当サイトで議題とする神学者とその理由などについて紹介しています。まず始めにお読みください。



ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(32)

 b. 「歴史と生の過程」

 

歴史は、停滞と悲劇的な破壊があるにもかかわらず、なぜ前進するのであろうか。

ティリッヒは、歴史は絶えず新しいものに向かって、究極的に新しいものに向かって前進するという。この前進する力が「生」であり、この「生」の観点から、自己統合、自己創造、自己超越へと駆り立てられる衝動の本質を観察しなければないというのである。

 

「歴史の目標は今や生の三つの過程とそれらの統一の概念に従って次のように表現され得るであろう。生の自己統合の立場から言えば、歴史はすべての歴史を担うグループおよびその個々の構成員が、曖昧(あいまい)ならざる力と正義の調和のうちに、一つの中心に向かって進むことを意味する。生の自己創造の立場から言えば、歴史は新しい、曖昧ならざる事態に向かって進むのである。そして、生の自己超越の立場から言えば、歴史は存在の可能性の普遍的な、曖昧ならざる成就に向かって進む」(『組織神学』第3巻、419頁。注:太字は筆者による)

 

この三つの過程は後で詳論される。このように、生は究極的に新しいもの、超越的なものに向かって進むというのである。彼は、歴史も同じで、生の三つの過程は一つの過程、すなわち、一つの目標に向かう運動として〝統一的〟に捉えるのである。

 

そして、ティリッヒは、「生の過程」と「神の国」との関連性(相関的方法)について、特有な表現で、すなわち弁証法的否定で、中心性は新しいものへと前進し、「神の国」は生の曖昧性の分析から生じる「問い」に対する「答え」であると、次のように述べているのである。

 

「歴史は、生一般と同様に、実存の否定性の下に立っている。したがって生の曖昧性の下に立つのである。普遍的にして全体的な中心性、新しさ、成就への前進というのは一つの問題であって、歴史の続く限り問題にとどまるのである。歴史の大いなる曖昧性の中に含蓄(がんちく)されているこの問題は、常に感得され、神話や、宗教的・世俗的文学や芸術において、強力に表現されている。これらの問いは(相関的方法の意味において)宗教的(擬似(ぎじ)宗教的)歴史観および終末論的シンボルに関係づけられている。キリスト教神学の圏内においては、神の国はこの生の曖昧性の問いに対する答えである。」(同、419-420頁)

 

このように、歴史の諸問題が「神の国」との相関的方法において論述されるのである。すなわち、歴史に目標があり、それは「神の国」であるというのである。

このように、生は実存の否定の運動によって、究極的に新しいもの、超越的なものに向かって進んで行くというのである。

 

(B)「歴史的次元における生の曖昧性」

 

ティリッヒは、生の三つの過程を次のように具体的に論述する。

 

(1)「歴史的自己統合の曖昧性――帝国と中央集権」

 

歴史は、究極的目標に向かって前進する。ティリッヒは、「歴史的次元における生の自己統合における、普遍性、全体性に向かっての人間の努力は、『帝国』(empire)という言葉の中に表現されている」(同、428頁)という。

 

彼は、歴史の担い手である歴史的グループには「召命意識」があり、この要素がより強く、正当なものであればあるほど、そのグループの帝国建設への情熱は強くなり、それが全構成員の支持を得ることが多ければ多いほど、永続する可能性があるという。

このように、彼は生の自己統合の事例として「召命意識」と「帝国」の関係を次のように述べている。

 

「西方の歴史には、唯一ではないにしても、召命意識の最も偉大な例には次のようなものがある。ローマ帝国が法を代表するという言い分、ドイツ帝国がキリストのからだを代表するという言い分、大英帝国がキリスト教文明の代表であるという主張、ロシア帝国が機械化された文化に対して人間性の深さを代表しているという主張、アメリカ帝国が自由の原理を代表しているとの主張がある。そして、それに対応して、人類の東方地域にも、同様の例がある。……われわれの時代においては、二つの偉大な強国、すなわち、合衆国とロシアにおける、全体主義への傾向は、人類の最も深く、最も普遍的な分裂へと導いた。この事態が起こったのは単なる経済力ないしは政治力への意志によるのではなく、それらの強国が勃興(ぼっこう)し強力となったのは、自然的な自己肯定と結びついた召命意識によるのである」(同、429頁。注:太字は筆者による)と。

 

このようにティリッヒは、ロシアの共産主義革命は生産力と生産関係の〝矛盾〟によるのではなく、〝召命意識〟によるというのである。

そして、生の自己統合により、歴史は帝国建設へと進み、さらに人類を統一する前段階である二つの世界(合衆国とロシア)に分かれていったというのである。

 

すなわち、この段階は、ティリッヒ的弁証法の叙述によると、「人類の最も深く、最も普遍的な分裂へと導いた」(同、429頁)というのである。

そして、「この状況は世界史と呼ばれたものへの手がかりを与える」(同)と述べ、「それは人間の歴史的統合の新しい段階をなすものである。この意味において、われわれの世紀は新しいものを創造するという意味で、偉大な諸世紀の一つをなすものである」(同、430頁)と述べている。

つまり、その矛盾は、統一世界の前段階であるというのである。

 

しかし、彼の弁証法による両極性は、歴史的統合の新しい段階、すなわち、「歴史における最大の統合の瞬間は、最大の崩壊、根本的な破壊の危機をさえ意味していた」(同)といい、二つの相反する危機的傾向性を指摘することを忘れないのである。

 

また、ティリッヒは、「中心主義の曖昧性は歴史的統合の外延(がいえん)的側面に関連するのみならず、内包的側面にも関連する」(同、431頁)という。

それで、彼は「内包的中心性と外延的中心性との関係を見なければならない」というのである。そして、「外延的・帝国主義的傾向と内部的中央集権的傾向とは、曖昧ならざる歴史的統合において、克服され得るかという問題に導く」(同、432頁)と述べている。

 

このように、生の自己統合は一つの中心に向かって進むというのである。そして、彼の歴史に対する弁証法的考察は、次の「生の自己創造」へ進むのである。

(2)「歴史的自己創造の曖昧性――革命と反動」

 

ティリッヒは、歴史における生の自己創造について、次のように述べている。

 

「歴史におけるすべて新しいものは、それ自身において、それがそこから出てきた古きものの要素を保っている。ヘーゲルは、この事実を著名な言葉で表現した。すなわち、古いものは新しいものの中に、否定されると同時に保存されている(aufgehoben)。しかし、彼はこの成長の構造とそれの破壊の可能性との両義性を真剣に(とら)えなかった。これらの諸要素は世代間の関係において、芸術的スタイルと哲学的スタイルとの葛藤において、政党のイデオロギーにおいて、革命と反動(反革命)との動揺において、これらの葛藤がそこへと導いた悲劇的状況において現われる。歴史の偉大性は新しきものへと進むことにある。しかし、その偉大さは、それの曖昧性のゆえに、また同時に歴史の悲劇性でもある。」(同、432-433頁)

 

このように、成長の構造と破壊の可能性との両義性によって、歴史は前進するというのである。政党のイデオロギーにおいて、革命と反革命(反動)との動揺において、これらの葛藤は何か新しきものへと進み、いかに歪曲(わいきょく)されようとも、新しいものは結局除去されない。

「これらの過程における人的犠牲や物的破壊の巨大さは、曖昧でない歴史的創造の問題へとわれわれを導く」(同、434頁)というのである。

 

(3)歴史的自己超越の曖昧性

 

生の自己超越性は、究極的なものへ進む。究極性の主張は、究極的なものをもつ。彼は、それは歴史の目標を代表する待望の「第三の時代」であるという。

 

「究極的なもの」(第三の時代)について、ティリッヒは次のように述べている。

 

「古いものと新しいものとの歴史的葛藤は、どちらかの側が自己の究極性を主張するとき、最も破壊的な段階に到達する。……究極性の主張は、究極的なものをもつ、または歴史がそれに向かって進む究極的なものをもたらすという主張の形を取る。このことは政治的領域においてのみならず、もっと直接的には、宗教の領域において起こった。」(同、434頁)

 

究極性の主張である第三の時代について、さらに次のように述べている。

 

「歴史の終局の前に千年間キリスト教が歴史を支配されるというシンボルがそれである。啓蒙主義と理想主義の時代には、第三の時代のシンボルが世俗化されて、革命的機能をもった。ブルジョワジーもプロレタリアートも共に、彼らの世界史的役割を、それぞれに『理性の時代』(age of reason)または『階級なき時代』(classles society)の担い手として推定した。これらの言葉は第三の時代のシンボルの変形である」(同、435頁)と。

 

このように、歴史が究極的成就に向かって進み、歴史の流れにおいて、その瞬間瞬間において、歴史はそれ自身を超越するとの確信が表現されている。

この観念において、歴史の次元における生の自己超越が表現され、現代において「二つの全く曖昧な態度」(弁証法的矛盾の状態)に到達したというのである。

 

ティリッヒの究極的主張、すなわち第三の時代について、もう少し解説すると、終末の日が近づき、神が直接地上を支配する千年王国が間近になったということである。

この説は、ローマ帝国でキリスト教が国教化した時、アウグスティヌスが『神国論』で唱えてから、ローマ・カトリックで支配的になった考えである。

 

その後、正教会やプロテスタントなど伝統的な教派では、地上の教会が「神の国」であると主張した。

また、ナチス・ドイツは第三帝国を千年王国と称し、負のキリスト教と言われるマルクス主義にも、千年王国と同じ思想が見られるのである。

 

歴史上における「神の国」は、現われたり、消えたりしている。また、自分の時代が終末であるという危機意識を常に持っていた。

したがって、ティリッヒは「神の国」のシンボルは、内在と超越の両面を表現する力を持っているというのである。

 

以上が、ティリッヒの「生の三つの過程」(自己統一、自己創造、自己超越)に関する説明である。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(31)

 c. 「歴史以前と歴史以後」

 

有機的領域から精神の次元への発展へ、さらに言語をもち、芸術や聖なるものを感ずる歴史的人間への発展について、ティリッヒは次のように述べている。

 

予兆(よちょう)された歴史から実現された歴史への発展は、前歴史的人間の段階として記述することができる。彼はすでに或る意味で人間であるのだが、未だ歴史的人間ではない。なぜなら、もし結局は歴史を生産するであろう存在が『人間』と呼ばれるならば、彼は目的を設定する自由をもち、いかほど限定されていようとも、言語をもち、普遍的なものをもっていなければならない。彼はまた芸術的・認識的能力をもち、また聖なるものの感覚をもっていなければならない。もし彼がこれらすべてのものをもっているならば、彼はすでに、自然における他のすべての存在がそうではあり得ないような仕方で、歴史的なのである。」(『組織神学』第3巻、388頁)

 

歴史、それは『覚醒(かくせい)しつつある』人間である。

 

ティリッヒは、前歴史的人間は精神および歴史の次元を実現する措置(そち)をもった有機体であって、その発展において、それらの現実化へと前進する。動物的意識(前歴史的人間)から人間の精神が現われ、人間の精神が歴史的次元に入るというのである。彼は、前歴史的人間から歴史的人間への推移の瞬間を知ることはできないが、両者を区別することができるという。

ただし、「歴史的人間は新しい。しかし、それは前歴史的人間によって準備されたものであり、またそれによって予兆されたものである」(同、389頁)というのである。

 

ところで、ティリッヒが、次のような神学的問題をここで書いている点を無視して通り過ごすわけにはいかない。

 

「非現実的な理念は、前歴史的人間に対して、余りにも多くを帰したり、余りにも少なくを帰したりする。もし前歴史的人間に後の発展または完成の状態を先取りするあらゆる種類の完全性が与えられるならば、それは余りに多くを帰することになる。その例はアダムにキリストの完全性を帰する楽園神話の神学的解釈であり、『高貴な原始人』(noble savage)に人間の人道主義的理想の完全性を帰する人類の原始的状態についての世俗的解釈がそれである。」(同、388頁)

 

この見解は、神と心情交流していた〝堕落前〟のアダムと、神と心情が断絶した〝堕落後〟のアダムの区別がない。

また、「人類の原始的状態についての世俗的解釈」というのは、堕落したアダムの子孫である人間が、キリストによって堕落前のアダムの状態に復帰されて、キリストのごとく「完全な者」(マタイ5・48)になるという救済の目標が否定され、曖昧(あいまい)になるのではないかと反論しておきたい。

聖書は、キリストをアダム(コリントⅠ、15・45)と呼んでいる。アダムは人間始祖であるが、原始人ではない。

 

原理的見解では、堕落した人間ですら、ルネサンスと宗教改革から、わずか400年で、今日の科学が最高度に発達した文明社会を築き上げたのであるから、もし、アダムが堕落しなかったなら、アダム時代の人達は今日のような科学の発達した環境を短期間で築き上げたであろうというのである。

 

 (2)「歴史の動態」について

 

 a. 「歴史の運動・動向・構造・時代」

 

歴史の運動、歴史の動向について、ティリッヒは、歴史を歴史法則として確定すると経験主義的歴史家は強固に抵抗するという。普遍的法則として歴史に適用すると事実を歪曲(わいきょく)することになると、次のように述べている。

 

「普遍的進歩の法則は神的摂理の宗教的シンボルの世俗化され(たものであり)、歪曲された形体である。」(同、414頁)

 

そして、彼は「歴史的出来事の弁証法的構造は特殊な考察を要求する。それは他のいかなる構造よりも深い影響を世界史に及ぼした。まず何よりもわれわれは、それは多くの歴史現象について真であるのみならず、生の過程一般について真であると強調しなければならない。それは生の分析および記述にとっての重要な科学的手段である」(同、415頁)といい、「生の自己同一から自己変革、更に自己同一へと帰る運動は基本的には弁証法の構造である。そして、われわれがすでに観察してきたことは、この弁証法は神的生の象徴的記述にとっても適切である」(同)と述べている。

