当サイトで議題とする神学者とその理由などについて紹介しています。まず始めにお読みください。



ブルンナー「出会いの神学」(7)

(三)「バルトの主張」(『ナイン! エーミル・ブルンナーに対する答え』)

 

新正統主義のチャンピオン、カール・バルトは、ブルンナーが〝正しい自然神学に帰ることが現代神学の課題である〟と言っていることに対して、次のように反論する。

 

「一般的には実証的・自由主義的な戦前の神学の影響から脱却し始めた時以来、常に次のようなものであった。それは、われわれが啓示を恩寵おんちょうとして、また恩寵を啓示として理解し、したがってまたあらゆる『正しい』あるいは『正しくない』自然神学を不断に新しく決断と悔い改めとをもって決然と見捨てるべきである」(『カール・バルト著作集2』、「ナイン!――エーミル・ブルンナーに対する答え」、新教出版社、187頁。以後『ナイン!』という)と。

 

このように、自然と恩寵との間の調停を拒否し、ブルンナーの書物は警戒警報であると断言する。

また、バルトは「調停神学はドイツの福音主義教会の今日の不幸の原因であることは明らかであり、そしてもしそういう事情が更に続くなら、また他の国の福音主義教会をも不幸に導くであろう」(『ナイン!』188頁)と予見するのである。

 

そして、キリスト中心主義の立場から自然神学に対して次のように批判する。

 

「私は『自然神学』という言葉でもって、イエス・キリストにあっての神の啓示を対象としないあらゆる(積極的にまたは消極的に)神学的とみなされている体系的思想、言葉を換えれば、神の啓示の解釈であると自称する体系的思想のことを理解する。したがって、そういう体系的思想のとる方法は、聖書の解釈とは根本的に違ったものである」(『ナイン!』191頁)と。

 

このように述べた後で、バルトは「私は全く出発点から彼と違った方向をとらざるをえないからである」(同、191頁)といい、「われわれは、自然神学を大きい誘惑と間違いのもととして、ただ恐れと怒りとをもってこれに背を向け、そして自然神学には関わり合わないで、自分自身に対してもまた他人に対しても、自分は自然神学に関わり合わないということと、そしてまた、なぜ関わり合わないかということを、その都度明らかにしうるのみである」(同、192頁)と宣言するのである。

 

バルトの批判は、近代主義の自然神学に対する先入観によるものであって、ブルンナーの正しい自然神学を誤解している。

ブルンナーは、「キリストの啓示」と「自然を通しての啓示」という二つの啓示の相関論を述べているのである。それなのに、バルトは、それを理解せず、「キリストの啓示のみである」といい、自然神学は「誘惑と間違いのもと」と従来からの主張を繰り返えすのである。

 

「原理的批評」

 

ブルンナーが主張する〝キリストの啓示〟と〝自然の啓示〟による「正しい自然神学」(「体系的思想」)に対して、バルトが、自然神学は「聖書の解釈とは根本的に違ったものである」と主張するのは、相手の言い分をよく聞かないバルトの誤解によるものである。

また、自然神学の排除は、彼の主観的な聖書解釈に起因するのである。

 

バルトは、出発点から、自己の神学的立場(キリスト中心主義)とブルンナーの神学とを区別し、感情的になって、「自然神学を大きい誘惑と間違いのもと」、「ただ恐れと怒りとをもってこれに背を向け」、「自然神学には関わり合わない」と述べている。

 

このバルトの聖書の解釈は、自己主張する分派主義であって、福音主義教会を偏狭にする。また、自然神学を否定する彼のキリスト中心主義は、現在、環境破壊によって危機的状況下にある自然を救済する視点がないと言えよう。

 

芦名定道氏は「環境論とキリスト論」について、次のように述べている。

 

「(近代神学においては)もはやキリストは人類の歴史との関係でのみ問題とされ、キリストの出来事と地球環境や宇宙全体との関わりで理解することはほとんど現実性を持ち得なくなった。一千億の銀河を包括した大宇宙の百五十億年の歴史の創造者にして救済者が惑星地球の一人間の生涯である三十年という一瞬においてのみ具体的な形をとって現れたというキリスト論の主張は、現代の科学的宇宙論を前にして激しい挑戦を受けている(McFague [1993],p.159)。キリストの出来事は古代のキリスト論が主張したような宇宙論的意味を再び回復することができるのか、あるいはキリストの出来事の意味はその歴史性(さらには世界史から区別された実存の歴史性)に限定されざるを得ないのか。これが環境論が提起する問いとキリスト論との関わりを論じるための思想史的な前提なのである。しかし、以上の歴史的事情より科学的宇宙論との積極的な関係構築を試みるだけの基礎作業が神学の側に欠けているため、本格的な『自然の神学』『コスモロジーの神学』は現在のところ存在しない――古い『自然神学』への逆戻りではなく――。これが環境危機に対する神学的取り組みを困難なものにしている。なぜなら、環境論から問われているのは『自然』や『環境』についての神学的理解であるにもかかわらず、現代神学はこれについて本格的な議論を展開する基盤(キリスト論的な)を失っているからである。」(『キリスト論論争史』水垣渉・小高毅編、日本基督教団出版局、556-557頁)

 

現代神学を牽引してきたバルトの福音主義神学の欠陥を、見事に指摘しているではないか。

ちなみに、統一原理は「創造原理」と「キリスト論」で、キリスト(真の人)は天地万物の中心存在であると次のように述べている。

 

「完成した人間は、神が常に宿ることができる宮(コリントⅠ、3・16)」(『原理講論』252頁)、「神と人間が合性一体化した位置が、まさしく天宙の中心となる位置なのである。」(同、60頁)、「創造目的を完成した人間は、天宙を総合した実体相となるのである。人間を小宇宙であるという理由はここにある。」(同、253頁)、「人間が存在して、被造物を形成しているすべての物質の根本とその性格を明らかにし、分類する……動植物や水陸万象や宇宙を形成しているすべての星座などの正体が区別でき、それが人間を中心として、合目的的な関係をもつことができるのである。……物質から形成された人間の生理的機能が、心の知情意に完全に共鳴するのは、物質もやはり、知情意に共鳴できる要素をもっているという事実を立証するものにほかならない。このような要素が、物質の性相を形成しているために、森羅万象は、各々その程度の差こそあれ、すべてが知情意の感応体となっている」(同、59-60頁)と。

 

この統一原理の宇宙論的「キリスト論」、すなわち、科学的宇宙論と「キリスト」(創造本然の人間)との関係論は、現代神学が求めている環境破壊に対処するキリスト論的な基礎を与えていると言えよう。統一原理のキリスト論は「自然の神学」「コスモロジーの神学」を包含している。

 

ところで、バルトは、自然神学の否定のために、次のような狂信論を語ることも躊躇ちゅうちょしない。

 

「自然神学を本当に拒否する時には、われわれは先ず初め蛇をにらみつけ、次に蛇によって自分がにらみつけられ、催眠術にかけられ、そして遂にまれるのでなくて、われわれは蛇を見たとたんに既に杖をもって打ちかかり、打ち殺してしまっている。」(『ナイン!』192頁)

「自然神学を本当に拒否することは、神を恐れることの中でのみ行なわれうる。したがってまた、自然神学に対して全く無関心の中でのみ行なわれうる」(『ナイン!』193頁)と。

 

以上のように、彼の論争術は、巧妙で感情論をあおり、自己の見解と相違する聖書解釈に対して敵対的になり、特に、自然神学を容赦しない。それはまるで中世の異端審問官のようでもある。

バルトのような〝絶対信仰〟の立場に立つ人たちに対しては、冷静に理性的に相手の主張をよく分析して反論し、対処しなければならない。しかし、誤りを指摘しても聞く耳を持たない人たちであることも心得ておくべきであろう。

 

(A)「バルトの自然神学批判の中身」

 

バルトは、ブルンナーの主張を、次のようにまとめて彼を批判する前提とする。

 

「ブルンナーの言う自然神学とは、次のようなものである。すなわち、人間には啓示なくしても人間自身が本来持っていて、そして啓示の中で言わば甦えって来る『啓示能力』(147頁)、または『言語能力』(150頁以下、172頁)、または『呼びかけられうる能力』(150頁以下)というものがあるということである。」(『ナイン!』195頁)

 

上述のまとめに続き、バルトは、次のように「言語受容能力」を批判する。

 

「『最高絶対にして自由に選ぶ神の恩寵』なくしても、人間に『啓示能力』があって、その能力はその神の恩寵によってただ助けられるにすぎないとすれば、そういう神の恩寵は一体いかなるものであろうか。もし人間が自分自身からしては自分の救いのためには何もなしえないなら、そしてもし人間に十字架の言葉を生ける認識としてくれるものが聖霊であるならば、『言語能力』とは何を意味するのであろうか――」(同、195-196頁)と。

 

周知のように、ブルンナーは、神の言葉を聞き理解するには「言語受容能力」と「応答責任性」が不可欠であると述べている。

この「言語受容能力」との関係で、誰しもプロテスタントの信仰義認論に対して素朴に疑問をいだく事柄がある。それは、信仰が全く真理の承認と無関係な事柄であるならば、教義的問題などはどうでもよいことになる。

 

しかし、はたしてそうであろうか。この問題に関する、下記のカトリックの批判は傾聴に値する。

 

「直接的救済は、必ず彼等の有する恩寵や神の前における義、又は予定説プレデスチネーションの観念によって説明される。これは体験的プロテスタンチズムに内在する矛盾に基づくのであって、いくら信仰は真理の承認ではなく神への人格的信頼だとか、愛の関係(智的要素を除外せる人格的関係もありうると見える)であると定義しても、少なくともその体験する神とは何ぞや、キリストはいかなる方か、神の前における我は何者か等の教義的背景なしに、上述の関係が成立するはずはない。」(『カトリックの信仰』、岩下壮一著、講談社学術文庫、642頁)

 

常々、われわれが信仰義認論に対していだく、一つの疑問(信仰義認と教義の関係)についての明確な解答が、上述の文章の中にある。

 

これに対して、バルトの主張は、ブルンナーが指摘しているように「恩寵のみ」、「聖書のみ」、というだけである。

 

ブルンナー「出会いの神学」(6)

(C)「自然神学が神学および教会に対して持っている意味」

 

(1)「キリスト教の社会倫理」について

 

ブルンナーは「キリスト教の社会倫理」という主題の基で、次のように述べている。

 

「自然神学に対してどういう立場をとるかが、倫理の性格に関して決定的であるということである。……キリスト教倫理にとって創造の秩序の概念は、最初から啓蒙主義の時代に到るまで、社会組織の問題と関係しているすべての事柄に対しての、したがって職業、召命、結婚、国家等々についての思想の中で標準的であった、と。昔から、全世紀を通して、キリスト教の社会倫理はイエス・キリストに基づいた愛――神が与え給うた構造のままの共同社会の諸形式の中で、生きて働いて来なければならない愛――についての思想であると定義することができる。それであるから社会倫理は、救済するキリストの恵みの概念を通して規定されているのと同様、また常に神の創造の恵みおよび保持ほじの恵みの概念を通して規定されている。」(ブルンナー著『自然と恩寵』168頁)

 

このように、社会倫理は「キリストの恵み」の概念を通して規定されているのと同様、また、常に「神の創造の恵み」および「保持の恵み」の概念を通して規定されているというのである。

 

さらに、彼は次のように述べている。

 

「諸秩序は神の律法の一部分である――例えば結婚の秩序、すなわち一夫一婦制の命令や、国家の秩序すなわち政府当局を認めてこれに服従することは、神の律法の一部分である。律法は――それが書かれた法であろうと自然法(lex naturae)であろうと、以上述べたいろいろの秩序の中の一つであろうと――神の意志の啓示されてあること(Offenbartheit)をあらわす形式である。……ただ聖霊だけが我々に、律法と秩序を正しく、現時点にふさわしい仕方で認識することを教える。それはちょうど聖霊だけが律法と秩序にわれわれが従う時に、単に外面にばかりでなく、内面的にも神の意志が行なわれるというふうに従うことの出来る力を与えてくれるのと同様である。」(同、169頁)

 

キリストと聖霊との関係で、ここで一言述べておかなければならない。

上述のごとく、ブルンナーは、聖霊のわざは「『現時点』にふさわしい仕方で認識することを教える」と述べているように、聖霊が教えるのは現時点までで、言い換えると、再臨主が顕現するまでである。

なぜなら、「結婚」や「国家の秩序」や「自然法」は、再臨主の御言みことばによって完全な真理の内容としてすべてが教えられるからである。

 

