、18頁)。

「人間をその本質的構成要素とする宇宙を、それ自体を認識し、かつ明確に表現できるものとして創造した」(同、18頁)

「人間のいない自然は沈黙したままであり、自然に言葉を与えること、すなわち生ける神の栄光と尊厳を表わす全宇宙の口になることが、人間の役割なのである」(同、18-19頁)

「また、神が人類との対話のなかで人間にご自身を人格的に啓示してきたのも、この空間と時間の宇宙を通じてである。この歴史的対話は、神の言を知解可能な仕方で人間に媒介し神認識を聖書を通して伝達可能にする相互関係の共同体を確立してきた」(同、19頁)

 

上述の文章の中に多くの示唆と霊感をわれわれは読み取ることができる。人間のみが言葉を持つ存在なのである。ティリッヒは、「言語は人間が小宇宙であることを証明する。普遍概念を通して人間は最も遠い星にも最も遠い過去にも関与する」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、222頁)という。

 

科学的神学とは、ハルナックに代表される歴史科学あるいはもっと広義の文化科学として方法論的に確立された神学であって、19世紀にドイツの近代的大学の中に科学としてのいわば市民権を確立した神学のことである。

言い換えると、ハルナックによれば「科学一般とかたく結合されており、それと血縁関係にあるところの神学である」ということである。

 

ちなみに、統一原理は「宇宙は何のためにあるのであり、その中心は何であるのだろうか。………人間が存在しないならば、その被造世界は、まるで、見物者のいない博物館のようなものとなってしまう」(『原理講論』59頁)、「博物館のすべての陳列品は、それを鑑賞し、愛し、喜んでくれる人間がいてはじめて、………各々その存在の価値を表すことができる」(同)と述べている。

これは、人間と世界の「主体―対象」構造と、神が人間を創造した目的に関する叙述の一節である。

 

a 「力動性と形式」

 

ティリッヒは、存在者の内容と形式を力動性と形式として次のように語る。

 

「力動性と形式との両極は、人間の直接経験においては活力と志向性との両極的構造として現われる」(ティリッヒ著『組織神学』第1巻、227頁)

活力(ヴアイタリティ)は生ける存在の生命と成長とを維持する力である。êlan vital(生命の躍進)は新しい形式へと向かって生きる万物の活ける実体の創造的衝動である」(同、227頁)

「存在の力動的要素は自己を超越し新形式を創造しようとする物の傾向を含んでいる。と同時に万物はその自己超越の基礎としての自己自身の形式を保存しようとする傾向を持つ。万物は同一と相違、静止と運動、保存と変化を統一しようとする傾向を持つ」(同、228頁)

 

この力動性と形式の両極性はヘーゲルやマルクスの弁証法を理解していなければ理解することができないであろう。ただし「マルクス―レーニン主義」(共産主義)では事物の内部矛盾において対立物の「統一」は一時的・条件的であるが、「闘争」は絶対的であるという。

 

しかし、ティリッヒは「存在について語ることなくして生成について語ることは不可能である。生成過程においてどこまでも不変にとどまるものが根源的であるように、同様に生成は存在の構造において根源的である」(同)という。

 

この不変と可変(生成)に関して、原理的に解説すれば、「存在の構造」(神)について、四位基台には「自己同一的四位基台」(不変)と「発展的四位基台」(生成・発展)の二つの形態があるということを、ティリッヒは弁証法的に上述のように表現しているのである。

 

ティリッヒは、人間以下の生命力と人間の力動性について、次のように述べている。

 

「人間における力動的要素はあらゆる方向に開かれている。………人間は技術的領域と精神的領域を創造する。人間以下の生命力動性は、それが産み出す無限の変形にかかわらず、また進化過程によって創造される新しい諸形式にもかかわらず、自然的必然性の制限内にとどまっている。動態が自然を越えて伸びるのはただ人間においてのみである」(同、227頁)

 

ちなみに「マルクス―レーニン主義」は、生命は物質の高度に発達した段階であるとし、鉱物、植物、動物、そして人間も「運動する物質である」という。

これに対して、ティリッヒは、物質も「生」の概念に包含し、すべて存在するものを「生の過程である」というのである。

 

b 「自由と運命」

 

ティリッヒは、存在論的両極性は自由と運命の両極性であるという。この存在論的両極性とは存在するものには必ず二つの対立する要素があるということでる。

これは、マルクス主義の物質の運動は内部矛盾によるという見解と相似する。統一原理は「神のうちに生き、動き、存在している」(使徒行伝17・28)のは、万有原力(縦的力)と授受作用の力(横的力)によると捉え、二つの要素は対立物ではなく、相対物(相応物)であるというのである。

 

自由と運命の両極性とは、「人間は自由を持つから人間であるが、しかし人間が自由をもつのは運命との両極的相互依存性においてのみである」(同、230頁)というのである。普通は、自由と必然として語られる。

 

「自由は一機能(「意志」)の自由ではなくて人間の自由、すなわち事物ではなくて完全な自己であり理性的人間である存在者の自由である」(同、231頁)

 

「自由は熟慮、決断、および責任として経験される。………熟慮とは、論証や動機を考量する(librale)行為を指す。考量する人間は諸動機の上に超越している。諸動機を考量している限り、彼は諸動機のどれとも同一ではなく、そのすべてから自由である」(同、232頁)

 

ティリッヒによると、制約された自由を行使することにより、人間は本質の領域から脱落して実存の領域へ移行したというのである。

簡潔に言えば、自由で堕落したというのである。