 

ただし、弁証法と言っても、唯物弁証法に関しては、マルクスがそれを歴史に適用した「唯物史観」(歴史法則)を次のように批判している。

 

「『唯物弁証法』(materialistic dialectics)という言葉は曖昧であり、その曖昧性のゆえに危険である。『唯物的』(materialistic)という言葉は、形而上(けいじじょう)学的唯物論(それはマルクスによって強く否定されたものであるが)としても理解され得るし、道徳的唯物論(それをマルクスはブルジョワ社会の特徴として攻撃した)としても理解され得るが、両者ともに間違っている。弁証法と結びつけられた唯物論は、むしろ、ある社会の経済的-社会的諸条件は、他のすべての文化的形体を決定し、経済的-社会的基礎の運動は、弁証法的性格をもっていて、社会的状況に緊張と相剋(そうこく)とを生産し、それらを越えて、新しい経済的-社会的段階へと()り立てるとの信念を表現している。この唯物論の弁証法的性格は、形而上学的唯物論を排除し、ヘーゲルが『綜合(そうごう)』(synthesis)と呼んだ新しいものの要素を包含していることは明らかであって、それはマルクス自身が自覚し実践したように、歴史的行動なしには到達され得ない。経済的相剋に根ざした社会的弁証法の相対的真理性は否定され得ない。しかし、もしこの種の弁証法がすべての歴史の法則性の地位にまで高められるならば、真理は誤謬(ごびゅう)となる。その時、それは擬似(ぎじ)宗教的原理となり、経験主義的実証性を失う。」(同、416頁)

 

マルクス主義は、上部構造は土台の産物であるというが、実際の歴史はこの理論と一致していない。「勝共理論」は次のように批判している。

 

「奴隷制社会であったローマ時代の法律(見解)が資本主義時代にも保存されており、ギリシャ芸術は今日においても高く評価されている。……古代のキリスト教・仏教・儒教は、今日に至るまで少しも変わらずに存続して来ているのである。古い生産関係はすでに遠い昔に消滅したにもかかわらず、その観念や見解は今日に至るまで少しも消滅することなく、そのまま存続してきている。」(『新しい共産主義批判』、325頁)

 

「勝共理論」は、「土台と上部構造の関係は、精神が先か、物質が先か、という哲学における『物質と精神』、または『存在と意識』の関係と同様の関係である」(同、247頁参照)と指摘している。

マルクスは、「人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである」(マルクス著『経済学批判』岩波文庫、13頁)と述べている。

 

しかし、上述の「勝共理論」の批判のごとく、社会的存在が人間の意識を規定するのではなく、逆に、法律や芸術や宗教の例のように、意識が存在を規定しているのである。

 

原理的に言い換えると、主体(意識)と対象(歴史的社会的環境)との授受作用によって、主体が対象を規定するのである。

また、後に論述するティリッヒの歴史発展における「召命意識」も同様の見解である。

意識が存在(経済体制)を変革することに関する例証を「西欧の歴史」(神の摂理の中心史)の中に見てみよう。『原理講論』は次のように述べている。

 

「17世紀末葉における西欧の歴史について、その発展過程を考察してみることにしよう。

まず、宗教史の面から調べてみると、この時代において、既に、キリスト教民主主義社会が形成されていたのである。すなわち1517年の宗教改革により、法王が独裁していた霊的な王国が倒れることによって、中世人たちは、法王に隷属(れいぞく)されていた信仰生活から解放され、だれもが聖書を中心として、自由に信仰生活をすることができるようになった。しかし、政治史の面から見るならば、この時代には、専制君主社会が台頭(たいとう)していたのであり、経済史の面においては、いまだ荘園(しょうえん)制度による封建社会が、厳存していたのである。このように、同時代における同社会が、宗教面においては民主主義社会となり、政治面では君主主義社会、そして、経済面においては封建主義社会となっているのである」(『原理講論』495~496頁)

 

このように、1517年の宗教改革によって、意識の面で民主主義が実現したが、政治面では、いまだ君主主義社会であり、経済面では、さらに遅れて封建社会のままなのである。

この意識における民主主義は、やや遅れて政治面に現われ、「イギリス、アメリカおよびフランスで民主主義革命を起こし、君主社会を崩壊せしめて、民主主義社会の基礎を確立した」(『原理講論』504頁)のである。

そして、さらに遅れて経済面での民主主義は、カイン型社会主義とアベル型社会主義として現象化してくるのである。

これらのことに関して、『原理講論』は次のように述べている。

 

「カイン型の人生観を中心とする共産世界と、アベル型の人生観を中心とする民主世界を成し遂げていく復帰摂理の立場から、専制君主社会の帰趨(きすう)を考察してみることにしよう。中世封建社会はヘブライズムとも、ヘレニズムとも、同時に相容れぬ社会であったので、この二つの思想は共同でそれを打ち破り、カイン、アベルの二つの型の人生観に立脚した二つの型の社会を樹立したのであった。そのように、専制君主社会も、やはり、宗教改革以後のキリスト教民主主義による信教の自由を束縛したので、それはアベル型人生観の目標達成に反する社会であるとともに、またこの社会は、その中に依然として残っていた封建制度が、無神論者と唯物論者たちが指導する市民階級の発展をさえぎるものであったので、カイン型人生観の目的達成に反する社会でもあった。ゆえにこの二つの型の人生観は共に、この社会を打破する方向に進み、ついには、カイン、アベル二つの型の民主主義に立脚した共産と民主の二つの型の社会を形成したのである。」(『原理講論』526-527頁)

 

前者(カイン)は共産主義社会を目指し、後者(アベル)は「共生共栄共義主義社会」(神の国)を創建しようとしているのである。

 

以上のように、意識(思想や人生観)が存在(経済体制)を規定するのであって、存在(経済体制)が意識を規定するのではないのである。

言うまでもないことであるが、ロシアが社会主義社会になったのは先に共産主義思想があったからである。ソ連が崩壊したのも同じ理由による。

 

主体(意識)と対象(歴史的社会的環境)との授受作用によって、意識が存在を規定したのである。

 

ところで、歴史的区分について、マルクスの歴史発展段階論の時代区分と対比して、ティリッヒは王朝、政治的社会的構造、文化的状況、数世紀の特徴など、いろいろな歴史の動態があると述べ、この歴史運動のリズムによる時代区分について、次のように述べている。

 

「初期の時代史においては、王朝の連続が歴史的時代に対する名前を提供した。というのは、それぞれの王朝の性格は、そこでそれが支配した時代の歴史的に重要な性格を代表すると考えられていたからである。このような性格づけは、英国およびヨーロッパの大部分における19世紀の前半に対して『ビクトリア時代』(Victorian period)という言葉の使用が示しているように、見失われるということはなかった。他の名称は芸術、政治、社会構造などにおける支配的な型体から取られた。たとえば『バローク』(baroque)、『絶対主義』(absolutism)、『封建制』(feudalism)などがそれである。文化的状況全体から取られたものには、たとえば『ルネサンス』(Renaissance)がある。時には数世紀に対して質的特徴づけが与えられ、要約された形の一つの歴史時代として指名された。たとえば『18世紀』(eighteenth century)がそれである。最も普遍的な時代区分は宗教に基づくもので、キリスト教時代における、キリスト以前の時、キリスト以後の時という呼び方がそれである。そのことは、キリストとしてのイエスの出現によって、歴史的時間の資質に普遍的変化が起こったということを含蓄(がんちく)している。このキリスト教的見解においては、キリストは『歴史の中心』(center of history)となっている。」(『組織神学』第3巻、416~417頁)

 

歴史は、時代のリズムを(えが)いて進む。出来事の順序には、絶えざる推移があり、重複があり、前進があり、遅滞(ちたい)がある。しかし、ティリッヒは「これらの出来事を重要性の原理にしたがって評価する人々には、歴史的時間の質的に違った区間の境界線を示す標識が見えてくる」(同、418頁)というのである。

 

「勝共理論」は、マルクスの時代区分について次のように述べている。

 

「唯物史観によれは、経済構造(生産関係)は原始共産制から奴隷制・封建制・資本主義制を経て今日に至り、これから社会主義社会を経て共産主義社会に移っていくという。これらはみな生産力の発達にしたがって、順次、現われた経済制度であって、一連の上昇的系列をなしている。それゆえに、一段階は必ず前段階よりいっそう発展した経済水準を見せているというのである。そして、マルクスによれば、いかなる生産関係でも十分に発達しなければ、決して次の段階に移行しない。したがって、資本主義も十分に発達しなければ革命が起こらないというのである。」(『新しい共産主義批判』、338頁)

 

そして「勝共理論」は、「マルクス式制度の純粋型は実際にはない」(同)と批判している。事実、アジア、アフリカ、ラテンアメリカでは、マルクスの言うような〝純粋型の経済発展〟はどこにも見られない。ヨーロッパにおいてある程度当てはまるだけである。

しかし、「それにもかかわらず、マルクスは経済制度の純粋型を基礎として彼の唯物史観理論を展開している」(同、339頁)と批判しているのである。

現在においては、ロシアにおいても、中国においても、社会主義から資本主義に逆戻りしているのである。

 

 

ところで、ティリッヒは「歴史的時間の質的に違った区間の境界線を示す標識が見えてくる」と言うが、神による摂理歴史(キリスト以前と以後の中心史)、すなわち旧約時代と新約時代の歴史的同時性を見ていない。人類歴史の「中心史」(救済史)に作用する「蕩減復帰」という原理を発見することができなかったからである。

 

したがって、統一原理のように、繰り返される歴史の同時性が解明されていない。それで、彼は、歴史の「終末」をシンボルとして説くが、いつ「終末」が来るかに関しては明瞭でないのである。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(30)

『組織神学』第3巻――(歴史と神の国)――

 

(四)「歴史と神の国」(歴史論)

 

(A)「生と歴史」

 

生は究極的に新しいもの、超越的なものに向かって進む。生の過程は一つの目標に向かう運動である。そのように、あらゆる存在に意味と目的があることを理解するのは人間だけである。

その人間の歴史に目標があり、その究極的目標とは「神の国」のシンボルであるとティリッヒはいうのである。

 

(1)「人間と歴史」

 

人間の次元は、歴史によって意味や価値があたえられ、先の次元に意味が与えられる。人間の歴史は生のすべてを包括する次元である。

 

「最後の、そしてすべてを包括する生の次元は、人間においてのみ現実化する。精神の担い手としての人間においてのみそれに対する諸条件が存在する。」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、30頁)

 

このように、ティリッヒは無機物や有機物などすべて存在するものは、歴史の内的目的、すなわち「神の国」の成就と究極的昇華へ向かってその前進に参与するというのである。

 

 a.「歴史と歴史意識」

 

ティリッヒは、歴史意識について次のように定義する。

 

「意識が歴史的出来事に『先行する』(preceed)。もちろん歴史意識は、時間的順序においては、出来事に先行しない。意識は出来事の意識なのである。しかし、意識は単なる出来事を歴史的事件に変革する。その意味において、意識は出来事に先行するのである。」(同、380頁)

 

また、歴史について次のように述べている。

 

「すべての歴史的記述は、実際の出来事と、具体的歴史意識による受容との両者に依存している。事実的出来事のないところには歴史はないし、歴史意識による事実的出来事の受容と解釈のないところにも歴史は存在しない。」(同、382頁)

 

この歴史意識による出来事と歴史解釈によって、歴史に意味を与えるというのである。

 

 b.「人類史の光における歴史的次元」

 

ティリッヒは、生の過程において、精神の次元には〝志向性〟と〝目的〟があるという。

 

「精神の次元における水平的方向は、志向性と目的という性格をもっている。歴史的事件においては、人間の目的が、排他的ではないにしても、決定的要素である。所与の制度とか自然的諸条件とかいうものが他の要素としてあるけれども、目的をもった行動の存在のみが或る事件を歴史的たらしめる。」(同、383頁)

 

このように、ティリッヒは、目的が歴史的事件における決定的な要因であるというのである。

 

そして、人間は所与の状況を「自己超越する自由」によって、一つの状況から他の状況へ「転位」すると次のように述べている。

 

「人間は目的を設定し追究する限りにおいて、自由である。人間は所与の状況を超越し、現実的なものを捨てて、可能的なものへと進む。……まさにこの自己超越が最初にして基礎的な自由の資質である。それゆえに、いかなる歴史的状況も他の歴史的状況を完全に決定するということはない。一つの状況から他の状況への転位は、部分的には、人間の集中的反応、すなわち自由によって決定される。」(同、383-384頁)

 

このように、彼は「人間は所与の状況を超越し」「いかなる歴史的状況も他の歴史的状況を完全に決定するということはない」といい、一つの状況から他の状況への「転位」は、所与の状況を「自己超越する自由」によって決定されるというのである。

 

この見解は、精神が先か、物質が先か、という存在と意識の関係に関する哲学的な問題に対する答えである。「部分的には」と言いつつも、精神の優位、すなわち、精神の主体性を主張しているのである。

また、この見解は、「人間の意志から独立した客観的な歴史法則がある」、「人間の自由な意識はこの物質的客観的な歴史の発展法則に従わざるを得ない」という唯物史観に対する批判が含蓄されているのである。

 

自由による転位の事例として、次の歴史的事件を挙げておこう。

 

文鮮明師と迎合したゴルバチョフの決断によるソ連の終焉(しゅうえん)、鄧小平による中国の文化大革命路線から改革開放路線への転換、文鮮明師と金日成主席の迎合と歴史的出会い。これらは、歴史的状況を自己超越した指導者(摂理的中心人物)の自由による決断によって起こった出来事である。

 

ティリッヒによると、このような精神の根底には規範や原理があるという。

 