(2)「アナロギアの思想」について

 

ブルンナーは、「神のかたち」と関連する「アナロギアの思想」(存在の類比)について、次のように述べている。

 

「アナロギア(Analogie)の原理及びそれに対するバルトの論争に関してここで一言ふれなければならない。バルトはアナロギア(Analogie)の原理がどのように用いられるかということの中に、カトリックの思想とプロテスタントの思想との間の一つの、いな、唯一つの対立を、見てとった最初の神学者である。バルトはこう主張する、すなわち、それ自身の中に始めから神との類似性を持つ被造物は存在しない。ただキリストにあっての啓示を通して、そして聖書を通して初めて被造物は神との類似性を持つという資格を付与されるのである、と。これは前代未聞の神学的唯名論であって、それと比べるなら、オッカムの唯名論でさえ無害と思われる。なぜなら、そうだとすると、われわれが神を『父』、『子』、『聖霊』と呼ぶこと、われわれが神の『言葉』について語ること等々は、神がそのほかの何物かとよりも父と類似性を持つということに基づいているのではなく、単純に神が聖書の中でそのように語っているからという事実に基づくということになるであろうからである。つまり、神がそう語るのは、そういうことが――神の創造したものを通して、神の創造の時以来――始めからそうであるからではなく、それは神の語った聖書を通して、初めてそのようになるからである。」(同、169-170頁)

 

上述のごとく、バルトは、「それ自身の中に始めから神との類似性を持つ被造物は存在しない。ただキリストにあっての啓示を通して、そして聖書を通して初めて被造物は神との類似性を持つという資格を付与されるのである」という。

 

ブルンナーは、バルトのこの見解に対して唯名論であると批判しているのである。被造物が神との類似性をもつのは聖書によって資格が付与されたからではないというのである。「キリストの啓示」とか「聖書の啓示」がなくても、人間の意識から独立して客観的に存在するすべての被造物には、神の印章(類似性)があるというのである。

 

上述の事柄を一言でいえば、バルトの思想とは客観的存在を認めない粗野そやな主観主義の哲学であると言っているのである。分かりやすく表現するなら、バルトの「聖書のみ」(聖書の解釈)とは、聖書に書かれていない〝ガリレオやコペルニクスの地動説は異端である〟と断罪するような立場なのである。

 

統一原理は「創造原理」で、「被造物はすべて、無形の主体としていまし給う神の二性性相に似た実体に分立された、神の実体対象である……人間は神の形象的な実体対象であるので形象的個性真理体といい、人間以外の被造物は、象徴的な実体対象であるために、それらを象徴的個性真理体という」(『原理講論』47~48頁)と述べている。

 

ブルンナーは「世は神によって創造されたものである。あらゆる被造物の中でその創造主の霊が何らかの仕方で認識される。すべての名人の真価は作品に現われる」(『自然と恩寵』より)と述べている。

彼は、「キリストの啓示」と「聖書の啓示」以外に、神は「自然を通しても啓示される」というのである。

 

ブルンナーは、「バルトの教義学も、そのほかのすべての教義学と同じようにアナロギア(Analogie)の思想の上に基礎を持っている。ただ、バルトはそのことを認めようとしないだけである」(同、170頁)と述べ、さらに、神と人間との「存在の類比」について、次のように述べている。

 

「われわれが神について語る時には人間の人格のたとえをもってするより以外の仕方では決して語りえない、ということが含まれている。そういう思想の上に、バルトの神学全体は基づいていることを意味する。父、子、聖霊、主、言葉――こういうキリスト教神学や聖書の宣教にとって決定的な諸概念は、人間の人格に関する概念である。そういう人格概念がすべての自然概念(そのことばの近代的意味における)よりぬきんでているのは、神がとにかく不可解な仕方でそのように欲し給うから、という理由によるのではなくして、神が人間の中に類似した本質、すなわち人間だけがもっている神に類似した本質、を創造したという理由による。神と類似した本質、すなわち主体的存在あるいは人格的存在は、また罪によっても〔ただ啓示を通してだけ認識されるという程度に〕破壊されてはいない。したがって、この類似性は、すべて自然との類似(Naturanalogie)とは違って、まさしく啓示を通してこそ初めて確認される、というようなことは言えない。」(同、171頁)

 

このようにブルンナーは、「神と類似した本質、すなわち主体的存在あるいは人格的存在は、また罪によっても〔ただ啓示を通してだけ認識されるという程度に〕破壊されてはいない」というのである。

 

ここでも一言、原理的に述べておかなければならない。

神と人間との「存在の類比」は、神と堕落人間との類比ではなく、神と堕落していない創造本然の人間であるキリストとの類比(父と子の関係)のことである。

 

ただし、本然の人間とは、神の似姿である堕落していないアダム(男)とエバ(女)のことであって、イエスは「第二アダム」(コリントⅠ、15・45以下)といわれるが、女性(エバ)を忘れてはならない。神には、男性的性相と女性的性相の二性性相があるのである。

したがって、神と人間との関係(父と子の関係)は、神(天の父母)と人間(アダムとエバ)の関係のことである。「天の父」という神概念に、男性性相だけでなく女性性相があるのである。

 

ブルンナーは、自説を次のようにまとめて述べている。

 

「人がそもそも神について語り、神の言葉を宣教しうることは、客観的には、神がわれわれを神のかたちに創造したということの中に、その基礎を持っている。しかし主観的には、そのことがわれわれに対してイエス・キリストの中で啓示されるということの中に基礎を持っている。神が人間となるということは、人間が神に似た姿であることを、それの真理と深さに従ってわれわれが認識する認識根拠である。そして、神に似た人間の姿が、形式的な側面から見ると、破壊されてないということが、神の『言葉』の中での神の啓示を人間が受ける客観的可能性である。

教会は、神の言葉と人間の言葉の間にある、神の創造によって造られた関係による以外の仕方では、決して宣教することはできない。教会が宣教するということ(Daβ)は、この神のかたち(imago Dei)の『残存』の上に基づいており、教会の宣教の内容(Was)は、この像の残存がキリストにあって回復されるということに基づいている。教会もまた、われわれは人間と『とにかく神について語り』うるということの上に立たされる。それが、『結合点』である――それはすなわち、言語能力と応答責任性ということである。」(『自然と恩寵』172頁)

 

そして彼は、「経験に従えば、自然神学を軽蔑することと共に、教育学的要素の蔑視べっしが起こってくる。そのことは、教会の中ではわざわいなる結果を招来しなければならぬ」(同、173頁)と警告する。

 

また、「あらゆる自然神学を軽視することは、教会の中では直ちに――そして今日は前よりももっとそうであるが――教会を完全に孤立化せしめることになるであろう」(同、174頁)と言うのである。

 

そして、このブルンナーの神学の確信は、偽りの自然神学が最近のプロテスタントの思想に大きな損害を与えたのであり、また、現在も教会をおびやかしつづけている。だから、正しい自然神学に立ち返ることこそが、現代の神学の課題であるというのである(『自然と恩寵』、174-175頁を参照)。

 

ブルンナー「出会いの神学」(5)

(B)ブルンナーによる「宗教改革の思想」について

 

ブルンナーは、バルトに反論して、「わたしの主張はトマス主義的でもなければ新プロテスタント主義的でもなく、すこぶる宗教改革的である」(ブルンナー著『自然と恩寵』、154頁)といい、「ブルンナーの自然神学がトマス的であるならば、カルヴァンの自然神学はもっとトマス的である」(同)と主張する。

 

(1)「カルヴァンの自然神学」(「自然の啓示」と「聖書の啓示」)

 

ブルンナーは、カルヴァンの自然という概念は近代的な言葉の用い方におけるのとは全く違った意味を持っている。自然は、精神あるいは文化と対立するものではないというのである。

 

彼は、宗教改革者カルヴァンの「自然観」について、次のように述べている。

 

「カルヴァンにおいては、自然は存在の規範という概念と同様のものである。そして数え切れないほど、頻繁に次のような表現が繰り返されている。『自然ハ教エル』(natura docet)。『自然ハ語ル』(natura dictat)。それは、カルヴァンにとっては『神が教える』というのとほとんど同じ意味である。詳しく言うならば、天地創造の時以来、世界に刻印せられた神の意志、すなわち神的な世界規則(Weltregel)が教えるということと同じである。それ故に、カルヴァンにとっては、自然法(lex naturae)という概念を、創造の秩序という概念と同様に用い、しかも両者をほとんど同じ価値、同じ意味のものとして用いるということは全く自明的なことである。自然法と創造の秩序というこれらの両方の概念は到るところで頻繁に用いられている。」(『自然と恩寵』155頁)

 

このように、ブルンナーは、カルヴァンの自然は存在の規範という概念と同様のものであると言うのである。

 

そして、彼は、キリスト者にとって自然的神認識は不可欠であると次のように述べている。

 

「聖書から得られる神認識に対する重要な補充である。確かに自然の中での神認識は、たとえて言うならば、われわれは自然の中で、神の手と足を認識するが、しかし神の心を認識しない。神の知恵と全能を認識するし、そしてまた神の正義、否、親切をさえも認識する。しかし罪を赦す神の憐れみを、無条件的に交わりを欲する神の意志を、認識しない。しかし、自然的神認識のこの不完全さは、少しもそれを過小に評価するための理由にはならない。神の言葉によって教えられた者も、そのような自然的神認識を欠くことはできない。神の言葉によって教えられた者は、自然的神認識を必要とするばかりでなく、自然的神認識によってまた特に促進せしめられるゆえに、自然的神認識に対して義務がある。」(『自然と恩寵』157頁)

 

ところで、バルトは「聖書のみ」と言って、「自然の啓示」を排斥する。この見解に対して、ブルンナーはどのように見ているのであろうか。

 

彼は次のように述べている。

 

「自然の啓示は、聖書を通じて明瞭化されると同時に、補充される。聖書は『レンズ』として役立つ。換言すれば、聖書は自然の啓示の拡大鏡として役立つ。別の譬(たと)えを用いて言うならば、聖書の啓示を通じて、自然の啓示の中での神の声は非常に大きくされるので、眠っている人間は、さもなければ聞き過ごしてしまう自然の啓示の中での神の声をきかざるをえなくなる。そして、二番目に、聖書はわれわれに神の心を示す。しかし自然の啓示の中では、少なくともその神の心の最も内面の奥義はわれわれに明らかにされない。いずれにしても、聖書の啓示によって自然の啓示は決して余計なものとなってしまわない。逆に聖書によって初めて、自然の啓示はまさしく効力を発揮する。そしてほかならぬ聖書の中においてこそ、われわれは自然の啓示に注意するよう教えられる。」(同、157頁)

 

このように、「聖書によって初めて、自然の啓示はまさしく効力を発揮する」というのである。

 

そして、ブルンナーは、「この関係はなおまた特別に、神的意志の認識について、すなわち律法と自然の秩序についても言える。われわれは、神の律法を理性の中で、あるいは良心の中で、知る」(同)と述べている。

 

「『殺すな、姦淫をするな、盗むな、偽証を立てるな。父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ』」(マタイ19・18-19)という戒めは、理性の中で、良心の中で、知るということである。

 

ブルンナーは、創造の秩序とカルヴァン的な倫理の関係について、次のように述べている。

 

「自然法は、まさしく神の創造の意志(Schöpfungswille)だからである。それと同じことが、もろもろの秩序についても言える。創造の秩序、あるいは自然の秩序は同様に、罪によって幾分暗くされており、キリストからして再び、新しく認識されなければならない。しかしまさしく、これらの自然の秩序は、キリストからして、創造の秩序として新しく認識されなければならないのである。創造の秩序の上に倫理を打ち建てようと欲し、しかもカトリック的とならない神学者は、素人であると、もし現代のある一人の神学者があえて主張するなら、この判決を受ける第一人者はカルヴァンである。カルヴァン的な倫理は、創造の秩序の概念なしには全く考えられない。しかしここで、倫理について語る前に、カルヴァンの自然神学に関するもう一つの概念が展開されなくてはならない。その概念は、彼の倫理にとって基本的なものなのである。それはすなわち、神のかたちの概念である。」(『自然と恩寵』157-158頁)

 

このように、カルヴァン的な倫理は、創造の秩序の概念なしには全く考えられないという。彼の倫理にとって、基本的なもの、自然神学に関するもう一つの概念、すなわち、それは「神の像」の概念であるというのである。

 

(2)「神の像」について

 

ブルンナーは、その「神の像」について、次のように述べている。

 