「意味ある生は……精神の機能によって決定された生であり、それらの機能を支配する規範や原理によって決定され(る)」(同、384頁)

 

そして、次のように述べている。

 

「歴史的人類の内部における歴史的諸過程には内的目標がある。それらは決定的な方向に向かって進み、その目標に達するか否かは別として、成就へ向かって進む。」(同、386頁)

 

「成就へ向かって進む」と断言できるのは、「究極性を経験する」からである。ティリッヒは、この「経験」によって歴史的諸過程に内的目標があるというのである。

 

彼は、自然界の存在者は「自然への隷属(れいぞく)」を越えないので「目的と自由が働いていない」と述べた後に、目的性は生の領域における人間の精神の実現化によって理解されると次のように述べている。

 

「高等動物の生、種の進化、天文学的宇宙の発展を取り上げるならば、われわれは、まず最初に、これらの例のいずれにも、目的と自由とが働いていないということを観察することができる。高等動物における目的は、彼らの直接の需要(じゅよう)の満足を超えない。動物は彼らの自然への隷属を越えない。また種の進化や宇宙の運動には特定の意図が働いていない。……精神の次元が現実化していないところでは、絶対的意味はないし、意味深い独自性も存在しない。」(同、386頁)

 

このように、精神の次元以外に、自然への隷属を越えない動物における目的に言及した後に、彼は「しかるに、一人の人格が自己を人格として確立する行為、尽きることのない意味をもった文化的創造、そこにおいて究極的意味が非究極的意味を突破する宗教経験は無限に重要である」(同、387頁)というのである。

 

なぜなら、この「究極性を経験する宗教的経験」によって、人間はすべての存在者に目的や意味があることを経験し、理解することができるからであると次のように述べている。

 

「すなわち、精神の次元における生は、究極性を経験することができるし、また究極的なものの表現および象徴を生産することができる。もし一本の樹木、一つの新しい動物の種、または星の群れに絶対的意味があるとするならば、それは人間によって理解される。なぜなら、意味は人間によって経験されるからである。人間の実存におけるこの要素は人間の魂の無限の価値についての教説をもたらした。このような教説は直接的に聖書的ではないとしても、すべての聖書記者によって発現された約束と脅迫(きょうはく)の中に隠約(いんやく)されている。『天』(heaven)とか『地獄』(hell)とかは究極的意味と無制約的重要性のシンボルである。しかし、このような脅迫と約束とは人間の生以外のものについては与えられていない。」(同、387頁。注:太字は筆者による)

 

このように、精神の次元における生は、究極性を経験することができ、あらゆる存在に意味や目的があるなら、それは「人間によって理解される」というのである。

 

また、次のように述べている。

 

「非有機的な領域においてさえも、いわんや有機的領域においてはテロス(内的目的)がある。それは固有の歴史の一部分ではないが、歴史に準ずるものである。このことは種の発生、宇宙の発展についても真である。」(同、387頁)

 

人間の歴史は、生のすべてを包括する次元である。したがって、歴史に参与する非有機的な領域と有機的領域に目的があると理解されるようになる。

言い換えると、無機物や有機物は自然に隷属しているので、目的や意味は否定されていたが、人間の出現によって絶対的な意味ある存在として理解されるようになるというのである。

 

統一原理も同様に、次のように述べている。

 

「宇宙は何のためにあるのであり、その中心は何であるのだろうか。それは、まさしく人間である。ゆえに、神は人間を創造されたのち、被造物を主管せよ(創1・28)と言われた。もしも、被造世界に人間が存在しないならば、その被造世界は、まるで、見物者のいない博物館のようなものとなってしまう。」(『原理講論』59頁)

 

このように、人間は宇宙の中心存在として創造されているというのである。

 

自然物の目的や意味が人間によって理解されるということと関連して、われわれはトーマス・F・トランスの神学を、ここで再び取り上げてみようと思う。

 

彼は、次のように述べていた。

 

「自然科学によって探求されている時間と空間のこの宇宙は、神学に無関係であるどころか、神がそこに人間を置いた宇宙だからである。神は宇宙を創造され、人間にそれを研究し解釈する精神と悟性を賜わった」(『科学としての神学の基礎』トーマス・F・トランス著、教文館、18頁)。

「人間をその本質的構成要素とする宇宙を、それ自体を認識し、かつ明確に表現できるものとして創造した」(同)

「人間のいない自然は沈黙したままであり、自然に言葉を与えること、すなわち生ける神の栄光と尊厳を表わす全宇宙の口になることが、人間の役割なのである」(同、18-19頁)

「また神が人類との対話のなかで人間にご自身を人格的に啓示してきたのも、この空間と時間の宇宙を通じてである。この歴史的対話は、神の(ことば)を知解可能な仕方で人間に媒介し神認識を聖書を通して伝達可能にする相互関係の共同体を確立してきた。」(同、19頁)

 

このように、自然物の意味や目的は、究極的存在と一つとなった人間によって理解されるのである。また、人間のみが言葉を持つ存在であるということの意義を知ることができるのである。

 

ティリッヒは、「人間が自然から疎外(そがい)していること、人間は人間を理解し得るようには自然を理解し得ないことは実存の性格に属する。人間はすべての諸存在の行動を記述しうるが、その行動がそれらのものにとって何を意味するかを直接には知らない」(『組織神学』第1巻、211頁)と述べている。

しかし、人間の疎外は究極への関心によって、意味や目的を経験するというのである。

 

原理的に整理すれば、ティリッヒは「何を意味するかを直接には知らない」と述べているが、なぜ意味がわからない存在になってしまったのかといえば、人間は究極的存在(本質)から離反して、万物の創造目的も、人間の存在目的も分からない存在(実存)になってしまったからなのである。

 

したがって、存在論的理性から離れた実存的制約下にある理性は、自然物(万物)に意味や目的があることを否定する。

例えば、機械的唯物論は、自然は人間の身体を含むすべての生ある諸存在を部品とする巨大な一機械である(デカルト派)と主張する。

 

また、マルクス主義も、世界は「運動する物質のみである」というのである。運動と物質の関係について、エンゲルスは「運動は物質の存在様式である。運動のない物質はいつどこにもなかったし、またありえない。」(エンゲルス著『反デューリング論』上巻、岩波文庫、101頁)と述べている。

 

ティリッヒは、すべての存在者を「生の過程」と捉え、精神の次元においては、究極への関心、あるいは究極性の経験によって、人間は人間自身と万物の存在意義や存在目的を新たに理解することができるようになるというのである。

 

事物の運動の形態は弁証法であるという。マルクス主義の弁証法とティリッヒの弁証法には相違がある。しかし、存在と論理が一致しているのは弁証法ではなく、授受法である。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(29)

(三)「霊的共同体と三位一体論」

 

(1)「霊的共同体――教会と諸教会」

 

霊的共同体」とは、新約聖書で「キリストのからだ」(コリントⅠ12・27)と呼ばれる。霊的共同体は他のグループと並ぶ一つのグループではない。もし、それらがキリストとしてのイエスにおける新しき存在の顕現に意識的に基礎づけられているならば、それらのグループは教会と呼ばれる。

 

ティリッヒは、「もしそれらが他の基礎の上に立っているならば、それらはシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)、神殿の会衆、神秘集団、修道団、祭祀(さいし)集団、または運動と呼ばれる。それらの集団が究極的関心によって決定されている限り、霊的共同体は、すべてこれらの集団で、隠された力として、また構造として働いている」(『組織神学』第3巻、208頁。注:太字は筆者による)と述べている。

 

キリスト教会における霊的共同体の顕現について、次のように述べている。

 

「キリストの使者なる使徒たちによって、すべての民の中から呼び出され者たちの集まりであり、『天国』(Kingdom of the Heaven)の自由な市民となった者たち、すなわち、『自由人たち』(eleutheroi)の会衆である。」(同、209頁)

 

(2)「三一神問題の再開」

 

ティリッヒは、三一神(三位一体の神)の教義の根本的な改訂を主張し、聖霊の現臨に対する新しい理解を必要とするという。これらに関して、次のように述べている。

 

「『父と子と聖霊の御名によりて』(in the name of the father,the Son,and the Holy Spirit)……また『父なる神の愛、イエス・キリストの恵み、聖霊の交わり』(love of God,the father,and the grace of Jesus Christ and the fellowship of Holy Spirit)によって、その祈りを聞く人々の中に迷信的な心象(しんしょう)を呼び()ますことなしに、祝禱(しゅくとう)をすることができるであろうか」(『組織神学』第3巻、368頁)と。

ティリッヒは、「私はそれが可能だと信じる。しかし、それは三一神の教義の根本的な改訂と、神的生命と霊的現臨の新しい理解を必要とする」(同)というのである。

 

このように、聖霊に対する解釈をめぐって「三一神の教義の根本的な改訂」と、「神的生命と霊的現臨の新しい理解を必要とする」というのである。

この新しい理解とは、統一原理の三位一体論ですでに解明されているイエスと聖霊の原理的な関係のことであるに相違ない。

 

ティリッヒは、三位一体論の「三つという数字」について次のように述べている。

 

「まず第一には、『三一神』(trinity)という言葉の中に含蓄(がんちく)されている三つという数字に関する問いである。この数字を保っている根拠は何か。なぜ神とキリストについての初期の二神論的思惟(しい)傾向が三一神の信条に克服されたのか。その後なぜ三一神論が、四一神論、ないしそれ以上に拡大されなかったのであるか。これらの問いには歴史的根拠と組織的根拠とがある。最初はロゴスと霊の区別は曖昧(あいまい)であるか、もしくは存在しなかった。キリスト論の問題は霊の概念とは独立に発展した。霊の概念は個人やグループを脱自(だつじ)敬虔(けいけん)へと()り立てる神的能力のために保留された。神学思想における四一神論的方向への傾向もあった。この傾向への理由の一つは、三つの位格(いかく)に共通の神性を三つの位格そのものから区別する可能性であり、それは神性を三つの位格の上に置くか、父を三つの位格の一つであると同時に神性の共通の源泉と考えることによって可能にされた。三一神の拡大のもう一つの動機は聖処女を或る位置に高めることであって、そこにおいて彼女はますます神の尊厳(そんげん)性に近づいて行った。大部分のローマ・カトリック信者の信仰生活においては、彼女は聖霊を(はる)かに凌駕(りょうが)し、近代のカトリック教においては、三一神の三つの位格のすべてを凌駕するに至った。もしすでにカトリック教徒の間で議論されてきたように、マリアはキリストと共に共働(きょうどう)の救い主(co-savior)と考えられるべきだという教えがドグマとなるならば、かの処女は究極的関心の問題となり、したがって、神的生命の内部における一位格となるであろう。そうなれば、いかなるスコラ神学的分別も三一神が四一神となることを妨げることはできないであろう。

これらのことは三一神的思惟において決定的なのは『三』という数ではなくて、神的自己顕示の多様性における一致であるということである。もしわれわれが、いろいろな数が可能であるにかかわらず、なぜ『三』という数が優勢であるのかと問うならば、最も蓋然(がいぜん)的な答えは、三は経験された生の本来的な弁証法に適応し、したがって、神的生命を象徴するのにもっとも適切であるということであろう。生は自己から出てゆき、自己へと帰ってくる過程として記述された。弁証法哲学者たちが知っているように、この記述の中には『三』という数字が隠約(いんやく)されている。『三』という数字の魔術的力を引合いに出すことは満足ではない。というのは、他の数、たとえば『四』は魔術的評価において三を凌駕するからである。いずれにしても、われわれが先に述べたこと、すなわち、三一神の信条は弁証法的であるということは、『三』という数が信仰的成文(せいぶん)や神学思想において存在するということによって確認される」(同、368-369頁。注:太字は筆者による)。

 

カール・バルトは、三つの存在の仕方において、父・子・聖霊としてのひとりの神は、それぞれに固有な機能を持っている。父は高みにいます神であり、子はへりくだりにおいています神であり、聖霊は父と子の結びつきの中にいます神でありたもう。「ひとりの神は三度別様に神である」(『神の言葉』Ⅰ/2、125頁)と述べている。

つまり、神は「三つの区別された存在の仕方において唯一の神であり給う」(『和解論』Ⅰ/2、88頁)というのである。

 

バルトの三位一体論の根底には、旧約聖書に頻繁(ひんぱん)に出てくる神の宣言、すなわち「神は主としてご自身を啓示したもう」(『神の言葉』Ⅰ/2、26頁)という神の言葉を根拠としているのである。

 

このように、神を父、イエスを神の子、聖霊を神の霊として啓示される存在であるからというのである。もし、この啓示がなければ三位一体論もないとバルトはいうのである。つまり、三位一体論の存在論的な根拠をあげているのである。

ティリッヒも、「三は経験された生の本来的な弁証法に適応し、したがって、神的生命を象徴する」、「生は自己から出てゆき、自己へと帰ってくる過程である」と存在論的根拠を上げている。すなわち、生の過程の弁証法的論理が存在と一致しているというのである。これは生の弁証法としての三位一体論である。

 

パネンベルクは、唯一の神と三位一体論に関して、次のような問題を提起している。

 

「聖霊論の最も困難な問題、つまり、三一論の中での聖霊の()(かく)的な独立性の問題………父との関わり、とりわけ、御子イエスとの関わりから問題にするのである。まさしく、イエスは父の本質、神の神性に御子として属している限り、父とは区別されているということは、すでにさきに示された通りである。しかし、聖霊については、この関係はどのようになるのであろうか。」(パネンベルク著『キリスト論要綱』、205-206頁)

 

また、彼は「父・子・聖霊が、このような区別にもかかわらず、いかにして唯一の神であるのであろうか。三一論の歴史は、三一性におけるこうした一致の問題との絶え間のない格闘を示している」(同、208頁)と述べている。

 