「神の像の概念は、カルヴァンの人間論の基本概念である。この神の像の概念の取扱いの中で、カルヴァンはまた、ほかのところではほとんど見られないほどはっきりと、彼の神学全体の関連を、なかんずく自然神学と、その言葉の狭い意味での啓示神学(theologia revelata)との間の関連を明らかにしている。神の像は、一方においてはキリスト論を指し示す、なぜならば、キリストはあの摸像もぞうである人間の像(imago)に対する原像であるから。しかし、神の像は、神の像の完全な内容がただキリストと聖霊を通しての『回復』(reparatio)、『再生』(regeneratio)からしてのみ、認識されるかぎり、さらにより明確に、救済論を指し示す。特に好んでカルヴァンは、イエス・キリストへの信仰を通して起こるところの『再生』の内容全体を、『像の回復』(reparatio imaginis)という概念といっしょに結びつけている。『再生』および『回復』というこれら二つの規定でもって言われていることは、『神の像』の概念は、キリスト教神学においては、ただまさしくこの像の喪失としての罪の概念と関連づける時にのみ理解されることができる、ということである。」(同、158頁)

 

以上のように、「神の像」は人間論の基本概念であり、また、キリスト論と救済論に関連する根本概念であると述べている。

 

ところで、「神の像」は男だけを指し示すのではない。神は「神の像」としてアダム(男)とエバ(女)を創造されたのである。したがって、統一原理は、神は男性性相と女性性相の「二性性相」であるというのである。

 

ちなみに、ティリッヒは、女性的要素の排除について次のように述べている。

 

「キリスト以後5世紀から今日に至るまで聖処女(Holy Virgin)の表象が象徴的能力をもってきたということは、神と人間との間におけるすべての人間的仲保者に反対して戦われた宗教改革の戦において、この象徴を徹底して排除したプロテスタント・キリスト教に対して一つの問題を提起する。この追放によって、究極的関心の象徴的表現における女性的要素はおおむね排除された。」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、369-370頁)

 

今後、神学的に神の女性的性相が、あるのか、ないのか、が問題となるであろう。神概念を存在論的に論述している統一原理は、「自然の啓示」と「聖書の啓示」を根拠とし、神は男性性相と女性性相の二性性相であると述べている。

 

ところで、「神の像」と救済論との関係で、ブルンナーは「キリストと聖霊を通しての『回復』あるいは『再生』」と述べている。この彼の「回復」「再生」という表現を、バルトから和解によって「新しい人間、新しい被造者となった」ということは「人間の回復能力を全然考慮に入れることのできないようなものである」(バルト著『ナイン!』212頁)と批判されるのである。

 

ティリッヒは、「回復」「再生」と言わずに「新しい存在」といい、統一原理は「重生じゅうせい(新生)」と表現している。「重生(新生)」とは、新たに生まれるという意味である。

 

イエスは、ニコデモと次のような対話をしている。

 

「『だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない』。ニコデモは言った、『人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか』。イエスは答えられた、『よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。…』」(ヨハネ3・3)

 

この対話の意味を原理的に解説すると、「水」とは洗礼のことであり、「霊」とは聖霊のことである。それで、下記のごとく『原理講論』では、聖書の「霊」という言葉を〝聖霊〟と言い換えて、「聖霊によって新たに生まれなければ、神の国に入ることができない」と述べているのである。

また、新たに生まれるためには父母がいなければならない。したがって、イエスが「真の父」であるなら、聖霊は「真の母」であると述べているのである。

 

また、ニコデモの問いである「もう一度、母の胎にはいって生れる」とは、いかにして原罪を清算するのかという問題に関するものであって、「生れる」とは、人間は罪人として生まれた堕落の経路と反対の経路を遡行そこうして、再び新しく生み直してもらうことを意味する(重生)。「霊から生まれる者は霊である」とは、十字架の死後、復活した霊的イエスと聖霊から霊的に重生(新生)したキリスト者のことである。

 

ところで、ブルンナーは、一方において、確かに「人間は聖書の中での、あるいはイエス・キリストの中での、啓示なくしても、自然の中で神を認識する能力を持っているのである」(『自然と恩寵』160頁)と述べている。この主張がバルトの目に留まり、「否!」と批判されたのである。

 

しかし、他方において、「主観的な自然という意味での自然神学は、われわれがキリストの中で持っているところのよりよい認識によって、全く余計なものとして、効力を失わしめられる。しかしキリストそは、この不完全であるばかりでなく、また常に不真理によってゆがめられた主観的・自然的神認識の代りに、われわれに真の自然神学、神の業の中での神のまことの認識を取り戻す方である」(『自然と恩寵』、160頁)と述べている。

 

ブルンナーの言う「正しい自然神学」とは、統一原理に他ならない。

 

神によって創造された自然は、ペア・システムとして存在する。したがって、統一原理による存在論からの神認識は、神は二性性相(男と女)であると捉えている。

しかし、バルトは「聖書のみ」と言って自然神学を排除し、存在論から創造神を見ようとしない。バルトは、聖書から「三位一体の神」というが、神の女性的性相を捉えることができないのである。聖書には「神の像」として、神はアダム(男)とエバ(女)を創造した(創世記1・27)と述べている。

したがって、神には男性的要素と女性的要素の二性性相があるのである。この神概念は、存在論(自然の啓示)と聖書の啓示の二つの啓示から捉えている。

 

文鮮明師は「宇宙の根本」の中で、次のように述べておられる。

 

「力よりも作用が先です。作用は、一人ではできないのです。必ず主体と対象がなければなりません。この宇宙は、ペア・システムの原則、公式に立っています。ペア・システムになっているというのです。結論がそうです。世界がどれほど簡単か見てください。鉱物世界も相対でできています。すべてそのようになっています。植物もペア・システム、動物もペア・システム、人間もペア・システムになっています。神様も二性性相です。それは、永遠の真理であり、公式です」(八大教材・教本『天聖経』「宇宙の根本」1578頁)

 

さらに、「宇宙の根本は愛である」(同、1583頁)、「人間は万宇宙の愛の中心」(同、1589頁)、「天地をペア・システムで、造ったのは何のためですか。これは、愛の博物館です」(同、1600頁)と述べておられる。

 

ブルンナーは、「自然の啓示と聖書の啓示との関連性は、最後にカルヴァンが、倫理に関して神の像をどう用いているかということの中で示される。……正しい自然倫理(ethica naturalis)は自然神学と同様、ただキリストにあってのみ完成される。」(『自然と恩寵』161頁)と述べている。

 

上述の言葉は、文鮮明師の御言みことばをキリスト教会に受容可能にする〝洗礼ヨハネ的な発言〟であるといえよう。

 

ブルンナーによると、「以上が、大ざっぱに言って、カルヴァンの自然神学である。それはまた、すべての本質的な点において、ルターの自然神学でもある」(ブルンナー『自然と恩寵』162頁)というのである。

 

ここに至って、争点がより明確になる。宗教改革的というのは、ブルンナーが主張するように、「二種類の啓示」(「自然の啓示」と「キリストの啓示」)から自然神学を肯定することなのであろうか。

あるいは反対に、バルトが「恩寵のみ」「聖書のみ」と主張するように、自然神学を否定することなのであろうか。

これは、統一教会の神学思想と、「統一原理」を批判する日本基督教団の一部の神学者や牧師らとの〝対立点〟でもある。

 

ブルンナー「出会いの神学」(4)

(5)「結合点」について

 

ブルンナーは『結合点』(言語能力と応答責任性)、すなわち「人間性」について次のように述べている。

 

「神の救済の恵み(Erlösungsgnade)に対して結合点が存在するということは、……その人とは、石や丸太でなく、ただ人間的主体だけが神の言葉と聖霊を受けることができるということを承認する人のことである。結合点とはどういうものであるかというと、罪人からも失われてない形式的な神のかたち、すなわち人間を人間たらしめるもの、人間性、前述の二つの要素でもって言えば、言語能力と応答責任性である。人間は言葉を受けることができる存在であるということ、そしてまた人間だけが神の言葉を受けることができる存在であるということ、そのことは罪によってもなくならせられない。……それは純粋に形式的な、話しかけられることができるということ(Anspruchbarkeit)である。そもそも、この話しかけられることができるということはまた、応答責任性の前提でもある。」(ブルンナー著『自然と恩寵』、150頁)

 

このように、ブルンナーは、真の神から「話しかけられることができる」という「結合点」(言語受容能力と応答責任性)、すなわち「人間性」は、罪によってもなくなっていないというのである。しかし、バルトは『結合点』(人間性)を否定し、神認識は上からの一方的な恵みによると言い、人間は自分で自分を救うことはできないと主張するのである。

 

ブルンナーは、「神の恵みはただすでに罪について知っている者のみが理解することができる」(同、151頁)と述べた後に、罪と結合点の関係について、次のように述べている。

 

「神について知ることなしには、いかなる罪も存在しない。罪は常に『神の前に』ある。……神の言葉が初めて人間の言語能力を造り出すのではない。言葉を聞きうる能力があるという性質を、人間は決して失ってしまっていないその性質は、神の言葉を聞くことができるということに対する前提である。……結合点についてのそのような教えによって、『恵みのみ』についての教えが少しも危険にさらされないことは明らかである。」(同、151頁)

 

このように、一方において、「恵みのみ」の教えが少しも危険にさらされないというが、他方では、対象に言語受容能力と応答責任性がなければ、上よりの「恵み」(和解)の働きかけに対し、対象は応答できないというのである。

 

バルトは、神の呼びかけに応答する能力でさえ、人間に生得せいとくのものではなく、神の啓示と聖霊の働きによって新しく創造されるものであるというのである。

しかし、和解以前のノアやアブラハムやモーセらは、神の呼びかけに応答していた。

 

バルト神学は、信仰には認識が対応している。信仰が認識に先行するのである。

これに対して、ブルンナーは、「聖書が信仰を聖霊のわざ、聖霊の賜物と呼んでいることは確かであるが、しかし聖書は決して聖霊が私の中で信じるとは言っていない。聖霊が私のなかで信じるのではなく、私が聖霊を通して信じるのである」(『自然と恩寵』、152頁)と批判している。

 

ちなみに、バルトの『教会教義学』の「和解論」について、大木英夫氏は次のごとく述べている。

 

「キリスト教的な神認識と人間認識が可能となる場所……和解だけが、そこから、罪とは何かが、キリスト教的に洞察され判断される場所である。……和解とは、神からまた自分自身から疎外された人間にとって何の出発点もないところの真空の中に、神ご自身が一切の認識の出発点を設定したもうたみ言葉だからである。」(『バルト』大木英夫著、講談社、260頁)

 

このように、バルトにとって「和解」こそが、真の神認識、真の人間認識、そして罪認識などの一切が洞察され判断される場所であり出発点なのである。

 

すでに論述してきたごとく、ブルンナーは「自然的な人間性」には、神の恵みとの必然的な、不可欠な「結合点」(言語受容能力と責任応答性)があるというのである。しかし、バルトの「和解論」にはこの前提がないのである。

 

また、ブルンナーは、この恩寵おんちょうと自然的な神認識の関係について、次のように述べている。

 

「この『話しかけられることができる性質』と関係のある領域は、より狭い意味での人間性(das Humanum)を包含しているばかりではない。それは、『自然的な』神認識と関連しているいっさいのことを包含している。もはや何の神認識も持たない人間に、神の言葉はもはや到達することができないであろう。良心のない人間は、『悔い改めて福音を信ぜよ』という呼びかけによって呼びかけられることができない。確かに自然的な人間が、神について、律法について、そして自分自身が神のものであること(Gottgehörigkeit)について知っているその知識は、非常に混乱したものであるかもしれない。しかし、それでいてなお、それは神の恵みとの必然的な、不可欠な結合点なのである。そしてそのことは、次の事実の中においても証明される。すなわち、福音はほとんど常に、新しい言葉を造り出したのではなく、異教の宗教意識によってすでに造り出されていた言葉を使用した、という事実である」(『自然と恩寵』、151-152頁)と。

 

他宗教には、キリストを受容する不可欠な「結合点」があるということである。しかし、バルトは、他宗教は真の神を認識できず、また、神ならざる神を礼拝するとして排除し、〝偶像崇拝〟は神を受け入れる準備段階であるのかと反論する。〝偶像崇拝〟に対する反論は後にする。

 

ところで、再臨主の御言みことばと原理から見れば、バルトの反論の基礎である三位一体の神も、おぼろげな神認識であって完全な神認識ではないのである。「全きものが来る時には、部分的なものはすたれる」(コリントⅠ、13・10)運命にある。