周知のように、文鮮明師の神学思想である「統一原理」の神概念やキリスト論、そして三位一体論は、歴史的に論争されてきた〝三位一体論〟に対して決着をつける解答を持っている。

 

ところで、神に関する女性的要素について、ティリッヒは次のように述べている。

 

「………究極的関心の象徴的表現における女性的要素はおおむね排除された。排他的に男性的な象徴をもったユダヤ教の精神が宗教改革において勝利を占めた。疑いもなく、このことは、初期においては勝利を占めていた宗教改革に対して、反対改革(Counter Reformation)が大きな成功を収めた理由の一つである。それはプロテスタント・キリスト教そのものの内部にも、敬虔主義の中に、しばしばむしろ女性化されたキリスト像が現われるに至らしめた。ギリシア教会またはローマ教会への多くの回心者を起こさしめた原因もそれであり、多くのプロテスタント人文主義者たちに取って東洋の神秘主義が魅力あるものとなったのもそのためである。」(『組織神学』第3巻、369-370頁。注:太字は筆者による)

 

このように、神(天の父)は男性であって、女性的要素がないということから、いろいろな問題が生じたのである。

 

フェミニスト神学は、『聖霊は女性ではないのか』(E・モルトマン=ヴェンデル編、新教出版社)と言っている。男性中心主義的なキリスト論や、家父長的な聖書解釈に対して批判し、男性中心の社会システムにおける女性の権利を主張し、さらに、現代社会を支えている価値観や世界観の批判へと進み、文化や意識のレベルでの変革を追及するに至っている。

この女性解放の主張の根本には、「神の父性に対し、神の母性を同権的に併置(へいち)」(同、224頁)しようとする神概念の変革がある。これに答えているのが統一原理の神概念である。

 

ちなみに、カーリ・エリーサベト・ビョレセン(1932年- )は、次のように述べている。

 

「カール・エルンスト・リター・フォン・ベーアによる哺乳類の卵子の発見〔1827年〕により、男性中心主義的に女性を理解しようとするキリスト論の前提は崩れる。ここで父と母との機能が同等のものであるとしてみよう。マーテル・デイの概念、『神的』母性の概念は、マリアの役割の強化を意味することになるだろうと思う。」(『マリアとは誰だったのか』E・モルトマン=ヴェンデル、H・キュングJ・モルトマン編、新教出版社、122-123頁)

 

このように、「卵子の発見」は、女性の復権にも神学界にも大きな影響を与えたのである。

 

「(ギリシャ語の)テオトーコスの概念は……生母であって、母性一般を意味していたのではない。」(同、120頁)、しかし「ラテン語に移された方は、デイ・ゲニトリクス〔神の生母〕からマーテル・デイ〔神の母性〕へと表現内容が変わって行った。」(同、121頁)

 

ティリッヒは、マリアは聖霊を遥かに凌駕し、神的生命の内部における一位格となり、三一神が四一神となることを妨げることはできないであろうと述べている。

 

ところで、統一原理の「神は二性性相の中和的統一体である」という神概念の「二性性相」とは、神の〝神的な男性的要素〟と〝神的な女性的要素〟をいうのであり、同様に「天の父母」とは、神の〝神的父性〟と〝神的母性〟をそのようにいうのである。この統一原理の神概念から「男女両性の本質的平等」という神学思想が生まれてくるのである。

 

統一原理は、無形なる神の二性性相が有形なる分立実体対象として顕現したのがアダムとエバであり、イエスと聖霊であると説いている。

「神―イエス―聖霊」の三位一体と「神―アダム―エバ」の三位一体は類比(るいひ)関係にある。イエスの相対である聖霊は、アダムの相対であるエバに対応しているので、「聖霊は女性である」と言えるのである。伝統的神学は、聖霊を女性として見ていなかった。神は男性であって、女性的要素が排除されていた。そこからいろいろな問題が出てくるのである。

 

統一原理は、聖霊は女性神であると、次のように述べている。

 

「イエスは、アダムによって成し遂げられなかった真の父としての使命を全うするために来られたので、聖書では、彼を(のち)のアダムといい(コリントⅠ15・45)、永遠(とこしえ)の父といったのである(イザヤ9・6)。………(まこと)の父と共に、(まこと)の母がいなければならない。罪悪の子女達を新たに生んでくださるために、真の母として来られた方が、まさしく聖霊である。ゆえに、イエスはニコデモに、聖霊によって新たに生まれなければ、神の国に入ることができない(ヨハネ3・5)と言われたのである。このように、聖霊は真の母として、また(のち)のエバとして来られた方であるので、聖霊を女性神であると啓示を受ける人が多い。」(『原理講論』キリスト論、264-265頁。注:太字は筆者による)

 

このように、統一原理はパネンベルクの「聖霊については、この関係はどのようになるのであろうか」という問いに対して、明確に答えているのである。

 

結論として、ティリッヒは三位一体論の教義は閉鎖されていないと次のように述べている。

 

「三一神の教義は閉鎖されてはいない。それは放棄されることもできないし、それの伝統的な形で受容されることもできない。それの本来の機能を果たすためには、すなわち、人間に対する神的生命の自己顕示(けんじ)を、包括(ほうかつ)的なシンボルによって表現するためには、それは開かれたままにして置かれなければならない。」(『組織神学』第3巻、371頁)

 

このように、「それは開かれたままに」といい、「伝統的な形で受容されることもできない」という彼の公言は、統一原理の三位一体論を受容することを可能にする〝洗礼ヨハネ的使命〟を持った神学であるといえよう。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(28)

(3)「キリストとしてのイエスにおける霊的現臨――聖霊キリスト論」

 

 a. 「イエスにおける霊的現臨」

 

ティリッヒは、「神の霊はキリストとしてのイエスにおいて歪曲(わいきょく)されることなく現臨した。彼(イエス)において、新しき存在が、過去と未来におけるあらゆる霊的経験の基準として現れた」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、184頁)という。

「他の言い方をすれば、『神が彼のうちに(いま)した』(God was in him)、このことが彼をキリストとした。彼は歴史的人類に対する新しき存在の決定的具現であった」(同)と。

すなわち、新しき存在としてのキリストが歴史の中心であり、西洋の精神と東洋の精神の統一の基準であるというのである。

 

「統一史観」から見れば、あらゆる出来事の基準であるキリストの出来事とは、初臨だけではない。キリストの出来事とは、降誕、十字架と復活、霊的現臨、そして再臨までをいうのである。

 

イエスの姿像と霊的現臨(神の霊)に関して、ティリッヒは次のように述べている。

 

「キリストの信仰がわかるようになる。われわれが福音書物語の中に見出すこの信仰の動的な姿は、イエスの信仰の断片的な性格を表現している。そこにはもがきと疲労と絶望さえもがしばしば現れる。しかし、このことは彼の信仰の世俗化や魔神化には至らない。霊は決して彼を離れない。曖昧(あいまい)ならざる生の超越的結合の力が常に彼を支えている。」(同、186頁)

 

「霊は決して彼を離れない」と述べている。聖霊はイエスの相対である。聖霊はキリストを離れて独自の働きをするのではない。二つは一つなのである。統一原理の宇宙論的キリスト論から見て、イエスは天で、聖霊は地で業(役事)をするのである。

 

聖霊について、『キリスト教組織神学事典』は次のように述べている。

 

「復活・昇天後の……キリストに代わって天父より送られる〈聖霊〉という信仰理解が生じた(ヨハネ14など)。それゆえ聖霊は〈真理の御霊〉〈キリストの霊〉〈助け主〉〈慰め主〉としてあがめられる。また〈生けるキリスト〉〈キリストの現臨〉を実感させる〈神の知恵〉として働く(Ⅰコリ12など)」(『キリスト教組織神学事典』教文館、240頁)

 

パネンベルクは、メシヤと神の霊との関係を次のように述べている。

 

「イザヤ書11・2によれば、メシアは神の霊に満たされ、動かされたばかりでなく、その霊は永久に彼に結びつき、彼に(とど)まるであろう。第三イザヤ(イザヤ書61・1)もまた、こうしてメシアを霊を受けた者として理解した。霊はメシアの上にとどまるのである。第二イザヤによれば、(42・1)、メシアのみならず、全イスラエルが終末に新しい方法で、神の霊にあずかると告げられる(イザヤ44・3、参照、エゼキエル36・27)。ゼカリヤは、最後の夜の幻で、ヤーウェの霊がすべての人びとのもとに来るのを見た。風の戦車が、ヤーウェの息(ruah Yahwe)を世界の四方に運ぶのである(ゼカリヤ6・1-8)。最後に、ヨエル書も終わりの日に『すべての肉』に神の霊が注がれると約束する(2・28以下)。ルカは、この預言が原始キリスト教において成就したのを見た(使徒行伝2・17以下)。」(『キリスト論要綱』W・パネンベルク著、新教出版社、198頁)

 

ティリッヒは、「霊は決して彼を離れない。曖昧ならざる生の超越的結合の力が常に彼を支えている」といい、実存的疎外(そがい)を克服する新しい存在であるイエスとの関連で聖霊が論じられているのである。

 

 b. 「『聖霊-キリスト論』と『ロゴス-キリスト論』の対立」

 

イエスと聖霊との正確な関係について、原理的に解明していないことからくる神学的な論争が生じた。それは、「聖霊-キリスト論」と「ロゴス-キリスト論」の対立である。

 

ティリッヒは、そのことに関して次のように述べている。

 

「聖書の時代から、キリストとしてのイエスの霊と、キリストが彼らに現われた後に霊的現臨によって(とら)えられた人々の間に働いていた霊との正確な関係については、真剣な神学的論議が起こった」(『組織神学』第3巻、189頁)。

 

この出来事は、「聖霊-キリスト論」が「ロゴス-キリスト論」によって取って代わられた後に、起こるべくして起こった。ティリッヒは「受肉のロゴスが父に帰った後、霊がそれに代わって、彼の顕現の意味を明らかにすべきであった」(同、189頁)と指摘する。

そして、「霊的現臨のすべての新しい顕示は、キリストとしてのイエスの顕現の基準の下に立つ」(同)というのである。言い換えると、聖霊がキリストの下にあるということである。

 

そして、「これは新旧を問わず、霊の啓示の働きは質的にキリストの啓示的働きを超越すると教える聖霊の神学の主張に対する批判である。モンタヌス派、極端なフランチェスコ派、再洗派などは、この態度の例である。われわれの時代の『経験の神学』(theologies of experience)は同じ思想の流れに属する」(同、189頁)と述べている。

 

ティリッヒは、質的にキリストとしてのイエスを越えて進もうとする「聖霊神学」の主張は、いずれ「イエスのキリストとしての性格を破壊することになるであろう」(同、189頁)と述べている。

 

また、「霊的現臨の一回以上の顕現が究極性を主張するならば、究極性の概念そのものを否定することになろう。そのような主張は、(かえ)って、意識の魔神的分裂を永続させることになるであろう」(同、189頁)と述べている。

つまり、完全な真理と救いは、キリストではなく、キリストを越えて進む聖霊が究極的な真理であるとし、魔神的分裂へと導くというのである。

 

このようなキリストと聖霊の曖昧な関係から、東方教会と西方教会との間に論争が現れたのである。そのことに関して、ティリッヒは次のように述べている。

 

「霊の父なる神および子なる神からの、いわゆる『発出』(processio)についての東方教会と西方教会との間の論争に表われる。東方教会は霊は父からのみ発出すると主張した。それに対して西方教会は霊は父と子と(filioque)から発出すると主張した。それのスコラ学的形体において、この論議は完全に空虚であり不条理であるように思われる。そして、われわれはそれが最後にはローマ教会と東方教会との分離に至るほど、なぜそれほど真剣に取り上げられたかを理解することができない。しかし、スコラ学的な衣を取り去ってみると、この議論は深い意味を持っている。東方教会が霊は父からのみ発出すると主張した時、それは直接的・神中心的神秘主義(もちろん、それは『洗礼を受けた神秘主義』であるのだが)の可能性を残した。西方教会は、それとは対照的に、キリスト中心的基準を、すべてのキリスト教的敬虔(けいけん)に適用することを固執(こしつ)した。そして、この基準の適用は『キリストの代理者』(vicar of Christ)としての教皇の特権であるがゆえに、ローマ教会は、東方教会よりも、融通のきかない、律法主義に陥った。ローマでは、霊の自由は教会法によって制限されている。霊的現臨は律法的に限定されている。確かに、第四福音書の記者が、イエスをして、聖霊が来たる時、あなたがたにすべてのことを教える〔ヨハネ福音書14・26〕であろうと言わしめた時、彼の意図はそこにはなかったであろう。」(『組織神学』第3巻、189~190。注:太字は筆者による)

 

「彼の意図はそこにはなかったであろう」というのは、聖霊がイエスを越えて、すべてのことを教えると主張する〝聖霊神学〟が出てくるとは想定していなかったということである。

 

上述のように、キリスト中心主義と神中心主義をいかに統一するかが、現代神学の課題なのである。

言い換えると、それはキリストとの本質的関連を欠いた聖霊の神学の問題であり、キリストと聖霊の関係をどのように理解するかという問題である。

 

 c. 「聖霊は神と一体であるイエスを越えて語らない」

 

ところで、「真理の御霊(みたま)が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。」(ヨハネ16・13)という聖句に続いて、「御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。」(ヨハネ16・13-15)と記述されている。

 

上述の聖句は、聖霊(女性神)は「あらゆる真理に導いてくれる」が、「わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせる」と述べている。

そのことは、神と一体であるイエス・キリスト(男性神)を越えて真理を教えるのではないという意味である。イエスの言葉を越えて進むと、イエスのキリスト性を否定して、魔神的分裂へと導くということはすでに指摘している通りである。

 

ただし、女性には女性の言葉がある。聖霊は女性的な表現でキリストの真理を語るのである。父権的でなく、母親として子供に教育するようにキリストの真理を説き、その真理で教導するのである。