 

(6)自己意識について(「人間の5%の責任分担」)

 

ブルンナーは、人間は主体であり理性的存在であると言い、自己意識の維持について次のように述べている。

 

「人格的な神が人間と人格的に出会う。そのことの中に、自己意識の維持ということが含まれている。そのことの典型的な表現が、まさしく新約聖書の中で、神秘主義的表現に最も近づいているあのガラテヤ書2・20の表現である、『しかしわたしは生きている、それでいて私ではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである』……この『しかしわたしは生きている』という表現は、『わたしは律法によって……死んだ、私はキリストとともに十字架につけられた』というあの文章のあとに続いている。その表現は、また内容的な人格性(Personalität)が死んでもなお形式的な人格性が維持されているということを言い表わしている。」(同、152頁)

 

自己意識の維持とは、原理的に言えば、神の「95%の責任分担」(恵み)に対して、人間には「5%の責任分担」である自由意志があるということである。罪によっても、自由意志はなくなっていないということである。しかし、ルターは、人間は善を成し得ない、自由意志は罪の奴隷である。したがって自由意志はない、と言っている(奴隷意志論)。バルトも同じ見解である。

しかし、自由意志があるか、ないか、という問題と、自由意志は善を成し得るか、成し得ないかという価値問題は別の問題である。ルターの主張は論点がずれている。

 

ティリッヒは、彼の著『組織神学』(第一巻「啓示の現実」)の中で「啓示と理性の相関論」を説き、脱自だつじ恍惚こうこつ、霊的現臨)は精神がその通常の状態を超え出るという意味において異常な精神状態を指すが、それは自由な理性の否定ではないと述べている。

 

さらに、ブルンナーは、信仰命令(戒め)について次のように述べている。

 

「その信仰命令は――誰でもが知っているように――新約聖書にとって、ちょうど信仰は神の賜物であり、神の業であるという主張と同じように、特徴的なものである。新約聖書の用語法の統計的な結果によると、信仰は神の賜物であり、神の業であるという主張よりも、信仰命令の方を、いっそう強く力説していることを示しているとさえ、私は考える。」(『自然と恩寵』、153頁)

 

神からの信仰命令は、人間の5%の自由意志や責任性を認めるからこそ出されるのである。

 

以上、今まで論述してきたこと、ブルンナーは「こういうもろもろの主張から、私の自然神学(theologianaturalis)――カール・バルトにとっては、全く疑わしい――が成り立っている」(同)と述べている。

 

「原理的批評」(自由意志について)

 

「信仰の行為」とは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです」(マルコ5・34)とあるように、信仰は「人間の5%の責任分担」なのである。すなわち応答責任性であり、信仰する「決断」も5%の人間の自由意志である。

 

聖書にある多くの「信仰命令」(勧告や命令や約束)は、それらを人間は理解する能力(理性)があり、それを行う5%の責任性があり、決断する自由意志があることが前提で与えられるのである。

 

バルトは、この神の呼びかけに「応答する能力」ですら「神の恩恵」によって創造されたものであるといい、人間の主体的な自由意志や責任性を否定する。しかし、罪によって本質構造(神の像)を喪失した人間には、そのような応答能力(自由意志)すらないと否定されるなら、応答したものには「永遠の生命」が約束され、拒んだものには「永劫の罰」(永遠の死)が課せられるというこのような厳しい責任を負わされる「最後の審判」はないはずである。すべて神の責任となるからである。

 

また、救済の予定において、全てが必然で「恩寵のみ」であるなら、人間は自由のない神の意志通りに動くロボットに過ぎず、「聖書」の中にある多くの勧告、命令、非難、要求は、必要ではなく、このような「信仰命令」は全く無意味なものとなってしまうのである。悔い改める期間も不必要である。

 

また、神と人との契約が現実の歴史であるなら、神が人と〝契約を結ぶ〟のは、罪人であっても人間には良心があり、「人間性」があり、「言語受容能力」と「応答責任性」があるからなのであって、もし、人間に自由も責任も人間性もないなら、そのような人間と神は〝契約を結ぶ〟ことなどあるはずがないのである。

 

統一原理は、人間に「5%の責任分担」があるのは、創造への参加と万物の主管権の賦与ふよのためであると説いている。これは人間の特権なのである。

 

このように、み旨成就における「神の95%の責任分担」+「人間の5%の責任分担」=100%という神と人間の関係における責任分担論を説くと、プロテスタントの神学、特に福音主義神学と鋭く対立せざるを得ないのである。

なぜなら、神の恵みを95%というように、いかに大きく捉えようとも、5%という人間の「行い」がなければ100%にはならない。したがって、このように人間の行いに対して、ほんの少しでも価値を認めれば、救いが人間の行いを少しも必要とせず、神の一方的な「恵み」であるとする「福音」も、また否定されるからである。

 

もし、バルトが、統一原理のように「人間の5%の責任分担」(「行い」)を認めるとするならば、カトリック神学の「協働きょうどう説」や「功徳思想」を認めることになり、ルター以来の宗教改革的信仰を、自ら誤りであると認めることになってしまう。

したがって、信仰義認という立場から見て、救いにおける「信仰」と「行い」の対立を主張し、罪人である人間の「自由意志」や「業」(「行い」)を完全に否定することは、「福音主義」の何であるかを説かんがための生命線であり、彼らにとって重大な問題なのである。

 

バルトが、ブルンナーの自然神学を必死になって否定するのは、そのためである。したがって、われわれもバルトの自然神学批判を知って、原理的観点からブルンナーを補完し、バルトの誤りを指摘しなければならないのである。

 

ブルンナー「出会いの神学」(3)

(4)「保持の恵み」

 

ブルンナーは「保持の恵み」について、次のように述べている。

 

保持ほじの恵みとは、大部分は、人間が罪を犯すにもかかわらず、神の創造の恵み(Schöpfungsgnade)を罪深い人間から全く取り去ってはしまわないということである。」(ブルンナー著『自然と恩寵』、147頁)

 

ただし、ブルンナーは、「保持の恵みに関して正しく語ることは、キリストの啓示の光の中で初めて可能である。」(同、148頁)と言うのである。

 

彼は「保持の恵み」について次のように述べている。

 

「神は全く善意を持つ方であるので、太陽をよい者の上にも悪い者の上にも、照り輝かせるということ、神はわれわれに生命、健康、力等を与えるということ、……自然的な生活に必要なすべてのもの、そういうものすべては、保持の恵みの概念の下に置かれるが――、その保持の恵みは、それであるから一般的な恵みと呼ばれているが……われわれはこのこと、すなわち救う恵みを学び知る前にすでに神の恵みによって生きていたということを、たとえその恵みが何であるかを正しく認識しなくても、認識する。」(同、148頁)

 

確かに、キリスト者以外の人も、大地からの豊穣ほうじょうの恵みを受け、自然的な生活に必要な「保持の恵み」を受けている。

 

ブルンナーは「保持の恵み」(歴史の遺産)に関して、さらに次のように説明を加える。

 

「この保持の恵みの領域には、自然な生活全体と共に、また歴史的な生活全体も属している。……われわれが父および母から受けたものばかりでなく、また民族とその歴史から受けたもの、また全人類の歴史的な遺産であるもろもろのものも、信仰の中で神の維持する恵みの賜物とみなされる。」(同、148頁)

 

事実、現代人は歴史の遺産を相続して、時代的恩恵を受けている。

 

次は、「創造の秩序」(結婚、一夫一婦制)についてである。

 

「この保持の恵みの領域に属するものに、特に歴史的-社会的生活のいろいろの定数(Konstanten)として、すべての倫理的な問題提起の根本要素を形造っているある『秩序』がある。たとえば結婚や国家のような、それなくしてはいかなる人間的な共同生活も考えられないところのある秩序が存在する。……たとえば、一夫一婦制の結婚は、……国家よりもより高い権威を持つものである。……それ故に、一夫一婦制の結婚は昔から『創造の秩序』(Schöpfungsordnung)と呼ばれてきた。そうだからと言って、イエス・キリストの中で初めて真に創造神を認識するキリスト信者は、また結婚の秩序を、創造主が設立したものとして認識するということ以外のことが言われているのではない。」(同、149頁)

 

ブルンナーが指摘するごとく、国家は国民の命と暮らしを守り、安全を保障する。

ここで重要な事柄は、ブルンナーが結婚について語り、一夫一婦制の結婚は「創造の秩序」であり、「イエス・キリストの中で始めて真に創造神を認識する」というところにある。

 

この結婚に関するブルンナーの主張は、再臨主の思想(家庭の原理)を全世界に証しする〝洗礼ヨハネ的使命〟を持った主張であると言えるのである。

 

聖書に、「『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない。」(マタイ19・4-6、マルコ10・6-9、参照聖句:創世記2・24)とイエスが言われた、と記述されている。

 

後で、また論じるが、ブルンナーの上述の主張に対して、バルトは「誰が何を基準に結婚を創造の秩序である」とし、「公理として義務と束縛とをもった命令にまで高めるのか」と結婚に対して問題を提起する。

この誰が、に対して、キリストが答えているというのである。キリストの御言みことばは絶対的基準である。キリストの御言が結婚の意義や家庭の原理について答えているというのである。

 

「家庭の原理」は、再臨のメシヤによって発表される真理である。従来の神学や哲学では、愛を概念化することは不可能であると言われてきたが、真の愛は「再臨のメシヤ」(文鮮明師)によって、「四大心情圏」と「三大王権」として概念的に解明されている。

そして、驚嘆すべきことは、真の家庭の中において「真の神」の「真の愛」を誰もが経験できると説かれている点である。神が人と共に生活する(ヨハネの黙示録21・3)というのである。

 

真の愛と家庭の原理について、真の父母様(文鮮明師ご夫妻)は次のように語っておられる。

 

「エデンの園のアダム家庭は、神様が理想とされた真の家庭の典型でした。無形で存在された神様の存在を実体で現すための四位基台の創造でした。

創造主であられる神様は、主体の位置で人間を対象の位置に創造され、神様の心の中だけに存在していた無形の子女、無形の兄弟、無形の夫婦、無形の父母を、アダムとエバの創造を通して、実体として完成しようとされたのです。

アダム家庭を中心として、実体の子女としての真の愛の完成、実体の兄弟としての真の愛の完成、実体の夫婦としての真の愛の完成、そして実体の父母としての真の愛の理想完成を成し遂げ、無限の喜びを感じようとされたのです。

したがって、真の家庭主義の核心は、人間関係の最も根幹となり、真の家庭を成すにおいて、絶対必要条件となる『四大心情圏』の完成と『三大王権』の完成です。

四大心情圏とは、子女の心情圏、兄弟の心情圏、夫婦の心情圏、父母の心情圏を言います。

皆様、人間は、この地にだれかの子女として生まれ、兄弟姉妹の関係を結びながら成長し、結婚して夫婦となり、子女を生むことによって父母となる過程を経ていくようになっています。したがって四大心情圏と三大王権の完成は、家庭の枠の中で成し遂げることができるように創造されています。」(「ファミリー」2005年6月号、「摂理史的観点から見た自由と釈放」から、36-37頁)

 

また、真の家庭において、「父子間の愛は、上下の関係を捜し立てる縦的な関係であり、夫婦間の愛は、左右が一つとなって決定される横的な関係であり、兄弟間において与えて受ける愛は、前後の関係として代表される」と語っておられる。

 

このように、真の愛には前後、左右、上下の愛があり、愛には創造の秩序があり、規範があるのである。

 

上述の御言にあるように、人間は真の愛を家庭の中において経験して円満な人格を形成するのである。この真の愛の規範は、社会の倫理と国家の倫理の基礎である。

したがって、ブルンナーの言うごとく、「一夫一婦制の結婚は、……国家よりもより高い権威をもつ」と言えるのである。

 

ブルンナーは、「結婚は創造主の与えた『自然の』秩序の一つである」(『自然と恩寵』、149頁)と述べている。そして、「これらの秩序は、ただ信仰からしてのみ、すなわちキリストからしてのみ、その本来的な意味において神の愛の意志との関連において正しく理解される」(同、150頁)と述べている。

 

さらに、ブルンナーは、カルヴァンの結婚と国家の倫理を取り上げて、次のように述べている。

 

「神の秩序、あるいは創造の秩序の中で、カルヴァンにとっては特に結婚が重要である。罪と関連をもつ保持の秩序の中では、特に国家が重要である。カルヴァンが結婚および国家の倫理について語るすべてのことは、彼の自然神学から由来する」(同、161-162頁)と。