フェミニスト神学は、「天の父」に対して「天の母」を主張する。問題は、フェミニスト神学が主張するように、男性神を女性神に置き換えることではなく、女性神に適切な位置を与え、男性神と女性神の全体のバランスをとることにあるのである。そのような神観こそ、統一原理の存在論から見た神概念に他ならないというのである。

 

聖書には、「神の定義」はないという神学者がいるが、聖書によると、神の似姿(にすがた)として、無形なる神の有形なる分立実体対象としてアダムとエバが創造されたと定義されている(創世記1・27)。

同様に、無形なる神の分立実体対象が、イエスと聖霊(霊的実体)である。したがって、「神-アダム-エバ」と「神-イエス-聖霊」の関係は、〝類比(るいひ)関係〟にある。この類比から、神概念と三位一体論を再考察する必要性があるのである。

 

聖霊の神学は、聖霊はイエスより偉大であり、イエスに先行し、イエスを創造し、イエスを統制するので、イエスは聖霊の働きの果実であるという。

しかし、イエスの復活と高挙(こうきょ)以後においては、聖霊は復活し高挙したイエスの働きであり、聖霊はイエスによって派遣され(ヨハネ14・16)、「道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14・6)イエスをキリストとして証しする神の霊なのである。

 

聖霊は「真理の御霊である」(ヨハネ14・17)といい、「あらゆる真理に導いてくれる」(ヨハネ16・13)としても、真理であるキリストを否定し、キリストを越えてキリスト以外の真理を語るのではないのである。

「御霊はわたし(キリスト)のものを受けて、それをあなたがたに知らせる」(ヨハネ16・15)のである。

 

(4)「霊的現臨と霊的共同体における新しき存在」

 

ティリッヒは、霊的現臨と霊的共同体について次のように述べている。

 

「霊的共同体は曖昧ではない。それは霊的現臨によって創造された新しき存在である。………霊的共同体は、断片ではあるけれども、曖昧ならざる神の愛の創造である。」(『組織神学』第3巻、191頁)

 

ペンテコステの物語は、霊的共同体の性格を力強く表現している。

第一は、霊的共同体の脱自的性格である。第二の要素は、信仰の創造である。第三の要素は、愛の創造である。第四の要素は、一致の創造である。第五の要素は、普遍性の創造である(同、192-193頁参照)。

 

霊的共同体は、キリストとしてのイエスの顕現によって決定される。新しき存在の共同体として、霊的共同体は信仰の共同体である。教会内における愛の規準であり、曖昧性を克服する。

霊的共同体は聖なるものであって、愛を通して、神的生の神聖性に参与し、宗教的共同体、すなわち、教会に聖性を賦与(ふよ)する。霊的共同体は、「宗教と文化と道徳の統一を含んでいる」(同、200頁)というのである。

 

ティリッヒは、キリストに関する上述の出来事は、すべての霊的共同体に顕現しているという。この共同体が「神の国」の基礎となり、宗教統一と思想統一の基盤となるのである。

 

原理的に言い換えると、愛を通して、神的生の神聖性に参与している霊的共同体は、人種の壁、民族の壁、宗教の壁、国境の壁を撤廃(てっぱい)し、神の下での人類一家族を実現するための基盤となる。

したがって、霊的共同体が、再臨主によって霊肉共同体として再創造されるとき、神の国がこの地上に顕現するというのである。

キリスト教と統一教会は、そのような共同体なのである。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(27)

(B)「歴史的人類における霊的現臨の顕示」

 

(1)「霊と新しき存在――曖昧(あいまい)性と断片性」

 

ティリッヒは、「霊的現臨は、信仰と愛によって、人間を曖昧ならざる生の超越的統一へと高めながら、本質と実存とのギャップを越えて、したがって、生の曖昧性を越えて、新しき存在を創造する」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、177頁)という。

 

ところで、新しき存在の顕現する場所はどこなのであろうか。どこで聖霊が人間に臨在し、その精神構造を新しき存在に新生するというのであろうか。

ティリッヒは、キリストとしてのイエスにおける新しき存在は、歴史的関連においてのみ可能であると次のように述べている。

 

「神の霊の人間の精神への侵入は、孤立した個人においてではなく、社会的グループにおいて起こる。なぜなら、人間の精神のすべての機能(道徳の自己統一、文化的自己創造、宗教的自己超越)は、我と汝の出会いという社会的関係によって、条件づけられているからである。」(同、178頁)

 

このように、孤立した個人に臨在するのではなく、社会的関係、すなわち信仰の(あつ)い信徒の集う共同体の中で顕現するというのである。

 

霊的現臨または新しき存在、あるいはアガペーは、それ自身においては曖昧ではないが、時間と空間に現われてくる時には、断片的である。しかし、新しき存在は、生の曖昧性を克服するというのである(同、179頁を参照)。

 

(2)「霊的現臨と諸宗教における新しき存在の予見」

 

ティリッヒは、「霊的現臨と諸宗教における新しき存在の予見」という主題の下で、宗教史全体を取り扱う。なぜなら、一見混沌として見える人類の宗教生活に意味を見出す鍵があるというのである。

そして、東洋の諸宗教を考察することによって、キリスト教が「歴史の中心」であることが分かるというのである。しかし、「西洋のキリスト教的人本主義的文明の中で育った者は、アジア宗教の中心的経験に到達することは難しい」という。

したがって、精神生活を理解するためには参与することであり、人格と人格との出会いが必要とされるというのである。

 

「すべての偉大な宗教には、それの全体の構造の中に種々の要素があって、或る宗教においては従属的である要素が、他の宗教においては優勢であるということがあり得る。キリスト教神学者は、東方の神秘主義を、彼がキリスト教における神秘主義的要素を経験した程度に応じてのみ、理解することができる。」(同、180頁)

 

上述のごとく、ティリッヒは、経験した程度に応じて理解されるというが、参与も経験もない西洋人に、東洋の精神を理解できるようにするにはどうすればよいのであろうか。

 

統一原理の出番である。

 

西洋と東洋の架け橋は〝日本の島嶼(とうしょ)文明である〟と「統一原理」の再臨論には書かれている。つまり、日本の文化を通して見れば、西洋人は東洋の精神を理解することができ、また、東洋人は西洋の精神を理解することができるというのである。言い換えると、統一原理の内容それ自体が、西洋と東洋の両者の精神構造を理解可能にし、全体を統一的に理解することができるというのである。これは、東洋の諸宗教の中に霊的現臨を見る前提となる。

 

ティリッヒも次のように述べている。

 

「歴史における神の国の中心的顕現への成就しまた準備する過程は、それゆえに、キリスト以前の時期に限られるものではなく、それは中心の顕現の後にも続き、今も、ここにも進行しつつある。イスラエルがエジプトを脱出したというテーマは中心への成熟へのテーマであり、今日の日本における東洋と西洋の出会いのテーマであり、それは過去五百年間における、近代西洋文化の発達のテーマであったし、今もまたそうである。」(『組織神学』第3巻、460頁)

 

ティリッヒは、シュヴァイツァーと同様に東洋の諸宗教と対話し、次のようにティリッヒ式に霊的現臨の観点から考察する。

 

「神秘主義は、人間の主観-客観的な有限な構造を越えることによって、神的なもののあらゆる具体的表現を越える。しかし、まさにこの理由によって、神秘主義は中心性をもった自我を無化し、霊の脱自的経験の主体を失う危険にさらされている。東洋と西洋との間の交流は、この点において、もっとも困難である。東洋は『無相の自我』(formless self)をもって、すべての宗教生活の目標とするのに対して、西洋は(キリスト教神秘主義においてさえも)脱自的経験においても、信仰と愛の主体、すなわち人格と共同体を保持しようと試みる。」(『組織神学』第3巻、182-183頁)

 

主体(自我)を、一方は否定し、他方は肯定する。この両者の統一を考えなければならない。

 

「原始的なマナ(mana)の宗教は、すべて存在するものの『深み』における霊的現臨を強調するように見える。この神的能力はすべてのものに宿っているが、不可見であり、神秘的であり、決定された祭祀(さいし)によってのみ接近することができ、特定の人間のグループ、すなわち、祭司たちによってのみ知られ得る。霊的現臨についての、この初期の実体的見方は、ほとんどすべてのいわゆる高等宗教の中に、多くの変形として残存しており、或る形体のキリスト教的礼典の中にも残存し、浪漫(ろまん)主義的自然哲学においては世俗化している(すなわち、そこでは、脱自が審美(しんび)的情熱となっている)。」(同、181頁)

 

太平洋の島嶼で見られる原始的な宗教において、マナ(mana)とは普遍的な超自然の力をいう。

上述のように、ティリッヒは、霊の脱自的経験に対する東洋と西洋の相違を指摘し、霊的現臨の視点から理解の接点を求めていこうとしている。そして、どこにおいても、「人道や正義のないところには、純粋な霊的現臨は存在しない」(同、183頁)と述べている。

 

「補足」(聖霊は女性ではないのか)

 

1991年、韓国の神学者チュング女史のキャンベラの第7回世界教会評議会総会のテーマは「来たれ聖霊よ、被造物のすべてを新たにされたい」であった。

この総会において、聖霊を話題にするときには、被造物のすべて、宇宙全体を視野に入れることを要請した。

 

次の文章は、霊的現臨とアジアの諸宗教の関係についての「チュング・ヒュン・キュングの講演の注釈」である。チュング女史は、次のように聖霊を女神イナや中国哲学のクィ(気)やクァン・イン(観音)に見いだす。

 

「『イナはもともとフィリピンの民間宗教の女神である。生命の源泉であって、深く畏敬(いけい)されている女神である。スペインの征服者たちがフィリピン住民を改宗させたとき、彼らは植民地主義者たちのマリアを土着のイナに変化させた。フィリピンやアジアでは女性たちは、制度化された教会の狭い教義や規範をこえた生命付与的象徴を選んだのである』………聖霊の生命付与的力である。東アジアの思惟(しい)においては、この生のエネルギーは気と呼ばれている。中国の概念のチ(あるいはクィ)は、韓国語および日本語に導入された。この三ヶ国語において、日常的にこの気はよく用いられる。この言葉の根本的意味は、『大気、息、(生)気』である。生命の力としてクィは民間の医学用語としても使用されている。

『東アジアに大きな影響を与えた中国哲学において、クィは、重要な概念である。これは儒教の文書にも、道教の文書にも現われる。儒教の哲学者、孟子(西暦前約三世紀)はすでに正義において命と結びついたクィに言及している。クィはここでは倫理的要素をふくんでいる。老子(西暦前三世紀?)は、クィは森羅万象に浸透し、これを調和のうちに維持している生命力であるとしている。クィはエネルギーの流れとして把握されているのである。ギリシャ語のプネウマにおいても、これと似たように理解されている。旧約、新約では神の霊がプネウマと訳されている。

中国における11および12世紀における新儒教の哲学者たちは、クィを宇宙論の中核概念として使用した。………クィは宇宙的な力であり、森羅万象を成す宇宙的物質である。規定的原理であるリ〔理〕は、クィに形式を与える。クィはしかし単なる物質ではなく、それ自身が天地に、森羅万象に浸透しているエネルギーである。」(『聖霊は女性ではないのか』E・モルトマン=ヴェンデル編、新教出版社、269-270頁)

 

注解者は、チュング女史の観音に対する見解について、次のように要約している。

 

「(観音は)女神の自己犠牲的な慈悲を表現している………民間信仰においては、観音はとくに女性たちに敬愛されている。共苦は仏教の根本美徳である。共苦的な生活思想は多様に展開されていて、したがってこの文化的脈絡のなかではキリスト者が共苦的な神および共苦的な聖霊という先鋭な意識を持っていることは理解されるところである。」(同、271頁)

 

このように、観音は聖霊の具現化した姿であるとする捉え方は、観音は実体の「真の母」を比喩していると受け止めることができよう。

 

また、現在社会における環境破壊の危機的状況の中で、「大地と調和して生きる」ことをわれわれは学ばなければならない。

 

このように、チュング女史は、女神イナや気や叡智(えいち)と慈悲深い共苦の化身である観音のうちに聖霊を見るのである。そして、その聖霊のごとく、「私たちは他者とともに共苦してのみ、死の文化を克服できるのである」(同、270頁)と説くのである。

 

以上のように、女神イナ、クィ(気)、観音などに霊的現臨を見るチュング女史の理解は、注釈者によると、「約二千年前に、ただ父と息子に由来した霊を、父権制的な偏狭から広い空間へと導くことになるだろう」(同、273頁)というのである。

 

「父と子から由来した霊」とは、「聖霊が父と子から発出する」という西方教会の見解である。チュング女史によると、11および12世紀の新儒学者のクィ(気)の概念は、単なる物質ではなく、「宇宙的な力」あるいは「森羅万象に浸透しているエネルギーである」という。

 

しかし、プロテスタント神学は、聖霊を人格のある実体と見るのであって、その聖霊論から見れば、聖霊は生命付与的力であるが、チュング女史のように、「この生のエネルギーは気と呼ばれる」と、気を聖霊と同一視していない。

もし、同一視するなら、人格的存在がエネルギーとなり、聖霊の概念に混乱が生じるのではなかろうか。

 

この「宇宙の力」は、統一原理で説く「神の力」、すなわち「万有原力」のことであろう。理気の思想は、神の「性相と形状の二性性相」に対応している。男性的要素と女性的要素の存在について、人格的存在と非人格的な万物との間に区別がなければならない。神と被造物の関係のことである。

原理的に言えば、被造物は神ではない。神の象徴的な実体対象である。

 

総会に参加した西方教会も東方教会も、チュング女史の聖霊論を諸宗教の混合と非難している。また、教権的な聖霊論から見た見解と、これに対する反論もなされている。

 