 

この家庭や国家の倫理の教説は、自然神学を拒否するバルト神学への批判が含蓄がんちくされている。

 

バルトは、ブルンナーのいう創造の秩序としての結婚を、次のように批判する。

 

「『人間の歴史的・社会的生活の常数(Konstanten)』とも言うべきあの諸秩序であって、『それなくしてはいかなる人間の共同生活も考えられない』が、しかしそういう諸秩序の下で、ブルンナーは今一つの本来的な『創造的秩序』としての結婚を、罪との関連において造られた『保持の秩序』としての国家に対比して、より高い威厳を持つものと考えようとする」(バルト著『ナイン!』203頁)と。

 

この反論に多くを語る必要はない。家庭の原理は、社会の倫理と国家の倫理の基礎であると答えておこう。

 

また、バルトは誰が、何を基準に、結婚を「創造の秩序」と宣言するのかと次のように述べている。

 

「公理は一体、本来いかなる内容のものだろうか。あるいは、何としても『徹底的に罪人である!』われわれの間で、誰が、そういう公理は一体、本来いかなる内容のものであるかをきめるのか。もしわれわれが衝動や理性に相談をかけるなら、たとえばすべての『結婚』とは何を意味し、また、何を意味しないだろうか。衝動や理性は、われわれに本当に『結婚』が――神の創造の秩序として認められまた宣言されるべきものであるような結婚が――何であるかを、われわれに語るだろうか。少なくとも、もし認識の明白さと確実さとが問題となるならば、物理学的、科学的、および生物学的な『自然の法則』や、あるいはさらにまた数学の特定の公理の方が、創造の秩序と称せられるものに対して、あの歴史的・社会的な常数と言われるものよりも、はるかにより多くの権利を要求しなければならぬのではないか。そして誰が、あるいはまた何が、これらの常数を一体今また戒めにまで、言いかえると、神の啓示として見られねばならないような義務と束縛とをもった命令にまで、高めるのであるか。衝動と理性がそれをするのだろうか。そしていかなる標準をもって測ることによって、われわれはさらにまた、こういう社会学的な『創造の諸秩序』の小さい階級制度を直ちに造り上げ、これには、より高い威厳を、あれには、より低い威厳を与えるようなことをするに到るのであろうか」(『ナイン!』204頁)と。

 

このように、バルトは「公理は一体、本来いかなる内容のものだろうか」といい、また「『結婚』とは何を意味し、「『結婚』が――神の創造の秩序として認められまた宣言されるべきものであるような結婚が――何であるかを、われわれに語るのだろうか」と疑義を抱き、「社会学的な『創造の諸秩序』の小さい階級制度」を造り上げると言って問題視するのである。

 

この疑義に対して、「誰が」とはキリストが、であり、「何を基準に」とは、キリストの御言が絶対的基準であると、すでに答えている。

 

バルトは、「結婚が創造の秩序であるのか」といい、「神の啓示として見られねばならないような義務と束縛とをもった命令にまで高めるのか」と批判するが、この主張こそ、病める人間の心を代弁しているといえよう。

家庭の秩序は愛の秩序であって、「義務と束縛とをもった命令」ではない。しかし、神の愛がなければ、バルトの言うごとく束縛となる。

 

「自然法則」と「創造の秩序」(一夫一婦制の結婚)は、本来においては、どちらも創造の秩序である。人間が堕落して万物より劣る存在になってしまったので、バルトが指摘するように〝自然法則〟の方が勝っているように見えるのである。

 

しかし、本来においては、家庭の原理は最高の原理なのである。

なぜなら、文鮮明師によると、真の家庭の中に真の神の真の愛が顕現するからである。したがって、自然の秩序よりも家庭の愛の秩序の方が勝るのは言うまでもないことである。

 

ブルンナー「出会いの神学」(2)

(2)「ブルンナーの『反対命題とその基礎づけ』」(「神の像」について)

 

はじめに、ブルンナーは、彼自身の「反対命題とその基礎づけ」として、人間が他の被造物から区別されるのは、人間の中にある「神の像」であると次のように述べている。

 

「人間の持っている神の()姿(すがた)については、実際は二つの意味で語られねばならない。一つは形式的な意味で、もう一つは内容的な意味でである。この神の(かたち)という概念の形式的な意味は、人間性(Humanum)ということである。換言すれば、罪人であろうとなかろうと、人間をほかのすべての被造物から区別するものが神の像という概念の形式的な意味である。……人間はまた罪人としても天地万物の中心点であり、頂点であることをやめてしまったのではない。……天地万物の中でのこの優位の立場は、人間が神に対して持っている特別な位置の上に基づいている。詳しく言えば、神が人間を特別なものに創造したということ、すなわち、神の像を担う者として創造したということの上に基づいている。この像を担うという機能、あるいは像を担うという性質は、罪を犯したために除去されていないばかりか、それは罪を犯しうることの前提であり、まさしく罪の中でこそ生きて活動してくるところのものである。」(ブルンナー著『自然と恩寵』、143-144頁)

 

このように、神は人間を特別なものとして、神の(かたち)を担う者として創造したというのである。そして、それは、罪によっても除去されていないというのである。

 

この「神の像」に関して、さらに次のように述べている。

 

「われわれは、像を担う機能と性質を、人間が主体であるということと責任応答性という二つの概念によって表現する。人間はそのほかのすべての被造物に対して、ある大事なものを長所として持っている。罪人としてもそうである。それは主体であり理性的存在であるということである。この主体であり、理性的存在であるということを、人間は神と共通に持っている。ただ神は原型(げんけい)的に主体であり、人間は模造(もぞう)的に主体である。人間は、罪人としてもなお主体であることをやめてしまわない。人間はまた罪人としても、他人の語り相手となることができ、また神の語り相手となることもできる。そしてまさしくそのことの中に、責任を持つ者であるという人間の根本的本質(Urwesen)が基づいている。罪人としても、人間はまた責任を持つものである。こういう二つの性質の上に、すなわち言語受容能力と責任応答性との上に(そしてそれらはまた、それら二つの間で互いに非常に密接に関連しているのであるが)、人間の特殊な地位が基づいているばかりでなく、人間のこの特殊な地位と、そして神が人間となるという救済の啓示の形態との間の関係も、その上に基づいているのである。」(ブルンナー『自然と恩寵』、144頁)

 

上述のように、「人間の根本的本質」(神の像)とは、人間は理性的存在であり、「言語受容能力」と「責任応答性」を持ち、文法的に言葉となって語りかけるものを理解することができるという点にある。

人と人とが人格的に交流するのも、この言葉による。また、神と人が人格的に交流するのもこの言葉を媒介とするというのである。

 

ブルンナーは、この二つの機能と性質は堕落によっても毀損(きそん)されていないというのである。

確かに、彼の言うごとく、もし完全に毀損されているなら、神は御言(みことば)を人間に与えて人間を教育し、人間を成長させ、「完全な者」(マタイ5・48)とすることはできないであろう。

 

同様のことであるが、ブルンナーは、一方では、「形式的には神の像(imago Dei)は少しも毀損されていない。――人間は罪深くあろうとなかろうと、主体であり、責任をもつものである」(同、144頁)と言い、「言語受容能力と責任応答性」があると言う。

他方では、堕落によって「内容的には、神の像は完全に失われており、人間は徹頭徹尾、罪人であり、人間には罪によって汚されていないところは一つもない」(同、144頁)と述べている。

 

この彼の主張は、一見すると矛盾しているように見える。事実、バルトはブルンナーの見解は矛盾していると批判しているが、彼によると、そもそも堕落人間(罪人)はそのような形式と内容を持つ矛盾した存在であると見ているのである。

 

(3)「ブルンナーの『二種類の啓示』」

 

ブルンナーは、啓示には「自然を通しての啓示」と「キリストの啓示」の「二種類の啓示」があるという。

 

自然的啓示について、彼は次のように述べている。

 

「世は神によって創造されたものである。あらゆる被造物の中でその創造主の霊が何らかの仕方で認識される。すべての名人の真価は作品に現われる。」(ブルンナー著『自然と恩寵』、145頁)

 

このように、ブルンナーは、神は自然を通しても啓示されるというのである。

 

そして、自然を通して啓示されることを認めない〝バルトの福音主義神学〟こそ、聖書の証言と矛盾していると次のように批判する。

 

「神が被造物によって讃美されているということはまた、最初の時代からその後の全世紀を通してキリスト教の典礼には欠くことのできない一構成要素である。しかも聖書自身がそのことを語り、そしてそのことを承認しない人間を責め、人間は信者として、被造物が神をこのように讃美することに参与するよう聖書が期待しているとするならば、聖書の啓示の意味が軽んじられないために、そのような天地万物を通しての啓示を承認しないことを望むということは、私には、奇妙な、聖書への忠実さとしか思われない。」(同、145頁)

 

このように、ブルンナーは、バルトが「聖書のみ」と言いながら、天地万物を通しての啓示を承認しないのは、「奇妙な、聖書への忠実さとしか思われない」と批判しているのである。

つまり、バルトのキリスト中心主義は「偏った啓示概念」(同、165頁)であり、「偏狭な聖書解釈」であるというのである。

 

そして、ブルンナーは、「神が何事かをなすところ、そこでは神のなす(わざ)の上に神の本質の印章(いんしょう)(Stempel)を押す。それ故に、世の創造は同時に、神の啓示、神の自己伝達である。こういう主張は異端的なものではない。そうではなく、キリスト教の根本的主張である」(同、145頁)と主張する。

言い換えると、世の創造に神の本質の印章があると見る自然神学は「聖書の解釈」と矛盾していないというのである。

 

問題点は、「天地万物からの啓示」と、「イエス・キリストからの啓示」は互いにどのように関連しているかという点にある。

 

ブルンナーは、「世界の構造全体も、それ自体で神を(あら)わさないのは、ちょうど、聖書がそれ自体で神を顕さないのと同様である。……またこの構造全体がなす啓示を見る眼がこの啓示のほかに、付け加わるということを通してのみ、神を啓示する」(同、166頁)という。

 

それでは、自然が神を啓示するために、「自然の啓示」のほかにどのような啓示が「付け加わる」というのであろうか。

ブルンナーは「キリストの啓示」の中に立つ人間だけが、自然の中に正しい神を認識し得ると、次のように述べている。

 

「自然とは、罪深い人間が、そこで認識していながら同時にまた認識していないものを意味しうる。それはちょうど、人間自身の本性に関して言えば、神がご自分に似た姿として人間の本質の中に入れ給うたものは破壊されえないが、しかしどうしても常に罪によってくらまされてしまうと言いうるのと、事情は全く同じである。それ故、正しい自然からの神認識は、これをキリスト者だけが、換言すれば同時にキリストの啓示の中に立つ人間だけが、持っていると結論的に言える。」(ブルンナー著『自然と恩寵』、147頁)

 

このように、正しい〝自然からの神認識〟は、「キリストの啓示」の中に立つキリスト者だけが持っているというのである。

 

原理的に見れば、「キリストの啓示」とは、イエスと聖霊のことである。ただし、キリスト者の神認識は、ブルンナーの言うごとく「二つの啓示」から真の神を認識しているのであるが、まだ不完全な神認識である。再臨のメシヤの御言によって、キリスト者は〝不完全な神認識〟から〝完全な神認識〟に至るのである。キリスト者以外のすべての人も同じである。

 

「二つの啓示」に関して、笠井恵二氏は次のように解説している。

 

「大切なことは、『天地万物からの啓示』と『イエス・キリストからの啓示』という二つの種類の啓示が、いかに関連するかということである。……イエス・キリストにある第二の啓示の光の中でこそ、天地万物のなかに示される第一の啓示を明白に見ることができる。」(『二十世紀神学の形成者たち』笠井恵二著、新教出版社、157-158頁)

 

このように、ブルンナーは「二つの啓示」によって「正しい自然神学に立ち返れ」(『自然と恩寵』、175頁)と言うのである。しかし、彼は、誰もが自然の中に真の神を認識できると言っているのではない。

自然が常に啓示していても、唯物論者は神を認識しない。「キリストの啓示」(イエスと聖霊)も彼らの哲学である唯物弁証法で否定し、天地万物から神を排除する。これが神の心の痛みである。

しかし、共産主義(「マルクス―レーニン主義」)を批判・克服した再臨主(文鮮明師)の思想(統一原理と勝共理論と統一思想)によって、彼らも神を認識するようになるというのである。

 