原理的には、森羅万象の生命やエネルギーを神の霊の力であると解釈していない。統一原理は、性相と形状、陽性と陰性の二性性相という概念で、森羅万象のあらゆる存在者の存在と発展に関して、主体と対象のペア・システムとして原理的に説いている。

また、原理的に、聖霊をどのように理解するかは「統一原理」の三位一体論で明確に述べている。

 

チュング女史の聖霊理解は、現代を支配する科学的世界観の下では信じられてはいない。ただし、統一原理の性相と形状の二性性相という存在概念から見れば、クィ(気)を聖霊とは言わないが、理解できない世界観ではない。

 

ティリッヒが、なぜ東洋の諸宗教を考察しようとしたのか。パネンベルクがキリスト教の聖霊論に対して、「死せる伝統の断片に止まる」、「聖書的な聖霊概念に一致しない」となぜ批判したのかを想起し、原理的な観点からフェミニスト神学を批判的に見て、その積極面を受容するなら、キリスト教の使信の活性化になると同時に、キリスト教と諸宗教の統一に関する一つの見解になるのではないかというのである。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(26)

 g. 「ティリッヒの聖霊論とヘーゲル」

 

大島末男氏は、「自己から出て自己へ戻る弁証法的運動によって性格づけられる神の生命を象徴するには、三位一体論は最適であり、ティリッヒの三一神論はヘーゲルやシェリングの哲学と構造的に呼応する。さらに古典神学の男性神(天の父なる神)に対し、現代の要請である女性原理を表現するにも三位一体論は適合する」(『ティリッヒ』大島末男著、清水書院、195頁)と述べている。

 

ちなみに、聖書には「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである」(ローマ人への手紙11・36)と記されている。

 

周知のように、ヘーゲルの哲学体系はキリスト教に立脚している。「精神は歴史の内部で矛盾対立を克服しつつ理念を実現する」という彼の弁証法は、すべてキリスト教からきているのである。

 

ヘーゲルの三位一体論について、パネンベルクは次のように述べている。

 

「ヘーゲルは、まず彼の『宗教哲学』における三一論の取り扱いにおいて、神の一体性は、神的位格の相互関係からまさしく理解されるという考えに立って『位格』の概念を形成した。………『……人格性の真理は、まさしく、没入することによって、つまり、他者の中に没入することによって、獲得するものなのである』。人格の本質が、他の人格への自己献身において存在するという、この深い思索を通して、ヘーゲルは相互的な自己献身の一致として、すなわち、相互的な献身の経過によってはじめて存在する一致として、三位一体を理解した。」(『キリスト論要綱』W・パネンベルク著、新教出版社、210頁)

 

原理的に言えば、他者との一体化は献身的な真の愛による。

 

真の愛による神の一体性と三位性について、統一原理は次のように述べている。

 

「神がアダムとエバを創造された目的は、彼らを人類の真の父母に立て、合性一体化させて、神を中心とした四位基台をつくり、三位一体をなさしめるところにあった。」(『原理講論』三位一体論、267頁)

「神はイエスと聖霊を、(のち)のアダムと(のち)のエバとして立て、人類の真の父母として立たしめることにより、堕落人間を新生(重生(じゅうせい))させて、彼らもまた、神を中心とする三位一体をなすようにしなければならないのである。」(同)

 

西方教会が、父なる神と御子から聖霊が発出すると理解するのに対し、東方教会は、聖霊が父なる神から直接発出すると解釈して対立し、分裂している。

 

統一原理の三位一体論は、その西方教会と東方教会の三位一体論の〝対立〟を統一する内容があるだけでなく、聖霊を女性神と捉えない欠陥をも是正している。

 

パネンベルクは、「ヘーゲルの考えは、充分に肉づけされることもなく、やがて忘却されてしまった。けれども、ヘーゲルの考えは、神の一体性と三位性との関係を取り上げた三一論の思弁的な解明として、今日に至るまでの最高峰の一つと言えるのである」(同、210-211頁)と述べている。

 

統一原理の三位一体論は、充分に肉づけされている。

 

ところで、大島末男氏は、ティリッヒの聖霊論に対して、次のような危惧(きぐ)を述べている。

 

「キリスト教神学者としてのティリッヒにとって重大な問題は、キリストとの関係を離れて、新存在と聖霊が理解される危険性がある点である。もちろんティリッヒは、キリストとしてのイエスが新存在と聖霊の働きに関して終極的な規準となることを承認する。しかし西方教会が、父なる神『と御子から』(filioque)聖霊が発出すると理解するのに対し、ティリッヒは、東方教会の伝統に従って、聖霊が父なる神から直接発出すると解釈し、またキリストの出来事を離れて新存在を理解する。とすれば、ティリッヒとハイデガーの関係が再び浮上するが、ティリッヒは聖霊の働きも最終的にはキリストの出来事において透明になると語る。ここにも同一性と差異性の同一性の論理が支配するが、これが哲学(理性)と神学(信仰)という異なるものの同一性を主張する弁証学的神学の意図するところであろう。」(『ティリッヒ』大島末男著、清水書院、181頁)

 

このように、大島氏のティリッヒの聖霊論に対する危惧は、伝統的な西方教会から見た見解である。

三位一体論について、西方教会の〝キリスト中心主義〟に対する東方教会の〝神中心主義〟との対立がある。この対立する見解を、いかにして統一し、決着をつけるかは、伝統的な三位一体論の概念では不可能であるとティリッヒは指摘している。

パネンベルクも、現代神学の聖霊論に対して「キリスト教の言明は、死せる伝統の断片にとどまる」、「聖書的な聖霊概念に一致することはできないであろう」(『キリスト論要綱』199頁)と批判しているのである。

 

「神の霊(聖霊)に対する補足論」

 

 a. 「聖霊論に対する現代神学の欠陥」について

 

パネンベルクは、現代神学の聖霊論の理解と初代教会の聖霊に対する理解とを比較して、〝狭い理解である〟といい、さらに、原始キリスト教における聖霊の特質を理解するためには、旧約聖書における〝神の霊〟の意味にまで(さかのぼ)らねばならないと指摘する。

 

パネンベルクは、次のように述べている。

 

「旧約聖書にとって、神の霊は、まず超自然的な認識の源泉といったものではなく、最も包括的な意味における生命の基盤なのである。その際、霊・風・気息などの表象を用いることが、この関連から注目される。おそらく詩篇第104篇は、神の霊の生きた働きについて最も印象的に歌っている。」(『キリスト論要綱』W・パネンベルク著、新教出版社、198頁)

 

また、神の霊の力ある(わざ)について、パネンベルクは次のように述べている。

 

「創造的な神の霊を特別に授与されることが、英雄の場合、また――少なくとも初期においては――預言者の場合、しかも歌手や画家の場合もまた、特に卓越した活動に必要なのである。神の霊の授与は、常にあらゆる生命の根源がその中にある神の力の特別な働きを含んでいるのである。」(同、198頁)

 

そして、彼は「聖書の聖霊理解の広さに相応する聖霊論を、現代神学は欠いてはいないだろうか」(同、199頁)と問題を提起している。

 

 b. 「生物学的生命と聖霊との関係」

 

キリスト教の使信(ししん)が、死せる伝統の断片にならないように、現代神学に対してパネンベルクは次のように問題点を述べている。

 

「私たちは今日、あらゆる生命について、その『霊的』根源についても語ることが出来るであろうか。このような語り方が、生物学によって探求されてきた生命現象と生命構造に関していかなる意味を持ちうるのだろうか。あらゆる生命の創造的な根源としての神の霊について、イスラエル人が語ったと同質の何らかの言明が、こうした生命現象の理解に必要であるということを示しうるであろうか。聖霊についてのキリスト教の言明は、こうした問いに答えることによってはじめて、その重要性をふたたび獲得できよう。そうでなければ、キリスト教の言明は、死せる伝統の断片にとどまるか、それとも、いずれにせよ――聖霊が超自然的な認識原理の働きだけに制限されるところでは特に――聖書的な聖霊概念に一致することはできないであろう。」(同、199頁)

 

このように、パネンベルクは「生命の創造的な根源としての神の霊」と「生物学によって探求されてきた生命現象と生命構造」との関連性について問題を提起し、現代において〝聖霊〟が生命現象の理解に必要であるということを示し得るであろうかというのである。

 

統一原理は、イエスと聖霊の関係と生命との関連性について、次のように述べている。

 

「父母の愛がなくては、新たな生命が生まれることはできない。それゆえ、我々が、コリントⅠ一二章3節に記録されているみ(ことば)のように、聖霊の感動によって、イエスを救い主として信じるようになれば、霊的な真の父であるイエスと、霊的な真の母である聖霊との授受作用によって生ずる霊的な真の父母の愛を受けるようになる。そうすればここで、彼を信じる信徒たちは、その愛によって新たな生命が注入され、新しい霊的自我に新生(重生(じゅうせい))されるのである。これを霊的新生(霊的重生)という。」(『原理講論』キリスト論、266頁)

 

このように、「愛によって新たな生命が注入され、」と「注入」という言葉が述べられている。

 

また、文鮮明師は、同じことを次のように語っておられる。

 

「皆さんが父母から受け継いだ命は、父の精子と母の卵子を受け継いだところから出発したのです。その卵子と精子が一つとなったところに、愛によって根が生まれて発生したのが、皆さんの子女です」(『続・誤りを正す』、世界基督教統一神霊協会編、22頁。注:太字は筆者による)

 

また、イエスと聖霊によって、「霊的な真の父母の愛」を受け、その愛によって「新たな生命」が注入され、「新しい霊的自我」に新生(重生)されるとある。この新たな生命とは生物学的な生命ではなく、イエスと聖霊の愛による霊的生命である。

 

このように、新たな生命が生まれることに関して、生物学的次元の精子と卵子の結合のみでなく、「父母の愛」が説かれている点に注視しなげればならない。

 

この「父母の愛」とは、生命の根源である「神の愛」のことである。文鮮明師は、「その卵子と精子が一つとなったところに、愛によって根が生まれて発生した」と語っておられる。これは、「生物学によって探求されてきた生命現象」と「神の愛」との関係に関する新たな学説となるであろう。

 

ちなみに、神の愛は「与える原理」であり、サタンの愛は「奪う原理」であるというみ(ことば)がある。「愛」(心情の動機)は、精子と卵子にどのような影響を与えるのかを考察しなければならない。生物学や分子生物学は、そこまで論じない。

 

生命の創造と霊(聖霊)の関係について、聖書には「あなた(神)が霊を送られると、彼らは造られる」(詩篇104・30)とあり、また、「人を生かすものは霊であって」(ヨハネ6・63)とある。

 

創世記に「神の霊が水のおもてをおおっていた」(1・2)とあるように、神の霊は創造に関与し、さらに「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた」(2・7)とあるように、人間創造にも関与している。

 

人間は〝小宇宙〟である。神の霊が天地創造に関与しているように、本来においては、女性が子供を生むことは、神の天地創造と人間創造に参与していることになるのである。

 

マリヤは聖霊によって身重になり(マタイ1・18)、洗礼ヨハネは母の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされていた(ルカ1・15)。

これは、創造本然の女性と聖霊の一体化した状態を示している。霊的な真の母である聖霊が、実体の「真の母」としてマリヤに顕現したのである。

 

本来、人間の堕落がなかったならば、すべての女性が「真の母」となったのである。ヨエル書は終わりの日に「すべての肉」に神の霊が注がれると約束している(ヨエル2・28-29)。

 

このように、現代の生物学においては排除されているが、聖書では、産むとか、生命の創造に、神の霊の関与があると記述されているのである。

 

インドのレーラマ・アティヤル(神学博士、ルター派)は、「聖霊教義理解にとって、霊が『生命を与えるもの』であるということは、生物学的意味においても、心霊的な意味においても、つまり創造に際しても、新たな生れかわりに際しても、強調する必要があるだろう」(『聖霊は女性ではないのか』E・モルトマン=ヴェンデル編、235頁)と述べている。

 

また、産むとか、生命の創造ということについて、微妙な表現であるが、ティリッヒは「母性的資質」を指し示すと、次のように述べている。

 

「象徴的な側面から言えば、それは産み、運び、抱擁し、同時に創られたものの独立を抑止して呼び戻し、それを呑み込むという母性的資質を指し示している。」(『組織神学』第3巻、370頁)

 

結論として言えることは、神の霊と生命現象との関係は〝如何に〟という問題と、同時に、現代神学の最大の問題は〝聖霊が女性であるかどうか〟という問題である。

ティリッヒは、神(究極的存在)から「女性的要素はおおむね排除された」(同、370頁)という現実を述べるにとどまっている。

 

 

そして、次のように、キリストは「男性-女性の二者択一を超越する」といい、自己犠牲における平等な参与を語るのである。

 

「キリストとしてのイエスに顕われたロゴスについて言えば、それは彼の有限な特殊性の自己犠牲のシンボルであって、男性-女性の二者択一を超越する。自己犠牲は男性としての男性の性格でも、女性としての女性の性格でもなく、それは自己犠牲の行為そのものにおいて、そのいずれかを排除することを、否定することである。自己犠牲は両性の対立を破るのであって、そのことは苦難のキリスト像に象徴的に顕われており、そこでは男女両性のクリスチャンたちが、平等の心理的・精神的強さをもって、それに参与しているのである。」(同、371頁)

 

このように、三位一体の神、すなわち〝父なる神〟というプロテスタントの立場からすれば、聖霊も父なる神であって、神概念に女性的要素があるかないか答えることができないのである。したがって、自己犠牲に参与することにおいて、両性は平等であると論点をずらして答えざるを得ないのである。

ティリッヒは、そのことを十分意識しているのである。

 

ちなみに、神の霊に関するヘブライ語の「ルァハ」について、ヘレン・シュンゲル=シュトラウマン(神学博士)は、「ルァハは生の息吹(オーデム)、生の力、霊の力、エネルギ-、精神を意味する聖書の言葉である」(『聖霊は女性ではないのか』E・モルトマン=ヴェンデル編、22頁)といい、ルァハが「女性形だ」(同、23頁)と述べている。

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(25)

聖霊論

 

(二)「霊的現臨」 ――神の霊(聖霊論)――

 

(A)「人間の精神における霊的現臨の顕現」

 

ティリッヒは『組織神学』の第3巻で、「生」の問いと「聖霊」の答えの相関論を論述する。

聖霊は、曖昧(あいまい)な「生」の中から曖昧ならざる脱自の状態に人間を引き上げる。ティリッヒは「聖霊の臨在」を「神の霊」あるいは「霊的現臨」という。

 

(1)「人間精神における聖霊の顕現の性格」

 

 a. 「人間の精神と神の霊」

 

人間の精神における「神の霊」または「霊的現臨」について、ティリッヒは次のように述べている。

 

「生の一つの次元としての精神は、存在の力と存在の意味とを結合している。精神は力と意味との統一における現実と定義することができる。われわれの経験の範囲では、このことは人間においてのみ起こる。………自分のうちにある力と意味との統一としての精神の経験なしには、人間は『現臨する神』の啓示的経験を『霊』または『霊的現臨』の用語で表現することはできなかったであろう。」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、142-143頁)

 

人間の精神の経験は「神の霊」について語ることを可能にする。「神の霊」は人間の精神の中に宿り、また働くというのである。「霊的現臨」の下における人間の状態は脱自(ecstasy)の状態である。この脱自に関しては「理性と啓示」の項ですでに述べているが、ティリッヒは「啓示の経験」は「救いの経験」の一要素であると、次のように述べている。

 

「霊的現臨は啓示の経験と救いの経験とに脱自的状態を創り出し、人間の精神をして自己を越えさせるが、それの本質的な、すなわち、合理的な構造を破壊するということはしない。脱自性は統合された自己の中心性を破らない。もし破るならば、魔神的憑依(ひょうい)が霊の創造的現臨に取って替わるであろう。」(同、143-144頁)

 

このように、神の霊の現臨は恵みであり、脱的状態を創り出すというと言うのである。しかし、神から離反(疎外)している人間の精神は「神の霊」を自分の精神の中に入るように強いることはできない。生の一つの次元としての人間の精神は、曖昧である。しかし、「神の霊」は曖昧ならざる生を創造すると言うのである(同、144頁を参照)。

 

しかし、上述のように、彼は、脱自は「(精神の)合理的な構造を破壊するということはしない」という。もし破るならば、魔神的憑依が霊の創造的現臨に取って替わると警告する。

統一原理は、霊的現臨と魔神的憑依の分立、すなわち「善神の(わざ)と悪神の(わざ)」の見分け方を説いている(『原理講論』堕落論、120頁)。

 

ちなみに、ガラテヤ人への手紙には「肉の働き」と「御霊(みたま)の実」を対比して、次のように述べている。

 

「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。しかし、御霊(みたま)の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈悲、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。」(ガラテヤ5・19-23)

 

 b. 「精神構造の破壊と脱自」

 

「霊的現臨」の顕示は、古代においても、聖書の記録においても、奇跡的性格を持っている。

ティリッヒは、神の霊の力ある業について、次のように述べている。

 

「霊は身体的効果をもつ。或る人を一つの場所から他の場所へ移動させたり、身体の内部に変化を起こさせたりする。たとえば、身体の中における新しい生命の発生がそれである。また霊は硬質の物体を浸透する。霊はまた通常な性格を越えた心理的効果をもち、知性や意志に対して、人間の自然的能力を超えた能力を与える。たとえば異言(いげん)についての知識、他人の心のもっとも深いところの思いを洞察する能力、一定の距離をおいてさえも病を(いや)す能力等である。」(『組織神学』第3巻、147頁)

 

 C. 「注入という言葉について」

 

「インスピレーションと『注入』(infusion)という二つの言葉は、人間の精神が霊的現臨の衝迫(しょうはく)を受ける仕方を表現している。」(同)

空間的隠喩(いんゆ)をもって霊的現臨の衝迫を記述する言葉が「注入」である。

 

ティリッヒは、「『信仰の注入』(infusio fidei)とか『愛の注入』(infusio amori)とかいう言葉は、『聖霊の注入』(infusio Spiritus Sancti)に由来する。プロテスタント・キリスト教は、この用語について懐疑的であったし、今もそうである。そのわけは、この観念が、後のローマ教会において魔術的-物質的意味に誤用されたからである。霊は実体となり、その実体性は必ずしも中心性をもった人格の自意識によって感知されなかった。それは一種の『物質』(matter)となり、それを受ける主体が阻止(そし)しない限り、秘蹟(ひせき)の執行において、司祭によって伝達された。この非人格的な霊的現臨の理解は宗教生活の客観化となり、免罪(めんざい)()の販売という商取引において頂点に達した。プロテスタント的()()にとっては、霊は常に人格的である。信仰と愛とは霊的現臨の自己の中に中心性をもつ自我への働きかけ、その働きかけの媒体は、サクラメントの執行においても『言葉』である。プロテスタント・キリスト教が霊的現臨の働きかけに対して『注入』(infusion)という言葉を使うことを好まないのは、このゆえである」(同、148頁)という。

 

しかし、プロテスタント・キリスト教は、「注入」について一貫してはいないとも言う。

 

ティリッヒは、「新約聖書、特に使徒行伝、書簡(特にパウロ)の或る節におけるペンテコステまたはそれに類似する物語を読みかつ解釈する時、プロテスタントもまた聖霊の『そそぎ』(outpouring)という隠喩(いんゆ)を用いるのである。………われわれがインスピレーションという言葉を好んで用いたとしても、われわれは実体的な隠喩をさけることはできないからである。息(breath)もまた霊を受ける者の中に入ってくる実体である」(同、148-149頁)と述べているのである。

 

このように「注入」という言葉を使用することに対して、一方でローマ教会を批判するが、他方で、プロテスタント教会に対して、「われわれは実体的な隠喩をさけることはできない」と指摘する。これでは、肯定しているのか否定しているのかわからないのである。

 

統一原理も1ヶ所ではあるが、新生論(重生(じゅうせい)論)において「注入」という言葉を用いている。

 

「聖霊の感動によって、イエスを救い主として信じるようになれば、……新たな生命が注入され、新しい霊的自我に新生(重生)されるのである。」(『原理講論』キリスト論、266頁)

 

 d. 霊的現象(脱自)と「共同体の分裂」について

 

ティリッヒは、主観―客観の構造を超越する脱自は、自意識の次元における偉大な解放の力であると言う。ただし、彼は「霊的現臨」によって創造される脱自の奇跡が、人間の精神構造の破壊をもたらすと理解された場合には、それを否定する。

 

聖書には、「すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい」(ヨハネの第一の手紙4・1)と述べられている。

 

また、ティリッヒは、具体的に次のように述べている。

 

「パウロは、霊の賜物について語り、もし脱自的に異言を語ることが、混乱を産み、共同体を分裂せしめるようなものであるならば、それを拒否している。また個人的な脱自的経験の強調が高慢(こうまん)(hubris)を生み出し、その他の霊の賜物(charismata)が愛(agape)に従わないならば、それをも拒否している。それから彼は霊的現臨の最大の創造物である愛(agape)について論じる。コリント人への第一の手紙13章の愛の讃歌(さんか)においては、道徳的命令の構造と霊的現臨の脱自とが完全に一致している。」(『組織神学』第3巻、150頁)

 

このように、「霊的現臨」による脱自の精神状態は、道徳的命令の構造と一致し、共同体を分裂させることはないのである。この精神構造は、愛として現れたものなのである。

 

 e. 「愛として現れた霊的現臨」

 

次は、愛と霊的現臨の関係についてであるが、ティリッヒは次のように述べている。

 

「信仰が霊的現臨によって(とら)えられた存在の状態であるのに対して、愛は霊的現臨によって曖昧ならざる生の超越的統一へと取りこまれた存在の状態である。」(同、171頁)

「愛は精神のあらゆる機能の中で働いており、生そのものの最深の核に根ざしているということである。愛は分離されているものの再結合への衝動である。このことは存在論的に、それゆえに普遍的に真理である。」(同、171頁)

 

このように、愛と聖霊の関係を存在論的に捉え、愛は分離を統一する力であるというのである。言い換えると、「神の霊」は曖昧ならざる生を創造し、愛は神の霊の現臨によって「生の曖昧な状態」を統一した状態に再結合するというのである。

 

 f. 「聖書的な聖霊概念と統一原理の一致」について

 

統一原理は「イエスは、男性であられるので、天(陽)において、また、聖霊は女性であられるので、地(陰)において、(わざ)役事(やくじ))をなさるのである」(『原理講論』重生論、265頁)と説いている。

 

統一原理は、地における聖霊の業はどのような「感動の働き」をするかに関して、聖書の「コリントⅠ、12章」(知恵、知識、信仰、いやしの賜物、力あるわざ、預言、霊を見わける力、異言、異言を解く力)を挙げ、また「罪の悔い改めの業」「とりなし」(ローマ8・26)に関しても述べている(『原理講論』265頁)。

 

このように、統一原理は、聖書的な聖霊概念と一致している。

 

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(24)

「補足」:「進化論に対する批判」

 

近代になって、正統派キリスト教を悩ました二つの科学の学説がある。それは、ニコラウス・コペルニクス(1473-1543)とチャールズ・ダーウィン(1809-1882)のそれである。

 

それまでの中世の世界観は、地球が宇宙の中心(天動説)であり、そこに人間が君臨しているということであった。ところが、コペルニクスは〝地動説〟を主張し、宇宙は広大で地球は浜辺の砂のように小さいと言った。この事実は人々の発想に大転換をもたらし、「もし神が実在したとしても、この地球と人間が、特に神にとって重要な意味を持っているとどうして言えるであろうか」と考え出させるまでに至ったのである。

 

また、ダーウィンの〝進化論〟は、人間と動物の間に引かれていた一線を取り去り、人間は単に高度に発達した動物にすぎないというのである。

 

〝進化論〟の影響を受けたハーバード・スペンサー(1820-1903)は、人はアメーバーから現代の発達した状態に進化したと言い、さらに、自然法則によって、より完全なものへと向って発展していくと説いた。

そして、正統神学の〝創造神話〟は、ばかげているという。人間は堕落しなかった、人間は単なる動物の一つにすぎないと言うのである。

また、宇宙の年齢に比べると、問題にならないほど短期間に、今日の文明を築き上げ、人間の前には無限の可能性が約束されていると力説した。

 

この進化論に関して反論しておかねばならない。

 

「ダーウィンの進化論は依然として仮説にすぎない」

 

〝進化論〟とは、チャールズ・ダーウィンの『種の起源』(1859年)の出版によって一躍有名になった学説で、その学説(自然淘汰、適者生存)によると、生物は大腸菌のような単純なものから、次々と枝分かれして出現し、最も複雑で高度な存在である人間まで次第に連続的に移行してきたというものである。

 

今日の進化論者はおおむね、生命が神の力を全く受けずに、無生の物質から発生したと考えている。

生物は、どのようにして地球上に発生したのか(生命の起源)、生物の中に多様な種類が存在するのはなぜか(種の起源)。この二つの問題は、そっくりそのまま哲学的な問題となる。

 

それでは、ここで「進化論」について、いくつかの疑問点(批判)を論述しておこう。

 

「生命の起源」について、――現代何も理論と呼べるものはない

 

進化論者は、最初の生命はよどんだ水、あるいは大洋の中で「自然発生」したという。つまり、水たまりに自然に虫がわいたという表現で代表されるように、〝無〟から〝有〟が生じたというのである。しかし、よく殺菌消毒すれば何も出てこない。したがって、自然発生ではない、というのが科学上の事実なのである。

 

米国のプリンストン大学の生物学教授エドウィン・コンクリンは「生命が偶然に発生する確率は、印刷工場の爆発によって大きな辞典ができる確率に等しい」と言っている。

 

「突然変異」について

 

多様な〝種〟は、如何に生じたかということであるが、現代の進化論では突然変異は、宇宙線その他イオン化を起こさせる放射線、細胞内での物質交代、あるいは遺伝子の複製上の誤りなど、環境的な要素によって起きたという。

 

しかし、遺伝子に突然変異的な変化が起きるのはまれで、遺伝子は普通、正確な自己複製を行うのみである。また、突然変異によって新種が生じると言うが、遺伝子の突然変異の99パーセント以上は機能障害をはじめ、何らかの有害な作用を持つことが、今日科学的に明らかにされている。

 

新種を発見したとよく聞くが、「種」という概念が曖昧で、構造や形態に何の変化もないものを、ただ少し大きいか小さいかだけのものを、あるいは色が変わっただけのものを、新種と言っている場合が多い。

 

聖書では、種子を生ずる草とか、這うもの等、その「種類にしたがって」それぞれの生物を創造されたとある(創世記1章)。

その「類」の中に、いろいろな「種」があり、これらは同類のものから変化したと見られる。科学が証明できないのは、一つの類が他の類から進化したということである。

 

生物学はそのことに関して「突然変異」というが、それを裏付ける決定的な事実はない。したがって、人間は決して他の下等動物から進化したものではないと考えられる。聖書がいうように、人間はもともと種類の一つとして創造されているのではなかろうか、ということである。

だだし、神の新しい創造の力が加わることによってAからBに、すなわち、ある種類を基にして、そこから他の種類に突然変異していったと考えられる。しかし自然に、ではない。

 

熱力学の第二法則について

 

熱力学の第二法則によれば、孤立系の中ではエントロピーは増大し、この増大は、秩序が減少する方向へと不可逆的に進行する。つまり、すべての自然の過程は、無秩序が増大する方向へと進むというのである。