以上のように、ブルンナーは「二種類の啓示」から、正しい神認識が可能であると言っているのである。

バルトは、キリストを抜きにしても〝自然を通して神を認識し得る〟という自然神学を、怒りをもって否定するが、ブルンナーの「二種類の啓示」は、自然を通しておぼろげに神を認識するが、キリストを抜きにして〝完全な神〟を〝完全に認識できる〟と言っているのではない。

バルトは、ブルンナーの主張をよく理解しないで批判しているようである。

 

ただし、今までの神学はすべて、バルト神学もそうであるが、真理の一部分であって、完全な真理ではない(コリントⅠ、13・9)。

したがって、先に述べたごとく、誰も完全な神認識に到っていないと言えるのである。

 

また、バルトは認めないが、異教徒に対しても、神は自然を通してご自身を啓示しておられるのである。そのことに関して、聖書は次のように述べている。

 

「神は過ぎ去った時代には、すべての国々の人が、それぞれの道を行くままにしておかれたが、それでも、ご自分のことをあかししないでおられたわけではない。すなわち、あなたがたのために天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たすなど、いろいろのめぐみをお与えになっているのである。」(使徒行伝、14・16-17)

 

しかし、バルトは「聖書のみ」、「キリストの啓示のみ」を主張して、ブルンナーの言う自然を通しての「いろいろのめぐみ」を否定する。

だが、上述のごとく、聖書は自然を通して「いろいろのめぐみ」を人間に与え、またキリストを受け入れる準備として異邦人(キリスト教以外の他宗教)にも啓示されていると述べている。

 

それでは、次にブルンナーの言う「いろいろのめぐみ」について論述する。

 

ブルンナー「出会いの神学」(1)

エミール・ブルンナー(Emil Brunner,1889-1966)は、スイス出身のプロテスタント改革派の神学者で、カール・バルトらと共に弁証法神学運動の草創期を担った新正統主義の神学者である。彼は1942年にチューリヒ大学総長の重責を担った。

 

ブルンナーは、神が人間と直面するとき、危機が生ずると主張する。なぜなら、神が人間と対決する時、人間の将来は二者択一の緊張関係になるからである。すなわち、人間は神に対して「(いな)」と言うか、「(しか)り」と言うか、それ以外にない。前者は「死」を意味し、後者は「新しい人」となる。ここに彼の神学が「出会いの神学」あるいは「危機神学」と言われるゆえんがある。

 

 

「主観と客観の超克」

 

ブルンナーは、神との出会いを「われ―それ」(I-it)、「われ―なんじ」(I-thou)という関係概念を用いて説明する。「われ―それ」の認識は、自己の外にあるものとしての客体の客観的知識である。「われ―なんじ」は、他者はもはや「それ」とか「あるもの」ではなくなり、われわれにとって「なんじ」となる人格的な関係である。

この「われ―なんじ」という関係は客観的関係ではなく、二つの関係が相対的関係となり、この関係によって血の通った両者の交わりが回復される。その関係は、もはや単なる傍観(ぼうかん)者にとどまることはできない関係である。(『現代キリスト教神学入門』W・E・ホーダーン著、日本基督教団出版局、178-182頁を参照)

 

ブルンナーは、この「われ―なんじ」という人格的な関係を媒介とすることによって〝神との出会い〟が可能となると言うのである。

 

笠井恵二氏は、「神との出会い」について次のように説明している。

 

「神学者は、客観-主観の対立の彼方にあるもの、すなわち自己を啓示する神と、この啓示によって自己を開放された人間との出会いを叙述しなければならない。だから彼が対象とすべきものは、客観-主観の相関概念によって把握しうることの彼岸にある。さらに神学者は、その対象を単なる学問的な方法では認識しえない。彼は自ら信仰者となることなしには、つまり彼自身が客観-主観の対立から抜け出て、言葉における神に出会うことなしには、自己の対象を認識しえないのである」(『二十世紀神学の形成者たち』笠井恵二著、新教出版社、153-154頁)

 

以上のように、ブルンナーの「われ―なんじ」という「出会いの神学」は哲学的に神を説く方法を提供したといわれている。

 

従来から〝神認識〟に関して、カトリックの客観主義とプロテスタントの主観主義の対立があった。客観主義は、神についての無謬(むびゅう)の真理を把握できるというが、主観主義は、それは大きな間違いであるという。

主観主義は、神は客観的に把握できないといい、内的な経験や信仰を重要なものと考える。しかし、主観主義は自己の主観的な力を絶対化し、互いに相容れず教会を分裂させてしまう。

 

ブルンナーは、神認識はこのような客観主義か主観主義かという二者択一ではなく、「主観と客観の超克(ちょうこく)である」というのである。これがブルンナーの主観と客観を統一した「出会いの神学」の根本原理なのである。

 

ところで主観的とか客観的とは、神学的に双方にどのような思考の相違があるのかということに関して、少々述べておかねばならない。

 

ウィリアム・E・ホーダーンは、客観的な思考と主観的な思考の違いについて、次のように述べている。

 

「客観的な思考は、限界をもち、対象によってためされる。客観的な思考のできる人は、自分の好みとか願いとかにかかわりなく、むしろ事実をして事実を立証させることができる。神学や哲学はこの客観的思考というものを、非常に高く評価する。これに対して主観的な思考は、どうしても自己の感情というものが、思考の中にもはいりこみ、客観的な事実を無視してしまう。哲学の歴史をひもとくとき、客観的、主観的思考の相対的評価をめぐっての論議や、主観的要素が対象を知覚する際にどのような影像(えいぞう)を与えるかの論議を、数多く見いだす。」(『現代キリスト教神学入門』W・E・ホーダーン、日本基督教団出版局、179頁)

 

客観的な思考の限界とは、カントが指摘するように、自由な理性は感覚的、経験的に認識し得る対象を越えて、神や不死の問題をあれこれと推論する傾向性がある。それは往々にして既存の形而上学(けいじじょうがく)にみられるように、観念的な妄想(もうそう)となり、独断論となりがちになる。

それでカントは、理性は感覚的に感知しうる対象を越えないこと、すなわち理性の有限性(限界性)を主張したのである。

 

主観主義とは、人間の内的な体験や、信仰を重要なことと考えるのである。自分自身の内面をしっかりと見つめること、そこにおいて、客観的には観察することのできない「活ける真理」を発見することができると、人々に呼びかけているというのである。

しかし、主観主義が力を持つと、自己のみを絶対化し、互いにあいいれず、それゆえに分裂すると指摘されている。

 

ブルンナーによると、この客観的か主観的かという二者択一ではなく、主体(われ)と客体(それ)関係を超克することを説く。すなわち、超克とは「われ―なんじ」という「人格関係」のことであって、神はその人間との「人格関係」(言葉における神との出会い)の中にはいるということを強調するというのである(神認識、神の心情を体恤(たいじゅつ))。

 

この「われ―なんじ」という人格的関係の分析は、神学界におけるブルンナーの不滅の功績だといわれている。

 

しかし、ブルンナーの神と人との関係は、個人としての人格的関係に止まっている。さらに高い次元として、アダム(男性)とエバ(女性)が関係存在として、二人で一つとなって神と交流する愛の段階(家庭的四位基台)まで論じなければ、完全な神の愛を説くことにはならない。

そもそも伝統的神学には神概念(父なる神)に女性の性相がないのである。それは、再臨のメシヤによらなければ知り得ない「神の知」の段階であるので致し方ないと言えるが。

 

 

(二)「自然神学論争」

エミール・ブルンナーといえば、バルトと「自然神学論争」をしたことで有名であり、彼は『自然と恩寵』(1934年)の中で、バルトが自然神学を拒否するのは、「彼の偏った啓示概念にある」と指摘し、神は聖書を通して人間に語りかけるが、自然のはたらきを通しても語りかけるという面が否定されるべきでないと主張した。

 

これに対して、バルトは、すぐさま『ナイン!―― エーミル・ブルンナーに対する答え』を書いて応酬(おうしゅう)した。バルトは、神認識は「理性による哲学」などによるのではなく、旧約聖書と新約聖書における「キリストの啓示」以外にないと言い、「自然神学は、アンチ・クリスト」、「自然神学はただ病と死とを意味する」、「福音主義と自然神学とを結びつけることは決してできない」と痛烈に批判した。

 

 

(A)「ブルンナーの主張」

 

(1)「バルトの結論」

 

ブルンナーによると、バルトの結論とは「恩寵(おんちょう)のみ」、「聖書のみ」であって、キリストを対象としない一切のものを排斥(はいせき)するというのである。

 

ブルンナーは、バルトの主張を次のようにまとめている。

 

「人間は、恵みを通してのみ救われうる罪人であるがゆえに、神によって創造されて人間に賦与(ふよ)された神の似姿は、完全に、すなわちあとかたもなく消え去ってしまった。特に理性という性質や文化能力や人間性は、もちろん人間に対して否定することはできないが、そういうものはこの失われた神の似姿の痕跡(こんせき)、あるいは残存(ざんぞん)を全然含んでいない。」(『カール・バルト著作集2教義学論文集〔中〕』収録、ブルンナー著『自然と恩寵』、新教出版社、141頁)

 

また「聖書の啓示」を解釈するバルトの〝キリスト中心主義〟について、彼は次のように述べている。

 

「われわれは、聖書の啓示を、われわれの神認識の唯一の源泉として承認するがゆえに、自然の中に、良心の中に、歴史の中に、神の一般的啓示を認めようとするすべての試みは断乎(だんこ)として拒否されるべきである。二種類の啓示、すなわち一般的啓示と特殊的啓示とを承認することは意味がない。ただ一つの啓示だけ、詳しく言えば、完全なキリストの啓示しかない。」(『自然と恩寵』141頁)

 

このように、バルトはキリストの啓示以外の啓示を認めないというのである。

 

その他、ブルンナーによると、バルトは「ブルンナーの言うような『創造の恵み』、『保持(ほじ)の恵み』などは存在しない」といい、また、バルトは「天地万物の中から引き出してきた自然法などは異教の思想としてキリスト教神学の中に導入され得るものである」と主張しているというのである。

 

このように、バルト神学とは、一口に言えば、「恩寵のみ」、「聖書のみ」というキリスト中心主義(キリスト論的集中)なのである。

したがって、バルト著『ナイン!―― エーミル・ブルンナーに対する答え』とは、バルトの〝キリスト中心主義〟の立場、すなわち彼の聖書解釈の立場から見た〝自然神学に対する批判書〟なのである。

 

それでは、次に、ブルンナーの〝バルト批判〟をさらに詳細に検討してみることにしよう。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(35)

(4)「ティリッヒの永遠の生命の問題点」

 

原理的に見て、「肉のからだ」は永生しない。永生するのは「霊のからだ」である。「肉のからだ」と「霊のからだ」は相違する。しかし、彼は「からだの復活」という表現で、肉体で復活し、肉体で永生するという従来の主張を説いているのである。

 

統一原理は、永遠の生命について、肉体の生死の概念以外に、聖書の生死の概念を説いている(『原理講論』、復活208-215頁)。

神との愛の関係にある人、神の愛の圏内にいる人を生きている人といい、肉体が生きていても、神との愛の関係が断絶している人、神の愛の圏外にいる人、サタンの主管圏内に留まっている人を「死んだ人」(同、209頁)というのである。

イエス様も「死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」(ルカ9・60)と言われた。このように、まだ生きている人を指して死人と言われたのである。

 

再臨のメシヤの教えに従って、神の愛の内にある人は、地上においても、霊界においても、神の愛の圏内にあるので「永遠の生命」を得ているといい、反対に再臨主の教えに反して、神の愛の圏外にいる人は、「永遠の死」の中にいるので死んだ人というのである。

したがって、永遠の生命とは肉体で永生することではない。復活の体という不死の体に変えられることでもないのである。

イエスは、「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」(ヨハネ5・24)と述べておられる。

 

復活とは「堕落による死」から「永遠の生命」に向かって「完全な者」(マタイ5・48)となるために、日々復活することである。

 

統一原理は、復活について次のように簡潔・明瞭に述べている。

 

「復活は人間が堕落によってもたらされた死、すなわちサタンの主管圏内に堕ちた立場から、復帰摂理によって神の直接主管圏内に復帰されていく、その過程的な現象を意味するのである。したがって、罪を悔い改めて、昨日の自分よりきょうの自分が少しでも善に変わるとすれば、我々はそれだけ復活したことになる」(『原理講論』復活の意義、213頁)と。

 