換言すると、この大自然の秩序は徐々に崩壊しながら混沌へと進んでいくというわけである。

 

この法則を進化に関連させて考えると、彼らが言うように偶然の作用のみならば、事物はむしろ、ばらばらの方向へ、無秩序、非組織化の方向へ進行するはずである。

このことは、無神論的進化論が自然に単純なものから複雑なものへ、秩序化の方向へと進化していったというのであるが、そのことを、自然法則自体が否定しているということを意味する。

 

したがって、この絶対的なエントロピーの法則に反して、「偶然」が生命を発生させ、それが、より組織化され秩序化されたものへと進化してきた、とは言えないのである。

だが彼らは、事実は進化してきたと言う。しかし、それは彼らの進化に対する理論的説明が虚偽であり、虚構であることを科学的に暴露されたことに対する反論ではなく、ただ進化してきたという事実確認にすぎないというのである。

 

〝なぜ〟という問いに対する答えではない。われわれは、エントロピーの法則に抗して何か他の創造的な力が常に働いて、秩序化の方向へと進んできたと見るのである。AからBに進化する新しい力は、いずこより来るのであろうか。新たな進化する力は、生物自体の内にはない。外から内に入ってきたと考えざるを得ないのである。

 

中間型の不在について

 

進化は、微妙な突然変異の連続的移行であり、生物の化石も類と類の間の変化を表わす連続的なものが発見されなければならない。

けれども、実際において、中間の化石はいまだに発見されていない。

 

キリンの首がだんだん長くなっていったというのは、人間の妄想によるイラストレーションであって、漸次的に進化していったという科学的根拠としての化石はない。

 

進化は、何万年という長い年月がかかって漸次的に進化するといわれるが、化石でなくても、現代の生物は何万年と生命を継代して現代に繋がっているのであるから、その中にAからBになりつつある生物が一つぐらいあってもよいはずである。

しかし、海でも陸でも空でも、世界にある現代の生物において、種類(類)に従いAからAが、BからBが生じ、AからBになりつつある中間の存在者は、一つも存在しないのである。

 

すべて完成した個性体である。つまり、AからAであって、AからBへの進化の連続性は、化石においても、現代の生物においても、見られない。

聖書に、神の創造は終わった(創世記2・2)とあるが、このことと関係があるのだろうか。それにしても、進化する力はいずこから来たのであろうか。

 

「目」について

 

文鮮明師は「目の先祖」と表現してユーモアたっぷりに語っておられたが、まだ物を見たことのない生物は、〝目〟があれば便利であると、どうして知ることができたのであろうか。

目は、角膜、瞳孔、虹彩、神経、筋肉、血管など、多くの複雑で繊細な部分が互いに連結してできているが、これらはすべて、同時に進化しなければならないのである。そして、部分的に発達した〝目〟はむしろ大きな障害となるのである。

 

文鮮明師は、〝目〟について、次のごとく述べておられる。

 

「動物世界では、生まれると時に、まず目が最初に生ずるようになっています。目自体は物質です。目は生まれる前から、太陽があることを知っていたでしょうか、知らなかったでしょうか。物自体である目は何も知らずに生まれてきましたが、太陽を見られるように生まれたということは、目が生まれる以前から、太陽のあることを知っている存在があったことになります。すなわち、目は太陽があることを知っていて生まれたのです。

目自体は、空気があることも,(ほこり)が飛び散っていることも、蒸発による乾燥があることも知らなかったとしても、既にそれを知っている存在があって、目を守るために、(まぶた)が準備されたり、涙腺をもって防備させたりするのです。

結論を言えば、このように、私たちは思惟と存在、精神と物質、観念と実在、有神論と無神論、創造論と進化論、等々の問題を解決することができるのです。したがって、すべては確実に、神によって創造されたということを否定することはできません。」(『祝福家庭と理想天国(1)』、86-87頁)

 

ダーウィンも「種の起源」の中で、こうした点に触れ、彼は、目は多くの「過渡的」な段階を経て進化したと説明している。

しかし、現実の〝目〟を有する動物を調べても、「過渡的」なものは一つも見いだせない。これと同じことは〝耳〟や、無性生殖の生物から有性生殖の生物の進化における〝生殖器〟の発生に関しても言えることなのである。

 

「種の起源」

 

海や陸に棲息する生物、また、空を飛ぶ生物等に〝多様な種類〟があるのはなぜか。

同じ環境の中にあるのに、なぜタコやエビや魚貝類など、無数の形態の相異ができたのであろうか。

馬と牛は、同じ環境のもとにあって草を食べるが、なぜ牛の爪は割れ、馬はそうでないのか。

獲得形質は遺伝しないといわれているが、これらの多様性は単に要不要説、適者生存説、種族保存の本能だけで説明できない。

ゆりやバラや蘭などの草花に、なぜ無数の形と色が存在するのであろうか。人間以外の動物が、それらを鑑賞し()でるであろうか。人間以外にないのである。

同じ環境のもとにある鳥の形と大きさ、色彩等の美しさ、その鳴き声等々の多様性についても、同じ問いが生じるのである。

 

『新創造論』による無神論的進化論に対する指摘

 

統一思想研究院から無神論的進化論に対して、次のような問題点あると指摘されている。

 

「①DNA、RNA、リボゾーム等からタンパク質合成のシステムがいかに発生したか?

②生物のエネルギー源としての光合成のメカニズムや酵素呼吸のメカニズムはいかにして発生したか?

③生物に必要な約2000種の主要な酵素いかにして発生したか?

④細胞分裂のメカニズムはいかにして発生したか?

⑤有性生殖はいかにして発生したか?

これらは、どれ一つをとってみても、自然に発生したとは、とても考えられないものばかりです。」(李相憲監修『進化論から新創造論へ』、統一思想研究院、光言社、61-62頁)

 

以上のごとく、進化は事実であるが、その客観的な事実に対する解釈において、ダーウィンの進化論は、科学的な「事実」と一致しない〝虚偽の解釈〟であるというのである。

 

このような憶測や曖昧な〝仮説〟である進化論を、多くの人々は学校で教育され、信じさせられているのである。

―「補足」の項、以上―

 

ティリッヒ「弁証神学」(神〈究極者〉は「存在自体」〈存在の力〉である)(23)

(B)「生の自己実現とその曖昧(あいまい)性」

 

次は、「生の過程」は、いかに運動し、いかに発展するか、に関するティリッヒ式弁証法による解説である。

 

彼は、生の過程は「それは自己同一と自己変化と自己への帰還である」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、37頁)という。

すなわち、「生」は「自己同一」(正)――「自己変化」(反)――「自己帰還」(合)と弁証法的に運動し、発展していくというのである。

 

ティリッヒは「生の過程」を次の三つに分析している。

 

(1)「生の自己統一」とその曖昧性

 

「自己統一において、自己同一の中心が確立され、自己変化へと引き込まれ、それがその中へと変化せしめられたものの内容と結びついて再確立される。」(同、37頁)

 

ティリッヒ式弁証法の特徴の一つは、「すべての生には、実在としても、課題としても、中心性がある。」(同、37頁)という点である。この中心性が実現される運動は、生の自己統一という。

 

(2)「生の自己創造」とその曖昧性

 

しかし、現実化の過程は、単に「自己統一の機能」のみではない。「新しい中心を生産する機能」(自己創造の機能)を含蓄しているのである。すなわち、「生」は「自己同一と自己変化」という弁証法的な二つの存在による「内部矛盾」によって働き、生は新しいものへ向かって進むというのである。

 

彼は、この弁証法の運動を「成長の原理」であるという。

 

「自己創造の機能を決定するものは成長の原理である。その成長は自己中心性をもった存在の円環運動の中で行われるし、その円環を越えた新しい中心の創造においても行われる。」(同、38頁)

 

上述のティリッヒの「自己統一の機能」と「自己創造の機能」とは、統一思想的に表現すれば、「自己同一的四位基台」と繁殖の「発展的四位基台」の原理のことである。

 

(3)「生の自己超越」とその曖昧性

 

さて、「可能的なものの現実化する第三の方向は、円環的な方向と水平的な方向とは対照的な方向、すなわち、垂直的な方向である。この比喩は、われわれが自己超越的機能と呼ぶことによって示唆する生の機能を表わすものである。それ自身において、『自己超越』という言葉は他の二つの機能に対しても用いることができる。自己同一から出て、変化を経て、自己同一へと帰ってくる自己統一は、中心性をもった存在内における、一種の内的な自己超越であり、すべての成長の過程において、後の段階は、前の段階を、水平的な方向に超越する。」(同、38~39頁)

 

このように、「生は、その本性からして、それ自身の中にあると同時に、それを越えている」と自己超越を弁証法的に説く。

そして、この自己を超越する生の高揚に対して、ティリッヒは「崇高なるものへの突進」(driving toward the sublime)という語句を用いる。「崇高な」(sublime)、「昇華」(sublimation)、「崇高性」(sublimity)というような言葉は、偉大なもの、荘厳なものへと「限界を越えていく」ことを示すというのである(同、39頁)。

 

このように、ティリッヒは、「中心性の原理の下における自己統一、成長の原理の下における自己創造、昇華の原理の下における自己超越」(同、39頁)について論述するのである。

 

しかし、ティリッヒの「生の過程」の変化・発展に関する弁証法は、科学的にその論理と実在が一致しているかどうかに関して、疑念が表明されている。

したがって、鶏卵や種子などの具体的な例をあげて、彼の弁証法の「成長の原理」、すなわち、(1)「生の自己統一」、(2)「生の自己創造」、(3)「生の自己超越」を検証しなければならない。マルクスの唯物弁証法が検証されなければならないのと同じである。

 

「生の弁証法的記述」に対する問題点

 

マルクス主義は、事物だけでなく、生物や人間も「運動する物質である」と捉える。これに対して、ティリッヒは無機物も有機物もすべて「生の過程」であるというのである。

「星や岩の発生は、その成長や衰微と同様に、生の過程」(同、14頁)であるという。

 

また、次のように、同じ領域で互いに「闘争」するという。

 

「一つの次元の実現は宇宙史内における一つの歴史的出来事である。しかし、それは時間と空間の特定の一点に位置づけることのできない出来事である。永い時代の推移の中で、もろもろの次元が、比喩的な言い方をすれば、同じ領域で互いに闘争する。このことは、無機的次元から有機的次元へ、植物的次元から動物的次元へ、生物学的次元から心理学的次元への推移に関して明白である。これはまた心理学的次元から精神の次元への推移についても真である」(同、31頁)と。

 

ところで、〝闘争〟は明白であろうか。「勝共理論」は次のように述べている。

 

「種子の発芽はその内部の胚芽と種子の外皮がお互いに………相反して闘争しているとは見られない。かえって胚芽は一定期間外皮の保護のもとに成長して、自ら弱化していく外皮の助けをうけて発芽するのである。」(『新しい共産主義批判』、211頁)

 

このように、種子の発芽において相手を排斥する「闘争」という関係は見られない。相手を必要とする「統一」関係のみしか見られない。

ただし、自然界には弱肉強食という〝食物連鎖〟は存在する。しかし、これらの闘争は、マルクス主義が言う「事物は対立物の闘争によって発展する」という法則とは何の関係もないのである。

 

ティリッヒは、へーゲルの弁証法と同様に、すべての存在は内部に矛盾があり、その内部矛盾によって変化・発展し、神から出で、神に帰る過程であると捉え、この過程を「生の過程」として、ティリッヒ的弁証法で論述しているのである。

 

しかし、堕落しているのは人間だけであって、万物ではない。万物には矛盾構造はないと反論しておく。弁証法的構造ではなく、授受法的構造であると。

 

(C)「曖昧ならざる生の探求とそれの予兆としての象徴」

 

ティリッヒは、「生の曖昧性」について、次のように述べている。

 

「すべての生の過程において、本質的要素と実存的要素、創造された善とそれからの疎外とは、互いに合体していて、そのいずれか一方が排他的に働いているということはない。生は常に本質的要素と実存的要素とを含んでいる。これが曖昧性の根源である。」(ティリッヒ著『組織神学』第3巻、135頁)

 

ティリッヒによると、この「生の曖昧性」(矛盾構造)が「曖昧ならざる生の探求」へと発展していくというのである。

 

「精神の担い手としての人間においてのみ、生の曖昧性と曖昧ならざる生の探求が意識にのぼってくる。………自己の内面において、精神の諸機能、すなわち、道徳、文化、宗教の曖昧性として経験する。曖昧ならざる生の探求は、これらの経験から起こってくる。この探求は生がそれに向かって自己を超越する」(同、135頁)

 

この生の自己超越は宗教によってなされ、宗教が曖昧ならざる生を探求するというのである。

 

そして、「曖昧ならざる生の探求」の問いに対する答えについて、次のように述べている。

 

「宗教の象徴性は………三つの主要なシンボルを生産した。それは『神の霊』(Spirit of God)、『神の国』(Kingdom of God)、『永遠の生命』(Eternal Life)である」(同、136頁)

 

この三つのシンボルは、「曖昧ならざる生への探求に対して啓示が与える答えの象徴的表現である」(同、137頁)というのである。

 

第3巻の訳者である土居真俊氏は、訳者後記で、次のように書いている。

 

「ティリッヒの『組織神学』は三巻五部から成っている。第一巻には理性の問題が啓示との相関において、また存在一般の問題が神の問題との相関において取り扱われている。(但し、日本訳では、啓示の問題と神の問題とが上下二巻に分けて訳出されているので、全四巻五部となっている。)更に第二巻においては、実存の諸問題がキリスト論との相関において、第三巻においては生の諸次元の問題が霊との相関において、続いて歴史の諸問題が神の国のシンボルとの相関において取り扱われている。」(同、535頁)