また、「天国」や「地獄」は字義(じぎ)的解釈と(ぐう)()的解釈の両方があるが、神の真の愛のあるところが天国であり、神の真の愛のないところが地獄であると述べている。そして現代が「終末」であり、「終末」とは、この世が天変地異によって崩壊することではない。「この世」(天地)の支配権が、サタンから神に移行することを言うのである。終末の火による審判とは、舌は火であると言われるごとく、舌すなわち御言の審判を意味すると説いている。

 

 

 

このように「天国」とは、神の真の愛を中心とした再臨のメシヤ(真の父母様の真の家庭)と成約聖徒(勝利した祝福家庭)の集っている聖なる場所をいい、天においても、地においても、「天国」はすでに成就しつつあるのである。以上

 

 

「原理的批評」 

 

(1) ティリッヒの「弁証神学」は、キリスト教の「使信(ししん)」と「状況」との関係を重視する「相関の方法」である。この「相関の方法」を哲学的人間学であると批判する人に対して、ティリッヒは彼等とて神学を語る時、哲学的人間学的用語を使用せざるをえないと反論する。

 

(2) ティリッヒは、理性が「曖昧(あいまい)」であるという判断は、「技術的理性」関するものでもなく、また存在自体と一致した「存在論的理性」に関するものでもない。理性は曖昧であるという判断は、実存の諸制約下における理性に関するものであるという。「理性」という言葉は、ときには好都合な、しかし多くは軽視すべき不都合な漠然(ばくぜん)たる意味で用いられている。したがって「理性」という言葉の意味を定義する必要性があるというのである。

 

ティリッヒは、啓示と人間状況に関しても相関関係として捉える。したがって、もし主観の側が、ある出来事を啓示と受けとらなければ、ただの偶然の出来事にすぎないことになり、何も啓示されない。また、主観の側が啓示と受けとったとしても、相関関係外の人にとっては、それらの出来事は啓示として信じることが出来ないし、無関係なことと受けとられるという。

啓示の中の終極啓示はキリストである。キリストは「あらゆる啓示の基準」であるという。すなわち、「あらゆる宗教と文化の基準」であり、「すべての人間集団の社会的存在」や「個人の人格的基準」にも妥当し、さらに「宇宙に対しても意味をもつ」というのである。

 

(3) バルトは、神認識は信仰からというが、ティリッヒは神を存在論的に捉える。彼は究極者(神)を「存在自体」と言い、「存在の力」「万物の中に在る存在せしめる力」「万物を目的に導く力」であるという。神を他の諸存在と同一水準に置くことにならない神観とは、ティリッヒによると神を「存在としての神」(「存在自体」と「存在の力」)として捉えることであるというのである。この存在論的神観は、統一原理の存在論的神観と一致する。

 

ティリッヒは、神を存在自体と定義すると、哲学的な存在概念が神学に導入されるという。このことは、キリスト教神学の初期においてなされていたし、キリスト教思想史全体においてもなされて来たというのである。ティリッヒの哲学的な存在概念は、神論、人間論、キリスト論の三つの個所で現われる。この三つの個所が、ティリッヒの『組織神学』体系の中心なのである。

 

(4) ティリッヒは罪を実存主義哲学で論述する。彼は、世界内存在としての人間は、実存的諸制約のもとで、「存在の根拠」より疎外(そがい)され、自己の本質を喪失していると見る。したがって、人間は自己と世界の「存在の根拠」と「意味」を問わざるを得ず、すべての実在を在らしめ、根拠づけている「存在自体」、すなわち「究極者」に関心を寄せざるを得ないというのである。

そして、原罪説の文字通りの解釈は、ティリッヒによると「多くの直解的主義的不条理を負わせているから、実際的にはもはや使用不可能である」(『組織神学』第2巻、58頁)というのである。

 

確かに、「文字通りの解釈」は不条理でキリスト教に著しい害を与えた。しかし、今まで誰も解きえないからと言って、原罪説を使用不可能と言って廃棄(はいき)することではない。この不可解な神話の謎を解く人こそ、再臨のメシヤであるといえるであろう。また、ティリッヒは、アダムは自由意志によって堕落したというが、この既存神学と同様の見解には問題がある。

 

(5) 「キリスト論」について、ティリッヒが次のように述べていることに注視しなければならない。

「イエス形象は半神的イエス形象ではない。むしろそれは神が独特の仕方でそこに顕現している一人間の形象である。……プロテスタント神学の正統主義的方法も自由主義的方法も共に、プロテスタント教会が現代果たさなければならないキリスト論的課題に不適切である」(『組織神学』第2巻、186頁)と。

プロテスタント神学は、「キリスト論的課題に不適切である」、「神学は哲学的概念を排除してはならない」、「神学は、教会的伝統から与えられた概念的手段よりも、いっそう適切ないかなる手段を用いても、キリスト論的実質を表現する『新しい形式』を見出さなければならない」というティリッヒの忌憚(きたん)のない率直な言葉は、統一原理のキリスト論を証しする一種の啓示であるといえよう。特に、三位一体論における女性的要素の欠如に関する彼の指摘は、現代キリスト教神学の最も重要な課題なのである。

 

(6) ティリッヒは、無機物と有機物、そして人類の歴史を「生の過程」として捉え、弁証法的に記述する。その生の次元の現象学的記述は、無神論的進化論に対する批判が含蓄(がんちく)されている。また、歴史のリズム、歴史の動態における召命意識による時代区分は、唯物史観の歴史区分に対する批判がある。

生の自己統合、自己創造、自己超越に関する教説には、問題がないわけではないが、ヘーゲル弁証法の影響を受けている。

 

(7) 聖霊論と神の国について―――ティリッヒは、生の問いと聖霊の答えを相関関係として捉える。

神の霊の業である教会や共同体(ユダヤ教やその他)は神の国の基盤であるという。神の霊は、曖昧(あいまい)な生の中から曖昧ならざる脱自(だつじ)の状態に人間を引き上げる。しかし、魔神(ましん)憑依(ひょうい)に替わるとキリストを否定し、霊的共同体を分裂させるという。したがって、ティリッヒも統一原理も、聖霊の恵みを受けた人は「善神の業」と「悪神の業」の見分け方を知らなければならないと警告している。

ティリッヒは「歴史」の諸問題も「神の国」との相関関係として捉えている。すなわち、歴史に目標があり、それは内在的で、超越的な「神の国」と「永遠の生命」であるというのである。このように、生は実存の否定の運動によって、究極的に新しいもの、超越的なものに向かって進み、「永遠の生命」に至るというのである。

 

以上のように、ティリッヒの『組織神学』は、バルトのキリスト中心主義やブルトマンの「非神話化」(実存論的解釈学)と同様に、人類に統一原理を受容させるための天的使命を持った〝洗礼ヨハネ的神学〟であるといえるであろう。

 

 

「主要参考資料」

 

「ティリッヒ著『組織神学』第1巻」、谷口美智雄訳、新教出版社

「ティリッヒ著『組織神学』第2巻」、谷口美智雄訳、新教出版社

「ティリッヒ著『組織神学』第3巻」、土屋真俊訳、新教出版社

「ティリッヒの『組織神学』研究」、藤倉恒雄著、新教出版社

『キリスト論要綱』、W・パネンベルク著、麻生信吾・池永倫明訳、新教出版社

『キリスト論論争史』、水垣渉・小高毅 編、日本基督教団出版局

『ティリッヒ』大島末男著、清水書院

『信仰の本質と動態』、ティリッヒ著、谷口美智雄訳、新教出版社

『聖霊は女性ではないのか』E・モルトマン=ヴェンデル編、新教出版社

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(34)

(六)「歴史の目標としての神の国」

 

(1)「歴史の目標または永遠の生命」

 

ティリッヒの哲学と神学の相関論は、どの編も難解である。「歴史の目標」(終末論)と「永遠の生命」(神の国)についても例外ではない。

ティリッヒは、終末論のシンボルである〝天変地異〟や〝火の審判〟や〝空中で主に会う(空中掲挙(くうちゅうけいきょ))〟などに関して、彼特有の哲学的表現でそれらを「()神話(しんわ)化」(実存的に解釈)している。

この難解な文章は、統一原理の終末論と対比しながら見れば、理解することができるであろう。

 

(2)「『歴史の目標』と終末」

 

ティリッヒは、終末について次のように述べている。

 

「宇宙の発展の或る時、人類歴史、地上の生命、地そのもの、それに属する宇宙の段階は終わりに到達し、時間と空間に存在をもたなくなるであろう。この出来事は宇宙的時間の過程における小さな出来事である。しかし、endはまた目標をも意味する。」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、496頁)

 

このように、歴史のendは、また目標をも意味するという。そして「歴史のテロスの意味における歴史の終わりは『永遠の生命』(eternal life)である」(同、497頁)というのである。

 

彼は、「『歴史の終わり』(end of history)の教説に対する古典的な言葉は『終末論』である。ギリシア語の「エスカトス」(eschatos)は、英語のendのように、時間-空間的意味と質的-評価的意味とを結合している。それは時間と空間における最後のもの、最も遠いもの、最も高いもの、最も完全なもの、最も崇高(すうこう)なものを指すが、時にはまた価値において最も低いもの、極端に否定的なものをも指す」(同、497頁)と弁証法的に述べている。

 

善(積極的なもの)と悪(積極的でないもの)に対する最後の審判、すなわち、その日に起こるすべての出来事は、「最後の事ども」(the last things-ta eschata)と呼ばれる。

「焼き尽す火」(burning fire)は、「積極的であるようによそおって、実はそうでないものを焼きつくすのである。積極的なものは何も焼かれない。いかなる裁きの火も、神の怒りの火さえも、それはできない。なぜなら、神は自己を否定できないし、すべての積極的なものは存在そのものの表現だからである。……存在するものは何も究極的に無化(むか)され得ない」(同、502頁)と述べている。

 

〝最後の審判〟についての原理的見解は、聖書に「舌は火である」(ヤコブ、3・6)とある。したがって、火は舌の審判、すなわち御言(みことば)の審判であり、御言で悪を審判すると解釈している。

イエス様も、「わたしの語ったその言葉が、終わりの日にその人をさばくであろう」(ヨハネ、12・48)と語っておられる。

 

終末に関する多くの出来事の神学的意味について、ティリッヒは次のように実存的に解釈している。

 

「終末論の神学的問題は起こるであろう多くのことからなっているのではなく、一つの『こと』(thing)とは言っても『事』ではなく、時間的なものの永遠的なものへの関係からなっているのである。もっと詳しく言えば、時間的なものから永遠的なものへの『推移(すいい)』を象徴するものであり、それは創造の教義における永遠なものから時間的なものへの推移、堕落の教義における本質から実存への推移、救いの教義における実存から本質への推移に似た隠喩(いんゆ)である。」(同、497頁)

 

このように、「終末論的問題はeschataからeschatonへのこの還元(かんげん)によって、直接的な実存的意義を与えられる」(同、498頁)というのである。

つまり、終末の多くの出来事は文字通りに起こる出来事ではなく、時間的なものの永遠的なものへの『推移』を象徴しているというのである。

 

すなわち、創造の教義における永遠なるものから時間的なものへの推移、堕落の教義における本質から実存への推移や救いの教義における実存から本質への推移に似た〝隠喩〟であるというのである。

ティリッヒは、終末はいつ来るのか、という問いに対して、次のように答えている。

 

「過去と未来は現在において出会う。そして両者は永遠の『今』(now)に含まれている」(同、498頁)。

「エスカトーンは、その未来的次元を失わずして、現在的経験の問題となるのである。われわれは今永遠に面して立っている。しかもわれわれは前方に向かって歴史の終りを見ている。すべての時間的なものの終りを永遠において見ている」(同)というのである。

 

 

このように、ティリッヒは終末の出来事について、象徴であるとか、隠喩であることを強調し、実存から本質へ推移するごとく、歴史の「目標」は「神の国」と「永遠の生命」(eternal life)であるというのである。

(3)「個々の人格とその永遠の生命」

 

ティリッヒは、「永遠の生命に対する個人の参与に対して、キリスト教は『不死』(immortality)と『復活』(resurrection)の二つの言葉(永遠の生命それ自身のほかに)を用いる。二つのうち『復活』(resurrection)のみが聖書的である。

しかし、『不死』(immortality)はプラトンの霊魂(れいこん)不滅(ふめつ)の教説の意味において、キリスト教神学の中で、非常に早くから用いられた」(同、515頁)という。

 

彼は、「永遠への参与は『死後の生命』(life hereafter)ではない」(同、516頁)という。なぜなら、永遠への参与は「死後における時間的生命の継続を意味するものではな(い)」(同)からであるというのである。

 

確かに、原理的に見ても、人間は死後、霊界で〝霊人体〟(霊のからだ)で永生するが、再臨のメシヤによって祝福されていない人は、ティリッヒが意味する永遠の生命に参与していない。

 

それでは、「永遠の生命」について、彼はどのように説いているのであろうか。

「霊魂不滅」(immortality of the soul)については、「それはキリスト教の霊の概念に矛盾する。霊は存在のあらゆる次元を包含(ほうがん)し、『肉体の復活』(resurrection of the body)というシンボルと両立しない」(同、516頁)という。なぜなら、「霊魂不滅」は、肉体でもって永遠に生きるというキリスト教の教説と矛盾するからである。

 

一方で、彼は、アリストテレスは形相(けいそう)質料(しつりょう)という存在論の中で「霊は生の過程の形相である」(同、516頁)とするが、この説で理解可能となるのではないかという。

しかし、なお問題が残るという。それでティリッヒは、「死後における人間の永遠の生命への参与は、高度に象徴的な熟語『からだの復活』(resurrection of the body)によってより適当に表現される」(同、518頁。注:太字は筆者による)というのである。

 

「肉体の復活」だと肉体で永生するという教説を信じなければならないのかという疑念が生じる。したがって、ティリッヒは「からだの復活」と言い換える。

そして、この「からだの復活」は、パウロ的シンボルである「霊のからだ」(Spiritual body)と解釈する方が好ましいというのである。

 

神の霊と復活の体について、彼は次のように述べている。

 

「パウロは肉と血とは神の国を()ぐ(inherit)ことはできないと主張する。そして、この『物質主義的』(materialistic)な危険に対して、復活のからだを『霊的』(Spiritual)と呼ぶ。霊、これはパウロ神学の中心概念であるが、人間の精神に現臨し、それに侵入し、それを変容し、それ自身を越えて高める神である。そこで霊のからだは霊的に変革された人間の全人格を表現するからだである。」(同、519頁。注:太字は筆者による)

 

このように、「肉体の復活」を「復活のからだ」と言い換え、この「復活のからだ」を「霊的」(Spiritual)と呼ぶと言い、『肉体の復活』と聖書の「霊のからだ」(コリントⅠ、15・44)をたくみな表現力で一致させる。さらに、「神の霊」(聖霊)との関係で「霊のからだ」(Spiritual body)は霊的に変革されると説明を加えている。

 

このように、肉体で永遠に生きるというキリスト教の教説に疑念を持たれないように、あれこれ叡智(えいち)(しぼ)って説いていくのである。

そして、彼は、キリスト教が「復活のからだ」を強調することは、「個々の人格の独自性の永遠の重要性に対する強い肯定を含蓄(がんちく)している」(同、520頁)と、その意義を述べている。

 

また、「天国」(heaven)や「地獄」(hell)は、「シンボルであって、場所の記述ではない」(同、526頁)と実存論的に解釈している。

 

以上のように、ティリッヒの神学は、現在の最高の実存論的解釈であると言われる所以(ゆえん)が、ここにあるのである。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(33)

(C)「歴史解釈と神の国の探求」

 

(1)「歴史解釈の本質と問題」

 

歴史の意味についての問いに対する答えは、いかにして可能であろうか。

 

ティリッヒは、歴史的行動に対する召命意識のみが、歴史の解釈に基礎を与えるといい、その召命意識は歴史解釈への鍵であると次のように述べている。

 

「鍵を決定し、歴史解釈の道を開示するものは、前に述べた召命意識である。たとえば、アリストテレスの『政治学』(Politics)に示されたような、ギリシア人の召命の自己解釈は、ギリシア人と未開人との対照の中に、歴史解釈の鍵を見出し、ユダヤ人の召命についての自己解釈は、預言文学に示されているように、ヤㇵウェによる世界の国々の支配の確立の中に、そのような鍵を見た。」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、440頁)

 

ここで問題なのは、いかなるグループが、またいかなる召命意識が、全体としての歴史への鍵を与えるのかという問題である。

 

ティリッヒによると、「鍵と答えとが発見されるのはキリスト教である。キリスト教の召命意識においては、歴史は歴史的次元の下における生の曖昧(あいまい)性の中に含蓄(がんちく)された諸問題は、『神の国』(Kingdom of God)のシンボルによって答えられるような仕方で把握されている」(同、440-441頁)というのである。

 

「歴史の解釈は歴史の問題に対して、一つ以上の答えを含蓄している。歴史は生のすべてを包括する次元なるがゆえに、歴史的時間はそこにおいて、すべての時間の他の次元が前提されている時間なるがゆえに、歴史の意味についての答えには、存在の普遍的意味に対する答えが含まれている。歴史的次元は、ただの従属的次元としてではあっても、生のすべての領域に存在する。人間の歴史において、それは本来の歴史となる。しかし、それが本来の歴史となった後も、それは、それ自身の中に、他の次元の曖昧性や問題を抱え込む。神の国のシンボルについて言えば、それは『国』(Kingdom)がすべての領域の生を包み込む、またはすべて存在するものは、歴史の内的目的、すなわち成就または究極的昇華へ向かっての前進に参与することを意味する。」(同、441頁。注:太字は筆者による)

 

このように、歴史の意味について、その答えである「神の国」のシンボルは、「すべての生の領域」を包み込むと断定しているのである。

しかし、これは一つの解釈を含んでいる。そこで問題なのは、歴史の内的目的についての特殊な理解は、いかにして記述され、正当化され得るかという問題である。

 

ティリッヒは、「人類の救済の理念」が正当化の根拠となるというのである。

 

(2)「歴史の意味の問題への答えとしての『神の国』のシンボル」

 

 a. 「『神の国』のシンボルの特質」

 

歴史の目的と意味とは、救済史(再創造史)であり、霊的現臨とキリストによる「神の国」の創建である。ティリッヒは、これまで論述した結論を次のように述べている。

 

「生の曖昧性の3つのシンボルについての章において、われわれは『神の国』のシンボルの『霊的現臨』(spiritual presence)および『永遠の生命』のシンボルに対する関係について論述した。われわれが発見したことは、それらの一つ一つは他の二つを含んではいるが、象徴資料の相違のゆえに、霊的現臨を人間精神とそれの諸機能の曖昧性に対する答えとし、神の国を歴史の曖昧性に対する答え、そして『永遠の生命』を生一般の曖昧性に対する答えとすることが正当であるということであった。」(同、449頁。注:太字は筆者による)

 

このように、霊的現臨の啓示である「神の国」と「永遠の生命」という人類救済の理念が、歴史の意味の正当化の根拠であるというのである。

 

この神の国のシンボルの特徴は、政治的、社会的、人格主義的であり、普遍性であるという。ただし、それは「人間のみの王国であるのみではなく、すべての次元における生の成就を含蓄している」(同、451頁)というのである。

 

ティリッヒは、「パウロはこれを『神はすべてにおいてすべてである』(God being all in all)というシンボルで表現し、また歴史の動態が終結した時は『キリストは歴史の支配を神に帰する』(the Christ surrendering the rule over history to God)と言う」(同、451頁)と述べている。

 

「真の父母様」(文鮮明師夫妻)は、摂理を「完成・完結・完了した」といわれ、「すべてを成した」と公言された(2012年天暦8月8日〈陽暦9月23日〉、真のお父様が聖和されてから21日目の早朝の真のお母様の御言(みことば))。

そして、「既に神の直接主管圏時代に進入している」と宣言された。(天一国経典『天聖経』、「平和メッセージ」〈天地人真の父母定着実体み(ことば)宣布天宙大会〉、1451頁)

 

上述のごとく、 「歴史の動態が終結した時は『キリストは歴史の支配を神に帰する』」とあるように、人間始祖の堕落によって始まった罪悪歴史の縦的なすべての蕩減条件を、真の父母様が一時に、横的に蕩減復帰され、天宙の支配を神に帰されたので、「既に神の直接主管圏時代に進入している」というのである。

 

(五)「歴史の中なる神の国」

 

(1)「救済史の理念」

 

ナザレのイエスはキリストであり、歴史における〝新しき存在〟の究極的顕示である。

われわれは霊的現臨とそれの顕示とを、それらの歴史の動態への参加の観点からみなければならない。これは救済史の啓示史に対する関係の問題である。啓示のあるところに救いがある。救いのあるところに啓示がある。

ティリッヒは、歴史の救済史に対する関係の問題は、しばしば進歩主義的歴史観に結びついているという。

 

(2)「歴史における神の国の中心的顕現」

 

歴史における神の国の顕現が、如何なるリズムを取るにせよ、キリスト教はキリストとしてのイエスの顕現を「歴史の中心」と考える。

歴史は、未熟から成熟への運動である。人類は、そこで歴史の中心が現われ、中心として受け入れられる点まで、成熟しなければならなかった(同、459頁参照)。

言うまでもなく、歴史における神の国の顕現の普遍的中心は、キリストに基づいている。

 

(3)「カイロス」

 

神の国の中心的顕示の突入を受容することができる点まで成就した瞬間を、新約聖書は「時間の成熟」(fulfilment of time)、ギリシア語の「カイロス」と呼んだ。

 

「バプテスマのヨハネによっても、イエスによっても、彼らが『近づいている』(at hand)神の国について、時の充満を宣言される時に用いられた。パウロは、神がみ子を遣わされるであろう世界史的な瞬間について語るとき、カイロスを用いた。」(同、465頁)

 

周知のように、カイロスの経験は、教会の歴史においてしばしば起こった。

 

(4)「歴史的摂理」

 

ティリッヒは、「摂理は決定論的な仕方で理解されてはならない。すなわち、神の構想が『世の創造の前』(before the creation of the world)に決定されて、今その過程を走りつつあるが、いつかは神が奇跡的に干渉したもうであろうという意味においてである。

このような超自然主義的機械論ではなくて、われわれは神と世界との関係に対して自由と運命との根本的・存在論的両極性を適用し、神の志向的創造性は被造物の自発性と人間の自由とを通して働く」(同、468頁)と主張する。

 

 

また、彼は、多くの人が「歴史的摂理の具体的構図を描こうと試みた」が、「誰もヘーゲルほどに豊かで具体的ではなかった」(同、470頁)という。

ティリッヒは、「シュペングラーの発生と没落の法則、トインビーの一般的範疇(はんちゅう)、すなわち、『退潮』(withdrawal)と『帰還』(return)、『挑戦』(challenge)と『応問』(response)の場合に例示されているように、歴史の動態におけるある種の法則性に自己を抑制する。このような試みは具体的運動に対する、貴重な洞察を与える。しかし、それらは歴史的摂理の構図を提供しない」(同、470頁)という。

 

上述のティリッヒの見解に対する原理的批評を述べておかなければならない。

ティリッヒのいう「歴史的摂理の構図」とは、統一原理の復帰原理のこととわれわれは理解する。ただし、誰も歴史における「摂理的同時性」に関しては解明できないというのである。

蕩減(とうげん)」あるいは「蕩減復帰」という言葉がわからなければ、旧約時代と新約時代の「歴史的摂理の構図」(歴史の同時性)に関しては、想起することすらできないであろうというのである。

 

彼は上述のように、神の摂理は「人間の自由と運命を通して働く」と主張してはいるが、この教説は、従来からある「自由と必然」の関係を「自由と運命」と言い換えただけのことであり、神の摂理と人間の責任分担に関しては不明瞭である。

 

また、必然とは、神の予定の絶対性を意味しているのである。つまり、人間は自由であるが、その自由は必然的な運命の中での自由であり、結局、絶対的な神の予定通りになるというのである。

 

このように、ティリッヒの教説は機械論的決定論ではないが、「自由と運命」の相関論によって、歴史の前進は究極性へと向かい、「神の国」は必然的に成就するというのである。

 

しかし、今まで終末は何度もあり、神の摂理は何度も延長されてきた。

先に述べたが、「自由と運命」は機械論的決定論ではない。しかし、神の予定は絶対であるとする。イエスが「時は満ちた、神の国は近づいた。」(マルコ、1・15)と宣言されても、神の国が顕現しなければ、まだ終末ではなかったとされるのである。

また、来臨の時は奇跡的に突然顕現するのであるから、その時と場所については知る必要性はないのである。

 

統一原理から見れば、現在が聖書でいう「時間の成熟」した時であり、終末であることを知ることができる。しかし、統一原理を知らないキリスト者は、「終末の時」がいつかに関してはわからないのである。

しかしながら、キリスト者は、神の国は超自然的な力の干渉によって実現されると信じているのであるから、その時を知る必要性はないのである。